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若者言葉について

(12/15)


若者言葉は日本の文化のような気がする。どこが日本の文化だと思う人も沢山いるだろう。これら の言葉は日本語の破壊に思える人もいるだろう。若者の立場から言わせてもらえば、これは上の世 代のヒガミに聞こえなくもない。最も一部の若者は落胆したくなるほど堕落していると言ってもい いと思う。これは若者だけに責任があるわけでなく、時代の移り変わりにより社会構造や教育シス テムに欠点が出てきた上で起こるものと思う。ならばそのようなシステムを放置しておき、時代に 乗りきれなかった上の世代にも大きな責任があると思うが、なすりつけるばかりでは問題が解決し ないし、キリがない。僕が言いたいのは物事には何にでも多面性があり、若者のその生活スタイル や考え方が堕落しているとしても、その反面若者言葉という優れたものも生み出しているのである。 同じように戦前の世代は例えば字がものすごく上手い。字が下手な御老人は皆無だろう。皇国史観 が駄目だったとしても、今の世代がとても理解できない濃い日本文化も多く学んでいるからそれは それでプラスになっている。どんなことでも日本人は何かすごいものを生み出してしまうと思う。 これは日本という長い歴史の中で培っていた文化がちゃんと残っているからだと思う。その中には 世界に匹敵するものが数多くある。

戦中のあれだけ団結した日本人はすごいと思う。全体主義とは言っても上からのコントロールであ ったナチズムやファシズムとは違うと思う。僕はどちらかと言えば、武家にあった忠誠心に近いも のと思う。天皇がいる日本は一致団結できるのである。その精神は消えない。戦後の世代の勤勉さ も日本の文化だろう。自分勝手に物事を考える個人主義の文化では国民全体が勤勉になることはな い。このようなバックグラウンドがなければ、システムだけ真似しても日本のように高度成長はし ない。そして明治では進んで外来文化を取り込んでいる。神道という確固たるバックボーンがあり、 中国文化も仏教も取りこんで機能させてしまうのが日本の文化だ。つまり文化融合ができる民族で あるために新しいものが入ってきても取りこめる。これは日本人から見ると当たり前だが、世界中 の文化は「取りこめる」ではなく「取って変わる」。新しいものが入ると古いものに取って代わる。 融合できる日本人はつまりは過去を残すことができる。これが日本文化の豊さだと思う。さて、若 者言葉というのは言葉、つまり日本語に目をつけたことである。上に挙げた優秀な文化遺産の中で も日本語はベスト3に入る文化遺産だと思う。

若者言葉というのは単純に言えば造語だ。次から次へと言葉を作ることができる。例えば英語だと そうはいかない。英語は欧州語の中でも造語機能が比較的低い言語である。同じく中国語などもこ れほど造語は出来ないだろう。この多彩な機能を持つ日本語に目をつけたのが若者言葉と思う。

若者はよく長い言葉を略する。それは外来語でも日本語でもなんでもできる。これも日本語の武器 の一つだ。最低限に理解できる程度までどんどん言葉を短縮する。これは物をどんどんコンパクト 化できる日本製品とも関係があると思う。文化的なバックグラウンドは同じだ。日本人のほとんど が基本的な英語が解るが、英語を話すときにやたらと説明的だと思うのは僕だけではないはず。主 語が必ず要るし、同じ語を何回も言わなければいけない。英語に比べると日本語はよっぽど経済的 な言葉だ。アクセントも最低限でよいし、大きく口を開けて話す必要もない。極端な例では日本語 はタバコをくわえていても会話できる。タバコをくわえたまま英語を話そうとしたらどうか。まず 通じない。それも日本語が母国語である日本人だからなんとか英語でも言える。アメリカ人なら必 ずタバコは落ちる。よく外国人から日本人は無表情だと馬鹿にされるが、無表情でも気持ちが伝え られるほど言語的に発達しているとは言えないだろうか。物事の程度を語れる語彙も非常に多い。 語彙によって程度が伝えられるから、大げさなアクションを持って話さなくてもいいのである。こ れが80年間続けば、日本語と英語、どちらが無駄なエネルギーを使っているかはっきりするだろ う。失礼な話だとは思うが、アメリカ人の中年女性は明らかに老けて見える。あれだけ顔を動かし て言葉を話していれば皺も増えるだろう。アクセントも少ないから、小声でも十分足りる。アクセ ントが言語を左右すると言ってもいい中国語を話す中国人はとても声が大きい。声が大きいと感情 的になりやすいと思うので、日本語は平和的に発達した言葉である。

