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松田聖子


一一一その人間像と様式美への意識一一一

 ひとくちに聖子ファンといっても、様々な傾向やタイプがあると思います。例えば、何よりも聖子さんの歌
が好きだというファン、歌手聖子さんが好きだというファン、聖子さんの生き方が好きだというファン、聖
子さんの人間性に魅かれるというファン等々、多彩です。                      
もちろん、聖子さんは歌手であり、本業は歌ですから、歌手としての魅力や評価、人気がもっとも重要であ
るのは言うまでもありません。しかし、聖子さんが放つオーラ、その強いカリスマ性、存在感は、歌手とい
う限定された在り方には収まらず、聖子さんは、歌手であることを越えて、まさに「聖子」という存在なの
であり、聖子さんは、一人の歌手であることを越えた存在なのです。だから、歌手や歌とは離れたところで
も支持者やファンがいるわけです。                                
そのような中で、私は、聖子さんの歌よりも聖子さん本人のファンであり、歌手松田聖子さんにとどまらず
歌手松田聖子さんの背景にある一人の女性、一人の人間としての松田聖子さんのことが大好きです。   
1990年代初頭に当時の『朝日ジャーナル』誌での聖子インタビューを読んだ時は胸や目頭が熱くなり、
1998年に離婚された時は、自分でも意識していないのに眠りながら泣いていました。私は決してナイー
ブなファンでもありません。アンチ聖子派にも負けないくらいのシビアな目を持っています。だから逆に、
どんなアンチ聖子にも負けないのですが、そんなシビアな目をも溶解させ、それを越えさせる何かを聖子さ
んから受けるのです。簡単に言えば、信じる喜びなのかもしれません。聖子さんの最大の魅力は、聖子さん
を信じ、ファンでいることの喜びを与えてくれることでしょう。                   
あえて言えば、私は、「聖子=歌」派に対して、「聖子=本人」派です。だから、聖子さんに加えられたデ
タラメきわまりないスキャンダルや、名誉毀損にも相当するいわれの無い中傷や誹謗は、許すことが出来ま
せん。多くの聖子ファンの中には、少しはスキャンダルを信じたり、半信半疑の方も多いと思います。しか
し、ワイドショーや女性誌、スポーツ紙などで報じられたスキャンダルは、ほとんどが、事実を曲解したも
のであり、悪意に満ちた故意の作為であったり、まったくの作り話にすぎません。           
私は、聖子=本人派として、いわれの無いスキャンダルを無視したりは出来ません。つまり私は、聖子スキ
ャンダルに対しては、断固として闘おうという者です。「スキャンダルはスターの証し」とも言いますが、
それも程度の問題です。聖子スキャンダルは、スターの証しのようななまやさしいものではなく、明らかな
聖子つぶしの要因さえ感じられました。聖子さんがつぶれなかったのは、聖子さんの意志とファンの支持の
賜物と言えます。                                        

よく聖子さんはスキャンダルを利用していると言われます。しかし、実際は反対です。ただ聖子さんは、あ
えてスキャンダルが流す聖子イメージを否定しないだけなのです。たとえ、実際の自分とはまったく異なっ
たものであるにせよ、スキャンダラスなイメージを否定せず、むしろそれを肯定し、さらには突き抜けよう
とするのです。私は、ここにつまらないスキャンダルばかりをたれ流す人々よりも、聖子さんのプロ意識の
凄さ、見事さを感じるのです。                                  
一つ例を上げますと、聖子さんは、阪神大震災に対して匿名で義援金を寄付していたそうです。これは某写
真誌一誌だけがスクープ報道していました。普通、芸能人なら、このような行為は自己PRにもなりますか
ら匿名にすることは、まずありえないでしょう。むしろワイドショーに取材させるのではないでしょうか。
しかし聖子さんは匿名でした。では、なぜ、匿名にしたのでしょうか。                
当時の聖子さんは、不倫スキャンダルの濃厚な影響下にあり、世の常識からは「悪女」と見られるほど、自
由奔放な恋愛と性に生きる、よく言えば恋多き女性、悪く言えば淫乱女性のイメージに包まれていました。
「自由意志」が常に既存の意識からは「悪」と見られることは、古今の通例ですが、そうした世間的に流布
したイメージから、聖子さんを支持したのは、自分を生きようとしたり、そんなふうになりたいと思う女性
たちであり、伝統的な男女観の上に立つ大半の男性やそれに従う女性たちは露骨な反発を示したことは、現
在も変わりません。                                       
ともかく聖子さんについて世間に流布していたイメージは、悪女のイメージでした。          
私が聖子さんのプロ意識の凄さに感動したのは、芸能人とは「内面」とか「実像」ではなく、外見であり、
実像よりもイメージであり、「見られる」存在であることを強く意識し、それに徹しようとしていたことで
す。つまり、「悪女」のイメージも、一つの「見られる」存在の証しであり、実際の自分とは違うという理
由で否定することは、見られることのない自分を対置することであり、それは「見られる」存在であること
の否定にもなります。「見られる」存在に徹する聖子さんは、それゆえに流布されたイメージが実際の自分
とはまったく違っていても、否定することなく、イメージとして成立していることを受け入れたのです。 
それが、スキャンダルには一切反論せず、無視し続ける姿勢でした。                 

