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天皇論爭総集篇・その2

天皇論総集篇」の續き……

政治主義的に天皇を見るのだけは止してもらひたい

天皇が偶像からすべり落ちたからといつて、天皇を馬鹿にしてよいといふ根據はない。○○氏などは天皇は人間以下の存在だと言つてゐるが、人を物としか見ないのは政治主義であり、○○氏が眞摯であるならまだしも救ひがあるのだが、ちやらんぽらんな人物なのだからおぞましいといふよりも情けないとしか言ひやうがない。

天皇の前では皆平等

天皇は差別の温床とする意見に對して

とすれば解決するんではないでせうか。西歐では神の前では皆平等ですから。

市場経済がキリストの代りか?

△△さんの意見は正しいと思ふ。確かに天皇は人であり、偶像として地に墮ちてゐる。日本人はかつての地位からすべり落ちた天皇を、單に以前の反動で嘲つて、それが正しいと信じこんでゐます。確かにそれは日本人の國民性です――といふより、それが日本人の文化であり、日本人の文化の弱點をさらけ出したものといへます。

だが、簡單に諦めすぎてはゐませんか。市場經済が「本物」かといへば、さうではないでせう。何より經済は人間の精神の支柱になどなりえないからです。

お金で何でも物事を解決できるかといへば、できないことはシェイクスピアがよく知つてをりました。『ヴェニスの商人』でシャイロックはポーシャに敗れてゐるのです。

やつあたり

天皇は大東亞戰爭を惹起こした張本人だ、いまだに亡靈の如く生殘つてゐるのは不思議だ――といふ意見に

日本が戰爭を遂行するために、精神的支柱として天皇や君が代に縋りついたことは事實です。しかし天皇や君が代が戰爭を起こした譯でもなければ、兵隊を死なしめた譯でもない。そもそも戰爭の責任なんて誰にもとれやしない。

「戰爭責任」なんてありもしないものを楯に天皇や君が代や日の丸を非難するのは、ためにするものか、或はただの八つ當りのどちらかにすぎません。

それにしても「亡靈」を本氣で憎むとは氣が知れない……。

天皇は物ではない

確かに右翼には天皇を物扱ひした馬鹿――『憂國』『英靈の声』の三島由紀夫など――がゐます。

しかし天皇は物ではないから、道具的觀點で萬人を納得させる言論は絶對に成立たない。「道具的観点などから、消極的に天皇制を支持している人に対しては、道具的観点からの反論が有効かも知れません。」確かにさうですが、それは空しいことだからやめた方がいいでせう。

好い加減イデオロギー的な論爭は止めませんか

右翼的な無意味な主張と左翼的な無意味な主張を持つ者同士が水掛け論を繰返してゐても、空しいだけです。異論を持つ者を政治的にどうやり込めるかだけを論じてゐては、建設的とはいへません。

天皇は右や左といふ政治とは無縁のものです――當然經濟で論じられる存在ではありません。天皇は文化的存在であり、文化的基盤に立つた言論でなければなりません。

日本人の精神構造

現代の日本人が表面的に天皇は不要だと考へ、判斷してゐることは事實です。しかし日本人の精神は天皇を敬つてゐた過去の日本人と變らない――文化は變らないと私がいふのはさういふ意味です。

そして今後日本人が世界で生き殘つていく上で、日本人は西歐文明を受入れていかねばならないのも事實です。私はさういふ意味で民主主義者であり個人主義者です。ですが、民主主義や個人主義が西歐出身の理念であり、その根柢にキリスト教の道徳がある以上、我々日本人がそれらの理念を完全に理解し、身に着けることは出來ない。

それはしかたない――だがここは飽くまで和魂洋才でいかねばならない、といふよりも、人は心を失つたまま形だけ眞似ることは不可能なのです。

國際社會は經済だけで動いてゐる譯ではありません。アメリカ人やヨーロッパ人は、經濟界では極めて理性的であり、△△さんも日本人はそれを見習へばよいと考へていらつしやる。しかし彼らが經濟界で見せる姿だけが彼らの眞の姿ではない。鴎外も言ふやうに西人は義の民族でもある。

