「科學的」といへば、水戸黄門の印籠よろしく誰でも平伏すと思つてゐる人が多いですね。恰も物體の運動を觀察するかの如く人間を觀察し、それを「歴史理論」と言つてゐるやうで氣味が惡い。
最近の飜譯本で「無限に魅入られた天才數學者たち」といふのがあり、その中で、凄まじい執念で無限の問題に取り組んでついに狂死したカントールについて著者は
「神の秘密の花園に入らうとして、一人は命をもう一人は正氣を失つたラビたちの
運命と、いつたいどれだけの違ひがあるといふのか」と書いてゐますが、かういふ見方が未だに生きてゐるのが西歐なんですね。
ご無沙汰です。
先日の日記で「ポストモダンは畢竟反近代の思想じゃないか」というような文章があったのですが、それはちょっと違うのではないかと思います。
またポストモダンは「近代を乗り越える」(=超近代)ものでもありません。
ポストモダンは、ジル・ドゥルーズがニーチェの著作を「カントの第四批判に相当する」といって暗に自分の仕事はその延長だと示しているように、カント的な意味での近代の「批判(吟味)」なのです。
もっとも日本やアメリカの一部の哲学研究者たちがドゥルーズやフーコーの仕事を「近代を乗り越えるもの」と誤解してそのように宣伝した、ということは確かにあったように思いますが、それは彼らの著作を真面目に読まずに自分の欲望に都合よくねじ曲げているだけです。
うち界隈(と言ふかYahoo!掲示板關係の當方の知合の間)でT/Oと言つたら、某Z氏との絡みで色々と獨特の意味を持つてゐたりもしますが。
さうでしたか。ありがたう御座います。youをUで済ませてゐる英文を見たことがありましたが、さうなんですか。言葉×3みたいなもんだ。
T/Oとはつまり題名だけで用が濟む時に本文に書く文句です。
他にもM/B = motherboardの意味で使はれる事もあり。
c/o = care of (〜氣附)
w/ = with
w/o = without
t/c = traveler's check
T/O これは何ですか?符牒の類ならそこには、暗黙の柵があるん「ぢあ」ないのでせうか。
面白いですね。
T/O
日記内にある「XHTML and RDF」を見ようとすると家のOpera7.23Build3226(日本語版)が悉く撃墜されます。
日記内で「屡々」といふ語を屡々見る割に未だに調べないと分からないです。
此處に投稿する事でも無いかも知れませんが……。
支那では皇帝が天子なので、神とかイエスとかの譯語には困つたさうです。
切支丹文書では、原語の「デウス」をそのまま使つてゐます。「破提宇子」は排耶書の一つ。
話は變りますが。
鎖國の爲にポルトガルやスペインの宣教師が追放されて以後、日本の切支丹は獨自の信仰を保持し續けたのですが、その中でオリジナルのキリスト教とは異る解釋が定着してゐたさうです。明治になつて信教の自由と言ふ事で隠れてゐた切支丹が出て來た時、「キリストが進んで磔刑にされたのは、かつてエジプトに逃亡した時、多數の子供が殺された事を償ふ爲であつた」と云ふやうな信仰が存在してゐたとか。
それで、正統のキリスト教宣教者が困つたのだか何うしたのだか忘れましたが、そんな事があつたらしい――と何處かで讀んだのですけれども、何だつたかなー。
明治以降millions of godsだけでなくGodも「神」と譯されるやうになつてから、基督教の唯一神といふ印象での「神」の用法も日本語にすつかり定着したのではないでせうか。
「神」と云ふ語が「多神教の神々」を指すか「唯一の造物主」を指すかはは文脈に依存すると私は考へます。
尤も、この譯し方は從來の日本の「神」概念を歪ませるものといふ意見もあるでせうし、逆に基督教徒の一部には、基督教に日本的な多神教に基づく「神」の概念を想起させる譯語を導入するなどけしからん等といふ意見もあつたと聞きますが。
しかし日本語は所謂異教徒の言語ですから、聖書を飜譯する際に、譯語から所謂「異教徒の概念」を完全に除き去るのは無理といふものではないでせうか。これは其の他のどの言語についても言へるのですが。聖書をアフリカの精霊崇拝者たちの言語に飜譯した宣教師たちは、譯語の選擇にさぞ苦勞したことでせう。
抑も、新約聖書の原文でさへ「魂」を表すのにギリシャ語のpsycheを當ててゐますが(其の他にも似た例あり)、かと云つて新約聖書はギリシャ神話を教へてゐる等と言ふのは早とちりでせう。基督教の「魂」の概念に近く、皆が讀んで理解しやすい語となると、psycheとなつたのでせう。
餘りにも懸け離れた語は問題でせうが、無理な造語や音譯の濫用では逆に理解が困難になるし、どこかで妥協が必要ではないかと私は考へます。
YHWHは固有名詞なので、日本語として通りが良い音譯を選べば良いだけの話でせう。
となると傳統的な「ヱホバ」または最近よく用ゐられる「ヤハウェ」か。私は場合に應じてどちらも使ひます。
「造物主」も「天主」も「主」も「神」も一般名詞。
「赤毛のアン」風に言ふなら、「ヱホバ」や「ヤハウェ」はアンの名附けた「ボニー」、「主」や「神」は「葵の花」といつたところでせうか。
2ちゃんねる風なら前者がコテハン、後者が「名無しさん」か(不謹槇スマソ)。
支那語の聖書の中には、godsを「神」、Godを「上帝」と區別して譯すものもあります。
(日本語のやうに兩方とも「神」としてゐる飜譯もあります)
コリント前書8:5,6 (文語譯)
神と稱ふるもの、或は天に或は地にありて、多くの神、おほくの主あるが如くなれど、我らには父なる唯一の神あるのみ、萬物これより出で、我らも亦これに歸す。
歌林多前書8:5,6 (和合本)
雖有稱為 神的、或在天、或在地.就如那許多的 神、許多的主.然而我們只有一位 神、就是父萬物都本於他、我們也歸於他.
歌林多前書8:5,6 (呂振中譯本)
因為雖或有所謂神的──或是在天、或是在地,就如那許多的『神』、許多的『主』──但在我們、卻只有一位上帝,就是父;萬有都本于他;我們也歸于他;
「約」と訳を間違へた。欝だ。
日本では現状、神と呼んでゐますが、文語約聖書では「ヱホバ」と書かれてありますね。
切支丹は慥か「天主」と呼んでゐた筈ですし、一部では「天御中主神」にも習合してゐ
た筈です。
ああ、文語約の「ヱホバ」だけど、YHVHだとしたら仮名遣としてどうなんだらう。一寸
疑問ですね。
「音しか分からず腑に落ちない」、それは嘘でせう。なぜなら、歐米の「文學」にどつぷり
浸かつてゐるじゃないですか。
GODまたはYHVH(正確な発音は実は不明)に、極めて日本的な概念である「神」をあてはめたことは、結果として、日本語の神概念を西洋流に歪めたやうな気がします。
日本人としてはGODやヤハウェにどういった語を当てはめ表現されるのが適当と思われますか。
神や絶対神では誤解が拡大するだけでしょうし、かといって外来語そのままでは音しか分からず腑に落ちない。
どうしろと?
「北守將軍の價値觀を理解しない事には北守將軍の言動を理解出來ないし、適切に批判する事も出來ない」
「野嵜が、理解可能な範圍でのみ北守將軍の言動を理解して。理解困難な領域の事をひたすら無視しようとするのは、彼等の言動を誤解し、彼等の言動を的確に批判出來ない原因である」
>イラク復興支援の崇高な理念なのでは?
さうとも取れるし、さうとも取れない――と云ふのが實状では。だから惡文なのだと。
>日本国憲法の原文が英語であることのはうが問題だ。
それから、前文の酷い悪文による空理空論。
皆さん、どう思ひますか。
イラク復興支援の崇高な理念なのでは?
さうです、進駐軍に返してやりませう、聖徳太子の17筱憲法に戻した方が、よほど日本は良くなる
でも ふるすぎて やう解らん 困った物だ
http://www.geocities.com/CapitolHill/8194/17kenpou.html
freedomは 福沢諭吉が自由と訳した 元々中國語ですよね
俺も「学校英語」は苦手です。libertyって言葉はアメリカ人にとって日常的に使う言葉じゃないみたいで、かわりにfreeを多用して来ます。
たぶん歴史的な事情でしょう。
「自由=freedom」という認識が単なる誤読、誤訳に過ぎないのであれば大して問題ではないでしょう。
言葉の意味の上で「liberty≠自由=freedom」と言う構図ができあがってしまうと、民主主義の土台そのものがくるってくるわけで、現状でそれが起きているとすれば深刻と言わざるをえない。
たぶん野嵜氏も「日本人の西洋に対する適応異常」と言う言葉でその構造的欠陥を指摘しているものと思いますが、言い回しがスマートじゃないので
日本国憲法の原文が英語であることのはうが問題だ。
それから、前文の酷い悪文による空理空論。
皆さん、どう思ひますか。
1 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
2 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
3 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
4 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
横槍失礼。
>しかし、多くの日本人が名詞と形容詞の別をどうでもいいと考えているとすれば、事態は俺が考えていた上に深刻です
それはさうですね、ええ大概の日本人はちやんと識別して暮らしてをるんでせうとも、本當かよ! 年ともに、なんでもよくなつてしまふといふのか、西歐の適應異常といふのは、かういう亊が一因にあるのやも知れませんなどと、想ってみる試験
米国連邦最高裁1923年判決,メイヤー対ナブラスカ事件に有名な定義があります。
Liberty denotes not merely freedom from bodily restraint but also the right of the individual to contract, to engage in any of the common occupations of life, to acquire useful knowledge, to marry, (中略), and generally to enjoy those priviledges long recognized at common law as essential to the orderly pursuit of happipness by free men.