無視するとは二つの意味があります。一つは、スキャンダルの内容については「知らない」「関知しない」
「他人が勝手にやっているだけ」ということで、否定するのも馬鹿馬鹿しいくらい次元の低い話と見ること。
もう一つは、スキャンダルの内容はともかく、スキャンダルが流されている現実を認めていることです。
この二様の意味を含んだ無視という姿勢を貫いた聖子さんは、徹底した様式美の感覚の持ち主であり、スタ
イリストです。そして、このような様式美への志向、スタイリストとしての意識が、義援金の寄付を匿名に
させたのです。もし、匿名にしなかったならば、「悪女」として見られている聖子さんは誰も知らなかった
「良い女」になり、「恋多い女性」のイメージは、見たこともない「聡明な賢婦」に替わってしまいます。
それは見られることの無い内面による、見られている外見の否定になります。             
普通の芸能人ならば、こちらを選ぶでしょう。だから普通の芸能人は、普通の人の延長にあり、世間に歩調
を合わせ、世間に媚びなければなりません。そこには世間と同じような常識や「○○であるべきだ」という
説教調の現実空間しかないのです。                                

聖子さんは、見られることの無い実像よりも、見られる様式美を選択するのです。それは、アイドル時代に
「ぶりっ子」と呼ばれた時もそうでした。実際の聖子さんがそれとは違っていても、当時の聖子さん自身が
告白しているように「人々に夢を与える仕事」をしている以上、「プロ意識から、ぶりっ子と呼ばれること
を否定するつもりはなかった」という意識に、聖子さんの様式美への意識が見られます。        
様式美とは、好意的な理解を求めることより、誤解や悪意によるイメージであったとしても、人々の観賞や
批評に耐えうるような絵になる姿形を選ぶことです。説明や弁明を拒み、形姿に身を晒すことです。「近く
の暖かさ」より、「遠くの美しさ」を第一とすることです。その意味で、聖子さんは、非文学=非散文的で
あり、完全に美的=詩的な存在です。                               
そして、そのような聖子さん徹底した様式美への意識、感覚が、義援金の寄付を匿名にさせたのです。それ
ばかりか様式美への意識を持つ聖子さんは、スキャンダラスなイメージをも、あえて受け入れ、自分からそ
れを再演し、積極的に自分のものとしてしまうのです。以前の某エステサロンのCMなどはそうでしょう。
私は、もう、聖子さんあっぱれと言うしかありません。                       

しかし、忘れてはならないことは、様式美の中の聖子さんを、決して実際の聖子さんと混同してはならない
ことです。いくら聖子さんが様式美への意識のため実際の自分はこうだと言わないとしても、このことは忘
れてはならないでしょう。そもそも見られている像としての聖子さんと、実際の聖子さんは違うからこそ、
様式美も成り立つのですから。ところが、それを無知か故意かはともかく、混同しているのが、スキャンダ
ルを垂れ流している人です。彼らは「ステージで聖子さんはお相手の○○さんと抱きあっていたから・・」
というようなことを、よく得意げに言います。しかし、ステージの上での動作は、どのようなものであれ、
表現行為であり、オフでの現実とは切り離して見なければなりません。でなければ、そもそも表現行為など
というものは成立しません。                                   
世間の人の多くは、日常的な常識と説教意識の中にあり、マスコミの流すスキャンダルしか知りませんから
聖子さんに対しては間違ったイメージを抱き、批判的ですが、実際の聖子さんの持つ人間的な魅力について
は、1度でもコンサートやディナーショーに足を運ばれ、聖子さんを見たならば分かるはずです。初めて足
を運ばれた方は、マスコミが流すスキャンダラスな聖子イメージとのあまりの違いに驚かれるでしょう。 

