>日本語では子音はあとの母音と結合した姿でしか現れません。
>だから、子音を分離しない音節が日本語の音韻上の最小單位(=音素)だといふ説もあります。
さうです。私も再三そのことを指摘して来たつもりです。
恰も「表音主義」といふうウィルスが健全な人間の体内に入つて來たときの免疫作用が働いてゐるやうです。やはり言語におけるアンチバディーを涵養しおくべきことを痛感しました。
日本語では、清音と濁音とが通じる。單獨の語では清音でも、連語では濁音になる場合がある。假名で書けば、兩者の關係は判る。しかし、發音通りだらうが「音素」通りだらうが、ローマ字で書くと、兩者の關係はわからなくなる。
假名では、「か」と「が」とに關係のある事は一目瞭然である。しかし、「k」と「g」とは、見た目には無關係である。「s」と「z」等も同樣。
この點で、ローマ字は「非論理的」と言ふ事が出來る。
そもそも、連続的・線形的な音声を、非連続的・平面的な文字に移し替えるという行為自体が「非合理的」と言えます。そのような行為の結果として、文字による言語表記は音声言語を基盤としつつも、音声言語とは異なる特徴を獲得します(音声言語が連続的・線形的・瞬間的・同時代的ならば、文字言語は非連続的・平面的・固定的・歴史的な産物と言えるでしょう)。
文字によって言語を表記する場合、以下の方法が考えられます。
・単語を表意的な一つの文字で表す。この方法はしかし、文字数が単語の数だけ増えるという問題を抱えている。そこで多くの場合、音を表す音符(漢字の旁など)と、意味を表す義符(漢字の偏など)の組合せによって、記憶の負担を軽減する工夫が見られる。(表語文字の表音的工夫)
・文字をより表音的なものにして、音形を彷彿させることによって単語を表す。この方法はしかし、視覚的に語を判別することが困難になりがちである。そこで多くの場合、分かち書き、スペリング、補助記号など、意味の一塊を視覚的に表す工夫が見られる。(表音文字の表語的工夫)
文字の歴史を振り返ると、ある時代・地域において表音的方向に整理されたかと思えば、別の時代には表語的方向に傾き、まるでメトロノームの針のように両極の間で揺れ動いています。文字の発展に方向性あるいは収束地点があるのかどうかは文字論として興味深い課題です。
さて、現在の問題は「ある言語を表記する文字体系をどのような基準で選択するのか」ですが、言語的要因・歴史的要因・文化的要因・政治的要因・社会的要因など、様々な要素を考慮に入れた上で判断する必要がある…と当り前のことを言って逃げます。
日本語表記体系の中にローマ字はある程度の地位を確立していますし、日本語をローマ字で表記していけない理由はありません。私は表音主義者氏の「日本語を表音的に書き表すための工夫」そのものには興味を抱いています。しかし、日本語表記を全てローマ字、それも音素表記に近い形に置き換え「ねばならない」理由が全く分かりません。音素に関して言えば、そもそも音素は言語学的分析のための道具であって、文字とは直接の関係が無いものです。文字は一般大衆の実際的な生活の役に立てばそれで事足りるのであって、必ずしも言語学的な分析単位と一致する必要は無いのですが。
そもそも日本語の本質とは何かと云ふ點で、表音主義者と私とは認識が違ふやうです。
表音主義者は、名詞や動詞等の個別の表記にしか興味が無いし、それらの成立過程を重視する。表音主義者は、「やまとことば」と云ふ語彙のレヴェルでのみ日本語の本質と言ふものを考へてゐる。
私は(一般的な用語で言ふと)、名詞に助詞を、動詞や形容詞に助動詞を附ける、と云ふ形で文章を生成する事が日本語の本質である、と考へてゐる。個別の名詞や動詞が漢語由來であるか和語由來であるか英語由來であるか(以下略)は「どうでも良い」事だと思つてゐる。變化が激しい助詞や助動詞は、日本語に於て文章を生成する機能を時代に合せて的確に實現する爲に激しく變化する事が必要なのであり、それゆゑに日本語の本質に深く關はつてゐると言へると思つてゐる。だからこそ、日本人の多くが語意識に基いて「は」「へ」「を」を「は」「へ」「を」と書くのだと思つてゐる。
表音主義者は、「てにをは」を完全に無視してゐる。彼等の態度は日本語の本質を理解しない態度だと斷言出來る。
> 漢字ほど難しく学習しにくいものはない。漢字がなければ、日本語学習者ははるかに多かっただろうし、日本語の国際的地位ははるかに高かったでしょう。
やすやすと自国の文化を捨て去るような国として、かえって蔑視される可能性もあると思います。
いずれにしても、正書法は、外国人に評価されるためのものではありませんが。
日本語では子音はあとの母音と結合した姿でしか現れません。
だから、子音を分離しない音節が日本語の音韻上の最小單位(=音素)だといふ説もあります。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1003508934/131-
となれば、つまり假名が音素を表す……?
おっしゃることにはおおむね賛成なのですが、
>> 私は海外に長年滞在していますが、日本研究者が日本語文献を読めないことに非常にびっくりしました。(略)
> と仰るけれど、表音主義者の「現実」といふのは「日本研究者が日本語の文献を読めないのを見た」といふ、自らの體驗でしかない、極めて偏狹な、普遍性のないものです。
というご意見には頷けるのですが、
> 本當の現實は、日本人でローマ字を日常的に使つてゐる人といふのは觀たことも聞いたこともない。
> 敗戰後の混亂を以てしてもローマ字化には至らず、一方、今眼前に示されてゐるやうに、正字正假名を使ふ人は、少數派ではあるけれども居て、確實に増え續けてゐる、といふことです。
これも、統計的なデータの裏付けがないと、「自らの経験でしかない、普遍性のないもの」とされても仕方がないのではありませんか。
ちなみに私は、略字新かなを使っていますが、これは単なる不勉強(正字正かなで不正確につづるよりは、略字新かなで正確につづる方がましだろう、と言い訳しています)によるもので、正字正かなの正当性に対する異論や反発ではないことをお断りしておきます。
日本語では子音はあとの母音と結合した姿でしか現れません。
だから、子音を分離しない音節が日本語の音韻上の最小單位(=音素)だといふ説もあります。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1003508934/131-
となれば、つまり假名が音素を表す……?
他の方がおっしゃっていることと重なる部分も多いので、「俺にも言わせろ」という感じは否めませんが、自分もひとつ。
> それはともかく、漢字の導入とローマ字化はまったく意味が違います。漢字の導入によって日本語が「漢語化」したというのは、単に漢語語彙が取り入れられたというだけではなく、訓読みというものによって日本語が本質的に影響されたということです。
> しかし、ローマ字は表音的な表記法であって、「訓読み」などが開発されることはありません。
という、表音主義者さんの主張ですが、
> 日本語の音節は114個くらあります。3音節の単語なら150万程度つくれます。一番大きい辞書にもそんな多くの単語は載っていない。ですから音節の少ない日本語でも同音異義語が避けられないということはありません。
無数に存在する同音異義語を区別するため、あらたに無数の言い換え語を作り出すというのは、日本語に本質的な影響を与えるやりかただとは考えられませんか。また、その言い換え語は、誰がどのように決めるのですか。
漢字が日本語に本質的な影響を与えた―これは本当だと思います。言い換えると、漢字によって与えられた影響は、すでに日本語の本質なのです。よしんば漢字の影響が好ましくないものであったとしても(私はそう思いませんが)、ある言語の本質に、人為的な改変を加えるなどということは好ましいこととは思えません。
長い年月の間に、大多数の日本人が「難しいから」と漢字を使わなくなり、自然に日本語の表記が表音的になっていくのなら、かまわないと思います(そうはならないと思いますが)。しかし、なんらかのドグマに基づいて、強制的に日本語に変化を及ぼす(正書法として学校等で教えたり公的機関で用いるとはそういうことです)のは、許されることではないと思います。
表音主義者がローマ字に變へるべしと仰る大きな理由は、外國人に學びやすい樣にするためといふことのやうですが。
> 私は海外に長年滞在していますが、日本研究者が日本語文献を読めないことに非常にびっくりしました。また多くの言語を習得した人も、日本語のよみかきは世界一難しいといっていました。現実を素直に見るべきです。
と仰るけれど、表音主義者の「現実」といふのは「日本研究者が日本語の文献を読めないのを見た」といふ、自らの體驗でしかない、極めて偏狹な、普遍性のないものです。
そんなに現實を見るのがお好きなら、どのやうにして現在日本語を母国語としてゐる一億人以上の日本人にローマ字化を勸めるのか、考へてみたら如何ですか。どれほど現實味のない主張かといふことが解るでせう。
本當の現實は、日本人でローマ字を日常的に使つてゐる人といふのは觀たことも聞いたこともない。
敗戰後の混亂を以てしてもローマ字化には至らず、一方、今眼前に示されてゐるやうに、正字正假名を使ふ人は、少數派ではあるけれども居て、確實に増え續けてゐる、といふことです。
> 英語はきわめて非論理的で漢字的なつづりをしている
> 英語が国際言語として用いられているのは英語諸国の力が強いからで、英語それ自信の力によるものではありません。
> ある国が発展したとか発展しないとかはさまざまな要因に依存します。極めて合理的な表記法の言語を用いても滅びた国もあれば、極めて不合理な表記法を用いながら繁栄した国もあるでしょう。
などと言ひながら、一方では、
> 漢字ほど難しく学習しにくいものはない。漢字がなければ、日本語学習者ははるかに多かっただろうし、日本語の国際的地位ははるかに高かったでしょう。
と言ふ。
表音主義者の主張によれば、漢字があることと日本語學習者の寡多は關係ないはずではないですか。
そもそも、外國人に學習しやすいようにするべしといふ動機から、間違つてゐるやうに思はれます。
と言ふか、
>完全に発音通りに書くのではないということです。
この時點で、「表音主義者」の主張は崩潰してゐる。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言つてゐるが、どこからが過ぎてゐるもので、どこまでが及ばないものであるかを、「表音主義者」は御都合主義的に決定してゐる。
>日本語の音素の数の文字があればいいと言っているのです。
>完全に発音通りに書くのではないということです。
「表音主義者」は一體全體、どのやうな基準に基いたどのやうな表記を「正しい表記」だと考へてゐるのだらうか。確定してゐるのは、文字の數と、五十音圖の書表し方だけだ。個々の語は、語によつて全て「正しい表記」の基準が異つてゐる。或語は「音素」を寫し、或語は「單語と看做」して「音素」とは違ふ書き方をする、と云ふ。
「表音主義者」は、「音素」が大事だと言ふ一方で、「音素」が基準にならない事もある、と言ふ。ならば、「表音主義者」の考へる「正しい表記」の基準は、何なのか。はつきりして貰ひたい。
今のところ、「表音主義者」の考へる基準は、一貫性が無く、論理的に滅茶苦茶である。
>「株式会社」は二つの単語とみなして、そのように表記するということです。
>「鼻血」「地面」は一つの単語とみなします。
一語とする場合と二語とする場合の基準を論理的に説明してください。
>kabusikigaisya を kabusiki-kaisya と書く規則なら hana-ti ti-men と書かねばなりません。そして表音文字は音素を示すのですから「はなち」「ちめん」と発音することを意味します。
意味しません。
「株式会社」は二つの単語とみなして、そのように表記するということです。
「鼻血」「地面」は一つの単語とみなします。
また、表音文字は必ず書いてある通りに読むということではありません。
たとえば、日本語ではuが発音されない場合がありますが、その場合でもuを表記します。
外国語でも、dがtと発音されるような場合でもそのままですね。
たとえばNederlandの語尾のdはtと発音されますが、語尾にenがついてNederlandenになるとdはdと発音されます。あくまでdであってtではないということです。だからdがtと発音されるような場合でもdと表記されるのです。
完全に発音通りに書くのではないということです。
連濁の場合は濁ることを表記する必要はないと思います。(他のローマ字派がどう考えているかはわかりません。)
>極端な事を言へば、0と1だけで表現するのが最もシンプルなやり方である。既にコンピュータが二進法を用ゐてをり、不可能で非現實的なやり方だとは、「論理的」には、言へない。
>だが、二進法の表記を人間が使へないのは、言ふまでもない事だ。機械語よりは高級言語の方が使ひ易いなどと例を擧げる必要もない。
>文字の種類を減らしただけで表記が簡單になるとは思はない事だ。
誰も「文字の種類を減らしただけで表記が簡単になる」などと思っていませんよ。
減らしすぎれば難しくなります。当たり前です。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という通りです。
たとえば英語は音素の数より文字の数が少ないですね。これは文字が少なすぎるわけです。
何も0と1なんてことを言っているのではない。日本語の音素の数の文字があればいいと言っているのです。
文字の種類が少ければ簡單かと言へばさうでもない。
1984のやうな書式ならば、千九百八十四のやうな數字の書式と違つて、たつた10箇の少い數字で全ての數を表現出來るし、四則演算にも便利である、だからアラビア數字は「論理的」である――さう主張する事は可能である。そして、アラビア數字が現在、廣く使はれてゐる理由もそこにある。が、だからと言つて、いかなる場合にもアラビア數字は便利である、とは言へない。
日本の人口を表はすのに、160000000人と書くよりは、一億六千萬人と書いた方が、ぱつと見で、判り易い。アラビア數字は、この場合、抽象的過ぎるのである。
極端な事を言へば、0と1だけで表現するのが最もシンプルなやり方である。既にコンピュータが二進法を用ゐてをり、不可能で非現實的なやり方だとは、「論理的」には、言へない。
だが、二進法の表記を人間が使へないのは、言ふまでもない事だ。機械語よりは高級言語の方が使ひ易いなどと例を擧げる必要もない。
文字の種類を減らしただけで表記が簡單になるとは思はない事だ。
書き言葉は、音や音素や音韻を寫す爲のものではなく、飽くまで意味・語の構造を示す爲のものである。表記の論理性は、音や音素や音韻を正確に寫す事ではなく、語の形式的な構造を的確に示す事である。
ここでの議論に触発されて、表音主義への論駁文を書いてみました。
長文なので、自分のホームページに掲載してあります。
ここでの議論に触発されて、表音主義への論駁文を書いてみました。
長文なので、自分のホームページに掲載してあります。
これは落語ですので、かういふ内容です。
庭の御披露目か新築祝かで、ある人がかういふ和歌を送られた訳ですね。
のとかなる
はやしにかかるおにはまつ
かすみそのへの
にほひなるかな
送られた本人は、かう解釈した。
咽が鳴る
はや死にかかる鬼は待つ
滓味噌の屁の匂ひなるかな
その人は随分立腹したさうだが、じつはさういふ意味ではなく、
長閑なる
林にかかる御庭松
霞ぞ野辺の匂ひなるかな
といふ、庭をめでた歌であつたといふわけです。
これは落語ですので、かういふ内容です。
庭の御披露目か新築祝かで、ある人がかういふ和歌を送られた訳ですね。
のとかなる
はやしにかかるおにはまつ
かすみそのへの
にほひなるかな
送られた本人は、かう解釈した。
咽が鳴る
はや死にかかる鬼は待つ
滓味噌の屁の匂ひなるかな
その人は随分立腹したさうだが、じつはさういふ意味ではなく、
長閑なる
林にかかる御庭松
霞ぞ野辺の匂ひなるかな
といふ、庭をめでた歌であつたといふわけです。
↑ではないかと私は思ひました。
私も落語の内容は存じませんが、こういう引っ掛けだったのでしょうか。
「鬼は待つ」←「御庭松」
「霞そ野辺の」←「霞み苑への」
かなり和歌に接しなければ、結構難しい問題ですね。
あまり反響が無かつたやうですが、「かすみそ」の回答をお知らせします。たしか、江戸時代の落語の題材となつてゐたものだつたと記憶してゐます。
のとかなる
はやしにかかるおにはまつ
かすみそのへのにほひなるかな
を読みやすくするために漢字かな混じり文で書くならば、風流の気分は残して仮名の濁点は用ゐませんが、次のやうになります。
長閑なる
林にかかる御庭松
霞そ野辺の匂ひなるかな
であります。仮名文字だけで表記した時との表意性の違ひは歴然としたものだと思ひます。「かすみそのへのにほひなるかな」は「霞ぞ野辺の匂ひなるかな」です。念のため。
>>「鼻血」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか。
>>「地面」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか
>多数派はhanazi zimenとかくでしょう。
>Tuda-Saukitiのように旧かな式につづる論者もいますが。
>それは「旧かなと新かな」の問題であって、「漢字かなかローマ字か」ではないでしょう。
kabusikigaisya を kabusiki-kaisya と書く規則なら hana-ti ti-men と書かねばなりません。そして表音文字は音素を示すのですから「はなち」「ちめん」と発音することを意味します。
誰もそのように発音しない言葉を「(あたかも)発音することにして」あるいは「そのように発音されるべきだ」として表記せねばならないことには、強要もあれば無理もある。
なるほど五十音図を音素として表記することは簡単で明瞭かもしれないが、だからといって日本語が、音素として発音される言葉の規則と音素として書き表す言葉の規則を簡単で明瞭な統一的な規則に一元化できる言葉であるわけではない。漢字かな混ざり文は日本語を<表記するのに>ローマ字で表記するよりも発音と表記の齟齬の点で適していると言える。
表音主義者さんは、表記と発音の間に齟齬が出ないような言葉に変革しろと主張する。それは最早、表記の問題ではない。日本語を人工的に変えろと云う。何の為に?
1)言語学的にかな文字よりローマ字が音素を書くのに適しているから。
音素を書くのに適しているローマ字を使うためになぜ日本語を変えなくてはいけないのか理由が無い。
2)漢字によって日本語が「漢語化」し、同音異義語が多いから漢字を日本語から追い出すため。
同音でもアクセントが異なる言葉は漢字では書き分けられる。例)箸:橋 汚職事件:御食事券
3)漢字を覚える手間がなくなる。
同音異義語・漢語化語の解消の為に作られた膨大な新大和言葉単語を丸暗記して覚えなければならない。例)漢字によって中国人とでも筆談である程度意思疎通することができるが、新大和言葉単語は言葉自体の認知の有無で日本人同士でも通じなくなる場合が生じやすい。
4)外国人に分かりやすい。
外人向けにローマ表記してあげればよく日本語を母語とする人の表記法として適しているかどうかが問題。と、とりあえず読めることは日本語が理解できることと直接関係が無い。日本語が理解し辛いローマ字表記は、結局日本語を学ぶ外国人にとっても親切な表記と言えない。
私の結論:
ローマ字表記によって日本語の発音と統一の規則ができるとするのは無理。
ローマ字表記に適した言葉に日本語を変えろと云うのは無茶。
そして何より人工的に言葉を変更して過去の歴史から言葉を断絶させようとするのは犯罪。
あまり反響が無かつたやうですが、「かすみそ」の回答をお知らせします。たしか、江戸時代の落語の題材となつてゐたものだつたと記憶してゐます。
のとかなる
はやしにかかるおにはまつ
かすみそのへのにほひなるかな
を読みやすくするために漢字かな混じり文で書くならば、風流の気分は残して仮名の濁点は用ゐませんが、次のやうになります。
長閑なる
林にかかる御庭松
霞そ野辺の匂ひなるかな
であります。仮名文字だけで表記した時との表意性の違ひは歴然としたものだと思ひます。「かすみそのへのにほひなるかな」は「霞ぞ野辺の匂ひなるかな」です。念のため。
ついでにいえば五十音表はサンスクリットにおける音韻分析の結果を踏まえているのだから、音素に関する知識は決して最近のものではないのでは。でも庶民は五十音を使用せずいろは歌を使っていたということを軽視してはいけないのではないかと。
日本人がはじめに採用した表記法が万葉仮名であったことからも、日本人が日本語を構成する単位として音節文字がふさわしいと考えていることは明らかなんじゃないですか。
個人的には美的な観点および歴史的観点以外の点からは、漢字の変形や省略に由来する仮名文字が「合理的」とは思ってはいませんが、上で除外した2点からだけでも十分使い続ける価値はあると思ってはおります。
敢えて表音主義者氏のいうように文法体系を表記法に反映すべきとするであれば、ハングルのような音素文字の組み合わせによって作られる音節文字を採用したうえで、「漢字[音節文字]まじり文」を提唱するのが「合理的」かと。
以上、単純な音素文字にすぎないローマ字で音節文字を基本とした日本語を記述しようというのは論外と思います。
ローマ字でのみ教育された人は、漢字かな交じり文を讀めない。「表音主義者」は、古典や漢文をローマ字に「翻字」すれば良いと主張する。しかし、「翻字」された文章が原文と一致するかどうかを、漢字かな交じり文を讀めない人間は判斷出來ない。
昔の文献を讀めなくなつた人間が増えた時、例へば歴史の書換へが行はれても、誰も氣附く事が出來ない。これは危險な事である。
watasi ni ha onnso naru mono wo motiwite hiyouki suru koto no hau ga kanji kana madiri hiyouki yorimo 「gouriteki」 da to ihu no ga satupari rikai dekimasen.
madu ha gojisin ga kono hiyouki hau wo jitusen si te, aruiha kankiyou wo kosirahete jituken wo si te「gouriteki」de a ru yuwen wo siyoumei su ru koto ga hituyou de ha arimasenka.
yomi nikukute mousi wake arimasen desita.yodan desu ga, supe-su wo dou akete yoi no ka hijiyou ni nayami masita.
>通常の使用で「一つの意味を持った一音」として扱われる「音素+音素」で構成された語を一文字で示すことの非合理性とは、文法だけのもんでいでしょうか。
最期の方の「文法だけのもんでいでしょうか。」を
「文法だけの問題でしょうか。」と訂正します。すいません。
>>かなもじが不合理であるということがわかってきたということじゃないですか
私の観点からすれば、「かな」の合理性はむしろ音素という概念がわかったからこそあるような気がします。
日本語では音素単体で用いられるケースは極めて低いのではないでしょうか。「音素+音素」で多くの最小要素を形成している言語ではないでしょうか。言語学的には「音素+音素」で分類されるのでしょうが、日本人にとって「か」は「k+a」という音素の結合体ではなくではなく「カ」という一音ではないですか。そして、通常の使用で「一つの意味を持った一音」として扱われる「音素+音素」で構成された語を一文字で示すことの非合理性とは、文法だけのもんでいでしょうか。
もちろん表音主義さんとは観点や基準が異なるとは思いますが、私には「音素+音素」を一文字で示すことにも多少の合理性を感じます。
表音主義さんは「文法的に簡素(変化が少ない)で発音が推測できる」という長所がローマ字表記にはあるという主張をしているのだと思います。しかし、ローマ字表記には長所と同時に短所もあるでしょう。(「かな」にしてもそうですがね)
「音素を示すこと、文法的変則な変化が少ないこと」は、かな文字に比べ、字数の増加を招きます。
「漢字を用いない表意」のためには、「日本語」として使われてきた言葉をある程度の範囲で置き換えを余儀なくされます。
日本語は既に「やまとことば」だけのものではなく、漢語や英語さえもフォーマットを整えて取り込もうとしてきた野心的な言語であると思います。ある単語の起源が漢語であったとしても、多くの日本人にとってそれは日本語として認識されている語もあると思います。なぜなら、それは日本の言葉として意味を持ち、既に使われてきた言葉なのだから。
発音としての音素の概念は重要だと思いますが、ローマ字による音素の表記が、表意と表音の「良いとこ取り」をしようとした「新かな漢字」に比べ、その性能が圧倒的に上回っているという点が見当たりません。「歴史的仮名遣い」と「新かな」との対立のように伝統文化という歴史的根拠は望めないでしょう。
「日本語」という制限にどこまでの線を引くかも問題ですね。
言語学を軽視するわけではありませんが、私はそれよりも現状を持って受け入れるに足る性能・合理性の是非に興味があります。
はじめまして。
興味深い議論を拝読しておりました。僅かですが私も発言させて下さい。
野嵜氏:
>「音素」は分析の結果、初めて發見された觀念であり、日本人は意識して來なかつたものである。
日本人に限らず、音素を意識している言語話者はいないと思います。と言うより、文字を持つ文化における言語話者の音意識は、その文字の特性にかなり引きずられているような気がします。
表音主義者氏:
> 日本語は22の音素があります。
> 母音=a i u e o
> 半母音=y w
> 子音=k g s z t d n h b p m r
> その他 撥音 促音 長音
こう考える学者はあまりいないと思うのですが、どなたの説に基づくものでしょうか。
音素は一定の作業仮説を通じて抽出される音韻論上の単位ですが、考え方/解釈の違いによって音素の数は異なってきます。私自身は、日本語の「ち」は "ci" とでも書くべきものであって、決して "ti" ではないと考えています(音韻論の問題)。音素の数においてすら一致を見ない現状では、音素をローマ字正書法に応用するという主張は楽観的過ぎるように思います(ローマ字における正書法の問題)。
「mとnとŋとの違ひは意識出來ない」のに「kとaとの違ひは意識出來る」、「sとaとの違ひは意識出來る」(以下略)と云ふのは、一體全體どう云ふ事なのか。
「表音主義者」の主張は、餘りにも御都合主義だ。
取敢ず、「表音主義者」には、相手の言つてゐる事を理解する努力をしてもらひたい。「わからない」「わからない」と言はれても、こちらはわかつてゐるのだから、そちらもわかる筈だ。わからないのは、わからうとする努力が足りないからだ。「表音主義者」には努力を惜しむ事を推奬する(例・漢字の學習)癖があるし、努力しない事を實踐(?)してゐる節がある。「論理的」「論理的」と言つてゐるが、「表音主義者」には論理的にものを考へてゐるらしき氣配がない。
>何言ってるのかわかりませんけど、意識してこなかったものを分析により明らかにして、その結果日本語が深く理解されたということじゃないですか。
日本語を深く理解したら「ローマ字」等と言ひ出す訣がない。
>古来意識しなかったから今も意識しないのが正しいなんておかしいでしょう。かつて明らかになっていなかったものが明らかになれば意識するのが当然です。
rとlは違ふ、mとnとŋとは違ふ、意識しろと言はれて、出來ないものは出來ない。だから「音素」が存在するんだらう。しかし、その「音素」を意識しろと言はれても、出來ないものは出來ない。
意識してゐなかつたものを意識しろと言はれて意識出來るやうになるのなら、話は簡單だ。「表音主義者」の話はいつも簡單過ぎる。
>だから、これまで1文字に2音素を含む文字(かなもじ)を使ってきたわけですが、それを1音素に分解することによって、かなもじが不合理であるということがわかってきたということじゃないですか。
一文字を二音素に分解するのは「言語學の分析方法」に過ぎず、日本人は昔から「二音素を一つの音韻と認識してきた」のである。
しかし、そもそも日本人は、音韻とか音素とかに從はず、語の形式的な構造を基準に語を表記してきた。これが事實である。語を表音的に記述する――即ち、音素を記述する――と云ふ方法は、日本では行はれた事がない。
「表音主義者」の、「正しい表記の方法は、音素を記述する事である」と云ふ大前提がそもそも間違ひである。表記は、飽くまで語を記述する事である。音や音素や音韻を記述する事ではない。
>多数派はhanazi zimenとかくでしょう。
>Tuda-Saukitiのように旧かな式につづる論者もいますが。
>ローマ字表記では、助詞「は へ を」はかならず wa e o と綴りますが、「ぢづ」などは論者によって違うでしょう。
「日本式を基本にした方式」の規則に學問的な定説がない事、「論者によって違う」表記となる事は「表音主義者」も認める事實だ。
「日本式を基本にした方式」なる曖昧な基準しかない「ローマ字」では、表記に混亂が生ずるのは自明。
>私が「日本式」に同意しない部分が議論になっているのならそうですが、これまではそんな部分が議論になっていないでしょう。
「表音主義者」の言ひ譯は、言ひ譯になつてゐない。
>どうしてまた「英語」がでてくるんでしょう?>そんなにローマ字=英語と主張したいのか。
>それはともかく、漢字の導入とローマ字化はまったく意味が違います。漢字の導入によって日本語が「漢語化」したというのは、単に漢語語彙が取り入れられたというだけではなく、訓読みというものによって日本語が本質的に影響されたということです。
>しかし、ローマ字は表音的な表記法であって、「訓読み」などが開発されることはありません。
なぜ「ありません」等と言へるのか。漢字・漢語が排除されたローマ字表記は、長たらしいから、間違ひなく縮約が起り、英語的に變形される。
>ローマ字表記が、英語と比較しては「音」として簡素で理解しやすいというのには納得しました。ローマ字表記は規則から発音を、おおよそ特定可能な表記法であるということで宜しいですか。
そうです。
>>たとえば、日本語の「ん」の発音はn,m,?の3通りありますが、これは前後の音によって決まります。
>日本人にとって、それは語と語の組み合わせの中で自然の中に発生する変化(?)ではありますが、それらはすべて同じ「ん」ではないのかという疑問があります。
そのとおりです。それが「音素」ということです。
というか、それを説明していたんですけど。
>しかし、「表音主義者」は、「私は、kabusiki-kaisyaとかけばよいと思います。」「私は現在の日本式ローマ字を全面的に肯定するわけではなく、撥音(ん)にはナ行子音と別の文字をあてるべきだと考えます。」と書いてゐる。
> 「表音主義者」が「日本式を基本にした方式」と言つた意味が良く解つた。解つたが、「表音主義者」が大事な「日本式を基本にした方式」と、「日本式」とは別物であり、「表音主義者」は「日本式」そのものを辯護する必要はない。ならば、「表音主義者」ははつきり「日本式は駄目だ」「日本式を基本にした俺的独自方式が良い」と言はなければならなかつた。「表音主義者」がわざと「日本式」を支持してゐるかのやうに振舞ひ、「日本式」に攻撃を集中させ、「表音主義者」にとつて本當に大事な「日本式を基本にした方式」を守らうとしたのは、卑怯であるやうに思はれる。
私が「日本式」に同意しない部分が議論になっているのならそうですが、これまではそんな部分が議論になっていないでしょう。(ヤ行子音はYでなくJではないかという程度)
>しかしその「日本式を基本にした方式」は、「日本式」と違つて、學問的に確定したものではない。これは致命的な問題だ。「日本式を基本にした方式」と「表音主義者」は言ふが、個人個人が「日本式を基本にした方式」を獨自に主張すれば、表記が混亂する事は自明だからだ。
主張するのは勝手ですが、使う場合には統一しなければならないでしょう。
>「言語学」での常識と言へば、音と意味との結合は恣意的なものである、と云ふ例のソシュールのテーゼがある。そして、この考へ方が提唱された事で言語學において一般に言語の「分析が深まった」事は論を俟たない。が、だからと言つて、意味に音を恣意的に結合させるべきだ、として恣意的な表記なるものを提唱する人間はゐない。
意味がわかりません。
>「音素という概念によって日本語の分析が深まった」事と、「音素を基準に表記するやうにしなければならない」と云ふ事とは、論理的に結び附かない。
だから、これまで1文字に2音素を含む文字(かなもじ)を使ってきたわけですが、それを1音素に分解することによって、かなもじが不合理であるということがわかってきたということじゃないですか。
>しかしそもそも、「音素」は分析の結果、初めて發見された觀念であり、日本人は意識して來なかつたものである。ならば、「音素」を「意識しない事」こそが日本人の態度として「正しい」ものである、と考へるべきである。
>飽くまで言語學の成果を重視すると言ふのならば、「表音主義者」は「言語學崇拜」に陷つてゐると言へよう。
何言ってるのかわかりませんけど、意識してこなかったものを分析により明らかにして、その結果日本語が深く理解されたということじゃないですか。
古来意識しなかったから今も意識しないのが正しいなんておかしいでしょう。かつて明らかになっていなかったものが明らかになれば意識するのが当然です。
>>ヤマサキセイコーさんがいっているのは、漢字の導入によって日本語が「漢語化」してしまったということです。
>ならば「ローマ字の導入によつて日本語が『英語化』してしまふ」と云ふ批判は、可能となるだらう。
どうしてまた「英語」がでてくるんでしょう?そんなにローマ字=英語と主張したいのか。
それはともかく、漢字の導入とローマ字化はまったく意味が違います。漢字の導入によって日本語が「漢語化」したというのは、単に漢語語彙が取り入れられたというだけではなく、訓読みというものによって日本語が本質的に影響されたということです。
しかし、ローマ字は表音的な表記法であって、「訓読み」などが開発されることはありません。
>「表音主義者」はなぜ私の質問を無視するのだらう。
単にみおとしただけでしょう。
>「鼻血」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか。
>「地面」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか
多数派はhanazi zimenとかくでしょう。
Tuda-Saukitiのように旧かな式につづる論者もいますが。
>囘答出來ない疑問、「ローマ字」にとつて致命的な疑問を突きつけられたからではないか。
それは「旧かなと新かな」の問題であって、「漢字かなかローマ字か」ではないでしょう。
ローマ字表記では、助詞「は へ を」はかならず wa e o と綴りますが、
「ぢづ」などは論者によって違うでしょう。
もともとの日本式ではdi duなどがありましたが、訓令式導入の際に、部分的にヘボン式に妥協させられてなくなった経過があります。私はdi duなどは「旧かな」式につづっていいと思います。
>「鼻血」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか。
>「地面」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか。
「表音主義者」はなぜ私の質問を無視するのだらう。
囘答出來ない疑問、「ローマ字」にとつて致命的な疑問を突きつけられたからではないか。
>ヤマサキセイコーさんがいっているのは、漢字の導入によって日本語が「漢語化」してしまったということです。
ならば「ローマ字の導入によつて日本語が『英語化』してしまふ」と云ふ批判は、可能となるだらう。
>音素という概念によって日本語の分析が深まったということを否定するのですか?
