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日本史を「氏と血筋」から考える

(12/20)


日本には根強い階級、所謂お家柄が近代まで残っていたわけだが、実際あまりわからない。日本史を 考えた前のコラムで述べたが、足利氏が政治力を手にした時、執権の下にまた位を作る流れだったと ころが将軍に就任したのでそれはなかったと言った。なぜ足利が将軍になれるのか。これがお家柄の 問題になる。足利氏は源氏の嫡流であった。さて、嫡流なのになぜ源氏を名乗っていないか。源氏は 本家を残してどんどん分家となり、多数の家が出来て行った。足利は源氏の分家の中でも血脈が高い 家だった。今回はどう分かれていったか、少し考えてみたい。

戦国時代、少なくとも大名はほとんどがどこかの家の流れにあった。大元の家を氏という。足利が家 であり、源氏が氏である。大元の家は天皇家を除けば、大きなところで平氏、源氏、藤原氏の3つが ある。戦国時代には織田家や徳川家など大元がわからない程小さな家柄も活躍したが、特に秀吉には 性すらなかったが、古くからの家はほとんど3氏に通じると言ってもいい。

藤原氏は中臣鎌足が藤原をもらってからの家である。鎌足の次代不比等の次代で4家に分かれる。南 家、北家、式家、京家である。このうち式家と京家は廃れた。南家も数々分家していったが、主流は 北家にあった。藤原本家はこの南家が継ぎ、そこから分家が出来てゆく。式家と京家はまもなく絶え た。そして南家は熱田大宮司家と工藤家に分かれる。工藤家は伊東家になっていった。南家の主流は 伊東家となったわけだ。分家としては他に吉川・二階堂がある。伊東家からはこれといって後に有名 な人物はいないが、熱田家には源頼朝の母がいる。頼朝は名古屋生まれということだ。

藤原北家、つまり本家はその祖である房前の次代でまた分かれる。本家の流れを汲む藤原真楯と分家 の藤原魚名である。真楯の嫡流にはまず冬嗣がいる。ここで日野氏が分かれている。足利将軍の正室 として権威を誇った日野家である。足利義満の妻業子や義政の妻富子がいる。日野家の分家からは親 鸞が生まれ、その子孫に蓮如がおり、顕如の後に大谷派と本願寺派に分かれた。日野家からは更に烏 丸家が生まれている。藤原本流はそこから摂関家として流れていくわけだが、冬嗣の分家の子孫に純 友の乱を起こした藤原純友がいる。純友の子孫は有馬家と大村家にわかれた。冬嗣から別に分かれた 分家には井伊家、上杉家、吉田家、葉室家があり紫式部もいる。井伊家は後に家康に仕える井伊直政 や幕末の大老井伊直弼がいる。上杉家には上杉謙信、上杉景勝らがおり、更に下ると上杉鷹山がいる。 冬嗣から8代下った藤原本家に権勢を誇った道長がいる。その前代で別れた分家に三条家、西園寺家、 徳大寺家がある。西園寺家は遥か下った近代に元老西園寺公望を輩出した。道長の兄である前の関白 道隆からは菊地家が出た。無類の中心として天皇家に味方した菊地家はここから出た。菊地家には武 時、武光がいる。道長の嫡男である頼通が本家を継いだが、頼通の弟である長家からは京極家、冷泉 家が出ている。頼通から4代下った忠通の次代で五摂家が出る。詳しくは忠通の次代は3人いたが、 それぞれ近衛家、松殿家、九条家となった。このうち松殿家ははて、近衛家から鷹司家が分家され、 九条家からは一条家と二条家が分家した。この五家が公家の最高位に就ける資格のある五摂家となっ たわけだ。この五摂家は途中で豊臣秀吉に関白の座を奪われるも、徳川家により復活した。これによ り五摂家といえどもその就任は徳川の意向の下になったわけだが、公家トップの血筋というのは残っ た。天皇に次ぐお家柄である。この五摂家のうち、近衛家からは後の首相近衛文麿が出ている。同じ く一条家からは明治天皇皇后である美子様が出て、九条家からは大正天皇皇后の節子様が出ている。 ちなみに皇太后様は天皇家の血筋である。もちろん美智子様からは血筋は関係なくなっている。

さて、遥かに遡って北家の分家、藤原魚名の流れからはまず斎藤家、中村家、四条家、山科家に分か れた。斎藤家は吉原家、林家、富樫家、加藤家、後藤家に分かれた。中村家は伊達家になった。伊達 政宗がその子孫である奥州の伊達家である。更に魚名から別家にて下ると奥州藤原氏が出る。あの中 尊寺金色堂の藤原氏である。その他に佐藤家、伊賀家、近藤家、小山家などの分家がある。近藤家は その後に大友家、少弐家、武藤家、筑紫家、立花家、鍋島家に分かれていく。小山家からは結城家が 出る。家康の次男秀康が養子となった結城家である。藤原氏の分流はおおまかなところでこのくらい だろう。

