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田中康夫とカワード(憶病者)


2002・9・2
<長野県知事選>田中氏、得票総数の64%獲得 前回上回る
●長野知事選確定得票数
当822897 田中 康夫 =無前
 406559 長谷川敬子 =無新
  24261 市川  周 =無新
  15255 中川 暢三 =無新
   9061 三上 誠三 =無新
   2058 福井 富男 =無新
投票率73.78%(前回69.57%)。
田中康夫氏は得票率では前回(約49%)を上回った。



東京都知事選挙で石原慎太郎という三流小説家(by作家金井美恵子氏)が当選したのは、石原らしい狡猾で卑劣な作戦のためだった。これは、立候補者中、上位6名の得票数を見れば歴然である。すなわち、石原は166万余票を得たものの、2位以下の5人の合計は367万票に達し、石原の2倍以上になる。 これを24年前の都知事選挙と比較してみる。当時、美濃部亮吉と石原の対決の末に石原は敗れた。もし今回も石原と他の有力候補2人が対決したとすれば、票は反石原または非石原が石原票を凌駕しただろう。これを裏付ける数値が有権者の『信任度』である。これは棄権者を含む全有権者中の絶対得票率をいうが、これを見ると石原の場合17.5%にしかならない。評判がよくなかった前知事(青島幸男)の18.4%にも達し得ない。24年前は石原が敗れれたとはいえ、今回よりも高い29.4%であった。その24年間、石原の極右的体質や人間的な浅ましさに対する批判が強まり、人気が離れたせいだ。 それでも当選した石原の作戦は、立候補申請締切まで人の顔色をうかがって、他の有力候補5人が誰も特別な差がなくドングリの背比べであることを看破して漁夫の利を試みた結果なのだ。
信任度17%そこそこの男が、都知事として差別発言を繰り返し、隣国を挑発し、若者を食い物にするカジノ賭博を政策に掲げ、国士気取りの幼稚な言動で悦に入っているのである。
因みに田中康夫の全有権者に対する得票率(信任度)は約48%。



田中長野県知事の“哲学”……(2001/5/22)
「失うものがない、失ってもいい、傷ついてもいいというくらいの覚悟がなくてはいけない」
長野県の田中康夫知事は21日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で講演し、石原慎太郎・現都知事、青島幸男・前都知事、堂本暁子・千葉県知事をについて、「権力の座にいたいだけ」「憶病者だ」などとバッサリ切り捨てた。
講演後の質疑応答で、田中知事は、青島前都知事と石原都知事をどう見るかと問われ、「青島(前知事)はフィロソフィー(哲学)がない」と見切った。石原知事については「彼自身がカワード(憶病者)だから、失うものがあるから強い自分を演出している」と持論を展開。
堂本千葉県知事については「長野県の副知事になりたいと言っていたこともある。権力の座にいたい方。早晩、その真実が明らかになる」と“予言”までするノリノリぶり。

自身については「支持率は8割を超えている」「すべての生活を見せており、すべてリアル(現実)。これこそがしなやかな革命だ」と自信満々。



かの堀江謙一氏がヨットによる単独無寄港地球一周に新記録で成功したとき、石原慎太郎はこれをウソだと公言した。どこかにかくれていて、さも一周したかのように出てきて発表したというのである。さすがの堀江氏もこれには激怒していたが、これほどひどい名誉毀損(きそん)も珍しいだろう。小心な男の嫉妬として、これはまことに興味ある態であった。エベレストのときも、三浦雄一郎氏ら本当の冒険家たちに山麓まで仲間入りさせてもらっただけであった。本物と言われるスポーツマンや冒険家たちが冷笑する理由は十分あるのだ。
時間を経たあとで堀江氏の小型ヨットがホーン岬で大波に揉まれている写真が外国の貨物船によって撮影された写真が公開され、堀江氏の航海日記と撮影時の整合性が実証され、石原慎太郎は大恥をかいた。。
石原慎太郎はこのことについて訂正あるいは謝罪を行ったのだろうか。