しかしそもそも、「音素」は分析の結果、初めて發見された觀念であり、日本人は意識して來なかつたものである。ならば、「音素」を「意識しない事」こそが日本人の態度として「正しい」ものである、と考へるべきである。
飽くまで言語學の成果を重視すると言ふのならば、「表音主義者」は「言語學崇拜」に陷つてゐると言へよう。
>音素という概念によって日本語の分析が深まったということを否定するのですか?
「分析が深まった」と解釋するのは結構だが、飽くまでそれは「言語学」の話に過ぎない。
「言語学」での常識と言へば、音と意味との結合は恣意的なものである、と云ふ例のソシュールのテーゼがある。そして、この考へ方が提唱された事で言語學において一般に言語の「分析が深まった」事は論を俟たない。が、だからと言つて、意味に音を恣意的に結合させるべきだ、として恣意的な表記なるものを提唱する人間はゐない。
「音素という概念によって日本語の分析が深まった」事と、「音素を基準に表記するやうにしなければならない」と云ふ事とは、論理的に結び附かない。
あうw
それについてはこちらに問題がありますね。
申し訳ない。
「表音主義者」は以前、斯う書いた。
>複数の方式が提唱されながらも、ヘボン式表記は学問的論議によって退けられたわけですから、学問的には日本式を基本にした方式しか存在しないわけです。
しかし、「表音主義者」は、「私は、kabusiki-kaisyaとかけばよいと思います。」「私は現在の日本式ローマ字を全面的に肯定するわけではなく、撥音(ん)にはナ行子音と別の文字をあてるべきだと考えます。」と書いてゐる。
「表音主義者」が「日本式を基本にした方式」と言つた意味が良く解つた。解つたが、「表音主義者」が大事な「日本式を基本にした方式」と、「日本式」とは別物であり、「表音主義者」は「日本式」そのものを辯護する必要はない。ならば、「表音主義者」ははつきり「日本式は駄目だ」「日本式を基本にした俺的独自方式が良い」と言はなければならなかつた。「表音主義者」がわざと「日本式」を支持してゐるかのやうに振舞ひ、「日本式」に攻撃を集中させ、「表音主義者」にとつて本當に大事な「日本式を基本にした方式」を守らうとしたのは、卑怯であるやうに思はれる。
しかしその「日本式を基本にした方式」は、「日本式」と違つて、學問的に確定したものではない。これは致命的な問題だ。「日本式を基本にした方式」と「表音主義者」は言ふが、個人個人が「日本式を基本にした方式」を獨自に主張すれば、表記が混亂する事は自明だからだ。
s16さん
おっしゃることにはおおむね賛成ですが、
>> もちろん現在の日本語をそのまま転写すればよいということではなく、漢語のやまとことばへのおきかえなどは必要になってきます。
> という考えが理解されていれば、ローマ字と表意的働き・同音異義語などの問題ではなく、「漢語の大和言葉などへの置き換えなど」の是非に発展していたのではないかと。まあ、今回それを示してくれたのでよいのですが。
これについては、表音主義者さん自身のことばではありませんが、参考ページのURLを示すという形で提示していたはずです。
>だからカナ文字では音素が示されないのです。カナは音節文字ですから。
そのために音素よりも多い文字数となり、文法もわかりにくくなります。(動詞変化の例をあげました)
意味不明です。
「音素よりも多い文字数となり、文法もわかりにくく」なるのはどう考えても
ローマ字です。指折って数も数えられないのですか。
こんなことはちゃんと五十音表を見ればすぐわかると思います。
わざわざ説明させないでください。
百歩譲ってローマ字は音素を示すという主張がありえたとしても、
「ち」は発音的には「chi」だが「ti」と書いてよい、という主張は明らかに
それと矛盾します。
すなわち、日本式ローマ字は音素をあらわしません。
>つまり、仮に外国人に学びやすい表記であっても、正しい日本語表記でなければ除外するということです。すなわちヘボン式は、仮に外国人に学びやすいとしても、最初から除外するということです。
日本語表記としてローマ字の方式が正しい正しくない、などという決めごとは
あたかもそれが在るかのように、勝手に"表音主義者"が言っているだけのことです。
そんなものは「大前提」たりえません。
>かなでは音素が示されていません。母音と「ん」「っ」を除くかなは2音素を示しています。これだと表記が簡潔になりません。
これは「音素を示すべき理由」にはなりません。
「音素を示すべき理由」を訊かれているのに「音素が示されていないから」と答えるのは
驚きとしか言いようがありません。
>言語学の概念は「日本語の現実に即していない」といいたいのですか?
日本語の現実に即していないのは、漢字仮名交じり文を捨ててローマ字表記にせよ
とかいうバカげた主張でしょう。
文脈以前の話です。
それに何を勝手に言語学を背負ったような気になっているのですか。
>同音異義語のことをいっているのでしょうか?
日本語をローマ字化すると同音異義語ばかりになるとよくいわれますが、それは漢語を多く使いすぎている結果です。
日本語の音節は114個くらあります。3音節の単語なら150万程度つくれます。一番大きい辞書にもそんな多くの単語は載っていない。ですから音節の少ない日本語でも同音異義語が避けられないということはありません。
すなわち、現状の日本語を破棄して新たにローマ字表記に適した新言語を作れ、
と"表音主義者"は主張しているわけです。
今まで日本語がどうこうと言っていたのはなんなのか。
本末転倒とはこのことです。
これで言語学が日本語の現実にどうの、日本語学がどうの、などと言い、
しかも自分は漢字かな交じり文を書くのは、日本語と日本語に関わる人間への
侮辱ではありませんか。
かように"表音主義者"が書いていることはまったくもって支離滅裂です。
"表音主義者"は矛盾を指摘されるとすぐに文脈がどうのというようですが、つまりは
俺様の文章を理解しろ、という不誠実きわまる態度をとり、どう突っ込まれても
それは俺様の意図と違う解釈だバカめ、とか言っているだけではないですか。
文章が理解不能な代物である責任を読む側に負わせようとしてはなりません。
それは逃げというのです。
なるほど。
ローマ字表記が、英語と比較しては「音」として簡素で理解しやすいというのには納得しました。
ローマ字表記は規則から発音を、おおよそ特定可能な表記法であるということで宜しいですか。
ただ、
>>たとえば、日本語の「ん」の発音はn,m,?の3通りありますが、これは前後の音によって決まります。
日本人にとって、それは語と語の組み合わせの中で自然の中に発生するイントネーションの変化(?)ではありますが、それらはすべて同じ「ん」ではないのかという疑問があります。
>>私は現在の日本式ローマ字を全面的に肯定するわけではなく
失礼ですが、私にはその前提が認識できていませんでした。
ローマ字派、ローマ字反対派双方にあることなんでしょうが、見えない前提が多いのではないかと。
例えば
>>もちろん現在の日本語をそのまま転写すればよいということではなく、漢語のやまとことばへのおきかえなどは必要になってきます。
という考えが理解されていれば、ローマ字と表意的働き・同音異義語などの問題ではなく、「漢語の大和言葉などへの置き換えなど」の是非に発展していたのではないかと。まあ、今回それを示してくれたのでよいのですが。
自論の要素を表現しきることは不可能だとしても、(概略の明示がなく)訳のわからない結論から明示だけでは、誤解と宗教的な何かを感じざるを得ないと思います。(これは表音主義さんだけに見られるものではありません。)
あと、この議論に関する私の関心点は、ローマ字表記を採用する合理性です。たぶん、語学について門外漢な人間はそのことを一番気にするでしょう。
理論的に正しく、採用して利があること。
『「漢語の大和言葉などへの置き換えなど」の改革にかかるコスト、普及についてのコスト、言語体系に与える影響に関するコスト』と『ローマ字表記を採用して得られる日本国民の利益』を天秤にかけて、ローマ字表記採用は合理性があるものなのどうかは、(専門外であるという意味での)一般人として興味深い内容です。
横槍の部外者がこんなこというと「何を偉そうに!」と怒られそうですが、これは論争か貶しあいを考えた方が宜しいかと。
馬鹿にすることがレトリックだというなら、そんなレトリックなどないほうが良いと思います。
自己完結した内部暗示前提型の理論や感情論ではなく、自論を構成する要素を明示し、論理的にどのような利点があるのか、欠点があるのか、合理性があるのかを各々の方が理解するだけでも、この議論には十分な価値があると思います。それだけ興味深い議論だと私は考えています。
>>ぜんぜん文脈が違うでしょ。
>>文章の意味をちゃんと理解してください。
>>わざわざ説明させないでください。
これは議論でしょう。相手に理解されないお話し合いは議論とは言えないのではないかと。相手が「わからない」というのならば、自分の主張をわかりやすく相手に伝える努力をするのも議論の技術かと思います。極端な話、「あいつは馬鹿だから話にならない」というのは議論ではなく程度の低い衝突です。(議論は人によることは否定しませんが)
自分の文章が良く理解されないということは、相手のせいばかりでもないはずです。無論、自分が相手の文章を読む場合、「相手の文章が悪い」といって、己の怠慢を肯定することが良いといっているのではありません。ただ、相手の非ばかりを言っても始まらないのではということです。議論の相手として対応した以上、その相手に合わせてお話しする以外の方法はないじゃないですか。
そして、誤解について釈明することによって正しく理解されるならば、或いは正しく理解される可能性があるならば、誤解されたままよりもマシではないですかな。
あと、嫌味や煽りとも取れる発言は、議論を濁らせてしまうのではないか、と思います。(発言者に直接的な意図がないとしても。)
「相手が法を犯したから自分も法を犯してよい」という理論がごく一般的には成り立たないように、「馬鹿といわれたから馬鹿といって良い」ということにはならない。良い議論を行いたいのなら、相手に対しても誠実であるべきです。論旨とか関係なく「アンタは阿呆。」⇔「お前は馬鹿」的なお話合いというか、言い争いが好きなら話は別ですが。
発言者はもう少し冷静に考え、言葉を選んだ方が宜しいかと。
>日本人は、古来からいろは四十七文字で表せるよりも細かく音を分解して考へる習慣がありませんでした。「音素」なんぞといふものを持出すことは無意味です。
音素という概念によって日本語の分析が深まったということを否定するのですか?
わけがわからないです。そもそも言語学なんていう学問は必要ないということになりかねません。
>日本語の問題は、日本語の現実に即して、日本語で考へなければなりません。
言語学の概念は「日本語の現実に即していない」といいたいのですか?
音素がなかったら、日本語学もほとんど成り立たないと思いますが。
>「ち」の仮名は「ち」と書いて「チ」と読めばいいのです。そこには何の矛盾も不自然もない。
>我々日本人は「ち」の音が「ti」であるのか「chi」であるのかなどに拘る必要はないのです。
こだわっているのは、私ではなく「外来語の表記法」を持ち出して日本式ローマ字を否定している人でしょう。
>音素とは、ある言語を分析・考察して、音韻理論上に得られる音の最小単位のこと──らしいですね。文書構成要素の最小単位が「一文字」ならば、音素とは口語の「一音」となるのでしょうか。
そういうことです。
日本語は22の音素があります。
母音=a i u e o
半母音=y w
子音=k g s z t d n h b p m r
その他 撥音 促音 長音
私は現在の日本式ローマ字を全面的に肯定するわけではなく、撥音(ん)にはナ行子音と別の文字をあてるべきだと考えます。ナ行子音はnで、撥音はŋがいいと思います。
また促音にはqを使うべきだと考えます。
現在の表記では、促音は次の子音を重ねる事になっています。例 いった itta
しかしこれだと促音が一つの音素であることが明確になりませんし、また「あっ!」のように促音で終わる場合は表記できません。
>音素が言葉の音としての最小単位であるとして、「音素を示すべき理由」が良く理解できません。「近似的に口語を文字に変換するには音素を示すのがベター」かつ、「表記とは、近似的に口語を表しているべき」というような思考があるようですが、それが真であるにしてもローマ字である必要性は何処にあるのか。口語に対して近似的という意味では「現代かな漢字カタカナ文」とて捨てたものではないと思うのですが。
かなでは音素が示されていません。母音と「ん」「っ」を除くかなは2音素を示しています。これだと表記が簡潔になりません。
>・音素を示すことが、それを見て発音できるということではないということ。
規則さえ覚えれば簡単です。英語のように辞書に発音記号がないと読めないということはありません。
>綴りを見れば発音がわかる──というのは結局のところ経験、「慣れ」からなる要素のなのではないか。音素表記でも発音はわからないはずです。なぜなら音素は音素であって、発音ではないのでしょう。(音素は音韻から分析した発音の最小要素らしいですから)
わかります。一定の規則があるから。
たとえば、日本語の「ん」の発音はn,m,ŋの3通りありますが、これは前後の音によって決まります。日本語を母語とする人は意識しないで発音しますが、日本語を母語としない人は規則を覚える必要があるでしょう。しかし規則さえ覚えれば簡単に発音できるわけです。
>仮にローマ表記に慣れる事は簡単だったとしても、実際に言葉として運用するには不便であるということはないのか。現在の口語でさえ、漢字や例えを出さないと意味が特定できず、通じないこともあると思います。
もちろん現在の日本語をそのまま転写すればよいということではなく、漢語のやまとことばへのおきかえなどは必要になってきます。
>ローマ字表記は、口語の弱点である「意味の伝達能力の低さ」をそのまま受け継いでしまうと思うのですが、ある単語に対して(基本的に)一意の意味を示すことはローマ表記には可能なのでしょうか。
同音異義語のことをいっているのでしょうか?
日本語をローマ字化すると同音異義語ばかりになるとよくいわれますが、それは漢語を多く使いすぎている結果です。
日本語の音節は114個くらあります。3音節の単語なら150万程度つくれます。一番大きい辞書にもそんな多くの単語は載っていない。ですから音節の少ない日本語でも同音異義語が避けられないということはありません。
それは、日本語の仮名をもつて欧米語を正しく、理論的に表記できないのと同じです。
日本語は漢字と仮名で、欧米語は欧米の文字でそれぞれ書表はせば良いのです。
何度も言ひますが、日本語のローマ字表記は便法にすぎない。
外国人が日本語を習ふのならば、最初から漢字仮名混じりの正しい日本語で勉強すればよい。日本人に判りやすい合理的な表記であれば、外国人にとつても合理的で理解しやすいはずだ。
日本人は、古来からいろは四十七文字で表せるよりも細かく音を分解して考へる習慣がありませんでした。「音素」なんぞといふものを持出すことは無意味です。日本語の問題は、日本語の現実に即して、日本語で考へなければなりません。「ち」の仮名は「ち」と書いて「チ」と読めばいいのです。そこには何の矛盾も不自然もない。
我々日本人は「ち」の音が「ti」であるのか「chi」であるのかなどに拘る必要はないのです。現代日本でもそれは基本的に変りません。日本語の問題は、漢字仮名混り文で考へなければなりません。それも正字正仮名をもつて。
> 私は、kabusiki-kaisyaとかけばよいと思います。
表音主義といいながら、苦しくなると語意識に従うというのでは、筋が通らぬというのです。
>だからなぜローマ字でなければならないのですか。
>だいたい単に表音であるというだけなら、ひらがなでもカタカナでもいい話でしょう。
>わざわざアルファベットで綴るとかいうのは、外国人に学習させやすくするため以外の理由がありません。
だからカナ文字では音素が示されないのです。カナは音節文字ですから。
そのために音素よりも多い文字数となり、文法もわかりにくくなります。(動詞変化の例をあげました)
ハングルのように、音素と音節を同時に示している文字ならともかく、日本語のカナは音素を示していません。
外国人だけではなく、日本語を母語とするものにとってもローマ字の方がわかりやすいのです。
>それにローマ字が「正しい日本語表記」であるなどとバカな主張をしているのは、
この場においてあなた一人だけです。勝手に前提を造ってはいけません。
文章の意味をちゃんと理解してください。
「ローマ字表記が正しい日本語表記」というのが前提ではなくて、
「どの日本語表記が最良か」を議論する場合に、まず大前提として「正しい日本語表記」でなければならず、その上で「外国人にも学習しやすいか」ということが議論になる、といっているのです。
仮にABCの3つの方式があるとします。
その中で、正しい日本語表記であるものがABの2つ、外国人にも学びやすいものがACの3つだとします。
この場合、Cは日本語として正しい表記でないから除外され(大前提)、
その上で残ったABのうちどちらが外国人にも学びやすいかを比べる、ということです。
つまり、仮に外国人に学びやすい表記であっても、正しい日本語表記でなければ除外するということです。すなわちヘボン式は、仮に外国人に学びやすいとしても、最初から除外するということです。
こんなことは私の書いた文章をちゃんと読めばすぐわかると思います。わざわざ説明させないでください。
>日本人がローマ字表記の日本語を選択する利点が全く無い。
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~roomazi/
ここなど読んでください。
>また一見理論的に思えるローマ字表記だが、例えば「株式会社」は発音ではkabusikigaisyaとなるが、私達はだれも二語が連続したときに後ろの語の最初の音が濁ることを特別意識しないで発音しまた表記している。これは「株式会社」と「会社」は同じ語で構成されていると漢字表記に基づいて認識しているからである。
>表音表記になればkabusiki-gaisyaのgaisyaはkaisyaの語が前の語の後に連続したことによって濁音変化したと云う法則を余計に教えることによって初めてgaisyaはkaisyaと同じ語と認識されることになって、そうでなければkabusikigaisyaとkaisyaは全くの別の言葉として丸暗記していくしかない。こうした表記上の問題は日本語のありとあらゆるところに現れる。そして濁音と云う概念さえ点点を右上に付けるという平仮名の認識によって分かりやすいのだがkの音が濁るとg音になると濁音の概念さえ表音表記は暗記を強要する。
誰も強要していません。
こういう言葉(ふたつ以上の単語がつながった言葉)についてどう表記するかはISOや内閣告示では決まっていません。
私は、kabusiki-kaisyaとかけばよいと思います。
>「表音主義者」推奬のヤマサキ セイコーの文章は、のつけから「表音主義者」の主張と對立してゐる。
ぜんぜん矛盾していません。何に対して反論しているのか、文脈を読んでください。
ヤマサキセイコーさんがいっているのは、漢字の導入によって日本語が「漢語化」してしまったということです。
私が
>言語と文字は違います。
といったのは、たしかローマ字は普遍的なものであるという文脈で言ったと思います。
共通のコンピュータを使いながらさまざまなものを生み出すように、共通のローマ字を使いながらさまざまな言語が表現できる、という意味です。
ぜんぜん文脈が違うでしょ。
拗音とか促音とかも曲者でして、「しゃ」を「sya」とするのも結構怪しげです。歴史的假名遣では拗音も促音も小さな文字ではなく普通の文字で表記します。音素とか音韻とか言つてゐますが、昔は拗音も促音も普通の音と同じものと認識されてゐたのです。なのにわざわざ拗音とか促音とか言つて小さな文字にしたのは表音主義者です。
「しゃ」と書いてゐますが、これは歴史的假名遣では「しや」です。「歴史的假名遣風」(?)の「音韻」の觀念を根據にすれば「siya」と書く事になりますが、この方が或意味「正しい」ローマ字の記法であるとすら言へます。
s16さんのおっしゃる「・ローマ字表記の理論性ではなく、ローマ字表記を用いる合理性がわからないこと。」が総てであるように思います。
今までの議論を読んで、日本人がローマ字を採用することの理由以上に、漢字かな交じり文を捨てなきゃいけない理由が全くないとしか言いようが無い。海外の人が学ぶ日本語がローマ字であっても一向に構わないし、ローマ字日本語で日本人と外国人が交流したとして一向に構わない。それを誰も否定しない。日本人がローマ字表記の日本語を選択する利点が全く無い。
また一見理論的に思えるローマ字表記だが、例えば「株式会社」は発音ではkabusikigaisyaとなるが、私達はだれも二語が連続したときに後ろの語の最初の音が濁ることを特別意識しないで発音しまた表記している。これは「株式会社」と「会社」は同じ語で構成されていると漢字表記に基づいて認識しているからである。
表音表記になればkabusiki-gaisyaのgaisyaはkaisyaの語が前の語の後に連続したことによって濁音変化したと云う法則を余計に教えることによって初めてgaisyaはkaisyaと同じ語と認識されることになって、そうでなければkabusikigaisyaとkaisyaは全くの別の言葉として丸暗記していくしかない。こうした表記上の問題は日本語のありとあらゆるところに現れる。そして濁音と云う概念さえ点点を右上に付けるという平仮名の認識によって分かりやすいのだがkの音が濁るとg音になると濁音の概念さえ表音表記は暗記を強要する。
はたして表音表記は漢字を覚える以上に簡単であろうか?賛否はあろうが一応は義務教育で習う当用漢字程度を覚える方が子供にとってもはるかに簡単だと想像できる。
一時流行した「試験に出る英単語」が受験生の支持を集めたのも、語幹分けして英単語を漢字の様に表意文字(列)の組合せとして示すことによってより覚えやすかったからではないのか?
