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掲示板ログ(2003-03)

言葉 言葉 言葉 掲示板


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月31日(月)23時34分56秒

掲示板が寂れると氣狂ひさんが來襲するパターン。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月31日(月)23時25分16秒

波江氏とか義とか、私を嫌ふ人には氣狂ひさんが多いですね。


あんどペースト 投稿者:コピー  投稿日: 3月31日(月)23時05分23秒

「本は世界の代用となるものではない。この人生においては、一切がその意味と使命を帶びてゐて、それをなにか他の もので餘すところなく滿たすことはできない。人間は---たとへば---その體驗を、誰か代理人の手でわがものとすること はできないのです。世界と書物についても同樣です。人は書物の中に人生を、まるで小鳥を籠に捕らへるやうに、閉ぢ 込めようとする。が、さうはいかない。逆に、人間は書物の抽象作用のなかから、自分自身を閉ぢ込める<體系の檻> を作り上げるにすぎません。哲學者とは、さまざまな鳥籠を背負つた、美々しい羽根衣裳のパパゲーノにすぎないのです」


(無題) 投稿者:薄笑斜構  投稿日: 3月31日(月)22時56分37秒

    彡ミミミヽ ノ彡ミミ)))
    ((彡ミミミミ)(彡彡)))彡)
   彡彡゙゙゙゙゙"゙゙" """"ヾ彡彡))
   ミ彡゙ .._    _   ミミ彡
  ミミ彡 '´ ̄ヽ '´/ ̄ ` ,|ミ)))
  ミ彡  ' ゚̄ ̄' 〈 ゚̄ ̄ .|ミミ))
  ((彡|      | | `    |ミ彡
   (彡|    ´-し`)\  |ミミ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ゞ|      、,!  」  |ソ   <裸の日朝会談にしましょうか、何か?
     ヽ '´ ̄ ̄ ̄'ノ /       \_________________
   /⌒ \____/ ⌒\
\ /     ¬         \            / ̄ ̄ヽ
  \            /⌒⌒ヽ         /      \
   \   ・  | \ (   人  )       /        ヽ
     \   /     ゝ    ヽ \   /          |
      \        |;;    |   \/    |       |
        \     l  |;;  ;;;  |\__/      |      |
         \ ̄  ―|;;  ;;;  |-/        |      |
          \   |;;  ;;;  |/         |     |
           \  |;;   | |/          |     |
             | |;   ;; ;;|          /|    |
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\          /    ;;          /






(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月31日(月)21時58分59秒

またコピー&ペーストですか。

http://www2.famille.ne.jp/~maps/kotoba/


スタイルシートの問題点報告 投稿者:闇黒日記読者  投稿日: 3月31日(月)19時12分14秒

dt要素の中の訪問済みリンクが非常に見づらいです。
dt要素の中だけ訪問済みリンクの色を変えてみてはいかがでしょうか。


(無題) 投稿者:ふむ  投稿日: 3月31日(月)08時19分21秒

クドいよ
編集済


(無題) 投稿者:薄笑斜構  投稿日: 3月31日(月)07時27分54秒

正直に言ったらどうですか。野嵜健秀の言いたいことは、
「自分がクドイ性格でありながら、人にクドクドと何かを言われるのは大嫌いなタイプ
でので、「何故、こうしなかったか」とか「こうするのが正しい姿だ」とクレームを
つけてくださる「親切の押売り」が時々おられますが、一々そういうことをおっしゃる
なら、ご自分のページでなさってください。記載内容にアタマから反対するような書き
込みをくださる方は、バカと同類と見なします。勝手にどこかへ行ってください。理由
は、俺様が不快だからです」
と。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月30日(日)14時50分34秒

波江氏は文字を羅列する機械に過ぎない。機械だから物を考へる事が出來ない。だから何を言はれても平氣なのだ。

波江氏の書込みは今後、一切禁止。はつきり言つて、二度とウェブに出て來ないで貰ひたい。


達意の文章を 投稿者:素人  投稿日: 3月30日(日)14時30分42秒

文意がとり難いのですが、例えば、丸谷氏が小学校教科書に掲載する詩として適切であると評価している島木赤彦の「つらら」などは、「言葉の正しい意味での詩」(これまたよく分からない表現ですが、平たくいえば「よい詩」ということでしょうか)ではない、とこうおっしゃっているのですか。


素人の反応例 投稿者:波江究一  投稿日: 3月30日(日)13時56分49秒

昨日引き続き愚作にレスありし分です

 「よい詩を読ませよう」といふそのよい詩が言葉の正しい意味での詩では無い。
 せいぜい下書きです。宮沢賢治はその点分をわきまへて居た。自分の作品を
 スケッチと呼んで居ましたからね。

■作者からのメッセージ
ベルリンの壁崩壊の際のあの喜ばしき解放感は何だつたのかむなむなしく
なりますね。
人類史上最大の葬儀と即位礼を営み得た日本に世界が寄せた期待は何であ
つたのか。せめてこれくらゐはむなしくせぬやうに、アルジャジーラの映
像から取材して二首。いろはとは文藝の陣野にあつて先鋒にも殿軍にも居
るものです。


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この作品の感想をお寄せください。 
素晴らしいです。詩人ならではの意思表示であると感じました。 Porphy ■2003-03-30 07:55:26
文字の言霊から発する憤怒を感じます。 Douse Himadesukara ■2003-03-30 00:57:36
すごい・・・。びっくりしてしまいました。ちょっと残酷な描写だけど、事実ですものね。子供にも犠牲が出ているといいます。日本人が、「かわいそう」と軽々しく言えない気がするのが悔しいです。 夏 春紅 ■2003-03-29 21:52:36
げんじつなのだろうけど ゆめのようです。ゆめうつつ。ちがうか。 マーガリン猫 ■2003-03-29 17:11:47


波江様、 投稿者:素人  投稿日: 3月30日(日)11時05分14秒

「日本語のために」を開きましょう。まず「国語教育批判」。その1が「子供に詩をつくらせるな」、2が「よい詩を読ませよう」、3は「中学生に恋愛詩を」と続きます。

これだけでも丸谷氏が詩作品を教材にするな、などと言っているのではないことは分ると思うのですが、まずはよく読みましょう。詩を批判しているのではありません。「国語教育批判」なのです。
編集済


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月30日(日)00時08分24秒

>今一番忙しい掲示板か 投稿者:波江究一 投稿日: 3月29日(土)15時28分10秒
>ザンビアさんの所は個人の掲示板で今一番忙しいのではないですか。
>かかること果たして慶賀すべきなるか否かは何ともいひかねますがね。
>私と同じ仮名遣回復派の諸君はその点ピンぼけでどうも。

ピンぼけは波江氏だらうに。と言ふか、波江氏はただのぼけかも知れませんが。


玄人 投稿者:ささやき  投稿日: 3月29日(土)23時04分04秒

人間の素人半可通プロがあるなら 猫の素人半可通プロもあるろだうらうな! ぼそつと


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月29日(土)21時06分42秒

波江氏は、半可通や素人よりも信用できる存在のある事を知つておくべきだ。


(無題) 投稿者:波江究一  投稿日: 3月29日(土)19時26分26秒

半可通は九割九部どころか全部だめといふことも知るべきなり。
素人よりも猶性質が悪い。
何でだめだめを癖にするのでせうかな。
これではダダイストならぬダメイストとでも呼ばるべきならずや。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月29日(土)19時00分16秒

「よき素人」は結構だが、素人の九割九分は駄目な素人だと云ふ事を波江氏は認識してゐない。そして、波江氏は、自分が駄目な素人である事を自覺してゐない。

丸谷氏の言つてゐるのは、駄目な日本語の文章を教育で使ふな、と云ふ事だ。丸谷氏は、教科書の「詩」は駄目な詩で、駄目な日本語の文章である、と言つてゐるに過ぎない。

文章が駄目なら全部駄目。
波江氏の文章は駄目な文章だ。だから、波江氏の言つてゐる事は全部駄目。
「現代かなづかい」を罵る前に、波江氏は、自分の駄目な文章を反省し玉へ。反省する能力も無いから、すぐに他人を罵つて自畫自贊するのだらうが。
編集済


半可通よりも素人 投稿者:波江究一  投稿日: 3月29日(土)18時20分21秒

今の日本に詩にかけては半可通と素人しかをらぬ。よつてまだしも素人の方を信頼するね。丸谷といふ半可通もいつてをつた。学校で詩作品を教材にすべからずと。何故なら
大人でさへも詩の定義は曖昧だからと。『桜もサヨナラも日本語』
「つひにあたらしき詩歌の時代は来りぬ。そはうるはしき葡萄の如くなりき」
などと大層なことをいつてをつた藤村も物の五年で退散して、干し葡萄になつてしまつた。新潮文庫の葡萄の文様は奴の宣言辺を意識したものであらうか。ギリシア文学からの
連想か知らぬが、今や現代かなづかいなる腐れ葡萄の頒布に汲々たるざまです。
出来損なひの半可通たらむよりは、よき素人たらむをこそ志すべきでせう。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月29日(土)16時04分42秒

ただの故事つけですよ。それをさも御立派なやうに言ひ做すから、波江氏は「トンデモ」なのです。

いつもながら自畫自贊で下らない。素人集團の中で褒められたくらゐの事で威張るのは愚の骨頂だ。日本web詩人会は素人の集まりに過ぎない。

或は、「無機質なる表記部材では無い」と言ひながら、「無機質なる表記部材」のやうに「いろは」の文字を組合せて「字数歌」を作つて喜んでゐるから、波江氏は異常。波江氏は、自分のやつてゐる行爲の眞の意味がわかつてゐない。ただ、自分の「字数歌」を作ると云ふ行爲は良い動機に基いてやつてゐる事だから、自分の「字数歌」を作ると云ふ行爲は良い事だ、と思ひ込んでしまつてゐるだけだ。「字数歌」は下らない、ただの遊びである、それが常識的な判斷だ。

いい歳こいて「字数歌」。
編集済


いろは実況 イラク戦線 反響例 投稿者:波江究一  投稿日: 3月29日(土)15時22分24秒

これ詩歌サイト日本web詩人会での反響例ですがね。単なるこじつけでかういふ作品は
作れぬものですよ。日本は東西南北あらゆる文明の終着点であり、以後の人類文明の新た
な起点たるべき宿命を負つて居るといふべきなるに、かかる特質を見出し開拓すること
なくては、諸文明の塵溜に堕するのみです。前にも申したやうに仮名は一音ごとに多岐の
品詞価値を帯びた有機連鎖体です。無機質なる表記部材では無い。
例によつてマルチポストでけしからんと思はれる場合は削除して下さい。

顔吹き飛び
足の抉れた
幼子らに胸迫り
およそ果て見ぬ違和
空ろ癒えず経ん
焼け散る夢も

かほふきとひあしのゑくれたをさなこらにむねせまり
およそはてみぬゐわうつろいえすへんやけちるゆめも

捕虜等の眼怯え
背後に骸悶ゆ
雰囲気飢ゑ
怪しげなる身騒がせて
熱度血沼を備へ

ほりよらのめおひえはいこにむくろもたゆふんゐきうゑ
あやしけなるちさわかせてねつとちぬまをそなへ


波江究一
2003年03月29日(土) 13時14分12秒 公開
■この作品の著作権は波江究一さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
ベルリンの壁崩壊の際のあの喜ばしき解放感は何だつたのかむなむなしく
なりますね。
人類史上最大の葬儀と即位礼を営み得た日本に世界が寄せた期待は何であ
つたのか。せめてこれくらゐはむなしくせぬやうに、アルジャジーラの映
像から取材して二首。いろはとは文藝の陣野にあつて先鋒にも殿軍にも居
るものです。


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この作品の感想をお寄せください。 
文字が静かに怒りで震えているようにみえます。 y<k ■2003-03-29 14:42:19
いつもながらお見事です! nonya ■2003-03-29 13:34:53
今回はかつて戦争の犠牲の国日本は世界の中で一番期待はずれの行動に出たとしか思えません。なぜこうも、国民を裏切る長の存在により世界が不安定になっていくのでしょう。むしろ怒りとも悲しみともなんとも思えない衝動に駈られています。 ☆かなっち☆(元一夏) ■2003-03-29 13:22:49


返信が遅くなりましたが 投稿者:ゆう  投稿日: 3月29日(土)00時25分51秒

おっしゃるとおりリンク先の「ワ行濁音云々」は私が書いたものです。書いた本人もどこで書いたか忘れていたものが見つかるとは、サーチエンジンは便利ですね。

リンク先のページには、妙に肩肘を張ったことをいろいろ書いてありますが、考え自体は現在とあまり変わっていないようです。

現在仕事の都合で時間が取れないので、落ち着いたら改めて書き込みに来たいと思います。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月28日(金)21時48分18秒

波江氏が一々考へて作つてゐる「字数歌」も、JavaScript(JAVAではありません)が生成した文字列も、大差はありません。どつちもナンセンスです。
そこに意味があるかのやうに言ふのだから、波江氏は異常。

と言ふか、波江氏の言ふ「理」よりも増しなアルゴリズムで「いろは歌JavaScript」は、それつぽい文字列を生成してゐます。作者の平野氏がその邊りの事は説明してゐます。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2003/2003_03_c.html#date27-1


(無題) 投稿者:(ぉ  投稿日: 3月28日(金)19時17分16秒

韻律=骨組み!


(無題) 投稿者:波江究一  投稿日: 3月28日(金)16時28分55秒

母音重複はしない。且語中語尾には来ないといふ理を承知して使はずに
無作為で出来るやうな甘い物では無いですよ。
その旨例によつて芳名詠込みし献歌かたがた説明して置きました。
つまりこれが日本語独自の韻律であり、骨組みであるとね。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月27日(木)21時38分10秒

「いろは歌JavaScript」は、波江氏の「字数歌」が、創作ではなく、單なる文字の機械的な並べ替へ作業の結果でしかない事の證明なのですが、波江氏、そんな事も理解出來ないやうです。

しかし波江氏、大言壯語の癖は何とかした方が良いと思ひます。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~quia/report/2003/2003_03_c.html#date26-3


掲示板の惹句 投稿者:波江究一  投稿日: 3月27日(木)13時14分26秒

国歌をいろはの技法で新作し、日本も出直しませう。日本語の独自の宇宙観を、世界に向けて発信せよ。

といふ具合に掲示板の惹句を換へてみました。
闇黒日記の紹介によりいろはjavaも一閲、数奇者は絶えずといふことですね。
タイトルも言挙げ掲示板に換へようか。
http://8504.teacup.com/namie/bbs
国歌案は掲示板に掲げてありますので、質問あらばどうぞ。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月24日(月)22時58分48秒

新スタイルですが、Opera6でみると、文字が豆粒のように小さく表示されます。
おそらく、「フォント・サイズを%で指定すると、しかるべき大きさより小さく表示してしまう」というOpera6の不具合のせい(フォント・サイズを%で指定した要素を入れ子にしていませんか?)だと思いますが、CSSのソースまで確認したわけではないので断言はできません。
ちなみに、フォント・サイズをmediumと指定すると、Opera6はフォントをデフォルトより少し大きくしてしまいます。
また、1emと指定すると、IEで文字サイズを小、または中にした時に、フォントが極端に小さくなって読みづらくなります。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月24日(月)22時01分38秒

波江氏、奇魂掲示板のスレッドが伸びると迷惑がかかる、と云ふ事は理解出來るのに、あちこちの掲示板に同じ内容のナンセンスな文面を投稿して廻るのは迷惑だ、といふことはどうして理解出來ないのだらう。

いろいろと誤の御指摘、ありがたうございます。直しておきます。


新スタイル 投稿者:まきかずひこ  投稿日: 3月24日(月)19時56分23秒

tnstyle.css の44行め、normalのrが落ちてゐます。


(無題) 投稿者:Te3m  投稿日: 3月24日(月)18時30分48秒

こんにちは。

ところで,とにかく作ってみよう/「とほほのWWW入門」を斬るについてですが,

「とほほさんの所謂「ホームページ」の擴張子はhtmlかhtmlでないと……」は,
「とほほさんの所謂「ホームページ」の擴張子はhtmlかhtmでないと……」の誤りではないのでしょうか。


奇魂掲示板の件 投稿者:波江究一  投稿日: 3月24日(月)16時30分23秒

奇魂掲示板の件、レスが伸び過ぎてご迷惑かかるでせうから、
あれまでにして置きませう。昨日分にはレスして置きました。


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月24日(月)15時08分06秒

私が教わった知識では、カトリック教会でも公用語であったのは20世紀初頭までだったはずですが、バチカンでは今でも公用語なんですか。ただバチカンがそうであれば、末端も当然ラテン語を公用語として今でも使っているはずですよね。私の勘違いかもしれません。

いずれにせよ実質的には死語ですから、その発音となるとやはり類推の閾をでないですよね。バチカンではイタリア式発音であるというのも頷けます。いまや特定の場所で特定の場合に限って使用する言葉でしょうから、その地域で日常使っている言葉の発音に従ってラテン語を読むのだろうと思います。
編集済


ラテン語の発音 投稿者:義珍  投稿日: 3月24日(月)13時14分10秒

また、話の本筋から外れた話題ですが。

> ラテン語というのは、既にカトリック教会でも使用されなくなって久しいはずです。学術用語として使用されたり、英語など様々な言語の中に姿を留めていたりしますが、いわゆる死語の一つだと思います。

バチカンでは、ラテン語が公用語とされており、儀式の際には今でもラテン語を使っているそうです。ラテン語の放送局まであるそうなので、「使用されなくなって久しい」は言い過ぎではないかと。
もっとも、日常的にはイタリア語を使用しているらしいので、ラテン語を死語とすること自体は誤りではないと思います(死語、という言葉の定義にもよりますが)。

