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「掲示板荒し」の定義――と言ふより、形式的・表面的な「掲示板荒し」との類似ではなく、嫌がらせと言ふ内容面から發言・投稿が評價されるべき事

連續投稿・嫌がらせ目的の中傷・コピー&ペーストによる宣傳

「義」が野嵜の掲示板を荒した事があります。「義」は、各地の掲示板にコピー&ペーストしてゐる幾つかの文章を、野嵜の掲示板に連續して書込んだ事があります。

これは明かに掲示板を荒す行爲です。

野嵜はその種の「嫌がらせの爲」と云ふ目的による「コピー&ペースト」の大量投稿をした事がありません。

複數のハンドルの使用

アレクセイのサイトでの論爭をネタに「野嵜は掲示板荒しだ」と宣傳してゐる人がゐます。これについても簡單に觸れておきます。

沖泰光が「アレクセイ・ホランドの複數のハンドルを使つて野嵜や木村氏を中傷・侮辱した」事があります。これに對する批判として、パロディ的なやり方をして、野嵜が「ふぁんきーじゅにあ」なるハンドルで投稿した事があります。これを捉へてアレクセイこと沖泰光が「野嵜は掲示板荒し」「野嵜の汚い尻尾」等と言つて野嵜を中傷する文書を公開してゐます。

野嵜の「ダブハン」ですが、掲示板管理人である沖泰光自身がダブハンで掲示板の投稿者を誹謗・中傷した事を批判したものです。批判ですから、これは掲示板荒しになりません。

そして、後にその「ふぁんきーじゅにあ」のハンドルで野嵜が木村さんの「ブログ」に投稿した事があるのですが、それをnoz_watcherなるネットストーカーが採上げて、「掲示板荒しだ」と宣傳した事があります。全く御話になりません。内輪のネタとして木村さんが解つてゐるのですから、「ふぁんきーじゅにあ」のハンドルを木村さんのサイトで野嵜が使つても、野嵜が木村さんのサイトを荒らした事にはなり得ません。

外見的な類似を指摘すれば批判となるのか?

noz_watcherは、Googleで「noz_watcher」をキーワードに檢索すればすぐに見附けられますが、2ちゃんねるで「ノズラースレ」なる、野嵜を中傷・誹謗する爲のスレッドを作り、はてなダイアリーを利用して「ノズラー観察同好会」なる野嵜の發言を攻撃するだけの爲の「ブログ」を運營してゐます。

このnoz_watcherは、野嵜の言つてゐる意味を文脈を通じて理解しようとせず、言葉尻だけを捉へ、論旨から野嵜の文章の一部を切取つて、恰も「非難すべきもの」であるかのやうに見せかける、と云ふ仕方で、外面的・表層的に野嵜を誹謗してゐます。

形式のみならず、内容面から言つて、掲示板荒しである、と言へなければ、掲示板荒しではありません。

これらの事が證明されなければ、或投稿や一連の投稿を荒し投稿と看做す事は出來ません。

一方。

かうした發言の場合、管理人が如何に不快に思はうとも、夫れ自體としては掲示板を荒した行爲とはなり得ず、批判として管理人(或は特定の投稿者)は受止める義務があります。(もちろん、程度が過ぎて、罵倒から進んで、中傷・名譽毀損・侮辱といつた域にまで達したら、それは非難されるべき事となります。とは言へ、掲示板の管理人や特定の投稿者が既にそれらの事をやつてゐた場合、あとからやつた方が一方的に責められる謂れはありませんし、既に先にやつてゐた側が自分の行爲を棚に上げてあとにやつた側を責め立てる事は許されません)

ところで、noz_watcherは、「掲示板荒し」「ブログ荒し」の外見的な性質と、野嵜の行爲との表面的な類似だけを指摘してゐます。内容的に、侮辱的であるか、相手を不快にさせる意圖があるか、といつた事は、全く檢證してゐません。(もちろん、それを檢證し始めたら、noz_watcherは自分で自分の首を絞める事になります)

既に述べた木村さんの「ブログ」の件について述べたnoz_watcherの發言を見ればはつきりしてゐるのですが、noz_watcherは、木村さんが野嵜の「ふぁんきーじゅにあ」の投稿を見て何う思ふものであるかを、正しく考察してゐません。せいぜい、「野嵜のやつてゐる事は迷惑行爲である」と云ふ結論に結び附ける目的で「木村さんは迷惑に思ふ筈である」のやうに極附けるだけです。かうした、目的の爲に理由を捏造する、と云ふ事がnoz_watcherには多いのですが、さうやつてnoz_watcherが野嵜を攻撃する理由は、本人が述べてゐる通り、單に野嵜を不快にする事です。

「個人を不快にする」だけの爲になされてゐるnoz_watcherの發言は、寧ろ掲示板荒しの發言に近いものです。noz_watcherの言動は、公益性を云々する以前に、個人的な動機が先立つてをり、批判とは言へません。明かにストーカー行爲です。

或は。議論の流れの中でのみ決定される文章の正しい意味ではなく、前後の文脈を無視して言葉の表面的な意味だけを決定する、と云ふのがnoz_watcherのやり方ですが、さう云ふやり方でのみ文章を理解する人間には、パロディとかパラドックスとかの概念はそもそも認識すら不可能でせう。ところで、野嵜はこのパロディとかパラドックスとかの批評の方法が大好きです。福田恆存氏も、日本人はさう云ふものに不慣れだが、受容れる努力をしなければならない、と述べてゐます。『ワイルド語録』の飜譯は、さう云ふ考へがなければ、なされなかつたでせう。閑話休題。

附記

もちろん、先に述べた事は、以下のやうに投稿者の問題として考へる事も可能です。

管理人の問題を管理人の態度をパロディ化して批判する事が可能であるやうに、投稿者の問題をその投稿者をパロディ化して批判する事は、やはり可能です。

まとめ

單なるマナーとか禮儀とかの側面から、形式的に「誰某は掲示板荒しである」と言ふ人があります。それは完全な間違ひです。野嵜は、リンクの問題をマナーとしての問題と看做す事に反對し、批評の手段としての引用の問題と見て來ました。掲示板における投稿の問題も、單にマナーとしての問題と看做す事に、野嵜は反對せざるを得ません。

口調が激しくなる事は、掲示板ではありがちであり、それ自體として咎められるべきものではありません。野嵜の口調が氣に入らない、と云ふ意見はありますが、結局のところそれは「正字正かなは氣持惡い」と云ふ感想と同じで、感情論の域を出ないのではないですか。

口調から感じた不快感を理由に、野嵜の言つてゐる事の内容も間違つてゐるに違ひない、と極附けて、野嵜の發言をねぢ曲げて、「野嵜は間違つた事を言つてゐる」と宣傳するのは何うかしてゐると思ひます。さらに「野嵜を不快にさせてやりたい」等と明言までして攻撃を仕掛けるのは、批判の域を超えて、單なる個人攻撃に墮してしまつてゐるとしか言ひやうがありません。福田氏の讀者を名乘り、恰も福田氏の正當な後繼者であるかのやうな顔をしながら、「野嵜さんにはもつと不快になつてもらひます」等と言ふのは、支離滅裂にも程があるのではないでせうか。福田さんは、單に不快にさせる目的で、他人を批判した事はありませんでした。