理想の實現――手段と目的のはきちがひ

獨裁・恐怖政治の囘避を目的として西歐で考案されたのが主權在民・民主主義といつた理念です。目的は權力者の獨裁や恐怖政治をなくすことです。國家間の平和でも良い。その手段のために民主主義や主權在民といふものがある。

目的のために手段を選ばないといひますが、ヒトラーやスターリンが出てこなければ君主制民主主義でも共和制民主主義でも構はない――西歐ではさう考へて、イギリスのやうに王室を殘してゐる國もある。

日本だつて天皇を戴いて民主主義や平和を實現して一向に構はないのです。逆に、民主主義や平和の背後にキリスト教といふ強い後ろ盾がない以上、天皇を後ろ盾にするのは最も賢明なやり方といへませう。

根無し草の現行憲法

今の憲法は民主主義の原理を根據に成立したものです。(「前文」)しかしその民主主義の根據がどこにも無いのです。おつしやる通り「与へられた民主主義」でしかない譯です。

民主主義を自家薬籠中のものとするためにも、日本人は日本の文化に立脚した形で民主主義を打ち立てねばならない。

西歐の民主主義の根本にあるのがキリスト教であり神樣です。日本の民主主義もそれに匹敵する強固なものがあればよいのですが、そんなものはどこにもない。せめて相對的にであつてもよいから一番強固な存在はないかといふと――やはり天皇以外見つからないのではないでせうか。

右翼の街宣車

あれはうるさいだけで役に立ちません。

**さんも勘違ひなさつてゐると思ふのですが、私は右翼ではありません。よく右翼の掲示板で右翼と喧嘩します。私も天皇は神樣だと思つてゐないですし。ただ天皇が神だと信じてゐた過去の日本人と、天皇は人だと知つてゐる今の日本人の、どちらが幸福かなと疑問に思ふんです。

この間は、吉本隆明に似てゐるといはれたなあ……惡い意味で ^ ^

戰爭責任なんてないですよ、道義的意味では

政治的に失策をしたといふのならば、東條内閣はさつさと辭任して責任を全うしてゐます。

道義的には――戰爭は政治に屬するものですから責任なんてありません。

ドイツのナチス狩りは、ユダヤ人虐殺が戰爭と無關係な虐殺行爲だつたから責任を問はれるに過ぎません。根本的に戰爭責任とは無縁の問題です。

なほ、東京裁判は單なる國家的リンチです。責任云々といふより、單なる戰勝國の復讐であり、感情的なものです。

だいたい戰爭に負けた位で、戰爭はもう嫌だ、とか、戦争を起こした奴が憎い、とかいつて、これからは絶対平和主義だなどといふのは、所詮引かれ者の小唄に過ぎません。

負け犬根性にすぎぬものを正義と勘違ひした所に、戰後の日本的民主主義のいかがはしさがあり、「天皇、君が代、日の丸に対」する「不信感」を抱かせ續けた原因があるのです。

天皇を日本人はまだ忘れ切つてはゐない

天皇の權威は崩れてゐますが、天皇はまだそこにしつかり存在してゐます。「形骸化」してゐるのなら、たてなほせばよい。そして、民主主義に適合する形で天皇を再度位置付ければよい。

形だけ日本が存在してもしようがないのです。キリストは地上に寶を積むより天に寶を積めといひました。もちろん日本人がキリスト教を受入れるのは不可能ですし、キリスト教を受入れるべきだとも思ひません。日本人には日本人の宗教=神道があり、依然日本人の精神は神道的です。そして神道の最高のシャーマンが天皇であり、天皇の存在を支柱に日本人の精神をたてなほすことはまだ可能です。

繰返しますが、天皇を支柱に民主主義を實現することは可能だが、支柱なしに民主主義を確立することは不可能です。

天皇は祭政一致か

もともと日本に於て、「政」は「まつりごと」であり、祭祀と區別されてゐません。

もちろん今の世では政治と宗教は分離されるべきです。私の天皇論は政治に對置する形で道徳を確立すべく、その道徳の基盤としての天皇を重視する、といふものです。

もちろん神道が政治に利用されたのは事實です。ですが、その神道が政治から見放された敗戰後も、天皇は祭祀を執り行ひ續けてゐます。天皇は政治的な立場を失ふ事はどうでもよかつた、ただ神道の宗教的立場は失はれる譯がないと知つてゐたのです。