表音表記によって日本語が簡単になるというのも嘘だと思います。
ほなほな
>なぜこんな馬鹿な質問がでるのかわかりません。
>いまは日本語表記法について議論しているのですよ。正しい日本語表記であることが大前提であって、その前提を満たしたうえで「外国人にも学習しやすいか」といったことが問題になるのです。
だからなぜローマ字でなければならないのですか。
だいたい単に表音であるというだけなら、ひらがなでもカタカナでもいい話でしょう。
わざわざアルファベットで綴るとかいうのは、外国人に学習させやすくするため
以外の理由がありません。
それにローマ字が「正しい日本語表記」であるなどとバカな主張をしているのは、
この場においてあなた一人だけです。勝手に前提を造ってはいけません。
バカとか言われてさんづけする義理もありませんので呼び捨てにしますけど、
案の定無視された質問をもう一度します。
どうして表音主義者は漢字仮名交じり文を書くのですか。
読みにくいばかりか日本語のニュアンスを破壊するようなローマ字記述など
現実的な使用にはとても耐えられるものではないためでしょう。
BBSの書き込みにすら自分の主張通りの記法を使えない、
そんな人のどこに説得力がありますか。
明治時代に「棒引假名遣」と云ふ表音的な假名遣が實施された事があります。これはとても不評ですぐに取止めになりました。が、この假名遣で教育を受けた軍人が、大東亞戰爭の頃には指導者となつてゐたさうです。勿論、表音的な假名遣だけが戰爭の原因ではないでせうが、この假名遣のせゐで隨分教育レヴェルは低下したやうです。
今實施されてゐる「現代仮名遣」もかなり危險だと思つてゐますが、ローマ字になれば間違ひなく非道い事になります。
> もう疲れたのでここでやめます。
そりゃお互い様で。しかし言いっぱなしで終わりはずるい。一応最後の反論ということで。
> ローマ字表記は発音を転写するものではなく音素を書き表すものなのです。音素を表さないヘボン式はダメなのです。
勝手に決めないように。その間違った前提があったから延々とおかしなことを並べ立ててらした訳ですね。なるほど理解しました。
『音素』については他の方が質問されていますが、要するに五十音図が先ずあって、それに沿って作られた日本式ローマ字を正当化するためにでっち上げられた観念ではないですか。そうであるならばそれを根拠に日本式が正しいと言うことは簡単。しかしその根拠とされるもの自体に根拠はない。それだけのことです。
前のほうで野嵜さんも指摘されていた通り、日本式ローマ字というのは要するに五十音図上のx座標・y座標を示したものに過ぎない。さらに発音をそのまま表わさなくていいならば、ローマ字など使わず五十音図の行と段に数字でも振って並べれば事足りますよね。『いろは』ならば02,85,51とでもすれば良い。独自の文字を持つ中東や南アジアその他の国々でも流通している算用数字のほうが、ローマ字などよりよほど国際的ですから。
こういうことがナンセンスだと言うなら、即ち同じことが日本式ローマ字にも言える。表音主義者さんのご主張はその程度のものだということです。終わり。
蛇足ながらもう一つ。表音主義者さんは別の書込みでこう述べておられます。
> 現実を素直に見るべきです。
しかし現実を見ておられないのはどなたでしょうか。『ティ』『トゥ』などの音が日本語の中で実際に通用していることは考慮に入れず、それについての質問も無視なさる。
また戦後間もなくGHQの指導で、一部の小学校で実験的にローマ字のみによる教育が行われたことはご存知ですよね。結果、どの教科に於いても児童の成績が著しく低下したそうです。そこでこの『実験』は直ちに取り止めになったわけですが、こういう事実を見てもまだ日本語のローマ字表記に拘泥なさるのでしょうか。
――いや。答えなくていいです。諦めました。
「かすみそ」の答えは明日発表します。
御存知の方は、それまで教へないでね。
私が略字正かなを使ふのは、単純にそのはうが楽だから、といふ理由が一つ。
もう一つは、「徳」とか「者」とか「冬」とか伝統的な活字形をコンピュータで表示することが出来ないからなのですが、野嵜さんの投稿を見てゐると、コンピュータで表示可能な範囲で出来るだけ正字を用ゐる表記も、良いものだな、と思ひ始めました。ちと、話がずれましたが。
>綴りを見れば発音がわかる
この時點で既に疑問があるやうですが。
「發音が分かれば意味が解る」
これが私には一番解らない「ローマ字崇拜者」どもの主張です。
これまでの発言を読み返しておりましたが、その間に色々と進展しているようですね。
流れを無視して勝手に書かせてもらいます。幾つか重複している点はゆるしてくださいw
まず、「日本語」の定義が双方の論者で異なっているということが感じられます。お互いの前提が違うから何度も同じことを言うようになる。用語の定義は重要なことだと思います。それは「音素」という用語についても良く現れているのではないかと。
音素とは、ある言語を分析・考察して、音韻理論上に得られる音の最小単位のこと──らしいですね。文書構成要素の最小単位が「一文字」ならば、音素とは口語の「一音」となるのでしょうか。
音素が言葉の音としての最小単位であるとして、「音素を示すべき理由」が良く理解できません。
「近似的に口語を文字に変換するには音素を示すのがベター」かつ、「表記とは、近似的に口語を表しているべき」というような思考があるようですが、それが真であるにしてもローマ字である必要性は何処にあるのか。口語に対して近似的という意味では「現代かな漢字カタカナ文」とて捨てたものではないと思うのですが。
あと箇条書きですが、
・音素を示すことが、それを見て発音できるということではないということ。
・日本語は漢字によって多大な影響を受け、漢字からも日本語が生まれてきたということ。
・我々がローマ字で書かれた日本語の意味を正確に認識できるのは「漢字とその意味を知っているから」であるということ。
・「漢字とその意味」の概念がない人がローマ字の文章を読んだとしたら、意味不明な文書であるということ。(音素の文字列による意味の特定能力の低さ)
・ローマ字表記の理論性ではなく、ローマ字表記を用いる合理性がわからないこと。
などということが思い浮かびます。
以下『』は表音主義者さんの文を私なりに解釈したものを示します。
「>>」は引用を示します。
『文字は音素を示すだけでよい→論理的な、或いは正しい表記』
『(英語)綴りを見るだけでは発音がわからない→非論理的』
綴りを見れば発音がわかる──というのは結局のところ経験、「慣れ」からなる要素のなのではないか。音素表記でも発音はわからないはずです。なぜなら音素は音素であって、発音ではないのでしょう。(音素は音韻から分析した発音の最小要素らしいですから)
>>慣れるのが容易かどうかが問題
仮にローマ表記に慣れる事は簡単だったとしても、実際に言葉として運用するには不便であるということはないのか。
現在の口語でさえ、漢字や例えを出さないと意味が特定できず、通じないこともあると思います。
ローマ字表記は、口語の弱点である「意味の伝達能力の低さ」をそのまま受け継いでしまうと思うのですが、ある単語に対して(基本的に)一意の意味を示すことはローマ表記には可能なのでしょうか。
漢字を否定しますが、日本語は漢字とともに育つて来ました。初めて日本語を表記した文字は、漢字であります。平仮名も片仮名もどちらも漢字から創り出されました。日本語から漢字を取り去ることは、身体から骨を取出すやうなものです。
漢字が無ければ、日本語は機能しません。次の句を風流に仮名書したらどう読みますか。すぐに意味が読み取れますか?
のどかなる
はやしにかかるおにはまつ
かすみそのへの
にほひなるかな
大學で、ドイツ人教師に狂言について講義を受けたことがあります。本を音讀させられたのだけれど、皆、漢字の讀み方が分らなくて、ドイツ人にいちいち教はつてゐました。(たしか正字で書いてあつた)
理系の學生ばかりだつたにせよ、あれは非常に恥づかしかつた。
>>一、漢字が「教育上、社会生活上」多くの不便の原因となり、その制限が国民の生活能率を上げ、文化水準を高めるものだとしたら、火薬、羅針盤、活版印刷を発明した世界に冠たる支那の文明をどう説明したらよいのか。
>>一、明治維新から大東亜戦争突入までの大日本帝國の目覚しいまでの発展をどのやうに説明したらよいのか。戦国時代の武器をそのまま使用してゐた幕末から、明治、大正、昭和初期の短い期間に米英を相手に戦ふことが出来るまでになつた発展を。
>こんなものは文字と直接関係のある話ではありません。
>ある国が発展したとか発展しないとかはさまざまな要因に依存します。極めて合理的な表記法の言語を用いても滅びた国もあれば、極めて不合理な表記法を用いながら繁栄した国もあるでしょう。
>表記法などは国や文明の運命を決める多くの要因の一つでしかない。
それでは漢字を排斥するのはどういふ理由ですか。
これは、表音主義者の伝統的な論拠ぢやないですか。それを否定されるのですか?
貴方のやうに表記法を軽んずる人達が、言語を意味伝達の道具でしか無いと考へるひとたちが、今の日本語の混乱を作り出したのではないのですか?
はつきり言つておきますが、言語こそが国家なのです。
言語は文化であり、文化は民族であり、そして民族は国家を創ります。
さう言へば、オーストラリア人の大學教師が、zの筆記體を讀めなくてyと發音して呉れた事があつたなー。野燒さん。
>そりゃ学生の話でしょ
何の本で讀んだのか忘れましたが、ある日本人が留学中に米國人(?)留學生と知合ひに
なつたさうで、その留學生が、日本語の論文を讀みたいので讀み方を教へて欲しいと
その日本人に頼んださうです。ただ、必要なのは讀解だけなので、發音などは不要だといふ
事でした。そして、その留學生は一年ほどで日本語の論文を讀めるやうになつたさうです。
「勞力を割くことを惜しまない」とはかういふことでせう。一介の留學生に出來て專門の
學者に出來ないのであれば、その學者が無能であるといふだけの事です。
>人名表記は日本語として正しいものでなくてはならない。英語話者に正しく発音してもらうためではない。
日本語として正しい表記で、發音はどうでも良いと云ふのなら、當然漢字で書くのが一番正しい。
日本語を讀書き出來ないのは、「日本研究のために労力を割くことを惜し」んでゐるからだ。
そして、それら外國の少數の研究者の爲に、どうして日本の國民1億人が自國の文化を切捨てなければならないのか。
「表音主義者」は、
>日本を研究対象に選んだ学者というのは日本研究のために労力を割くことを惜しまない人です。そういう人でさえ日本語の読み書きは習得できないのです。この真実をまず見なさい。
と書いた。
ならば聞くが、「表音主義者」は、何人の「日本研究者」を見たのか。そして、「日本研究者」の何割が「日本語の読み書き」を出來ないか、そもそも「日本研究者」として認められる基準がどのやうなものなのか、等の事を知つてゐるのか。それらのデータを持つてゐるのか。ならば具體的な數字を擧げてみろ。イメージだけで物を言ふな。馬鹿。
>身内の耻を晒すやうな氣もしますが書いておきますと。
>・英文科で英語の讀書きを出來ない學生がゐた事
>・フランス語の授業で單位を落す人が結構ゐた事
>・ロシア文學專修の最初の試験の問題が「アルファベットを書け」だつたとか云ふ噂
>「日本研究者が日本語文献を読めないこと」に驚いてゐたら、「表音主義者」さんは日本の大學で驚き通しではないですか。
そりゃ学生の話でしょ。
英文学教授で英語が読み書きできない人がいますか?
フランス語教師でフランス語が読めない人がいますか?
そういうことを言っているのです。
日本を研究対象に選んだ学者というのは日本研究のために労力を割くことを惜しまない人です。そういう人でさえ日本語の読み書きは習得できないのです。この真実をまず見なさい。
>そんなものはまったく慣れの問題です。
全然慣れの問題ではありません。と言ふか何でも「慣れ」で濟まさないで下さい。
もし慣れで濟むのなら、漢字かな交じり文だつて慣れれば讀み易いし書き易いと言へるのです。
>しかし、「yasasii」と「kanasii」とでは、yとk、sとnとに差があるだけで、ぱつと見は殆ど同じです。ローマ字は、速讀に向きません。
>英語の綴りは、同じやうな發音でも異るパターンで表記される事で、見て區別し易いやうになつてゐます。
>「表音主義者」さんは、この邊の突込みを「わからない」「わからない」と言つてゐますが、本當に解らないのですか。
そんなものはまったく慣れの問題です。Rômazi no Nipponなどを読めばすぐ慣れます。
>日本語が本質的に難しいものであるとはいえません。現に会話を習得するのはそれほど
>難しくありません。発音は世界でもっとも簡単な言語の一つです
日本人の識字率は99%ださうで、讀書きの出來ない人を探すのは難しいですが、
外國へ行けば讀書きの出來ない人間は多くゐます。さういふ人でも唖でもない
限り喋る事は出來ます。つまり、どの言語でも會話は簡單であり讀書きは難しい、
といふか、適切な教育なしには出來ない事です。
「私は」の「は」、これを「表音主義者」さんは「wa」と書くべきだ、と主張してゐますが、なぜですか。「わ」と發音してゐても、いや、實際には發音してゐないのですが、意識の上で「助詞のははは」と誰もが思つてゐます。ならば、「は」の「音素」を殊更發音寄りに「wa」であるとする理由はないのではないですか。
「鼻血」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか。
「地面」の「正しい日本式ローマ字」の表記は何ですか。
>前提 −− それが正しい日本語表記であること
だーかーらー。
「音素」がどうのかうの、と云ふところから誰も納得してゐないのですよ。
そもそも、「ローマ字」も難しいものだ、と何度も書いてゐるのですが、「表音主義者」さんは全然解つて呉れませんね。
「易しい」と「哀しい」とは、漢字で書けば區別し易いものです。
しかし、「yasasii」と「kanasii」とでは、yとk、sとnとに差があるだけで、ぱつと見は殆ど同じです。ローマ字は、速讀に向きません。
英語の綴りは、同じやうな發音でも異るパターンで表記される事で、見て區別し易いやうになつてゐます。
「表音主義者」さんは、この邊の突込みを「わからない」「わからない」と言つてゐますが、本當に解らないのですか。
>>いまは日本語表記法について議論しているのですよ。正しい日本語表記であることが大前提であって、その前提を満たしたうえで「外国人にも学習しやすいか」といったことが問題になるのです。
>「日本式ローマ字」が「正しい日本語表記である」と誰も認めてゐないのに、獨りで突つ走らないで下さい。そもそも、「日本式ローマ字」が「正しい日本語表記である」と云ふ大前提をアプリオリに「正しい」として、外國人への日本語教育の話を始めたのは「表音主義者」さんです。
だから、どのような日本語表記法が望ましいかを議論するのに、
大前提 −− それが正しい日本語表記であること
この前提を満たしたうえで、できるだけ学習しやすい(外国語話者にも)ものであること
ということです。
ヘボン式はこの大前提を満たさないから排除します。
>しかし表記法は世界でももっとも難しい言語の一つなのです。その現実を理解してください。
難しくはありませんし、難しい事と「簡單にすべきである」と云ふ事とは即座に結び附きはしません。
>私は海外に長年滞在していますが、日本研究者が日本語文献を読めないことに非常にびっくりしました。また多くの言語を習得した人も、日本語のよみかきは世界一難しいといっていました。現実を素直に見るべきです。
現實を素直に見れば、日本人は昔から漢字假名交じりで書いてゐる、と云ふ事實こそ、最初に見るべきでせう。
ちなみに、「現代仮名遣」と「常用漢字」(と言ふより、略字體)は、普通の外國人にとつては、とても難しいものだと思ひます。論理的に一貫してゐないものが簡單である譯がありません。
しかし、歴史的假名遣と正漢字とは、體系的であり、規則的であるので、學習法が適切であれば、覺えられないものではありません。
身内の耻を晒すやうな氣もしますが書いておきますと。
・英文科で英語の讀書きを出來ない學生がゐた事
・フランス語の授業で單位を落す人が結構ゐた事
・ロシア文學專修の最初の試験の問題が「アルファベットを書け」だつたとか云ふ噂
「日本研究者が日本語文献を読めないこと」に驚いてゐたら、「表音主義者」さんは日本の大學で驚き通しではないですか。
>「音素」とは、ある言語において、一つの意味をなす音の集合です。
「意味をなす音」とは何ですか。音と意味とは恣意的にしか結合してゐない、と云ふのがソシュールの言語學のテーゼですが、そこで言はれる意味と、「表音主義者」さんの言はれる「意味」とは、異る意味のやうですね。
「表音主義者」さんの説明を見る限り、「音素」とは「かき分ける必要があるもの」と云ふ以上の定義がなされてゐないやうに思はれますが。
>「日本語の読み書きを習得する学習者が」多からうが少からうが、日本語が本質的に難しいものであるかどうかとは何の關係もないと言へます。
日本語が本質的に難しいものであるとはいえません。現に会話を習得するのはそれほど難しくありません。発音は世界でもっとも簡単な言語の一つです。
しかし表記法は世界でももっとも難しい言語の一つなのです。その現実を理解してください。
私は海外に長年滞在していますが、日本研究者が日本語文献を読めないことに非常にびっくりしました。また多くの言語を習得した人も、日本語のよみかきは世界一難しいといっていました。現実を素直に見るべきです。
>たいしたことではありません。
無責任極まる發言ですね。表音主義者は、例外ナシに無責任です。
>それよりもローマ字に慣れることによって英語学習への抵抗が少なくなること、また英語以外のローマ字表記があることを知ることによって英語以外の外国語学習への抵抗が少なくなることなどの利点があります。
文字と言語とは關係があるのですか。「表音主義者」さんの理窟では、文字と言語とは區別されるのが當然のものです。ならば、「同じローマ字」を用ゐる言語同士であつても、言語が違ふのならば相互の「抵抗感」は變らない筈です。
また、「ローマ字に慣れることによって英語学習への抵抗が少なくなる」のならば、漢字に慣れる事によつて支那語學習や漢文學習への抵抗が少くなり、假名に慣れる事によつて古文學習への抵抗が少くなる、とも言へるのではないですか。
逆に、「ローマ字に慣れる事によつて、漢文や古文への抵抗感が大きくなる」のではないですか。これは、「ローマ字でこそ古典文化は伝わリやすくなります」と云ふ表音主義者の主張と矛盾します。
>そもそも、「音素」とは何ですか。發音とは異るものなのですか。
もちろん異なるものです。
「音素」とは、ある言語において、一つの意味をなす音の集合です。
たとえば、日本語では、撥音(はねる音)は「ん」であり1つの音素です。
しかし、日本語の「ん」は、朝鮮語ではn, m, ŋと3つの音素になります。
朝鮮語ではこれらを別の音素として区別するので表記でもかき分けなければなりません。しかし日本語では区別しませんので1つの音素であり、かき分ける必要がありません。
日本語でも「ん」はn, m, ŋと発音されていますが、「ん」の発音がn, m, ŋのいずれになるかは前後の音によって自動的に決まり、区別されることがありません。ですから、「ん」はあくまで1つの音素なのです。
ヘボン式ローマ字では、「しんぶん」をShimbunというふうに書きます。1つの音素である「ん」に二つの表記を当てているのです。だからヘボン式は論外なのです。
であるから
>「発音のみを表面的に転写する」事とは違ふと云ふのだから、表面的ではないにしても「音素」とは「發音の轉寫」である事は間違ひないと思はれますが。
ではないのです。
「表音主義者」さんの論法は、屡々變です。
1.漢字は覺え難いから惡である。
2.英語の綴りは漢字的である。
3.英語の綴りは惡いものである。
この三段論法は、正しくない三段論法です。が、「表音主義者」さんの論法はこれです。
>言語によつて異ると言はれても、それは飽くまで「表音主義者」さんや表音主義者の人の考へる觀念であつて、現實と懸離れた理窟に過ぎません。
>事實、「表音主義者」さんも、「日本式ローマ字」を最初に覺えた人間が英語の學習に障碍を來す事を認めてゐます。
>「違って構わない」と言はれても、「違はない」やうにしてしまふ「傾向」があるのです。
そんな傾向、ないですよ。
ドイツ人がフランス語を学んだら、ドイツ語をフランス語式に読むようになりますか?
フランス人が英語を学んだら、フランス語を英語式に読むようになりますか?ならないでしょ。まったくの杞憂です。
また、日本語のローマ字表記に慣れれば、英語学習において英語を日本語式に読んでしまう可能性はありますが、その程度のことはどの言語でもあることです。たとえばドイツ人は英語を学ぶ時に英語をドイツ語式に発音してしまいます。しかし慣れれば混同しなくなります。たいしたことではありません。
それよりもローマ字に慣れることによって英語学習への抵抗が少なくなること、また英語以外のローマ字表記があることを知ることによって英語以外の外国語学習への抵抗が少なくなることなどの利点があります。
>日本語の音素を無視して
「音素」つて何ですか。きちんと説明して下さい。
>いまは日本語表記法について議論しているのですよ。正しい日本語表記であることが大前提であって、その前提を満たしたうえで「外国人にも学習しやすいか」といったことが問題になるのです。
「日本式ローマ字」が「正しい日本語表記である」と誰も認めてゐないのに、獨りで突つ走らないで下さい。そもそも、「日本式ローマ字」が「正しい日本語表記である」と云ふ大前提をアプリオリに「正しい」として、外國人への日本語教育の話を始めたのは「表音主義者」さんです。
何と言ふか、こちらこそ「表音主義者」さんの態度に、精神的に疲れるのですが。
>何度も同じ事をいいますが、ローマ字表記は発音を転写するものではなく音素を書き表すものなのです。
「ものなのです」と言はれても、なぜ「さうあるべき」なのかが全然わからないのですよ。「言語と表記とは別」「発音と音素とは別」云々と言つて「表音主義者」さんは辻褄合はせをしてゐて、それはしないよりは増しなのですが、しかし、その辻褄合はせが結局、觀念的で抽象的な議論にしかなつてゐない、「さう考へれば辻褄は合ふでせう?」と云ふ程度のものにしかなつてゐない。
「表音主義者」さんが「正しい」と信じてゐるローマ字は、實際に運用を始めれば途端にぼろが出るのです。そして「表音主義者」さんもその邊の事は自覺してゐる。だから、「日本式ローマ字」で學んだ人間が英語學習に支障を來す事を認めてゐる。にもかかはらず、觀念上の辻褄を合はせて「表音主義者」さんは納得してしまふのです。
そこが、「宗教つぽい」と云ふ印象に繋がるのです。
波江のやうに「まづはローマ字を實踐してみる事です」等と言つても、普通の人は疑ふだけです。
>>ta ti tu te toの発音も日本語とほかの言語では違って構わないのです。
>>日本語ではこれを「たちつてと」と発音するのであって、外国語の基準でどうこういうのがおかしいのです。
>外国人が日本語を学習しやすくするためにアルファベットを日本語の書き言葉にしよう、
>という主張を表音主義者さんはされているように見受けられるのですが、
>その主張が明らかに妥当でないと思われることをひとまずさておいても、
>ならば余計に「外国語の基準」に沿わずともよいとされる理由は何なのですか?
なぜこんな馬鹿な質問がでるのかわかりません。
いまは日本語表記法について議論しているのですよ。正しい日本語表記であることが大前提であって、その前提を満たしたうえで「外国人にも学習しやすいか」といったことが問題になるのです。
正しい日本語表記でないヘボン式は論外です。
正しい日本語表記ということは、日本語の音素を表記するということです。日本語の音素を無視して、外国人に発音しやすいようにするなどは論外です。
だからta chi tsu te toは論外なのです。
いいかげん、わかってください。
ちなみに、過去ログは以下の場所にとつてありますので。https://www.angelfire.com/id2/memo/logfiles/kotoba_200311.html
>イタリア語の場合、単語のつづりはきわめて簡単です。英語やフランス語のような苦労はありません。
私には、「表音主義者」さんの言つてゐる事の意味が解りません。イタリア語の綴りは簡單だと言ふのは、「表音主義者」さんの完全な獨斷だと思ひます。
>それは言語そのものの問題で、表記法の問題とはいえません。
表記と言語とを嚴密に區別してゐるやうですが、御都合主義だと思ひます。もし完全に區別したいのなら、「表音主義者」さんは活用形の話を持出して「ヘボン式」を非難してはなりません。
>日本語と違いますが、規則は一定していて例外が少ないので覚えるのはすぐできます。
覺えなければならない事に變りはありません。
また、規則が一定してゐようが、實際の運用の際、的確に規則に當嵌めて使ひこなせるとは限りません。その「例外」の出現頻度が高い事、規則を適用して變化させなければならない機會が多い事で、實際の運用は困難となります。
一言で言へば「慣れ」が必要と云ふ事ですが、それを言つたら日本語の漢字と假名の運用も慣れ次第です。
>漢字があればどのように暗記が楽になるのか、よくわかりません。
>漢字があれば熟語の意味がわかりやすいという程度でしょう。それが漢字を覚えるおおきな苦労を上回るとはとてもおもえません。
「熟語の意味がわかりやすい」事ですら、綴りを見ただけでは意味を推測する事も出來ないローマ字表記に對する大きなアドヴァンテッジであるやうに思はれますが。
しかし、漢字を6000字も覺えれば、その組合せでどんな文章も書けます。また、漢字を覺えるとは、漢字の讀みを覺える事ですが、音と共に訓を覺える事になります。そして、訓とは即ち意味の事です。漢字を覺える事は、漢字の意味と運用法とを一氣に覺える事です。手間がかかるやうに見えますが、何しろ漢字は活用しないので、活用形を覺えないで濟みます。とにかく音と訓を覺えれば、漢字は使ひこなせるやうになる。英佛獨伊西の諸語の綴りと文法を覺える手間に比べても、決して厄介だとは言へないと思ひます。
現に「表音主義者」さんも漢字を使ひこなしてゐるではないですか。
>歴史を研究するのに古語を学ぶのは当然です。古典漢文やラテン語や古代ギリシア語など。
だからといって古語を現代でも使うべきだという事にはなりません。
でも、漢字假名交じりの歴史的假名遣の文章に慣れてゐれば、古典や漢文を樂に讀めるのです。讀めないよりは讀めた方が良いに決つてゐるでせう。私は古典や漢文を一部の知的エリート階級の占有物にすべきではないと思つてゐるのです。
>ローマ字の世の中になると,漢字で書かれた書物が読めなくなるという意見があります。これは文字にこだわりすぎてのことで,漢字文化伝承の研究は専門の学者によって続けられます。
「専門の学者」のみによつて「漢字文化伝承の研究」が「続けられ」る事と、一般の日本人が「漢字で書かれた書物」を讀み續けられる事とは違ひます。博物館の陳列品となる事は、「文化の伝承」ではありません。この邊の話のすりかへを、表音主義者は皆、平氣でするのですが、どうして出來るのか、理解出來ません。
多分、一部の好事家の玩弄物としてなら漢字を認める、と云ふ皮肉の意味で言つてゐるのでせう。表音主義者は、とにかく漢字を一般人に使へないものにしたいのです。彼等にとつて、漢字は絶對惡なのです。
しかし、誰が見ても日本語には漢字が必要です。漢字を採入れて發展してきた現代の日本語から漢字を拔き去つても、古代の「正しい」日本語へ囘歸した事にはなりません。そもそも、古代の日本語に戻る事は出來ません。既に當時の日本語で表現出來ない觀念が大量に存在する以上、それらの觀念を表現し得る言語が必要となります。
「漢詩のローマ字による日本語訳」は、漢詩そのものではありません。「古典の書きかえ」は古典そのものではありません。「ローマ字でこそ古典文化は伝わリやすくなります」と表音主義者は言ひますが、オリジナルの漢詩の持つニュアンスや味はひは、完全には傳はりません。飜譯がオリジナルの文書の意味を完全には傳へ切れない事は、常識です。そして、飜譯で拔け落ちるのは、文化の根幹に關る事です。そして、「伝承」されるべきものは、飜譯可能な文章の意味ではなく、飜譯不可能な文化そのものです。
土岐善麿がとてつもなく頭の惡い人間であつた事には、福田恆存が呆れ返つてゐましたねえ。
>こんなものは文字と直接関係のある話ではありません。
>ある国が発展したとか発展しないとかはさまざまな要因に依存します。極めて合理的な表記法の言語を用いても滅びた国もあれば、極めて不合理な表記法を用いながら繁栄した国もあるでしょう。
>表記法などは国や文明の運命を決める多くの要因の一つでしかない。
それを言つたら、「表音主義者」さん自身の以下の主張が崩潰してしまひますが。
>日本語話者の数は1億人を超え、世界でもっとも広く話される言語の一つです。ドイツ語やフランス語より多くの話者を数えているのです。
>また日本語出版物の数も非常に多い。数百年間をみればどうかわかりませんが、近年に限ってみればドイツ語やフランス語の出版物より日本語の出版物が多いでしょう。
>にもかかわらず、日本語を外国語として学習する人がいかに少ないことか。また日本語の読み書きを習得する学習者がいかに少ないことか。
「日本語の読み書きを習得する学習者が」多からうが少からうが、日本語が本質的に難しいものであるかどうかとは何の關係もないと言へます。
>何度も同じ事をいいますが、ローマ字表記は発音を転写するものではなく音素を書き表すものなのです。音素を表さないヘボン式はダメなのです。
>日本語の音韻体系に基いた表記法ではなく、発音のみを表面的に転写するならば、日本語の音韻体系が破壊されるといっているのです。
目糞鼻糞と言つた觀がありますが。
そもそも、「音素」とは何ですか。發音とは異るものなのですか。「発音のみを表面的に転写する」事とは違ふと云ふのだから、表面的ではないにしても「音素」とは「發音の轉寫」である事は間違ひないと思はれますが。
しかし、如何考へてもこの「音素」なる概念、發音からは出て來ない概念です。明かに、書き言葉から生ずる以外に發生し得ない概念です。ならば、「音素」を寫す「日本式」のローマ字とは、結局のところ、表音的な假名の表記を一對一でローマ字に置換へただけのものであると言へます。
すると、結局、橋本進吉の批判がそのまま「日本式ローマ字」にも當嵌る事になります。
が、「表音主義者」さんは、私が「表音的假名遣は假名遣にあらず」へのリンクを張つて、橋本氏の批判を示したにもかかはらず、それを無視しました。「表音主義者」さんは、なぜ私の指摘の多くを無視するのでせうか。
本多勝一流に言つて「あまりにも馬鹿馬鹿しい指摘だから無視した」とでもなるのでせうか。それならこちらも「餘りにも的確な指摘だから無視せざるを得なかつた」と表現したいと思ひますが。
>何回同じ事を言わせるのかわかりませんが、アルファベットの発音は言語によって異なるのであって、ta ti tu te toの発音も日本語とほかの言語では違って構わないのです。
言語によつて異ると言はれても、それは飽くまで「表音主義者」さんや表音主義者の人の考へる觀念であつて、現實と懸離れた理窟に過ぎません。
事實、「表音主義者」さんも、「日本式ローマ字」を最初に覺えた人間が英語の學習に障碍を來す事を認めてゐます。
「違って構わない」と言はれても、「違はない」やうにしてしまふ「傾向」があるのです。
先日はなにかとありましたがとりあえず、はじめまして。
新かなづかいにて失礼いたします。
しかも横槍。
>ta ti tu te toの発音も日本語とほかの言語では違って構わないのです。
>日本語ではこれを「たちつてと」と発音するのであって、>外国語の基準でどうこういうのがおかしいのです。
外国人が日本語を学習しやすくするためにアルファベットを日本語の書き言葉にしよう、
という主張を表音主義者さんはされているように見受けられるのですが、
その主張が明らかに妥当でないと思われることをひとまずさておいても、
ならば余計に「外国語の基準」に沿わずともよいとされる理由は何なのですか?
