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日本國憲法の問題點・2

前文

「前文」が現行憲法の「精神」或は基本原理を表したものとするのは常識となつてゐる。だがその中には、多くの矛盾と意味不明な語句と誤つた思想が盛込まれてゐる。またこれを日本國民の遵守すべき道徳と考へる者もゐるが、法律は「最低の道徳」と呼ばれることがあるにしても、根本的に法と道徳は別のものである。ましてやこの「前文」を「最高道徳」と見るのは氣違ひ沙汰である――果ては國民の義務を記したものだと考へる者さへゐるが、それは法と道徳のけぢめをつけない道徳破壞である。

國民主權・代表民主制・基本的人權尊重・平和主義・民定憲法の原則
日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成果と、わが國全土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
主語と述語を直結すると「日本國民はこの憲法を確定する」となる。だが、日本敗戰の昭和20年8月15日から憲法施行の昭和22年5月3日までの間に、日本國民は憲法に關して自發的な意見を一切表明してゐない。なにしろ日本は當時、獨立國でないのだから、自發的な發言は不可能であつた。ならば日本國民が「この憲法を確定する」ことは不可能であり、この前文は嘘をついてゐる事になる。また、「正當に選擧された」といふ文言が普通(非制限)選擧を指すものであるからには(第15條により明か)、當時の國會は「不當」なものであり、かかる「不當」な國會が現行憲法を「確定」することは、現行憲法の「精神」から見れば不可能である。なほ選擧用語として「正當」は不適切――「公正」が適当。「憲法を確定する」もこなれない日本語――「憲法を制定する」でよい。
そもそも國政は、国民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。
以上は民主主義の定義である。だが民主主義は國民が自發的に代表者を選び、自發的に選ばれた代表者による政府に權力を委託するものである。「自發的」といふことが大事なのである。だから「強制的」に國民をして民主主義を選ばしめることは、民主主義の精神からして認められないはずなのだが、現行憲法はその誤りを冒してゐる。なほ、この文章には主語述語の組が4セットも同時に押込まれてをり、惡文中の惡文である。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。
しかし民主主義が「人類普遍の原理」であるか否かは當時不明であつたし、いまだに不明である。ともかくも、民主主義を原理として現行憲法が成立してゐる譯だが、ならば少くとも現行憲法を根據に民主主義を擁護することは不可能だといふことは言へよう。それは自家撞着である――或は、民主主義が卵で憲法は雛にすぎない。なほ、もし本當に「人類普遍の原理」であるならば、現行憲法は絶対に正しいといふことになり、改正手續を定めた第96條は空文と化す譯で、憲法改訂は不可能となる。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔敕を排除する。
これを認めるとなると大日本帝國憲法が排除されるのは當然のことながら、ポツダム宣言受諾の詔敕も當然排除されることとなる。しかし日本國憲法が施行されたのはポツダム宣言の受諾が前提であるから、そこに齟齬が生じることとなる。さらに「人類普遍の原理」である現行憲法に「反する一切の憲法」を「排除する」のならば、合法的な改憲は不可能といふ事になる。だがもしそれを認めるのならば、大日本帝國憲法は「憲法発布勅語」の「ここ※ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム」といふ文言に基づき、永遠に改憲不可能であるといふ理論をも認めねばならなくなる。なほ「排除」も「否定」か「拒否」「拒絶」の方がよい。
恒久平和主義
日本國民は、恒久の平和を念願し、人間相互の關係を支配する崇高な理想を深く自覺するのであつて、
戰爭を終へたばかりの日本国で、「恒久の平和を念願」する國民ばかりであつたとは考へにくい。また「人間相互の關係を支配する崇高な理想」とは抽象的で具體的に何を指すのか全く不明である。
平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
「平和を愛する諸國民」が一體誰を指すのか不明瞭だが、これを「日本國民」を指すと考へれば自己滿足にすぎぬものになるし、日本以外の「諸國民」を指すと解すれば「御願ひだから攻込まないで下さい」といふ哀願の言葉を飾つただけといふ事になる。いづれにしても一國平和主義を目指すといふ「宣言」であるが、それは威張れたものではない。そもそも日本には「軍隊を持たぬ獨立國は考へられぬ」といふ思想の所有者がゐたのだから、日本國民が平和主義を「決意した」とは言へない。また、諸國民は平和を愛するものなのか。
われらは、平和を維持し、專制と隷從、壓迫と偏狹を地上から永遠に除去しようと努めてゐる國際社會に於て、
當時も今も、さういふ理想主義的國際社會は存在しない。直後に朝鮮戰爭が起きたのは、日本國憲法の「精神」を嘲笑ふかのやうである。ましてやその後、中東戰爭・ベトナム戰爭・灣岸戰爭・コソボ紛爭……と國同士の爭ひは絶える事がなく、平和は維持された事がないし、專制と隷従はソヴィエト・支那で續いたし、壓迫と偏狹は一掃されることなかくコソボでの紛爭を惹起こした。
名譽ある地位を占めたいと思ふ。
これは一國平和主義が名譽だと勘違ひした文言である。戰後の日本が戰爭忌避のために行つた「努力」が國際社會で名譽となつた事實はない。そもそも「占めたいと思ふ」などといふいぢけた表現を「名譽」といふ言葉に結びつけるのはをかしい。
國際政治道徳の遵守
われらは、全世界の國民が、ひとしく恐怖と缺乏から免かれ、平和のうちに生存する權利を有することを確認する。
日本語のこの文章を見ただけでは「缺乏」とは何なのかがわからない――英語の原文を見てはじめて「困窮」「窮乏」のことを言つてゐるのだとわかる。日本人の憲法が日本語では理解不能で、英語の原文を見ないと意味が判らないのでは困る。また日本國民が「總意」として全人類が平和を望んでゐることを當時「確認」した事はないし、recognizeの譯は「認める」が適當(新政權や外交關係に對して使ふ「承認する」といふ譯語では、ここに使ふのは不適切だらう)。
われらは、いづれの國家も、自國のことのみに專念して他國を無視してはならないのであつて、
一國平和主義を主張した前の文章と矛盾する。なほここで、「われらは、いづれの國家も、」といふ主語の言換へが行はれてゐる。「日本國民」を指したこれまでの文章の「われら」と、この文章の「われら」は指す對象が異なつてしまつてゐる――かかる一貫性を缺く文章を一般に惡文といふ。
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
「政治道徳」とは政治と道徳の二語か或はこれで一語なのか不明。
この法則に從ふことは、自國の主權を維持し、他國と對等關係に立たうとする各國の責務であると信ずる。
當時日本はアメリカと對等關係に立つてゐなかつた。また當然一國平和主義を主張する前の文章と矛盾する。
憲法の目的達成への誓ひ
日本國民は、國家の名譽にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
平和は全力をあげて達成するものではなく、何もしないことで達成されるものだから、この文言は誤り。「この崇高な理想と目的」とは美辭麗句でしかない。先に述べたやうに、前文は一國平和主義を主張したものであり、一國平和主義は決して「崇高な理想と目的」ではない。

「前文」に限らず現行憲法の各文言は「われらが」で始まるが、これは極めて拙い英文の飜譯である。譯し下ろした所と譯し上げたところ、生硬な表現とくだけた表現が混在し、意味が取りにくいばかりでなく、たどたどしい印象がある。その文體は、いはゆる惡譯のそれであり、砂を噛むやうな味はひしかない。憲法としての權威のかけらもないのだが、それをありがたがつて拜む連中の言語感覺を私は疑ふ。

參考文獻

1999.6.17

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