慎太郎という子供と康夫という大人。

石原氏とゼネコン鹿島の関係は尋常ではないと言われる。
秋葉原駅前に所有していた青果市場跡地の土地を都に売却し、「ITセンター建設」を目的にゼネコン各社が入札。そして異常な安値で鹿島が落札したのである。田園調布にある石原氏の自宅は鹿島が建てた物だし鹿島の営業本部長は石原氏の選挙参謀を務めている。石原が提案しているカジノ構想も鹿島がお台場で密かに進めている計画である。
田中康夫ならこういう不透明なことをしただろうか?
田中康夫と石原慎太郎を比較する時、石原のめめしい姑息さが一層、際立つ。「カジノで産業振興を」と言い出した石原を「そこまで落ちぶれたくはない。」とある首長にモラルの片鱗すらない資質をたしなめられたが、田中康夫なら間違っても長野の地域振興のためにカジノをなどと言うことはないだろう。資本の使い走りと、市民の主体性に寄り添う確固たる政治姿勢。それこそ石原慎太郎が政治的力量において田中康夫の足元にも及ばないところなのである。



子供としての石原東京都知事の言動
▼ 「日本は世界一の防衛国家になったらいい。そして世界一優秀な戦闘機を作ってどんどん外国に売ったらいい」
▼「ああいう人(重度障害者)ってのは人格あるのかね。経済性ってことだけに触れないと思うけど、やっぱり永久に採算合わないだろうし、安楽死とか考える人もいるだろうね」
▼「(従軍慰安婦は)依然として貧乏しているから、これで少しでも金が入ればいいという思惑で、今度は肉体ではなしに自分の名誉を代償にして稼ごうとしているだけ」
▼「日本人だけが有色人種の中で唯一見事な近代国家を作った」
▼「天皇ははっきり元首にしたらいい」
▼「あの戦争は、やっぱり感動的だった」
▼「国家意識をかいた日本人の平和に対する夢想を醒ますために本当をいうと、北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込んでくれたらいいと思っている」
▼「人類の進歩のために、あの戦争は大いに意味があった」


2001−7−9
ところが、7日夜の前夜祭でのあいさつ後、報道陣に取り囲まれて、「公費出張でヨットレースに参加することに一部で批判が上がっている」との質問を受けた。
 すると、それまでのにこやかな表情が一変した都知事は、「どこにそんな声があるの。公費といっても、私は仕事で来てくれというから来た。あす一日いて、ついでにヨットに乗るのがどこが悪いんですか。人がせっかく花を添えようと思っているのに」などとご立腹。 大声で「帰ろう、帰ろう」と繰り返しながら足早に会場を後にした都知事は、その後の宮崎県関係者の説得も通じず、8日午前の飛行機で東京に戻ってしまった。



佐野眞一「石原慎太郎のすべて」より1部引用(月刊『現代』)
「、、1996年(平成八年)九月、慎太郎は母校稲穂小学校の百周年記念講演会に招かれて小樽を訪れた。このときの顛末は、今でも関係者の間で語り草となっている。
 前日、札幌で霊友会系の団体が主催する講演会をこなした慎太郎は、翌朝、高速で小樽に向かい、まず稲穂小学校時代の恩師の家を弔問した。 恩師宅を訪れた慎太郎は、家に入るなり、両脇、両肘と頭を床につけて合掌する五体投地の礼拝をして仏壇を激しく揺らせ、周囲を呆気にとらせた。
次に訪れた小樽文学館でも一悶着を起こしてまわりを困惑させた。
慎太郎はコーナ−に自分の著書が飾ってないといって、係員を怒鳴りつけ、これまで自分が寄贈した本を全部引きあげるといいだした。
そのあと慎太郎は新築された稲穂小学校に立ち寄り、石原裕次郎記念館に回ったが、ここでも機嫌は直らなかった。このとき慎太郎に随行した地元関係者の一人は、慎太郎がふと洩らした言葉をよく憶えている。
「弟は親父が死んで、おふくろが家計で苦労しているのに、何の思いやりもなく慶応高校なんてカネのかかるところへ行きやがって・‥…」
 この間係者は、その言葉を聞いて、裕次郎や石原軍団だけを持ちあげる小樽の空気が口火となって、元々慎太郎が内面に抱えていた弟・裕次郎への骨がらみのコンプレックスが、一気に爆発したような気がしたという。

