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旧街道とJR線

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鉄道地図を見ているとやはり東京と大阪を結ぶJR東海道線に目が行く。江戸と京を結んだ道はやは り日本の大幹線である。大坂から九州へは瀬戸内海という海路が発達していていたので、やはり基本 は海路だっただろう。しかし京と江戸の間で海路を使う場合はまず大坂、または堺に出なくてはいけなかった。それから紀伊半島 をぐるりと回って伊良湖水道を渡り浜名湖へ出て初めて陸路に沿える。しかしまた伊豆半島があ るので御前崎から駿河湾を渡り伊豆の下田に出ないといけない。そこから海岸線に沿い小田原へ 出てもまた三浦半島を経由しないといけない。海ルートより陸路が発達するわけだ。その賑わっ たであろう東海道ともう一つ中山道が江戸と京を結んでいる。中山道は昔東山道を呼ばれ、京か ら東北へ出るルートであった。東北へは他に日本海を通るルートがある。山を通るルートが東山 道、海岸を通るルートが東海道、北を通るルートが北陸道と呼ばれたわけだ。かつて関ヶ原の合 戦の時に宇都宮にいた徳川勢は海側の東海道と山側の東山道の2ルートで尾張へ向かって進んだ。 同じく西軍も京から琵琶湖沿いの東山道と伊勢湾へ出る東海道の2ルートで尾張へ向かった。昔 から西と東の勢力がぶつかるのは濃尾平野であったが、これもこの2ルートが発達していたから だ。その中でも一段と狭まる関ヶ原が決戦の場となったのも当然か。しかし東山道は江戸が本拠 地になったため、群馬辺りから福島へ抜けるのを高崎で急転換し、南へ方向を取り、江戸に下り る道になった。これにより、東山道は中山道となった。このような背景があったので中山道は少 々大回りになる。江戸から見れば京に行くのにわざわざ高崎まで行かねばならぬため、近道を作 った。これが甲州道で、諏訪で東山道と合流する。この道がJR中央線になった。

このように江戸時代の5街道の内、江戸と京都を結ぶのは甲州道、中山道、東海道、が出来た。 このうち、甲州道は中山道と合流する。現在JR線でまず気付くのは東海道も中山道もルートが 尾張辺りで違うことである。JR線と各街道のルートの異なる部分はまず東海道線である。東海 道線は京都からまず米原へ向かう。大垣、岐阜と通り名古屋に出る。名古屋で中央線と分かれる。 旧東海道と中山道は近江の草津で既に分かれているが濃尾平野でまた接近している。この点を使 い、東海道線は名古屋まで中山道を通り、名古屋からは東海道を通る。昔もこの狭い間を結ぶル ートがあった。これが美濃路だ。美濃路は垂井から熱田と、ななめに結んでいる。中山道は垂井 からまっすぐ北東へ信州へ出るわけだが、JR線は大都市に発達した名古屋に持ってきたわけだ。 中央線は垂井からではなく、名古屋から出発している。JR中央線が旧中山道に沿うのは中津川 からである。つまり、JR線が旧中山道と違うところは名古屋に寄っているところである。その ために中山道はV路になったわけで、座標が曲がった北側はJRが通らなくなった。美濃路につ いても詳しく言えば、旧美濃路にはJR線は通っていない。垂井からの分岐ではなく、大垣、岐 阜まで中山道を通り、そこから名古屋へ下っている。Vではなく、レに近い。JR線を地図で見 ると米原から大垣まではまっすぐ東に向かっているが、大垣から岐阜まで北東に走る。中山道は 北東方面に向かっているからだ。ところが岐阜から90度南に方向を変え、名古屋に向かう清洲 で美濃路となる。清洲から上に岐阜まで行き直角に曲がり左に垂井まで行くJR線をベクトルの ようにまっすぐななめに繋いでいたのが美濃路だったわけだ。名古屋の宿はまだ美濃路である。 名古屋の次の宿場町である熱田(宮)が東海道。なので詳しく言うと、JR線は草津で東海道と 分かれてから熱田で再び合流したわけだ。そこからはほぼ旧東海道に沿うように東京まで続く。 JR線が途中でまた旧東海道と逸れるのはまず、三河である。せっかく熱田で合流したのに、す ぐにまた逸れるわけだ。東海道の南にある刈谷、額田(今の幸田辺り)を通り、蒲郡に出る。蒲 郡は三河湾に面する町だが、東海道は三河湾には出ない。JRはそのまま三河湾を通り、豊橋に 出る。ここでまた東海道に合流する。ちなみに熱田から豊橋までの東海道に沿うのは名鉄名古屋 線である。国鉄が先に出来たので、JRに岡崎駅がある。後から出来た名鉄には東岡崎駅がある が、東海道に沿う名鉄の東岡崎駅が旧岡崎宿である。JR岡崎駅はそれより南になる。名鉄線は 豊橋が終点。JRが東海道に合流する場所でJRにバトンタッチと言うわけだ。それからJRは 京都から草津以来再び東海道に沿う。途中箱根で東海道が箱根越えをするのに対し、JRは熱海 回りの海ルートを取る。小田原で合流してからは東京まで東海道に沿っている。