ちなみに、現在バチカンで用いられているラテン語の発音は、イタリア式だそうです。

> ラテン語に限らず死語の正しい発音は誰にも分らないと私は思うのですが、いかがでしょう。

ラテン語の場合、ローマ帝国時代、首都ローマ近郊で話されていたのを「正しい発音」とするならば、遺跡に残された庶民の落書きから、ある程度類推することは可能だそうです。(綴り間違いの傾向から、無教養な庶民がその単語をどのような音で捉えていたかを分析するようです)
ただ、ローマ帝国時代の発音を「正しい発音」とする必要はあまりないのではないかと思いますが。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月24日(月)12時30分08秒

> 私が言つてゐるのは、飽くまで、證明の方法論についてです。具體的な根據或は唯一の條件を擧げたのではありません。ただ、主觀的な價値觀の一例を擧げたに過ぎません。

すみません。この点について、俺の方に誤解があったようです。
ただ、俺としては、自分の誤解に基づいて肯定的に論じていたつもりだったので、「揚げ足取り」をしたり、「一々つつ」いたりしたわけではないのですが。


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月24日(月)10時44分02秒

ラテン語というのは、既にカトリック教会でも使用されなくなって久しいはずです。学術用語として使用されたり、英語など様々な言語の中に姿を留めていたりしますが、いわゆる死語の一つだと思います。無論、言語学においてラテン語を研究する意義は計り知れないものがあるでしょうが、発音となると死語ですから議論するのは困難ではないでしょうか。例えば、ad libitum (いわゆるアドリブ)やvice versaを本来ラテン語でどう発音していたかなど、誰も知らないはずです。

すべてのラテン語学者が同意見なのか否か知りませんが、少なくとも私が教わったラテン語の先生は「ラテン語は死語だから、発音は英語読みであろうがドイツ語読みであろうが構わない」と最初におっしゃいました。無論、学生への講義ですから論争中の点に触れる煩を避けたかっただけかもしません。

この掲示板でヴとラテン語の議論が始まった際に、敢えて私がヴは英語のvやドイツ語のwを表すといったり、わざわざ発音記号の[v]を表すといったのはそのせいです。言語学の分野において様々な議論はあるにせよ(そして、そのような議論を通して得られた研究成果によって、個々の言語の解釈などにおける進歩がもたらされるにせよ)、ラテン語に限らず死語の正しい発音は誰にも分らないと私は思うのですが、いかがでしょう。
編集済


ヴ表記とローマ字 投稿者:死郎  投稿日: 3月24日(月)03時57分37秒

> > GAT さん(ゆうさんと同じ方でしょうか?)
>
> 違います。
> 同一掲示板でハンドルネームを使い分けるようなことはしません。

 それは大変失礼いたしました。ご容赦を。

> 区別して発音できない音を、
> 濁点をつけることが許されている字で代用することが可能なのに、
> 母音に濁点をつけるという反則を犯してまで、
> わざわざ区別して表記する理由を知りたかったのです。

 個人的には区別しているし『ヴァ』と書かれていれば"va"と読むべきだという主義なので
すが、世間の人は必ずしもそうではないようで。しかし、そうしたイイカゲンさに違和感や
不満があるという点では GAT さんも僕と同じなのでしょうね。

> 拡張ヘボン式なるものを提唱しています
>
> http://www.halcat.com/roomazi/doc/index.html
>
> で閲覧できます。御一読いただければ幸いです

 長いことIME(我が家のはWXG)で使って来た独自のローマ字入力設定と、けっこう似
ていたので驚いています。もちろん『じ』と『ぢ』が逆とか、違う部分もかなりありますが。
 ヘボン式を基礎にしたことはもちろんですが、おそらくは基本的なコンセプトが似ていたせ
いでしょうかね。

> ロシア語のアルファベットには [v] の音を表す「в」の文字はありますが、[w] の音を表す文字が存在しません。

> ラテン語の発音で「V」は本来「ウ」の発音でした。

 インド系の諸言語でも w 音と v 音の区別がありません。古典語であるサンスクリット等
では、単独もしくは母音に続く場合はやや v に近く、子音に続くと半母音として w 音にな
るようですが、そうした違いは表記には現れません。ご参考までに。

http://home3.highway.ne.jp/~shirou/


ヴの表記について 投稿者:日本語のために  投稿日: 3月24日(月)01時32分23秒

ラテン語の発音で「V」は本来「ウ」の発音でした。凱旋門の碑文に「AVG」とあればアウグストゥスのことです。
ですから、「ウィ」とか「ウォ」とかの発音は「VI」「VO」の表記だつたのです。中世に異民族との接触(ローマ帝国崩壊後のイタリアはゲルマン系であるゴート族、ノルマン人、東ローマ帝国、フランス王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の政治的影響下に置かれた)により「ヴィ」の発音が入つて来たときに「V(ウ)」の発音に近いためにこの文字を当てたのでせう。さらに、「V」本来の発音を区別するために「U」の文字が出来た。ちなみに「W」は子音として使うときのために、これらの文字から比較的最近分化したものでせう。英語のダブルユーはV二つなのにUふたつの意味ですね。この辺はさういふ複雑な状況のために、彼ら自身、混乱してゐるのでは無いでせうか.
日本語で「ヴ」の音を表記するために「う」の仮名に濁点をつけるのは、さういふアルファベットの歴史を踏まへたものだと思ひます。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月24日(月)00時52分41秒

この場合と言つたら、違ふのは義珍さんの指摘の方です。

客觀的な事實からは、主觀的な價値觀は生じない。だから、「である」の證明から、「すべきである」の證明は引出せない。

>ここでは、「論理的に証明できるような正しさ」を問題にしていますが、野嵜さんは、「言葉は通じなければならない」という以外に「共通の價値觀」を示していません。つまり、ここでいう「正しさ」には、「通じる」ということ以外に条件はありません。

それは揚げ足取りです。私が言つてゐるのは、飽くまで、證明の方法論についてです。具體的な根據或は唯一の條件を擧げたのではありません。ただ、主觀的な價値觀の一例を擧げたに過ぎません。それを一々つつかれるのは迷惑です。
編集済


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月23日(日)23時57分08秒

> つまり、言葉が通じるということは、正しい言葉遣いの必要条件ではあるが十分条件ではない、ということではないでしょうか。

この場合に限っては、違うと思います。

> 「CはDすべきである」の證明は、客觀的な事實のみを前提にしてゐては、確かに不可能です。しかし、一つでも共通の價値觀が存在する時には、可能です。
> 言語の場合、「言葉は通じなければならない」と云ふ大前提があります。この大前提を認める限り、「人は正しく言葉を遣ふべきである」と云ふ事は言へますし、「正しい言葉遣ひ」と云ふ事も言へます。

ここでは、「論理的に証明できるような正しさ」を問題にしていますが、野嵜さんは、「言葉は通じなければならない」という以外に「共通の價値觀」を示していません。つまり、ここでいう「正しさ」には、「通じる」ということ以外に条件はありません。

もちろん、「正しさ」という言葉は、論理的に証明できるような場合以外にもつかわれるので、この場合に限定しなければ、素人さんのおっしゃることも間違いではないと思います。
編集済


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月23日(日)23時14分08秒

> 實際に論證していただければ、反論のしやうもあるのですが、懸念だけ表明されてもこちらとしてはどうにも。

(大前提)「言葉は通じなければならない」が言葉の正しさを判断する基準である。
(小前提)ほとんどの人にら抜き言葉は通じる。
(結論)ゆえに、ら抜き言葉は正しい。
で、論証したつもりだったのですが。

> 「ら拔き言葉」は良いのですが、「ら拔き」以前の言葉遣ひが通じなくなつてしまふ事が問題なのではないですか。

将来「ら抜き言葉」しか知らない人が現れた場合、本来正しい表現である「食べられる」「着られる」を理解できなくなる可能性がある、という意味でしょうか。
つまり、下位互換だけでなく、上位互換も確保しなければいけないと。
たぶん類推で理解できると思いますが、そうでない可能性も否定しきれない(検証がほぼ不可能)ので、「ら抜き言葉は正しくない」という結論にも首肯できます。
(理屈っぽくいうと、正しくない、としておいた方が、日本語の互換性を保つ上で安全、という感じかな)


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月23日(日)21時42分00秒

野嵜さんは、言葉は通じればよい、とおっしゃったのではなくて、まずもって通じなければならない、とおっしゃっているのではありませんか。つまり、言葉が通じるということは、正しい言葉遣いの必要条件ではあるが十分条件ではない、ということではないでしょうか。だから、通じればすべて正しいということにはならないと思うのですが。
編集済


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月23日(日)21時27分20秒

>その方法論で論証すると、そういう結論になってしまうのではないか、と思ったのですが、俺の理解がまずいのでしょうか。

實際に論證していただければ、反論のしやうもあるのですが、懸念だけ表明されてもこちらとしてはどうにも。

>ら抜き言葉の場合、ごく一部の「当事者」だけでなく、ほとんどの日本人(厳密には、日本語を母語とする人)の間で通じると思います。統計とったりして検証したわけではありませんが。

「ら拔き言葉」は良いのですが、「ら拔き」以前の言葉遣ひが通じなくなつてしまふ事が問題なのではないですか。

スタイルは順次直していくと云ふ事で、勘辨してやつて下さいまし。
編集済


「ら抜き言葉」と「現在適用されているCSS」について 投稿者:義珍  投稿日: 3月23日(日)21時04分05秒

まず、

> 言葉は通じなければならない、という前提が、言葉の正しさを判断する基準であるならば、ら抜き言葉も正しいことになってしまうと思いますが。

という俺の投稿について。

> さう云ふ話をしてゐるのではないのですが。論證の方法論についての話なのですが。

その方法論で論証すると、そういう結論になってしまうのではないか、と思ったのですが、俺の理解がまずいのでしょうか。

> 当事者同士で「通じ」る云々に終始すれば、その言葉は当事者同士のみの間主観性に陥る罠。

ら抜き言葉の場合、ごく一部の「当事者」だけでなく、ほとんどの日本人(厳密には、日本語を母語とする人)の間で通じると思います。統計とったりして検証したわけではありませんが。

次に、現在適用されているスタイルについて。

色合い自体はきれいでよいのですが、俺の環境では、少し見づらく感じられます。
全体に背景色の白が鮮やかすぎるのと、ddの文字色が背景色に対して薄いのが気になります。いずれも、OSやブラウザよりも、モニタに依存した部分だと思いますが。
あと、「ValidなHTML+CSSのサイトにはありがちなスタイル」になってしまっているような気もします。以前のスタイル(各所で暗黒日記風、とか言葉言葉言葉風として採用されているもの)の方が、独自色を打ち出せていたのではないかと。
一読者の勝手な意見にすぎませんが、ご参考まで。
編集済


拡張ヘボン式 投稿者:上西俊雄  投稿日: 3月23日(日)19時19分08秒

拡張ヘボン式なるものを提唱しています

http://www.halcat.com/roomazi/doc/index.html

で閲覧できます。御一読いただければ幸いです


(無題) 投稿者:su  投稿日: 3月23日(日)18時29分49秒

少々脱線しますが、ロシア語の話をします。

ロシア語のアルファベットには [v] の音を表す「в」の文字はありますが、[w] の音を表す文字が存在しません。したがって、外来語として「wa」を取り込む場合、「ва」(va)に変換してしまいます。作曲家の芥川也寸志が旧ソ連を訪問した際に、Акутагава(Akutagava)とポスターに書かれていました(ちなみに、-a で終わる姓のため、女性と思われていたそうです)。

逆に、ロシア語を和訳する際に、「ウ濁音」を使うべきか「ワ」行を使うべきか迷うケースがあります。Moskva はモスクヴァではなくモスクワと表記するのが慣習になっていますし、vodka もヴォートカではなく、ウォトカと書くケースが多い様です。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』は原題は Дядя Ваня(Dyadya Vanya)です。最近では、慣習化したものはそれをそのまま用い、その他の場合にウ濁音を使うことが多くなってきているようですが、例えば「イヴァン・セルゲーヴィチはモスクワ行きの夜行に乗り……」などとありますと、統一されていないと感じることも事実です。

ロシア語の場合は、[w] を表す文字がないために、また、ロシア語の「в」は英語の「v」程は、深く下唇を噛まないために、かつては「ワ」行で表記され、それが慣用化したのではと推測します。ドイツ語でも Wagner をワーグナーと表記することが慣用化していますが、この場合は理由がはっきりしているのでしょうかね。

ワ行濁音の話を拝読して、そんなことを思い出しました。


濁点ワ行 投稿者:GAT  投稿日: 3月23日(日)08時10分06秒

> GAT さん(ゆうさんと同じ方でしょうか?)

違います。
同一掲示板でハンドルネームを使い分けるようなことはしません。
知識不足により間違いや勘違いを書くことがあっても、
内容的に恥ずかしいことを書く気は全くないので、
名を騙る必要はありません。

聞きかじりのローマ字を例に出してしまったので、
話がややこしくなったようです。

誤解の無いように言っておきますが、
私は何も「ヴは間違っている、使うべきでない」とか、
「ブァ…を使え」と主張しているわけではないのです。
だからこそ違和感という言葉を使っています。

区別して発音できない音を、
濁点をつけることが許されている字で代用することが可能なのに、
母音に濁点をつけるという反則を犯してまで、
わざわざ区別して表記する理由を知りたかったのです。

なるほど、ワ行に濁点ですか。
VとWの関係からすると納得できます。
「ヰ」「ヱ」がなくなり「ヲ」が助詞にしか使われなくなり、、
「ワに濁点」も廃れていき…、
そして「ウに濁点」だけが残ったわけですね。

私の育ったところに明治期「ヴォーリズ」さんという人がいました。
名前を冠した建物などがあり、
我々は普通に「ボーリズ」と発音していたのですが、
地図なんか見ると「ヴォーリズ」の表記。
キャンデー、ビルヂングの表記法で教わった世代なので、
小学生の私は発音と表記のギャップに悩んだものでした。

ある時、建物を見ると「ヴヲーリズ」の文字が…。
もう何が何やら分からない気分でした。

今から考えると「濁点ワ行」から「ヴ行」に移行する、
過渡期の表記だったのかもしれません。


『ヴ』の話の続き 投稿者:死郎  投稿日: 3月23日(日)03時13分51秒

 皆様のフォローを受けて再検討しまして。

> 例えば、fight の [f] は下唇を前歯で噛みますが、外来語として「ファイト」を発音する場合は、息を吹きかけるように唇をすぼめて発音します。

 言われてみれば、片仮名の『エレファント』を読む場合と英語として"elephant"を読む場合
とでは、違う発音をしているのが確かに自覚できます。
 なるほど。片仮名の『ファ』のほうは、要するに fa ではなく hwa とでも書くべき音ですね
(ヘボン式のように発音に忠実“と思える”表記としては)。

 それで合点がいきました。GAT さんは『フ』が"fu"なので"vu"は『ブ』あるいは『ブゥ』で
充分であって『ヴ』を使う必要がないと仰っているわけですが、それがどうも僕にはしっくり
こない。それもそのはずで、『フ』は最初から"fu"ではなかったわけだ。

 『ファ』が"hwa"であるなら、濁音の『ブァ』にしたところで"bwa"になるだけですもんね。
 どうにも拭えなかった違和感を、やっと言葉にできました。ありがとう。

> vaは、ワにてんてんを附ける書き方もありましたね。

 va 行がワ行の濁音なら、[ワ゛][ヰ゛]ヴ[ヱ゛][ヲ゛]という表記は理に叶っていると思
います。
 そうしてみると、この『ヴ』の『ウ』はア行のそれではなくてワ行の『ウ』だったんですね。
たまたま表記上区別されていないというだけで。

> それを「母音に濁点」という反則技を使ってまで

 つまり"u"に濁点ではなく"wu"に濁点が付いたものと考えれば、これも『反則技』とまでは
言えないような気がしますが……どうでしょう?