(平野訳):自由(Liberty)とは単に物理的抑圧からの解放(Freedom)のみを意味するものではなく,以下のことをおこなう個人の権利をも示す。契約すること,あらゆる一般的な職業に従事すること,有用な知識を得ること,婚姻すること,および,自由人による正当な幸福の追求にとって必要不可欠であるとコモンローにおいて長い間承認されてきた基本的権利を享受すること一般。
誤解を恐れず言えば,フリーダムとは何かを「されない」自由,リバティとは何かを「する」自由のことを意味すると考えてよいでしょう。憲法学の世界では自由権と社会権をめぐってしばしば議論の俎上にのぼる話題です。おそらくLaughCatさんの言いたかったことはこれではないかと。
しかし、多くの日本人が名詞と形容詞の別をどうでもいいと考えているとすれば、事態は俺が考えていた以上に深刻です
とか言ってみるテスト。
adjectiveでなくnounとしてのliberalは、person of liberal views. 或は "Liberal" の形で supporter or member of a Liberal Party. の意味になります。出典は例によつてThe Pocket Oxford Dictionary Eighth edition。
言葉上の解釋など、さほど深刻な物では無いとは想ふのです、自由をfreedom:liberalと云つてみても人はいつかうに自由になりませんから、あなたは自由なのか不自由なのか、といふ亊に關していつたひどうなんだと言ふことの方がどちらかと言へば深刻に思へます、で此處で自由になりませんからとかいふ自由はいつたい、何と言ふ英語に置き換へるのが適切なんでせうかね?とか想って観ても仕方も無い亊なのですよってにな
いや、だから、細かいとこ突っ込むようだけど、liberalじゃなくてlibertyでは?
あと、「事態は俺が考えていた以上に深刻」と思うほど重要な問題なら、「揚げ足取り」とか「済みません」などと言うべきではなかったんじゃないかと。
最後に、政治上の権利としての「自由」を「freedom」と表現する場合もあるので(たしか、日本国憲法の原案はそうだったはず)、この場合も、もしかしたらフリーダムでも問題ないかも。英語にも政治学にもまるで疎いので自信はありませんが。
自由主義(liberalism)の話をしていたのだから、ここで言う「自由」という単語はliberalを指します
しかし、多くの日本人が憲法上の「自由」をfreedomと言う意味に誤解しているとすれば、事態は俺が考えていた以上に深刻です
> Godの觀念があつてこそ、原罪の觀念がある筈だ
仰る通りだと思います。ただ,「God の観念」については,私は次のように分けて考える方が良いと考えています。
・ 個々の人間の,あるいは存在そのものと対峙する「God」
・ キリスト教共同体(教会,宗派,etc.)において共有される観念としての「God」
・ ある文化(例えばヨーロッパ文化)における抽象的観念(あるいは空気的存在)としての「God」
私の印象では,これらはそれぞれ異なる側面(役割,歴史的経緯)を持ちます。同様に,「原罪」あるいは「罪」の問題が個人を離れ,共同体をも飛び越えて社会的な通念となる,そのプロセスにおいて様々なものが生まれるのではないかと(逆も然り?)。なお,この分類は便宜的なものであり,最終的にこれらが一つの「God の観念」に統合される可能性を否定するものではありません。
多少古い話題になりますが,ラングとパロルについても一言(感想程度です)。言うまでもなく,言語は人間活動と不可分です。従って言語を調査する際には「どういう側面から見るか」そして「どこで線引きするか」を方法論的に定めねば収集がつきません。ソシュールが『講義』で示した「ラング」と「パロル」のモデルは,仰る通り(H16.02.15),言語の記号体系としての側面を重視したものです。別の言い方をすれば,個々人の脳の中に収められた「言語パターン」をどのように引き出し,記述するかが「ラングの学問」の中心テーマと言えます(一方「パロル」は「行動パターン」を示すものと言える)。
言語の記号的側面を記述する際,ソシュールのモデルに取って代わるようなものは未だに提示されていません(チョムスキーはソシュールのモデルに乗っかりつつ,言語を心理学的に位置付けた―それが成功したかどうかはともかく)。かと言って,文字に対して即「ラング」と「パロル」,あるいは「共時」と「通時」の区別を適用することはできません(例えば,文字資料しかない古代言語の共時性を論じる際には,もっと多角的な視点から基準を定めなければならない)。その点で「漢字を考えるとき、それをラングから見る」と言い切る極東氏の意見は,あまりにも楽観的と言うか,それこそ共時と通時,ラングと文字体系とを混同しているようにも見えます。
>あと、昔の教科書の索引に「ナショナリズム」の項目がなかつたものがあるのだけれども、今の教科書では何うなのかな?
『新しい社会 歴史』 平成4年2月29日文部省檢定濟 平成8年1月20日印刷 平成8年2月10日發行 / 東京書籍
……無し。
『新編新しい社会 歴史』 平成8年2月29日檢定濟 平成13年1月20日印刷 平成13年2月10日發行 / 東京書籍
……無し。
『[市販本] 新しい歴史教科書』 2001年6月10日 初版第1刷發行 / 扶桑社
……238頁との事。
總て中學生向け教科書。自分が使つてゐたものとか。
> 彼我の違ひを相對化して自分逹の言動を絶對化するよりも、相手の視點で見て自分逹の言動を相對化する方が、實が多いと思ふ。
野嵜さんの批判される「物事を相対的に捉えることが大事」と主張している人々(その主張が、哲学用語としての相対主義と同じものなのか、無学な自分には判断できませんが)も、おそらく同じことを言おうとしているのではないかと思います。
中には「自分逹の言動を絶對化」するという謬りに陥っている人もいると思いますが。
白鳩さん、どうもありがたうございます。原罪の解釋にしても何の解釋にしても、いろいろあり得ると思ひますので。
原罪について、私は「神が常に『正しくある』事が出來るのと違つて、時として過ちを冒す人間が、にもかかはらず理非の區別を神のやうに附けられるやうになつたのは、人間の思ひ上りであり、その傲慢が罪とされてゐる」と解釋してゐます。
いづれにしてもGodの觀念があつてこそ、原罪の觀念がある筈だと云ふ事になりますが。
掲示板の流れを切るような投稿になりますが,お許し下さい。
キリスト教における「罪」の本質は「神から目を背けること」だと私は解釈しています(「罪」と訳されるヘブライ語 chet,ギリシア語 hamartia の原義は「的を外すこと,失敗」)。人間が「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」というたった一つの神の命令すら守れず,神から顔を背けたがために,人間の苦悩,不幸,そして死がこの世に入り込んだ―というのがエデン追放物語の中心テーマであると(参考として,ロマ書 5 章 12 節)。
アダムに代表されるように,全ての人間が神から目を背けた。だからキリスト教では「人間は皆罪人である」のです。それはキリスト教を信じる前であろうと後であろうと変わりありません。晩年のパウロですら「わたしは、その罪人の中で最たる者」(テモテへの手紙I 1:15)と書いています。しかし,キリストに従う者については,キリストの犠牲の故に,もはや罪人として裁かれることがない,というのがキリスト教における中心メッセージです。
なお,プロテスタント(と言っても,ご存知のように様々ですが)では,カトリックほど「原罪」を強調しません(と言うより,「原罪」(最初の人アダムの罪)と「罪」とを区別する意味がない)。
もちろん,以上は私の解釈であって,「ヨーロッパ文化史の中で『罪』がどういう役割を果たしてきたか」というテーマとは別の問題です。
> 日本のクリスチャンつて大概、プロテスタントか異端かなのだけれども、何故だらう?(H16.02.21)
明治以降,日本に来た宣教師はアメリカ系のプロテスタントが多かったから,などとよく説明されますが。実際のところ,どうなんでしょうね。
>freedamなの?liberalじゃなくて?
エモーションなの?情緒といふのは といふ意味合ひ程度ですので
> freedamなの?liberalじゃなくて?
freedamなの? freedomじゃなくて?
liberalなの? libertyじゃなくて?
イスラエル邊はアジアの領域ですから、世界の三大宗教は皆、アジアが發祥の地だと言はれます。ただ、アジアは一つではないですから。
「日本は神道の國である」と言ふ時、「日本人は一人の例外もなく神社にお參りする」と言つてゐるのではありません。
「西歐はキリスト教社會である」と言ふ時、「西歐の人間は一人の例外もなく教會に行つて祈祷なり懺悔なりをする」と言つてゐるのではありません。
それはさうでせう。
「支那は儒教社會である」と云ふ時、「支那人は一人の例外もなく科擧の勉強をする」と言つてゐるのでないのと同樣です。
日本人に「西歐への適應異常」の現象が屡々見られる、と言ふ時、「日本人の行動は一つの例外ナシに西歐への適應異常を示したものである」と言つてゐるのではありませsん。ただ、西歐の文物を扱ふ機會が非常に多い現状、「西歐への適應異常」の現象が多發してゐることは間違ひありません。
「西歐への適應異常の事を考へ、西歐の事を學ぶべきだ」と言ふ時、「日本の傳統的な事は全て忘れるべきだ」と言つてゐるのではありません。そもそも、私は日本の傳統的な表記を使ふべきだと言つてゐるくらゐです。日本の事も西歐の事も、淺薄な理解で濟ませるべきではない、と言つてゐる訣です。
>西歐のフリーダムを自由に置き換へた爲に
freedamなの?liberalじゃなくて?