>漢字があればどのように暗記が楽になるのか、よくわかりません。
同音異議語は記法も異なることがほとんどであるためと思われます。
すべて同記では文脈以外で、あるいは文脈によってもそれらの区別が付けられません。
それとひとつ基本的なところで疑問があるのですが、
表音主義者さんがそれほどまでに忌避する漢字とかなを、自ら使っておられるのはどうしてなのでしょうか?
そもそも表音主義者さんは
>何度も同じ事をいいますが
>何回同じ事を言わせるのかわかりませんが
と主張されてますけれど、本当に前後一貫した同じことを言っておられるのですか?
例を提示しないでて申し訳ないですが、表音主義者さんの書き込みはかなり下まで
潜っていっても、恣意的に選択した突っ込みだけに反論するという所謂揚げ足取りばかりで、
ご自身の主張が見えてきません。
一度整理されてはいかがかと思いますが。
また、反論において他人の文章を提示するだけというのは、
己の考えを持っている人の対応とは言えません。
>フランス語も、イタリア語も同樣に「難しい」と言へるでせう。どちらも漢字を覺える手間は不要ですが、單語と、單語の綴りを覺える手間はかかります。
イタリア語の場合、単語のつづりはきわめて簡単です。英語やフランス語のような苦労はありません。
>フランス語の場合、言葉が男だつたり女だつたり中性だつたりします。これは、全て諳記しなければなりません。
それは言語そのものの問題で、表記法の問題とはいえません。
>イタリア語の綴りは、「日本語のローマ字」に近いやうで、實は全然違ひます。gとかcとかの發音は、「か・が行」と「さ・ざ行」とに分かれてゐます。
日本語と違いますが、規則は一定していて例外が少ないので覚えるのはすぐできます。
>「ローマ字表記の日本語」ならば、漢字を覺えないで濟む、と「表音主義者」氏は主張するでせう。しかし、漢字ナシで日本語の語彙を諳記するのも、それはそれで厄介な事であると思ひます。
漢字があればどのように暗記が楽になるのか、よくわかりません。
漢字があれば熟語の意味がわかりやすいという程度でしょう。それが漢字を覚えるおおきな苦労を上回るとはとてもおもえません。
>その「新しい日本語」を學んだ「日本語學習者」は、もし日本の文化を研究したければ、改めて既存の日本語を學ばなければなりません。手間が増えるだけです。
歴史を研究するのに古語を学ぶのは当然です。古典漢文やラテン語や古代ギリシア語など。
だからといって古語を現代でも使うべきだという事にはなりません。
>一、漢字が「教育上、社会生活上」多くの不便の原因となり、その制限が国民の生活能率を上げ、文化水準を高めるものだとしたら、火薬、羅針盤、活版印刷を発明した世界に冠たる支那の文明をどう説明したらよいのか。
>一、明治維新から大東亜戦争突入までの大日本帝國の目覚しいまでの発展をどのやうに説明したらよいのか。戦国時代の武器をそのまま使用してゐた幕末から、明治、大正、昭和初期の短い期間に米英を相手に戦ふことが出来るまでになつた発展を。
こんなものは文字と直接関係のある話ではありません。
ある国が発展したとか発展しないとかはさまざまな要因に依存します。極めて合理的な表記法の言語を用いても滅びた国もあれば、極めて不合理な表記法を用いながら繁栄した国もあるでしょう。
表記法などは国や文明の運命を決める多くの要因の一つでしかない。
>仮に漢字制限が日本といふ国の技術や文明に寄与するとしても、漢字廃止後に残る民族は果して日本民族だと言へるでせうか。過去の文化遺産と断絶されたその人々は、日本人では無い何か違ふ民族に成果ててゐるのではないでせうか。気を確かに持つて考へてみてください。日本人は日本語を使ふから日本人なのではないでせうか。日本人が漢字を捨てることは、自分を殺すのと同じ行為だと思ひます。
これを読んでください。
http://www.age.ne.jp/x/nrs/nazehitu.htm
(2)古典文化への断絶の心配は無用
ローマ字の世の中になると,漢字で書かれた書物が読めなくなるという意見があります。これは文字にこだわりすぎてのことで,漢字文化伝承の研究は専門の学者によって続けられます。今日では,源氏物語のような文化遺産も口語訳でその内容が伝わっています。多くのものがローマ字で綴られれば,それらはすベて一層やさしく理解きれるようになります。現に,土岐善麿氏の'Uguisu no Tamago' は漢詩のローマ字による日本語訳であり,多田斉司氏の'Man'yôsyû' は古典の書きかえです。ローマ字でこそ古典文化は伝わリやすくなります。そのうえ哲学から科学・技術に至るまでの書物が戦争前すでにローマ字書きされました。
>一応言っておきますと、僕はヘボン式の信奉者というわけではないですからね。ただ欠点も多いヘボン式に比べてみても、日本式は更にどうしようもない代物だと言っているだけです。実際の発音を近似して表現する役に立たないのであれば、日本人に向けては仮名を使えば充分です。他国語の話者の為にはその国の文字と書写法で書けば良い。ただ公共表示などに使われるアルファベット表記、つまりローマ字表記に統一性が必要であれば、なるべく発音に即したもののほうがより良い。その点では仰る通り“英語表記に近い”ヘボン式が選ばれるのは必然ということになりますね。そこには日本式ローマ字などというものが入ってくる余地はありません。
何度も同じ事をいいますが、ローマ字表記は発音を転写するものではなく音素を書き表すものなのです。音素を表さないヘボン式はダメなのです。
日本語の音韻体系に基いた表記法ではなく、発音のみを表面的に転写するならば、日本語の音韻体系が破壊されるといっているのです。
もう疲れたのでここでやめます。
>今日の我々は、アルファベットに当てはめて考へるからこれを矛盾と感じるのであつて、五十音図の原理原則に則つて活用してゐる限りは普通矛盾は感じません。現代仮名づかひの「は行」活用のはうが余程不自然です。
だから、アルファベットでもぜんぜん矛盾ではないのです。
何回同じ事を言わせるのかわかりませんが、アルファベットの発音は言語によって異なるのであって、ta ti tu te toの発音も日本語とほかの言語では違って構わないのです。
日本語ではこれを「たちつてと」と発音するのであって、外国語の基準でどうこういうのがおかしいのです。
日本語では、た行子音は一つの音素だから一つの文字で記述します。しかし外国語では必ずしもそうではありません。たとえば英語では「た」の子音と「ち」の子音がことなる音素と認識されます。日本語と英語では音韻体系が違うのでそういうことも当然あります。日本語の表記は日本語の音韻体系に基いて行うのです。
いいかげん、理解してください。
西洋式に表記すると「ta、chi、tsu、te、to」
↓
米英語的に表記すると「ta、chi、tsu、te、to」
が正しいでせうね。
さういへばこの掲示板はいつの間にか修正できなくなつたやうだ。
普通、日本人は「たちつてと」が「タティトゥテト」の発音でないことに矛盾を感じてをりません。我々日本人は日本語については日本語で考えます。当り前のことです。日本人にとつては仮名が最小の音声単位であり、古来これ以上音を細分化して考へる習慣はありませんでした。ですから、「たちつてと」と書いて西洋式に表記すると「ta、chi、tsu、te、to」となるやうに(現代日本では)発音してゐることに別段の矛盾を感じずに、「たちつてと」と書いて「タチツテト」と読んでゐるのではないでせうか。
今日の我々は、アルファベットに当てはめて考へるからこれを矛盾と感じるのであつて、五十音図の原理原則に則つて活用してゐる限りは普通矛盾は感じません。現代仮名づかひの「は行」活用のはうが余程不自然です。
漢字を廃してローマ字を国字とすることは、もはやありえないことです。ですから、ローマ字はせいぜい、外国人の便宜のために付加的に表記するものであつて、日本語の正書法としての規則性などは論じるに当りません。音を表すためだけに用ゐるのですから、ローマ字表記は表音的に使へばよいのではないですか。その意味で、ヘボン式のはうがましな気がします。
「表音文字は表音的に用ゐるべし。」それが表音主義の主義主張ではありませんでしたか。
> 日本語に存在しない音を表現すべきというのがおかしいのです。
明らかに現代日本語に存在している音を『存在しない』と言い張ることがおかしいのです。
> どんな表記体系であれ「表現しきる」ことは不可能である。
> せいぜい近似的に表現できるだけである。
それはそうです。しかし仮名でもヘボン式でも近似的には表現できるものが、それさえもできない日本式は劣っているとは言えないのですか。
> たとえば、「わし」という語を東北弁で発音すると、他の地域の人には「わす」のように聞こえる。だがあくまで「わし」といっているのであって「わす」ではない。これをきちんと表記することなどは不可能であって、やはり発音記号が登場せざるをえないであろう。
いえいえ。東北弁を例に取られましたが、あの地方の言葉は多く、古い日本語の音韻を残しています。地域にもよりますが、共通語の話者でも潜在的には充分に発音可能な音体系であって、まあ仰る通り近似的ではあっても、ヘボン式ならかなり正確に書写できます。『すぃ si』『ぬぃ ni』のような音となれば、むしろこちらが標準的であって共通語のほうが長い歴史の中で変遷してきたものであり偏向していると言っていい。もちろん発音記号を使えば“より正確に”写し取ることはできましょうが、発音記号だって万能ではないことを考えれば五十歩百歩です。
もちろんヘボン式だって、例えば名古屋弁の/ea/のような母音を表記するにはそれなりの工夫が必要でしょう。しかし日本式であったなら、多少変更を加えたところで発音を正確に――近似的にさえ――表わすことは無理ですね。
まあ、そういう用途のものではないと仰っているわけですから、それきりの話ですけれど。
> 外来語であっても日本語として使われている以上は日本語の音韻体系で表記・発音すべきということである。
> 外国語の発音にあわせる必要はない。だから「team」は「チーム」であるし、「tea」は「チー」である。
仰ることは分かりますが賛同いたしかねます。
喫茶店なり何なりで『チラミスとレモンチー』などと注文すれば怪訝な顔をされるのがオチでしょう。
> ヘボン式では、「まち」をmachiとする。フランス語話者に読ませれば、マシと発音する。ドイツ語話者ならマヒと発音する。イタリア語話者ならマキと発音する。日本式でmatiと書けば、どこの国の人が読んでもマチという音にかなり近い音を出してくれるはずです。「mat'i」と発音されても問題ない。
なるほど、ヘボン式が日本式以上に英語の表記に近いというところまでは良いとしましょう。
しかし英語圏以外のどこの国の人もが"ti"を『チ』と読んでくれるものでしょうかね? ここは大いに疑問です。まあフランス語の"ti"ならかなり『チ』に近いとは思いますが、t の子音に i という母音なら『ティ』という音が標準ではないですか?
それでも構わないと仰っているようですけれど、全く賛成できません。
> また同じ音素を違う文字で書くことによって、動詞変化が不規則になり覚えにくい。
何度も言うようですが、動詞の規則はどう表記しようと変わりません。不規則動詞というのは例えば『カ変』や『サ変』のような、それ独自の変化をするものを言います。前に出たワ行五段だって『買う』も『追う』も同じ変化をするのだから、日本語の音韻法則に則って充分に“規則的”ですよね。
> 日本式ローマ字はまさに日本語の音韻構造を単純に書き記すものである。
> しかしヘボン式ta chi tsu te toなどとして日本語の音韻構造を破壊してしまう。日本式でなければ日本語の本質は理解できない。
日本式のほうが“破壊して”いるし本質を押し隠している気がするんですが……ただ見た目が単純になるというだけのことで、何も生み出しませんよ。
> ヘボン式こそ百害あって一利なしである。
一応言っておきますと、僕はヘボン式の信奉者というわけではないですからね。ただ欠点も多いヘボン式に比べてみても、日本式は更にどうしようもない代物だと言っているだけです。実際の発音を近似して表現する役に立たないのであれば、日本人に向けては仮名を使えば充分です。他国語の話者の為にはその国の文字と書写法で書けば良い。ただ公共表示などに使われるアルファベット表記、つまりローマ字表記に統一性が必要であれば、なるべく発音に即したもののほうがより良い。その点では仰る通り“英語表記に近い”ヘボン式が選ばれるのは必然ということになりますね。そこには日本式ローマ字などというものが入ってくる余地はありません。
もし仮に表音主義者達が言ふやうに、漢字が国の発展を妨げるほど学習上困難であるならば、次の事実をどのやうに説明するのだらうか。「表音主義者」氏にお訊きしたいものだ。
一、漢字が「教育上、社会生活上」多くの不便の原因となり、その制限が国民の生活能率を上げ、文化水準を高めるものだとしたら、火薬、羅針盤、活版印刷を発明した世界に冠たる支那の文明をどう説明したらよいのか。
一、明治維新から大東亜戦争突入までの大日本帝國の目覚しいまでの発展をどのやうに説明したらよいのか。戦国時代の武器をそのまま使用してゐた幕末から、明治、大正、昭和初期の短い期間に米英を相手に戦ふことが出来るまでになつた発展を。
仮に漢字制限が日本といふ国の技術や文明に寄与するとしても、漢字廃止後に残る民族は果して日本民族だと言へるでせうか。過去の文化遺産と断絶されたその人々は、日本人では無い何か違ふ民族に成果ててゐるのではないでせうか。気を確かに持つて考へてみてください。日本人は日本語を使ふから日本人なのではないでせうか。日本人が漢字を捨てることは、自分を殺すのと同じ行為だと思ひます。
英語の話をすると「表音主義者」さんは「英語崇拜」と言ふので、補足の意味で他の言語の話をしておきます。
>日本語は日本語なりに、英語は英語なりに難しいということです。
フランス語も、イタリア語も同樣に「難しい」と言へるでせう。どちらも漢字を覺える手間は不要ですが、單語と、單語の綴りを覺える手間はかかります。
フランス語の場合、言葉が男だつたり女だつたり中性だつたりします。これは、全て諳記しなければなりません。
イタリア語は、發音の仕方も、ローマ字表記に近い綴りも、「日本語話者」には「馴染みやすさう」ですが、參考書も辭書も餘りありません。イタリアと云ふ國の「国際的地位」が「低い」ので、學習者が少いのですね。
イタリア語の綴りは、「日本語のローマ字」に近いやうで、實は全然違ひます。gとかcとかの發音は、「か・が行」と「さ・ざ行」とに分かれてゐます。
フランス語にしてもイタリア語にしても、動詞は活用しますし、名詞には冠詞が附きます。それらは全て諳記しなければなりません。同時に、單語を覺え、其の綴りも諳記しなければなりません。漢字の場合、活用がありません。
漢字を覺える手間を省きさへすればそれで良いかと言へば、さうとも言へない訣です。
「ローマ字表記の日本語」ならば、漢字を覺えないで濟む、と「表音主義者」氏は主張するでせう。しかし、漢字ナシで日本語の語彙を諳記するのも、それはそれで厄介な事であると思ひます。また、現状、日本語の表現では漢語を必要とします。それらの漢語を漢字ナシで諳記するのは大變です。將來、漢語のない純粋な「やまとことば」のみの「ローマ字」なるものが成立するかどうかは解りません。私は「絶對に成立しない」と確信してゐます。そもそも、成立するにしても、その時點で「成立した新しい日本語」は、今の日本語とは完全に別物となります。その「新しい日本語」を學んだ「日本語學習者」は、もし日本の文化を研究したければ、改めて既存の日本語を學ばなければなりません。
手間が増えるだけです。
部外者ですいません。予め言っておきますと、お恥ずかしい事ながら専門的な話はさっぱりです。あくまで無学な輩の戯言としてみてくださいw
表音主義さんが日本語が難しいというのは、所謂母国語離れできない人間を見ての話ではないでしょうか。
一見、日本の「かな漢字混じり」の文章は難しいように感じます。なぜなら覚える文字数が莫大だからです。所謂「常用漢字」をある程度知らなければ読めないことは多いし、「かな」や「活用」についてはそれ以前に知っておかねばなりません。
しかし、母国語離れできない日本人として申しますが、英語を見ますと、やっぱり難しいものなんです。それはなぜでしょうか。
英語は日本語に比べ文字数が少ない。しかし、代わりに活用によって多くの文字が変化することがある。一つの単語にしても文字が連続した長い列になってしまいます。
例えば「夏」や「春」も英語では「Summer」、「Spring」などのように、日本語のように漢字を覚えなくても良い代わりに、連続した文字パターンを覚えなければなりません。
まあ、私は日本語と英語は基本的に「難しさに大差はない」と考えます。
日常を良く考えれば、中学3年生程度の日本語能力があれば、大抵は理解できるものです。義務教育内での国語の時間はそれほど多くなく、外国人の方でも気合を入れて勉強すれば1年ぐらいで大体の単語の意味と、文法の感覚ってのはついてくると思います。もちろん、それ以上の日本語力をつける人もいることでしょう。逆に、日本人だって気合を入れれば一年程度で英語を多少は習得できるはずです。
日本語は日本語なりに、英語は英語なりに難しいということです。絶対的な格差が両者には存在するのでしょうか。
ローマ字表記については私は受け入れられそうもありません。文語と口語が一体のものでないにしても、ローマ字は過去、現時点において日本語の主要な表記体系ではありません。過去の日本語から派生した緩やかな変化を継承したものではありません。口語をどのように繕ってローマ字で表記したところで、それは本当の日本語としては認識できないです。補助的な日本語、例えば「口語をカタカナで書いたのもの」と大差ない存在だと感じます。
現時点での「(改革?)かな漢字」は、一応ながら古来からの表意的な文語である面を受け継いでいます。(良い受け継ぎ方か、悪い受け継ぎ方かは私には判断しかねますが、私には漢字などによって表意的なものが受け継がれていると思います。)
しかし、日本式だろうが、ヘボン式だろうがローマ字表記で日本語を文語にしてみた場合、表意という面が失われる可能性が高いです。これは、これまで少なからず表意に頼ってきた「日本語」としては、好ましくない方法に思えます。
あと、日本語が扱う文字数が多いのは、短所であると同時に長所でもあると感じます。
「春」、「夏」の例の様に、英語やローマ字では長い表記が、漢字を使えば一文字で意味を伝えることができます。
私論ですが、言葉・言語の根幹にある思想とは意思の伝達・表現であると思います。ならば本当に伝えたいのは「思い」であり、「音」ではないはずです。
言葉が意思や思考や感情を伝えるものであるならば、ある言語は単語や文法で言葉の(基本的に一意的な)意味が伝わる方法を取らねばならないのではないですか。
英語は文字のパターンで単語の意味を識別でき、日本語は漢字や文字の組み合わせによって言葉の意味を識別できるようになっています。ローマ字表記にそれは可能ですか。
単語の意味は文脈から識別できるとか、単体ではおおよそ識別不可能な文法はかえって難解です。そういった表記法は少なくいとも現行の日本人は受け入れないでしょう。だって、既に使い慣れた日本語の表記法があるのだから。
いつもどうもです。
「表音的假名遣は假名遣にあらず」
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/HASHIMOTO/HYOON.html
「表音記號」としてのローマ字、キーボード入力の際に用ゐるローマ字としてなら、別にあつても問題でないばかりか、便利だとは思ひますが、正書法としてのローマ字は勘辨。
誤投稿がありました。下記のは消去願います。
>私はローマ字は完全無欠とは思いません。文字が少なすぎるために、多くの言語では字上符を用いたり、一つの音素を複数の文字で記述しています。この点、キリル文字はローマ字よりよい点もあります。
>ローマ字を改良し、世界共通アルファベットを制定すべきだと思います。
「世界共通アルファベット」になるかどうかは分かりませんが、現代音楽作曲家のシュトックハウゼンは、発音記号というある意味「世界共通アルファベット」を指向したテクストで楽曲を書いています("Stimmung")が、現代音楽ファンには受け入れられていません。大阪万博でも実演されていますが、その後の評価ははっきり云って惨憺たるものです。
>しかし、そんな文字を使ったら、日本語話者が外国語を学ぶときに、
>あるいは外国語話者が日本語を学ぶときに苦労が大きくなることになります。
思ふに、日本語の勉強をするのにローマ字を持ち込むことがそもそもの間違ひなのではないですか?