話が逸れがちになっているが、略して話せるというのは発達した言葉と言えると思う。それを若者 はどんどん発達させていく。日本語でも形式的な言葉は音数が多いから、短縮することにこだわっ ている(?)若者がそれを不得手とするのも筋が通る。文を長くすることで情緒を持たせるのも、 短縮することによって経済的な言語にしてゆくのも、どちらも日本語のよいところだと思う。例え ばコンビニという言葉が定着した。コンビニエンスストアと言うより遥かに音数が少なく、日本語 で響きがいい4文字にまとめた。5・7・5が聞こえがいいように、若者言葉というのはとことん 3音4音でまとめる。音は大切だ。あとはセンスの勝負となる。

マクドナルドについて考えてみたい。原語はMcDonald's。これを日本語でマクドナルドとした。原 語の発音に忠実ならば、マッダッーナウズとでも置くべきだが、開音節で話す標準日本語で「ッ」 などは省略され、全て母音で置いた。マクドナルドは6文字だから、日本語として見ると長い。ど こかに点を置いて話さないといけない。3音3音とするのが理想だから、マクド・ナルドと発音す る。関西でマクドと略すのはここから来ていると思うが、同時に関西の特徴が表れている。関西は 明らかに開音語である。東京と比べてはっきりするのは「ウ」の発音だ。東京は「ク」を「K」で 話せる。これに対して関西では「ク」は「クー」だ。明らかに「U」を発音している。だから東京 ではマックと略せる。関西でマックと言うなら、マックーになるから、マクドのほうがすっきりし ているのである。これは造語である。原音からは全くかけはなれた言葉になってしまっている。僕 はアメリカに居ても「マクドに行こか?」というが、正直アメリカのマクドナルドをマクドという のは違和感がある。これはやはりマクド(またはマック)とは、日本人が日本にあるマクドナルド を表すために作った造語だからだろう。ちなみに若者言葉はこれで満足などしない。マックが定着 すると、それに関する言葉も作ってしまう。マックに行く人はマッカーである。マックに朝食を食 べいくのは「朝マックする」である。単に略すだけならいつの時代の日本人もやっている。略した 後にさらに造語を重ねるのが若者の知恵と言えるのではないか。

若者言葉を認めない人は恐らく略すことが行きすぎるとわけがわからない、または元の言葉のよさ を消してしまっていると思うのだろう。僕が思うに言葉は通じればよい。若者言葉はコミュニケー ションの言葉で、口語から脱してはいない。誰も文語にするべきだとは言わない。元の言葉は文で 表し、喋るときは出来る限り経済的に話す。これがモットーとなっている。意味がわからないとき は聞きあって伝えていく。これもコミュニケーションとなる。「そんなこと私はわからない」と言 うのは、例えば大学の講義で英語も用いて説明する教授と同じではないか。「このパートのストラ クチャーはこのようなファンクションがある」、どちらが日本語を残しているか。少なくとも日本 語で勝負している若者言葉のほうが個人的に好きである。言語は感覚で分かり合うこともあるだろう。