、、、、、、、、
慎太郎の最大の集票団体は新興宗教団体の霊友会だった。霊友会は現在、二代目会長の久保継成問題に端を発した内紛騒動により、かつてほどの勢力はないが、慎太郎の立候補時は会員三百万人を超える大教団だった。慎太郎が最初に霊友会と接触するのは、サンケイ新開に連載(昭和四十年十月〜四十一年十二月)した「巷の神々」という新興宗教団体ルポの仕事を通じてだった。これが奇縁となって慎太郎と霊友会初代会長の小谷喜実の仲がとりもたれることになった。慎太郎がサンケイ新聞社主の水野成夫(故人)に立候補の挨拶に行くと、水野はその場で、義兄妹の契りを結んだ仲だという小谷喜美に会わせ、オレから彼女に二十万票くらいの集票を頼んでやると約束した。
 慎太郎選挙の裏参謀をつとめた山本氏によれば、このとき慎太郎陣営が集めた選挙資金は五億円は下らなかっただろうという。
「お茶の裏千家、お華の小原流、企業では鹿島建設、資生堂、それに新興宗教では霊友会から踊る宗教まで回ったからね。五億のうち、霊友会からは二億くらいは出たね。霊友会の本部には慎太郎さんと一緒にしょつちゆう行った。教祖の小谷っていうのはスゲえ女でね。挨拶に行くと、着物をゆすりながら、帯の奥から百万円の札束をほじくり出して、『ホラ持ってけ』っていうんだ。慎太郎さんは平身低頭して、それを両手で押しいただいていた」
 慎太郎は当選の翌年、小谷との対談をまとめた『対話 人間の原点』(サンケイ新聞社・昭和四十四年四月)という、書名をオカルト入門とした方がよさそうな本を出している。、、、、、大坪氏はその後、慎太郎の紹介で、霊友会系のPR誌「いんなあとりっぷ」の編集長になった。その大坪氏によれば、石原が参院選で獲得した三百万票のうち、百万票以上は霊友会開係の票ではなかったかという



「・・・・・・小説家としては三流以下だった都知事のお金に関する政策、外形標準課税は典型的なファシズムのやり口でしょうし、・・・・・・」 ( 『一冊の本』 2000年6月号の 「 『お金』 については語らない」 から) 金井美恵子


 
佐野眞一「石原慎太郎のすべて」より引用
1996年(平成八年)九月「、、、 海陽亭に響いた怒声
 夜は海陽亭での宴席が用意されていた。
慎太郎はその席に三十分以上も遅刻し、関係者をまたイライラさせた。
出席者の一人はいう。
 「みんな料理の上に布をかけてじっと待っていたのに、遅れてきて申し訳ない、という詫びの一言もなかった。それどころか、壇上にあがっての第一声は、『女将、よく聞けッ! うちの親父は日本郵船なんかじやないぞ。店の宣伝に使うのもいいかげんにしろッ!』という怒声でした。
海陽亭の廊下に、潔さんの宴会写真が展示してあって、そこに、日本郵船支店長時代の石原潔、という説明が書いてあったんです。
 こんなこともいってました。『第一親父は海陽亭に泊まったことなどない。一度、親父に着替えの下着を届けたときも、裏口に回れっていわれた。女将! 聞いているかッ』」やっと乾杯となり、一橋大学出身者で結成された小樽如水会の面々が挨拶に行くと、慎太郎は二ベもなくこう言い放って、またまた座を白けさせた。
 「いや、オレは一橋なんか問題にしていない。オレは本当は東大へ行こうと思っていたのに、親父が死んで、公認会計士とやらになって金儲けしなけりゃならなくなったから行っただけだ」
宴席には日本郵船の子会社の小樽支店長も出席していた。その支店長が、日本郵船時代は石原さんと一橋で同期だった人と机を並べていました、と挨拶に行くと、慎太郎はキッとなって、「あんたねえ、いま僕が壇の上で言った話、聞いてなかったのか。日本郵船、日本郵船っていつまでいってるんだい」と声を荒らげた
 そして支店長の名刺を見て、「この会社は何だい」と尋ねた。支店長が、「荷役会社です」と答えると、慎太郎は「それならそれで、人足会社っていぇばいいじやないか。ここに来てまで日本郵船をひけらかすなよ」と、相手のとどめを刺すようなことをいった。
 誰ひとりいい気持ちにさせない非寛容さと毒気ある物言いは、慎太郎のふだん見せるマチズモな言動とは裏腹の狭量さと、裕次郎への稚気といってもいい劣等感とは全然別種の、日本郵船に対する根深いコンプレックスが両々顔を覗かせている。
それはそのまま、エスタブリッシユメントの世界とはまったく無縁に、海陽亭の「ドンちゃん」として終わった潔に対する過剰なまでの美化へとつながってはいないだろうか。、、」