JRは京都から熱田まで中山道を使った。これにより東海道の草津から熱田までは寂れたわけだ。 こちらに近いルートはJR関西線である。JR関西線は名古屋から京都を結ぶわけでなく、名古 屋と大阪を結ぶ線である。JR関西線は東海道の関まで東海道に沿い、南にずれて伊勢路に入る。 伊勢路で伊賀を越えて奈良に出て大阪へ出る。関から京都方面へは関西線の支線である草津線が 走っている。これで草津へ出る。しかし東海道と同じ鈴鹿峠を越えるわけではなく、西側の加太 峠を通る。関から草津まで結ぶのは東海道と同じだが、ルートは違うわけだ。関西線に戻るが、 関西線は東海道線に次ぐ名古屋−大阪間のルートだった。直線距離にするとこちらのほうが近い。 しかし、名古屋での乗り換えがあり、おまけに新幹線も中山道ルートを取ったから、関西線は寂 れてしまった。更に、私鉄の近鉄名古屋線がほぼ並行して走っている。近鉄線は東海道の四日市 から東海道を外れ伊勢参宮道の町である津に向かう。そして街道が無かった山道を飛鳥へ向かう。 飛鳥から北西に向かい大阪へ出るルートである。距離的には関西線より大回りであるが、本数が 多い分こちらのほうが栄えた。近鉄線のライバルは関西線ではなく新幹線である。

中山道はJR東海道線が京都−名古屋間に使ったために岐阜から信州方面の町に鉄道が通らなく なった。中山道は木曽川沿いに塩尻まで走るルートだが、当初中央線はは狭い木曽川盆地ではな く、広い伊那盆地を通る予定だったという。伊那盆地は東に木曽川と並行する天竜川に沿う盆地 だ。しかし飯田から天竜川を外れ名古屋に向かうルートは険しい。結局中央線は木曽川ルートと なった。ちなみに伊那ルートには飯田線が作られ、天竜川を沿うように豊橋に通じる。木曽川ル ートとなった中央線は名古屋から塩尻まで向かうが、途中中津川で中山道と合流する。中津川か ら塩尻まで中山道に沿い、塩尻を経て、諏訪から甲州道に入る。JR中央線は甲州道に沿い東京 まで通じている。さて、中津川と岐阜の間にJRは通っていない。ちなみに中津川市は岐阜県にある。が、岐阜県のような感じがしない。岐阜市とのルートがないからだ。中津川は中央線で長野県と愛知県に通じる。なぜここが岐阜県というかというと、昔は中山道で通じていたからだ。岐阜から中津川への全ての道に鉄道ルートが全くないわけではない。岐阜から飛騨高山へ 向かう高山線が岐阜から太田まで中山道に沿っている。高山線は太田まで木曽川に沿って走るが 太田で木曽川から分流する飛騨川に沿い下呂を経て高山に向かう。この辺りは高山線と中央線が並行して走っているが、その間は山地になっている。その山地を流れる木曽川本流を沿う中山道はJR中央線と合流する中津川まで廃れてしまった。途中御嵩などの4つの町があるが、そこにはJR線が通っていない。中央線沿いの町多治見と太田の間に支線である太多線が走るが、中山道とははずれている。御嵩辺りは飛騨山脈の南端である。中央線は飛騨山脈を避けるように南側を狭いながらも盆地を走っていることになる。鉄道という特徴からやはり山越えよりも盆地ルートを通るのだろう。御嵩の山地がある中津川と岐阜の鉄道ルートが無いのもその特徴による。鉄道ルートが定着してから廃藩置県があれば中津川はその交流から愛知県であったと思うが、中津川は美濃なのである。