>  http://www2.neweb.ne.jp/wc/wp014069/main/koramu/koramu00/bunka00.html

 ……あれ? 念の為チェックしてみたら、ゆうさんも『[ワ゛][ヰ゛]ヴ[ヱ゛][ヲ゛]』の
表記には肯定的なのか。
 と言うか、この“ゆう”氏が同一人物かどうかわかりませんが。


(無題) 投稿者:toka3aki@薩摩隼人は泣きの竜  投稿日: 3月22日(土)20時58分18秒

>言葉は通じなければならない、という前提が、言葉の正しさを判断する基準であるならば、ら抜き言葉も正しいことになってしまうと思いますが。

当事者同士で「通じ」る云々に終始すれば、その言葉は当事者同士のみの間主観性に陥る罠。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月22日(土)14時47分50秒

>言葉は通じなければならない、という前提が、言葉の正しさを判断する基準であるならば、ら抜き言葉も正しいことになってしまうと思いますが。

さう云ふ話をしてゐるのではないのですが。論證の方法論についての話なのですが。


ら抜き言葉も通じるから正しい? 投稿者:義珍  投稿日: 3月22日(土)14時11分34秒

> 言語の場合、「言葉は通じなければならない」と云ふ大前提があります。この大前提を認める限り、「人は正しく言葉を遣ふべきである」と云ふ事は言へますし、「正しい言葉遣ひ」と云ふ事も言へます。

言葉は通じなければならない、という前提が、言葉の正しさを判断する基準であるならば、ら抜き言葉も正しいことになってしまうと思いますが。
日本語を母語とする人の中には、「食べれる」「着れる」を「食べられる」「着られる」の意だと判断できない人はほとんどいないと思うので。(ただ、「着れる」に関しては、会話だと「切れる」と間違える可能性はありますが)
まあ、仮にら抜き言葉が誤りではない(正しい、とまでいう自信はないので)としても、「誤りではないけれど、使わない方がいい言葉」というのはいくらでもあるわけですが。
(俺個人の判断は、以前もふれたとおり「使う理由がないので、あえて使うことはない」です)
編集済


ワ行の濁音 投稿者:*  投稿日: 3月22日(土)13時21分08秒

「ワ行の濁音」の檢索結果にこちらの過去ログが……。

掲示板ログ(2000.6)
 http://kotoba.port5.com/logfiles/kotoba_200006.html
ログ1_00
 http://www2.neweb.ne.jp/wc/wp014069/main/koramu/koramu00/bunka00.html

http://kotoba.port5.com/logfiles/kotoba_200006.html


ラテン語の発音 投稿者:義珍  投稿日: 3月22日(土)12時18分16秒

> ちなみに、井上ひさし氏の発言は私には理解しかねます。

先の投稿で挙げた井上さんの発言ですが、読んだのが何年も前である上に、きちんと出典にあたっていない(たぶん、『自家製文章読本』だったと思うのだけど、手元にないので確認できない)ので、実際の文章とは若干ニュアンスが異なる可能性もあります。

> 別の掲示板で知ったのですが、ドイツ語でVは基本的に清音発声なのだそうです。
> (私はドイツ語のことはよく解らないので確言できないのですが)
> そしてラテン語はドイツ語式に読むのが通例ですから、鴎外の「ヰタ」がラテン語の"vita"であるなら「ウィタ」でかまわないと思います。

> GAT様の仰る「ドイツ語式に読むのが通例」というのは初めて聞きました。

ラテン語の発音については、塩野七生さんが『ローマ人の物語』文庫版のあとがきで、「従来、古代ローマ史の研究はドイツでさかんだったため、ラテン語の発音はドイツ式にするのが通例になっていた。しかし、遺跡に残された庶民の落書きなどから当時の発音を類推すると、イタリア式の発音に近いことが判明した」という意味のことを書かれていました(これは最近読んだばかりなので大丈夫だと思いますが、あとで書架を探してみて、間違ってたら訂正します)。
どちらにせよ、鴎外が留学していたのはドイツなので、鴎外自身は「ウィタ」と読ませるつもりだった可能性が高いとみてよいのでは。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月22日(土)04時09分51秒

vaは、ワにてんてんを附ける書き方もありましたね。


「ウ濁音」について 投稿者:su  投稿日: 3月22日(土)03時23分20秒

あ、すみません、かぶりました。

ヴに関する違和感というのは、母音に濁音というだけではなくて、[v] に代わる音声が元々日本語にありませんので、ヴァイオリンと書いてもバイオリンと発音せざるを得ない点にもあると思います。この点で、前期の「ファ」などとは事情が異なっています。新かなでも助詞の「は」を「ワ」と読ませるわけですから、個人的には、「ヴ」と書いて「ブ」と発音してもあまり気にはなりませんが。

ウに濁点をつけてもどうせ [v] の発音ができないのだからということなのか、あるいは表記と実際の発音の擦れが大きすぎるということなのか、平成3年の内閣告示「外来語の表記」(http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/kanji/gairai.html)でも、ウ濁音の表記が問題になったそうです。また、10年前のものですが、東京・近畿などの都市圏ではウ濁音が好まれるという統計も発表されています。ご参考までに。


音韻と音声 投稿者:su  投稿日: 3月22日(土)03時21分11秒

訓令式ローマ字表記は音韻を表していますので、実際の音声とは異なります。実際に発音される音声に *相対的に* 近い表記がヘボン式です。音韻の上では同じハ行の子音でも、音声としての「ハ」の子音と「フ」の子音ははっきりと異なります。また、同じカ行でも「キ」と「コ」では調音点が大きく前後しますので、厳密に見れば違う音声と解釈することもできます。言語学の分野としての音韻論と音声学を説明するには字数がある程度必要になりますので、詳しくは書籍などでお調べ下さい。

いわゆる「外来語音」とされる「シェ」「ティ」「ファ」などですが、基となった外国語の音声通りには発音されていませんし、もともと日本語にあった特定の母音の前にしか現れない子音を利用して、子音と母音の新しい組み合わせを作ったというのが実情です。

例えば、fight の [f] は下唇を前歯で噛みますが、外来語として「ファイト」を発音する場合は、息を吹きかけるように唇をすぼめて発音します。音声学では、これを [φ] として、[f] と区別しますが、[φ] は元々ハ行の「フ」専用の子音として使っていたものです。「フ」専用の子音にアイウエオを組み合わせて、単に「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」を新たに作っただけで、英語の [f] の音を日本語に取り入れたわけではありません。ヘボン式について *相対的に* という言い方をしましたのは、こういうわけです。


ローマ字・仮名・発音 投稿者:死郎  投稿日: 3月22日(土)03時12分41秒

> 「フ」はヘボン式では「fu」ですが、
> そもそも「ハ行ウ段」なので「hu」であるべきだと思っています。

 『フ』の子音は、厳密には英語の h とも f とも違いますからね。発音記号だと[Φ]のよう
に書かれる音のようで。でもアルファベットでの綴り方のみに限って言えば、意味的な対立が
ないんで、hu と書こうと fu と書こうとどっちでも良いように思えます。
 ヘボン式については"fu"と書くと決められているので、それがどうあるべきだと言っても仕
方がないような。"fu"→"hu"という変更を加えたなら、それはもうヘボン式ではなく新しいロ
ーマ字表記法でしょう。

> ファ、フィ、フ、フェ、フォでも、ハ、ヒ、フ、ヘ、ホでも
> 同じく「フ」ですし、濁点をつければBとVの区別には充分でしょう。

 仰りたいことはわかりました。しかし『ブ』と書いて bu で『ブゥ』と書けば vu とい
うのは、大いに違和感のあるところなんですが。『ブゥ』では、例えば『ブウ』や『ブー』
と違う発音なのだと言われても納得できないというか……『ブァ』『ブィ』等についても同
じく。

> またヘボン式では「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」の区別を付けず、
> どちらも「zi」「zu」です。

 間違っています。『ジ/ヂ』は"ji"です。

> 日本式ローマ字では「ヂ」「ヅ」をそれぞれ「di」「du」と書きますが、
> 英語のカタカナ表記でそんな書き方しないでしょう?

 昔は『ビルヂング』式の表記がありましたし、今も時々見かけますね。

> 「vi」にしたところで「ヴィ」と読むと決まったわけではありませんし。
> 例えば「virus」。英語読みなら「ヴァイラス」です。

 英語の正書法と日本語のローマ字表記法の話をごっちゃにすべきではありません。両者は最
初からルールが違うので。

> そもそも音節文字である仮名で音素文字であるアルファベットを
> 発音に正確に表記するのは不可能なんです。

 その点は同意します。
 ただ『ヴ』の導入なども、『なるべく正確に表記しよう』という努力の跡なんだと思います
けれど。

> それを「母音に濁点」という反則技を使ってまで
> Vの区別を付けなければならない理由が謎です。
> 英語の発音に媚びを売っているとしか思えません。

 そうでしょうか。b と v を区別する言語は英語に限らないと思うんですが。
 まあ日本語に限って言えば、多くの日本人が外来語音のそれを意識して区別していないだろ
う、という点は認めます。

> そのくせラジオをラディオと表記したりはしないのです。

 慣例という他はないでしょうね。上に挙げた『ビルヂング』→『ビルディング』のように、
次第に改められたものもありますが。『ラジオ』はそれで定着してしまってますから(昔は
『ラヂオ』だったような)、敢えて『ラディオ』なり『レイディオウ』なりに直そうと思う人
がほとんどいないのでしょう。文字数は増えるし、他にとりたてて利点もないしで。

> こういう私の違和感を解消してくれる、
> なにか明確な根拠があったのではないかと思い、
> ここの掲示板なら誰かご存じではないかと質問させていただいた次第です。

 僕も外来語の表記はできればルールを統一してほしいなと思う時があります。しかし、それ
はむしろより原語の発音に近い方向が望ましいと考えているわけで。その点で、GAT さん(ゆ
うさんと同じ方でしょうか?)とは少しく感覚を異にしているのでしょう。
 そんな具合に個人の感性・考え方も多様なんで、余計に“統一”というようなことは難しそ
うに思えるのです。

http://home3.highway.ne.jp/~shirou/


ラテン語の発音に関して 投稿者:プラトソ  投稿日: 3月22日(土)01時06分34秒

西洋諸国において、ラテン語は各国の母語の発音を引きずって発音されます。
例えば、Caesar(カエサル)がシーザー(英)と発音されるのは有名ですが、
Cicero(キケロ)がシセローとか、チチェロとか発音されます。

今日の日本では、教会式(イタリア語の発音に近い)で発音教育をしています(少なくとも私はそれで教わりました)。日本人のラテン語教師がラテン語の発音をフランス人に驚かれつつ、褒められたという話もききました。GAT様の仰る「ドイツ語式に読むのが通例」というのは初めて聞きました。が、確かにドイツ語の発音に近いかもしれません。二重母音や、yの発音等々類似点は多く見られます。

vitaの発音は(私の受けた教育からすれば)iの音の上に長音を示す記号が付いていますので、「ウィータ」の方が近いと思います(辞書で確認済み)。

ちなみに、井上ひさし氏の発言は私には理解しかねます。
略字新かなで失礼しました。


ラテン語 投稿者:とほりす  投稿日: 3月22日(土)00時03分40秒

ドイツ語のVは「ファウ」、Wが「ヴェー」ですね。フォン・カラヤンはvon Karajanになります。
ところでドイツ語はゲルマン語系であつて、ラテン語系ではありません。フランス語(ラテン語系)ではVは「ヴェー」、Wは「ドゥブルヴェ」だつたと思ひます。ラテン語そのものは知りませんが。


「ヴィ」と「ヰ」 投稿者:GAT  投稿日: 3月21日(金)23時03分20秒

別の掲示板で知ったのですが、ドイツ語でVは基本的に清音発声なのだそうです。
(私はドイツ語のことはよく解らないので確言できないのですが)
そしてラテン語はドイツ語式に読むのが通例ですから、
鴎外の「ヰタ」がラテン語の"vita"であるなら「ウィタ」でかまわないと思います。
「ヴィタ」と読むのは「日本式」なんですね。
「ヴァレリウス」何ていうのも「ウァレリウス」が近い、
というのをローマ関係の歴史書で読んだ記憶があります。
編集済


「ヴ」の違和感 投稿者:GAT  投稿日: 3月21日(金)23時02分36秒

私の「ヴ」に対する違和感は
「母音に濁点は付かない、濁点が付くなら母音ではない」の1点につきます。

先に私は「vu」を「ブゥ」と表記しましたが、
「ブ」で差し支えないと思います。
「フ」はヘボン式では「fu」ですが、
そもそも「ハ行ウ段」なので「hu」であるべきだと思っています。
ファ、フィ、フ、フェ、フォでも、ハ、ヒ、フ、ヘ、ホでも
同じく「フ」ですし、濁点をつければBとVの区別には充分でしょう。

またヘボン式では「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」の区別を付けず、
どちらも「zi」「zu」です。
日本式ローマ字では「ヂ」「ヅ」をそれぞれ「di」「du」と書きますが、
英語のカタカナ表記でそんな書き方しないでしょう?
「vi」にしたところで「ヴィ」と読むと決まったわけではありませんし。
例えば「virus」。英語読みなら「ヴァイラス」です。

そもそも音節文字である仮名で音素文字であるアルファベットを
発音に正確に表記するのは不可能なんです。
それを「母音に濁点」という反則技を使ってまで
Vの区別を付けなければならない理由が謎です。
英語の発音に媚びを売っているとしか思えません。
「ブ」と読もうが「ヴ」と読もうが、
カタカナ発音している限り通じない事に変わりはないのですから。

バイオリンやビデオといった、外来語として定着しているはずの表記まで、
ヴァイオリンやヴィデオと表記されるのが鬱陶しいのです。
そのくせラジオをラディオと表記したりはしないのです。

こういう私の違和感を解消してくれる、
なにか明確な根拠があったのではないかと思い、
ここの掲示板なら誰かご存じではないかと質問させていただいた次第です。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月20日(木)22時11分41秒

>たまらなかろうと、迷惑していようと、論理的な証明ができない以上、個人によって判断されることは避けられないと思います。

論理的な證明は出來ます。それを受容れるか、受容れないか、が問題であるだけです。どんなに正しい事でも、人によつては受容れない事がある、それだけの話です。

>これも判断云々に関連しますが、「AはBである」という主張はたいていの場合証明や反証が可能ですが、「CはDすべきである」という主張は(それ単体では)論理的に証明したり反証するといったことは不可能です(何度も繰り返していますが、それを「評価」したり「感想」を述べたりすることは可能です)。

「CはDすべきである」の證明は、客觀的な事實のみを前提にしてゐては、確かに不可能です。しかし、一つでも共通の價値觀が存在する時には、可能です。
言語の場合、「言葉は通じなければならない」と云ふ大前提があります。この大前提を認める限り、「人は正しく言葉を遣ふべきである」と云ふ事は言へますし、「正しい言葉遣ひ」と云ふ事も言へます。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月20日(木)16時22分27秒

> 「信頼に足る」用例であると誰が判断するのか、などときり返されそうですが、それは「信頼に足る人が信頼に足ると思う用例」としかいいようがありません。信頼に足る人とは、達意の文章を書く人、つまり正しい言葉遣いをする人です。しかるべき辞書も同様に、しかるべき人が信用して使う辞書を指します。

要するに「正しい言葉遣いをする人の言葉が正しい言葉」とおっしゃってるわけで、これでは何も言っていないのとほとんど同じです。
内容のある文章が書けないのなら、無理に投稿する必要はないと思いますが。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月20日(木)16時15分31秒

> なぜ議論の焦点がDOCTYPE宣言に集まるのか、今ひとつ理解できませんが、

ご自身が「仕様に適合しない独自のDOCTYPE宣言をすれば、HTMLの書き方が正しいか否かという問題を回避できる」という見当違いな主張されたからですが。


(無題) 投稿者:青森の縄文人  投稿日: 3月20日(木)14時04分34秒

青森では、県知事が女の尻(ケツ)をつかんだと言って大騒ぎになっている。
もっと品格のある話題が欲しいと思うのだが、その意味でこの掲示板を覗くとホッとする。


(無題) 投稿者:古林寛  投稿日: 3月20日(木)13時14分40秒

要するに、何をしようと自由ではあるけれども、責任は自分自身にある、ということで。


(無題) 投稿者:古林寛  投稿日: 3月20日(木)13時13分46秒

別にどのような言語を発明しようがどのような文法を使おうが問題はないのですが、その言語が規格として認められていなかった場合、処理系がそれを正しく扱えなかったとしても文句は言えないですよね。
SGML/XMLはそれ自体が規格化されているので、例えばその規格を守る範囲内であれば、いくら独自仕様を作っても、SGML/XML自体を正しく処理できる処理系であれば、それらの文書を的確に処理できる筈です。


(無題) 投稿者:ゆう  投稿日: 3月20日(木)07時57分42秒

私としては、この掲示板における議論で、「しかじかの理由で正しい」という「判断要素」と「正しい」という「最終的な判断」が、入り混じって混乱している(つまり、判断材料の提供と、自分や相手の最終判断の表明は分けておくべきではないか)ということを指摘したかったのですが、メタ議論(という言い方を不快に思われる方もいらっしゃると思いますが、他に言い方が見つからないのでこう書きます)になってしまったようで、もうちょっと要領よく書くべきだったと反省しています。

/* たとえば「あたらしい」という表現ですが、これを誤りとしている現代語の辞書はほとんどないと思います(歴史的な経緯を説明してくれている辞書はあるでしょうが)。しかし、「あらためる」と「あたらしく」なるのはどう考えても変で、「あらため」たら「あらたしく」なるのが正しいと私は思います(漢字で「新しい」と書いてしまえばそれまでなので、さほど深刻な問題ではありませんが)。

これは、「あたらしい」がもともと「あらたしい」であったという事実よりも「あたらしい」という言葉が広く使われてきたという事実を重視する学者が多かったということでしょうが、私は前者をより重視します。それゆえ、私は「あたらしい」ではなく「あらたしい」を用いるべきだと思っています(学者の判断を否定する気はありません、採用しないだけです)。実際、韻文では「あらたしい」を採用しています(実際には、韻文は古語で書くことが多いので、正しいか否かの判断よりも古語との整合性による都合が大きな理由ですが、古語を使わない場合でも、やはり「あらたしい」と書くと思います)。

ただし、韻文以外の文章では、どうしても正しい言葉で書かなければならない理由は感じませんので、たとえ間違った言葉を使うことになっても、あえて普及率の低い表現を用いることはしていません。この態度に非難を加えたい方がいらっしゃったらご自由にどうぞ(私は用途に合わせてより適切な言葉遣いを選んでいるだけで、負けたとも妥協したとも思いませんが)。 */

以前書いた「辞書が正しいといっているからという理由だけで云々」というのは、学者が正しいと言っているという事実は、判断の要素にはなっても、それを即最終的な判断にしてしまうのは早計ではないかということです。


(無題) 投稿者:ゆう  投稿日: 3月20日(木)07時41分01秒

>言葉遣ひの正しさを、個人の判斷で決めつけられたら、堪りません。

たまらなかろうと、迷惑していようと、論理的な証明ができない以上、個人によって判断されることは避けられないと思います。野嵜氏が「眠いです」が「正しい言ひ方である事に氣附い」たというのも、過去の用例や学者の意見を基にそう判断したに過ぎず、判断主体が異なれば、違った判断が出る可能性があります。