※祭政一致で構はないと今は考へてゐる。ただ祭と政治ではどちらがより大事かといふと祭だと今でも思ふ。

天皇の立場

私は政治的に天皇をどうかうしろとは言ひたくないのです。

民主主義の社會は、政治だけでなく道徳に依つても構成される譯です。社會を構成するのは人であり、人は政治的なだけでなく道徳的であるからです。

ただ一方的に、政治的に天皇は有用とか不用とか言はれるのですが、政治だけで民主主義の社會は成立たないのではないでせうか。道徳的・宗教的・文化的(これらは同じものです)なものが政治的なものと竝立してはじめて社會は全うなものになるのではないでせうか。

※「私は政治的に天皇をどうかうしろとは言ひたくない」が、論爭の流れから現在は逃げてゐられない状況になつた。

キリスト教と日本人

教義を受入れる事は理屈の上では可能であり、日本人は佛教を受入れました。一方で日本人的精神といふものは生活・歴史と密着し、日本人から抜き難いものになつてゐる――詰り絶対者の存在を認める傳統が日本人にはない。キリスト教は強力な絶對者の存在を認める文化の産物です。キリスト教を表面的に理解する事は可能でせうが、日本人の精神がキリスト教的になる事はない――これが「日本人がキリスト教を受入れるのは不可能」といふ意味です。

一方でキリスト教側も、神道は素朴な先祖崇拝であり、キリスト教が否定するものではないと言つてゐます。これは感情と理念は別といふ事を言つてゐるので、結局は私の意見とさう違ひはないかと思ふのですが。

自由市場――或はイデオロギーの終焉

自由市場經済を基盤に道徳の再構築をやらうといふ譯ですか?

自由はその背後に道徳の裏付けが必要であり、さういふ自由が道徳を裏附けようとすると自家撞着に陷るのだが。

天皇は權威であり、「權威主義」と言ふのは「天皇制」と同じ政治理念であります。權威主義が終つても、權威はなくならない。政治的に戰後、「天皇神格化」の「天皇制」がなくなつても、天皇は先祖崇拝の祭祀を執り行ひ續けた。天皇はなくならない。

天皇の二面性

過去の天皇が權力を志向した事は事實です。だが天皇は權力者にならうとするだけの存在でない事がよく理解出來てゐたから、武家は幕府を創設する際、天皇の存續を認めたのでせう。天皇は政治的存在といふだけでなく、宗教的存在でもあつたからです。

過去の日本人は天皇の人としての面だけを見ようとしなかつた――神と呼んだが、宗教的側面も見ないではゐられなかつた。それは今の日本人であつても變らない――例へば天皇を本氣で憎んだ中野重治は、天皇の強さをよく知つてゐた。傳統の重みを知つてゐたからこそ、中野は天皇を憎んだのである。

政治と道徳は原則が違ふ

>No_Zさんは,政治と道徳を対立させておられるようですね.

私は政治と道徳を峻別すべきだと思ふのです。

政治は國が全體として生延びればよいものです。最大多數の最大幸福なんて言ひますが、政治による救濟は必ず取りこぼしがあるものです。その取りこぼされた少數者は道徳以外の何によつても救はれない。

或は政治は量で判斷し、道徳は質で判斷するものだと言つてよい。政治は個々の人間を見ないで、人間の總量から判斷する――それは個々の人間からは離れたものであり、非人間的とも言へる。

道徳は個々の人間に屬するものです。政治が「非人間的なもの」であるならば道徳は「人間的なもの」を指す――道徳が宗教と直結し、宗教は文化と直結すします。

政治的な物の見方をする事が餘りにも多すぎるので、私は「人間的」な物の見方=道徳を強調するのです。社會や國家の安定は興味がない――個々の人間或は人間性の問題を忘れてはならないと言ひたいのです。