中學生のときは、英單語にカタカナで讀みがなを振つたりしましたが、さういふ事は英語學習の
障碍になると言はれたものです。であれば、外國人がローマ字を使つて日本語を學ぶ事も邪道なので
はないですか。日本では漢字仮名混じり文が一般的なのですから、外國人も最初からそれで學習
すれば良いのです。
全然本筋とは関係ない話ですが、
> 五十音圖の發見は、動詞の活用形の研究に據るものですが、
「五十音図は、中世の僧がサンスクリット語の影響を受けて編み出したもの」という話を聞いたことがあるのですが、そこらへんの関係はどうなっているのでしょうか。
>当然、正しい日本式表記を用いるべきです。
>英語話者に正しく発音してもらうためではない。
なぜそんなに英語を憎みますか。
>そして、どうやらパスポートの「ローマ字」が「ヘボン式」なのは、英語圈の連中に「正確」に讀まれる事を意圖してゐるやうなのです。ならば、あれは「ヘボン式ローマ字」ではなく、「日本語のローマ字への翻字」でもなく、「英文表記」であると言つた方が良いでせう。
>英文表記なら英文表記で良いと「表音主義者」さんは言ふかも知れない。
いいません。当然、正しい日本式表記を用いるべきです。
人名表記は日本語として正しいものでなくてはならない。英語話者に正しく発音してもらうためではない。
>しかし、そんな文字を使ったら、日本語話者が外国語を学ぶときに、あるいは外国語話者が日本語を学ぶときに苦労が大きくなることになります。
既に述べた通り、なぜそんなに「外国語話者」の事を氣にするのですか。明かに外國人コンプレックスがあると思ひますが。それで「英語崇拜」を云々するのは如何かと思ひます。
「音素」とか「音韻」とか言つてゐますが、どのやうにしてその觀念は生れたのでせうか。日本語の場合、書き言葉の書き方から生じた觀念であるやうに思はれますが。
五十音圖の發見は、動詞の活用形の研究に據るものですが、その活用形の研究は書き言葉の表記に基いて行はれたものです。假に、發音を基礎に行はれてゐたら、間違ひなく、「ち」「つ」の邊で體系化が失敗してゐたでせう。發音は「論理的」でないからです。
「音素」なり「音韻」なりに「論理性」があるのは、日本語の書き言葉に論理性があつたからです。
>>「た行子音」は一つの音素であるから一つの文字で表記しなければなりません。
>だから。その「一つの文字」は、どのやうにして決定されるのですか。
極端な話、「一つの音素に一つの文字」という原則が満たされれば、どの文字を使ってもいいでしょう。
たとえば「サ行子音」にX、「タ行子音」にQでもいいでしょう。
しかし、そんな文字を使ったら、日本語話者が外国語を学ぶときに、あるいは外国語話者が日本語を学ぶときに苦労が大きくなることになります。
だから、IPAや諸外国語を考慮して、できるだけ差が生じないようにするべきでしょう。
ヤ行はYでもJでもいいし、ラ行はRでもLでもいいと思いますが、きちんと定めることが大事です。
ヤ行についてはIPAなどを考えるとJのほうがいいと思います。
ラ行については一長一短であるから、すでに使われているRのままでよい。
>繰り返しますが日本研究をしている学者ですら日本語の読み書きができないのです。日本語の会話はできても日本の新聞はよめない。漢字を使っている言語のみにみられる現象です。
學習法を改善すれば良いだけの話です。そもそも、外國の學習者の爲に自國の言葉を改變する、と云ふ發想が異常。
そもそも、五十音圖は長い間、日本人に知られてゐなかつたものです。五十音圖の「論理性」は、學習しなければ理解出來ません。そして、五十音圖を知らなかつたからこそ、「たちつてと」の發音は、「たちつてと」であつて「たてぃとぅてと」でないのです。
「表音主義者」さんは、五十音圖の行と列とに母音と子音の文字を割振つて、それで「論理的」と言つてゐます。しかし、五十音圖を知らない時代に日本人が作つた音韻の體系は、飽くまで「ta chi tsu te to」です。ですから、五十音圖に基いたローマ字表記の規則は、「論理的」と言へても、日本語の本質とは關係がない、寧ろ、日本語の本質を破壞してゐるものだと言へます。
歴史的に見れば、五十音圖を發見した人が歴史的假名遣を提唱してゐるのであり、五十音圖を重視する限り、歴史的假名遣の正統性を認めざるを得ません。
>學習者の多寡と、學習し易さとは、何の關聯もありません。「漢字的」な綴りを用ゐる英語を學習する人は澤山ゐます。英語を用ゐる國の「国際的地位」が高いからです。日本の「国際的地位」が高まるにつれ、日本語學習者は増えてゐます。
どの程度増えているとおっしゃるのか。
日本語話者の数は1億人を超え、世界でもっとも広く話される言語の一つです。ドイツ語やフランス語より多くの話者を数えているのです。
また日本語出版物の数も非常に多い。数百年間をみればどうかわかりませんが、近年に限ってみればドイツ語やフランス語の出版物より日本語の出版物が多いでしょう。
にもかかわらず、日本語を外国語として学習する人がいかに少ないことか。また日本語の読み書きを習得する学習者がいかに少ないことか。
繰り返しますが日本研究をしている学者ですら日本語の読み書きができないのです。日本語の会話はできても日本の新聞はよめない。漢字を使っている言語のみにみられる現象です。ロシヤ語の読めないロシヤ研究者やスペイン語が読めないスペイン研究者はいないのです。日本語のよみかきがいかに難しいかはこれだけで明らかです。
>「た行子音」は一つの音素であるから一つの文字で表記しなければなりません。
だから。その「一つの文字」は、どのやうにして決定されるのですか。
>>また、或發音と或表記とが、一對一で結合しなければならない理由は何ですか。にもかかはらず、表記が發音を束縛する事が許されない理由は何ですか。
>意味がわかりません。
意味がわからないと言ふのがわかりません。とぼけてゐるのですか。前後關係から、意味を把握出來ないのですか。假にさうだとしたら、ローマ字文で文脈から或語の意味を確定するのは不可能事になるのではないですか。
>それは外国語の影響によるものです。日本語話者の多くは英語教育を受けており、また日本語をローマ字で記述しないため、ローマ字を見るとついつい英語式に読みたくなってしまうのです。
>ローマ字を日本語正書法として採用した場合、「英語を見た場合に日本語式に発音する」という問題は発生しても、「日本語を見た場合に英語式に発音する」という問題は発生しないでしょう。
なるほど。しかし、「英語を見た場合に日本語式に発音する」事があり得るとしたら、問題ではないですか。明かに、英語學習の障碍となるのですから。「英語崇拜」を「表音主義者」さんは非難しますが、英語を學ぶのを妨碍したがる「英語差別」も非難の對象となつて良いでせう。
>ローマ字を使わない言語でも、ローマ字への翻字法は必ず定められています。パスポートにも必ずローマ字表記による名前が載っています。
>ローマ字が普遍基準となっているということです。
パスポートの「ローマ字表記」は、ヘボン式です。が、これはどうも、日本語の「翻字」と言ふより、英語表記であるやうに思はれます。そして、英語が「世界標準」であるのは、「表音主義者」さんが指摘した通り、英語圈の諸國の「国際的地位」が高いからです。
既に指摘しましたが、「ち」を「日本式」のローマ字では「ti」と書く、舘ひろしさんは自分の名前を「tati hirosi」さんと書く事になります。が、これを、全ての外國人が「たちひろし」と讀んで呉れるかと言へばさうは行きません。「tachi hiroshi」ならば、英語圈の人はわりと「たちひろし」に近い發音をして呉れるでせう。
そして、どうやらパスポートの「ローマ字」が「ヘボン式」なのは、英語圈の連中に「正確」に讀まれる事を意圖してゐるやうなのです。ならば、あれは「ヘボン式ローマ字」ではなく、「日本語のローマ字への翻字」でもなく、「英文表記」であると言つた方が良いでせう。
話はまだ終りません。
英文表記なら英文表記で良いと「表音主義者」さんは言ふかも知れない。が、その英文表記と、「日本式ローマ字」との間で、當然、齟齬が生ずるのです。「別の言語なのだから當然だ」「混同するな」と「表音主義者」さんはまたもや言ふでせう。しかし、同じアルファベットで書くのに、違ふ書き方をしなければならない、と云ふのは、普通の人にしてみれば、をかしな事でせう。「表音主義者」さんは、さう云ふ普通の人の普通の感覺までも否定するのですが、この違和感を違和感と思はないのならば、歴史的假名遣で發音と表記とが一對一で一致しない事にも違和感を覺える事はないのではないですか。はつきり言ふと、「表音主義者」さんの感覺は、非常に御都合主義的だ、と云ふ事です。
>そもそも、發音と音韻とは別なのださうですから、ローマ字を決める理由として發音は必然的な理由になり得ないではないですか。なぜ「表音主義者」さんは、音韻に基いて話をすべき場で、發音の事を氣にするのですか。
異なる問題を混同しています。
表記は音素にしたがってなされるべきで発音を忠実にうつすものではない、というのは、日本語で区別されない(同じ音素とみなされる)音は、外国語で区別される音であっても、区別して表記すべきではないということです。たとえば日本語の「ん」は朝鮮語では3つの音素になりますが、日本語では1つだから、3つに区別して表記する必要はありません。日本語のサ行子音は英語ではsとshに区別されますが、日本語では区別されないから区別して表記はしません。「発音と音素は別である」というのはこのことです。
上記のことと、ある音素にどの文字を割り当てるのがより適当かというのは別のことです。二つの異なった問題を混同しないでください。
であるから、
>また、發音がそんなに大事ならば、「ち」を「chi」と表記する方が「ti」と表記するよりも「論理的」ではないですか。
などということは決してないのです。
「た行子音」は一つの音素であるから一つの文字で表記しなければなりません。「ち」の場合だけ違う文字を使ってはいけません。
>また、或發音と或表記とが、一對一で結合しなければならない理由は何ですか。にもかかはらず、表記が發音を束縛する事が許されない理由は何ですか。
意味がわかりません。
>「あわせなければならない」と云ふ「べき論」の話をしてゐるのではなく、「ti」と書くやうになれば自然に「てぃ」なる發音をする人が出て來る筈であり、「tu」と書くやうになれば自然に「とぅ」と發音をする人が出て來る筈だ、と云ふ話をしてゐるに過ぎません。
それは外国語の影響によるものです。日本語話者の多くは英語教育を受けており、また日本語をローマ字で記述しないため、ローマ字を見るとついつい英語式に読みたくなってしまうのです。
ローマ字を日本語正書法として採用した場合、「英語を見た場合に日本語式に発音する」という問題は発生しても、「日本語を見た場合に英語式に発音する」という問題は発生しないでしょう。
>英語はローマ字を用いる言語の一つにすぎません。
>私はローマ字は完全無欠とは思いません。文字が少なすぎるために、多くの言語では字上符を用いたり、一つの音素を複数の文字で記述しています。この点、キリル文字はローマ字よりよい点もあります。
>ローマ字を改良し、世界共通アルファベットを制定すべきだと思います。
>どんな表記体系であれ「表現しきる」ことは不可能である。
せいぜい近似的に表現できるだけである。
>たとえば、「わし」という語を東北弁で発音すると、他の地域の人には「わす」のように聞こえる。だがあくまで「わし」といっているのであって「わす」ではない。これをきちんと表記することなどは不可能であって、やはり発音記号が登場せざるをえないであろう。
ローマ字もまた不完全であると言ふのならば、漢字かな交じり文だつてただ不完全であるに過ぎないでせう。
既に日本人が普通に使つてゐる漢字かな交じり文が、不完全だと言ふのなら、ローマ字にする必要はない、漢字かな交じり文を改良すれば良いだけです。
そして、漢字假名交じりの表記は、本質的に表意的な表記です。表音主義的な立場から見れば「不完全」かも知れませんが、「表意主義」の立場から見れば、割と良く出來たものです。
そして、日本語は、千年以上の間、「表意主義」的に發展してきたのです。ならば、その全ての發展過程を破棄して、表音主義的に日本語を作り直す必要はありません。
日本は、外國の文化を受容れて發展してきた國です。日本語も外國語の影響を受けて發展してきた言語です。漢字の害惡を(一般名詞の)表音主義者は執拗に攻撃しますが、漢字の影響を排除したら日本語は成立ちません。だから、表音主義は、現代の日本語の本質を破壞するイデオロギーなのであり、決して日本語の本質に適つたイデオロギーではありません。
日本語を改良するとしたら、飽くまで「表意主義」的なやり方でのみ可能なのであり、表音主義的なやり方は全て、日本語を日本語以外の言語に改竄するものです。
以下、話は變ります。
標準語で「わし」、方言で「わす」と發音する、一人稱を意味する語を、漢字で「儂」と書きます。これで發音の違ひから生ずる問題は解決します。漢字が、相對的に發音から獨立し、意味に基いてゐる事によるメリットは、發音の違ひを吸收し得る事です。
また、「わし」だけでは「鷲」なのか「和紙」なのか、わかりません。文脈を見れば判ると「表音主義者」さんはおつしやるでせうが、漢字で書けば一發で判る。漢字は、見れば意味が判る――これは表意文字である漢字のメリットです。
英語で「ai」と發音する(發音記號で書くのは面倒なのでしません)語を「I」なり「eye」なりで書く、と云ふのは、一見、不合理です。しかし、「I」なり「eye」なりと綴られた語を見て、それがどう云ふ意味なのかは、漢字ほどではありませんが、すぐ判ります。そして、意味と綴りとを良く覺えてゐれば、英文は讀み易いものです。
しかし、「ローマ字崇拜」に陷つてゐる「表音主義者」さんは、英語の例を擧げるとかつかと來るやうなので、例をフランス語に變へます。
フランス語は、近代に改修され、發音と綴りとの関聯附けが強化されました。しかし、「ローマ字」と違ひ、フランス語の綴りは、發音から即座に記述出來るやうなものではありません。
フランス語は、綴りを見れば發音が判る、と云ふ形になつてゐるのです。ですから、英語に比べれば「表音主義者」さんの所謂「論理的」に近いものになつてゐると言へます。しかし、綴り自體は、發音とも、音韻とも、かけ離れたものです。綴りは、讀む時に讀み易いやうに、飽くまで「書き言葉」として見やすいやうに定められてゐます。
歴史的假名遣も、フランス語の綴りと同じで、實は書かれた文字から發音は大體、判ります。フランス語の綴りと同じ程度に、歴史的假名遣は「論理的」です。
>「や」行子音については、私はjを使うべきと考えています。IPAでもjであり、jのほうが論理的だと思います。
なぜ論理的なのですか。意味が判りません。
>「か」行子音については、これは文句なくkです。IPAでもkであり、ほとんどの言語で日本語の「か」行子音にあたる音はkで表記されます。一方、cをどのように発音するかは言語によってまちまちです。非論理的な英語ではcをkやsのように発音します。cは、外来語のts音をあらわすために使うのがいいでしょう。
音韻と發音とは違ふのではなかつたですか。
>「は」行も文句なくhだと思います。
キリシタン版の活字本で、Fで表記されたものがあります。日本語の「は行」が、p音からf音、そして現在の音に移行した事實から考へると、fによる表記は歴史的な妥當性があります。また、フランス語には日本人の發するhの音が存在せず、hと書かれてゐても發音出來ません。
hと書いても「どこの国の人が読んでも」日本語の「は」「という音にかなり近い音を出してくれるはず」だとは言へません。
>「ら」行もrであるべきだと考えます。
卷舌音となる場合を考へると、必ずしもrが良いと言へないと思ひます。
そもそも、發音と音韻とは別なのださうですから、ローマ字を決める理由として發音は必然的な理由になり得ないではないですか。なぜ「表音主義者」さんは、音韻に基いて話をすべき場で、發音の事を氣にするのですか。
また、發音がそんなに大事ならば、「ち」を「chi」と表記する方が「ti」と表記するよりも「論理的」ではないですか。
「表音主義者」さんの言ふ「論理的」とは、一體全體、どう云ふ意味ですか。
また、或發音と或表記とが、一對一で結合しなければならない理由は何ですか。にもかかはらず、表記が發音を束縛する事が許されない理由は何ですか。
>>「ta ti tu te to」の方が「論理的」な表記であるとしたら、「た ち つ て と」を「た てぃ とぅ て と」と云ふ發音する事こそ論理的である、と云ふ事になるかと思ひますが、「表音主義者」氏は日本語の發音も「改善」しようとなぜ思ひませんか。
>なぜそんなことをする必要があるのでしょうか。
>日本語ではtとiがつながるとロシヤ語тиと同じように発音するのです。それのどこが悪いのですか。なぜ他の言語にあわせなければならないのか。
「あわせなければならない」と云ふ「べき論」の話をしてゐるのではなく、「ti」と書くやうになれば自然に「てぃ」なる發音をする人が出て來る筈であり、「tu」と書くやうになれば自然に「とぅ」と發音をする人が出て來る筈だ、と云ふ話をしてゐるに過ぎません。
發音が表記を束縛すべきであると「表音主義者」さんは主張してゐますが、表記は發音を束縛します。事實としてしてゐるのだから仕方がありません。
そして、「ち」が「てぃ」に、「つ」が「とぅ」に變化するのは、音韻の變化です。「日本式」のローマ字を採用する事で、日本語の音韻が變化する危險があるのです。本多勝一流に言へば、「日本語の音韻が歪められる」のです。
この危險を「表音主義者」さんは認識してゐませんが、本當に心配しないで良いのですか。「べき論」で話をされても困りますので、論理的に説明をしていただけますか。
>漢字ほど難しく学習しにくいものはない。漢字がなければ、日本語学習者ははるかに多かっただろうし、日本語の国際的地位ははるかに高かったでしょう。
これは嘘です。漢字は易しく、學習し易い文字です。假に學習し難かつたとしても、學習法を工夫するのが正當なやり方であり、漢字を廢止すると云ふのは邪道なやり方です。
學習者の多寡と、學習し易さとは、何の關聯もありません。「漢字的」な綴りを用ゐる英語を學習する人は澤山ゐます。英語を用ゐる國の「国際的地位」が高いからです。日本の「国際的地位」が高まるにつれ、日本語學習者は増えてゐます。
トルコは近代化政策でローマ字を採用しましたが、だからといつてトルコ語の學習者が増えたと云ふ事はありません。
どうも「日本語の表記法として、日本式ローマ字(以下、日本式)とヘボン式(以下、ヘボン式)のどちらが優れているか」「日本語の表記法として、日本式と漢字かな交じり文のどちらが優れているか」というふたつの争点が錯綜しているような。
かりに、表音主義者さんが主張するとおり、日本式が日本語の音韻を合理的に表しているとしても、副次的な表記法にとどめておくべきで、正書法にすべきではないと思います。
なぜなら、漢字かな交じり文を排除すると、過去の日本語との互換性が失われてしまうからです。
日本語は漢字と仮名とを使つて表記するものです。ですから、私はローマ字を日本語を表記するための文字とは考へてはをりません。漢字と仮名を廃してローマ字を国字とするのであれば別ですが、ローマ字表記は、漢字を解さない人のために駅名表示盤の下のはうに「OKACHIMACHI」とか表示するための便法でしかないと考へてゐます。確かに、漢字とラテン文字とが併記されてゐれば、世界中から来る旅行者のかなりが「読む」ことが出来るでせう。それでも、「読む」といふのは飽くまでも大体の発音が判る程度のことです。
さういふ目的で考へるとき、私は日本語のローマ字表記は、「TA、TI、TU、TE、TO」よりも「TA、CHI、TSU、TE、TO」のはうが相応しいのではないかと思ひます。
>上の文を日本式ローマ字で充分に表わしきれないことはお認めになるわけですね。ならそれで結構。しかし“仮名でさえ表現できるものを、発音記号を使わなければ単独では表現できない”ということのほうがナンセンスではないでしょうか。
日本語に存在しない音を表現すべきというのがおかしいのです。
あなたが挙げたような例であれば、どんな言語でも発音記号が出てくるでしょう。
ためしに「ある単語がBritainとAustraliaでどう発音されるか」なんて文章を探してみればよい。かならず発音記号が出てくるに違いない。
>> 方言表記のために正書法があるわけではない。標準日本語とことなる音素があれば違う表記を用いるほかない。
> 公文書や論文の類ならそれで事足りるのかも知れませんが、文章というのはそれだけではない。例えば台本やら小説やらの中で、登場人物が方言を話すこともあります。それを表現しきれない表記体系というのは、僕には欠陥だらけに思えますけどねえ。
どんな表記体系であれ「表現しきる」ことは不可能である。
せいぜい近似的に表現できるだけである。
たとえば、「わし」という語を東北弁で発音すると、他の地域の人には「わす」のように聞こえる。だがあくまで「わし」といっているのであって「わす」ではない。これをきちんと表記することなどは不可能であって、やはり発音記号が登場せざるをえないであろう。
>> 日本式ローマ字は日本語正書法であって、外来語のためのものではない。
> ……外来語は日本語ではないと?
>違うでしょう。外来語も日本語の一部で、外国語と外来語は違う。それ以上の反論は野嵜さんの仰る通りです。しかし『ティ』『トゥ』等、実際に会話でも使われている発音を表記できない・しなくて良いとは果たして何事なのでしょうか。
外来語であっても日本語として使われている以上は日本語の音韻体系で表記・発音すべきということである。
外国語の発音にあわせる必要はない。だから「team」は「チーム」であるし、「tea」は「チー」である。
>> また、ヘボン式は英語的であって、英語以外の外国語話者にはかえって理解しがたいものである。
> ヘボン式が英語的で日本式がそうでないと仰る根拠がわかりません。仮にそれが正しいとしても、日本式のほうが『英語以外の外国語話者』に理解し易いとは、到底思えないのですが……実例を示して欲しいところですね。
日本式表記は日本語の音韻体系に一致しているため簡単に覚えられる。
一方、ヘボン式表記は日本語の音韻体系に一致せず、子音を英語式にかいている。
たとえばta chi tsu te toなど。
しかし英語話者以外の外国語話者にとっては、chiは日本語の「ち」とはまったく違う発音になる。
ヘボン式では、「まち」をmachiとする。フランス語話者に読ませれば、マシと発音する。ドイツ語話者ならマヒと発音する。イタリア語話者ならマキと発音する。日本式でmatiと書けば、どこの国の人が読んでもマチという音にかなり近い音を出してくれるはずです。「mat'i」と発音されても問題ない。
また同じ音素を違う文字で書くことによって、動詞変化が不規則になり覚えにくい。
>立場の違いということで言えば、僕としてはローマ字の機能の一つとして、“日本語話者が無意識に発音する”日本語の音韻構造を意識化するということがあると思うんですよ。しかしそれについてはヘボン式でも不完全なんですが、日本式となると全く用を為さない。そこが問題だと思うのです。
日本式ローマ字はまさに日本語の音韻構造を単純に書き記すものである。
しかしヘボン式ta chi tsu te toなどとして日本語の音韻構造を破壊してしまう。日本式でなければ日本語の本質は理解できない。
>日本語話者が日本語の音韻構造を意識化できないと、外国語(英語に限りません)は正確に聴き取ることも発音することもできません。
日本語正書法は外国語学習のためではない。また外国語学習においては当然発音記号を用いるのだから問題はない。
>それを改善するためにも、日本語のローマ字表記法を教えることはともかく、少なくとも日本式は廃止したほうがいい。百害あって一利なしですから。
ヘボン式こそ百害あって一利なしである。
>「ta ti tu te to」の方が「論理的」な表記であるとしたら、「た ち つ て と」を「た てぃ とぅ て と」と云ふ發音する事こそ論理的である、と云ふ事になるかと思ひますが、「表音主義者」氏は日本語の發音も「改善」しようとなぜ思ひませんか。
なぜそんなことをする必要があるのでしょうか。
日本語ではtとiがつながるとロシヤ語тиと同じように発音するのです。それのどこが悪いのですか。なぜ他の言語にあわせなければならないのか。
>「表音主義者」氏が、漢字を嫌ふ理由は何ですか。
漢字ほど難しく学習しにくいものはない。漢字がなければ、日本語学習者ははるかに多かっただろうし、日本語の国際的地位ははるかに高かったでしょう。
>「ローマ字」の規則について、「か行」をcではなくkで、「は行」をfではなくhで、「や行」をjではなくyで、「ら行」をlではなくrで表記するのは、なぜですか。
「や」行子音については、私はjを使うべきと考えています。IPAでもjであり、jのほうが論理的だと思います。
「か」行子音については、これは文句なくkです。IPAでもkであり、ほとんどの言語で日本語の「か」行子音にあたる音はkで表記されます。一方、cをどのように発音するかは言語によってまちまちです。非論理的な英語ではcをkやsのように発音します。cは、外来語のts音をあらわすために使うのがいいでしょう。
「は」行も文句なくhだと思います。
「ら」行もrであるべきだと考えます。
>最初の質問についてですが、漢字は日本語の本質を歪めるものだと云ふ主張があり、また、英語の綴りは漢字的であると云ふ非難があつたので、その邊、どうも理窟が繋がつてゐないやうに思はれるのです。
意味がよく分かりません。
現に大多数の日本人が聞き分けることができ、発音することができる音を「存在しない」というのは無理があると思いますが。
>そもそも「日本式」で用ゐる「ローマ字」が、英語と完全に無縁の、全く中立の立場の文字である、と云ふ事はありません。何度も指摘した通り、ABC以下二十六文字のアルファベット、ローマ字は、飽くまで英語のアルファベットであり、ギリシアやロシアで使はれてゐるものとは異ります。
英語はローマ字を用いる言語の一つにすぎません。
私はローマ字は完全無欠とは思いません。文字が少なすぎるために、多くの言語では字上符を用いたり、一つの音素を複数の文字で記述しています。この点、キリル文字はローマ字よりよい点もあります。
ローマ字を改良し、世界共通アルファベットを制定すべきだと思います。
>>日本式ローマ字は日本語正書法であって、外来語のためのものではない。「ティ」「トゥ」などという表記を使うこと自体がおかしい。本多勝一を読んでみなさい。
>本多勝一の主張がをかしい。現に「ティ」「トゥ」のやうな發音は、日本人が外國と接觸するやうになつて、日本に流入してゐるのであり、その事實を覆ひ隱す事は出來ません。そして、現に片假名では表記出來てゐるのであり、それを日本人なら誰でも見て解る。ならば、この點では、片假名表記はローマ字表記よりも、優れてゐるのです。それは素直に認めなければならないでせう。それを認めないで、自分勝手な主張を根據に黒を白と言ひ包めるから本多はをかしいのです。
そのような発音が存在するからといって表記すべきであるという結論にはなりません。
あくまでも日本語の音素として存在しなければ表記する必要はないのです。
日本語では「ti」と「t'i」の音素上の対立は存在しないのだから表記すべきではないのです。
>それでは、ワ行五段活用の動詞「買う」はどうなりますか?
これについては、私は「旧かな」論者です。
現在の発音よりも、動詞変化の規則性を重視して表記したほうがよいと思います。
語幹はkawとし、--u, --anai, --i, --e, --ôと活用します。
他のローマ字派がどう考えるかはわかりません。たぶん私は少数派でしょう。
ほとんど反論したい部分は野嵜さんと岡田さんが言ってくださったので、蛇足とも感じますが念の為。
> >例文:彼は金管楽器の tuba を『チューバ』ではなく、極めて異国風に『テューバ』と言った。
>
> こんな例はナンセンスだと思います。こういう外国語発音が問題になる場合は発音記号を使うべき。
上の文を日本式ローマ字で充分に表わしきれないことはお認めになるわけですね。ならそれで結構。しかし“仮名でさえ表現できるものを、発音記号を使わなければ単独では表現できない”ということのほうがナンセンスではないでしょうか。
関係ありませんが『〜べき。』で文を終わらせるのは個人的には気持ちが悪い。『〜べし』とするか『〜べき{だ/である}』と書いてほしいところです。昨今はマスコミでもこういう書き方が増えているので止めようがないのかも知れませんけれど。
> 方言表記のために正書法があるわけではない。標準日本語とことなる音素があれば違う表記を用いるほかない。
公文書や論文の類ならそれで事足りるのかも知れませんが、文章というのはそれだけではない。例えば台本やら小説やらの中で、登場人物が方言を話すこともあります。それを表現しきれない表記体系というのは、僕には欠陥だらけに思えますけどねえ。
――と書くと、やはり正仮名遣いの方面からも反論が出そうですが。
> 日本式ローマ字は日本語正書法であって、外来語のためのものではない。
……外来語は日本語ではないと?
違うでしょう。外来語も日本語の一部で、外国語と外来語は違う。それ以上の反論は野嵜さんの仰る通りです。しかし『ティ』『トゥ』等、実際に会話でも使われている発音を表記できない・しなくて良いとは果たして何事なのでしょうか。
> また、ヘボン式は英語的であって、英語以外の外国語話者にはかえって理解しがたいものである。
ヘボン式が英語的で日本式がそうでないと仰る根拠がわかりません。仮にそれが正しいとしても、日本式のほうが『英語以外の外国語話者』に理解し易いとは、到底思えないのですが……実例を示して欲しいところですね。
> いつも思うが、ヘボン式を支持する人は例外なく英語崇拝者であり、日本語を大切に思っていない。
英語は寧ろ嫌いです。事実上の国際共通語が英語になっている現状は面白くない。その御説、少なくとも僕個人に関しては当たっていないようです。
また日本語を大切にされないのはどちらなのかとも申し上げたいところですが、それは立場の違いであろうと、ここはまあ理解するに留めておきます。
立場の違いということで言えば、僕としてはローマ字の機能の一つとして、“日本語話者が無意識に発音する”日本語の音韻構造を意識化するということがあると思うんですよ。しかしそれについてはヘボン式でも不完全なんですが、日本式となると全く用を為さない。そこが問題だと思うのです。
日本語話者が日本語の音韻構造を意識化できないと、外国語(英語に限りません)は正確に聴き取ることも発音することもできません。つまり野嵜さんの仰るローマ字教育の弊害というのはその辺にあるものと理解しています。母音・子音を分けて考えられないまま(また英語であれば英語の正書法も論理立てて習わないまま)、ただ訓練の中で各自が外国語の発音(と、英語なら更に表記)の規則を見出していかなければならないのは極めて能率が悪い。そここそ、日本の日本人向けの外国語教育が間違っている点だと考えます。
それを改善するためにも、日本語のローマ字表記法を教えることはともかく、少なくとも日本式は廃止したほうがいい。百害あって一利なしですから。
あと、簡單と云ふ事と論理的と云ふ事とは別だと思ひますが。
「ta ti tu te to」の方が「論理的」な表記であるとしたら、「た ち つ て と」を「た てぃ とぅ て と」と云ふ發音する事こそ論理的である、と云ふ事になるかと思ひますが、「表音主義者」氏は日本語の發音も「改善」しようとなぜ思ひませんか。
「表音主義者」氏が、漢字を嫌ふ理由は何ですか。
「ローマ字」の規則について、「か行」をcではなくkで、「は行」をfではなくhで、「や行」をjではなくyで、「ら行」をlではなくrで表記するのは、なぜですか。
最初の質問についてですが、漢字は日本語の本質を歪めるものだと云ふ主張があり、また、英語の綴りは漢字的であると云ふ非難があつたので、その邊、どうも理窟が繋がつてゐないやうに思はれるのです。「表音主義者」氏、このところ、私の質問の殆どを無視して、自分の主張をひたすら繰返してゐますが、たまにはまともに答へてみてはいただけませんか。もちろん、愚かしい質問であるから答へない、と云ふのかも知れませんが、愚かしい質問ならば簡單に答へられる筈でせう。よろしく御願ひします。
本多の讀者だから「表音主義者」氏は獨斷的で偏見に基いた判斷をするんですね。
>いつも思うが、ヘボン式を支持する人は例外なく英語崇拝者であり、日本語を大切に思っていない。
私は、英語の表記は讀み易さの觀點から合理的であると思ふし、さう云ふ意味では「英語崇拜者」ですが、「英語崇拜者」と云ふ言ひ方がをかしいのです。
そもそも「日本式」で用ゐる「ローマ字」が、英語と完全に無縁の、全く中立の立場の文字である、と云ふ事はありません。何度も指摘した通り、ABC以下二十六文字のアルファベット、ローマ字は、飽くまで英語のアルファベットであり、ギリシアやロシアで使はれてゐるものとは異ります。
また、假にローマ字が「中立な文字」だつたとして、だからと言つて他の文字を排斥する理由にはなりません。そもそも、中立な文字等ありません。文字は全て、言語と一體のものであり、言語は「表音主義者」氏が指摘した通り、中立ではありません。
>日本式ローマ字は日本語正書法であって、外来語のためのものではない。
>「ティ」「トゥ」などという表記を使うこと自体がおかしい。本多勝一を読んでみなさい。
本多勝一の主張がをかしい。現に「ティ」「トゥ」のやうな發音は、日本人が外國と接觸するやうになつて、日本に流入してゐるのであり、その事實を覆ひ隱す事は出來ません。そして、現に片假名では表記出來てゐるのであり、それを日本人なら誰でも見て解る。ならば、この點では、片假名表記はローマ字表記よりも、優れてゐるのです。それは素直に認めなければならないでせう。それを認めないで、自分勝手な主張を根據に黒を白と言ひ包めるから本多はをかしいのです。
また、すぐに「崇拜」だの「差別」だのと言出す邊も、本多は異常です。さう云ふ、感情的な價値判斷を含んだ表現をしておいて、理論的な反論を豫め封殺してしまふのが本多の常套手段です。
表音主義者さん:
》5段活用の動詞「書く、汲む、押す、立つ」を変化させてみましょう。
》
》日本式では、
》kak --u, --anai, --i, --e, --ô
》kum --u, --anai, --i, --e, --ô
》os --u, --anai, --i, --e, --ô
》tat --u, --anai, --i, --e, --ô
》と例外がありませんが、ヘボン式では
》
》kak --u, --anai, --i, --e, --ô
》kum --u, --anai, --i, --e, --ô
》os --u, --anai, --hi, --e, --ô
》ta --tsu, --tanai, --chi, --te, --tô
》のように不規則変化になってしまいます。
》
》5段活用以外の動詞でも同じことです。
それでは、ワ行五段活用の動詞「買う」はどうなりますか?