>「歴史的な経緯や学者の意見」に基いて、客觀的に判斷すべきである

これも判断云々に関連しますが、「AはBである」という主張はたいていの場合証明や反証が可能ですが、「CはDすべきである」という主張は(それ単体では)論理的に証明したり反証するといったことは不可能です(何度も繰り返していますが、それを「評価」したり「感想」を述べたりすることは可能です)。

というのは、「しかじかの理由からCはDすべきである」という主張そのものは、論理的構造をもっており、反証可能であると思いますが、「CはDすべきか否か」という判断は、「Eという理由CはDすべきである」「Fという理由CはDすべきでない」「Gという理由CはDすべきである」・・・といった結論について、その説得力や重要性を評価した上での主観的な判断であって、たとえそれが客観的な「尺度」に従った評価であっても、尺度の選択自体にも主観的判断が入り込む余地があるため、反証が不可能です。

たとえば、「出かけるときはかさを常時携帯するべきか否か」という判断を、「急に雨が降ったときに濡れずに済むので携帯すべきである」「かさを持っていると心筋梗塞の危険が高まるので携帯すべきでない」「かさを携帯すると邪魔になるので常に携帯すべきではない」という3つの項目を考慮して、「出かけるときはかさを常時携帯するべきとはいえない」という判断をした人がいたとします。

この場合、「かさを持っていると心筋梗塞の危険が高まるので携帯すべきでない」というのは、恐らく誤りで、反証も可能でしょうから、それを指摘することはできます。また、「かさを携帯すると邪魔になるので常に携帯すべきではない」ということについては、「折りたたみのかさを利用すればよい」という指摘によって、最終的な判断の際の重要度を下げることができるかもしれません。

しかし、それらの指摘を行った上で、最終的にどう判断するかについては、判断する人の主観に任せるほかありません。

/* 「・・・するべきである」という認識と、それを実行するか否かの間にも多少の問題があり、たとえば「私はかさを常時携帯するべきではないと考えているが、かさを携帯するという行為に愛着を感じているのであえて常時携帯する」という判断に対して、「携帯するべきでないのだから携帯をやめよ」と命じることは難しいと思います(何度も何度も繰り返していますが、それに対して評価を加えたり非難を表明するのは各自の自由でしょう)。

また、実行に関して言えば、程度の問題(「ぜひ・・・するべきである」「できれば・・・するべきである」など)もあり、やはり個人の評価が決め手になる問題であるといえます。さらに、条件が変われば(たとえば、ものすごく小さく折りたためるかさが発明されるとか、かさ置き場のない場所へ行く必要ができるなど)結論も変わってくるので、ますます複雑になります。 */


分けて書きます 投稿者:ゆう  投稿日: 3月20日(木)07時39分54秒

なぜ議論の焦点がDOCTYPE宣言に集まるのか、今ひとつ理解できませんが、「DOCTYPE宣言の記述された文書は、決りとしてSGML或はXML文書として妥當でなければならない」というは、あくまでSGMLやXMLの「仕様」であって、SGMLやXMLと同じ表現でマークアップ言語の種類を表記する(仕様を公開しない独自の)言語を作ってはならないということにはならないように思います(そういう紛らわしい言語を流通させられては迷惑する人もいるでしょうが、まさか早い者勝ちとも思えません)。

「<!DOCTYPE・・・>」という表現を持ち出したのは、たまたま言語の仕様を宣言する書き方としてそれを思い出したからというだけで、「<--DOCTYPE my markup langage -->」でも構いませんし、なんなら「<--DOCUMENT TYPE ="Handmade Text mark up Langage"-->」として、2行目を「<HTML>」としても構いません。こういう仕様の言語を勝手に発明することは、誰にも禁止できないはずです(迷惑だからやめてくれと「お願い」したり、「迷惑をする人がいるからそうすべきではない」と指摘することは可能ですが)。


修正の仕方 投稿者:とほりす  投稿日: 3月20日(木)06時06分25秒

ご存じない方が多いやうですが、下の「管理者メニュー」ボタンをパスワード無しで押すと、自分の投稿文書を修正、削除できます。
編集済


訂正。 投稿者:死郎  投稿日: 3月20日(木)01時55分34秒

 違和感を感じない/感じています → 違和感を覚えない/覚えます

 もっと推敲してから[投稿]ボタンを押すべきだと反省してます。

 『システマティック』ってなカタカナ語もなんだかな。どう言い換えるべきでしょうか。
『整然と組織化された』くらいか。
 『スマート』は……大目に見てください……。


『ヴ』 投稿者:死郎  投稿日: 3月20日(木)01時45分10秒

> 昔から「ヴ」という表記に違和感を感じています。

 僕も“素人”さん同様、違和感を感じないんですが、

> LとRの区別は付けないのに、BとVの区別を付けるのも不思議ですし、

 この点について、せっかく『ヴ』と書いてあっても発音を『ブ』と区別せずに読む人が多く、
そのことのほうに若干の違和感を感じています。

> どうしても区別したいのであれば、FとHに準拠して
> ブァ、ブィ、ブゥ、ブェ、ブォとすればいいことです。

 『フ』を fu と書くから、その濁音で vu ということなんでしょうけども、『ブ』は既に
bu と読まれていますからね。『ブゥ』で vu とするという取り決めは感覚的に受け入れ難い
ような気がします。bu に u を加えても bu もしくは buu となりこそすれ vu にはなりそ
うにない――と(意識下の)推論を働かせてしまって。それに比べれば『ヴ』という新たな表
記を導入するというのはスマートな手段に思えます。

> 「v」の音については、正仮名で書くときには(私ひとりで勝手に)「ワ行の濁音」として扱っています

 ゆうさん独自の仮名遣いがどうこうはともかく、この点、音声学的には真っ当なんじゃな
いでしょうか。

> 私が韻文で用いることはまずありませんので、今のところ新しい仮名を発明してやろうという計画はありません。

 『ティ』や『トゥ』『ツァ』『スィ』などを一字で表わせる仮名があれば、そもそも小書き
の“ァィゥェォ”なんてのは要らなくなり、『トゥシューズ』だの『キティホーク』だのいう
おかしな表記もなくなると思うんですけどねー。

 僕もそんなことを思ってシステマティックな仮名表記を追求したところ、既に日本語の枠を
外れて『ワナム文字』なる奇妙なものができてしまいました。フォントなんかも作ったんです
けど、今のところ未発表だったりします。
 現在、架空言語『ワナム語』を構想中……。

http://home3.highway.ne.jp/~shirou/


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月19日(水)23時49分45秒

> そもそも、HTMLの書き方が正しいか否かという問題を回避したければ、先頭行に「<!DOCTYPE my HTML>」(「my」の部分に自分の名前を入れる)などと書いておけば済むような話だという気もしないでもありません(完全な「マイスタイル」ですね)。

こういった不正なDOCTYPE宣言を行うことによって、いったい何が「済む」のでしょうか。
不正なDOCTYPE宣言をしても、不正な文書が正しくなるわけではありませんし、そもそも、正しいHTMLを書くつもりがないのなら、最初からDOCTYPE宣言などする必要はありません。

「マークアップの仕方がValidかどうかという問題を回避」するため、「XMLやSGMLの仕様」に従わない「独自のマークアップ言語で記述」することを仮定しておきながら、DOCTYPE宣言という「XMLやSGMLの仕様」に基づいた記法を持ち出すのはいったいなぜなのか、ゆうさんがしたいことはわけがわかりません。


(無題) 投稿者:古林寛  投稿日: 3月19日(水)23時22分37秒

DOCTYPE 宣言で、 <!DOCTYPE my .... > というのはあっても構わないのですが、必ず DTD のどこかで my 要素なるものが正しく宣言されていなければなりません。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月19日(水)21時45分53秒

「意図からは外れます」とゆうさんはおつしやいますが、DOCTYPE宣言の記述された文書は、決りとしてSGML或はXML文書として妥當でなければならないのです。そこに「私の意図」が介在する餘地はありません。「マイスタイル」を實現する手段として、ゆうさんのおつしやつた事は根本的に間違つてゐるのです。

「こういった希望」云々については、「ネタにマジレスされた」としか言ひやうがないので以下略。

言葉遣ひの正しさを、個人の判斷で決めつけられたら、堪りません。既に私はその被害に遭つてゐます。だから私は「歴史的な経緯や学者の意見」に基いて、客觀的に判斷すべきである、と言つてゐるのです。

ちなみに、「眠いです」等に關しては、以前に問題になつて、その時私はその言ひ方が正しい言ひ方である事に氣附いてゐるので、確信犯的に今囘も「眠いです」と言つてゐます。それを一々咎め立てして好い氣になつてゐる人がゐるから、私は腹を立ててゐるのです。
と言ふか、私が意圖的に使つてゐる言葉遣ひを、不用意に使つてゐると勝手に判斷して、非難する人が澤山ゐるのですが、非常に不愉快です。

別に「良いです」と言つたつて良いぢやんと思つてゐるのですが、そもそも「良いぢやん」式の言ひ方に違和感を覺える人がゐるらしい。「○○ぢやん」と云ふ言ひ方は、うちの邊では當り前の言ひ方なのですが。そもそも、それだから「良いです」式の言ひ方に、私が違和感を覺えないのかも知れません。「ぢやん」は方言らしいですね。


訂正 投稿者:ゆう  投稿日: 3月19日(水)18時08分50秒

「この用法を提案をどこかでした」ではなく「この用法の提案をどこかでした」です。
見苦しい点がありましたことをお詫びします。


(無題) 投稿者:ゆう  投稿日: 3月19日(水)18時03分52秒

>自分でDTDを書いて、獨自のDOCTYPE宣言を記述すれば、「マイマーク附け言語」による獨自仕樣のSGML或はXML文書を公開出來ます。

それはその通りなのですが、それをやってしまうと、マークアップの仕方がValidかどうかという問題を回避できないので、私の意図からは外れます。

/* 普通の話し言葉でも、これは「オレ語」だと宣言した上でものを言う人はいます。これをどう扱うかは、その人一人しか使わない言い方の場合、その人の属しているあるグループ内でしか使わない場合(浜言葉とか医者の俗語とか2ちゃんねる用語とか)、その人の住んでいるある地方でしか使わない場合(いわゆる「方言」)などさまざまで、まさに程度の問題になります(一般に知られていない言い方を公共の場で用いられると不便だという指摘や、俗語で話されると不快だという感想の表明はできても、これを間違っていると断ずるのは難しいように思います)。 */

マークアップ言語に関して言えば、DTDでタグを定義して云々という考え方自体、XMLやSGMLの仕様のひとつに過ぎないわけですから、独自のマークアップ言語で記述を行おうとする人すべてがそれに従うわけではないはずです。


>さう云ふ人には、近寄らないでいただきたいものです。私の目の屆かないところで勝手に騷いで下さい。

僭越ではありますが、こういった希望を表明することは、心情としては理解できますが、あまり効果的でないように思います。もし「さう云ふ人」というのが「まともに話をしても無駄な人」という意味であれば、まともにお願いをすることもまた無駄なわけで、そのような人に近寄らないでもらうためには、技術的な対応が必要になると思います。

というよりも、近寄ってもらいたくない人がいるのであれば、Web掲示板をパスワードもつけずに公開するのは止めておいた方がよさそうに思えます(「どのような人がやってくるかわからない」のがWebの前提ですから)。パスワードをつけなくとも、せめて、Proxy経由のリモートホストを弾いて(例外を設けないと困る人もいるでしょうが)、かつ「近寄らないでいただきたい」人のIPを弾くような設定にしておけば、かなりの効果があるのではないでしょうか(これで、明日になって私自身がこの掲示板に出入りできなくなっていたら少々落ち込みますが)。

実際にアクセス制限をかけた場合、「痛いところを突かれて都合が悪くなったから締め出しをかけた」などと言いふらす人もいるかもしれませんが、他人の評判など自分がどうこうできるものではありませんし、風評を撒き散らしたがる人はこちらが何をやろうと同じことをするので、気にしても仕方がないように思います。


ついでになりますが、ある言葉遣いが正しい(あるいは適切である)かどうかというのは、個人の「判断」によって決定されるので、それを論理的に証明するのは不可能なように思います。

たとえば「私の食器はすべからく金属製だ」と言ったとして、これを「すべからくは条件節と対応して・・・せよの形で用いるのが本来の用法だ」とか「辞書に”すべて”の意味で用いるのは誤用だと書いてある」と言ったところで、それらの歴史的な経緯や学者の意見を無視して言葉を用いてはならないということは誰にも言えません(そのような「態度」に非難の意を表明するのは各自の自由ですが)。

もちろん、態度や判断に対して論理的な批判をすることが不可能だとは申しませんが、態度や判断を批判するときは、必ずその人の自己矛盾を追求する形になるはずです(「甲の場合にはこれこれの判断をしているのに、乙の場合にはしかじかの判断をしており、これは矛盾している」とか「こちらがこれこれの態度を求めているのにしかじかの態度をとっている」など)。


/* 「v」の音については、正仮名で書くときには(私ひとりで勝手に)「ワ行の濁音」として扱っています(自分で勝手に用いている仮名遣いを「正仮名」と称するのは変だということに今気づきましたが、他に適切な呼び方が思いつきませんので便宜的にこう呼ばせてください。要するに歴史的な仮名遣いを基にした私独自の仮名遣いです)。かなり前にこの用法を提案をどこかでした記憶がありますが、どこだったか覚えていません。

歴史的仮名遣いを定めるときに「ワ行のう」を「ア行のう」と区別しなかったのは、(やむを得ないことではありますが)結果論的に失敗だったのではないかと思っています。手書きであれば仮名字母を変えるなどして区別することも可能かもしれませんが、基本的に外来語でしか用いない音であり、私が韻文で用いることはまずありませんので、今のところ新しい仮名を発明してやろうという計画はありません。 */


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月19日(水)14時54分52秒

母音に濁点という表記は本来あり得ないはずですが、ただ英語のv、ドイツ語のwの発音に相当する子音[v]が日本語には存在しないので、それをヴとでも表すほかなかったのでしょうね。

私自身はこのヴという表記に全く抵抗を覚えません。GATさんが知りたい由来に関しては存じませんが、カタカナで[v]をヴと表記するとはなかなか巧いと思います。感じ方の問題ですから、人それぞれでしょうけれど、、。
編集済


「ヴィ」と「ヰ」 投稿者:義珍  投稿日: 3月19日(水)09時27分50秒

> 「母音に濁点」という表記の由来を教えていただけませんか?

鴎外の『ヰタ・セクスアリス』の「ヰタ」は「ウィタ」と読むのが通例になっているようですが、「これはラテン語の"vita"なのだから、鴎外本人は『ヴィタ』と読ませるつもりだったのではないか」というようなことを井上ひさしさんが書いていたと記憶しています。
あまり関係ないかもしれませんが、ご参考まで。


睡眠時無呼吸症候群 投稿者:Akimbo  投稿日: 3月19日(水)06時32分23秒

 わたしも最近自分がそうなのではないかと思うようになりました。昔から、何をやっても(特に仕事中)眠かったのですが、睡眠時無呼吸症候群の話を聞いて腑に落ちた次第です。

 ちなみに、阿佐田哲也全盛時代には、自分はナルコレプシーに違いないと考えていました。

 その前には、「これは心身症だ。仕事のストレスが眠気となって私を襲うのだ」と思っておりました。


違和感 投稿者:GAT  投稿日: 3月19日(水)04時55分06秒

昔から「ヴ」という表記に違和感を感じています。
LとRの区別は付けないのに、BとVの区別を付けるのも不思議ですし、
どうしても区別したいのであれば、FとHに準拠して
ブァ、ブィ、ブゥ、ブェ、ブォとすればいいことです。
パソコンでも「ヴ」なら1文字ですが「う゛」なら濁点だけで1文字分、
合わせて2文字になるので、外来語専用のようですが、
「母音に濁点」という表記の由来を教えていただけませんか?
編集済


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月18日(火)23時39分06秒

えーっと、また他人の意見と同じ事を書くようで恐縮ですが、「譲れるるものに関してはいくら妥協しても構わないけれど、どうしても譲れない点は主張すべきである」と書こうと思っていたところでした。「カエサルのものはカエサルに」とは言いえて妙です。

また職業について私が思うこと。大学(高校や大学院、否、中学だって別に構わないけれど)を卒業しても何もしたくない何にもなりたくない、という気持ちは私にはとてもよく分ります。そして、それが可能なら実践すればいいと思うのです。定職に就かないことの何が悪いのか、と逆に問いかえしたいですね。それが人間の本質に関わることだとは到底おもえません。但し、これは個人的に思うことで、野嵜さんが何をなさっているのか私は知らないし、職業なんかどうでもいいと思っている人間だから、興味もありません。そんなことは野嵜さんの主義主張とは何のかかわりもないことだと思います。
編集済


ご無沙汰しています。 投稿者:渡邊利道  投稿日: 3月18日(火)23時01分02秒

どうも。たびたび日記で言及してくださって、ご心配をお掛けしましたが無事退院しました。
さすがに今回は死ぬかと思いましたが、救急車でかつぎ込まれた病院で発砲事件があり
お世話になった看護師さんが射殺され、僕は治療が巧くいって助かったわけですから、
紋切り型ですが、人の生き死にとはわからぬものだと思っています。