ご自分で気づいておられる部分以外にも、誤字とおぼしきところや意味がわかりにくいところが多々あるのですが。
ぼけの進行中
>明治以降の日本の歴史が西洋化の歴史であることは疑いようがありませんけど、今日の社会が抱える諸問題を「西洋に
対する適応異常」でかたづけてしまうことに疑問を感じると言っているのです。俺の見解として
片附けてしまふといふのは、けりが附くといふ亊なんでせうが、けりは附きませんが、社會が抱へる諸問題は日本國だけでは無いですし、鎖國以前の日本にも諸問題が存在したはずですので。問題が變わつただけですでも「西洋に對する適應異常」といふのは在る程度私もさう思ひますね、自由主義とかいふ自由は、西歐の觀念が入つてくる以前は、自らが據り所といふ意味であつたやうですが、西歐のフリーダムを自由に置き換へた爲に性道徳云々もかういふ亊になつてなつてゐるやうに。適應異常を起こしてゐる
あなたの言われる「西歐を受容れると一度決めたのだから、西歐の事を日本人は理解しなければならない」と言う主張も一方向性としてはアリだと思います。逆に「日本の風土を再確認して、西洋型システムとの親和性を高める方法を模索する」という方向性もアリだと思います。
ローマ人はエジプト文明を手本にしてローマ帝国を築いたわけですが、何から何までエジプトを真似たわけではない。
日本と西洋では気候も動植物層も異なるわけですから、むしろイイトコドリの方がしっかりしたものになるんじゃないかな?(と俺の中の解体屋経験が語っとります)
明治以降の日本の歴史が西洋化の歴史であることは疑いようがありませんけど、今日の社会が抱える諸問題を「西洋に対する適応異常」でかたづけてしまうことに疑問を感じると言っているのです。俺の見解として
そして件の性道徳云々ですけど、これは典型的な「保守」と「前衛」の対立でして、それと西洋文化の流入と関係があるのかないのか、あるとしてそれが主なのか主でないのか、と言うようなことをもう少し掘り下げて考えてみるべきじゃないのかなと
ぼけの進行中
キリスト教は西歐諸國では日本でいへば神社化しているように思えます、其れも少し前の日本の、野嵜 さんの西歐のキリスト教のイメージは.一世紀前の本の中の世界のやうです、一世紀前の佛教が日本の精神世界に影響を与えた物のと現在では異なるような差異とは違ふでいますが、とか思ひます
と言ふか、私とLaughCat氏、私と高橋氏とで性に對する觀念やその他の觀念は根本的に異つてゐますが、同じ日本人同士で考へ方が異るとしたら、何うして日本人と西欧人とでは考へ方が同じである、と言へるのでせうか。
>一応キリスト教文化圏の出身ですが、西洋人ではないので引き合いに出しても無意味かもしれませんけど、少なくとも性観念に関する葛藤は日本に限った話ではないし、そこに“日本人の「西歐への適應異常」”を当て嵌めてしまう野嵜氏の見解はずいぶんと偏っているように思えます。
「日本人は完全に西歐に適應してゐる」と云ふ主張の方が餘程偏つてゐると思ひます。
また、日本人が西歐の人間のする「性観念に関する葛藤」と全く同じ葛藤をするものですか。LaughCat氏は、その米兵が「理不尽に感じてはいたが敢えて追求しようとも思わなかった。」と言つてゐると述べてゐます。その米兵が、「理不尽」なキリスト教の定める徳目の存在を知つてゐた事は疑ひやうもありません。
で、日本人に、米兵の知つてゐる「理不尽」な徳目の知識はありますか。ありません。日本人の知つてゐる徳目は、日本人しか知らない徳目です。
LaughCat氏は、「意図」を推測して、その結果が同じならば、兩者は同じである、と考へるのかも知れませんが、そのLaughCat氏の推測が正しいと信ずべき理由はありません。寧ろ、彼我の性に對する觀念は異るものである、と考へた方が適切だと思ひます。
そして、彼我の觀念は、本質的に異ります。
「しばられるつもりはない」と「知らないからしばられない」とでは全然違ふ。
>野嵜氏は元々、「言論の自由」を持ち出すことの抽象性を批難していたのではなかったのか?
>抽象性を批難した人間が、別の抽象性を持ち出すのは、一貫性を欠いているのではないか?
>という批判に過ぎません。
私は、全ての「抽象性を批難していた」のではありません。
>「児童ポルノ法改悪反対」にしても、「全てのエロ画像は良いものである」と信じてゐるから「反対」なのか、「或種のエロ画像は良くないが或種のエロ画像は良いものだ」と信じてゐるから「反対」なのか、後者ならばどのやうなエロ画像は良くてどのやうなエロ画像は駄目なのか、さう云ふ事を全然はつきりさせようとしない。とにかく「言論の自由」を冒すから「反対」と云ふ、甚だ觀念的な「反対」が多いやうに見受けられる。
一方で、「西歐への適應異常」の指摘で私が「抽象的」な事を言つたのは、高橋氏が文化の問題に關しては必要以上に個別的な物の言ひ方をしたからです。
一応ハッキリさせておきますが、私はスローガンそれ自体が駄目だなどとは主張していません。
>私には、意味内容を欠いた(それこそご自身で批判されていた「抽象的」な)スローガンであるとしか思えません。
これが、元々の書き込みです。
「意味内容を欠いた抽象的な」スローガンであるとを批判したのです。
全てのスローガンが、「意味内容を欠いて抽象的」であるとは考えておりません。
野嵜氏は元々、「言論の自由」を持ち出すことの抽象性を批難していたのではなかったのか?
抽象性を批難した人間が、別の抽象性を持ち出すのは、一貫性を欠いているのではないか?
という批判に過ぎません。
本件に関して、私に今までの書き込み以上の主張は無く、野嵜氏の反論も聞けましたので、この場でのこれ以上の議論は控えさせていただきます。
以前、駐日米兵の知り合いと話した時彼は「理不尽に感じてはいたが敢えて追求しようとも思わなかった。少なくとも自分はそのような貞操観にしばられるつもりはない」というようなことを言っていました。(俺の英語力ではニュアンス程度しか判らないので)
一応キリスト教文化圏の出身ですが、西洋人ではないので引き合いに出しても無意味かもしれませんけど、少なくとも性観念に関する葛藤は日本に限った話ではないし、そこに“日本人の「西歐への適應異常」”を当て嵌めてしまう野嵜氏の見解はずいぶんと偏っているように思えます。
ユダヤ人。
東洋人なんですか西歐人なんですか野嵜さん
と言ふか、「異常だ」と云ふ感覺は正しいのですよ。ただ、それが解つてゐるにもかかはらず、だからと言つて「日本人にとつて正しい觀念」でもつて西歐人の言動を斬るのは如何なものか、と言つてゐる訣です。
日本人の目に「異常」に見える思想や言動も、連中にはちやんと理由があつて信じてゐるしやつてゐるのだと考へないと、日本人は西歐人の事を理解出來ないのではないかと。
都會ではともかく、田舎では若い男女が結婚以前にいろいろやつてゐたらしいですよ。
あと、「キリストが「汝姦淫するなかれ」と言ったからといって「セックスは悪しき行為」としてしまうあたりがお粗末すぎて…」つて、その言ひ方こそ御粗末ですよ。
「西洋的性道徳の意図」を臆測で言つてゐますけれども、道徳は「非常に理不尽なシロモノ」なのですよ、理由を考へるのはナンセンスです。理由があつたら「理不尽」ではない。説明を附けて「理不尽だ」と言ふより、理不尽は理不尽のままにしておいた方が、納得出來るでせう。
と言ふか、さう云ふ「非常に理不尽なシロモノ」があつたからこそ、西歐では反抗精神が養はれ、「科學的な精神」なり「論理的な思考」なりが發達したのではないですか。
「汝姦淫するなかれ」と云ふ聖書の理不盡な命令が理不盡であるだけに、「惡き行爲」の「惡き」理由を決めるのが厄介で、それで未だに西歐でその種の厄介な「理不尽」が生きてゐるのではないですか。
そして、「セックスは悪しき行為」と云ふ通念があればこそ、D.H.ロレンスが性による近代の一點突破を圖つたのではないですか。
>「セックスレス出産」なんて逸話が出てくるのはキリスト教くらいなものですから、性道徳・性観念についてはキリスト教ほど異常な文化はないでしょう。
と言ふか、「異常である」と考へるのは我々が日本人だからで、西歐人は別にそれが當り前だと思つてゐます。そして、我々の目には「異常である」「理不尽」な觀念を二千年も抱へて連中はやつて來たのであります。そして、日本人にとつて、やつぱり連中の觀念は異常にしか見えない。にもかかはらず、日本人は異常な觀念を抱へた西歐人のイデオロギーなり思想なり哲學なり、或は道具なり機械なりを受容れてゐる。と云ふ事は、西歐人が日本人にとつては「異常」な觀念を持つて作り上げた文明を、日本人は「異常」と思つて良いのであり、にもかかはらず「自動車」「航空機」といつたものを異常だと思はない。その一方で、「自由主義」「共産主義」といつたものは、自分の理解出來る範圍でしか理解しない。となれば、やはり日本人は西歐の文物と巧く折合を附けられてゐないのではないか。結局のところ、「キリスト教は異常」と考へてゐる時點で、彼我に根本的な差異があると考へるしかないのではないか。それでも西歐の文物を受容れたのだから、日本人は「異常」としか見えない連中の觀念を「上滑り」であつても理解する努力が必要でないか。
>でも、300年以上そうした律令の下にあった日本人に“「えろは惡い事ぢやない」と云ふ考へ方も根強く殘つてゐる”のは不自然だと思います。
その、律令末期の平安前期とは、律令制度に基づく地域共同体が崩壊し、再編されていった時代なのですが。この状態で、律令が私たちの血や肉となっていると考えるのは、決して賢明ではないと。
それと、御成敗式目を御覧になればお分かりになりますが、「密懐他人妻罪科事」は密通に対する制裁としての私闘の否定が根本にあります。それはあくまで政治的な要請であり、道徳では有りません。
というか、宮本常一の所謂「土佐源氏」(「日本残酷物語」)あたりを読んでいただければ、日本人の性道徳のレベルを垣間見ることができますが。
これは憶測ですが西洋的性道徳の意図は
1.品性、美意識の向上
2.結婚制度の維持
3.梅毒等の予防、蔓延防止
といったあたりのあったものと思われますが、ここにキリスト教文化が結びついたおかげで非常に理不尽なシロモノになったようです。
夫婦間性交の是非については会派ごとに解釈の違いがあったものの、ドミニコ会あたりでは割礼を施して純潔性の維持に努めたほどですから
「セックスレス出産」なんて逸話が出てくるのはキリスト教くらいなものですから、性道徳・性観念についてはキリスト教ほど異常な文化はないでしょう。
確かに、律令で「姦通の罪」が定められているから淫行は「道徳的悪事」であった。と言い切ってしまうのは短絡的でしたね。
でも、300年以上そうした律令の下にあった日本人に“「えろは惡い事ぢやない」と云ふ考へ方も根強く殘つてゐる”のは不自然だと思います。
明治における性道徳の変化と言えば、四民平等化にともなって特権階級の重婚が禁じられるようになった点がありますけど、これ
が流入するキリスト教文化の影響という見立ては面白いですね。
それでも、平民はそれ以前から一夫一婦制ですからむしろ、“さほど影響は受けてない”と考えるのが妥当だとおもいます。
と言ふか。
>私は、あなたの主張が間違っているとは思いません。ただ、議論に値しません。空論です。
間違つてゐないのに空論である、と云ふのが「批判になつてゐる」と私には思へませんが。
と言ふか、Kuroneko氏は「スローガンは駄目」と言つておきながら、「Kuroneko氏の言つてゐる事だつてスローガンですよ」と指摘されると、「しかし、実行可能であり、一定の成果を期待できるでしょう。」と話を摩り替へてしまふ。
これでは話になりませんよ。Kuroneko氏の批判こそ、空論です。
と言ふか、「やると決めたらちやんとやれ」と私は言つてゐるだけです。それに對して「トートロジー」だの「空論」だのと批判するのはナンセンスだと思ひます。
Kuronekoさんは、「やめろ」と言ふのですか? さうではないのでせう? 今更日本は鎖國出來ませんから。
では、Kuronekoさんは、何を言ひたいのですか?