>例文:彼は金管楽器の tuba を『チューバ』ではなく、極めて異国風に『テューバ』と言った。
こんな例はナンセンスだと思います。こういう外国語発音が問題になる場合は発音記号を使うべき。
>ですが“現代の方言の発音に沿って表記する”という目的に於いて、日本式ローマ字表記はその役を果たせないのではないか――という問題提起として例示しましたので。そこはご理解ください。
方言表記のために正書法があるわけではない。標準日本語とことなる音素があれば違う表記を用いるほかない。日本式だろうがヘボン式だろうがそのまま使うことはできない。
>これなんですが、実は存じておりました。ただ、あまりこの規則は知られていませんよね。それに実際に使われている場面を見たことがない。果たして街中の何かの表示に"t'i", "t'u"と書いてあったとして、何を意図してのアポストロフィーか正確に把握できる人がどれほどいるものでしょうか。また、こうした規則はローマ字表記そのものの規則体系を却って煩雑にしているように思えます。この点について言えば、まだヘボン式のほうがシンプル且つ現実に即しているとは言えませんか。
日本式ローマ字は日本語正書法であって、外来語のためのものではない。
「ティ」「トゥ」などという表記を使うこと自体がおかしい。本多勝一を読んでみなさい。
>さらに言うなら日本式のほうは表記上だけきっちり揃っている・辻褄を合わせたというだけのことです。声を出して読むならば、結局どこかで『たちつてと』が(ヘボン式で書くところの)"ta""chi""tsu""te""to"と発音されることは認識しなければならない。もちろん日本人なら無意識に発音できるのでそれで充分ですけど、仮に外国人が日本語を習ったり読み下したりする場合のことを考えれば、発音規則が“隠されてしまう”日本式は余り有益とは思えないのです。
「日本語話者が無意識に発音する」のがまさに日本語の音韻構造にほかならない。それが日本語であって、それをそのまま表記することは「隠されてしまう」のではない。
外国語話者が日本語をまなぶ時に日本語の音韻構造を覚えるのは当然である。また、ヘボン式は英語的であって、英語以外の外国語話者にはかえって理解しがたいものである。
いつも思うが、ヘボン式を支持する人は例外なく英語崇拝者であり、日本語を大切に思っていない。
> 更に『ツャ tsya』『ツュ tsyu』『ツョ tsyo』も含めて、『このように表現したい』という音が表わせないのは個人的に非常にもどかしいんです。
読み返してみて、我ながらこのへんの論旨がはっきりしないなあと思ったので補足します。まず例文を挙げて、それをヘボン式と日本式のローマ字で書き直してみます。
例文:彼は金管楽器の tuba を『チューバ』ではなく、極めて異国風に『テューバ』と言った。
ヘボン式:Kare wa kinkan-gakki no 'tuba' wo "chûba" dewa naku, kiwamete ikoku-fû ni "tyûba" to itta.
日本式:Kare wa kinkan-gakki no 'tuba' wo "tyûba" dewa naku, kiwamete ikoku-hû ni "tyûba" to itta.
※正しくは助詞『を』は"o"と書くべきなのでしょうけれど、個人的主張として普段からも"wo"と発音しています故、ご容赦を。
> > 沖縄の童謡『てぃんさぐの花』が『ちんさぐの花』では困ります。
>
> それでは困ります。「てんさぐの花」でせう。
おっと。その方面からのご指摘ですか。いや、正(歴史的)仮名遣いの立場からは至極ごもっとも。
ですが“現代の方言の発音に沿って表記する”という目的に於いて、日本式ローマ字表記はその役を果たせないのではないか――という問題提起として例示しましたので。そこはご理解ください。
ついでに言うと、沖縄では仮名表記にも苦労されているようです。共通語にない"wu"の音を表わすために『をぅ』という表記が編み出され、その使用にも賛否両論あったり。そうした努力も無視してはいけないと思う次第。
さて。
> 『ティ』と『チ』、『トゥ』と『ツ』をどうしても書き分けたい場合は、
> t'i ti
> t'u tu
> のように'で区別することになっています。
これなんですが、実は存じておりました。ただ、あまりこの規則は知られていませんよね。それに実際に使われている場面を見たことがない。果たして街中の何かの表示に"t'i", "t'u"と書いてあったとして、何を意図してのアポストロフィーか正確に把握できる人がどれほどいるものでしょうか。また、こうした規則はローマ字表記そのものの規則体系を却って煩雑にしているように思えます。この点について言えば、まだヘボン式のほうがシンプル且つ現実に即しているとは言えませんか。
> しかし私は区別すべきだと思っていません。
(中略)
> 「レモンチー」「ビルヂング」と書くべきだと思います。なお、di(ヂ)に関しては現代仮名遣いの問題がありますが触れません。
賛成できかねます。現実に会話の中で区別されている語の発音が書き分けられない・書き分ける必要がないというのはどういうことなのでしょうか。
……これについて、場所柄また正仮名遣いの立場の方からも異論が出そうな気がしますが。なんだか孤立無援な感じになってきたような……というのは余談として。
> チャ tya チュ tyu チョ tyo
ヘボン式なら『テャ』『テュ』『テョ』と読むところですね。とはいえ左の仮名表記が認められるか否かという問題もありますが、そこは仮名の問題として。
更に『ツャ tsya』『ツュ tsyu』『ツョ tsyo』も含めて、『このように表現したい』という音が表わせないのは個人的に非常にもどかしいんです。しかしまあ、実際の必要性としてどれほどかということを考えると、ここは了解としておきます(納得はしていません)。
> 前者では5段活用の規則が一つに定まり、後者では定まらないではありませんか。前者なら語尾変化は一つしか覚えなくてよいが、後者はもっと覚える必要があるということです。
ですからそれは“字面だけの問題”でしょう。どちらで書いたところで、日本語の規則に従って『規則的に』発音がずれるのですから規則的ということに変わりはない。
さらに言うなら日本式のほうは表記上だけきっちり揃っている・辻褄を合わせたというだけのことです。声を出して読むならば、結局どこかで『たちつてと』が(ヘボン式で書くところの)"ta""chi""tsu""te""to"と発音されることは認識しなければならない。もちろん日本人なら無意識に発音できるのでそれで充分ですけど、仮に外国人が日本語を習ったり読み下したりする場合のことを考えれば、発音規則が“隠されてしまう”日本式は余り有益とは思えないのです。
――しかし思ったんですけど、表音主義者さんは『表音主義者』と名乗りながら、音を表わすことについて徹底されていないような。表音を貫くなら、日本式ローマ字表記を選択するというのは果たしてどうなんでしょう。とても最良とは思えないんですが。
ちよつと詳しくつつこんでおくと。
>だから、漢字を除き排するべきなのです。
訓讀みを排するのならば、「だから、漢字をのぞき排するべきなのです。」では?
「普段は使ってないですからね。」は「普段はつかってないですからね。」、「ここに載っていますが、広く支持された方式かどうかわかりません。」は「ここにのっていますが、ひろく支持された方式かどうかわかりません。」、「部分的な違いがあるようですが私は詳しくありません。」は「部分的なちがいがあるようですがわたしはくわしくありません。」、以下略。
>「東大式」「ローマ字会式」などあって部分的な違いがあるようですが私は詳しくありません。
なぜ「違い」があつて良いのですか。
>漢字批判は一致しています。
一致してゐる漢字批判から、なぜ「カナモジ」と「ローマ字」と、方法論が分れるのですか。
>ローマ字を使わない言語でも、ローマ字への翻字法は必ず定められています。パスポートにも必ずローマ字表記による名前が載っています。
>ローマ字が普遍基準となっているということです。
「表音主義者」さんは前にかう御書きになりました。
>英語が国際言語として用いられているのは英語諸国の力が強いからで、英語それ自信の力によるものではありません。
ローマ字も、ローマ字を用ゐる諸國の力が強いから「普遍基準」となつてゐるだけではないですか。
そもそも、言語と違つて文字が中立的なものであるとしたら、或文字だけが「普遍基準」となつて良いと云ふ事にはならないと思ひますが。
と言ふか。
>Wakatigaki o tukitomey? to suru to, hanasi ga nagaku muzukasiku naru.
なんか、やつぱり難しいらしいですよ。
>ローマ字への翻字法
それはローマ字を正書法として採用する事とは別の話でないかと。
>トルコ語
これは近代化政策で、西歐諸國に追附く事と、イスラムの傳統を排斥する事とを目的に、ローマ字が採用された例ですが。
>「分かち書き」の正規の方法は、やはり覺えないとならないものなのですか。
普段は使ってないですからね。
http://xembho.port5.com/rb/wakatigaki.html
ここに載っていますが、広く支持された方式かどうかわかりません。
「東大式」「ローマ字会式」などあって部分的な違いがあるようですが私は詳しくありません。
>>日本語以外の膠着語も分かち書きしていますよ。
>例へば、どの言語でせうか。
トルコ語、スオミ(フィンランド)語、スワヒリ語。
>ほかの膠着語も、日本語の用言と全く同じ構造で用言が成立し、それにもかかはらず「わかたない」のでせうか。最うちよつと詳しく、論理的に説明していただけますか。また、用言の語幹と語尾とを「わかたない」一方で、體言の語と辭とを「わかつ」理由を文法的に説明していただけますか。
このあたりは専門家に聞かないとわかりません。
>それと、カナモジ論者の主張を、カナモジよりもローマ字の方が優れてゐると主張する「表音主義者」さんはなぜ引用するのですか。
漢字批判は一致しています。
>世界で普遍的に使はれてなどゐません。
ローマ字を使わない言語でも、ローマ字への翻字法は必ず定められています。パスポートにも必ずローマ字表記による名前が載っています。
ローマ字が普遍基準となっているということです。
何だか、私の質問を「表音主義者」さんには無視されてゐるやうで寂しいのですが。
>いや、ぼくが不勉強で覚えてないだけで。
「分かち書き」の正規の方法は、やはり覺えないとならないものなのですか。
>日本語以外の膠着語も分かち書きしていますよ。
例へば、どの言語でせうか。
>ほかの膠着語でもわかたないと思います。
ほかの膠着語も、日本語の用言と全く同じ構造で用言が成立し、それにもかかはらず「わかたない」のでせうか。最うちよつと詳しく、論理的に説明していただけますか。また、用言の語幹と語尾とを「わかたない」一方で、體言の語と辭とを「わかつ」理由を文法的に説明していただけますか。
>「分かち書き」こそ、ローマ字で最大の問題點です。はつきり言つて、「分かち書き」の方法については、ローマ字主義者の間でも、定説がないのではないですか。
いや、ぼくが不勉強で覚えてないだけで。
>日本語は膠着語ですから、「分かち書き」は馴染みません。
日本語以外の膠着語も分かち書きしていますよ。
>なぜ用言の語幹と活用語尾とを「分かたない」のですか。
ほかの膠着語でもわかたないと思います。
それと、カナモジ論者の主張を、カナモジよりもローマ字の方が優れてゐると主張する「表音主義者」さんはなぜ引用するのですか。
>まず第一に、ローマ字は外国の文字ではありません。世界で普遍的につかわれている世界文字です。
世界で普遍的に使はれてなどゐません。支那では漢字が用ゐられてゐます。
>次に、訓よみがきらわれるのは、漢字が外国の文字だからだけではありません。それが日本語の本質を破壊するからです。
漢字が入つて來た時點で、既に日本語の本質は變化してゐるのです。
>"makoto"と" kotoba"の"koto"はおなじやまとことばです。しかし、これを「誠」「言葉」とかくことによって、それがわからなくなります。だから、漢字を除き排するべきなのです。
同じ大和言葉ですが、「誠」と「言葉」とでは意味が異るのです。それに、訓で讀めば、「こと」と云ふ部分が共通するのは明かではないですか。自分で訓を排除しておきながら、それで「共通する部分がわからなくなる」等と言ふのは、八百長です。
>イタリア語やイスパニア語も、子音と母音が組み合わせになる場合が多いですが、それで語の視認性が低いとはおもえません。
イタリア語では、子音に子音が連續する例は少くありません。それも、樣々なパターンで連續します。辭書から意味も調べず適當かつランダムにそれつぽいものを拔出しておきます。
aveste、avrai、entro、perdere、sbalestrare、……。
日本語では「ん」の邊でワンパターンに連續するのみです。
イタリア語にしてもフランス語にしても英語にしても、語の生成過程と綴りの生成過程とが關聯してをり、アルファベットのみによる表記でも語の成立ちがわかり、意味が取り易くなつてゐます。
con/com-とかdis-とか言つた接頭辭、接尾辭の附いた語は、それなりに意味が推測出來ますし、見ただけでイメージが生じます。
しかし、ローマ字表記された日本語の語では、決して意味が判り易くなりません。日本語には「御(お)」とか言つた叮嚀語の接頭辭が或程度で、複雜な觀念を示す爲の接頭辭は、そもそも複雜な觀念を示す大和言葉が無い以上、存在しません。
現在の日本語の文章をローマ字で表記しても、讀み易いものとはなりません。「表音主義者」さんが理解出來ないのは解せませんが、ローマ字文の讀み難さは慣れで解決しません。
一言で言つて、イタリア語等と、日本語とは、言語が異るのです。
>その理屈を是とするならばローマ字はやまとことばを外国の文字で表記するものですから当然嫌はれるべきではないでせうか。
まず第一に、ローマ字は外国の文字ではありません。世界で普遍的につかわれている世界文字です。
次に、訓よみがきらわれるのは、漢字が外国の文字だからだけではありません。それが日本語の本質を破壊するからです。
http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/hikari734-4.html
http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/hikari896-0201et.html
http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/hikari873-1209et.html
>日本語では 「いく」と 「おこなう」は 別の 概念だが 中国語に ならって ドチラも 「行」と いう 字を つかう。逆に 「はじめ」と 「はじめる」は 同源で あるにも かかわらず 中国語の カキアラワシカタに したがって 「初」と 「始」とに かきわける。これは 不自然では ないだろうか。もう ヒトツ 複合語の 例を みる。「かたむく」、「かたよる」、「かたわら」を 漢字で かくと すれば、それぞれ 「片向く」、「片寄る」、「片端ら」と かくのが 日本語として 自然で あろうが それは ゆるされず、「傾く」、「偏る」、「傍ら」と まったく 別の 字を つかわなければ ならない。これが 漢字を つかう ことに よって 中国語と いう 外国語に ひざまづく ことを しいられて いる 日本語の ミジメな スガタで ある。
"makoto"と" kotoba"の"koto"はおなじやまとことばです。しかし、これを「誠」「言葉」とかくことによって、それがわからなくなります。だから、漢字を除き排するべきなのです。
>分かち書きについては自信なし。
「分かち書き」こそ、ローマ字で最大の問題點です。はつきり言つて、「分かち書き」の方法については、ローマ字主義者の間でも、定説がないのではないですか。
日本語は膠着語ですから、「分かち書き」は馴染みません。
「watasi wa」と、どのローマ字文でも「分かち」ますが、本當にそれで良いのですか。ならば、なぜ用言の語幹と活用語尾とを「分かたない」のですか。どのローマ字主義者も、「kakanai」と書きますが、「kak anai」とは書きません。
「表音主義者」さんの主張にも關らず、ローマ字主義者は母音と子音とを分離する考へ方を持つてゐない事は、明かです。
「分かち書き」を行ふには、言語學的な知識が要求される事も、明かです。現在、漢字かな交じり文を用ゐてゐる我々には、「分かち書き」もそれほど困難ではありません。定説はないにしても、それつぽく「分つ」ことは出來ます。しかし、ローマ字のみを用ゐる人間が、的確に「分かち書き」を行へるのかどうかには疑問があります。「分かち書き」をするのに知識が必要であるのならば、その知識を持たない間は「分かち書き」は出來ない。ではその知識を持つ爲にはどうするのかと言ふと教育を必要とします。これでは、誰もが自由にローマ字文を書けるやうにはならない。
もしかしたら、ローマ字のみでやつて行く社會では「分かち書き」は廢止されるのですか。では、その時、「分かち書き」のないローマ字文が流通する事になりますが、その「分かち書き」のないローマ字文は、漢字かな交じり分よりも視認性が高いと言へるのですか。ローマ字文は、書くのに效率的であるとされますが、讀むのには非效率的であると言へます。機械的な處理をするのならばともかく、また機械は文脈を判断出來ないと云ふ大問題がありますし、人間がローマ字文を讀む際には音讀しつゝ文脈を判斷し的確に文字列から意味のある語を想起しなければならないと云ふ手間が必要となり、どつちみち「讀む」際の效率では漢字かな交じり文にローマ字文はかなひません。
横から失礼いたします。
>「訓読み」は、やまとことばを外国の文字で表記するものとして嫌われます。
その理屈を是とするならばローマ字はやまとことばを外国の文字で表記するものですから当然嫌はれるべきではないでせうか。カナモジも漢字由来ですし、日本人は一旦文字を捨てて新たに一から作り直す必要まで出てきますね、ハングルの様に。さう主張されないのは何故でせうか。
つまり、それは論拠として用ゐるには自らの足元をも否定する、甚だ弱々しいものだと思はれるのですが如何。
>「訓読み」は、やまとことばを外国の文字で表記するものとして嫌われます。
これは先の、
>しかし文字は言語とは違って、それ自体は中立に近いものです。
と云ふ主張と矛盾します。
>文脈で判断できます。
なぜ文脈で判斷しなければならないのでせうか。漢字で書かれてゐれば、意味は明かです。
>また、「逝く」「行く」は本来日本語では同じ言葉であって、漢字があるために区別されているだけなのではないでしょうか。
漢字があるから區別が出來るのです。
>意味が分かりません。
意味は明かです。わからない筈がありません。私は
>"Itiko ha ittyattatte itte tyodai."
>「市子は行つちやつたつて言つて頂戴」。
の例を擧げました。明かに、漢字假名交じりの方が視認性が高い例です。「表音主義者」さんは、なぜかその邊の指摘を無視して、haはwaであるとか、どうでも良い話をしてゐますが。
>そのとおり、訓読み・訓書きをなくすことを通じて漢字をなくそうとしています。
漢字を無くす理由がありません。なぜ理由も無しに、漢字を無くさなければならないのですか。
>日本語でも母音と子音を区別します。子音が単独で現れないだけです。
單獨で現はれないのが自然なのだから、假名の方がローマ字よりも日本語らしい表記です。
>どうして英語の例をすぐ出すのでしょうか?英語はきわめて非論理的で漢字的なつづりをしていると指摘しましたが。
英語は「漢字的」で合理的な綴りであると指摘してゐるのです。書き言葉に於いては、意味がわかり易い方が合理的であり、音讀し易い事は何の意味もありません。呉智英さんは、ハングルを讀めるが、ハングルで書かれた文章の意味はわからないとの事です。發音がわかるだけのローマ字と、意味が良くわかる漢字かな交じり文とでは、漢字かな交じり文の方が優秀な書き言葉である事は自明です。
>"Itiko ha ittyattatte itte tyodai."
>「市子は行つちやつたつて言つて頂戴」。
ローマ字表記では、ha は wa とします。また最後はtyôdaiです。
Itiko wa ittyatta te itte tyôdai (分かち書きについては自信なし。)
>「言つた」「行つた」「逝つた」「煎つた」「射つた」のやうな「同訓異義語」も、ローマ字で當然、解決は出來ません。
文脈で判断できます。
また、「逝く」「行く」は本来日本語では同じ言葉であって、漢字があるために区別されているだけなのではないでしょうか。
>取敢ず「表音主義者」さんには、ローマ字だと、出現する文字が「子音+母音」の繰返しと云ふ類似したパターンの連續となり、語の視認性が非常に低くなる、と云ふ問題について、釋明をしていただきたいものですね。
意味が分かりません。
現にRômazi no Nipponを読んで、語の視認性が低いとは思いません。
イタリア語やイスパニア語も、子音と母音が組み合わせになる場合が多いですが、それで語の視認性が低いとはおもえません。
>また、多くの表音主義者(一般名詞)の方が、漢字の「訓讀み」を否定していらつしやるやうですが、「表音主義者」(固有名詞)さんはどう御考へですか。漢字から訓讀みを排除したら、漢字の意味を理解出來なくなり、結果として漢字を使へなくなります――もしかして、さう云ふ手段で多くの表音主義者(一般名詞)の方は漢字を無くさうと努力されてゐるのですか。
そのとおり、訓読み・訓書きをなくすことを通じて漢字をなくそうとしています。
「訓読み」は、やまとことばを外国の文字で表記するものとして嫌われます。
http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/hikari753-19.html
>文字が中立であると言ふのは、意味がわかりません。
>ローマ字は、日本語の音韻と違ひ、母音と子音を區別します。ですから、日本語に關して問題のある表記です。
日本語でも母音と子音を区別します。子音が単独で現れないだけです。
その証拠が先ほどあげた5段活用です。
> kak --u, --anai, --i, --e, --ô
> kum --u, --anai, --i, --e, --ô
> os --u, --anai, --i, --e, --ô
> tat --u, --anai, --i, --e, --ô
このように語幹は子音で終わっています。
>一方の英語では、既に述べた通り、アルファベットの組合せによつて、視認性の高い綴りが成立してゐます。
どうして英語の例をすぐ出すのでしょうか?英語はきわめて非論理的で漢字的なつづりをしていると指摘しましたが。
あと、「日本式ローマ字」を支持なさつてゐる「表音主義者」さんにおたづねします。
「表音主義者」さんは、表音主義者であるさうですが、その主張を見る限り、日本語を表記するにはカナモジよりもローマ字の方が適切である、と御考へのやうです。
では、同じ表音主義であつても「カナモジ論者は間違つてゐる」と「表音主義者」さんは御考へなのですか。
"Itiko ha ittyattatte itte tyodai."
「市子は行つちやつたつて言つて頂戴」。
どう考へても、漢字假名交じりの方が意味が取り易いと思はれる文例です。
「言つた」「行つた」「逝つた」「煎つた」「射つた」のやうな「同訓異義語」も、ローマ字で當然、解決は出來ません。
取敢ず「表音主義者」さんには、ローマ字だと、出現する文字が「子音+母音」の繰返しと云ふ類似したパターンの連續となり、語の視認性が非常に低くなる、と云ふ問題について、釋明をしていただきたいものですね。
分かち書きでは到底解決出來ない問題だと思ひます。
また、多くの表音主義者(一般名詞)の方が、漢字の「訓讀み」を否定していらつしやるやうですが、「表音主義者」(固有名詞)さんはどう御考へですか。漢字から訓讀みを排除したら、漢字の意味を理解出來なくなり、結果として漢字を使へなくなります――もしかして、さう云ふ手段で多くの表音主義者(一般名詞)の方は漢字を無くさうと努力されてゐるのですか。
しかし、適切に音讀み・訓讀みを用ゐて表記すれば大變讀み易くなるのに、わざと獨自ルールを作つて讀み難い文章を作るのも如何かと思ひますが。
> 漢字がある限り同音異義語はなくならない.なくすればひとりでになくなる.会話では同音異義語は余り問題にならない.というのはひとは紛らわしいことばは使わないように自然発生的につとめるからである.ときに分からないことがあると,「コウエン−ええと,アトオシです,ハナシではありません」などという.それなら後援などという効率のわるいことばはやめてだれでも分かる「アトオシ」というヤマトコトバを使えばいいのである.にもかかわらずそれをしないのは,昔からの中国崇拝のため,漢字というコケオドシを貴ぶ精神からである.耳で聞いて分からないことばなどはことばというに値しないというべきである.
これはどうかと思ひますね。漢字排斥論者の惡い癖です。「選択の余地はなかった.中国文化はそれほど圧倒的だったのである.」と書いておきながら「漢字というコケオドシを貴ぶ精神」とか「漢字中毒」とかのレッテルを貼るんです。
支那から漢字が入つて來たのは必然的な事であり、入つて來た漢字を日本人はもう、完全に日本人のものにしてゐるのです。漢字の造語機能を日本人は使ひこなしてきました。それを上囘る大和言葉による造語機能の創造は、今からやつてゐたのでは間に合ひません。
日本人は、漢字を使ふ以外に手はないのです。
「簡単にエダとエノキと違うことばを使うことで解決した.」と言つてゐますが、「オトがゆたか」でない日本語で、音だけで區別出來る「違うことば」を作るのには、長々と説明しなければならない。この例でも「え」が「えだ」「えのき」に延びてゐます。
哲學用語やIT關聯の用語を大和言葉で表現しろと言はれても、さうさう簡單に出來たものではありません。そして、漢字排斥論者もその邊の事はわかつてゐるのです。
だから、全ての漢字を無くせとは言はない。まづは日常使ふ言葉から漢字を無くして行かう、と云ふ言ひ方をするのです。これがレトリック以上のものでない事は明かです。
>日常語と学術語が違うものだというのが偏見である.英語やフランス語はラテン語系の学術語を使う.
さう言つて漢字を「選良」のみのものとしてしまつて、後から「漢字は選良の爲のもの」と云ふ非難をするのです。英語圈では、ラテン系の用語は、見ただけでは意味がさつぱりわからない、と云ふ事があります。しかし、漢字で書かれる專門用語を見て、我々は漠然とでも意味を把握する事が出來る。
全文つつこみを入れられさうな「カナモジ・ローマ字論の初歩」ですが、面倒なのでやめます。「表音主義者」さんは、後藤さんの文章についてはどう御考へですか。
「漢字廃止論への疑問」
http://plaza22.mbn.or.jp/~gthmhk/kanzi.html
>漢字熟語の批判として、同音異義語が多いというものがありますが、膨大な数の高級語や専門語を短い単語で造語しようとすれば、音素の少ない日本語の音韻構造の制約がある限り、漢字熟語で造語しようがやまと言葉で造語しようがカタカナ外来語で造語しようが、多かれ少なかれ同音異義語はできてしまうだろうと思います
>しかし文字は言語とは違って、それ自体は中立に近いものです。
>ローマ字が完璧とはいいませんが、かなり優れたもので、少なくとも日本語に関しては問題なく表記できます。(一方、英語だとかなり問題が出てきています。ローマ字の字数は増やす必要があります。)
文字が中立であると言ふのは、意味がわかりません。
ローマ字は、日本語の音韻と違ひ、母音と子音を區別します。ですから、日本語に關して問題のある表記です。
一方の英語では、既に述べた通り、アルファベットの組合せによつて、視認性の高い綴りが成立してゐます。
適材適所と言ひます。日本語には漢字かな交じり文が適切です。理由は既に述べました。
そして、私が既に述べたこれらの事について、「表音主義者」さんはコメントしてゐません。反論しやうがない事だからでせう。
>かなとローマ字の優劣とは別に、よく指摘されることとして「日本語には同音異義語が多く、表音的な記法だと文章が理解しづらいものになる」ということがありますが、この点についてはどうお考えでしょうか。ローマ字で書かれた文章が読みづらく感じるのは、単に慣れの問題だとしても、同音異義語をどう区別していくかは、慣れだけで済ませられる問題ではないと思うのですが。
こちらをご覧ください。
http://www.halcat.com/roomazi/rmzkiso.html#SEC11
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hel/jp/yamasaki/yama1-j.htm
>古代の日本語では「え」に2種類あった.eとyeである.eはエノキのこと,yeは枝,江,柄のことだった.それが平安朝の初めくらいにひとつになってしまって,同音異義語が生じた.江,柄はコンテクストが違うから問題は起こらない.しかし枝とエノキは区別する必要がある.川合さんなら漢字が違うから困らないと平然として入るであろうが,いちいち紙に書いて示すのか.めんどうでしょうがないではないか(ちなみにメンドウに面倒とかくのは当て字である−語原にまったく関係がない).このころの人は漢字中毒が今のように末期的になっていなかったから,簡単にエダとエノキと違うことばを使うことで解決した.コというのはいろいろの意味があった.いまわれわれが,コドモ,コナ,カイコ,ナマコなどと区別しているのは昔の民衆の知恵のたまものである.