藤原氏より多く分かれた平氏、源氏に移る前に他の氏を見てみたい。まず小野妹子を先祖とする小野 氏。のちに横山家と猪俣家に分かれた。それから敏達天皇を祖とする橘氏。橘氏からは楠木家と和田 家が出ている。楠木家は南朝の忠臣として有名な楠木正成がいる。正成の出については反対意見もあ るらしいがとりあえずはこの流れとされている。それから武内宿爾を祖とする蘇我氏は葛城家、紀家 が分かれている。紀家が栄えたことから蘇我氏は紀氏と呼ぶ場合もある。紀家からは歌人紀貫之が出 ている。天武天皇を祖にする清原氏もいる。清原氏からは舟橋家が生まれている。清少納言は清原家 の出になる。それから大江氏がいる。大江音人を祖とし、大江匡房、大江広元を出した後、長井家、 海東家、毛利家が出た。毛利家は代を下り大大名毛利元就を出し、小早川家を分家とした。秀吉の養 子で、関ヶ原の合戦で西軍から東軍へ翻した小早川秀秋の小早川家である。更に菅原道真で家の位を 上げた菅原氏がいる。菅原氏からは高辻家、唐橋家が出た。

さて、武家で重要な氏は平氏と源氏である。将軍は源氏しかなれない。家康は元々松平の性だったが、 位を上げるに従って徳川の性を手にいれた。更に将軍就任に当たって徳川は源氏であるとしたことが ある。徳川ほどの実力があっても源氏ではないということで将軍になれない。氏は精神的に非常に強 い影響があったのだろう。家など無かった秀吉が強引に関白就任したのもこの血筋社会に対するコン プレックスだったのではないか。血筋という絶対なものがない秀吉に取っては力が全てである。血筋 で継承できた鎌倉将軍や足利氏とは違う。豊臣は力がないと継承できないのである。秀吉が生前に如 何にこの点を覆そうとして躍起になっていたか想像できる。足軽から関白になり、大金をばらまき、 唐入りを行う。それでも継承させなれなかった。その影響を受けた淀殿が豊臣家を驕り高ぶり、結局 滅ぼされるのもこの流れにある。実力で上がってきた秀吉だからこそ、最後に越えられぬ血筋という 壁があるのに気付いたのだろう。この時代はそのようなことが多くある。家康もそうだったが、明智 光秀が信長を討ったのもこの血筋の影響があると言えるかもしれない。光秀は土岐源氏である。源氏 ではない信長が天下を取るのに危機感があったのだろう。本能寺は突発的な行動と言われるが、正に 光秀の本能がそうされたのかもしれない。他にも、大名同士で氏がどちらかにあるということで家の 仲が悪くなることがあったという。

さて、その源氏であるが、源氏の中にもどの天皇から分かれたということで氏に違いがある。本家の 源氏と言えるのは清和天皇を祖とする清和源氏である。他に嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏、宇多天皇 を祖とする宇多源氏、村上天皇を祖とする村上源氏がある。最も分家されたのはもちろん清和源氏で あるが、まず他の源氏からはじめてみる。嵯峨源氏は嵯峨天皇から発しているが、後にまで残った主 な家は渡辺家、松浦家、箕田家くらいである。宇多源氏は佐々木氏とも呼ばれる。宇多源氏は佐々木 家に分家したが、宇多源家は続いていないからだ。佐々木家からは馬渕家、野木家、京極家、六角家 が出ている。中でも戦国時代に活躍したのは京極家である。徳川秀忠の正室お江の姉で、豊臣秀頼の 実母淀殿の妹、お初が嫁いだのが京極家の京極高次である。京極家は黒田家に分家した。黒田家から は九州の大名黒田如水とその息子黒田長政が出ている。京極家は後に尼子家に分かれた。村上源氏は まず名和家、土御門家、赤松家が出た。名和家は北畠家に分家。北畠家からは北畠親房、顕家親子が 出て、その後に大河内家などに分家した。赤松家からは室町時代の中心的人物である赤松円心や赤松 満祐が出た。赤松家は有馬家と別所家に分家した。清和源氏以外の源氏の主なところはこのくらいで ある。後は清和源氏の分流になる。