聖子さんも一人の人間ですから、当然、短所もありますし、ウィークポイントもあります。先ほど、聖子さ
んを非文学的な存在と言ったことと矛盾するかのように聞こえるかもしれませんが、私は、もう少し読書し
ていただきたいと思います(^^)。たぶん、聖子さんは、あまり本を、つまり活字を読まない人だと思い
ます。昔から、愛読書のタイトルもあまり聞いたことがありません。人間は別に本など読まなくても立派に
生きていけますが、それでも、もう少し本を読んでほしいです。そうすれば、トークにしろ、取材に対して
にしろ、自分の考えを、適確な言葉で述べることが出来るからです。これからの聖子さんには、そういうこ
とが必要だと思うのです。                                                       


そのことはさて置けば、聖子さんは、気質はさっぱりとして、純粋な気持ちを持ち続けており、バランスの
とれた人格を持った人です。スキャンダルは、聖子さんの人となりについて、いろんなことを言っています
が、「聖子さんは何をする人か分からない」というようなことを言う芸能マスコミの人間の言葉などは、ま
ったく信ずるに値しないでしょう。                                
聖子さんは清い精神の持ち主です。何より嘘が嫌いで、かなり意地っ張りなところがあります。女性的色気
よりも、男性的気丈さの方が強く、また媚びることを嫌います。そこに女性という性別を越えた人間として
の聖子さんがいます。                                      
聖子さんは女性には当然、同性ですが、男性にとっても、異性というより、精神的な同性的共感を感じさせ
る不思議な人です。スキャンダルは聖子さんを露骨な性的イメージで塗り固めましたが、ファンにおいては
性的イメージは無いといっていいくらいです。だから、結婚しても、不倫スキャンダル報道が続いても、け
っこう男性のファンが多かったのです。一時、聖子ファンの圧倒的多数は女性のように言われていました。
しかし予想以上に、男性ファンが多いのが本当のところです。スキャンダル最盛期の1990年代前半でも
聖子ファンの4人に1人は男性だったことが、ある調査から明らかになっています。          
男性的気丈さの内側に、無邪気なくらいの可愛さがあることは言うまでもありません。         

もう一つ、私が感心することは、スターの地位を確立してから英語を習得したことです。これは尊敬にさえ
値します。いくら海外に長く住んでいても、ほとんどの芸能人は英語が出来ません。そのような中で、語学
習得という地味で根気のいることを成し遂げたことは、彼女の努力する人柄が現れています。      
お馬鹿な連中は、「外人の恋人に教えてもらったんだろう」と言うでしょうが、そんな簡単なことで語学が
習得出きれば、日本人の大半は英語や英語以外の外国語にも不自由しなくなっているはずです(笑)。   
聖子さんもやはり、地道に基本文法をマスターし、単語を憶え、会話のフレーズを身に付け、発音の練習を
重ね、英語のシャワーでヒヤリングを鍛えたのだろうと思います。                  
勉強の好きな人間は多くないため、こうしたことはあまり取り上げられませんが、スターになっても必要な
ら基礎的な努力も惜しまない聖子さんの姿勢は、きちんと見て、評価する必要があると思います。基礎的な
努力を惜しまないということは、常に初心を忘れずに持っていることだと言えます。つまり聖子さんには、
大スターなのに、しばしばそうした人に見られるような傲慢さが無いということです。だから聖子さんは、
大スターなのに、いつも少女のような瑞々しさを失わずに持っているのです。そして、どんなに芸能マスコ
ミがスキャンダル漬けにしても、彼女には汚れたイメージはありません。どんなに芸能マスコミがバッシン
グを加えても、姿を現した彼女は凛々しく清いのです。それは彼女の中に、スター性に居直らない初心が生
き続けているからで、これがあるかぎり、彼女はどんなに大スターになっても、永久にアイドルなのだと言
えます。                                            

聖子さんが、決して他人の悪口を言わないことは有名ですが、これは聖子さんが、きちんと躾けられた育ち
の良い女性の証拠でしょう。音楽関係やテレビ関係の裏方の人で、聖子さんを支持する人が多いのは、聖子
さんの自然な礼儀正しさの結果でしょう。言葉も、所謂「タメ口」はきかず、敬語、丁寧語などをきちんと
使っています。それにもかかわらず、つんつんしているのではなく、ひょうきんで、冗談っぽいところが、
聖子さんの魅力であることは、多くのファンは経験しており、納得されるでしょう。                   

 


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