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死生観について


掲示板で友達のゆうが意見をくれました。
前からσ(⌒ー⌒) が触れたかったテーマです。
良かったら読んでね。


...2001/06/22(Fri) 15:07:20
(ゆうからの書き込み)
今のまま一緒に仲良くいつまでもいたいよね。
いつも思うけど死ぬことがどうして漠然と“こわい”って
認識されているのかな。
わかんないからっていう理由のほかにも、
死に関して教えてくれる人もなく
学校で学ぶわけでもなく、“自然なこと”なんだっていう
教育が足りていないような…。
父親を亡くして16年経つけどまだあのときの泣き顔の
子供のまま。
“こわい”は、逝く人というよりも残された人の意識?

あのときに誰かが教えてくれた、
“人の一生は向こうではほんの2,3日。
その間に起こるいろんな事もほんの夢のようなもの。
大丈夫。すぐに会えるよって。”
(一部抜粋です)


ゆうへ
カキコありがとう。
旦那様を見てると(注意:ゆうの旦那様は慢性骨髄性白血病です)
不安でたまらないよね。
レスにはならないかもしれないけど
ちょっと考えてる事を書いてみますね。(*・_・*)ゞ

私もなんでもわかってないと不安が何倍にもなってしまうから
気持ちはよくわかります。うん。
たしかに日本って宗教色強い民族のわりに
死に対する教育は遅れているのかもしれないです。
死後がわからないのももちろんそうだし
その民族性の宗教色が薄れてきているのもあると思う。

そして何よりも
病院で死んでいく事がその1つの要因だよね。
昔は自分の家で畳の上でもっと以前は土の上で息絶えて
その直前の苦しみや命が消えていく瞬間を目の当たりにできてきたよね。
病院で死ぬ時は最後の最後まで病院によっては
ほとんどの救命処置を家族には見せないで行います。
私が勤務していた小児科でもそうだった。
家族なら誰もが願いこの目で最期を見届けたい
最期にその手のぬくもりを一人で逝かせないようにしてあげたい
我が子の側に家族の側にいてあげたい。
見守り残されゆく家族はそう願います。
そして密室の中で最後の時は過ぎ生まれてくる時も一人なら
逝く時も一人。
逝きゆく瞬間を供にできない医療になっている。
今はホスピスなんかでも導入されてるけど
「自然に逝く。」
その形はなかなか巡り合えません。

私は看護婦していたせいもあるけど
家族は最期は自分の膝の上で看取りたいです。
抱きしめて安心させて逝かせてあげたい。
ずっと手を繋いで身体に触れて
自分の子供たちにもその「死」の瞬間を
見せてやりたいし何かを感じさせてあげたいです。

怖いという感情はゆうの言うとおりに
「わからないから」「見えないから」「聞こえないから」
全てが未知で経験した事がないからなのかもしれません。
私も怖い。
何に自分はこんなに怯えるんだろうって思います。
記憶の中で生きていたい。
とか
また生まれ変わってくるから大丈夫。
とか
いろいろな感情が交錯します。
それはそれは俗っぽい感情です。(笑)

人間は生きた証に子供を残す
生まれてくるのは子孫を残すため。
そう私に教えてくれた人がいました。
でもそれはきっと違うよね。
生物の輪廻と自然の摂理からすれば
当然なのかもしれない。
動物の中では確固たる掟だしね。

けど

私の考えは
「どう死んでいくか。」
そこです。
生き様はそれぞれでその人次第。
だから私はここでこうしてる。
誰にも看取られなくても
私がいた。生きてた。
死んでいった。
その事実。
それでいいかなって思ってる。

生き方が誰にも恥じることなく
精一杯できたなら
「じゃあまたね♪」って逝けるよね。
私を知ってる人の記憶の中で忘却の彼方に行くのも
ずっと心の染みのように残っているのも
それが私の死なんだと思ってる。


時間を一緒に過ごせることが
生の時を刻むなら
今を深く刻みたい。
私らしく。
前を見て。





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