>ローマ字が世界のおおくの国でもちいられていることから、ローマ字を「国際文字」あるいは「世界共通文字」であるとみとめ、ローマ字で日本語をかくことによって日本語の国際流通力をたかめる。
>「ローマ字が世界共通文字として用いられているのはローマ字を用いる国々の力が強いからで、ローマ字それ自身の力によるものではありません。」と言へるかと思ひますが、如何でせうか。
>或は、「英語が世界のおおくの国でもちいられていることから、英語を「国際語」あるいは「世界共通語」であるとみとめる。」とも言へるかと思ひますが。
言語と文字は違います。
英語は国際語として用いるには大きな欠点があり、また特定の民族語を国際語とするのは平等性や多様性の観点からいって疑問があります。
しかし文字は言語とは違って、それ自体は中立に近いものです。
ローマ字が完璧とはいいませんが、かなり優れたもので、少なくとも日本語に関しては問題なく表記できます。(一方、英語だとかなり問題が出てきています。ローマ字の字数は増やす必要があります。)
いわば、共通の印刷技術を使いながら自由な内容を印刷するようなものです。文字は共通であったほうが便利に違いありません。
>> 「たちつてと」を日本式では ta ti tu te toと表記します。きわめて論理的で簡潔です。
>と仰いますが、外来語や方言に存在して仮名では書き分けられている『ティ』と『チ』、『トゥ』と『ツ』を日本式ローマ字表記ではどう書き分けるのでしょうか。
>『レモンティー』が『レモンチー』に、『ビルディング』が『ビルヂング』になっては教養を疑われます。故『ケネディー』大統領も『ケネヂー』大統領です。沖縄の童謡『てぃんさぐの花』が『ちんさぐの花』では困ります。
>実際に使われている音が容易に書き表せないというのは大きな欠点ではないでしょうか。
『ティ』と『チ』、『トゥ』と『ツ』をどうしても書き分けたい場合は、
t'i ti
t'u tu
のように'で区別することになっています。
しかし私は区別すべきだと思っていません。
ある言語の単語が、ほかの言語に取り入れられる場合には発音も変化することは当然のことです。
Beijing(北京)という語を欧米人は「ベイジン」という風に発音しますが、それで問題ないではないですか。何も中国語式に正確に発音しなければならないということもない。
ロシヤ語には硬音と軟音の区別がありますが、それがない言語ではロシヤ語の単語の発音は硬音と軟音の区別がないものとなります。それでいいではないですか。
「レモンチー」「ビルヂング」と書くべきだと思います。なお、di(ヂ)に関しては現代仮名遣いの問題がありますが触れません。
>仮にタ行の周辺に限るなら、以下の十五の音が表現できなければならない。しかし仮名表記やヘボン式では可能だというのに、日本式で全てを区別することは不可能です。つまり実際に使われている外来語や方言さえもまともに書き表せないということになります。
タ ta ティ ti トゥ tu テ te ト to
チャ cha チ chi チュ chu チェ che チョ cho
ツァ tsa ツィ tsi ツ tsu ツェ tse ツォ tso
チャ tya チュ tyu チョ tyo
ts音についてはきちんと定まっていませんが、cを用いるのがよいと考えます。
> 5段活用の動詞「書く、汲む、押す、立つ」を変化させてみましょう。
>
> 日本式では、
> kak --u, --anai, --i, --e, --ô
> kum --u, --anai, --i, --e, --ô
> os --u, --anai, --i, --e, --ô
> tat --u, --anai, --i, --e, --ô
> と例外がありませんが、ヘボン式では
>
> kak --u, --anai, --i, --e, --ô
> kum --u, --anai, --i, --e, --ô
> os --u, --anai, --hi, --e, --ô
> ta --tsu, --tanai, --chi, --te, --tô
> のように不規則変化になってしまいます。
>何を以って不規則とするのでしょうか。これは日本語にこのような発音の偏向があるから当然そうなるというだけで、どちらの表記法でも極めて規則的だということに変わりありません。これは“字面の問題”でしかない。
前者では5段活用の規則が一つに定まり、後者では定まらないではありませんか。前者なら語尾変化は一つしか覚えなくてよいが、後者はもっと覚える必要があるということです。
> 沖縄の童謡『てぃんさぐの花』が『ちんさぐの花』では困ります。
それでは困ります。「てんさぐの花」でせう。
てんさぐの花や爪先に染めて
親のゆし事は肝に染めり
発音は以下のとおり
「てんさぐの」=「ティンサグヌ」
「爪先」=「チミサチ」
「染めて、染めり」=「スミティ、スミリ」
「親の」=「ウヤヌ」
「ゆし事」=「ユシグトゥ」
「肝」=「チム」
沖縄方言は「え」「お」の母音が「い」「う」に変化してゐますので、
たいていの場合は「て」を「ティ」と発音します。「おもろさうし」
などの古典歌謡集はまだきちんと勉強してゐないので詳しくは言えませんが、
書くならば「てんさぐの花」が正しいのは確かです。なほ、歌意は略します。
義珍さん同様、お二方の論点からはちょっと外れてしまいますが参入させていただきます。
日本語のローマ字表記に関して、僕はヘボン式が完全とも思いませんが、日本式についてはかなり大きな問題があるように思えます。
> 「たちつてと」を日本式では ta ti tu te toと表記します。きわめて論理的で簡潔です。
と仰いますが、外来語や方言に存在して仮名では書き分けられている『ティ』と『チ』、『トゥ』と『ツ』を日本式ローマ字表記ではどう書き分けるのでしょうか。
『レモンティー』が『レモンチー』に、『ビルディング』が『ビルヂング』になっては教養を疑われます。故『ケネディー』大統領も『ケネヂー』大統領です。沖縄の童謡『てぃんさぐの花』が『ちんさぐの花』では困ります。
実際に使われている音が容易に書き表せないというのは大きな欠点ではないでしょうか。
仮にタ行の周辺に限るなら、以下の十五の音が表現できなければならない。しかし仮名表記やヘボン式では可能だというのに、日本式で全てを区別することは不可能です。つまり実際に使われている外来語や方言さえもまともに書き表せないということになります。
タ ta ティ ti トゥ tu テ te ト to
チャ cha チ chi チュ chu チェ che チョ cho
ツァ tsa ツィ tsi ツ tsu ツェ tse ツォ tso
> 5段活用の動詞「書く、汲む、押す、立つ」を変化させてみましょう。
>
> 日本式では、
> kak --u, --anai, --i, --e, --ô
> kum --u, --anai, --i, --e, --ô
> os --u, --anai, --i, --e, --ô
> tat --u, --anai, --i, --e, --ô
> と例外がありませんが、ヘボン式では
>
> kak --u, --anai, --i, --e, --ô
> kum --u, --anai, --i, --e, --ô
> os --u, --anai, --hi, --e, --ô
> ta --tsu, --tanai, --chi, --te, --tô
> のように不規則変化になってしまいます。
何を以って不規則とするのでしょうか。これは日本語にこのような発音の偏向があるから当然そうなるというだけで、どちらの表記法でも極めて規則的だということに変わりありません。これは“字面の問題”でしかない。
以上の点、表音主義者さんはどのようにお考えでしょうか。
引用の出典は「≡‥≡ハル猫ウェブ」です。
http://www.halcat.com/
>英語が国際言語として用いられているのは英語諸国の力が強いからで、英語それ自信の力によるものではありません。
これについての質問です。ローマ字主義者の方がローマ字のメリットとして、こんな事を書いていらつしやいますが、如何ですか。
>ローマ字が世界のおおくの国でもちいられていることから、ローマ字を「国際文字」あるいは「世界共通文字」であるとみとめ、ローマ字で日本語をかくことによって日本語の国際流通力をたかめる。
「ローマ字が世界共通文字として用いられているのはローマ字を用いる国々の力が強いからで、ローマ字それ自身の力によるものではありません。」と言へるかと思ひますが、如何でせうか。
或は、「英語が世界のおおくの国でもちいられていることから、英語を「国際語」あるいは「世界共通語」であるとみとめる。」とも言へるかと思ひますが。
下の投稿、「表音的な記法だと」は、「漢字を用いないと」とした方が文意が通じやすいですね。
クッキーを有効にしていなかったたね、修正できないので、ここで訂正させてください。
野嵜さんとの論争とは直接関係ない部分で疑問があるのですが、よろしいですか。
かなとローマ字の優劣とは別に、よく指摘されることとして「日本語には同音異義語が多く、表音的な記法だと文章が理解しづらいものになる」ということがありますが、この点についてはどうお考えでしょうか。
ローマ字で書かれた文章が読みづらく感じるのは、単に慣れの問題だとしても、同音異義語をどう区別していくかは、慣れだけで済ませられる問題ではないと思うのですが。
>音をどう認識するかは言語によって違いがあります。ある言語の表記法は、その言語の音素認識に基いて決めるべきです。
日本人は日本語を「あいうえお」以下の假名の通りに認識し、ローマ字のやうには認識しません。
>日本語を普段ローマ字表記しないために、「ローマ字=外国語」という先入見が生じるために理解し難くなっているだけで、本質的にわかりにくいものではありません。
ローマ字は日本で生れた文字ではありません。
と言ふか、ローマ字は言語なのですか。「表音主義者」さんは文字と言語とを混同してゐるやうに見えますが。
>日本語では「ti」は「ち」であって「てぃ」ではないのです。日本語と英語の区別がついていないようですね。
「改變させられてしまふのではないか、と云ふ批判」と書きましたが。「日本式ローマ字主義者」の方に區別がついてゐるのは結構ですが、それ以外の全ての日本人もまた自然に區別を附けてをり、「日本式ローマ字」を使用しても何の問題も起き得ない、と云ふのは事實と言へないでせう。
>それはかなづかいの問題ではなくカナの問題です。
>1音素を1文字であらわさず、2音素を1文字であらわすカナモジによって生じる問題でしかありません。
「ある言語の表記法は、その言語の音素認識に基いて決めるべきです。」と「表音主義者」さんは御書きになりました。或意味その通りなのでして、日本語の音素がどうであらうと、日本人は音を假名のやうに認識するから、合理的か不合理であるかには關係なく、日本人は假名を用ゐて表記すべきであると言へます。
>ローマ字表記では kak --u, --anai, --i, --e, --? であり何の問題もありません。語幹がkakでありそのあとの語尾が変化するわけですが、カナモジでは語幹最後のkと次の音がくっついて1文字になってしまうためわかりにくくなるわけです。
しかし、日本人は昔から假名を用ゐて來たし、「書く」の語幹は昔から「書」であつて「kak」ではありません。「kak」は飽くまで理論上の「語幹」に過ぎず、認識されるのは飽くまで「假名の通り」です。
また、同じ未然形なのに「kakanai」「kak?」の別の形で表記する、と云ふのは、どつちみち不合理ではないですか。
>これも金田一京助流の詭辯です。金田一は音韻と言ひましたが、音素と言つても別に大した違ひではありません。どつちも結局は音です。「音をどう認識するか」と云ふ事です。
音をどう認識するかは言語によって違いがあります。ある言語の表記法は、その言語の音素認識に基いて決めるべきです。
この点がわかっていないから、ta chi tsu te toなどという表記が出てきてしまうのです。
>しかし、「音素のなんたるかがわかって」ゐなければ使へないローマ字と言ふものが、果して普及されるべきものなのか、と云ふ問題がありますね。あまりにも專門的で、一般人にはとても使ひこなせるやうなものでないと思ひますが。そもそも、一般人が理解出來ないのを良い事に、ローマ字主義者はローマ字の難しい事をごまかしてゐるのではないですか。
日本語を普段ローマ字表記しないために、「ローマ字=外国語」という先入見が生じるために理解し難くなっているだけで、本質的にわかりにくいものではありません。
>>「たちつてと」を日本式では ta ti tu te toと表記します。きわめて論理的で簡潔です。
>>それに対し、ヘボン式ではta chi tsu te toと表記します。一つの音素であるタ行子音を3通り(t, ch, ts)に表記しているので、これはもはや日本語とはいえないものになっています。
>既に述べた通り、音韻の體系がそもそも論理的でなく簡潔でもないものです。私は別に「ヘボン式」の支持者でも何でもありませんが、一往、話の流れに沿つて「日本式」に反論しますと、ta ti tu te toと書く「日本式」を使用する事で「た ち つ て と」と云ふ本來の日本語の發音は「た てぃ とぅ て と」に改變させられてしまふのではないか、と云ふ批判に「日本式」の支持者は反論する事が必要でせう。「音素のなんたるかがわかつてゐない」と、言ふのは結構ですが、では、私以外の全ての日本人はその邊の事を「わかつてゐる」のでせうか。子供も既に知つてゐるものなのでせうか。
日本語では「ti」は「ち」であって「てぃ」ではないのです。日本語と英語の区別がついていないようですね。
>>0音図は、日本語の音韻構造をきわめて論理的に解析したものです。であるから50音図に忠実な日本式は日本語の本質に合っているのです。その証拠が動詞の活用です。
>では、五十音圖に忠實な歴史的假名遣も日本語の本質に合つてゐると言へますね。
歴史的假名遣では
書かない 書きます 書く 書く 書けば
書かう
となります。「現代仮名遣」では
書かない 書きます 書く 書く 書けば
書こう
となり、同じ未然形なのに「書か」「書こ」と別の形が生じてしまひます。
それはかなづかいの問題ではなくカナの問題です。
1音素を1文字であらわさず、2音素を1文字であらわすカナモジによって生じる問題でしかありません。
ローマ字表記では kak --u, --anai, --i, --e, --ô であり何の問題もありません。語幹がkakでありそのあとの語尾が変化するわけですが、カナモジでは語幹最後のkと次の音がくっついて1文字になってしまうためわかりにくくなるわけです。
この点からもローマ字表記のほうが合理的になります。
>ですから、表音主義(ここでの音は音素)の表記法は「日本式ローマ字」しかないのです。
「表音主義者」さんは、どう考へても「表音主義」ではなく「日本式ローマ字主義」ですが、どうして「表音主義」と自稱されるのですか。
話を又戻しますが。
>英語のつづりに問題がある以上、英語のつづりに中学生が悩むのは仕方が無いことです。日本語のローマ字表記法とは何も関係がないと思います。
「英語のつづりに問題がある」と「表音主義者」さんはおつしやいますが、「問題がある」と考へるのは「ローマ字表記」の原則を「正しい」と定義したから必然的に出てきた結論に過ぎません。
「書き言葉が話し言葉に從屬しなければならない理由は何か」「なぜ表記は音素なるものに從はなければならないのか」「音素とは何か、それを多くの日本人が容易に理解し得るものなのか」――等の疑問がありますが、「表音主義者」さんはどう御考へでせうか。
或は。
ローマ字を正しく使ふには、あらかじめ文法知識や言語學的な知識が必要です。それらの知識は、どのやうにして教へられるべきなのですか。ローマ字に據つてですか。
歴史的假名遣は、覺えれば、五十音圖にしても、ちやんとした觀念を持つ事が可能です。
それから。
「ローマ字は論理的である」「英語の綴りは非論理的である」と「表音主義者」さんは主張なさつてゐます。しかし、實際の運用に於いては、どうでせうか。書かれた文章は、讀まれなければなりません。讀む際には、讀み難い表記より、讀み易い表記の方が、より良いものである、と云ふ事が言へます。
そこで、「ローマ字で書かれた文章は讀み易い」「英語で書かれた文章は讀み難い」と云ふ命題を作る事が出來ます。しかし、これらの命題は眞であると言へるでせうか。
はつきり言つて、「日本式」のローマ字文は讀み難いものです。ローマ字文だからどつちみち讀み辛い事に變りはありませんが、「日本式」よりは「ヘボン式」の方が讀み易いと言へば讀み易い。英語の文章は、當然ですが、讀み易い部類に入ります。
ローマ字文は、明かに讀み難い。慣れの所爲だと「表音主義者」さんはおつしやるでせうが、さうでもないと思ひます。
k/s/t/n/h/m/y/r/wと云ふ子音とa/i/u/e/oと云ふ母音とが交互に出現するパターンのローマ字文では、全體に平板な印象となり、語を認識するのが難しくなります。
通常の表記による英文では、めりはりが生じ、認識はし易いと言へます。
漢字假名交じり文ですが、「現代仮名遣」――と言ふよりも「常用漢字」の表に嚴密に從ふと、案外讀み辛い文章が生成されがちです。「現代表記」では、或種の漢字が、規制により、使用出來ません。その爲、かなが多用される事となり、ローマ字文と同樣、めりはりのない印象を生じます。また、「言おう」「書こう」等の書き方は、「言はう」「書かう」に比べて、意味をとり易いとは言へません。
時枝誠記の用語で言へば、「詞」に當る語は、用言の語幹や體言等ですが、漢字で表記出來ます。「辭」に當る語は、助詞・助動詞ですが(私見では活用語尾も含めて良いかと思ひます)、かなで表記するものです。そして、「現代仮名遣」で「は」「へ」「を」を「は」「へ」「を」と表記するのを見ればわかる通り、「辭」については、語意識に基いた表記こそ自然であると言へます。
「歴史的假名遣」と一口に言ひますが、字音假名遣とその他の假名遣とは區別すべきだと考へてゐます。字音假名遣に關しては、たしかに煩雜とも言へ、「改革」はあつてもよろしいかと存じます。しかし、字音假名遣は飽くまで「詞」に屬する語の假名遣であり、「辭」に屬する語の假名遣とは言へません。「辭」に屬する語については、從來通り、歴史的假名遣に從つた方がわかり易い、と、さう思ひます。時枝氏にしても福田氏にしても、そのやうな考へ方です。
ローマ字表記にしても、歴史的假名遣に從ふべきか、「現代仮名遣」に從ふべきか、それとも既存の假名遣ひとは關係の無い、より言語學的に表音的な規則に從ふべきか、で、意見が分かれてゐたかと思ひますが、その邊、「表音主義者」さんはどのやうに御考へですか。
>これはむちゃくちゃな主張だと思います。
>英語が英語国民に用いられているのは彼らの母語だからです。母語の表記法が非論理的だからといって他の言葉に乗り換えるわけにはいきません。
非論理的だからと言つて、國語の表記の原則を變更したのは誰でせうか。
また、日本語の文字が非論理的だからといつて、他の言語の文字に乘り換へる訣には行かない、とも言へるでせう。
>「使われているから改革の必要性がない」などという論理はトンデモないものといわざるをえません。
たしかに、改革の必要がないとは言ひません。しかし、表意主義を表音主義に「改革」する必要は全くありません。
現在の話の流れでは、「言語の改革」は「表音化」を意味してゐます。私は「表音化の必要はない」と云ふ意味で「改革は不要である」と言つてゐるのであつて、「言語の改革はいかなる意味であれ不要である」と言つてゐるのではありません。
>実際には英語のつづりの非論理性は英語学者の間でも問題にされているし、さまざまな改革案が示されています。Ebonicsは教育現場でも使われています。
もちろん、改革案は幾らでも示されますが、イギリス人は常識に從つて傳統的な書き方を守つてゐます。
アメリカ人が「アメリカ英語」を作つた事は指摘しました。
ここで話を戻しますが。
>英語が国際言語として用いられているのは英語諸国の力が強いからで、英語それ自信の力によるものではありません。
私は、英語にしてもフランス語にしても日本語にしても、「それ自身の力」なるものが絶對的な意義を持つとは思ひません。使ふ側の態度なり心構へなりもまた、重要な意義を持つと考へます。
英語が國際語であるのは、歴史的な事情と、英語を國語とするアメリカが強國である事とが重大な要因です。しかし、國際語として採用され、多くの國民が英語を使用してゐるにもかかはらず、「國際語として便利になるやうに英語の表記を表音化すべきである」と云ふ意見が強く主張された事はありません。アメリカ人が言出さないのは當然の事としても、アメリカを向かうにまはして渉り合ふ國の側からも出てきません。ナンセンスな主張だからです。
教育レヴェルでの表音化、東南アジアでのピジン等における文法の簡易化、等々、英語のモディファイはいろいろ行はれてゐます。しかし、「正式な英語」の概念は變化しない――それこそが注目すべき事です。樣々な變化・轉訛が生じても、「正しい英語」があれば、最後にはそれで相互の意思疎通が可能となります。英語が國際語となつてゐるのは結果論に過ぎないにしても、國際語として存在し、國際間でいつでも通ずる爲には「正式な英語」の觀念が必要である、と云ふ事は言へるでせう。そして、その爲には、變化なり「改革」なりは必要ない。無闇に原則を變更する事は混亂を生ずる。
日本語にしても、地域によつて話し言葉には差があります。しかし、同じ日本と云ふ國の中で、言葉は通じなければならない。だから、口語に標準語が存在するのも必然的な事であると言へますし、書き言葉に假名遣が存在するのも必然的な事であると言へます。そして、地域差、個人差が確實に生ずる話し言葉を、直截的に書き言葉に反映させる事は、「言葉は出來るだけ通じなければならない」と云ふ觀點からすれば、危險であると言へます。
>このようなことをいうということは、音素のなんたるかがわかっておられないのでは?
>いいですか、問題は音素であって音(音声)ではないのですよ。
>表音主義というのは、音素を記すのであって音声を記すのではありません。
これも金田一京助流の詭辯です。金田一は音韻と言ひましたが、音素と言つても別に大した違ひではありません。どつちも結局は音です。「音をどう認識するか」と云ふ事です。
ならば、どつちみち、語の意味には關係のないものであり、同じやうなものです。
しかし、「音素のなんたるかがわかって」ゐなければ使へないローマ字と言ふものが、果して普及されるべきものなのか、と云ふ問題がありますね。あまりにも專門的で、一般人にはとても使ひこなせるやうなものでないと思ひますが。そもそも、一般人が理解出來ないのを良い事に、ローマ字主義者はローマ字の難しい事をごまかしてゐるのではないですか。
>ヘボン式は日本語とはいえません。なぜなら一つの音素を複数の表記方法で表記することによって日本語の音韻構造を破壊しているから。
>「たちつてと」を日本式では ta ti tu te toと表記します。きわめて論理的で簡潔です。
>それに対し、ヘボン式ではta chi tsu te toと表記します。一つの音素であるタ行子音を3通り(t, ch, ts)に表記しているので、これはもはや日本語とはいえないものになっています。
既に述べた通り、音韻の體系がそもそも論理的でなく簡潔でもないものです。私は別に「ヘボン式」の支持者でも何でもありませんが、一往、話の流れに沿つて「日本式」に反論しますと、ta ti tu te toと書く「日本式」を使用する事で「た ち つ て と」と云ふ本來の日本語の發音は「た てぃ とぅ て と」に改變させられてしまふのではないか、と云ふ批判に「日本式」の支持者は反論する事が必要でせう。「音素のなんたるかがわかつてゐない」と、言ふのは結構ですが、では、私以外の全ての日本人はその邊の事を「わかつてゐる」のでせうか。子供も既に知つてゐるものなのでせうか。
>また、50音図を軽視しておられるようですが、50音図の意義がわかっておられないようですね。
これに關しては、「輕視してゐない」とだけ答へれば良いかと思ひます。
>0音図は、日本語の音韻構造をきわめて論理的に解析したものです。であるから50音図に忠実な日本式は日本語の本質に合っているのです。その証拠が動詞の活用です。
では、五十音圖に忠實な歴史的假名遣も日本語の本質に合つてゐると言へますね。
歴史的假名遣では
書かない 書きます 書く 書く 書けば
書かう
となります。「現代仮名遣」では
書かない 書きます 書く 書く 書けば
書こう
となり、同じ未然形なのに「書か」「書こ」と別の形が生じてしまひます。
>どんな方式であれ慣れれば簡単なのは当たり前ではありませんか。
>慣れるのが容易かどうかが問題でしょう。
>日本語の漢字かな表記法がきわめて難しいものであることは常識だと思います。外国人の日本研究者ですら、漢字かな日本語が読める人は少ないのです。
日本語の漢字假名交じりの表記法が「難しい」のは、教育法に問題があるからで、本質的に難しいものであるからだとは言へません。また、假に難しいものであるとしても、傳統的に使用されてきた表記法を濫りに改める事は、よろしくないと思ひます。
>ドイツ研究者でドイツ語が読めないなんてありえないでしょう?日本語の表記法はそれだけ難しいのです。
歴史的假名遣が一般的であつた時代に、森鴎外がドイツでドイツ人相手にドイツ語で論爭をした事實があります。「現代仮名遣」が一般的である現在、鴎外竝にドイツ語を使ひこなせる日本人がゐるのかどうか。表記法にしても何にしても、言語が「難しい」かどうかは、言語を使用する人間の能力に關つてくる問題です。そして、表音的な表記が人間の言語に關するセンスや能力を助長するものでない事は明かです。
>まず「現代かな」は表音主義ではありません。助詞「は」「を」などが存在します。
それは詭辯です。表音主義を原則としつゝ、表意主義の「良いところ取り」をしてゐるに過ぎません。橋本進吉の定義に據れば「現代かなづかい」は表音的假名遣である事になると、福田恆存が述べてゐます。
>「ヘボン式ローマ字」についてですが、これはそもそも日本語ではありません。
>「日本語を、日本語の音韻体系に基いて記述する」方式は、日本式しかありません。
>ヘボン式は、日本語の音韻体系に基いておらず、そもそも日本語といえません。
>ですから、表音主義(ここでの音は音素)の表記法は「日本式ローマ字」しかないのです。
対立はありません。
「ヘボン式」であれ「日本式」であれ、日本語の文章を表記する規則である事に變りはありません。日本語以外の何ものでもありません。
>「英語のつづり改革」が行はれず、イギリス、アメリカの國民をはじめとして多くの人が英語を使用してゐます。ならば、英語の「非論理性」は言語を使用する際の障碍になりません。英語が改革を必要としないのと同樣、日本語も改革を必要とはしません。それを無理に改革したから、日本語と英語とで表記の原理に「差」が生じ、混亂を生んでゐるだけです。
これはむちゃくちゃな主張だと思います。
英語が英語国民に用いられているのは彼らの母語だからです。母語の表記法が非論理的だからといって他の言葉に乗り換えるわけにはいきません。
英語が国際言語として用いられているのは英語諸国の力が強いからで、英語それ自信の力によるものではありません。
「使われているから改革の必要性がない」などという論理はトンデモないものといわざるをえません。
実際には英語のつづりの非論理性は英語学者の間でも問題にされているし、さまざまな改革案が示されています。Ebonicsは教育現場でも使われています。
>一般名詞としての意味で表音主義者でない私にしてみれば、「日本式」だらうが「ヘボン式」だらうが、音を基準にしてゐる時點で論理的も糞もないとしか思はれません。「ち」「つ」を「ti」「tu」とするか、「chi」「tsu」とするか――前者が「日本式」であり後者が「ヘボン式」ですが、英語に近いとも言へるかも知れませんが、日本語の發音に近いと自然に考へられるのは「ヘボン式」でせう。逆に、「日本式」の方も、グラフ上の點の位置をx座標とy座標とで示すやうに、五十音圖上での音の位置を示したものに過ぎず、論理的であるとは特に言へません。
このようなことをいうということは、音素のなんたるかがわかっておられないのでは?
いいですか、問題は音素であって音(音声)ではないのですよ。
表音主義というのは、音素を記すのであって音声を記すのではありません。
ヘボン式は日本語とはいえません。なぜなら一つの音素を複数の表記方法で表記することによって日本語の音韻構造を破壊しているから。
「たちつてと」を日本式では ta ti tu te toと表記します。きわめて論理的で簡潔です。
それに対し、ヘボン式ではta chi tsu te toと表記します。一つの音素であるタ行子音を3通り(t, ch, ts)に表記しているので、これはもはや日本語とはいえないものになっています。
また、50音図を軽視しておられるようですが、50音図の意義がわかっておられないようですね。
50音図は、日本語の音韻構造をきわめて論理的に解析したものです。であるから50音図に忠実な日本式は日本語の本質に合っているのです。その証拠が動詞の活用です。
5段活用の動詞「書く、汲む、押す、立つ」を変化させてみましょう。
日本式では、
kak --u, --anai, --i, --e, --ô
kum --u, --anai, --i, --e, --ô
os --u, --anai, --i, --e, --ô
tat --u, --anai, --i, --e, --ô
と例外がありませんが、ヘボン式では
kak --u, --anai, --i, --e, --ô
kum --u, --anai, --i, --e, --ô
os --u, --anai, --hi, --e, --ô
ta --tsu, --tanai, --chi, --te, --tô
のように不規則変化になってしまいます。
5段活用以外の動詞でも同じことです。
>ローマ字文やカナモジ文は、簡單ではないのですね。慣れなければ難しいのですね。と云ふ事は、慣れてゐさへすれば、漢字假名交じり文は簡單である、と云ふ事ではないですか。
どんな方式であれ慣れれば簡単なのは当たり前ではありませんか。
慣れるのが容易かどうかが問題でしょう。
日本語の漢字かな表記法がきわめて難しいものであることは常識だと思います。外国人の日本研究者ですら、漢字かな日本語が読める人は少ないのです。
ドイツ研究者でドイツ語が読めないなんてありえないでしょう?日本語の表記法はそれだけ難しいのです。
>今申した通り、表音主義の方法には「現代仮名遣」による漢字假名交じり文、ローマ字、カナモジ、の三通りの方式が存在します。これらの對立について、「日本式のローマ字のみを支持する表音主義者」さんはどう御考へですか。同じ表音主義なのに、なぜ論理的に一つに統一できないのですか。
まず「現代かな」は表音主義ではありません。助詞「は」「を」などが存在します。
「ヘボン式ローマ字」についてですが、これはそもそも日本語ではありません。
「日本語を、日本語の音韻体系に基いて記述する」方式は、日本式しかありません。
ヘボン式は、日本語の音韻体系に基いておらず、そもそも日本語といえません。
ですから、表音主義(ここでの音は音素)の表記法は「日本式ローマ字」しかないのです。
対立はありません。
オーストラリアでは、發音が變化して、特徴的な訛りが生じてゐます。しかし、彼等の綴り方は、他の英語圈の人間と同じです。表記が發音から相對的に獨立してゐる場合、發音が變化しても、文章語では「互換性」が保たれます。
また、「改革」が行はれてゐないと言はれますが、「アメリカ英語」では、centreがcenterになるなど、「改革」的な變化が生じてゐる語があります。もつとも、「アメリカ英語」は、もともとの英語に對して「合理的」に變更が加へられた文法が存在し、個人的には好みませんが。
日本式ローマ字を推奬する「表音主義者」さんが、音を基準にしてゐるのと違つて、私は飽くまで「単語そのもの」は「単語そのもの」が基準になると申してゐるのです。
>英語についていっているのであれば、英語のつづりが混乱している(表音主義的でなく、むしろ漢字的)のが問題であり、日本語がそれにあわせる必要はありません。英語のつづり改革こそ必要です。
英語のつづりに問題がある以上、英語のつづりに中学生が悩むのは仕方が無いことです。日本語のローマ字表記法とは何も関係がないと思います。あなたがおっしゃりたいことの意味がよく分かりません。
「英語のつづり改革」が行はれず、イギリス、アメリカの國民をはじめとして多くの人が英語を使用してゐます。ならば、英語の「非論理性」は言語を使用する際の障碍になりません。英語が改革を必要としないのと同樣、日本語も改革を必要とはしません。それを無理に改革したから、日本語と英語とで表記の原理に「差」が生じ、混亂を生んでゐるだけです。
かつてフランス語は、整備が行はれましたが、これは表音式にすると言ふよりも、寧ろ「歴史的假名遣」のやうな體系化が行はれたと言ふべきでせう。現代のフランス語で、發音から綴りは即座に出ては來ませんが、綴りから發音は即座に出て來ます。日本語の歴史的假名遣による漢字假名交じり文も、大體の場合(と言ふのは「呉智英」のやうな場合があるから言ふのですが)、讀み方は特定出來ます。
それで十分です。
>おっしゃりたいことがよくわかりませんが、歴史的かなづかいでは、一つの文字の読み方が一つに定まりませんよね。ですから論理的とは言い難いと思います。
「一つの文字の読み方が一つに定まりません」にしても、假名遣の「體系全體として、表記と發音の間に一定の規則が存在します。」一對一對應でないにしても、意味に基いて或場所にある文字の音は大體わかります。「一つの文字の読み方が一つに定ま」らないからこそ、表記と發音とが相対的に獨立したものとなり、表記が發音の變化に柔軟に對應出來るやうになつてゐると考へる事が出來ます。
>外国語として英語を学ぶ場合についていっているのですか?外国語を学ぶ際に単語を暗記するのに苦労するのは当たり前で、英語だろうとドイツ語だろうと日本語だろうと同じではありませんか?