長野県知事選挙投票日前日。2002年8月31日午後7時。田中康夫の最後の集会が開かれた松本市中心街の広場、県西南部の木曾福島町からわざわざ特急で駆けつけた76歳の老人が言った言葉が週刊誌に掲載されている。
「田中さんは精神障害者家族会に門戸を開いてくれた。私たちを県庁に招いて3,4回も話を聞いてくれる優しいいたわりのある人。」5回も地元に来て労を惜しまない、、。この国の主権者は国民であり、常に弱者に寄り添うという「日本国憲法」の精神を田中康夫は重く自覚しているのだろう。


「天皇の逃亡先松代防空壕建設による住民の強制退去」
1945年(昭和20年)4月3日午前9時、長野市松代、西条国民学校、作法室。西条村の一家の責任者130名が急に呼び出された。村長と助役の案内で二名の日本皇軍将校と主計官が入って来た。一同に礼もせず将校の一人加藤幸夫少佐が立ち上がりいきなり言った。「本日は天皇陛下の命により、皆さんにお願いに上がった。役所の担当者から後で発表されるが、その人たちは早い者は1週間以内に、残りの者は4月30日までに家財をまとめて家を開けて立ち退いてもらいたい。理由は軍の秘密事項に属するので言えないが、皆さんの財産は軍が買い上げることとなった。以上終り。」と言って退場してしまった。
悔しさと怒りと戸惑いに一同ただ呆然と、立ち尽くしていた。

国民・県民こそがこの国の主権者であるということを徹底させなかった結果である。




September 16, 2002
「TIME」
People Power
As Koizumi falters, Japan's 'weirdo' governors have their day
BY ALEX KERR
No one should underestimate the long memories and dogged persistence of the bureaucrats either. Public resistance to the Yoshino dam project in Tokushima forced the River Bureau to "table" it. The bureau did not officially cancel the project, keeping the option of pursuing it later. A bureau spokesman commented that a blank page should not be allowed to appear in his ministry's history dating back to the Meiji periodinstitutional memory going back more than a century.



本多勝一編集『月刊あれこれ』4月号から1部引用

石原珍太郎からの解答=松崎菊也
、、、、ジユンちゃんには失望したね。特殊法人改革、赤字国債30兆円枠を守る、ひとつも守れないじゃないの。
それを「公約守れなかったことぐらい大した問題じゃない」なんて、行政のトップが言っちやダメでしょ。
 その点私を見なさいよ。
 大手銀行への外形標準課税ね。横田基地を民間使用ね。ディーゼル車の締め出しね。ひとつもまともにやってないよ。
 でも安心してもらいたいね。都民がアッと驚くこと、今まで誰ひとり手をつけなかったことやりますよ。
「外形標準課税を銀行に返す」
…・さすがにこれは誰もやったことないだろ。ザマミロってんだよ。私に比べたらね。ジユンちやんの公約違反なんか大した問題じゃないんだよ。、、、、
親衛隊っていうと取り巻きみたいで聞こえが悪いから「石原軍団」って名前にしてね。全員に私を首領サマって呼ばせるよ。ぐすぐす反対するやつは全部監獄にぶち込みゃいいんだよ。そのために監獄を増やすんだから。、、、、、
 そいからね、諸君ら知らないだろうから言っときますけどね。私やまばたきが多いもんだから、世の中半分も見えてないんだよ。





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