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元禄語

元禄繚乱攻略法の一つとして当時の言葉を知りましょう。



勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)---  勅使とは天皇の意志である勅旨を将軍に伝達するための特使で、重用なことの伝達のほか、恒例行事の際に派遣された。その勅使を接待するのが勅使饗応役で、御馳走役(ごちそうやく)ともいう。  たとえば、将軍は毎年正月に使者(高家の代表)を京都に遣わして天皇に挨拶を伝えていたが、その答礼として天皇も江戸に勅使を派遣するのが習わしとなっていた。勅使饗応役は、将軍との拝謁(はいえつ)はもちろん、警固や食事、また訪問客の取り次ぎなど、江戸滞在中の勅使の世話をした。

院使饗応役(いんしきょうおうやく)---  院使とは上皇の意志である院旨を伝達するための特使で、院使饗応役はその院使を接待する役。  将軍の天皇への使者は上皇にも正月の挨拶を伝えていたが、その答礼のために、院使は勅使とともに江戸に下向した。もてなしの内容は、相手が院使というだけで勅使饗応役と同じ。勅使・院使の饗応役は、皇室に失礼のないよう気遣う重要な役だった。

口入れ屋(くちいれや)---  奉公人の斡旋(あっせん)を仕事とする人。  法的には、人宿(ひとやど)ともいう。肝煎(きもいり)・桂庵(けいあん)などとも俗称され、奉公が決定すると、雇う側・雇われる側の双方から謝礼を取った。足軽・中間(ちゅうげん)などの武家奉公人、町屋での丁稚(でっち)・手代などの多くは、口入れ屋を通して、雇われた。元禄時代になると奉公人の需要が高まったが、それに乗じて不正を働く者も多かった。

狩野派(かのうは)---  室町から明治時代にかけての日本絵画の最大流派。  狩野正信を始祖とし、江戸時代には孝信の子守信(探幽)、尚信、安信3兄弟が徳川幕府の御用絵師(ごようえし)となった。江戸城・大坂城に襖絵(ふすまえ)などを描いた長男の狩野探幽(かのうたんゆう/1602〜1674)が有名。将軍家にならって諸大名なども狩野派を用いたことから全盛期を迎えた観があるが、探幽以後は、流派を維持すべく粉本主義の教育を続けたため、画風が固定化し、新鮮味を失った。

紙花(かみはな)---  遊里で遊んだ客が、遊女や太鼓持ちなどに与えた祝儀のこと。  現金を渡すのではなく、小菊(こぎく)という楮製(こうぞせい)の懐紙で代用したことから、洒落て紙花と呼んだ。もちろん後で換金ができ、小菊1枚で1分、小菊1帖(48枚)で12両の価値があった。

伊達比べ(だてくらべ)---  ことさらに侠気を示し、派手に目立とうとする者を男伊達(おとこだて)と呼んだ。  旗本奴(はたもとやっこ)や町奴(まちやっこ)と呼ばれた者が男伊達の代表だが、彼らは互いに派手で目立つ装いや行動で奇抜さを競い合った。そうした風俗の競い合いを伊達比べという。男伊達はやがて裕福な町人や女性にまで及ぶようになり、元禄のころ江戸や大坂などの大都市では、華美や贅沢に流れる風潮が広まった。

浜方(はまかた)---  一般的には、海辺の集落や、そこに住む人々を刺す言葉。浦方(うらかた)ともいう。町方(まちかた/町)、山方(やまかた/山村)、村方(むらかた/農村)に対応する。また、漁業や海運を生業としている人々を意味する言葉としても用いられた。  特殊な例としては、元禄時代に成長を遂げた大坂の堂島米市場での仲買人を指して浜方と呼んだ。

御成御殿(おなりごてん)---  将軍をもてなすために建造された豪華な屋敷。  5代将軍・綱吉は諸大名邸などへの訪問(御成)を繰り返したため、諸大名は柱1本にまで贅を尽くし美をつくし、豪華さを競って建てた。加賀藩前田家の御殿は棟数48・建坪3000坪にも及ぶものだったが、1日の将軍のお迎えのために費やされた金額もまた莫大で、大きな財政負担となった。

側衆(そばしゅう)---  将軍に近侍する役職で、将軍と幕閣との取り次ぎが主な任務。 3代将軍・家光の時に創設されたが、5代将軍・綱吉の時に側用人(そばようにん)が登場して、その下に位置する職務となった。側用人が未決の重要事項を扱うのに対し、側衆は既決の軽い事項を取り扱う。就任するのは2000石から3000石の上級旗本で、準大名の待遇を受けた。