西歐を受容れると一度決めたのだから、西歐の事を日本人は理解しなければならない――それが「トートロジー」(論理學で言ふトートロジーとは意味が違ひますね)だと言ふのなら言へば結構ですが、だから何なのですか。
發展性が無いのはわかつてゐますが、だから何なのですか。私は何度も「上滑りの理解」と言つてゐます。論と言へば空論である事も端から承知です。しかし、事實の裏附けがあるのだから仕方がない。
>私だつて、その程度の事しか言つてゐません。
私にはただの強弁としか思えませんが。
私はトートロジーは何の発展性も無い空論であり、
それを目標としたスローガンは空虚にならざるを得ないと指摘しているだけに過ぎません。
>「日本人が西歐人になる」のが、「日本人が西歐を理解する」事です
という主張がトートロジーで無くてなんなのですか?
>室町時代の文献に「姦通の罪」という言葉が載っていますから、
>その時代からして淫行は「道徳的な悪事」ですよ。
「姦通の罪」については、律令や御成敗式目(密懐他人妻罪科事)にありますが。しかし、両者が道徳を説いた文書であったとは初耳ですが。
>室町時代の文献に「姦通の罪」という言葉が載っていますから、その時代からして淫行は「道徳的な悪事」ですよ。
その言葉の出て來た文脈を知りたいですね。「道徳的」の意味にしても、日本では「世間的」の意味でないとは言切れません。キリスト教的な意味での「道徳的」とは違ふものでせう。
WXGが「どう説く敵」と誤變換したのには感心した。
>日本人はもともと、性交も淫行も「道徳的な惡事」と見てゐない。
室町時代の文献に「姦通の罪」という言葉が載っていますから、その時代からして淫行は「道徳的な悪事」ですよ。
だいたい、売春が廃れたことのない西洋において道徳がどの程度人を律したものやら
>原罪について 投稿者:息子の爲に 投稿日: 2月18日(水)19時18分59秒 catv-120-180.tees.ne.jp
>
>>えろは隔離されるべきだよ。表に出て良いものではない
>お嫌ひですか?
>URL削除
だーかーらー。
URLの掲載程度なら問題は無いのかも知れないけれども、TeaCupの規定に反してゐるとされるかも知れないところにはリンクを張らないやうに。
全ての人間が、罪を犯すことの出来る「自由意志」をもつてゐることは、むしろ神の恩寵なのではないかと私は考へます。その自由意志の結果として神を信じたり、告解したりするからこそ(キリスト教の教義としては)意味があるのであり、罪が許されるのではないかと。
一方、原罪とは個々人の自由意志とは無関係にすべての人間が生まれながらに罪を負つてゐるといふことで、やはり意味が違ふやうに思ひます。
あるいは、罪人は形而下の概念、原罪は形而上の概念として分けることも可能かも知れません。
いづれにしても、ここは神学論争を行ふ場所ではありませんから、これくらゐにします。失礼しました。
キリスト教の原罪は「人間が罪を犯す資格を持つてゐる事が既に罪なのだ」と云ふ事でして、しかも全ての人間が罪を犯すやうにキリストが罪を定めてゐるんです。定義として「人間は罪を犯す」と云ふ事になつてゐるのでして、だからキリスト教では「人間は皆罪人である」のです。キリスト教を信ずる前の人間は、ですが。
つまり、罪人と言ふのは、生まれた後に本人の自由意志の発動の結果として罪を犯した者のことで、アダムとイヴの罪を継承してゐるといふ趣旨の原罪の存することとは、本質的に意味が異なるのではないかと思ふのですが。
キリスト教の教義としての「原罪」と、「罪人といふ言葉が表すもの」とは、意味が違ふやうな気がしますが、如何?
>キリスト教には「原罪」と云ふものがあるさうで、全ての人間は生れながらにして罪人です。
一往註釋を附けておきますが、私は自分が罪人だと思つてゐませんし、日本人も大體さうでせう。
>しかし、実行可能であり、一定の成果を期待できるでしょう。
私だつて、その程度の事しか言つてゐません。
>俺は性愚説支持なのでカソリック的性善思想は鵜呑みにできませんので
カトリックは性善説ですか。さうですか。
キリスト教には「原罪」と云ふものがあるさうで、全ての人間は生れながらにして罪人です。
>形而上・形而下は、理窟の上では區別出來ますけれども、人間は理窟だけで動くものではないでせう。さう云ふ部分も考へて、判斷するならば、やはり、形而上の部分の理解も含めたトータルな理解が必要である、と思ひます。それが本當の合理精神と云ふものではないですか。
日本人が西欧人に比べ合理的ではない、という事はないと思います。
ただ、論理的ではない、というのは同感です。
>「コミュニケーションを可能にする」ではないでせう。それは即座に「コミュニケーションを可能にすべきだ」を意味します。ならば、あなたは、自分の否定してゐる「スローガン」以上のものを提示出來てゐない、と云ふ事になります。
仰る通りスローガンです。しかし、実行可能であり、一定の成果を期待できるでしょう。(実際に、サマワに派遣された自衛隊員は、イスラム人の習慣・マナーについてしっかりとした事前学習を行ったそうです。これは、当然のことではありますが、大変有意義です。)
また、そこから、次のステップや、その実効性についての議論が可能です。また、その必要性についての議論も当然可能になる。
ならばこれは、実行不可能・議論不可能な空虚なスローガンではありません。一定の目標足りえます。
あなたが、「西欧を理解する」事を「西洋人になる事」としている限り、
つまり、トートロジーを主張する限り、そこから先は存在しません。
私は、あなたの主張が間違っているとは思いません。ただ、議論に値しません。空論です。
あなたの言葉を借りるならば、「一足飛びに結論に飛附くのは危險」という話です。
「日本人は西欧を知らねばならない」については全く同感です。
>形而下の領域と、形而上の領域とは、繋がつてゐます。
それはそうでしょう。ですが、切り分け得ると考えます。
>「總論」には世間の人と同じやうに「贊成」と言ひながら、具體的な事例について意見を求められると自分の都合に反するからと言つて「反對」「反對」と叫ぶ
>と云ふのは、日本的な集團への歸屬意識と西歐的な個人主義との不整合であつて、日本人の西歐への適應異常であると俺は思ふのだが、思はない人の方が多いらしい。
>日本人は基本的に社會や世間體を行動規準とし、西歐人は(Godと對峙する)個人としての自分を基準に行動する、と指摘してゐるだけです。
>日本人だつて、世間體を氣にしない、狂信的な態度をとる人はゐます。
>しかし、それは飽くまで「狂信的」であつて、根據がありません。
>西歐人は、世間體を氣にする時は氣にしますが、氣にしない時はそれに徹底的に反抗します。>そして、その時の根據としてGodが持出される。そのGodの存在によつて、>日本人ならば單なる狂信に過ぎないものが、西歐人では狂信にならない。或は、狂信にしても、信じ方が全然違ふ。
>「神と對峙し得る強力な個人」を要請する西歐の個人主義を、「神のゐない國で神と對峙した經驗のない個人として弱體の日本人」が運用しようとすれば、不整合が起るに決つてゐるぢやないですか。
>根據も無しに自信滿々の態度をとる人が狂信的でない訣がないでせう。クリスチャンならば、Godがついてゐる、と云ふだけで、自信を持つて行動を取つてもをかしくはありませんが。
その時の都合次第で「西洋的個人主義」と「狂信」を使い分けているだけのように見えますが
それにあなたの言われる「西欧人の行動基準としてのGod」がキリスト教の神であるならば、教会への帰属意識に神という体裁を与えられただけと言うことも考えられます。
俺は性愚説支持なのでカソリック的性善思想は鵜呑みにできませんので
>形而下の学問・概念は、日本人にも問題なく扱えると思いますが?
形而下の領域と、形而上の領域とは、繋がつてゐます。
日本人は科學を扱へます。しかし、戰前、近代化の最前線にあつた筈であり、事實、零戰やら戰艦大和やらの「世界一」の兵器を作り、一番科學的であつた筈の軍隊が、精神主義に走り、軍國主義に走りました。
先のオウムでも、理系の人が信者になつたさうですね。科學は扱へたけれども、科學精神は持合はせてゐなかつた、と。
形而上・形而下は、理窟の上では區別出來ますけれども、人間は理窟だけで動くものではないでせう。さう云ふ部分も考へて、判斷するならば、やはり、形而上の部分の理解も含めたトータルな理解が必要である、と思ひます。それが本當の合理精神と云ふものではないですか。
>「努力すべきだ」などという主張はスローガン以外の何者でもないと思いますが。
非道く短絡的ですね。「前提は不要」ですか。
>例を上げれば「イスラム教を理解する努力はすべきだ」は、ほとんど前提不要の主張です。
ですから。特に西歐の理解が必要だと。
>問題は「理解した状態とはいかなる状態なのか?」であり
と言ふか、あなたは、何が「理解した状態」か「わからない」で、「学ばない方が良い」と主張してゐるのですか。
>「イスラム教の代表的教義・風習を知り、イスラム教徒との宗教的軋轢を生まないコミュニケーションを可能にする」
それのどこが「理解内容」なのですか?
「コミュニケーションを可能にする」ではないでせう。それは即座に「コミュニケーションを可能にすべきだ」を意味します。ならば、あなたは、自分の否定してゐる「スローガン」以上のものを提示出來てゐない、と云ふ事になります。
西歐の理解とは、西歐の歴史の理解であり、西歐の傳統の理解であり、西歐の宗教の理解であり、西歐の思想の理解であり、西歐の哲學の理解であり、西歐人の發想の理解であり、西歐人と同樣に考へられるやうになる事です。窮極的に「日本人が西歐人になる」のが、「日本人が西歐を理解する」事です。しかし、そんな事は無理だし、同時に、完璧にやり遂げても困る。
T.S.エリオットが、イギリス人は、人喰ひ人種を研究しても良い、彼等と一緒に生活しても良い、ただ、彼等と一緒に人を食つてしまつたら駄目だ、だと述べた事があります。もしそんな事をしたら、イギリス人はイギリス人でなくなつてしまふ、と云ふ訣です。
日本人は西歐を理解すべきだ、と言つてゐますが、同時に、日本人は日本人でなければならない、と思つてゐます。その邊は矛盾ですが、矛盾だからといつて非難されなければならないものでもないでせう。
ただ言へるのは、日本人は餘りに西歐の事を知らない、それでは困る、と云ふ事であつて、だから今、一足飛びに「日本への囘歸」をされても困る。
>「魂」と「才」とは別、と考へていらつしやるやうですが、そもそも兩者は不可分だと思ひます。
私は単純に形而下・形而上で判断しています。
形而下の学問・概念は、日本人にも問題なく扱えると思いますが?