さうかも知れませんねえ。

>人の思想は個々に異なるものである。それなのにNo_Zは「日本人の精神構造」だの「西欧の思想」だの言っている。前にも言ったが、どの地域でも人は十人十色、「○○人は××だ」という概念は○○,××に何を代入しても間違った概念である。

さうでせうか。人の思想は個々に異なるものでせうか。生まれ育つた環境が人に與へる影響は非常に大きいものです。人は知らず知らずのうちに、傳統・文化・宗教に影響を受けます。

>また、No_Zは思想の出どころを気にしすぎ。思想は中身が肝腎であって、それがいつどこで生まれた思想であるかは無視してよい。

中身を判斷するのには、どこで生れた思想かが決定的な要因になります。

なにしろ□□さんの述べた事は、絶対者を持たない文化特有の發想なのです。一切が相對的であるといふ主張は、絶対者を戴く文化では異端であります。

羹に懲りて鱠を吹くのはよいことか

日本人は長いこと天皇を戴いてやつてきたが、敗戰でそれは失敗だつたと悟つた。そこで今度は民主主義だ、經濟だ、と言出した。もはや天皇ではやつていけないと言ふのだ。

ではきくが、民主主義や經済でやつてみて、また失敗したらどうするのか。日本人は天皇が失敗した時と同じ幻滅を味はふだらうが、再び新たな「神樣」をどこからかかつぎぎ出すのか。さらに言へば、「民主絶對主義」が轉ければ、一切の價値觀が再度逆轉して、軍國主義が復活する危險があるが、それについてはどう考へるのか――或は考へないですます積りか。

そして、人爲は絶對に失敗する。ならば民主主義や經済は絶對に失敗する――我が日本人は、これから何度失敗して、何度幻滅すれば氣が濟むのか。

今一度、天皇でやり直してみる方が、全てを御破算にして一からやり直すよりも建設的ではないか。たかが一度の失敗で、天皇を捨ててしまふなんて、日本人は餘りに淡白すぎなまいか――餘りに氣まぐれではあるまいか。

バランス感覺の問題でせう

>>人の思想は個々に異なるものでせうか。生まれ育つた環境が人に與へる影響は非常に大きいものです。人は知らず知らずのうちに、傳統・文化・宗教に影響を受けます。

>人の思想は個々に異なります(共通点の多少はある)。育つ環境も個々に異なります。また、いくら周囲の影響が大きくても個が周囲の価値観を鵜呑みするわけではありません。

あまりに個々人の共通點ばかりが強調されすぎてゐると思ふので、違ひを強調しただけです。

>どこで生まれたかは参考程度でいいんです。参考にしなくてもいいくらいです。

參考にはした方がよいでせう。日本と西歐の差異は必ずしも全部が全部、無視できるものではないと思ひます。

>No_Zさんは簡単に人を異端者扱いするのに対して私は違うということです。

私はあまりにも人を均質化しようとする思想に抵抗してゐるだけのことです。

まあ究極的には

政治と道徳と、どちらが大事かといふことですね。私は道徳優先です。

政治の立場からいへば、天皇は民主主義に反してゐる――それあさうでせう、日本の民主主義は本來天皇を要らなくすることが目的で作られたものなんですから。ただいへるのは、君主を要らなくするために作られた民主主義を以つて君主を否定するのは、自己撞着だといふことです。

道徳・文化・宗教的立場は形而上の立場であり、政治的立場は形而下の立場です。形而下の立場は前提として形而上の立場が必要です。だから私は政治的立場よりも道徳的・文化的・宗教的立場の方に優先權があると信じます。天皇が政治的に現代の日本國のイデオロギーに反してゐることよりも、道徳・文化・宗教的に過去現在未来の日本國に適してゐることを私は重視します。

國家が大嫌ひ?