世間の話題は戦争でもちきりですが、僕の関心はむしろ戦後にあります。
今度の事態は、この数年見られた民主主義による自由主義の否定といった雲行きの、
ある種の帰結、と僕には思えるのですが
(民主主義/自由主義の概念区分はカール・シュミットを参照)、
基本的に「平和主義」も「抑圧されたものの回帰」としての
「民主主義」的心性に根ざしたものである以上、
言説としては相互補完的な構造を形作ってにっちもさっちもかなくなるであろうことは
容易に予想できるわけです。
十二年前の湾岸戦争で何もできなかった「運動」にいまさら期待は出来ないわけで、
状況は日々悪くなっているわけですが、むしろいまここでこそ
自分の利害/関心(インタレスト)をカッコ入れして再考すべきところだろうと思います。
もっとも、僕は統整的理念としては「平和」はいまも有効だと考えてはいますが。

では、また。


私は人生のアルバイト 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月18日(火)20時58分01秒

なんか私の知らないところでいろいろ設定が立つてゐるやうですがー。

根も葉もない噂を流す連中に、私の批評を非難されるいはれはありません。或は、根も葉もない噂を流すのが「正しい」のなら、「私だけの正しい論理」による批評であつても「より正しい」事になるに決つてゐます。もちろん、私は「私だけ」のものではないユニヴァーサルな論理を根據にしてゐる積りです。そして、根も葉もない噂を流して喜んでゐる連中が、私の論理の穴を的確に指摘した事は一度もありません。

妥協して構はない場面で妥協するのは、問題の無い事です。それを一々咎め立てするのは、する方がをかしいです。
或は、妥協即負けと斷ずるのは、アンチの人逹にとつてのみ「正しい」事であるに過ぎません。それあさうでせう。當然の話です。その點、アンチの人も中村氏も、全く同じ勘違ひをやらかしてゐます。
神のものは神に返せ、カイザルのものはカイザルに返せ、とキリストは言つたのですが、ではキリストは負けたのですか。
妥協してはならない場面で妥協しなければ良い、と云ふだけの話です。トマス・モアは、政治では妥協をし續けましたが、宗教の問題では妥協を拒否し、その爲に死刑になりました。

「眠いです」が駄目なら「眠いにょ」とでも言へば良かつたですか。と言ふか、「形容詞+です」は藝人が實際にギャグに使つてゐたと指摘されてゐるのに、「ギャグだと主張したのには笑ったな」と言つて批判した積りになれる人がゐるんですねえ。主張も何も、歴史的な事實が根據なのに。まあ、私の「です」は、某「しろはた」の影響ですが。

それにしても、私の正しい言葉遣ひを、アンチの人たちはどうして「正しくない」と言ふのでせうね。と言ふか、「正しい」は常に相對的だと言ふ人が、私の言つてゐる事に文句をつけるのは、どう云ふ事なのでせうね。
「形容詞+です」が誤である事を論理的に證明した人は、今までこの掲示板にゐませんでした。逆に、私は、その用法が辭書(『講談社日本語大辭典』)に出てゐる、ときちんと出典まで示してゐるのですが。

世の中には面白い人がいつぱいゐます。さう云ふ人には、近寄らないでいただきたいものです。私の目の屆かないところで勝手に騷いで下さい。
編集済


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月18日(火)18時19分14秒

おやおや、ノズラーのギャグに受けてるヴァカが一人。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月18日(火)17時13分42秒

しかし「眠いです」をギャグだと主張したのには笑ったな。
じゃあ「遅いです」もギャグなのか。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月18日(火)17時10分31秒

 野嵜健秀くんは無職なの?
 心配すんな、俺も無職だ。中村とやらはさぞかし立派な職についておいでなんでしょうな。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月18日(火)08時22分50秒

「妥協」は「負け」の意味だからな。勝ち負けが一番重要だからな。
勝てば正義なんだよ。「論理的に正しい」など、誰も気にしちゃいないんだよ。中村もな。中村もノズラーが勝ち組だと思って尊敬するといってノズラー仲間に入ろうとしたから、俺たちアンチノズラーがこの世の真理を教えてやったんだよ、ノズラーは負け犬だとな。「ノズラー=無職」はアンチノズラーにとっては正しいんだよ。勝ちさえすれば中傷も中傷でなくなるのさ。勝てば正義なんだよ。
編集済


(無題) 投稿者:薄笑斜構  投稿日: 3月18日(火)07時29分52秒

673 :右や左の名無し様 :03/03/17 17:23 ID:???
昔:数の論理だとか利便性だとかで妥協するその態度が大嫌いといっていた心意気だけは富士より高きのずタン

今:「相手に通じないのなら意味が無い」とよーやく気が付いたのか気が付いて無いのか知らないけど
相手に通じるように「妥協」して?「正しく無い」のず字のずかな遣いにチェンジしてしまうへたれのずタン

要するに彼の「論理的に正しい」は哀れにも負けた、て言うか自ら負けを認めて折れたのだ。
未だに負け犬の常で虚勢は張ってるけど。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月17日(月)20時50分47秒

> そもそも、HTMLの書き方が正しいか否かという問題を回避したければ、先頭行に「<!DOCTYPE my HTML>」(「my」の部分に自分の名前を入れる)などと書いておけば済むような話だという気もしないでもありません(完全な「マイスタイル」ですね)。

スタイルではありません。
自分でDTDを書いて、獨自のDOCTYPE宣言を記述すれば、「マイマーク附け言語」による獨自仕樣のSGML或はXML文書を公開出來ます。
既に、そのやうな「マイマーク附け言語」の仕樣は、古林さんが「XHTML Primary」を公開なさつてゐますし、ほかにもあるでせう。
http://www3.sppd.ne.jp/lena/web/xhtml-primary.htm

「手書きの原稿をスキャンして公開」は、當方で既にやつてゐます。
http://noz.hp.infoseek.co.jp/Ronrigaku/

ゆうさんとは別のyuuさんが、今發賣中の雜誌「WebSite Design」Vol.7に「そろそろスタイルシートで」と云ふ良い記事を書いていらつしやいますね。
編集済


話の腰を折るようですが 投稿者:ゆう  投稿日: 3月17日(月)18時23分42秒

もう少し続けさせてください。

>反語とか皮肉としてなら「じゃあ、サイトまるごとPDFにしたら?」という意見はたまにみかけます
私も、HTMLで縦書きをしようと四苦八苦していたころに、「そんなにこだわるのなら手書きの原稿をGif画像にでもすればよいではないか」という趣旨の皮肉を言われたことがあります。当時は、ネットワークやコンピュータの性能が今ほどはよくなかったので、これはあまり現実的な考えではありませんでした。が、現在の状況なら、十分検討に値する選択肢になっていると思います。

そもそも、せっかく日本語で韻文を書いているのに、それを活字でしか読めないというのは非常にもったいないことです(私にとっては)。実際、以前知り合いに頼まれてウェブサイト(現在は閉鎖されてしまっていますが)の作成を代行したときには、散文詩をスキャナで読み取って掲載していました。あまり性能のよくないスキャナを使用したため、多少見苦しい部分はありましたが、毛筆の達者な方だったこともあり、それなりの見栄えにはなっていたと思います。

ただ、これとは矛盾しますが、できる限り自分の思い通りの形で文章を掲載したい一方で、データの配信方法に技術的に合致しない人が文章を閲覧しにくくなるというのは、非常に残念なことです。このため、(先ほど挙げた友人のサイトでは、本人の意向により画像ファイルだけでの配信でしたが)場合によって閲覧が難しそうなファイルについては、テキスト版も用意するようにしています。

/* そもそも、HTMLの書き方が正しいか否かという問題を回避したければ、先頭行に「<!DOCTYPE my HTML>」(「my」の部分に自分の名前を入れる)などと書いておけば済むような話だという気もしないでもありません(完全な「マイスタイル」ですね)。<HTML>自体を取り払って<--DOCTYPE my markup langage -->などとした方が徹底していますが、古いブラウザで読み込んだときに支障が出そうです(きちんとエスケープされるかどうか不安なので「<>」を全角で書いてあります)。 */

これは仮名遣いについても同じことが言えますが、判断とか選択とか評価といったものに対して影響を与え得るのは「提案」のみであるように思います(もちろん、相手に「理解」が不足している場合には「説明」や「指摘」が必要になりますが)。

たとえば、わざわざ肉をこそぎ取ってまでまぐろの中落ちを食べるのはばかげていると判断している人がいたとして、この人の判断が変わるとしたら、誰かが中落ちのおいしい食べ方を提案したときであると思います。もちろん、この人が中落ちがどんな食べ物であるか理解していなければ(あるいは誤解していれば)、それを説明したり指摘したりすることによって判断が変わるかもしれません(中落ちは栄養価が高い、とか)。

一応断っておきますが、この「提案」や「指摘」は実生活での実践とは直結しません。料理法を考えて提案するだけでも、(たとえ提案者が実生活でほとんど中落ちを食べていなくても)まったく問題ないはずですし、中落ちの栄養価について指摘するために中落ちを普段食べていることが条件になることもない(それどころか、中落ちを食べた経験がある必要すらない)はずです。


(無題) 投稿者:渡辺  投稿日: 3月17日(月)01時23分24秒

闇黒日記3/14「〜と、私が言っても信用されないのならば、山本夏彦も言っている」
爆笑しました。この言い回し、自分もいつか使いたいと思っていた!


論理的と云ふ事 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月16日(日)22時16分45秒

「(自称)論理的に正しい」つて何なのでせうね。「論理」にしろ「正しい」にしろ、「自称」するものではないと思ひますが。

私の言つてゐる事が論理的に間違つてゐるのなら、その間違ひを指摘すれば良いだけの事です。私の論理の間違ひを指摘出來ないのなら、私の論理はユニヴァーサルな論理であると云ふだけの話です。野嵜が主張してゐるから野嵜の理論は「野嵜だけの理論」である、と云ふ理窟は、成立ちません。當り前の話です。

まあ、「野嵜だけの論理」を批判する人が「自分だけの論理」で私(野嵜)を非難するので、世の中は面白いのですが。
編集済


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月16日(日)14時41分52秒

英語をむやみに使わないようには心がけていたつもりでしたが、無意識に使ったようです。また義珍さんの意見に賛意を示すと同時に、中村さんの投稿の意図がわからなかったので書き込んだまでです。格別な目的あって書いたことでもありませんし、どうしても中村さんの意図が知りたいわけでもありません。ところが、そんな投稿があなたに不快感を与えたようですので、迷わず削除いたしました。不愉快な思いをさせた点、お赦し下さい。
編集済


retrospective 投稿者:義珍  投稿日: 3月16日(日)13時21分53秒

素人さん

> あなたの3月8日の投稿を読んでretrospecitveに思ったことですが、

無闇に英語を使うのはやめたのではなかったのですか。

というか、

> 例によって義珍さんに賛同します

賛意を示すだけで、ご自身の創意をつけくわえるのでなければ、わざわざ投稿する必要はないと思いますが。


(無題) 投稿者:薄笑斜構  投稿日: 3月16日(日)09時57分12秒

671 :右や左の名無し様 :03/03/15 23:51 ID:???
んで自分は他人のページの気に食わない内容はアタマから嫌味たらしくネチネチと
反論更新(書き込み)するのな。

相手が不快になる嫌がらせ批判は「(自称)論理的に正しい」から問題ないらしい。
典型的な相手を見てない自己中オタクだな。


(無題) 投稿者:プラトソ  投稿日: 3月16日(日)08時57分03秒

中村様は「2ちゃんねる」を御存じでなかつたけれども、
初回の書き込みでは串を指すことを忘れてゐなかつたんですね。
二回めではIPアドレスがむき出しなのは如何してでせうか?


(無題) 投稿者:とほりす  投稿日: 3月16日(日)05時11分38秒

 無職の人間には「社會生活」が無く、更に「社會との接點」も無いといふ論理は何處から出て來るものなのか。それとも中村氏は、無職の人間は社會生活を營むな、要するに「氏ね」と云ひたいのか。中村氏は實は「2ちやんねらー」ではないのか。
 それにしても、この掲示板を「接點」として實際に言葉を遣り取りしてゐる相手に向つて、その「接點」が有るのか無いのかを問ひかけてゐるといふのは實に滑稽である。


つれづれに一首 投稿者:波江究一  投稿日: 3月15日(土)19時36分20秒

日本語の為
やれば出来る
技を備へむ
願ひ置く杖
彩り和えよ
今日見し有為路
揺らす瀬沼も

にほんこのためやれはてきるわさをそなへむねかひおくつゑ
いろとりあえよけふみしうゐちゆらすせぬまも

投稿者のにハンドルを歌ひ出しにお借りして。


(無題) 投稿者:プラトソ  投稿日: 3月15日(土)18時02分13秒

中村昌弘樣はソクラテスに関しては如何お考へでせうか。
彼は空理空論を述べてゐただけなのでせうか。

い樣は、「野嵜健秀は、戰爭を起こしたくないと本當に思つてゐるのなら」と假定して
をられるやうですが、もう一方の假定、即ち、野嵜樣が「戰爭は起こつても構はない」
と考へてをられたら如何なのか、について書いてゐないのは奈何?
それとも、煽りに見せかけた援護彈?


空理空論 投稿者:  投稿日: 3月15日(土)17時50分10秒

「平和の愚かさ」等と、どうして野嵜健秀は平氣で言ふのだらう。「平和は愚かな事である」と云ふ教育を日本の教育者はしないのかと、どうして野嵜健秀は疑問に思うのだらう。
そんな事を言はれれば、平和は惡くない、と信じてゐる人は、野嵜健秀に馬鹿にされたと感じて怒るだらう。
そして、それが原因で戰爭は起きるのである。野嵜健秀は、戰爭を起こしたくないと本當に思つてゐるのなら、「平和は愚かである」と云ふ宣傳をやめるべきである。
換言せば、野嵜健秀はどうして平和主義者を一々苛立たせ、人と人との間に對立を生み出すやうな言動を繰返すのだらう。
はつきり言つて、野嵜健秀は、平和主義者を馬鹿にして快を貪り、反省した積りになつて一人で悦に入つてゐるのである。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月15日(土)17時33分16秒

論者の人格や社会的立場と、その論の価値や真偽は別物だと思いますが。
(真偽や価値の判断が困難な場合、論者の人格や社会的立場を判断の助けにせざるをえないことはありえますが)
野嵜さんが無職だと、このサイトが空理空論になる、という理屈はどこからでてくるのでしょうか。


ご返事ありがたうございました 投稿者:中村昌弘  投稿日: 3月15日(土)14時21分46秒

>期待していただいてゐるやうで申し譯ないのですけれども、
>私は實生活では隨分妥協をしてゐます。正字正かなを使つ
>て、大學を卒業出來なかつたとか、仕事を首になつたとか、
>さう云ふ「武勇談」は、ありません。

ご返事いただきありがたうございました。私は「妥協」が悪いなどとは
一切考へてゐません。むしろ現実と理想のギャップを知ることはプラスに
なることだと考へてをります。
 
 ところで先日の書き込みをしたのち友人から(とは言つてもネット上のみ
での知り合ひですが)、野嵜さんは「2ちゃんねる」上では有名人で
いろいろ言われてゐる人だ、とのメールをもらひました。

 友人が指摘した「2ちゃんねる」の掲示板を見ると、いろいろ
書かれてゐます。大部分は読んでいて胸が悪くなるやうな内容で、私まで
馬鹿にされてゐるのには驚きました。ここで取り上げるのに不適当だとは
思ひましたが、野嵜さんが無職だ、との書きこみがたくさんあつたことだけは
気になります。それが本当ならば野嵜さんはかなづかひを実生活で
実践するどころか、そもそも社会生活がなく、ネット上での空理空論を述べて
ゐるだけの人だ、といふことになるからです。

 繰り返し申しますが、私は妥協が悪いなどとは一切考へてをりません。
ただ、言葉が社会との接点である以上、社会との接点なくしては仮名遣ひど
ころではないと考へてをります。
 失礼な質問だとは思ひますが、お許しください。
無職といふのは本当でせうか?