別に湯川秀樹の名を上げるまでも無い。
>私の主張のどこがスローガンなのでせうか。意味内容を欠いてゐると云ふのは、極附けではないですか。
「努力すべきだ」などという主張はスローガン以外の何者でもないと思いますが。
意味内容を欠いていると言ったのは、
「〜理解する努力はすべきだ」は、前置き不要に、ほぼ全ての事柄に当てはまる主張だからです。
「日本は明治時代に西歐の文明を受容れてしまつたのだから」などという前提は不要に
「西歐を理解する努力はすべきだ」の主張は正当でしょう。
そりゃ、何事であれ、「理解する努力はすべきだ」と私も思います。
例を上げれば「イスラム教を理解する努力はすべきだ」は、ほとんど前提不要の主張です。未知の物を理解する努力をすべきなのは当たり前の事です。
「日本は自衛隊をサマワに送ってしまったのだから」という前提をつけるまでもない。
問題は「理解した状態とはいかなる状態なのか?」であり、「努力とはいかなる行為を指すのか?」でしょう。(付け加えるならば「何のための努力なのか?」です)
>それが解つてゐるのならば、既に我々は西歐を理解してゐる筈です。
それはただのトートロジーです。
例えば「イスラム教を理解する努力はすべきだ」の理解の内容を
「イスラム教の代表的教義・風習を知り、イスラム教徒との宗教的軋轢を生まないコミュニケーションを可能にする」事であると定義付ける事は可能ですし、空虚なスローガンに陥らない為には最低限必要です。
用語解説で気になったことがあったので。
>XHTML
>當初、mimeタイプはHTMLと同じ、text/htmlとされた。ただし、text/xmlでサーヴァから送られてくると、User AgentはXMLとして解釋する。現在、「text/xhtml」が
- 「text/xmlもしくはapplication/xmlとしてサーバから送られると」とすべきかと。
- 正式には application/xhtml+xml (RFC3236) ということで。
>XSL
SGML時代にあったDSSSLが土台になっていると聞いています。
>XML文書をXHTMLの文書に變換
仕様によれば、XSLTでは、通常のHTML文書にもテキスト文書にも変換出来ることになっています。
と言ふか、「闇黒日記」しか讀んでゐませんか。さうですか。
>例えば「人権」概念などは、
ここが問題で、「「人権」概念など」は良いとしても(私は全然良いとは思ひませんが)、それ以外の全ての「形而上の概念」で「日本文化と矛盾を起こさない」のか、と云ふ問題があります。
「魂」と「才」とは別、と考へていらつしやるやうですが、そもそも兩者は不可分だと思ひます。
>意味内容を欠いたスローガン
私の主張のどこがスローガンなのでせうか。意味内容を欠いてゐると云ふのは、極附けではないですか。
「西歐を理解する努力はすべきだ」はスローガンではありません。「日本は明治時代に西歐の文明を受容れてしまつたのだから」と私は言つてゐます。
>西歐を理解した状態とはいかなる状態なのか?
それが解つてゐるのならば、既に我々は西歐を理解してゐる筈です。
>努力とはいかなる行為を指すのか?
最う散々述べたと思ひますが。
>「日本型の近代」とは、「和魂洋才」以外の何物でもないやうにしか思はれませんが。
近代とは、様々な要素の複合概念であり、形而下を扱う学問は既に「洋才」として問題なく日本に受け入れられており、形而上の概念でも、例えば「人権」概念などは、日本文化と矛盾を起こさないと考えます。要するに「自立した個人」という概念が日本文化と相性が悪いのであり、近代の成果で利用できるところは利用すべきだという以上の主張ではないです。それ以上の具体的なビジョンは、残念ながら現在の私にはありません。
>といふか、「無駄な努力であつたとしても、努力しなければならない」が、どうして「自己満足」になり得るのか、全然わかりませんが。
意味内容を欠いたスローガンを唱えただけで、なにかを意義あることを主張した気になってしまうという意味での「自己満足」です。
「西歐を理解する努力はすべきだ」と言うならば、
・西歐を理解した状態とはいかなる状態なのか?
・努力とはいかなる行為を指すのか?
ぐらいは最低限示さなければ、あまりに空虚なスローガンであるとしか、言い様がありません。
と言ふか、近代を超克するには、まづ、近代を知らなければならないだらう、近代を知るには、まづ、近代以前を知らなければならないだらう、と言つてゐるだけなんですが。
一足飛びに結論に飛附くのは危險だと。
>目指すべきは、「和魂洋才」に替わる、未だ見ぬ「日本型の近代」であって、「西欧近代」ではないと考えます。
私は、目指すべきは「西欧近代」である、なんて言つてゐませんが。
「日本型の近代」とは、「和魂洋才」以外の何物でもないやうにしか思はれませんが。
>「西欧近代」を日本が真に身に付けるのは、「日本文化」の否定であって、現実に達成不可能としか思えませんが、その上で無駄な努力をしろなどという主張だとするならば、その主張に野嵜氏の自己満足以上の意味があるとは到底思えません。
「努力は無駄に終るかも知れないが、それでもしなければならない」と言つてゐます。夏目漱石の「上滑り」の理解とも言つてゐますし。あと、福澤諭吉の「痩せ我慢の説」なんてのもありますが。
といふか、「無駄な努力であつたとしても、努力しなければならない」が、どうして「自己満足」になり得るのか、全然わかりませんが。どうやつても結果が無駄になるものならば、永遠に滿足する事は出來ないでせう。
こちらには初めて書き込みます。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/comment?date=20040215#c
における、私の書き込み
>「ポルノや大江健三郎の本は倫理にもとるから公権力の検閲によって発禁にすべきだ」で、その理由が「西欧列強に追いつく為」じゃあ、意味不明の妄言としか受け取れないし
は仰る通り、野嵜氏の主張を歪曲しています。私も、野嵜氏がそういう主張をしているとは思っていません。私の発言意図は別に在りましたが、悪質でした。すいません、謝罪します。
私の本意は、その後段である、
>「法律の話はしていない」なんてあくまで主張するなら高橋氏(や一般の日本人)にとって議論する理由があるとも思えない。ただの日本人批判なら「日本はムラ社会で個人が無いから民主主義が機能していない」式の紋切り型の批判のバリエーションの1つに過ぎないんだから。
にあります。
もともとの法律の話につながらないのだとしたら、野嵜氏の主張は、
「西歐を理解する努力はすべきだ」のみが結論であり、私には、意味内容を欠いた
(それこそご自身で批判されていた「抽象的」な)スローガンであるとしか思えません。
私も、日本が明治に西欧の近代を受け入れた結果、内面に矛盾を抱え込んだという大意に異論は
ありませんが(もっとも私のこの考えの出典は岸田秀で、アメリカを重視しますが)
目指すべきは、「和魂洋才」に替わる、未だ見ぬ「日本型の近代」であって、「西欧近代」ではないと考えます。明治期とは、まったく状況が違うのですから。
野嵜氏の仰る通り「西欧近代」を日本が真に身に付けるのは、「日本文化」の否定であって、現実に達成不可能としか思えませんが、その上で無駄な努力をしろなどという主張だとするならば、その主張に野嵜氏の自己満足以上の意味があるとは到底思えません。
「対象を有りの侭に観察する」(韜晦日記より)。これが、理論(=theory)の語源ですから、
對象をよく「觀察」しないで、言語學、言語學とは不思議ですね。
この掲示板に書かせていただいた「福田恒存全集を絶版にするな」との小生の主張に、何人もの方から、小生HPの掲示板などへ力強いご同意のご意見をいただきました。文藝春秋の直接販売部からの「福田恒存氏の著作をお読みになりたいという方は、ほとんどお買い求めになられたと、売上状況から判断し、以後の重版はしないことに決定いたしました。」とのメールに対し、小生は次のような返信をしておきました。
「福田氏の著作は流行の本などではなく、漱石、鴎外、小林秀雄などと同じく、古典であります。古典に対して、『売上状況』というような経済価値で重版の是非を判断してはいけません。貴社に、古典の文化価値、道徳価値を守る使命感があるならば、福田全集を絶版にするようなことをしてはいけません。貴社の何冊かの福田氏の文庫本を読んで、全集に進む人はこれからも必ず出てきます。版を重ねていただきたく、再度お願い申し上げる次第です。」
これが文藝春秋で取り上げられるのかわかりませんが、福田氏の著作の古典的価値を理解し守ろうとする、心ある出版人がいることを祈るばかりです。
小生HPは以下のとおりです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/
どうも濟みません。
>思うに、Operaのみでの確認ではマークアップミスに気付きにくいのではないでしょうか。
と言ふか、ブラウザで確認してゐないんで。
・「SEshop.com/商品詳細:スタイルシート スタイルブック」のアンカーで、hrefが"hrerf"になってます。
・「ヨーロッパ基層文化を形成しているものが……」の、ひとつ前のq要素が閉じていないようです。
思うに、Operaのみでの確認ではマークアップミスに気付きにくいのではないでしょうか。
表題の関聯を説明した部分のマーク附けがどうもをかしいやうです。
q要素ではないやうな気がしますが。
http://www.yasuhisa.com/のアンカー先が
"http://www.yasuhisa.com/http://www.yasuhisa.com/"になってます。
>「Godは“教会を通じて刷り込まれた集団への帰属意識”ではないのか?」
そもそも教會よりもGodの方が古いし。
落著いて下さい。
>日本人に私個がないのであれば不整合自体起こるはずがないじゃないですか。
「神と對峙し得る強力な個人」を要請する西歐の個人主義を、「神のゐない國で神と對峙した經驗のない個人として弱體の日本人」が運用しようとすれば、不整合が起るに決つてゐるぢやないですか。
「あなたの言われる適応異常というものが「あなたの言うところの狂信者」に起こるのならともかく」以下は、支離滅裂で、理解不能です。私は「日本人は全員、例外ナシに狂信者です」のやうな事は言つてゐませんよ。何を怒つてゐるんですか。狂信者呼ばはりも何も、俺は狂信者なんて言つてゐないし。「狂信的」と言つただけです。
根據も無しに自信滿々の態度をとる人が狂信的でない訣がないでせう。クリスチャンならば、Godがついてゐる、と云ふだけで、自信を持つて行動を取つてもをかしくはありませんが。
「Godは“教会を通じて刷り込まれた集団への帰属意識”ではないのか?」と問われればおそらく否定なさると思いますが、その理由を詳しく説明してもらえないでしょうか?
