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徐庶元直

姓は徐、名は庶、字は元直、穎川郡の人。元の名は、徐福といった。

若かりし頃

若いころから義侠心が強かったといわれている。「撃剣の使い手だった」が、 人に請われて敵を討ったということで刑吏に捕まってしまい、友人によって逃がされることとなる。 そこで徐庶と改名した。また、武より文を好むようになったという。

徐庶のわずかな表舞台

江南に戦いが起こりはじめたので荊州に移り、そこで諸葛亮と出会い親交を結ぶ。 後に新野の劉備玄徳に仕え、有能な幕僚を探す劉備に諸葛亮を推挙する。

演義では・・・

三国志演義では、徐庶は魏にいった後に献策をしなかったといっている。 劉備への忠誠があるが故に描かれているのおもわれる。そんなところに魅せられる。

こんな場面も

赤壁の戦いは、ホウ統の連環の計、黄蓋の苦肉の策、呉の火攻めなどにより魏は敗北に終わる。
しかしここで魏の陣営に徐庶がいたという話がある。ホウ統の連環の計は魏の大敗をもたらすことを 徐庶は悟った。そこでホウ統に相談し、どのようにしてこの危険を回避するかを聞いた。 その時の状況をよく見た適切な助言に徐庶はどうして気付かなかったのかというのである。 かの名軍師諸葛亮が一目置く男としては、少し見劣りしてしまう。

どうすれば活躍を見れる?

徐庶のファンも少なからずいると思う。しかし中には、途中から名前が出てこなくなってしまうことに、 不満を持っている人も少なからずいると思う。そんな人には、全く違う話になっている“超三国志” “反三国志”などがいいはず。 大体のあらすじは、徐庶の母が程cの計略で捕らえられているのを救い出し、諸葛亮・ホウ統・徐庶の 三軍師に五虎将軍が暴れまくり、三国を統一してしまうというもの。諸葛亮が終盤になって死ぬが、 その後の軍事を任されるのが徐庶である。


趙雲子龍

姓は趙、名は雲、字は子龍、常山郡真定県の人。身の丈八尺(約184cm 一尺=約23cm)、姿や顔はとても良かった と言う。

劉備との出会い

蜀の五虎将軍の一人として有名だが、もとは公孫サンの配下であった。それと同じ頃劉備は 公孫サンに身を寄せていて、田楷の支援のために劉備が派遣されるとき、その主騎として趙雲が従った。 それが始めの出会いといわれている。

望蜀

蜀平定にあっては、諸葛亮が救援に駆けつけるときに張飛とともに従った。それまでは荊州にあった。 余談ではあるが、孫権の妹で劉備の妻である孫夫人にわがままをいわれていたのは、これより前のことである。 さて、江州に援軍がたっすると、趙雲は別ルートで江陽に上り、本隊と成都で落ち合い包囲をした。 そして見事に蜀を手に入れた。

戦友の死

219年孫権が荊州に攻め入って、関羽を殺した。これにはもちろん劉備は怒った。 そして孫権を討とうとして、出兵しようとする。誰もが無謀であると思ったが、発言できなかった。 しかしここで一人発言したものがいた。趙雲であった。 「国賊は曹操であって孫権ではありません。魏を滅ぼせば自ずと呉は滅びるでしょう。」
尤もな発言であったが、劉備の怒りは収まらなく、出兵となる。 その出兵の準備にあたって、張飛が范彊・張達に寝首を掻かれる。 蜀の五虎将軍あとの二人、黄忠と馬超はそれぞれ220年、222年に亡くなり、趙雲一人が残る。 更に劉備が223年に白帝城で最期を迎え、蜀は短い間に柱といえる人物を亡くしたいった。

嗚呼趙雲子龍

223年に中護軍・征南将軍となり、永昌亭侯に封じられる。更に後には、征東将軍になった。 228年諸葛亮とともに魏へ出兵。この戦いで趙雲は、ケ芝とともに陽動作戦を行う。 諸葛亮は斜谷街道を二人に攻めさせる体勢を装い、自らは祁山へと攻める。 趙雲とケ芝はおとりだったため少勢であった。魏は大軍であったために当然負けた。 しかしながら持ち前の統率力で軍兵をまとめ、大敗には至らなかった。しかし敗戦の責任で鎮軍将軍に降格。 諸葛亮のミスではあったと思われるが、軍律の上では当然のことだった。
この翌年、趙雲は逝去した。謚は順平侯。謚については、姜維らがつけたといわれている。 趙雲の死を聞いた諸葛亮は、片腕を取られたようだといったと言う。


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