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月14日(金)22時14分35秒

と言ふか、うちのサイトはISO/IEC 15445:2000準據なので……。

>どうしても自分の思い通りに表示させたいページについては、MSWordファイルとテキストファイルを用意するなどしていましたが、

Wordですが、Windowsに導入されてゐるフォントとプリンタドライヴァによつて、データの「表示」が變ります。Word文書は、どこでも同じやうに「表示」される譯ではありません。

ちなみに、私の場合、趣味で物を書くときには、「自分自身に讀ませること」を第一の目的としてゐますので、自分のブラウザでどのやうに表示されるかはそれなりに深刻な問題です。その次に重視してゐるのは、より多くの他人に「自分が見てゐるものとできるだけ同じ物を見せる」ことで、だからこそ、W3Cが取り決めている事柄に注意を拂つてゐます。
CSSによつて指示された整形規則は、原則として、全てのCSS對應のブラウザが同等に實現する事になつてゐます。「自分が見てゐるものとできるだけ同じ物を見せる」には、CSSで整形規則を記述しておくのがベストであると思ひます。もちろん、CSS未對應のブラウザは、CSSによる整形規則を無視しますが、ただ單に自分のデフォルトスタイルでHTML文書を整形するだけです。HTML文書自體が適切に記述されてゐれば、そのブラウザを使用してゐる全ての閲覽者にとつてベストの状態で讀んで貰へます。それで十分だと思つてゐます。何も、全ての人にとつてベストなものである譯でもない「マイスタイル」を、わざわざ他人に押附ける事もなからうと。
編集済


鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん(ちょっと違うか) 投稿者:義珍  投稿日: 3月14日(金)19時25分08秒

> いくらW3Cが認めていても、きちんと「実装」されていない方法「だけ」で出典を示すのはあまりよいことではないように思いました。

どうも「HTMLはブラウザの表示を制御するための言語」という誤解が抜け切れていないようですが、HTMLの本体は、ブラウザに表示された状態ではなく、マークアップされたテキストそのものであり、ブラウザに表示されているのは、マークアップされたテキストをもとにした二次的な産物にすぎない……という立場からすれば、「ソース(マークアップされたテキスト)に明示してあれば問題ない」という考え方も成立しうると思います。
(実際に訴訟に持ち込んだ場合、この理屈で裁判官が納得してくれるかどうかはわかりませんが)
たしかに、マークアップを取り払った生のテキストにも出典を明示した方がアクセシビリティは高いと思います。以前、こちらの掲示板にも書きましたが。

> 最近は、サイトを丸ごとPDFにしてしまうのが一番早いのではないかと思っています (かなりの名案だと自分では思っていますが、まだ取りかかっていません)。

名案というか、反語とか皮肉としてなら「じゃあ、サイトまるごとPDFにしたら?」という意見はたまにみかけますが。
まあ、「自分が見ているものとできるだけ同じ物を見せる」のが目的であれば、HTMLよりもずっと適切だと思います。
HTMLで「自分が見ているものとできるだけ同じ物を見せ」ようとするのは、たとえていえば、カッターナイフで魚をさばくようなものですから。


W3Cの非 投稿者:古林寛  投稿日: 3月14日(金)12時51分13秒

実装に関する考慮を全くせぬまま仕様自体を肥大化させている W3C にも、罪がないとはいえないでしょうが。


返信が遅くなりました 投稿者:ゆう  投稿日: 3月14日(金)11時04分34秒

>自分のブラウザでどのように表示されるかを重視するよりも、正しく、整合性のある記述をした方が好ましいと思います。

HTMLについては、一通りの勉強はしたつもりでいますが、私の場合、趣味で物を書くときには、「自分自身に読ませること」を第一の目的としていますので、自分のブラウザでどのように表示されるかは深刻な問題です。その次に重視しているのは、より多くの他人に「自分が見ているものとできるだけ同じ物を見せる」ことで、W3Cが取り決めている事柄にはほとんど注意を払っていません。また、欧文中での全角括弧の利用は、現在は行っていません。

/* 以前どこかで、野嵜氏の引用の仕方を批判している人がいて、それに対し野嵜氏が「W3Cの仕様にのっとった方法で出典を示しているから問題ない」という回答をしていたのを見たことがありますが(もし記憶違いでしたらごめんなさい)、いくらW3Cが認めていても、きちんと「実装」されていない方法「だけ」で出典を示すのはあまりよいことではないように思いました。

W3Cが、世界中の国の法律をきちんと調べたうえで、それを考慮して仕様を決定しているのかどうか、私は知りませんが、日本の法律では、引用者に出典がわかるよう明示する義務がありますので、W3Cがなんと言おうと、閲覧する環境に左右されないような方法で「も」出典を示しておくのがより良いやり方のように思います。自分自身は、ろくに出典も示さずに引用をすることがしょっちゅうあり、野嵜氏の引用の仕方はかなり丁寧な(かつ正しい)ものだと思いますが。 */

以前は、それぞれのブラウザに合わせたHTMLを用意し、ブラウザを自動判別して、さらに自動判別に漏れたブラウザ用のページも用意するといったことに挑戦したこともありますが、結局挫折してしまいました。どうしても自分の思い通りに表示させたいページについては、MSWordファイルとテキストファイルを用意するなどしていましたが、最近は、サイトを丸ごとPDFにしてしまうのが一番早いのではないかと思っています(かなりの名案だと自分では思っていますが、まだ取りかかっていません)。


さうですね 投稿者:日本語のために  投稿日: 3月12日(水)00時31分19秒

こんにちは。

コンピュータの漢字フォントの問題は、伝統を重視する立場から見るとまことに暗澹たるものです。さう言はざるを得ません。「源氏」から「野火」まで日本文学の世界で伝統的に使はれてきた漢字。様々な技術分野で専門用語として使はれてゐる(ゐた)字。世俗的な新聞や雑誌に用ゐられゐる文字。文字フォント(JIS規格)は、さういふものを真面目に検討して作られたものとは到底思へません。そもそも文字セットが工業規格で定められてゐること自体が、日本語の置かれた状況を端的に表してゐるのではありますまいか。更にいへば、「あ行とわ行にまたがる五段活用」とは一体なんですか。これが日本文法なのでせうか。日本語文法において何より大事なのは五十音に基づく活用ではなかつたのでせうか。

けれども、文化と伝統についての考へを持たない人達は、我々のことを過ぎたことをむしかへす過去の遺産のやうに思つてゐるに違ひないのである。
本当は今の日本語の混沌とした状況は、過去、現在、未来の日本語のためには忌々(ゆゆ)しき事態であるにもかかはらず。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月11日(火)01時26分15秒

をかしくなつてきた、と言ふより、もともとをかしいのです。

文字コード關係の問題は、調べれば調べるほどややこしくなつてゐて、どうやら調べるのを斷念させる爲にややこしいものになつてゐるとしか考へられません。
「現代仮名遣い」や「常用漢字」も不必要にややこしく、批判するのも面倒極まるものになつてゐます。
それで、今まで批判は封じ込まれて來たのではないですか。

と言ふか、一貫した方針もナシに、ただ行當りばつたりで文字の表記やコンピュータ用の文字コードを決めてきたから、日本人はいまさら困つてゐるのではないですか。まあ、困つてゐない人も多いやうですが、さう云ふ人逹の目に困つてゐる人間は馬鹿にしか見えないやうです。


字体 投稿者:日本語のために  投稿日: 3月11日(火)00時16分19秒

当用(常用)漢字は言ふに及ばず、表外漢字までパソコンのフォントがをかしくなつてきましたよね。
「日本文化に貢献した森「鴎」外に対する冒「涜」だ。」とか。「桧」とか。
不快な字が横行してゐて、雑誌しか読まない人達は、さういふ表記が正しいと思つてゐるらしいのが、恐ろしい。

http://www.fontworks.com/typography_jiji_1998_076.html


なつかしいですねー 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月11日(火)00時10分17秒

Yahoo!にはIDを削除されたので、書込めませーん。原因は某JT職員。


こんにちは。はじめまして。 投稿者:日本語のために  投稿日: 3月11日(火)00時07分57秒

こんにちは。
YAHOOの掲示板で孤軍奮闘してゐます。同志の方、ひやかしに来てください。

投稿者名で判るとほり、丸谷才一の影響を受けたものです。
今から思ふと遠い昔のことですが、学生時代に「私の國語教室」や、時枝誠記さんの著作も読み、石川淳さんの「狂風記」に正しい日本語の美しさを発見し、当時、正字正仮名が読書きできるやうに勉強しました。
コンピュータのフォントの理由から、正字表記することは諦めてゐますので、略字正仮名にしてゐます。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000003&tid=ffckdc8la4na4bfa4aa4ka1aya58ea4nta28l2fe3wa4khbfut&sid=1000003&mid=1&type=date&first=1


どうもありがたうございます 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月10日(月)23時38分42秒

昨年6月、既に.infoに移轉してゐたと。

たまには登録済みのサイトを上から全部見てまはつて、現状を確認するとかしないといけないんでせうがねえ……最近はリンク集のメンテナンスをする氣力もない状況で。


The Archives of Herbert von Karajan 投稿者:su  投稿日: 3月10日(月)12時23分36秒

http://members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/Computer/XHTML.html
にリストアップされています、The Archives of Herbert von Karajanですが、
http://www.karajan.tv/
から
http://www.karajan.info/
へ移転したそうです。というか、karajan.tvのドメインを3月8日づけで手放されたそうです。ご参考までに。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月 9日(日)12時30分16秒

話の本筋とは無関係ですが。

> 以前は、HTMLをブラウザで表示したときの半角括弧が大嫌いで、欧文でも全角括弧を使っていました

『言葉 言葉 言葉』だけでなく、『PC Tips』もお読みならごぞんじかと思いますが、HTMLがどのように整形されるかは読み手の環境によって異なり(この場合はフォントの種類の問題ですね)、たとえ正しいHTMLとCSSを用いていても、どのように表示されるかを完全に指定することはできません(そしてこれは、「やむなくできない」のではなく、「できない方がのぞましい」のです)。
たまたま自分のブラウザで美しく表示されないだけで、他のブラウザでは美しく表示されているという可能性もありますし、逆に、自分のブラウザで美しく表示されていても、他のブラウザではそうではない可能性もあります。
ですから、自分のブラウザでどのように表示されるかを重視するよりも、正しく、整合性のある記述をした方が好ましいと思います。そして、欧文の中に全角括弧を使うのは、誤りとは言い切れませんがが、整合性を欠くと思います(日本語の文章ではないのに、日本語のフォントをインストールしていない環境で文字化けを起こす、という問題もあります)。

まあ、「以前」とおっしゃっているので、すでにこれらのことはすべてご承知なのかもしれませんが、一応。


私的な感想 投稿者:ゆう  投稿日: 3月 9日(日)07時53分56秒

> 略字正かなで
はじめまして。私もよく使う手です。考えてみると、コンピュータ上で正字を使うことはほとんどありません。

> 社会生活上の実践を公開してこそ説得力が増す
> それで何かの役に立つのかと問はれれば、役には立たない、としか答へやうはありません
確かに、正仮名が実生活で役に立つという主張ではなく、”「現代仮名遣い」が色々な意味で間違つたものである”という主張であれば、社会生活上の実践とは関わりがないことになりますね。

しかしながら、私個人としては、(気持ちよく文章を書けるという意味と、自分が読んで気持ちのよい文章を書けるという意味で)「利益」にはなっていると思います(「実利」の部類に入れてよいのかどうか判断の難しい利益ですが、少なくとも精神的な健康にはよいと思います)。ただ、それを実践する「労力」と、世間で大勢を占めている書き方をしないことによる「不利益」(私は下請けの書類書きを商売にしていますので、送り仮名のつけ方まで指定されることもあり、ワープロが正字を覚えてしまうと「実害」につながります)が「利益」を上回るため、普段(特にコンピュータを使うとき)は略字新仮名を使用していますが。

/* ワープロの漢字変換機能が新仮名しか受け付けないのが不快で、はじめてワープロを使い始めたころはいちいち正仮名で読みを記憶させていましたが、何度かOSを入れ替えるうちに根負けしてやめてしまいました(「wi=ゐ」と「we=ゑ」だけは今でも必ず覚えさせますが)。 */

韻文を書くときは、手書きなら正字正仮名で(とは言っても、当用漢字でも認められていないような略字をあえて使うこともありますが)、コンピュータに入力するときも仮名遣いだけは正仮名を用いています。韻文に関してだけ言えば、新仮名は非常に不便です(あくまで私にとっては、の話しですから、理由を聞かれても答えられませんが)。

/* 古典的な文学作品を文庫で出版するときに、正字正仮名から略字略仮名への「書き換え」をするのはぜひやめていただきたい。以前、たしか独歩を読んでいたとき、「・・・するびょうもなく」という表現を見て、げんなりとした記憶があります。まあ全集を買えばよいのでしょうがそれほど金持ちではありませんし。ちなみに、3点リーダ2つではなく中黒3つを使っているのは視覚的にその方が「好き」で、特に労力も使わずに使い分けられるからです(以前は、HTMLをブラウザで表示したときの半角括弧が大嫌いで、欧文でも全角括弧を使っていました)。 */


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 8日(土)20時14分32秒

期待していただいてゐるやうで申し譯ないのですけれども、私は實生活では隨分妥協をしてゐます。正字正かなを使つて、大學を卒業出來なかつたとか、仕事を首になつたとか、さう云ふ「武勇談」は、ありません。

松原正先生が『人間通になる読書術』で、名著を讀んでも實利を得られる譯ではない、ただ私(松原氏)に請合へるのは「この世に充滿してゐる嘘八百を見拔けるやうになる」事だけだ、と書いてゐます。
私は「實踐が大事だ」とは申しません。「現代仮名遣い」が廢止されて、正假名遣が復活する日が來るなどとは全く思ひません。「現代仮名遣い」を使ふな、と言つて、他人に正假名遣を押附ける氣もありません。「現代仮名遣い」を使ふのは世間の大勢であり、世間には抗し得ません。
ただ、「現代仮名遣い」が色々な意味で間違つたものである事は認識しておいて貰ひたい、そして、間違つたものである事を承知した上で「現代仮名遣い」を使はざるを得ないのは仕方がないが、それは殘念な事であるとは思つてゐて貰ひたい、と言つてゐるだけです。それで何かの役に立つのかと問はれれば、役には立たない、としか答へやうはありませんが。

えーと、正しいHTMLでは、喧嘩して仕事をなくした事がありますねー。それで私のサイトの記事の説得力が増したかと言へば、そんな事もないやうな氣がしますけれども。


質問です 投稿者:中村昌弘  投稿日: 3月 8日(土)14時22分44秒

 野嵜さんを以前から尊敬してゐる者です。日本語入力ソフトの制限上、略字正かなで
失礼いたします。
 野嵜さんにぜひお尋ねしたいのは、野嵜さんは仕事場ではどんな仮名遣ひをされてゐる
のかといふことです。

 私はプライヴェートに限らず仕事場でも通常は手書き文書は正かな(ただ正字は手書きが
面倒なので一部略字を採用)、パソコンで打つ文章については日本語入力ソフトの
関係で多くは略字現代かなを採用してをります。
 手書きの文章については正かなを同僚からからかはれることもありましたが、今は上司
も同僚も何も言はず、事実上黙認されてをります。
 ゆくゆくは契沖を買つてすべての文章を正字正かなにしたいのですが、ちよつと
高いので。
 
 野嵜さんの仮名遣ひに関する主張はほぼ全面的に賛成なのですが、野嵜さんがただ
ネット上でかうしたことを主張してゐるだけならば若干弱いやうに思ふのです。やは
り社会生活上の実践を公開してこそ説得力が増すやうに思ひます。
 野嵜さんの社会生活上の正かなへの取り組みをお教へください。


蛇足ながら 投稿者:ゆう  投稿日: 3月 6日(木)10時26分55秒

私はです・ます調の文章の中で「申し上げる」という表現を用いていますが、これは「すでに申したとおり」などとした方がよいのではないかという気もします。いまのところ、「申し上げる」には「申し上げます」というさらに尊敬の強い形があることと、活用形によっては現代人に馴染みの薄い響きになることから、「申す」「申します」「申し上げる」をごちゃまぜにして使ってしまっています。あまりよい使い方ではないかもしれません。ちょっと検討してみようと思います。


(無題) 投稿者:ゆう  投稿日: 3月 6日(木)10時09分22秒

> 後世に名を残す文豪の用例や、国語審議会が正しいことの根拠にならないとすれば、
> いったい何が正しいことの判断材料になるのでしょう?

「正しいことの根拠にならない」とは思いませんし、”参考”のために辞書などを用いることには賛成ですが、「権威者が正しいと言っている”から”正しい」という姿勢には疑問を感じます。私がどのようにして「眠いです」という表現を「間違っているとはいえないが不自然」と判断したのかについては、3/4に書きました。私も言語学はほとんど素人で、恥ずかしいミスもしていますが、一応自分なりに頭を使って「間違っているとはいえない」という結論を出したつもりです。

>本来、です・ますという敬体の中に『ございます』という言い方も含まれていた
「ございます」が「ござる」+「ます」であるのはご指摘のとおりですが、「ござる」自体が「あり」の丁寧形であり、「ねむうござる」でよいところにさらに丁寧に言っている形です(「いたします」「おります」「なさいます」なども同様)。これは単なるです・ます調よりも程度の強い尊敬を表していると判断せざるを得ません。

このため、です・ます調の文章に突然「ございます」が表れると突飛な印象を受けます。もっとも、既に申し上げたように、挨拶語などではです・ますとございますの混在を許していますが。

/* そもそも「ござる」だの「候」だのという言葉自体、(あくまで個人の評価として)上品な言葉とは思えない(「ござる」は敬語としても、「あり」の代用としても、かなり無節操な働き方をします)ので、必要に迫られない限り使いたくありませんが。 */

あとはです・ます調の文章に続けて、どうしても「ねむい」と言いたい場合に、「ねむうございます」と「ねむいです」のどちらがより適切か(もしくは他にもっと適切な表現があるのか)という判断ですが、私なら「ねむいです」を採用します(ございます・いたします調の文章に続けるのであれば「ねむうございます」の方が適切だと思います)。

/* 繰り返しになりますが、最初に申し上げた通り、書き言葉の中では極力避けたい表現です。もし実際に私が書くとしたら、「ねむたいので」などとすると思います */


『〜ございます』という形 投稿者:死郎  投稿日: 3月 6日(木)01時26分25秒

 飛び入り失礼。

> です・ます調とございますを併用してもよいことになっていたのかもしれませんが。

 『併用』というわけではないでしょう。本来、です・ますという敬体の中に『ございます』
という言い方も含まれていたわけで、それを(ゆうさんのように)“丁寧すぎる”と感じる人
が避けようとしたことで『形容詞+です』の形が現れたのではないでしょうか。

 『ございます』は『ござる』という動詞に『ます』という語尾が付いたもので、『ござる』
は『ある』ということ。つまり英語で言うと be 動詞にあたるものです。

●『(私は)眠うございます』 I am sleepy.

 という形が、下のように変わったと。

●『(私は)眠いです』 I sleepy.