>日本人は基本的に社會や世間體を行動規準とし、西歐人は(Godと對峙する)個人としての自分を基準に行動する、と指摘してゐるだけです。
>「總論」には世間の人と同じやうに「贊成」と言ひながら、具體的な事例について意見を求められると自分の都合に反するからと言つて「反對」「反對」と叫ぶ
>と云ふのは、日本的な集團への歸屬意識と西歐的な個人主義との不整合であつて、日本人の西歐への適應異常であると俺は思ふのだが、思はない人の方が多いらしい。
>日本人だつて、世間體を氣にしない、狂信的な態度をとる人はゐます。
>しかし、それは飽くまで「狂信的」であつて、根據がありません。
>西歐人は、世間體を氣にする時は氣にしますが、氣にしない時はそれに徹底的に反抗します。>そして、その時の根據としてGodが持出される。そのGodの存在によつて、>日本人ならば單なる狂信に過ぎないものが、西歐人では狂信にならない。或は、狂信にしても、信じ方が全然違ふ。
あなたの言われる適応異常というものが「あなたの言うところの狂信者」に起こるのならともかく、「あなたの言うところの日本人」に起こると言うのなら、俺としては理解に苦しむところです。
日本人に私個がないのであれば不整合自体起こるはずがないじゃないですか。
それにの俺としては「狂信者」呼ばわりする点も受け入れられない。
日本人は生活の大部分を「自然の恵み」に頼ってきた民族です。日本人の意識の中にはGod以上に森羅万象が根付き、著しい気象の変化が起きる環境で洞察力を養い、それを“勘”と読んで根拠にした民族です。
もっとも「Godしか信じない輩」とっては「狂信」かもしれませんが、そこは「見解の相違」というものでしょう。
此処は一つ、漢字の話題にも力点を入れてみては如何でせう。
最近「人名用漢字」が増やされるかもとか云ふ噂もありますし。
でも、神道の話題は私も興味のある処ですね。大体、日本は
昔から神仏習合ですし、色々な神様を其の時々の事情で簡単に
取入れて融合させてしまふのが得意らしいのです。どうしてなんだらう。
平成十六年二月十二日、空ddと空qが出現していますよ。
余りに長いからチェッカーにかけた法が解り易いです。
御苦労様です。
最近は日記も掲示板もつまんないですねえ。
相手の手法がここ三ヶ月ほどワンパターンで、
正直野嵜さんの文章以外は目を通してをりません。
なんとかなりませんかねえ、因縁付けされてをられる方々。
>つまり、内因性の“Godと言う行動原理”と外因性の“世間と言う行動原理”との間に格差が生じた場合、一貫性のない行動をとることがある。と言うことではないですか?
さう云ふ人もゐますが、さうではない人もゐます。その人は、「内因性の“Godと言う行動原理”」によつて行動します。日本人にさう云ふ人はゐません。
そして、「内因性の“Godと言う行動原理”」によつて行動した人の思想が、西歐の正統の思想となつてゐます。
>>西欧人の行動に「世間」というものが影響を与えるのですか?与えないのですか?
>與へますよ。與へるに決つてゐます。當り前の話です。
>しかし、同時に、西歐人の行動にはGodと云ふもの「も」影響を與へる、と言つてゐるのです。
つまり、内因性の“Godと言う行動原理”と外因性の“世間と言う行動原理”との間に格差が生じた場合、一貫性のない行動をとることがある。と言うことではないですか?
もちろん、日本人だつて、世間體を氣にしない、狂信的な態度をとる人はゐます。しかし、それは飽くまで「狂信的」であつて、根據がありません。西歐人は、世間體を氣にする時は氣にしますが、氣にしない時はそれに徹底的に反抗します。そして、その時の根據としてGodが持出される。そのGodの存在によつて、日本人ならば單なる狂信に過ぎないものが、西歐人では狂信にならない。或は、狂信にしても、信じ方が全然違ふ。
>西欧人の行動に「世間」というものが影響を与えるのですか?与えないのですか?
與へますよ。與へるに決つてゐます。當り前の話です。
しかし、同時に、西歐人の行動にはGodと云ふもの「も」影響を與へる、と言つてゐるのです。日本人に、絶對者の觀念はありません。
>>日本人は基本的に社會や世間體を行動規準とし、西歐人は(Godと對峙する)個人としての自分を基準に行動する、と指摘してゐるだけです。
>>もちろん、西歐にだつて世間は存在します。それに、私は、全ての西歐人が完全に世間から獨立してゐる、等とは言つてゐません。>>この一文から「俺の見解」は否定できるものではないと読めるのですが
>LaughCat氏の見解は否定されてゐる、と云ふのが解らないのですか。さうですか。
何度読み返しても判りませんね。
西欧人の行動に「世間」というものが影響を与えるのですか?与えないのですか?
>>人をファシストとののしる以上、俺はそれなりに考えてやりましたよ。
こう主張して「ファシスト」という言葉を使う人に限って、「ファシスト」の意味をまったく理解していなかったりする罠。
本日の闇黒日記で、
>漢字は表記システムとして、常に原形を保存する傾向がある筈です
とあります。これは私もその通りだと思ふのですが、私が見た限りでは、
殘念ながら漢字學の世界では「漢字とは簡略化の歴史であった」とする、
一面的な見方が「常識」のやうです。
以下のリンク先は私が書いたものですが、幾らか參考になるかもしれません。
ついでに、本日の「闇黒日記」で、
>理解のしか他派事なるものです。
とありますが、誤變換でせう。
私の前の書き込みも「コンじユーター」といふ誤記を指摘したものだったのですが、何か少し誤解があったやうです。http://www.geocities.co.jp/Playtown-Bingo/9969/kanjibunka20040208.htm
『奇魂』といふ同人誌を發行してをります高坂と申します。
弊誌第八號を近日刊行致します。
野嵜さんにもご寄稿頂いてをります。
内容紹介を掲載致しましたので、告知させて頂きます。宜しければご覽下さい。
頒價700圓プラス送料です。
ご興味を持たれた方はご聯絡下さい。宜しくお願ひ致します。
と言ふか、
>人をファシストとののしる以上、俺はそれなりに考えてやりましたよ。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040210#p2
普通は反論が來る事を考へて意見を言ふものです。その反論には、「誤読、混同」の類が含まれてゐる筈です。それも想定して、普通は意見を言ふものです。高橋氏だつてさうでせう。そして、「誤読、混同」については、「誤読、混同」させた方の責任のみを追及すべきものでもないと思ひます。「誤読、混同」した方にも、當然、責任がある筈です。
>書面上は同じ言葉ですので誤解や誤読、混同が生じやすくなります。
でも、LaughCat氏は誤讀も混同もしなかつたと。なら、問題ないぢやないですか。
>あなたの文章がそうした誤読や誤解を引き起こす事を承知しているのであれば、誤解を生じさせた責任はあなたの側にあります。
でも、以下略。
>類似性があるからといつて混同して良いと云ふ訣ではありません。
>例へば、佛教で言ふ「自由」と、近代的な飜譯語としての「自由」とは、區別されますし、混同すべきではありません。
しかし、書面上は同じ言葉ですので誤解や誤読、混同が生じやすくなります。
>>あなたの文脈から「西欧人には状況の力が働かない」と言う誤読を引き起こしても仕方がないように思えます。
>では、LaughCat氏は、そのやうな讀み方が誤讀であると、解つたのですね? ならば問題ないのではないですか?
あなたの文章がそうした誤読や誤解を引き起こす事を承知しているのであれば、誤解を生じさせた責任はあなたの側にあります。
あと「滅私奉公」の時代に、普通の人が「私」と云ふはつきりした意識を持つてゐたか、と云ふ問題もありますが???
そもそも「脱藩」「駆け落ち」を、「良い行爲だから積極的に爲さねばならぬ」として日本人がしたのか何うか。「世間では間違つた事だとされてゐるけれども、何うしやうもないから仕方なくさうした」と言ふのなら、個人主義でも何でもありません、やつぱり世間の目を氣にした行動です。
>なるほど、「西欧的な個人主義」は支配層の特権から端を発するもので、被支配層の独立志向とは関係がなく、革命によって広く普及したのだと言われるわけですか
>しかし、「脱藩」「駆け落ち」と言った体制からの独立志向は「内発的」なのですが、これは「個人主義」ではないのでしょうか?
>「日本的な個人主義」と言った場合そうした伝統的なものを連想してしまいます。
「脱藩」「駆け落ち」を「体制からの独立志向」と言ふのは如何なものかと。大體、さう云ふ事をした人が、「体制からの独立志向」を意識してゐたものでせうか。
「個人主義」と「呼ぶ」のは勝手でせうが、さう云ふ事をした人が自分の行動を「個人主義」とはつきり認識してゐた、と考へる理由はありません。そして、主義ならば意識してゐる筈のものであり、無意識の行動を「何らかの主義に基く行動」と看做すのは間違ひです。
>あなたの文脈から「西欧人には状況の力が働かない」と言う誤読を引き起こしても仕方がないように思えます。
では、LaughCat氏は、そのやうな讀み方が誤讀であると、解つたのですね? ならば問題ないのではないですか?
>同じ言葉で括られると言うことは二者の間に類似性があると言うことです。
類似性があるからといつて混同して良いと云ふ訣ではありません。
例へば、佛教で言ふ「自由」と、近代的な飜譯語としての「自由」とは、區別されますし、混同すべきではありません。
>日本人は基本的に社會や世間體を行動規準とし、西歐人は(Godと對峙する)個人としての自分を基準に行動する、と指摘してゐるだけです。
不思議ですね。
「社會や世間體」というのはアイヒマン実験における「状況の力」ではないのですか?