こう考えるとJRは鉄道ということから峠を避けていることが解る。鉄道に急勾配は向かない。 名古屋から京都まで中山道ルートを選んだのは鈴鹿峠を避けるためだろう。鈴鹿山脈は高さはな いが険しく、谷間がない。唯一開けているのが関ヶ原である。北に迂回しなければいけないもの の鈴鹿峠に比べて関ヶ原のほうが鉄道が通るには都合がよい。おまけに米原から北陸へ出られる。 中山道を名古屋に引っ張ってきたので美濃路を更に岐阜まで引っ張ったわけだ。これで岐阜も通 るルートが出来た。名古屋から一気に関ヶ原に向かう美濃路は新幹線に受け継がれた。また中央 線が岐阜で東海道と合流するのではなく、名古屋にルートを変更したのは名古屋と岐阜の規模の 差も大きいが、早く濃尾平野に出たかったのだろう。中山道を通り岐阜まで出るルートは鵜沼辺 りまで山道が続く。前出した御嵩越えのルートだ。太田まで高山線が走っていると言ったが、鵜沼から太田までも険しい山道が続く。名古屋に向かえば瀬戸で濃尾平野に出られるのである。鈴鹿峠を避けたのも、 関ヶ原ルートを通れば、米原で平野に出られるからである。距離的には遠いが、鉄道ルートとし ては平野を通るほうが早いと言うわけだ。ちなみに関西線から草津へ向かう草津線も鈴鹿峠を避 けている。鈴鹿峠は東海道でも指折りの難所であった。関西線が通る加太峠も難所だが、大阪へ のルートで避けては通れない。そこで敢えて加太峠を抜けた柘植から草津線を通したわけだ。鈴 鹿峠が難所であったのは宿場町の規模でもわかる。峠越えが困難なため、周辺には宿場町が発達 した。関、坂之下、土山、水口という宿場町が狭きと並んでいる。ちなみにこの町は主要が鉄道 になってからは見捨てられたので、古き良き宿場町の姿が残っている。JR線は山を越える東海 道ルートを避けているということは鈴鹿だけではない。岡崎から御油への道を三河湾ルートにし たのもそのためだ。三島から小田原へも熱海を通る。細かいところでは駿府(静岡)の手前にと ろろ汁で有名な丸子宿があるが、この辺りも山道だ。JRは南の平野を通っている。

東海道は明治になってから鉄道にとって代わられた。しかし鉄道はその特徴からルートを鉄道向 きに変えた。東海道として栄えた宿場町が鉄道ルートに向かなかった幾多の町はそのまま時が止 まったように街並みが残り、または寂れていった。その代表としては観光地となったのは前出し た丸子、箱根、関などである。中山道ではJR線に沿うところでも街並みを復活させた馬込、妻 籠などが有名だ。JR線から外れた三河の御油なども残っているが、この路線は名鉄が走ってい るためにJR沿線と変わらない。また熱田以西の東海道も四日市辺りまでは近鉄線が走り、これ もJR沿線と変わらず、発展してきた。

国道一号線は東海道に沿って作られている。名神高速がJR線や新幹線と同じく関ヶ原ルートを 取っているので、今では東海道が関ヶ原ルートだと勘違いしがちだが、一号線がその名残を残し ている。一号線は名古屋から四日市へ向かい、鈴鹿越えをするからだ。この辺りの一号線と沿う のは東名阪自動車道だが、名前からもわかるようにこの道は名古屋と大阪を結ぶ道だ。もっとも 名阪とは言いながら東がつく。この自動車道は亀山で一般道となる。一般道である名阪バイパス で加太峠越えをし、伊賀上野を経て、天理で西名阪自動車になる。この名阪道路があるので、一 号線が鈴鹿越えをするというのがピンとこない。名古屋から四日市へ向かうルートは奈良方面か 伊勢神宮方面のみである。一号線で京都に向かうルートを使うことはまずない。京都、または大 阪方面へは関ヶ原ルートが定着したからだ。そういう意味では東海道で一番忘れられた存在は鈴 鹿峠である。関には私の先祖代々の墓があるが、関のメインストリートは一般車では通れないほ ど狭い。宿場町がそのまま残っている。現在のJR関西線は名古屋から南紀へ向かうルートにと って変わった。四日市から松阪へ出るルートである。近鉄も同じルートを通る。こうして関付近 は主要のルートから外れた。箱根のように迂回されたのではない。全く別のルートにとって変わ られたわけだ。地理学的に考えてみるとこういうケースは非常に面白いのである。

路線の参考図(自作です)

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K.Wakabayashi
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