 つまりこういう表現を認めたことで、日本語は英語よりも、be 動詞にあたるものが存在し
ないインドネシア語/マレー語のような言語に一歩近づいた、と考えられるかも知れません。
 Saya mengantuk.(サヤ・ムンガントゥッ:私は眠いです。saya 私/mengantuk 眠い)

 と考えてはみたものの、『私は眠い。』という語尾をつけない言い切りの形は元々あったの
で、上の話はあんまり説得力ありませんね。失礼しました。

> 後世に名を残す文豪の用例や、国語審議会が正しいことの根拠にならないとすれば、
> いったい何が正しいことの判断材料になるのでしょう?

 文豪と言ってもピンからキリまでいるし。
 “猫”を新聞連載していた当時の漱石なんか、今で言う吉本ばななくらいの存在だったんじゃ
ないかと思います。

http://home3.highway.ne.jp/~shirou/


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月 5日(水)12時00分08秒

「ら抜き言葉」と「形容詞+です」の両者を比較しながら何かを論じようなどという観点は、一体どうすれば出てくるものですやら。

私は「形容詞+です」には違和感を覚えるものですが、ただ、野嵜のようにそれが変な言い方であることを十分認識した人が、日記の中でたった一言「眠いです」と書いていたからといって、きっとお疲れなんだろうと思う程度で、それを題材に大上段に構えて議論しようという気にはなりません。敢えてそれをとりあげて論争を挑もうというなら、もっと勉強して「理論武装」すべきでしょうが、ただ、何となく「形容詞+です」の場合、それほどすっきりした結論になりそうにありませんよね。変だけれど他に言いようがないから仕方がない、ということなんでしょうね。

義珍さんの意見は正論で、「ら抜き言葉」に関しては、使う理由がありませんよね。


ゆうさんへ 投稿者:GAT  投稿日: 3月 5日(水)02時46分10秒

国語審議会で昭和27年に「認めてよい」というのは
「まあいいだろう」とか「間違いではない」とかのニュアンスであると思われます。
少なくとも積極的に「正しい」ということは言ってないと思います。
これを引用した『新総合国語便覧』が初版昭和54年ですから、
その間に「正しい」のレベルまで上がったとしても、何ら不思議ではないと考えます。

それよりも、ゆうさんにお尋ねしたいのですが、
後世に名を残す文豪の用例や、国語審議会が正しいことの根拠にならないとすれば、
いったい何が正しいことの判断材料になるのでしょう?
私は専門の言語学者ではありません。
自分の使っている言葉が正しいかどうかは、
権威者(辞書etc)に頼らざるを得ません。
高校の国語の授業で使われた副読本を「正しい根拠として乱暴だ」
などと言われては、もはや何を信用して日本語を使ってよいか分かりません。


「○○円でございます」が絶滅しかけてゐる 投稿者:Kan-chan  投稿日: 3月 5日(水)01時34分00秒

最近、「○○円でございます」の代りに「○○円です」「○○円になります」と言ふ店員
が多いですね。これも「眠いです」の問題に通じるところがあるのでは。


訂正 投稿者:ゆう  投稿日: 3月 5日(水)00時17分35秒

「あえて他人の評価を否定しとは思いませんが」ではなく「あえて他人の評価を否定しようとは思いませんが」です。クッキーを受けつけないブラウザのため直接は修正できませんのでここに書いておきます。

/* リロードしないまま書き込んでしまったので見えていませんでしたが、野嵜氏の「眠いです」が奇妙な表現によって笑いをとろうとしていたのだという風には、私は読めていませんでした。私も勘違いをして「マジレス」をしていたようで恥ずかしいのですが、ちょっとわかりにくいネタだという気はします。 */


失礼しました 投稿者:ゆう  投稿日: 3月 5日(水)00時03分44秒

>「事実の指摘だけ」です。
邪推をしたような書き方になり申し訳ありません。

>丁寧表現がないわけではないんです。
3/2のCF.30氏の書き込みにも目は通していたのですが、「形容詞+ございます」という形を自分で使う機会がないためか、すっかり頭から抜け落ちていました。形容詞言い切りの形に丁寧形がないというのは誤りですね。訂正します。

ただ、私の感覚では、ございます・いたします調はです・ます調よりも程度の強い敬語であり、です・ます調の文章の中に「ねむうございます」という表現を使うことには違和感を感じます。もっともこれは私の感覚が狂っているためで、本来は(一部の挨拶語がそうであるように)形容詞言い切りの場合にはです・ます調とございますを併用してもよいことになっていたのかもしれませんが。不勉強なため詳しい事情は知りませんが。

どうやら、論点が
1.形容詞+ですは正しい言い方か
2.「ねむいです」が俗語であったとして、それを話し言葉に近い書き言葉の中で用いることは不適切か
3.新しい表現をどこまで受け入れるのかという程度の問題
と、混乱しているようですが、

1については前回申し上げた通り、違和感は感じるものの間違っているとは言えないと思います。2については野嵜氏のおっしゃる”この文脈では、俗語の「眠いです」以外に、出現しやうがない”という意見に賛成です。3については、最初から程度の問題なのがわかっているので、あまりあげつらう価値がないように思います(他人の議論を止める気はありませんが)。

参考になるかどうかわかりませんが、個人的には、「ら抜き言葉」は書き言葉で相手に使われると不快ですし、話し言葉であっても自分では極力使いません(使ってしまうこともありますが)。「形容詞+です」は、書き言葉で使われていてもとくに不快ではありませんが、自分が文章を書くときには極力使いません(話し言葉では平気で使います)。「あたらしい」は、書き言葉でも話し言葉でも平気で使いますが、「あらたしい」という書き方をする場合もあります(話し言葉ではまず使いません)。

もしこれを捕まえて「ら抜き言葉を否定するのにあたらしいを認めるのはみっともない」と非難されたら、まあ「やるなら徹底的にやるのが丈夫の心得」などという価値観の持ち主もいるでしょうから、あえて他人の評価を否定しとは思いませんが、その価値観に同意はしないので、「ふぅん」と思うだけでしょう。

/* もし仮に自分が、たとえば日本語教育者など「責任ある立場」にいて、かつ自分が「ら抜き言葉は間違っている」と教えていたとして、「ら抜き言葉を間違っていると教えるのにあたらしいを間違いとしないのは不合理だ」と指摘されれば、真面目に検討すると思いますが、なにしろ仮定の仮定なのであまり参考にはなりませんね */


(無題) 投稿者:薄笑斜構  投稿日: 3月 4日(火)23時59分34秒

★ノズラーとは?★
評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字
(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、自分のことを「反時代的教養人」だと信じて
疑わない人たちの呼称。


「ら抜き言葉」と「形容詞+です」の違い 投稿者:義珍  投稿日: 3月 4日(火)23時51分09秒

一応、「この掲示板をご覧の皆さん」のひとりとして、真面目に答えておきます。

「ら抜き言葉」と「形容詞+です」の違いとしては、前者には適切な代替表現があるが、後者にはそれがない、ということはいえると思います(本質的な違いとはいえないかもしれませんが)。

たとえば、「食べれる」「着れる」は「食べられる」「着られる」で言い換えることができ、意味合いもほとんど変わらないので、使わない方がいいという以前に、使う理由がありません。
一方、「眠いです」は、「眠い」「眠いのです」「眠うございます」などと言い換えると意味合いが異なってしまうため、使うべきではないかもしれないが、使いたい場合もあります。
そんなわけで、個人的には、「ら抜き言葉」は会話でも文章でも使わないようにしていますが、「形容詞+です」は、会話やくだけた感じの文章では使うこともあります。


「あ」さん 投稿者:義珍  投稿日: 3月 4日(火)23時45分43秒

えすさんのご指摘どおり、「日本語なんてどうでもいい。野嵜を罵倒したいだけだ」というのなら、まだそれなりに一貫性がありますが、「ノズラー」なんて言葉を使う一方で、

> その上で私はこの日本語の変化をまだ受け入れるべきではない、という保守的な立場に立ちます。

なんて言いだすのだから、「あ」さんのおっしゃることは訳がわかりません。
「ノズラー」は、保守的な立場でも許容できる範囲の変化ですか。

> この掲示板をご覧の皆さんはどうお考えになりますか。それとも「ら抜き言葉」と「眠いです」の間には本質的な違いがあるとお考えでしょうか。

「どうお考えになりますか」と「それとも」が繋がってません。「この掲示板の皆さんだって私の意見に賛成でしょう。それとも……」だったら繋がりますが。
この「それとも」の用法も、保守的な立場でも許容できる範囲の変化ですか。


ところで 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 4日(火)23時40分40秒


(無題) 投稿者:えす  投稿日: 3月 4日(火)22時41分44秒

> この掲示板をご覧の皆さんはどうお考えになりますか。

さあ?

「程度問題」とした上でなほ「みっともない」と罵る人間の言葉は
餘り信を委ねる氣にはなれません。「程度問題」に逃げれば、
個人個人の意見の開陳に終始して議論は發散するだけでせうし。

言葉に對して「保守的な立場」に立つのならば、
「ノズラー」なる奇怪な言葉を良く吐けるものだと思ひます。
これは辭書に載つてゐて事實上の公認を得た言葉なのですか?
この言葉を使ふことは「みつともないこと」ではないのですか?

正直に云ふと、「ノズラー」なる言葉を不用意に使つた段階で、
これが「あ」氏が野嵜氏を罵倒したいが爲にしかけた議論であると
疑つてゐます。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 4日(火)22時20分59秒

>仮に「眠いです」の浸透度を100とすれば、「ら抜き言葉」はまだ50くらい、だから「眠いです」のみを認めるとの考え方もあるとは思いますが・・・。

私はさう云ふ考へ方ですがそれが何か。

漱石も使つてゐるのだから、「形容詞+です」の歴史はそれなりにあります。しかし、それが變な言ひ方であるのも事實です。が、その變な言ひ方である事が、屡々「ネタ」として使はれてゐるのも事實です。あにめの方面ではどじで間拔けな美少女が「です」を連發するのが殆どギャグとなつてゐます。私の今囘の「眠いです」は、閑話の落ちであり、讀者は笑ふところです。
そこに「マジレス」されたのでは堪りません。「あ」は私に、讀者を笑はせるやうな表現は一切やめろと言ふのですか。

「ら拔き言葉」と「眠いです」の關係など、どうでも良い事です。飽くまで、文脈が問題なのだから、さう云ふ觀點から議論をされても困ります。と言ふか、「あ」は、ごまかさうと必死ですか。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 4日(火)21時18分57秒

 辞書の編纂には日本語の変化をどの程度受け入れるかと言う問題
があります。
 どのくらい新しい表現を盛り込むのかというのはすべて程度の問題です。
 野崎氏がおっしゃる通り、「眠いです」という表現は現代の多くの辞書に
よって認められています。また「見れる」「着れる」といったいわゆる「ら抜き
言葉」も多くの辞書に載っており、もはや多くの辞書によって事実上公認されてい
ると言えるでしょう。
 私は「ら抜き言葉」も「眠いです」も最近の日本語の変化ではあるが、
基本的に両者を受け入れるかどうかは程度問題であり、本質的な差は何らな
いと考えています。
 その上で私はこの日本語の変化をまだ受け入れるべきではない、という
保守的な立場に立ちます。
 仮に「眠いです」の浸透度を100とすれば、「ら抜き言葉」はまだ50
くらい、だから「眠いです」のみを認めるとの考え方もあるとは思いますが・・・。
 
 この掲示板をご覧の皆さんはどうお考えになりますか。それとも「ら抜き言葉」
と「眠いです」の間には本質的な違いがあるとお考えでしょうか。
ご意見をお聞かせください。


コンテキスト 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 4日(火)21時07分33秒

>『謎の七支刀』讀了……と書いても、これだけでは何の役にも立たない情報でしかありません。内容の紹介とか、感想文とかをきちんと書いた方が良いのだけれども、……。
今夜は勘辨して下さい。眠いです。

「あ」は「眠いです」が、この文脈でも絶對に不適切である、と言ひたいのですか。この文脈では、俗語の「眠いです」以外に、出現しやうがないのではないですか。

私がこの手の用語に非常に神經質になつてゐる事が、「あ」にはわからないでせうね。過去の「闇黒日記」の文章では、その邊の苦勞だか苦心だか知りませんがそのやうなものが見えないやうに書いてゐますからね。今囘は、わざと「眠いです」と書いて、さうしたら見事に「あ」のやうなおつちよこちよいが釣れた譯です。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 4日(火)20時49分32秒

>ただ「ら抜き言葉」はけしからん、と普段主張しているノザキ氏が「眠いです」は正しい日本語の用法と主張するのはみっともないね。

「ら拔き言葉」と「眠いです」とは無關係ですね。
説明も出來ないのに「正しくない」と決め附けて他人を罵る「あ」こそみつともないですね。まあ、匿名だから、恥づかしい事も平氣で言へるんでせうし、何を言はれても恥づかしくならないんでせうが。

「眠いです」のどこが正しくないのですか。
講談社『日本語大辞典』の「です」の項には

>體言、形容詞・助動詞の「たい」「ない」「ぬ」「らしい」の終止形、形容動詞および助動詞「そうだ」「ようだ」の語幹、ならびに、ある種の助詞などに附く

と載つてゐます。形容詞の終止形に「です」の附く用法は正しい用法であると云ふこの辭書の解説が正しいならば、形容詞「眠い」の終止形に「です」の附いた「眠いです」は正しい形であるに決つてゐます。論理上、それ以外の判斷は誰にも出來ません。この結論を否定するには、前提である辭書の解説が間違つてゐる事を證明する必要があります。しかし、「あ」は現在までに、全くその證明をしてゐません。だから「あ」は阿呆なのです。

「あ」は、講談社の『日本語大辞典』を否定したいのですか。なら、早く否定して見せて下さい。そして、否定すべき妥當な理由を述べて下さい。もしそれが出來ないのに、私の事を「みっともない」と宣傳し續けるのなら以下略。
編集済


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 3月 4日(火)13時04分44秒

私は以前にも書きましたように、論理的にどこがどう間違っているかと問われると答えられないのですが、形容詞+です、にはちょっと抵抗を覚えます。ただ、これまた以前に書いたことですが、話し言葉における「遅いですね」「遅いですな」という類の表現となると、全く抵抗がありません。加藤さんご指摘の漱石の場合も、会話の中での「、、、意地が悪いですね」という表現ですから、これまた抵抗なく読むことができます。

同様に、今回、野嵜さんが示された「眠いのです」に関しましても抵抗を覚えません。
編集済


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 4日(火)11時30分28秒

「眠いです」は「ら抜き言葉」だからな。

>ところでノズラーとはなんでせうか?

「あ」は「ら抜き言葉」が嫌いなんだよ。
編集済


(無題) 投稿者:えす  投稿日: 3月 4日(火)09時47分55秒

> ノズラーにつける薬なし、と言ったところか。

要するに「この一言」が云ひたくて仕方なかつたのですね。
本音は「日本語なんてどうでも良い」と考へてをられるのではありませんか?

ところでノズラーとはなんでせうか?


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 4日(火)09時34分28秒

それから「ゆう」さんへ。
丁寧表現がないわけではないんです。もう挙げた人がいましたが、
「眠うございます」ですね。形容詞で終わる文章の丁寧表現は
「ございます」を使うのが本来の表現だったわけです。ところが
いつのまにか「ございます」を使う人が少なくなってきて
適当な丁寧表現がないように思われるようになってきたわけです。
まあ、文筆家の間にはですます調の文章を書く人があまりいないので
この問題に焦点があたることは滅多にありませんがね。


ゆう様へ 投稿者:加藤  投稿日: 3月 4日(火)09時32分51秒

ゆう様へ 
漱石が使つてゐるから正しい、とは言つてゐません。「事実の指摘だけ」です。間違つた日本語(或は不自然な日本語)としても、これくらゐ前には、すでに普通にあつた、と。言葉が足りなかつたみたいなので、附加へます。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 4日(火)09時19分08秒

まあ、「ら抜き言葉」だって一概に間違っているとはいえないけどね。
ただ「ら抜き言葉」はけしからん、と普段主張しているノザキ氏が「眠いです」は
正しい日本語の用法と主張するのはみっともないね。
ノズラーにつける薬なし、と言ったところか。


横から口を挟むようですが 投稿者:ゆう  投稿日: 3月 4日(火)06時57分57秒

はじめまして。この掲示板は以前にも何度か拝見したことがありますが、今回はじめて書き込みをさせていただきます。正字正仮名でものを書く機会もありますが、日常生活では新字新仮名を用いておりますので、この掲示板でも新字新仮名で書き込みをさせていただきます。ご了承ください。

私は、少なくとも話し言葉としての「形容詞+です」は間違った日本語だとは思いませんが、不自然であると感じます。イギリス風に言えばpossible, but sounds strange ということになります。

間違っていないことの根拠として、「私は眠いです」という表現は、発言者の意図しないことを表しているわけではなく、本来ならこう言うべきだという修正案も見つかりません。手許の角川新国語辞典には、「です」は「だ」の丁寧語であり、「だ」は体言および体言に準ずる語につく助動詞で、用言につく場合には「の」を挟むとありますが、現代語で「私は眠いのです」と言うと、これは「私は眠いのだ」の丁寧表現となってしまい、「私は眠い」の丁寧表現とは言えなくなります。

一方、不自然であると感じる理由について推測すると、「形容詞+です」が「言い切り+言い切り」の形になっていることと、形容詞で終わる形の文が丁寧表現とは相性が悪いということが考えられます。前者については、それが奇妙な印象を引き起こしかねないことは容易に想像がつくと思います。後者については、話者の態度として、敬語を用いるということと自分の主観的判断を断定的に示すということの間に矛盾がある(敬語の程度に比例して表現が婉曲になってゆくという原則に反する)からではないかと思います。