「天皇制」支持者は皆「支配意欲と愛情希求満足」を基盤にしてゐると△△さんは考へてをられます。しかし人間の關係を全て「支配被支配」の關係ととらへるのはマルクス主義的な考へ方で、あなたの嫌ひな「時代遲れ」の考へではないですか。何で天皇は支配者ではないといふ議論に對して、天皇は支配者であるといふ決めつけを行ふのか不思議なのですが、ひよつとすると△△さんは時代遲れのマルクス主義者で、マルクス經濟學をもとに天皇を論じてをられるのですか。

なるほどねえ

※「個人の欲求」としての「支配意欲と愛情希求満足」を基盤にしてゐるといふ囘答に對して

個人の要求なんですか――ならばそんなこと國家の問題に持出さないで下さい。

天皇制がなくなれば

また「特定の個人の欲求しか満たさない」別の體制が現はれるでせう。

天皇制をなくせばなんでも解決するなんて、世の中隨分簡單に考へていらつしやいますね。だいたい、それまでの體制を正反對にひつくり返せば、しばらくはいいけれども、そのうちまた同じやうに正反對にひつくり返るものです。

壞すよりも維持する方が大變

>天皇中心の国粋主義はとてもお気楽な思想

>何しろ、何も考えなくてよいのじゃからな。

>〜

>「天皇様のために」という単一の価値観に従っていればよろしい社会。

馬鹿だねえ……私は民主主義を日本に根付かせるためには、天皇を基盤にすべきだといつてゐるんですがね。根なし草の民主主義よりも堅固な民主主義を作るべきだと言つてゐるんです。

日本において民主主義をいかに確立するかを考へるべきなのに、單に目先の「天皇制」打倒だけしか考へない――これを知的怠惰と呼ぶ。「天皇制」打倒こそ、安易な道に流れた人間の考へることなのだ。

しかし「天皇制」打倒を叫ぶ連中は心の中では民主主義は過程にすぎぬと考へてゐるらしいから、かういふ發言も空しいのである。彼らの目指す終着點は共産主義か、無政府主義か。

それつて變ぢやないですか?

>百歩譲って天皇制が文化だとしてもその特定の文化を国家権力によって特別視するのは他文化にたいする差別である。

自國の文化を特別視して何が惡いんですか。自分の國はその國民にとつて特別に決つてゐます。

そもそも自國の文化を大切にしない國民が他國の文化を大切にする譯がない。自國を貶しめて他國を持上げるなんて事が出來る譯がありません。

文化を大切にするとは「私の文化は大切である。あなたの文化も尊重する」といふことです。「文化を大切にするということは『あなたの文化を大切にしますから、私の文化も大切にしてください』」といふことではない――それではまるで他國の人に憐れみを乞うてゐるやうなものではないか。

自國の文化も他國の文化も對等である。どちらが上とか下とかいふのではない。他國を崇拜すればよいと云ふものではない。

文化に高低なし

天皇反對論者の方々は、日本の文化は憐れむべきもの、他國に比べて低劣なもので、大切にすべきではないと、さう思つてゐるのではないか。

右は、他所の國と比較して日本の文化は素晴らしいと言ふ。左は、他所の國と比較して日本の文化は劣つてゐると言ふ。しかし文化の高低なんて一概には云へませんし、云ふべきものでもありません。

日本の文化と天皇

私は國家が國民を支配するしないに興味はない。しかし國民はその國の文化に支配されることだけは間違ないと思ふ。誰も自分の母親を選べないのと一緒です。言替へれば文化は個人を越えた存在であり、どんな民主國家も文化にだけは手を出せない。

日本人の精神は神道の精神であり、天皇のやうな人上の人を戴かねばやつていけない精神です。「個人」の概念は、絶對者を必要とするから、日本に育たなかつたのは當然です。

だからと云つてやけのやんぱちになつて、天皇も何もいらないといふのは愚かです。何も支へるものがなければ、日本には個人の概念が定着する譯がない。寧ろ天皇を基礎において、日本人に合つた形で個人の概念を釀成するのが上策でせう。

私は日本人が獨創の才を持たないとは信じないし、天皇が國民を支配するとは國家が國民を支配することだとは思はない。逆に天皇を戴くことによつて日本に合つた形の民主主義が實現すると思ひます。

冗談でせう

> 自国の文化を認めよ、というのは当たり前の話。しかしそれと天皇を結びつけるのは馬鹿な話。民主主義と結びつけるのはもっとアホな話でしょう。貴方は法然、親鸞とつづく、鎌倉仏教の系譜をなんと見る?ノン宗教の人たちにNHKがかつてアンケートし、一番親しみを感じる宗教はどれか調査したら、神道をはるかに抜いて仏教だった。神道は日本人のエトスなんてのも捏造された神話でしょうね。

それあ、今の教育では佛教のことばかり教へて神道のことを教へないんだからねえ。しかしそんなにアンケートが好きなら、今の日本人の過半數が天皇の存在を認めてゐるといふアンケート結果もあつたやうに思ひますけど?