清和天皇を祖とした清和源氏はまず多田家、山県家、土岐家、宇野家に分かれた。本家は源頼義であ る。分家のうち宇野家は高木家に分家。土岐家は浅野家に分かれた。土岐家は後に揖斐家と明智家に 分かれる。明智光秀はこの流れにある。本家の頼義からは3人の息子によって細かく分家される。ま ず本家の八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光である。本家義家の3代後が平治の乱で平清盛 に敗北した源義朝である。まずここで木曽家に分かれている。木曽家の2代は木曽義仲である。義朝 の息子が源頼朝である。将軍家となったこの本家は3代で絶えた。ここで重要なのは次の本流である。 義家の代まで戻ると本家から石川家、森家、若槻家が出ているが、義家の次男源義国の次代で新田家 と足利家に分家された。ここからの分家が室町幕府に影響を与えている。まず新田家本家から山名家、 里見家、得川家、額田家が出ている。山名家は後に応仁の乱の一翼である山名宗全が出ている。この 得川家というのも注目だ。得川家はほとんど絶えたといってよいが、徳川家康がこの得川家に目をつ けたのである。実は家康は得川家の血筋であるとしたわけだ。得川家なら源氏の主流に近い。新田家 本家からは足利尊氏のライバルとなる新田義貞が出ている。足利家と新田家の血筋争いだったわけだ。 足利家はまず細川家に分家する。その細川家は室町幕府の官領になり後に応仁の乱のもう一翼である 細川勝元が出てくる。足利と新田の代理戦争のようなものだ。応仁の乱は将軍家の後継ぎ問題に発端 しているが、やはりどちらが源氏として主流かが双方の背景にあるだろう。また細川家は後に関ヶ原 の西軍の中心人物細川幽斎を出している。足利はその後も畠山家、吉良家、斯波家、一色家、渋川家 に分家する。吉良家は桶狭間で信長に敗れた今川義元を出した今川家に分家。斯波家は奥州の大名と なる最上家に分家。渋川家は後に板倉家に分家。板倉家からは江戸幕府の初代京都所司代である板倉 勝重が出ている。足利本家を源義家から下って9代目が足利尊氏である。同じく主流派の新田家の新 田義貞と同じ時期だ。足利は新田に勝ち、室町幕府で将軍に君臨したのである。源氏の主流は我等と 示したことになる。その足利将軍家は初代尊氏、2代義詮、3代義光と権勢を誇る。6代義教辺りま でも将軍の権力は高い。しかし8代義政の時代になるとそれが崩れてくる。そして応仁の乱で京はボ ロボロとなった。この頃から北条早雲らが血筋と関係無く世に出てくる。戦国大名のはしりである。 まだ血筋が強く、源氏の主流の将軍から任命された守護大名とは異なるのはその「出」である。将軍 の権威が薄れ、源氏が内紛を起こすころに力を持った下の者が出てきたのである。戦国大名もそうだ が、山城一揆、加賀一揆など惣国も出てくる。こちらは君主を持たない自治国である。加賀一揆では 民衆が守護の富樫家を追い出し、自治国として100年近く治めていた。プロレタリアートによる革 命に近い。そして、ここから血筋よりも力を優先した戦国の世に入ってくるわけだ。足利家はそれで も15代まで続く。戦国の世になり将軍の権力が衰えた後も足利将軍はまだいたわけだ。ついに15 代将軍足利義昭が信長に傀儡にされ、ついに足利氏は滅亡する。ここに源氏の主流は途絶えた。

話を頼義まで戻す。源氏本家八幡太郎義家には2人の弟がいた。こちらも多く分家を残す。まず次男 義綱だが、こちらは石橋家、三上家、手原家が出るが、長く続いてはいない。三男の義光からは佐竹 家、武田家、平賀家に分家された。佐竹家は山本家、柏木家、錦織家に分家した。平賀家は大内家に 分家。武田家は逸見家、加々美家、二宮家、浅利家、八代家に分かれた。武田本家からは甲州の武田 信玄とその息子勝頼が出る。加々美家は秋山家、小笠原家、三好家、南部家に分かれた。ここまでが 主な源氏の分流だ。

平氏は桓武天皇を祖にしている。まず桓武天皇から4代下る平高望の次代から主に4家に分かれる。 本家は平国香に、それに弟の平良将、村岡家に分家した良文、そして平良茂である。本家平国香から 主に岩崎家、仁科家、吉田家に分家された。本家の次代貞盛からは北条家に分家された。後に鎌倉幕 府の執権となる北条氏である。平貞盛から7代下った本家が平清盛である。その間に分家されたのが 山本家と伊勢家である。伊勢家は後に北条家に分家する。執権の北条家とは違う。小田原に居を構え た関東の北条家である。執権家と区別するためにこちらは後北条家と呼ぶ。平高望の次代まで遡り、 良将の分家は相馬家となるが、良将の次代が平将門である。関東独立を掲げ反乱を起こした将門は、 血筋でいうと桓武天皇5世の孫である。将門の子孫が相馬家となった。村岡家に分家した良文からは 秩父家、千葉家が分家される。千葉家からは上総家に分かれる。上総家からは平広常が出ている。良 茂からは三浦家、長田家、鎌倉家に分かれる。鎌倉家は後に大庭家と梶原家に分かれる。大庭家から は大庭景親が出て、梶原家からは梶原景時が出た。