あなたの文脈から「西欧人には状況の力が働かない」と言う誤読を引き起こしても仕方がないように思えます。
>だーかーらー。言葉が「同じ」でも、「性質」が同じでないのならば、意味がないでせうが。
同じ言葉で括られると言うことは二者の間に類似性があると言うことです。もっとも俺が指摘したかった「世間体」という類似点についてあなたの同意を得てはいませんが
>ところで「西欧」という言葉はアングロサクソン・イスパニア圏をさすのですか?それともスラブ・ゲルマン圏も含むのですか?
スラブにもスラブ派と西欧派とがありましたが。
>そもそも、「西洋の貴族社会」は市民革命によつて市民社會に變化したのであり、その時點で個人主義は貴族的なものではなくなつてゐます。
>日本では、一度も市民革命は行はれてをりません。
>現代の市民レヴェルで、西歐では個人主義が定着してゐます。西歐の場合、「内發的」な革命によつて市民が個人主義を獲得してゐます。
>それに對して、日本では、「日本的な個人主義」ですら、市民レヴェルで一般化してゐるとは言へません。
>現代の日本人が考へる個人主義は、飽くまで西歐から傳はつた個人主義である、と云ふ事も重要なポイントです。
>そして、日本人が受容れた西歐の個人主義は、飽くまで「外發的」に受容れたものに過ぎません。
なるほど、「西欧的な個人主義」は支配層の特権から端を発するもので、被支配層の独立志向とは関係がなく、革命によって広く普及したのだと言われるわけですか
しかし、「脱藩」「駆け落ち」と言った体制からの独立志向は「内発的」なのですが、これは「個人主義」ではないのでしょうか?
「日本的な個人主義」と言った場合そうした伝統的なものを連想してしまいます。
ところで「西欧」という言葉はアングロサクソン・イスパニア圏をさすのですか?それともスラブ・ゲルマン圏も含むのですか?
>同じ語で括られるという意味で「同じ」という語を用いましたが、
だーかーらー。言葉が「同じ」でも、「性質」が同じでないのならば、意味がないでせうが。
>それは「見解の相違」というものでしょう。
見解にも、正しい見解と、間違つた見解があるでせう。
>あくまでも「俺の見解」を述べただけで「あなたの見解」を「間違っている」と言ったつもりはありません。
そして、LaughCat氏の見解は、間違つてゐるのです。
>この一文から「俺の見解」は否定できるものではないと読めるのですが
LaughCat氏の見解は否定されてゐる、と云ふのが解らないのですか。さうですか。
>「個性の相違」と言う言葉はあなたの文章からの引用です。
でも、私の使つた「個性の相違」と、あなたの言つた「個性の相違」とは、意味が違ひますね。では、引用ではありませんよ。
あと、本氣で詫びる積りが無く、單に自分を誠實な人間であるかのやうに見せかけるだけの爲に詫びてゐる振りをするのは、何うかと思ひますが。
>同じ語で「括られる」からと言つて、完全に同じ性質である訣ではないでせう。
同じ語で括られるという意味で「同じ」という語を用いましたが、そのような誤解をされたことは遺憾であり、そのような誤解を招いたことをお詫びします。
>日本人は基本的に社會や世間體を行動規準とし、西歐人は(Godと對峙する)個人としての自分を基準に行動する、と指摘してゐるだけです。
>私の意見が間違つてゐるのならばもちろん私は自説を撤囘します。しかし、私は自説が間違つてゐないと信じてゐます。
それは「見解の相違」というものでしょう。「見解の相違」と「間違い」は異なりますね。
>LaughCat氏は、私の説を論理的に否定出來てゐません。單に、的外れな事を言つてゐるだけです。
ええ、否定していません。あくまでも「俺の見解」を述べただけで「あなたの見解」を「間違っている」と言ったつもりはありません。もし誤解を招いたのであればお詫びいたします。
>もちろん、西歐にだつて世間は存在します。それに、私は、全ての西歐人が完全に世間から獨立してゐる、等とは言つてゐません。
この一文から「俺の見解」は否定できるものではないと読めるのですが
>「個性」と云ふ言葉を持出したのはLaughCat氏です。
「個性の相違」と言う言葉はあなたの文章からの引用です。あなたや俺をさす意味を含まないつもりで「個性」という言葉を用いたのであれば俺の誤解です。そうならばお詫びします。
と言ふか、その邊はレトリックと云ふものもあるんですが。「御:おほん→おん→お」を"Oh"とやつてゐるとか、結構「それつぽい」訣で。
"Oh - ka - eh - ree Na - Sigh"のあつたサイト、ぐぐつても、もう出てきません。
野嵜様、
>ohとかehとかに"h"の文字を使ふのは何故なんでせうか知ら。
"Eh?"以外にも"Oh!"といふ表現があります。ちなみに"Ah!"や"Uh..."といつた表現もあります。("ih"はないと思ひます)The Princeton Review出版の"Word Smart"といふ英単語を暗記する為の書籍がありますが、そのなかには上記の"h"のついた発音表記が多く使用されてゐます。
ある1頁の例:
PROFESS (pruh FESS)
PROFICIENT (pruh FISH unt)
PROFLIGATE (PRAHF luh git)
PROFOUND (pruh FOUND)
PROFUSE (pruh FYOOS)
PROLETARIAT (proh luh TER ee ut)
PROLIFERATE (proh LIF uh rayt)
上記の例に全て"h"の音が隠れてゐるとは思へませんが。
あと上記の例には"fess","fish","found"といつた単語が発音表記のなかに混ざつてをります。「おかへりなさい」の発音表記にも"sigh"が入つてをります。これはあくまでも大雑把にしか発音を示してゐない証拠ではないのでせうか。その大雑把な発音表記のなかに"h"が隠れてゐるといつた様な、細かい点を表してゐるとは考へにくいのではないのでせうか。
>自身の“間違い”を認めようとせず、「間違いを正す」と称して他人の意見にケチを付け、その上であなたを“正そう”とする意見に対しては、“個性”という言葉で言い逃れるわけですね。
人は自分を否定すべき文句で以つて他人を罵るものですが、LaughCat氏もその例外では無いやうです。と言ふか、「個性」と云ふ言葉を持出したのはLaughCat氏です。LaughCat氏は、自分が持出した言葉を自分で否定してゐます。
>“行動原理が「世間體」とか「世間の目」とか”についても『悪の華』あたりを読めばそうした風潮が潜んでいることもうかがえます。
もちろん、西歐にだつて世間は存在します。それに、私は、全ての西歐人が完全に世間から獨立してゐる、等とは言つてゐません。
日本人は基本的に社會や世間體を行動規準とし、西歐人は(Godと對峙する)個人としての自分を基準に行動する、と指摘してゐるだけです。
私の意見が間違つてゐるのならばもちろん私は自説を撤囘します。しかし、私は自説が間違つてゐないと信じてゐます。そして、LaughCat氏は、私の説を論理的に否定出來てゐません。單に、的外れな事を言つてゐるだけです。
>自身の“間違い”を認めようとせず、「間違いを正す」と称して他人の意見にケチを付け、その上であなたを“正そう”とする意見に対しては、“個性”という言葉で言い逃れるわけですね。
これについては、「言い逃れ」だと思ふLaughCat氏の頭を疑ひたい。私は、「LaughCat氏が最初に提示した理窟と、LaughCat氏が後で言つてゐる事とは、矛盾してゐる」と指摘したに過ぎません。そして、その指摘を、LaughCat氏が默殺し、逆に私のしてゐる事に「言い逃れ」と云ふレッテルを貼つてゐるのです。
「氏族社会として括られること自体“間違って”はいませんけど」だから「同じ」となる理窟がわからない。同じ語で「括られる」からと言つて、完全に同じ性質である訣ではないでせう。
アメリカと日本とは「同じ民主主義の国」として括られるでせうが、では、アメリカの民主主義と日本の民主主義とは同じものでせうか。
私は「西歐的な個人主義」と言つてゐます。「日本的な個人主義」と云ふものも考へ得るのでせうが、「西歐的な個人主義」とは質も違ふでせうし、また、一般への普及の度合も違ふでせう。
そもそも、「西洋の貴族社会」は市民革命によつて市民社會に變化したのであり、その時點で個人主義は貴族的なものではなくなつてゐます。日本では、一度も市民革命は行はれてをりません。
現代の市民レヴェルで、西歐では個人主義が定着してゐます。西歐の場合、「内發的」な革命によつて市民が個人主義を獲得してゐます。それに對して、日本では、「日本的な個人主義」ですら、市民レヴェルで一般化してゐるとは言へません。現代の日本人が考へる個人主義は、飽くまで西歐から傳はつた個人主義である、と云ふ事も重要なポイントです。そして、日本人が受容れた西歐の個人主義は、飽くまで「外發的」に受容れたものに過ぎません。
>「同じ」ですか?
>「よね」と同意を求められても全然同意出來ませんが。
これは何が「同意できない」というのでしょうか?
>それって西洋の貴族社会でも見られるよね。日本の公家社会や武家社会と同じく氏族社会だからかな。
この行をコピペしているからにはここにあなたの言う“間違い”があるようですが、「貴族社会」も「公家社会」も「武家社会」も氏族社会として括られること自体“間違って”はいませんけど。
“行動原理が「世間體」とか「世間の目」とか”についても『悪の華』あたりを読めばそうした風潮が潜んでいることもうかがえます。
「西洋の貴族社会でも見られる」と返答したまでです。
自身の“間違い”を認めようとせず、「間違いを正す」と称して他人の意見にケチを付け、その上であなたを“正そう”とする意見に対しては、“個性”という言葉で言い逃れるわけですね。
>発言の意図は理解したが、自説を固持するために他人の見解を否定し、懐柔しようと言うのなら「やめておけ」と言っておきたい。
と言ふか、良く考へたら、LaughCat氏の立場では、「他人」と言ふ中に「野嵜」が含まれるのだから、このやうな事を言ふのはそれ自體、矛盾である、と云ふ事になるのだが。詰り、「自説を固持するために野嵜の見解を否定し、懐柔しようと言うのなら「やめておけ」と言っておきたい。」と云ふ事。
>そういったあなたの姿勢が“個性の相違”を否定していると言う自覚があなたにはないようですね。
LaughCat氏には「野嵜の個性」を「否定していると言う自覚があなたにはないようですね。」
>"Eh?"といふ英語の表現が「エ」の発音に近い事から遣はれた表記ではないのでせうか。
どうなんでせうねえ?