現行憲法は天皇を「國民統合の象徴」と云ふ形で民主主義の根本においてゐる。私はそれがうまくいつてゐるとは思はないから、もつとよい方法でやれと言つてゐるのです。

日本は特殊事例

「宗教の地理的分布、言語の地理的分布、食文化の地理的分布などはそれぞれ違った分布であり、またそれぞれがモザイク状に分布している。」と云ふ事は、確かに文化と云ふものが存在する證據です。境があらうがなからうが人は生きる限り樣式を持つ――それが文化と云ふものです。日本に於ける朝鮮人、アイヌ人は確かに文化を持つてゐます。

文化の境と國の境は違ふ――確かにさうですが、日本では略一致してゐます。ただ我々は日本人なのであるし、日本は日本人が大多數を占める國です。日本だけ特別扱ひして「自國の文化を守る」と云ふ言ひ方と「日本人の文化を守る」と云ふ事とをイコールで結んでしまつてよいと思ふのです。

もちろん在日朝鮮人やアイヌ人はそれぞれ文化を守ればよい。しかし一方、日本人も文化を守つてよい。「自國の文化」といふ言葉も單に言葉に過ぎません。

要するに文化は存在するし守るべきものだと言ひたいんです。

文化と國家と個人

>「人はまわりの文化環境に影響されて育つ」であれば納得がいく。影響は人それぞれであり、同じ環境に育つ人間など二人としていない(似た環境に育つ人間はいる)。

似てゐる事が重要。樣式も國民性も存在する。

>だから国家が文化に手を出すなといいたい。文化と国家は分離して考えなければならない。

國民が率先して文化を破壞しようとする時、國家がそれに齒止めをかけるのは當然。

>日本人の精神が全員同じとでも言いたいのかな?何度も言うけど「○○人は××だ」という概念は○○,××に何を代入しても間違った概念である。

この概念に、○○=「『○○人は××だ』という概念」、××=「○○,××に何を代入しても間違った概念。」を代入せられたい。自分で自分を否定する概念は無意味。

>意味不明。何故「個人」の概念に絶対者が必要なのか、理解に苦しむ。少なくとも、私は個人主義者であり、私に絶対者と呼べるモノは無い。

個人主義は西歐起源。西歐精神は絶對者を戴くキリスト教精神である。よつて個人主義には絶對者の概念が必須。

國民精神は存在する(嚴密病患者の病理・改題)

>誰がどんな文化を守ろうが個人の自由である。

それあ守りたいと思ふのは勝手でせう。だが日本人は日本語を喋らざるを得ない。

人は生れる所を選べないやうに、自分に影響を與へる文化をも選べない。知らず知らずのうちに樣式と云ふものを人は身につける。柔道とか梅干とか、そんな目に見えるものが文化と思つたら大間違ひです。

日本人の精神と云ふものはあります。その象徴が天皇であるのは自明の事です。(ただし憲法の云ふ「象徴」とは意味が違ふ)

>国民性は漠然としたもので勝手に定義できるものではない。具体的に定義すれば必ず例外が出る。

それを云つたら世の中から規則・原則はなくなります。例外はあれど、原則的に日本人はかう、と云ふ国民性は存在します。

>しかし、破壊ではなく維持放棄であれば話は別

文化に於ては「維持放棄=破壊」。文化は維持されなければ文化でない。

>>この概念に、○○ ### 人 ### =「『○○人は××だ』という概念」、××=「○○,××に何を代入しても間違った概念。」を代入せられたい。自分で自分を否定する概念は無意味。

### 人 ### を追加されたし。

>起源が何処にあろうと関係ない。多くの西欧人はキリスト教徒であることは事実だが「西歐精神は絶對者を戴くキリスト教精神である。」とは断言できない。一部の個人主義者には絶対者の概念が必須かもしれない。

