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スポーツと金について

(12/14)


大リーグの選手の年俸沸騰が話題になってる。先日もアレックスロドリゲスが天文学的な数字で移籍して話題になった。これはどうなのか。僕は一人のファンとしてファンの立場から言うと、こういう金中心の産業と化したスポーツ産業が嫌いである。昔からありとあらゆるスポーツが好きな僕だが、個人スポーツならともかく、団体スポーツはやはりチームを応援していた。個人スポーツというと、テニスやゴルフ、日本なら柔道、剣道、マラソンなどがあるが、やはりビジネスとなるのは団体スポーツである。アメリカの4大スポーツである野球、アメフト、ホッケー、バスケット、それに世界的に人気なサッカーが加わる。莫大な金が動いているのはこの世界である。僕はセントルイスにいたために大リーグならカージナルスファンだったし、ホッケーのブルースは大ファンだった。ラムズがセントルイスに移転してからは非常に弱いながら頑張って応援してきた。セントルイスはNBAのチームを持っていなかったから、今でもバスケットにはまるで興味がない。しかし、そんな好きだった3チームも今注目するのはせいぜいラムズだけになった。弱かったラムズが強くなったからではない。もちろんいきなり強くなったラムズは前にも増して応援しているが、弱い時代から頑張り続けているWRアイザック・ブルースなどの選手がいるからである。アメフトはまだ選手の流動が少ない。アメフトは何年もかけてじっくりチームを作っていく。もちろん僕が好きになったころに比べると半分以上は変わっている。それでも毎年ちょっとづつ変わっているのであり、変化についていけている。アメフトにはそういう選手が多い。スターでいうとダン・マリーノは引退するまでドルフィンズにいたし、ブロンコスのジョン・エルウェイ、ビルズのジム・ケリーもそうだった。今でもパッカーズのブレット・ファーブはパッカーズ一筋に投げ続けているし、カウボーイズのエイクマンもダラスの顔となっている。そういのが好ましい。ところが野球は選手の年俸がどんどんあがり、ヘッドハンティングのようにどんどん金で選手を集めてくる。そして使えなくなったらすぐに放り出す。日本のどこかの球団もそうだが、これではチームを応援していても、次から次へと選手が変わってしまい、チームそのものに愛着が出ない。僕にとっては何も勝つだけがいいことではない。勝ち方にこだわる。それまで応援していた選手たちが頑張って勝っていくのが見たい。ホッケーも同じだ。セントルイスブルースは大好きだった頃に比べ、選手は全員入れ替わった。大スターであり、ブルースの顔だったブレット・ハルを簡単に放出してしまい、鳴り物入りで移籍したホッケー界の至宝ウェイン・グレツキーはわずか半年でチームを去った。グレツキーが来るといって街中が騒ぎ、子供から大人までグレツキーの名前が入ったユニホームが流行った。それから半年たったらグレツキーは敵になってしまった。移籍したあとにグレツキーシャツを着ていた人を見ると寂しくなったものだ。限定販売のようなものだったから、20年も経ったら価値が出るかもしれない。しかしファンにとっては嬉しくもない。しょっちゅうチームの顔が変わる。選手はいい条件があるとすぐに流れる。これでは愛着が持てない。おまけに大リーグはストをして結局シーズンの半分がなくなった。これは本末転倒ではないか?ファンに見てもらって金をもらうはずなのに、金が欲しくてプレーをしないとは。サービス精神が足りないと思うが、これがアメリカだと思った。スポーツ選手に限らずサービス精神はあまりない。金と個人主義だから、自分が儲かればいいと思っている。高額の移籍は商品の売りこみと同じ。思えば、スポーツ選手というのは特に高額をもらっている選手はかなりの責任感があるはずである。ストなどはもってのほか、と思う。また、成績が悪くてもファンが次は頑張れよと応援するなら、頑張るべきだろう。その点もアメリカは非情にも解雇したりする。ビジネスが中心だからだが、人情を持って見ているファンはどうかな、とも思う。

そのうち、チームに魅力がなくなって、選手を追うようになるが、それでは団体競技の面白さが薄らいでしまう。アメリカは個人競技だけやっているほうが文化にあっているのではないかな、と思う。個人主義の国のくせにテニス選手などにそれほど注目が集まっていない。そういう矛盾したところがある。日本のように「おらが村」精神が強い土壌で地域に密着したチームより全国区の巨人にやたらと注目がいくもの矛盾しているといえばそうかもしれない。