フランス語、を大学生はフラ語と略す。これも5文字より3文字のほうが語呂がいいからだろう。 上の世代はなかなか出てこない発想だと思う。ベルギーの北部をフランダースと言い、オランダ語 の方言であるフラン語もあるから、適切ではないというは筋違いだ。言葉は感覚である。普通は、 というところにケチをつけてはいけない。英語に置き換えフレンチと言うのは安直な発想だろう。 まあ、わざわざフランス語でラフランセと言う人はいないだろうが、フレンチと呼ぶのは英語の知 識をひけらかすだけで、日本語として考えたらフレンチという4文字よりフラ語という3文字のほ うがしっくりくるのである。日本語として考えたら仏語とも言える。こちらでもよいと思うが、多 分「ツ」が入るより、「ラ」のほうが話しやすい。略するだけなら経済的ではない。略すことによ って話しやすくしなければいけない。カラオケに行くことは「オケる」であるが、「カラる」とし ないのは話しやすさを考えているからである。それでいて解り難くしていない。初め2文字が使え なかったら後ろの2文字を取る。このような発想も日本語的と言えるだろう。

造語機能をフルに使っているということで僕は認めているが、ただ若者言葉で関心しないのは口癖 である。無理に敬語を使おうとして、知識のないまま誤用してしまうことである。一般に言われて いる「スカ語」、なんでも語尾に「すか」をつけることである。食べていいースカッ?若者の間で は上下の関係が狭いほどこれが敬語のようなものとして通用している。造語を創造するのはよいこ とだと思うが、敬語はしっかり覚えておくべきである。タメ口、という言葉が流行っている。これ は敬語を避ける口実ではないかと思う。敬語は敬語として独立しているわけではない。敬語を含め て日本語なのであって、敬語がわからないというのはきちんとした日本語を使用できないというこ とである。僕が思うに、敬語にある3通りの使用法のうち、丁寧語のみが敬語と勘違いされている のではないか。謙譲語と尊敬語いう一人称ニ人称をわきまえなければいけないはずが、丁寧語とい う三人称的な表現になってしまっている。これでは敬意を示せないことになる。また、最近は「サ」 の多用があるという。やらせていただきます、が、やらサせていただきます。これは能動態が受動 態になったと分析されている。上からの命令で動きます、という意志表示だという。この使い方も 上手く使っているというな、という見方も出来なくはないが、やはり敬語をしっかりと使うべきだ ろう。とは言うものの、テレビの料理番組で聞く「お食べになって」などというおかしな使いかた を耳にする限り、若者の敬語下手を直していくのは難しいだろう。若者が敬語を使えなくなったと いうのは上の世代からきちんと教えてもらっていないということも言える。

日本語は時代によって言葉が変わっていく。時代劇などはどんどん現代語に近くしているらしい。 余談だが、現在大河ドラマ「葵・徳川三代」の脚本を書いているジェームズ三木は数年前に同じく 「独眼竜政宗」の脚本も書いたが、言葉はあまり変えていないらしい。しかし、政宗のときに比べ、 今回は言葉が難しくてわからないという意見が多く聞かれると嘆いていた。ここ数年でもこれであ る。また副詞は短い期間で変化すると言われている。いつも例に挙がるのが、「甚だしい」という 言葉である。平安の時代には「いと」と言っていた。明治の人は「たいへん」と言っていたらしい。 昭和に入ると「とても」になる。ちなみに明治には「とても」は例えば「とても駄目」などと否定 的に使っていたらしいので、「とても美しい」とは言えなかったと言われる。国語学の大野博士の コラムを読んだことがあるが、この「とても美しい」という表現は戦後になるとめまぐるしく変わ っているという。団塊の世代は「ひじょうに美しい」と言い、その後には「鬼のように美しい」や 「すんごい美しい」と言われ、昭和40年代生まれは「スッゲー美しい」、50年代は「メチャ美 しい」。今から少し前は「チョー美しい」になり、今は「マジ美しい」に変わっている。「メチャ」 から「マジ」までが現在の若者の許容範囲らしい。世代によって言葉を変えていくのは日本語の特 徴で、変化を止める必要はないが、敬語など形式化された表現はしっかりと日本語を継承して行き たいものだと思う。

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K.Wakabayashi
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