起源も知らないで観念を無批判に受入れる事を理解と呼ばず、狂信と呼ぶ。

文化は選べない

人間は誰でも子供から大人になる。子供の頃の環境を選べないのだから、その時に受ける影響も選べない。人の生き方は子供の時に決る――その「人の生き方」が文化である。

能動的に動けるやうになるまでの人格形成期に人は必ず文化を受容する。宗教を選ぶ以前に、人の精神は完成される。いかなる宗教を選ぶにしても、それ以前に人の精神は環境によつて或宗教を獲得してゐる。

能動的に何を選ぶかは勝手だが、日本に生まれて日本に育つたからには日本的な或ものを確實に□□さんは獲得してゐる。そして人の精神は一度受容したものは決して拒絶し排斥する事はできない。

人は文化を選べない。

原則と云ふもの

例外は原則がある事が大前提――例外を認めると云ふのはそこに原則がある事を認める事に他ならない。

國民の一般化は不可能だと□□さんは云ふが、一概にさうではないと思ふ。國民性は存在すると思ふ。私は「一般化は不可能だ」と云ふ□□さんの主張にも例外があると言ひたいのです。「○○人という大人数を××と一言では言えない」と云ふ規則にも例外はあると言ひたいのです。

知識、理解、判斷

>>起源も知らないで観念を無批判に受入れる事を理解と呼ばず、狂信と呼ぶ。

>無批判であれば狂信である。人の意見を吟味するには意見の中身を見て判断するしかない。何処の誰の意見であるかは判断材料にならない。

□□さんは本當に「中身を見て判斷」してゐるか――個人主義は西歐起源である事を單に拒絶してゐはしまいか。個人主義と云ふ觀念を生んだ思考方法を□□さんは知つてゐるのか。そこまで理解しないで□□さんは個人主義を標榜してはゐまいか。

「人の意見を吟味」する際には、その人の思考方法まで吟味せねばなるまい。その思考方法がしばしば西歐的なものであるのになぜ氣附かないのか。

個人主義の発想にはその根柢に絶對者に對立する個人と云ふ觀念がある。絶對者に對立するからその個人が強力になる。さう考へていかないと、個人主義に於ける個人の理解は不可能である。

自明の事

>「伝統的なものは無条件に良いこと」→「天皇は日本人の伝統・誇りそのものである」→「天皇制を否定することは日本文化を否定すること」

右翼にとつてこれらは「自明の事」――と左翼は常に決めつけますね。でもそれは本當でせうか。

ちなみに私は

を言ひました。

――もしかして私がただ單に左翼の云ふところの「右翼」ではないといふ結論になるのでせうか。或は左翼が主張する右翼にとつての「自明の事」は嘘だと云ふ事なのでせうか。

要するに

議論しようにも、左翼の人は先入觀に支配されてゐるから、議論にならないと云ふ事です。

即ち、左翼の人にとつては

があらかじめ「自明の事」となつてゐるんです。

傳統に歸れと云ふ事

私はただ單に昔に歸れと言つてゐるのではありません。それあ今の方が昔より住みやすい。

ただ過去から現在には連綿として流れてゐる或ものがある――歴史と云ふものです。その「連綿として流れる歴史上の過去と現在を結びつけてゐるもの」が傳統といふ概念です。即ち途中に絶え間のない自然な變化が斷續的にあつて、過去が少しづつ變容して現在になつてゐると云ふ感覺です。

傳統的な文化と私が言ふのは、「確かに現在は過去が自然に變化してかうなつたのだ」と実感出來る文化であります。途中で過去の歴史一切をなかつたことにして、ゼロからやり直したら、そこには文化はなくなつてしまふ。 文化と傳統は一體です。或は現在に於て、「確かに過去があつたのだ」と實感出來るのが文化的な社會ではないかと云ふ事です。

以上、現在までの私の投稿をそのまま再録(一部てにをは等を修正、ただし文意は一切變へず)。大體一段落ついたところといつたところでせうか。それにしても私も執拗に書込みを續けてゐますね。

1999.7.11

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