スポーツが金中心であることで一番不満なのはテレビ中継である。アメリカはそういうところでは「むらが村」精神があって、地元のチームが弱かろうがテレビ中継をする。セントルイス以外の場所にいると優勝争いしているラムズ以外の試合は見られないが、セントルイスにいたら、地元のチームの試合は必ず見れる。ところがこれもやはり金中心である。一番謙虚な例はアメリカ国内のオリンピック中継だろう。アトランタオリンピックからそれが露骨になった。アメリカが必ず勝つ競技しか中継しない。つまり注目度が高い競技以外は無視だ。僕は住んでいるセントルイスと同じ国で開かれているオリンピック競技をまるで見れなかった。見れたのは水泳、体操、それにバスケットくらいである。それもアメリカ人が出るところしか見せてくれない。日本を始め、世界中で見ることが出来たサッカーを、開催国のテレビを見ていた僕はまるで見ることが出来なかった。シドニーではもっと露骨になった。時差があり、視聴率が見こめないという理由から放送は全て録画。それもやはりアメリカ人が活躍する競技だけに終わった。隣国のカナダのテレビが全競技を生で放送していたことから、カナダのテレビを受信できる国境近くの町ではアメリカの放送はまるで見られていなかった。当たり前だろう。アメリカの放送は完全なビジネスだった。NBCの独占である。つまり放映権をNBCが買ったため、それ以外の局はテレビ放送できない。NBCが儲からないと思って省いてしまったら、アメリカでは見ることができない。ちなみにニューヨークにはテレビジャパンというNHKを生で放送しているケーブルがある。NBCの独占に嫌気がさしていた僕はこれなら日本人が出る競技も見れるだろうと期待していたが、テレビジャパンもアメリカの放映権の中で放送しているものであり、オリンピックの放映権を持つNBCに承認を得ず勝手に放送できないということで結局見ることができなかった。日本でNHKがオリンピックの放送をしているとき、テレビジャパンは特別番組を流していた。僕に言わせて見ると、アメリカは視聴者を小馬鹿にしている。視聴者に権利はない。アメリカは不自由の国であり、どこかメディア王国なのかと疑う。こんな国はアメリカだけではないか。僕がヨーロッパ、いや中国などにいたとしてもほとんどの競技は見れたはずだ。シドニーオリンピックではアメリカ人が一番関心がなかった。それもそのはずである。放送する側は見せるサービスをしていない。仮にアメリカ人にだけスポットを当てたいなら、その枠だけ保持すればいいだろう。そして放送する予定のない競技は他の局に振り分ければ視聴者は見ることができる。しかし現実は独占であり、これはサービスとは違う。自由の国というが、これは見る自由ではなく、放送する自由となっている。例えば、年末の紅白歌合戦に当てはめてみたらどうか。NHKがポップ歌手のほうが視聴率があがるからと言って全部ポップ歌手にしたらどうか。演歌も聞きたい人もいるし、歌謡曲も聞きたい人も大勢いる。しかし、結局そのようなものである。さらに例えてみたいが、ある街にラーメン屋が一軒だけあり、そのラーメン屋で醤油ラーメンが一番売れるからと言ってメニューを醤油ラーメンだけにしたらどうだろう。たまには味噌ラーメンも食べたくなるが、客に自由はない。ずっと醤油ラーメンを食べなければいけない。そしてその店は「自由の店」だと言う。こういう社会は好きになれないだろう。

同じような話で長野オリンピックがある。コカコーラとマクドナルドが金でオフィシャルスポンサーになったから、客は寒い中コーラしか飲めず、せっかく長野に来てそばが食べられずハンバーガーを食べなければいけなかった。競技場近くにあった自販機は大会開催中に止められてしまうほど徹底していた。ほとんどの日本人は呆れてしまうだろう。オリンピックに限らず、アメリカはそういう社会である。そんな中から「いいもの」は生まれてこない。粗悪なものでも、まずいものでも金を出して独占してしまえば客は買わざるを得ない。スポーツでも同じだと思う。このまま金が幅を利かせば、感動は間違いなく減るはずだ。年俸の安い若手がいいプレーを見せても、金を出してとってきた選手に代わられる。

アメリカだけではない。日本でもJリーグの試合は儲からないと言ってテレビ放送をしてくれない。僕の地元の名古屋でもグランパスを試合をテレビで見ることができない。せっかくサッカー人気が上がってきて気分が乗っているのに、Jリーグの試合はほとんどテレビで見れない。日本代表の試合は異常な注目を浴びるが、Jリーグの試合を放送しないからサッカー好きは残念だ。名古屋では中日の試合は大体見れるが、巨人の試合と違うのは延長がないことである。9時になると中日の試合放送は終わる。おおよその試合は9時移行までもつれるから、最後は尻切れとんぼだ。その中途半端さが嫌である。最初から3時間の枠を設ければいいのに、儲からないから途中で終わる。巨人戦はその点延長して見れる。以前、三重県の祖父母の家に行ったときに地元の三重テレビで高校野球の三重県大会の2回戦を放送していた。実に地元に密着したものである。そんなに注目度はあるまい。しかし地元だから放送するというところに粋を感じた。こういう良さは都会に行くほどなくなるものだろう。スポーツファンとしては悲しいことだ。

今回はあまり理にかなったことは言っていない。実に個人的な愚痴で終わった。しかしやはりスポーツの感動や良さが金でコントロールされるのは面白くない限りだ。ケチらず、セコセコと金勘定せずに見せてくれ。放送業界の人に一度言いたい言葉である。

ちょっと付けたしたい。金とは関係ないが、スポーツの試合に芸能人などをゲストとして置くのはやめてもらいたい。以前女子バレーのワールドカップにモーニング娘がゲストとして来ていた。バラエティー番組じゃあるまいし、感動が薄れる。そもそもゲストを呼ぶというのは選手に対して失礼ではないのか。日本のスポーツ放送に必ずいる解説者というのも好きではない。アナウンサーがある程度解説できればいいのではないか。アナウンサーには競技がわからないというのならそういう者がアナウンスしていることが失礼ではないか。スポーツの試合は選手が全て。わかりにくい場合にのみ簡単なアナウンスがあればいいだろう。ルールがわからない人はルールを覚えてから試合を見ればいいだけだ。これはテレビの前身がラジオだったことを引きずっているからなのかは知らないが、無駄なゲストや解説者は不要、アナウンサーは熟知した人が軽く解説をしていけばいいのではないかと、ファンとしてはそう思わざるを得ない。

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