まあ、アメリカ人に訊いた訣ではないので確實な事は言へないのですが。
ohとかehとかに"h"の文字を使ふのは何故なんでせうか知ら。
>発言の意図は理解したが、自説を固持するために他人の見解を否定し、懐柔しようと言うのなら「やめておけ」と言っておきたい。
>そういったあなたの姿勢が“個性の相違”を否定していると言う自覚があなたにはないようですね。
當り前です。個性の相違を否定してゐるのではないのですから。
間違つた意見であつても個性として認めなければならない、と云ふ主張には反對。
はじめまして。鈴木和博と申します。
早速ですが、野嵜様の「假名遣Q&A」といふページの「表音主義は一體どつちだ」といふ項目の中に、以下の事が書かれてゐます。
”「Okaeri Nasai」の發音を「Oh - ka - eh - ree Na - Sigh」と書いてゐる英語サイトがあります。アメリカ人は「おかへりなさい」の「へ」に「h」の發音が隱れてゐるのを見逃してゐません。”
失礼ですが、これは間違ひだと思ひます。"eh"の表記は単に「エ」の発音を"ee"「イー」から区別する為にあるだけで、特別隠れてゐる"h"の発音を表す為ではないと思ひます。"Eh?"といふ英語の表現が「エ」の発音に近い事から遣はれた表記ではないのでせうか。
>「同じ」ですか?
>「よね」と同意を求められても全然同意出來ませんが。
>彼我の類似點、共通點を追及するのは、別に「やつてはいけない」と言つたりはしないけれども、單に「聯帶意識を持ちたい」とか「身近に感じたい」とか言つただけの目的でするのならば「やめておけ」と。
>また、「奴らも所詮俺達と同レヴェルなんだよ」等と言ふが爲に彼我の類似點を殊更強調する、と云ふのには、積極的に反對したい。
発言の意図は理解したが、自説を固持するために他人の見解を否定し、懐柔しようと言うのなら「やめておけ」と言っておきたい。
そういったあなたの姿勢が“個性の相違”を否定していると言う自覚があなたにはないようですね。
仮名遣いもスタイルも全然違うのに、なんで間違えたんだろう……
転載します。
投稿者:年上の長谷川 投稿日:02/07(土) 21:27 PC No.778
以下、西尾先生からの文章の転載です。
==============
最近日録感想板の内容がなんとなく面白くないですね。
貴方はそうはおもいませんか。
少欲と言う人の考え方が悪意からではなく、心配に発し、つくる会への老婆心に出ていることはわかるのですが、典型的な俗論なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
少欲さんは洗脳された愚か者を善導し、目を開かせたいと善良な動機から一貫して発言されていることは私は百もわかっていますが、あなたはご自分のその善意の恐ろしさ、傲慢さを見つめるべきです。
それに気がつかないで、他人を啓蒙できると信じてるいるなら、政治主義です。
私が一生かけて戦ってきたのは、左翼でもマルクス主義でもなく、人の心を自由にできると信じている便利で軽薄な政治主義なのです。
と言うことで、↓↓のツッコミは基本的には無視してください。
でも、闇黒日記が読みにくいのは確かです。
うー、ミスをフォローしようとする時は更にミスをしやすい法則。
すみません。掲示板荒らしみたいになってしまって。
あー恥ずかしい誤爆。って言うか、URLを見ていなかったので内部リンクと思いこんでいました。
最新更新箇所を探すブックマークレットですけれど、アドホックな解決に見えます。
そもそも日系列と時系列の並び順が逆なのが非合理的ではないでしょうか?
あるいは、日単位の区切り(時系列の不連続)が視覚的にわかりにくいのが問題なのではないでしょうか。
もちろん、それらの問題は過去にも検討したと思うのですけれど、
その結論が「読者の側で解決(操作)しろ」「その手伝い(ブックマークレット)はする」という形なのは、
力の入れ所がズレているのでは無いかとツッコミを入れたくなります。
実はブックマークレットの練習?
立讀みだつたもので。
> 谷澤永一が本の讀み方だか選び方だかの本を出してゐて、中で昔にやつた渡部昇一との對談を何ページも引用した擧句、その時言つてゐた事は正しかつた、とか自慢してゐるのだけれども、良くないよ。
これは、おそらく「本はこうして選ぶ買う」のことを言つてゐるのだと思ひますが、当該書には、開高健、向井敏との鼎談(「書斎のポ・ト・フ」)の篠沢秀夫「篠沢フランス文学講義」についてのところを「何ページも引用した擧句、その時言つてゐた事は正しかつた、とか自慢」した(pp.68-85)、その数ページあとに、渡部昇一「読書有朋」への書評で、向井敏にちくりとやられた(pp.89-90)ことは書いてあつても、渡部氏との対談の引用はないやうに思ひます。
見当違ひでしたらすみません。
>それって西洋の貴族社会でも見られるよね。日本の公家社会や武家社会と同じく氏族社会だからかな。
「同じ」ですか?
「よね」と同意を求められても全然同意出來ませんが。
初めて投稿します。国語問題に基本視座を提供した福田恒存氏を敬愛する者です。
今小生は福田恒存全集の全八巻をライフワークのつもりで少しずつ読み進めていますが、第四巻と第八巻だけ買ってなかったので、先日、本屋で注文しておいたのですが、何と版元の文芸春秋で福田全集を増刷しておらず、在庫が無いとのこと。日本で最良の人間学の書を一般の人が入手できないなどということはあってはなりません。この人の書いたものは代表作だけを読むのでは足りないと小生は感じ、全作品を読みたいとの渇望は増すばかりです。福田恒存全集の早急な増刷を文芸春秋に依頼しました。ところがこんな回答が返ってきました。
「日ごろより文藝春秋の刊行図書をご愛読いただき誠にありがとうございます。さて「福田恒存全集」ですが、高価格にもかかわらず読者の支持を受けましたこと、深くお礼申しあげます。本の性質から初版を売りきれば上々と考えておりました所、2版3版と重版できましたことは、ひとえに読者のみなさまのおかげです。
しかし、福田恒存氏の著作をお読みになりたいという方は、ほとんどお買い求めになられたと、売上状況から判断し以後の重版はしないことに決定いたしました。まだお読みにならない方、お買い求めにならない方には大変ご迷惑をおかけいたしますが、なにとぞ事情ご斟酌のうえ、ご理解いただければ幸甚でございます。」
このままでは福田全集は絶版になります。何とか増刷を皆さんで呼びかけませんか。
ちなみにこのことは小生の運営するホームページにも記載してあります。アドレス は以下のとおりです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/
>日本人の「集團への歸屬意識」とは、全體主義とは全然關係なくて、
>行動原理が「世間體」とか「世間の目」とかである、つて事。
>きだみのるの『にっぽん部落』なんかで描かれてゐる、
>良く「ムラ社会」とか言はれてゐる閉鎖的で自己中心的な考へ方の事。
それって西洋の貴族社会でも見られるよね。日本の公家社会や武家社会と同じく氏族社会だからかな。
地方の農村では村一つが同姓で親戚ってのも珍しくないから、やっぱりムラ社会ってのも氏族社会のなれの果てなんだとおもう。
NECとIBMの擴張文字セットをWindowsはフォントに含んでゐるのですが、その中の文字を指定して記述された原稿を、「月曜評論」ではそのまま製版出來なかつたらしく、結果として毎囘、紙面では「出したくても出せない」事になつたやうです。
けつねうろんの話、樂しく讀ませていただきましたが、一箇所誤字に氣づきました。
>ワープロやコンじユーターを使ふ限り、示偏の神樣は出したくても出せないといふ事。
ちなみに、「示偏の神樣」は、Windowsの機種依存文字にもあるし、
Unicodeでも「神」とかで出せます。
まあ、故意に「闇黒日記」と掲示板とは、切離してゐますので。
相對的に兩者は獨立の關係にある、と云ふ訣です。謎。
>日本的な集團への歸屬意識と西歐的な個人主義との不整合であつて、>日本人の西歐への適應異常であると俺は思ふのだが、思はない人の方が多いらしい。
俺がそうは思わないのは“個人主義”が必ずしも西欧的だとは思わないということと、“集団への帰属意識”を持つ事が西欧人には見られない特性だとは思わないこと。
全体主義と個人主義の摩擦は民主主義の下で起きる予防法のない病であり、日本特有のものではない。
>あと、發明者が發明しようとする意思もあれば、後世の人が發明されたものを維持し、發展させようとする意思もある筈ですよ。>社會の現象なり經濟の現象なりで説明するのは飛躍ではないかと。
江戸時代の数学者『関孝和』の事例を思い出してしまいます。
代数学やら多元連立方程式やら円周率に関してかなり進んだ研究を行っていましたが、彼の後に続く人は皆無だったようです。
こと数学に関しては、江戸時代ではその数学を用いる先が無かったため発達しなかった。一方の西欧では物理学や天文学の道具として発達していった…と、言えるでしょう。
どうもはじめまして。野嵜です。
御指摘の通りです。訂正しておきました。ありがたうございます。
障`が畫家の感覺的な産物と捉へられてゐる昨今の風潮は感覺主義に堕してゐるといへる。と云ふのは、障`は感覺的にのみ觀るものではないからだ。そこには、綿密な計算が働いてゐるのであつて、決して子供の盾フやうな幼稚な代物ではない。一部の天才的な畫家は例外としても、畫家は誰でも、デッサンをやる。ある石膏像を前にして、畫家は必ず、目に見えない部分を意識して、平面上に立體的造形を築きあげる。對象を塊として捉へるといふことは、感覺的な作業ではない。感覺を働かせるといふ事を度外視してゐる譯ではないが、それよりも、理知といふ「道具」を使つてゐる。
表音主義なども、この堕落した感覺主義に他ならない。たとへば、正統表記では「書かう」と表記する。この場合、隠された、目に見えない「書かん」との論理的な繋がりを意識できるが、「書こう」といふのは、音感に從つた表記法で、感覺的なのであり、堕落なのである。
畫家城ヶ崎悟氏はあんまり「(自分の盾ェ)解らない、分からないと言はれると、腹が立つ、そんなに簡單に解つてたまるか」と云てゐたが、その通りだと思ふ。
はじめまして。こんにちは。
二月一日の・・
>日本的な「批評」の目的は、自分の敵を、自分が見下すのみならず、周圍の人間にも見下し、集團でやつつける事である。
の部分で、「周圍の人間にも見下し」とありますが、ここを解釈することができませんのです。「周圍の人間にもそれを見下させ」だという意味ですか?
それとも