>英語を学ぶ際に暗記に苦労するのは、英語の綴りが非論理的だからです。
英語辞書には発音記号が載っている。つまり綴りを見るだけでは発音がわからないという非論理的な言語なわけです。
>英語以外の、より論理的な綴りの言語(たとえばドイツ語、イタリア語、ロシヤ語)であれば、単語そのものの暗記はあっても綴りの暗記に苦労することはありません。(もちろん部分的には例外的な綴りもあってそれは暗記しなければなりませんが。)
>日本語のローマ字表記はきわめて論理的ですから、英語のような問題は生じません。
既に述べた通り、「日本語のローマ字表記」と表音主義者さんがおつしやるのは、飽くまで「ヘボン式」ではない「日本式」のローマ字の事です。しかし、「日本語のローマ字表記はきわめて論理的です」と表音主義者さんがおつしやるのは、飽くまで「論理的な日本式のローマ字表記は論理的である」と云ふトートロジーに過ぎませんし、そもそも「日本式」が「論理的」であると云ふのは「日本式」の支持者にのみ明かな話に過ぎません。
一般名詞としての意味で表音主義者でない私にしてみれば、「日本式」だらうが「ヘボン式」だらうが、音を基準にしてゐる時點で論理的も糞もないとしか思はれません。「ち」「つ」を「ti」「tu」とするか、「chi」「tsu」とするか――前者が「日本式」であり後者が「ヘボン式」ですが、英語に近いとも言へるかも知れませんが、日本語の發音に近いと自然に考へられるのは「ヘボン式」でせう。逆に、「日本式」の方も、グラフ上の點の位置をx座標とy座標とで示すやうに、五十音圖上での音の位置を示したものに過ぎず、論理的であるとは特に言へません。
私は「文字が一緒で、しかもローマ字の教育で「アルファベットは表音式の文字である」と教へ込まれれば、英語を習ふ時、アルファベットの綴りと發音との間に「差」がある事に中學生が惱んでも當然でせう。」と書きました。
同じアルファベットが、日本語では表音式になり、英語ではさうならない――「それは日本語と英語との差である」と、表音主義者さんは納得していらつしやるやうですが、納得出來たものではありません。また、英語で表音式にアルファベットが使用されないのに、どうして日本語では表音式に用ゐなければならないのですか。
しかもその「表音式」と云ふのが、これも非常に微妙な匙加減が必要な「表音式」である、と言ふのです。そもそも日本語の「五十音」は、「じ」「ず」「ぢ」「づ」の邊等、「學問的な知識がなければ説明出來ない」やうな特殊な音韻體系になつてゐて、單純なものではありませんから、「表音式」にするとどうしてもややこしい話になつてしまひます。
「英語の綴りが非論理的」であるにしても、日本語の音韻體系もまた「非論理的」であり、そこに論理性等を持出すのがをかしいのです。
手許にフランス語の辭書がありますが、ちやんと發音記號が記載されてゐます。イタリア語の辭書には發音記號が記載されてゐません。これは、イタリア語の方がフランス語よりも「論理的」である證據なのでせうか。
>あなたがたがローマ字文もしくはカナモジ文には慣れていないだろうと思うので漢字かなで書いています。
ローマ字文やカナモジ文は、簡單ではないのですね。慣れなければ難しいのですね。と云ふ事は、慣れてゐさへすれば、漢字假名交じり文は簡單である、と云ふ事ではないですか。
>漢字かな文でも音を表記する規則が複数対立しているではないですか。
>あなたの用いている方式と、いわゆる「現代かなづかい」はそうではないですか?
「現代仮名遣」は表音式の假名遣ですが、歴史的假名遣は違ひます。歴史的假名遣は音を表記する規則ではありません。ですから、「音を表記する規則」としての對立は、ありません。
「現代仮名遣」は、ローマ字文やカナモジ文と共に、あなた達の支持する表音主義の「音を表記する規則」の一つに屬します。
今申した通り、表音主義の方法には「現代仮名遣」による漢字假名交じり文、ローマ字、カナモジ、の三通りの方式が存在します。これらの對立について、「日本式のローマ字のみを支持する表音主義者」さんはどう御考へですか。同じ表音主義なのに、なぜ論理的に一つに統一できないのですか。
以下、飛び飛びになつてゐる話を纏めます。話が繋がつてゐますので。
>学問的には論争は決着していて、ヘボン式は退けられていました。
>それを復活させたのが占領軍ということです。
>小学校でローマ字を教えるにあたって、英語に近いヘボン式を教えるべきであるといいたいのですか?それなら断固拒否します。日本語のローマ字表記はあくまで日本語の構造にあったものであるべきで、日本語の本質に合わないヘボン式は排するべきです。
>発音記号をそのまま用いるように英語表記を改革すべきであるということでしょうか?
ならその主張には反対です。文字の表記というのは、発音を正確にしめす必要はなく、音素を示せばよいのです。ですから発音記号では細かすぎます。できるだけ発音にそった表記をすべきだが、あまりに細かすぎてもいけないのです。
ヘボン式ローマ字を「退ける」とか「拒否」するとかおつしやいますが、それはあなたが單に日本式のローマ字を支持してゐるだけだと云ふ事ではないですか。
また、「できるだけ発音にそった表記をすべきだが、あまりに細かすぎてもいけない」と御書きになつてゐますが、何處が「中庸」であるかを表音主義者さんは良く御分りになつてゐるやうですね。なぜ「文字の表記というのは、発音を正確にしめす必要はなく、音素を示せばよいのです」のですか。そして、その「音素」は、誰でもが容易にわかるものなのですか。と言ふより、「音素」を基準とすると言つた時點で、ローマ字を用ゐるのは專門家の仕事になつてしまふのではないですか。
>「綴りを見て発音がわかる」のが「論理的」であるとしたら、歴史的假名遣は「論理的」なものではないですか。
おっしゃりたいことがよくわかりませんが、歴史的かなづかいでは、一つの文字の読み方が一つに定まりませんよね。ですから論理的とは言い難いと思います。
>>英語以外の、より論理的な綴りの言語(たとえばドイツ語、イタリア語、ロシヤ語)であれば、単語そのものの暗記はあっても綴りの暗記に苦労することはありません。
>単語そのものの暗記」と「綴りの暗記」とを、表音主義者さんは區別してゐますが、では、英語においても「単語そのものの暗記」は容易であると、表音主義者さんはなぜ主張なさらないのでせうか。
意味不明です。
外国語として英語を学ぶ場合についていっているのですか?外国語を学ぶ際に単語を暗記するのに苦労するのは当たり前で、英語だろうとドイツ語だろうと日本語だろうと同じではありませんか?
英語の場合は、さらに「非論理的なつづりを暗記する」という苦労が加わるわけです。そのことをいっているんじゃないですか?
漢字かな表記なら覚える苦労がないってわけじゃないですよね。何がいいたいのかわかりません。
>「論理的」であるにもかかはらず、ローマ字の書き方として、明治以來、複數の方式が提唱されてきた理由は、何でせうか。そもそも、發音が變化するのならば、發音自體は論理的なものとは言へず、當然、發音を寫した發音記號の並び方が論理的なものとなる道理が無いと思ひますが、如何ですか。
学問においては複数の説が存在することは仕方がないでしょう。
複数の方式が提唱されながらも、ヘボン式表記は学問的論議によって退けられたわけですから、学問的には日本式を基本にした方式しか存在しないわけです。
後半は意味がわかりません。ローマ字は発音記号ではありませんし、ローマ字表記は発音のみに基づいているわけではありませんよ?
>表音主義者の方が漢字假名交じりで書いてゐる事が、表音主義の誤を示唆してゐると思ひますが。
あなたがたがローマ字文もしくはカナモジ文には慣れていないだろうと思うので漢字かなで書いています。
>>複数の方式があることは漢字かな混じり文でも同じことではないですか。
>全然違ひます。漢字假名交じり文では、意味に即して書き方を選ぶ、と云ふのが原則になります。ローマ字は、音を表記する規則が複数竝立してゐる、と云ふのですから、漢字假名交じり文の「複数の方式」とは根本的に概念が異ります。
漢字かな文でも音を表記する規則が複数対立しているではないですか。
あなたの用いている方式と、いわゆる「現代かなづかい」はそうではないですか?
>>米占領軍が誤ったヘボン式を広めた
>戰前から、ローマ字には複數の方式が存在し、それぞれの方式の主導者が自分逹のやり方こそ正しいと主張して、互ひに讓りませんでした。
学問的には論争は決着していて、ヘボン式は退けられていました。
それを復活させたのが占領軍ということです。
>英語は英語であり、日本語は日本語ですから、異る文字を用ゐる事こそ、仕方がないのではないですか。「決め付ける」も何も、事實です。文字が一緒で、しかもローマ字の教育で「アルファベットは表音式の文字である」と教へ込まれれば、英語を習ふ時、アルファベットの綴りと發音との間に「差」がある事に中學生が惱んでも當然でせう。論理的に考へられる中學生ならば、アルファベットは表音文字である、と云ふ考へ方そのものに疑問を感ずる筈でせう。
英語についていっているのか、アルファベットについていっているのかがよく分かりません。
英語についていっているのであれば、英語のつづりが混乱している(表音主義的でなく、むしろ漢字的)のが問題であり、日本語がそれにあわせる必要はありません。英語のつづり改革こそ必要です。
英語のつづりに問題がある以上、英語のつづりに中学生が悩むのは仕方が無いことです。日本語のローマ字表記法とは何も関係がないと思います。あなたがおっしゃりたいことの意味がよく分かりません。
小学校でローマ字を教えるにあたって、英語に近いヘボン式を教えるべきであるといいたいのですか?それなら断固拒否します。日本語のローマ字表記はあくまで日本語の構造にあったものであるべきで、日本語の本質に合わないヘボン式は排するべきです。
>>語辞書には発音記号が載っている。つまり綴りを見るだけでは発音がわからないという非論理的な言語なわけです。
>綴りを見て発音がわかる」と云ふのがどうして「論理的」なのでせうか。或は、英語の發音記號はとても論理的なもので、とても覺えやすいものであると、表音主義者さんはどうして主張なさらないのでせうか。
発音記号をそのまま用いるように英語表記を改革すべきであるということでしょうか?
ならその主張には反対です。文字の表記というのは、発音を正確にしめす必要はなく、音素を示せばよいのです。ですから発音記号では細かすぎます。できるだけ発音にそった表記をすべきだが、あまりに細かすぎてもいけないのです。
「法律は紙切れも同然になる事がある」ということは、そういうこともありうる
だろうということで私も同意いたします。「法律は紙切れも同然になる事がある」から、
法律を遵守する必要はない、とはおっしゃっていませんよね。その辺りで誤解される
のかな。
「法律は紙切れも同然になる事がある」、「内容と同時に形式もきちんと整へて、
法律に權威を與へるのが必要だ」、この2つのご意見は私も同意いたしますが、
私がよくわからなかったのは、
「法律に敬意を拂はうと誰も考へてゐない現在、法律の内容を議論したところで
大した意義はない」
というところですね。ここでの野嵜さんのおっしゃる「法律」の意味がよく
わからなかったのでちょっと辞書で調べてみましたら、
法律・・・(1)社会生活の秩序を維持するために、統治者や国家が定めて人民に
強制する規範。法。(2)憲法に基づいて国家の立法機関により制定される成文法。
(インフォシーク国語辞書)
法律・・・日本国憲法の定める方式に従い、国会の議決を経て制定される国法の
形式(中略)、なお、広義には「法」と同じ意味に用いられることもある。
法・・・社会生活を規律する準則としての社会規範の一種。道徳、習俗、宗教等の
他の社会規範との最も大きな違いの一つは、国家的背景をもち、最終的に国家の
強制力が法に定める規範の実現を保証している点にある。(法律用語辞典、有斐閣)
「法律」を社会生活を規律する準則としての社会規範、つまり、人と人との利害関係の
調整としての規範と考えると、瑣末な利害調整としての法律の「内容」を議論する
ことには、「大した意義」はないのかもしれないな、とも思います。
しかし、このように法律の意味を定義してしまうと、先ほどの野嵜さんのおっしゃった
「法律に敬意を拂はうと誰も考へてゐない現在、法律の内容を議論したところで
大した意義はない」を考えた場合、法律に対する敬意の有無と、法律の「内容」を
議論することとは、何の関係もないように思えて、野嵜さんの言わんとなさって
いることを私自身、きちんと理解できていないように思います。
ですから、「内容と同時に形式もきちんと整へて、法律に權威を與へるのが必要だ」
と言う意見と、「法律に敬意を拂はうと誰も考へてゐない現在、法律の内容を議論した
ところで大した意義はない」と言う意見とが矛盾しないかどうか、おそらく矛盾は
していないだろうと思うのですが、なんともかんとも。。。(すみません)
表音主義の方が現はれたので、平素、疑問に思つてゐる事をきいてみませう。
・發音と表記とが一對一對應となるローマ字が標準の表記となつたら、方言はどうなるのですか。
・發音と表記とが一對一對應となるローマ字が標準の表記となつたら、發音の變化がなくなり、日本語の變化がなくなるのではないですか。
表音主義者の方が漢字假名交じりで書いてゐる事が、表音主義の誤を示唆してゐると思ひますが。
>複数の方式があることは漢字かな混じり文でも同じことではないですか。
全然違ひます。漢字假名交じり文では、意味に即して書き方を選ぶ、と云ふのが原則になります。ローマ字は、音を表記する規則が複数竝立してゐる、と云ふのですから、漢字假名交じり文の「複数の方式」とは根本的に概念が異ります。
>米占領軍が誤ったヘボン式を広めた
戰前から、ローマ字には複數の方式が存在し、それぞれの方式の主導者が自分逹のやり方こそ正しいと主張して、互ひに讓りませんでした。
また、現在行はれてゐるローマ字の表は、日本の文部省が作つたもので、複數の方式が併記されてゐます。
>英語は英語であり、日本語は日本語です。言語によって文字の読み方が違うのは仕方がない。
>どうして中学生が「英語の規則と日本語の規則を区別できない」などと決め付けるのか?
英語は英語であり、日本語は日本語ですから、異る文字を用ゐる事こそ、仕方がないのではないですか。
「決め付ける」も何も、事實です。文字が一緒で、しかもローマ字の教育で「アルファベットは表音式の文字である」と教へ込まれれば、英語を習ふ時、アルファベットの綴りと發音との間に「差」がある事に中學生が惱んでも當然でせう。論理的に考へられる中學生ならば、アルファベットは表音文字である、と云ふ考へ方そのものに疑問を感ずる筈でせう。
>英語を学ぶ際に暗記に苦労するのは、英語の綴りが非論理的だからです。
これは、ナンセンスな主張です。なぜなら、表音主義者さんが言ふ「論理的」と云ふ語の意味がをかしいからです。
>英語辞書には発音記号が載っている。つまり綴りを見るだけでは発音がわからないという非論理的な言語なわけです。
「綴りを見て発音がわかる」と云ふのがどうして「論理的」なのでせうか。或は、英語の發音記號はとても論理的なもので、とても覺えやすいものであると、表音主義者さんはどうして主張なさらないのでせうか。
また、「綴りを見て発音がわかる」のが「論理的」であるとしたら、歴史的假名遣は「論理的」なものではないですか。
それから、表音主義の場合、「発音からすぐに綴りがわかる」事を主張するのですが、それをその逆の「綴りを見て発音がわかる」とイコールで結ぶのは、論理的に間違つてゐます。フランス語は、綴りを見て發音がわかるやうに出來てゐますが、發音を聞いて即座に綴りがわかるやうには出來てゐません。先に書いてしまひますが、下の「より論理的な綴りの言語」でも、話は同樣です。
>英語以外の、より論理的な綴りの言語(たとえばドイツ語、イタリア語、ロシヤ語)であれば、単語そのものの暗記はあっても綴りの暗記に苦労することはありません。
「単語そのものの暗記」と「綴りの暗記」とを、表音主義者さんは區別してゐますが、では、英語においても「単語そのものの暗記」は容易であると、表音主義者さんはなぜ主張なさらないのでせうか。
>日本語のローマ字表記はきわめて論理的ですから、英語のような問題は生じません。
「論理的」であるにもかかはらず、ローマ字の書き方として、明治以來、複數の方式が提唱されてきた理由は、何でせうか。そもそも、發音が變化するのならば、發音自體は論理的なものとは言へず、當然、發音を寫した發音記號の並び方が論理的なものとなる道理が無いと思ひますが、如何ですか。
貴殿のローマ字批判に反論します。
>ローマ字の問題點
>複數の方式がある事による問題
複数の方式があることは漢字かな混じり文でも同じことではないですか。
また日本語ローマ字表記がきちんと統一されていないことは、米占領軍が誤ったヘボン式を広めたことによるものが大きいのであって、ローマ字表記が学問的に統一できないからではないのです。米占領軍によるヘボン式普及がなければ(部分的な議論はあっても、基本的な点は)きちんと統一されていたでしょう。
>訓令式のローマ字を學んだ小學生が中學生となつて英語を學ぶ際、屡々支障を來してゐる、と云ふ現實がある。日本語のルールと英語のルールとは異るが、訓令式のローマ字を學んだ生徒は、それを理解出來ない。英語の規則と日本語の規則とを區別出來ない子供に、日本語を表記する爲のローマ字を安易に教へるのは危險である。
英語は英語であり、日本語は日本語です。言語によって文字の読み方が違うのは仕方がない。
どうして中学生が「英語の規則と日本語の規則を区別できない」などと決め付けるのか?
>諳記を強ると云ふ問題
>日本人が英語を覺える際、英單語の綴りを覺えるのに苦勞する事實を、ローマ字論者は忘れてゐる。漢字の諳記と、ローマ字に據る單語のスペリングの諳記と、どちらが厄介か、を、ローマ字論者は考へてみるべきである。無機的なローマ字表記を諳記するのは、子供にとつて苦痛である筈である。一方、漢字を子供が喜んで覺える事實は、石井勲氏が報告してゐる。
英語を学ぶ際に暗記に苦労するのは、英語の綴りが非論理的だからです。
英語辞書には発音記号が載っている。つまり綴りを見るだけでは発音がわからないという非論理的な言語なわけです。
英語以外の、より論理的な綴りの言語(たとえばドイツ語、イタリア語、ロシヤ語)であれば、単語そのものの暗記はあっても綴りの暗記に苦労することはありません。(もちろん部分的には例外的な綴りもあってそれは暗記しなければなりませんが。)
日本語のローマ字表記はきわめて論理的ですから、英語のような問題は生じません。
多分、現行憲法無效論の話邊でないかと。
私、「法律は紙切れも同然になる事がある」と度々申してまして、一部の方々に嫌がられてゐるのですが、「内容と同時に形式もきちんと整へて、法律に權威を與へるのが必要だ」と云ふ意見と、「法律に敬意を拂はうと誰も考へてゐない現在、法律の内容を議論したところで大した意義はない」と云ふ意見とを、平行して主張してゐる積りです。別に兩者の間に矛盾はないと思つてをりますが如何。
どうでもいいことなのですが、どんなお話をしていたときか
忘れましたが、ふとウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』が思い
浮かんだときがありました。言いそびれましたけど。(笑)
頂いた『人間通になる讀書術』の目次をさらっと見て、『蠅の王』が
思い浮かんだことを思い出しました。
お話した関連に『蠅の王』が思い浮かんだわけですし、この
テキストにも『蠅の王』についての言及があるということを
考えますと、なんだかどこかで繋がるような、繋がらないような。。。
とはいえ、こうやって今までなかなかわからなかったというか、
釈然としなかったことについて、いろいろ情報を頂けることは
本当にありがたいことだと思います。
では、しばらくは本というか文字に読みふけっていたいと思います。
こちらこそ、どうもです。
今後ともよろしく御願ひします。
とみんです。
今日は大変楽しゅうございました。
どうもありがとうございました。
また、今後もどうぞよろしくお願いします。
闇黒日記の平成十五年十一月十六日の二件目で、
最初のblockquote要素型の開始タグが拔けてゐます。
それでは。
小生も「本居宣長」(小安宣邦著・岩波現代文庫)を読んでゐます。
丁度茲數日、『本居宣長』を讀んでゐるんですが。
初めまして。E.A.Poe(知のくずかご)と申します。
主題:貴兄を「小林秀雄のようだ」と表現したことへのお詫び
上述の通りです。
貴兄が「揶揄」と感じられるとは、本当に考えてもおりませんでした。
「本物同士の対決になる」と書き、NaokiTakahashi氏を「本物のえっちなゲームクリエイター」
貴兄を「本物の批評家・文学者」としての表現のつもりで書きました。
あの日記では、ほとんどの人がNaokiTakahashi氏を本物と考えている様子なので
例示は不要だと存じましたが、
貴兄は、あの日記ではあまり知られていないと思っていましたので、
例示が必要だと考えたのです。
#小生は底が浅いので、小林秀雄を「本物だ」と考えているのです
貴兄が不愉快に感じられたご様子ですので、謝罪いたします。以降、言葉遣いには気をつけます。
追伸:メールアドレスも小生のダイアリも、礼儀として書かせて頂きますが、
貴兄がご連絡を取ったり、閲覧したりするほどのものは、何もないと存じます。
二伸:「頭の惡い書込みは禁止」とのことで、もしこれが「頭の悪い書き込み」とお感じになれば、削除頂いて構いません。
先日、子供を連れて出かけた際に確認しましたが、JR東日本の切符には、黒字に中抜きで「小」とだけプリントされています。
それから、「支那」は変換してくれないATOKですが、「東シナ海」「南シナ海」といったあたりは一発変換してくれます。
可愛くごまかしても駄目ですかさうですか。
直しておきました。どうもありがたうございます。
平成十五年十一月七日 上から三番目
一行目、
恣意的な引用、または誤讀、または擧げ足取り 2003-11-07 @ [ ひとりごちる 2003年11月(上旬) ]經由で、http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20031105#p2。
の部分でアンカーを二つ使われておりますが、初めの方のアンカーを閉じておりません。
> 假に選擧に行く事が良い事であるとしても、白紙投票をして自己滿足するのよりも、選擧に行かないで忸怩たる思ひをしてゐる方が、人間として餘程好ましい。
同意。ところで、結びの文の始まりが「ならば」なのは何となく奇妙に感じるのですが。
たしか、JR東日本の切符にも堂々と「小人」とプリントされていたと思います。
いや、あれは東武線だったかな?
ちなみに、ATOK先生、「しょうじん」だと、きちんと「小人」と変換してくれます。
「こびと」よりも「しょうじん」の方が、よほど差別的な言葉だと思うんですが。
國鐵の子供用の切符には堂々と「小人」と書かれてゐたやうな記憶がありますが、今は何うなつてゐるんでせうね。子供用の切符を買はなくなつて隨分年月が經ちましたので。
canna では「屠殺」は一発で変換できてみたり。「小人」や「支那」はてんで駄目ですが。
>日記を見ると、幸せさうで何より。
どうもありがとうございます。
それでも、今まで紆余曲折がありました。お互い価値観が全然違うことを思い知らされました。
どうやら「屠殺」という言葉も「差別用語」のようで、ATOKやIMEでは一発で変換できません。
「『南京大屠殺』(例のあれをお隣の国ではこう呼ぶ)という言葉も使えなくなりますよ」と言ってやったら、お隣の国の鼻息をうかがうことに熱心な人たちがどんな顔をするか、見てみたい気がします。
「差別用語」なる言葉(概念)自體に抵抗といふか、違和感を覺えます。どんな「語」だつて、そのために「用」ゐることはできるでせうから。
誰が使ひ出したのでせうかね。
「支那」のことは高島俊男の論文で、既にけりがついてゐると思ひます。
ちなみに家人(日本人)がスペイン旅行へ行つたとき、子供に圍まれて「チナ、チナ」と囃し立てられたさうです。「凄くイヤな氣分だつた」さうです。
……
差別用語を無くせば差別が無くなると言ふのなら、「差別」なる言葉を使用禁止にすれば差別は無くなるのではないですか。
「支那」と云ふ言葉を日本人が使つたら非難しろ攻撃しろと支那人をけしかけたのは日本人です。同胞のする事ならば何が何でも正當化すべしと云ふのが支那人の御先祖樣の偉い人・孔子の教へですが、支那人から教はつた孔子の教へ――儒教を、日本人は忘れてしまひました。支那人がどれだけ騷がうが、放つておけば良いのです。何も、日本人が同じ日本人を非難して、支那人を喜ばせる必要はないのです。支那人が「支那」なる言葉を使つたと言つて日本人を非難しても、それはそれで全然問題はありません。問題は、日本人が支那人に代つて同じ日本人に文句を言ふ事です。
でした。修正します
差別用語可否論はひとまづおくとしても、「支那」は本来差別用語ではなく、地域を指す一般的な言葉だと私は最近思ふやうになりました。江戸後期の用法などを見ても、そこには侮蔑的ニュアンスなど微塵も感じられません。皆さん如何ですか。
南支那海を南中国海と表記してある地図を見たことがありますが、やはりをかしいと思ひます。
英国人はあの地域のことを今でも「CHINA」と読んでゐるのに。(その他の欧州言語には疎いので判りません。どなたか御教示ください。)
……と思ったら、「天長節」「紀元節」「大嘗祭」「新嘗祭」といったあたりは一発変換可能なので、「明治節」が一発変換できないのは、単にJUSTSYSTEMの中の人のミスみたいです。
今日の日記、二回目の「明治節」が「明治説」になってます。
と書こうとしたら、うちのATOKも「明治節」を一発変換できず、一番目に「明治+説」が来ることに気づきました。
「盲」「跛」「聾」「小人」「穢多」「支那」といった日本語が変換できない「進歩的な」ソフトなので、「明治節」もまた、「そんな反動的な単語は変換すべきではない」というありがたい思し召しなのかもしれません。