源氏の鎌倉幕府の執権は平氏の北条家だったわけだ。北条家初代時政は源氏の頼朝を手助けし、平家 の滅亡に手をかした。時政には頼朝を殺す機会はいくらでもあった。それをせず源氏の肩を持ったの は時政の先見が優れていたからだろう。平家は武家ながら藤原氏のように公家化の方向にあった。武 家とは公家の政治に対するアンチテーゼとして出てきた階級である。その武家の頭領たる平家が公家 化するのは武家として耐えられぬことだったであろう。北条時政は平家であったが、平家の天下より 武家の天下に手を貸したのである。この時政を初代とする北条家に優秀な人物が多く輩出したことか らもこの北条家というのは優秀な一族だった。しかし源氏ではなく、平家の主流でもないことから将 軍にはなれず、執権になるしかなかった。執権は将軍ではなく、あくまで代理の立場だ。したがって 他の武家とも同格である。言うならば武家連合の代表であって、トップではないから、共にやろうと 言えても、やれと命令は出せない。そのような不安定な立場にあり、承久の乱を解決し、元寇を防い だのはよほど政治力に優れていたのだろう。北条氏から学ぶことは多い。しかし、やはりトップでは ない立場の弱さが元寇の後にひびいた。元との戦争は防衛戦争であったため、勝っても取れるものは 何もない。しかし戦った武家には恩賞をやらねばならない。これで鎌倉幕府は滅亡に向かった。命令 が出せないのだから、ちょっとした不満で立場は危うくなるのである。元との戦争はまさしくその不 安定な立場を突かれてしまった。直轄領が少ない北条氏は解決する手だてがなかった。防衛戦争とい うことで一番助かったのは公家である。元に攻めこまれて日本を領土にされたら一番被害にあるのは その日本のトップにいる天皇家と公家だ。しかし天皇家はじめ公家はこの北条氏のピンチに何も手助 けしていない。公家の敵である幕府をまとめる北条氏に何も手助けしたくなかったのである。ここに 日本の防衛に対する危機感の薄さが明白になっている。防衛戦争を防いだ一番の功労者である北条氏 が一番被害にあった。この点をしっかり見ないと現在の外交意識にも影響がある。ここで天皇家や公 家の北条氏に対する反応を正しいと見れば、それは大いに危ない思想だ。天皇家が日本のトップにい られるのも日本があるからである。元の民は天皇に対して何も権威を感じていない。また、防衛戦争 のような国の危機のときにリーダーである北条氏を血筋や位だけ見て疎んじることをすれば、現在で は亡国の徒になる。

日本では血筋は絶対のものだった。その血筋によって権威を保つ天皇家が滅ぼされなかったのはまさ にそのようなバックグラウンドがあるからである。今でもその伝統は続いている。政治家に2世3世 が多いこともそうだろう。2世や3世議員がまったく悪いとは言わないが、政治力が伴わないといけ ない。この伝統がある日本は政治力うんぬんより血筋が優先されるだろう。小渕首相の後を見てもわ かる。血筋によるカリスマ性は良いときもある。完全な実力主義の中国や西洋に比べ、血筋が絶対の 日本では無駄な争いが少ない。それがゆるんだ時代を戦国時代という。江戸の治世はそのカリスマ性 が多いに影響している。政治だけではない。例えば酒屋の息子は酒屋を継いでいくなど、それによっ て老舗というものが出きる。血筋によって技術が継承されていく。これはものをより優れたものにし ていくだろう。日本は中国の律令を手本としたが、律令は本来官僚制である。これを日本では血筋に よる継承とした。もはや律令はあってないようだ。しかし、律令をかたくなに守った朝鮮などでは老 舗は発達しない。儒教では身分の差を説くが、一番下の位である商人を継がすという心は生まれない からだ。子を官僚にしたいのはいいが、それでは伝統技術が継承されていかない。物事には表と裏が ある。血筋に重きをおくことも、善し悪しだ。政治に関してはカリスマ性は必要だろう。しかし、そ のカリスマ性ばかりで実力がともなわないとき、世は混乱する。実力者がトップにたてないからだ。 徳川はなんとか強引に打開策を見つけたが、秀吉も北条氏もそれに苦しんだ。治世のときはよい。し かし現在日本が置かれている状況のように厳しいときは北条氏や秀吉が必要となろう。日本史は決し てカリスマだけの社会ではなかった。明治は元老という実力者たちが天皇というカリスマを使い、腕 を振るった時代だった。日本史をしっかり見れば、そこには現在の問題を考えるすべが見つけられる と僕は思っている。

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K.Wakabayashi
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