側用人(そばようにん)---  将軍に近侍する最高職で、将軍の命を老中に伝え、老中からの意見を直接に将軍に伝える仲介役。  5代将軍・綱吉が牧野成貞(まきのなりさだ)を登用したのが始まり。幕閣に移りかけた権力を将軍に戻すために置かれたが、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)・田沼意次(たぬまおきつぐ)のように、しばしば側用人自身が政治に口出しし、権勢を振るった。原則として老中に準じる待遇を与えられたが、常に置かれた職ではなかった。

朝賀(ちょうが)---  正月元旦に天皇が王公百官の年頭の賀を受ける儀式。  みかどおがみ・朝拝(ちょうはい)ともいう。大極殿(たいきょくでん)で唐風により行なわれたが、11世紀以後は廃絶。かわって、清涼殿(せいりょうでん)で和風により行なう略式の儀である小朝拝(こちょうはい)が行なわれるようになった。

束帯姿(そくたいすがた)---  皇族・貴族の男性の正装姿のこと。  昼装束(ひのしょうぞく)・日装束(ひのしょうぞく)ともいう。平安時代以降の朝服のことを一般に束帯という。天皇以下、官職にある者たちが朝廷の公事に着用する正服のこと。形式は文官と武官とでは異なり、時代によっても多少の変化が見られる。冠をつけ、裾を長くひき、袴を切袴(きりばかま)とするのを特色とし、革製の帯で腰を束ねて威儀を整えた。

儒学者(じゅがくしゃ)---  中国の学問である儒学を研究する学者。  孔子を開祖とし、孟子や筍子によって形成された、儒家と呼ばれる思想流派の思想を、教説とその典拠とされる古典の研究を重視する立場から見た呼び方を儒学という。儒学者はその学者。治国・為政者のための政治的色彩が濃い倫理思想。日本には5世紀ごろ伝来したと言われるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降である。

通詞(つうじ)---  江戸時代、外交・貿易のために長崎におかれた、オランダ船との通訳者のこと。  長崎奉行所の役人であり、通詞会所に所属した。オランダ船の入港手続き、貿易業務の仲介のほか、その船のもたらす風説書の翻訳などが主な職務であり、西欧文化を日本へ紹介するなどの功績があった。職階は大通詞・小通詞・稽古通詞の3つに分かれ、その下には内通詞がいた。1695年(元禄8)には、大通詞の上に、通詞目付が置かれた。

奢侈(しゃし)---  必要な程度や、分限を超えた、ぜいたくな暮らしをすること。

調伏(ちょうぶく)---  調和制伏の略で、抑制・制御を意味する。「じょうぶく」ともいう。  内的には、心と身を調和して諸悪行にうちかつこと。外的には、敵意あるものを教化し、障害をもたらすものを降伏させることをいう。密教では、五大明王を本尊として法を修し、怨敵・悪魔などを打ち破る修法をいう。

町駕籠(まちかご)---  町の辻や街頭で待っていて、客を乗せる駕籠。辻駕籠、四つ手駕籠、またホイホイ籠ともいう。  江戸等の大都市の庶民が利用した駕籠で、四方の柱に竹を用い、竹で編んだ簡素なものだった。幕府は、駕籠は贅沢だとして医師や病人などの他は町人の利用を規制していたが、ほとんど守られることはなかった。幕府はこれを統制するため、江戸では、延宝3年(1675)に300挺に限り営業を許した。その後、ますます需要が増え、正徳3年(1713)、1800挺にもなったという。  駕篭の種類は、町籠の他、武家用、公家用、高僧用といった身分別のものや、お忍び外出など、用途別のものもあった。

瓦版(かわらばん)---  現代の新聞のようなもの。江戸時代、市井のニュースを庶民に伝えたり、事件の急報に用いたりした。  土を平面にし、錐で文字・絵画などを彫刻して瓦のように焼いたものを原版として一枚摺にした粗末な印刷物。実際には木版が多かった。街頭で読み上げて売られたことから、古くは読売と称された。大坂の陣(1614〜15年)を報道したものが最古のもので、以後、心中事件・火災・地震・敵討・珍談奇聞などの一枚摺が売り出された。明治時代に新聞が刊行され姿を消した。

おしまい。

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