/*これは根拠のない憶測ですが、ひょっとすると、この「話者の態度として矛盾している」ことが、形容詞言い切りの形に対応する丁寧表現が発明されなかった原因かもしれません。*/

話を戻します。では、「形容詞言い切りの形には丁寧表現はなく、よって丁寧口調の文章のなかで形容詞による言い切りをすること自体が間違いだ」という主張について考えてみます。これはある程度説得力のある主張で、実際、私も書き言葉のなかでは「ようです」「と思います」などの婉曲・推量表現や漢語などによる言い換えなどによって極力「形容詞+です」という表現は避けています(「大きいようです」「大きいと思います」「大型です」など)。

しかし、今話題になっている「私は眠いです」などの「自分の状態についての表現」の場合、婉曲・推量表現に置き換えることは不可能ですし、「眠気を感じます」などとするとかえって奇妙な表現になるので(つまり最初に申し上げたように他に言い方がないためのやむを得ない表現であり)必ずしも間違っていると断定してしまうには無理があります。

これは、話し手・書き手の言葉の運用の問題というよりも、日本語の機能自体の欠陥(と言って言い過ぎならば、現代人の需要に対応しきれていない部分)なのだと思います。

また、「形容詞+です」が正し日本語であることの根拠(あるいは傍証)として、漱石の文章や国語審議会の建議が挙げられていますが、漱石が使っているからといって間違いでないことの証明にはなりませんし、国語審議会がそう言っているから正しいというのは、少し乱暴ではないかと思います(3/3のペトロニウス氏の発言とほぼ同意見です)。

長々しくなりましたが、興味のある話題でしたので口を挟ませていただきました。参考にしていただければ幸いです。


ご理解 投稿者:GAT  投稿日: 3月 4日(火)03時33分31秒

同じく国語審議会の建議より

「お」「ご」の整理 つけてよい場合
相手の事物を表す「お」「ご」で、それを訳せば「あなたの」
という意味になる場合。
たとえば、お帽子はどれでしょうか。ご意見はいかがですか。

とあります。
「ご意見」がよいなら「ご理解」もいいでしょう。


形容詞+です 投稿者:GAT  投稿日: 3月 4日(火)02時58分07秒

手元に高校の時に使っていた「新総合国語便覧」があります。
これからの敬語(昭和27年4月14日、国語審議会の建議による)として、

形容詞と「です」
これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方、
例えば「大きいです」「小さいです」などは、平明・簡潔な形として認めてよい。

とあります。
「久しく問題となって」というのがどれくらいの期間かは分かりませんが、
賛否両論あったことは確かのようですね。
その上で、現行の用法では認めようということでしょう。


えーと 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 4日(火)00時57分15秒

「眠いです」は正しい日本語の用法ですよ? 「ご理解くださったようだ」つて何ですか?

えーと、「あ」さんは、「ご理解」と云ふ書き方はをかしいと感じませんか。さうですか。
編集済


(無題) 投稿者:siromi  投稿日: 3月 3日(月)23時35分54秒

>山本夏彦が言つてゐるのは『日常茶飯事』中の「大辻司郎」でせう。弁士の大辻は「ボク、ソンナコト、知ラナイ、デス」と言つて客を笑はせた、とあります。大辻は関東大震災前後が全盛期、とあります。(知らない、の、ない、は助動詞ですね)
なるほど、随分な大嘘を吹いてしまったようで、申し訳ありません。

>「眠いです」の誤用についてどうやら野嵜氏もご理解くださったようだ。
誤用を指摘したいなら、そう書けばよろしいのに。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 3日(月)21時54分38秒

「眠いです」の誤用についてどうやら野嵜氏もご理解くださったようだ。
よかった、よかった。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 3日(月)15時29分55秒

http://members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/Gallery/Picture.html
で、「Gallery Miki」がa要素から、はみ出ています。


(無題) 投稿者:加藤  投稿日: 3月 3日(月)09時03分59秒

はじめまして。事実の指摘だけ。

たとへば、漱石を見ると、形容詞+です、の例はいくつもあります。
例:「奥さんは随分意地が悪いですね」(明暗 十一、大正五年)


山本夏彦が言つてゐるのは『日常茶飯事』中の「大辻司郎」でせう。弁士の大辻は「ボク、ソンナコト、知ラナイ、デス」と言つて客を笑はせた、とあります。大辻は関東大震災前後が全盛期、とあります。(知らない、の、ない、は助動詞ですね)


ですラー総統の簡単チェック 投稿者:Akimbo  投稿日: 3月 3日(月)07時41分11秒

 Validな「です」は、「だ」と交換可能だ、というのはどうでしょうか。

(1) 「そうです」→「そうだ」→○
(2) 「赤いです」→「赤いだ」→×
(3) 「あるのですか?」→「あるのだか?」→???

 疑問形の判別には一考の余地があるようですが。
編集済


文法 投稿者:ペトロニウス  投稿日: 3月 3日(月)01時01分40秒

きのふの時点で帰つて来てゐます。取り纏めのえすさんはじめ、皆さんありがたうござ
いました。

文法の件は、文法に合つてゐないから駄目と云ふんぢやなくて、此れ此れかう云ふ事情
で、文法に合はないから駄目なんだと云ふやうに説明できないといけないかも知れない
ですね。形容詞+です、の件は私にはよく判らないのですが、自分自身使ふ事があるか
ら、注意する必要がありさうです。


(無題) 投稿者:CF.30  投稿日: 3月 3日(月)00時40分15秒

>「眠いのです」では如何でせうか。
文法上は問題無い筈です。


(無題) 投稿者:siromi  投稿日: 3月 3日(月)00時24分52秒

「形容詞+です」という用法は戦前には存在しなかったと、山本夏彦氏が書いていらっしゃったような気がします。なんだか大変頼りありませんが。
しかし、候文でない書き言葉の丁寧語では、代案がないようにも思います。


「うろおぼえ」と「うるおぼえ」 投稿者:義珍  投稿日: 3月 2日(日)23時31分39秒

今、「言葉を疑へ」を読んでいて思い出したのですが、以前、「間違いやすい日本語」みたいな感じの本(書名や著者名等は失念)の中に、
「『うろおぼえ』は、『うるおぼえ』の誤り」
という記述をみかけたことがあり、「うろおぼえ」が正しいと思っていた(というか、「うるおぼえ」という言い方を知らなかった)自分はショックを受けたことがあります。

件の「うるおぼえ」氏と、野嵜さん(そして俺)の、どちらが正しいのでしょうか。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)23時08分21秒

えーと何と言ふか、どうもありがたうございます。

「眠いのです」では如何でせうか。


(無題) 投稿者:藤山雅倫邪  投稿日: 3月 2日(日)22時37分06秒

「言葉を疑へ」の「なにげに」の最終更新日は2002年の3月2日ではなく2003年の3月2日ではないですか?


形容詞+です 投稿者:義珍  投稿日: 3月 2日(日)21時25分44秒

野嵜さん、真千絵さん、ありがとうございます。
俺自身も発言したので、このときのことは覚えていましたが、野嵜さんの回答については失念していました。

CF.30さんのご指摘をみるかぎり、「ら抜き言葉」みたいなもので、なるべく使わない方がよさそうですね。


過去ログ 投稿者:真千絵  投稿日: 3月 2日(日)20時53分35秒

「形容詞+です」についての過去ログはこれではないでせうか。
https://www.angelfire.com/id2/memo/logfiles/kotoba_200211.html

https://www.angelfire.com/id2/memo/logfiles/kotoba_200211.html


「あ」ぢやないけど 投稿者:CF.30  投稿日: 3月 2日(日)19時57分47秒

少なくとも「眠いです」は敬語としては間違ひです。
「形容詞+です」と云ふ用法は本來間違ひでしたが、あまりに一般的になつてしまつた爲に最近の辭書には正しいものとして載るやうになつたのでせう。
現に當方の持つてゐる昭和四十四年發行の辭書には「です」の語法を、「上略……未然形『でしょ』に限り、動詞・形容詞・動詞型の助動詞・形容詞型の助動詞・特殊型の助動詞(ます・た・ぬ)の終止形につく。……下略」と記載してゐます。つまり助動詞「です」は未然形以外は形容詞に付く事が出來ないと云ふやうに書かれてゐます。

「眠いです」を正しい敬語に直せば、「眠うございます」が正解でせう。本來敬語の形容詞は總て「う」に變化したのでせう。今でもその名殘として「美しうございます」や「嬉しうございます」と云ふ言囘しが殘つてゐますね。尤も最近は「美しいです」や「嬉しいです」と言つた言ひ方をするやうですが……。

「形容詞+です」の語法は間違ひでしたが現在は正しいとされてゐるやうなので、一概に「間違つてゐる」とは言へないでせう。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)13時34分37秒

>どこで述べられていますか。

「掲示板」か「闇黒日記」の過去ログにあると思ひますが。どこかは失念。

一應、過去の記事を檢索したら、菊一文字氏が、「不快」であるとのコメント附きながら、「ないです」式の言ひ方が辭書を見る限り妥當である事を述べてをられるのを見附けました。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 3月 2日(日)13時27分05秒

「あ」さん

> 「眠いです」っていうのを(根拠はわからずとも)直感的におかしいと感じないわけですか?

批判の根拠を明示する責任は批判する側にあります。
それができないのなら、「どこがどう悪いとは具体的には言えないが、お前の言動が気にくわない」と言ってるわけで、それは批判ではなく、難癖とか言いがかりというやつです。
別に野嵜さんを擁護しているわけではありません。むしろ俺個人としては、野嵜さんが論破されているところがみたいぐらいなので、やるならもっとまともな批判をしてほしいのです。


野嵜さん

> 「眠いです」が正しい日本語の用法である事は以前、既に述べてゐますが。

どこで述べられていますか。どなたか(野嵜さんご本人でなくても結構ですので)出典を教えていただければさいわいです。

> 「あ」の目的は、「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトを潰す事だ、と。理由は、不快だから、であると。

これは、言わでものことだったのでは。
「論證を經て、客觀的に證明出來る」ことではありませんし。
まあ、たしかに、「直感的に」はそんな感じがしますが。


正直に言つたらどうですか 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)13時02分28秒

「あ」の目的は、「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトを潰す事だ、と。理由は、不快だから、であると。


と言ふか 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)12時51分05秒

「感じる」とか「感じない」とかの話をされても困ります。

それと、「逆切れ」だか何だか知りませんが、態度で物事の正邪を決定出來ない事くらゐ、「あ」も知つてゐる筈でせう。怒つたから間違ひを言つてゐる、と云ふ事にはなりませんからね。もし、態度で決るのなら、嫌がらせの書込みをしてゐる「あ」の言ふ事が間違つてゐるのは自明ですからね。

或は、「あ」は私にどうしろと言ひたいのですか。私を不愉快にさせる事が「あ」の目的なのですか。
編集済


まあ 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)12時43分52秒

「あ」のやうな正確な言葉遣ひをしてゐる方には、「さう云ふ批判のみを私は常にしてゐる積りです」と「さう云ふ批判のみを私は常にしてゐます」との區別くらゐ、附けられるのではないですか。この邊りの文章を好い加減に解釋して、「あ」は私を非難してゐるのではないですよね。

あと、「ないですか」と云ふ言ひ方、「あ」は直感的にどう思ひますか。

それと、「立場なんですね」と云ふ言ひ方、「あ」は「まともな日本語」だと思つてゐるのですか。正しい言ひ方だと「立場なのですね」になるでせう。そんな事どうでも良いとでも「あ」は思つてゐますか。思つてゐないから、私の「眠いです」に「あ」は絡んできたのではないですか。ならば、「あ」自身が、「おかしい」言ひ方をしてゐるのは、どう云ふ譯なのですか。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)12時37分11秒

私はいつだつて、客觀的に論證可能な事でしか、他人を批判しませんよ。當り前の事です。自分の趣味や好みに基いて他人を攻撃するのは、中傷ですから。

論證を經て、客觀的に證明出來る誤を指摘するのが、個人的な攻撃ではない、公益性のある批判であり、さう云ふ批判のみを私は常にしてゐる積りです。ところが、客觀的な批判をせず、個人の主觀に基いた非難をするやうな人が、私の事を「他人を攻撃する惡質な作者である」と決めつけるのです。しかし、私は他人を攻撃してゐません。私に批判されてゐる人は、實は私ではなく論理によつて批判されてゐるのですから。

論理に基かず、個人的な好みに基いて私の言ふ事の揚げ足を取る「あ」のやうなタイプの人こそ、惡質な作者です。と言ふか、「あ」は私に、何の恨みがあるのですか?
編集済


直感 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)12時30分20秒

しかし、「根據を示せ」と言はれて「直感的におかしいと感じないわけですか?」と言返す「あ」こそ、「逆切れ」してゐるのではないですか?

文法的に正しい言ひ方なのだから、「あ」には反論出來る譯がないのです。だから、非論理的な「直感」なる言ひ方をして決めつける以外に、「あ」には私を攻撃する手段がないのです。しかし、「直感」なる個人的で主觀的な判斷基準を持出されたら、私には反論しやうがありませんね。
「あ」は、「禮儀」だの「マナー」だのと言つて攻撃する連中と同じで、嫌がらせの爲に「直感」と言つてゐるのです。

或は、「あ」は、どうして「直感的におかしいと感じ」るのが正當である事を、論證しないのですか。「おかしいと感じるのが正當である」のならば、それを論理的に證明するのは可能である筈です。
根據も何もなしに「おかしい」「おかしい」と連發して、私の事を「おかしい」人間のやうに見せかけようとするのは、イメージ戰略以外の何ものでもありませんし、それはただの誹謗にしかなりません。


は? 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 2日(日)12時17分20秒

「眠いです」が正しい日本語の用法である事は以前、既に述べてゐますが。
うちのサイトを讀まないで私を批判するのは、何處の誰ですか?

荒すのが目的の書込みは、やめていただきたいものですね。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 2日(日)10時53分18秒

根拠を示せ、ということはノズ氏は「眠いです」っていうのを(根拠はわからずとも)
直感的におかしいと感じないわけですか?
これが「逆ギレ」ってやつなんでしょうね。


「眠いです」っていうのをまもとな日本語だと思っているのですか? 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 1日(土)23時21分51秒

どこがまともでない日本語なのですか。

疑問を呈するだけと云ふ横着はやめていただきたいものですね。


「正字正かな」さえ守れば日本語の使い方はどうでもいい 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 1日(土)23時00分55秒

と言ふか、こんな事を言つて、何か役に立つのですか。「あ」には、この言葉を發した意圖をきちんと説明していただきたいものですね。


「何ですか?」つて何ですか? 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 3月 1日(土)22時57分55秒

失禮な人ですね。間違ひなら間違ひの根據を示し、これが正しい言ひ方だ、と批判すれば良いでせうが。なぜ「何ですか?」と言ふんですか。

どうして私が間違つた言葉遣ひをしてゐるからと言つて、私は正しい言葉遣ひ等どうでも良いと思つてゐる、と決めつけられるのですか。或は、「正しい假名遣ひを用ゐるべきだ」と言ふ人に限つて勘違ひをしたり言ひ間違ひをしたりする事は絶對に許されない、と云ふ事に、どうしてなるのですか。

>野嵜さんは「正字正かな」さえ守れば日本語の使い方はどうでもいいという立場なんで
すね。

論理が飛躍してゐる。私は日本語の遣ひ方はどうでも良いと云ふ立場ではありません。當り前でせう。「あ」だつて、それを承知で私を非難してゐるのでせう。でなければ「野嵜はどうでも良いと思つてゐる」と云ふ言葉は、非難になりませんから。本當に私が「どうでも良い」と思つてゐるのなら、そのやうな非難をされても「どうでも良い」としか思はないでせう。

どうして私が「正字正かなを使ふべきだ」と主張するのを氣に入らない人は、誹謗しかしないんでせうね。或は、「あ」は、「正字正かなは正しい」と思つてゐて、しかもいついかなる場合にも正しい日本語の遣ひ方をする人間で、それで私の事が氣に入らないのですか。さうではないでせう。「あ」は、假名遣も、日本語の遣ひ方も、どうでも良い、と思つてゐるでせう。ならば、「あ」には、私の事を非難する資格はありませんよ。
もし、「あ」が「どうでも良い」と思つてゐないとしたら、「あ」は、正々堂々と私の事を批判してゐたでせう。鄙劣な態度をとつてゐる時點で、「あ」は私を――と言ふより、他人を――非難する資格は無いのです。

と言ふか。

>失礼、誤「まもと」
>→正「まとも」です。

馬鹿か。自分だつて間違ひをやらかしてゐるぢやないですか。「あ」に私を罵る權利はありません。


省略形では 投稿者:Kan-chan  投稿日: 3月 1日(土)21時17分17秒

(私は)眠い(状態)です。

「茶目子さん、お起きなさいナ、學校が遲れますヨ」は一見文法違反に見えるが、
「(茶目子さんが)學校(に行くの)が遲れますヨ」の省略形では。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 1日(土)16時11分30秒

「日本語の使い方はどうでもいい」ということは無いという立場の人は、絶対に間違わないそうです。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 1日(土)14時45分09秒

失礼、誤「まもと」
   →正「まとも」です。


(無題) 投稿者:  投稿日: 3月 1日(土)14時44分06秒

>平和が至上命題である社會では、平和を脅かす可能性のある全ての言論・思想が統制され、否定
>される。
「至上命題」って何ですか?

>今夜は勘辨して下さい。眠いです。
 「眠いです」っていうのをまもとな日本語だと思っているのですか?

野嵜さんは「正字正かな」さえ守れば日本語の使い方はどうでもいいという立場なんで
すね。しみじみとそう感じました。