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時宗と元冦

(06/27/01)

僕は昨年の葵徳川三代から大河ドラマにどっぷりとはまっている。今年は北条時宗である。今回は鎌倉 時代のそれも元冦の話と少し意外だったが、始まってからは実に楽しませてく れる。歴史物語というのは見るまでは期待半分、疑い半分だ。なぜならストー リーを書く人を含めてどう歴史を解釈しているか、日本史ではそれで随分と印 象の違う話になってしまう。ああこう見ているのだな、と感じることもドラマ の面白さだ。しかし応々にしてがっくりすることもある。もっと重要な意味や 教訓がそこにあるのにな、と感じることもしばしばだ。まあ歴史を題材にして いるといってもドラマはフィクションだから、いろいろな視点があるのは当然 で、また違った面を知ることもできる。さて時宗はどうだろうか。

大河ドラマは題材が決まると話題になる。昨年は徳川三代が注目された。家康 一人の話ではなかった(つまり戦国の世もほぼ終わり)ので戦闘シーンはほと んどなく、主にお家事情や権力争いや戦略的統治がテーマだった。徳川時代の 礎の時代に学ぶものは多く、何が良い政治かを考えるのには面白いテーマだっ た。それでは時宗はというとどうか。時宗と切っても切れないイベントは元冦 である。というか、元冦がテーマのようなものだ。僕は元冦というのは実は日 本史において非常に重大で興味深いイベントだ。日本人として知らねばならな いイベントである。なぜ重要か。元冦に対する日本の反応、国防という重大さ、 対処の仕方、結果に対する評価など日本人と伝統的な日本の考えかたを再考す るのに最も適したイベントである。なぜ日本が太平洋戦争に向かっていったか も元冦のことを観察すると答えが出ることもあるだろう。対元戦も対米戦も強 大な世界帝国から日本という国を守るという点では同じだからだ。

元冦を考えるというのは日本を考える意味で注目されてよい。ではドラマの主 役北条時宗と元冦はどう結びつくのか。時宗からすれば元冦は一大イベントで 関係が濃い。しかし元冦という点から見れば実はそこまで密接に時宗とは結び つかないのではないかと思う。確かに時宗は元と戦った鎌倉武士の元締めだ。 僕が思うに時宗の歴史的意義は元と戦い、それをけちらした武士の頭領という より、モンゴルにむやむやと攻められて危うく属国化されかけた時の頭領では ないかという点だ。元を倒せたのは「神風」だと言われているが、要素はそれ だけではない。神風も一つの要素だが、他の要素も大きい。それらが重なり世 界最強のモンゴルから国を守れたのだ。その成功した国防の要素の中に時宗は どれくらい示めるか。

勝てた要素を考えてみる。まず鎌倉時代だったこと、つまり日本は武士という 軍隊が支配していたこと。戦いの場が日本だったこと。日本と大陸には海があ ること。相手がモンゴル兵でなく元帝国の多民族の混成軍だったこと。そして 神風という自然現象が起こったこと。

元が攻めてきたとき日本では初めての武家政権である鎌倉幕府が支配していた。 日本には数多くの内戦を経てきた現役バリバリの軍隊(武士)がいた。もし武 ではなく文である朝廷が支配していたとするとここまで強者で戦えたかどうか。

そして戦いの舞台は日本。相手は大陸から来ている。日本の地形は広大な中国 大陸とは違う。海岸線も入りくんでいて、土地の基幅が激しく、急流の川も多 い。ホームの利が生きるのだ。ベトナム戦争で強力なはずのアメリカ軍がゲリ ラ戦に長けた地元ベトコンに痛い目に合ったのと同じ。モンゴルの強力な武器 である馬も日本では完全に威力を発揮できない。これもアメリカの戦車がベト ナムのジャングルでは威力を発揮できないのと同じだ。

そして海がある。これが一番大きい。近代以前はもちろん空の移動や攻撃など ない。陸続きか海があるかでは随分違う。中国大陸と陸続きの朝鮮半島と日本 では地政学的に見て大分違う。海がある日本は貿易など平時の交流も難しいが 防衛の時にはこれほど頼りになるものはない。モンゴル軍はドイツまで迫り倒 すほどの強大な軍隊だ。モンゴルが最強なのは馬を自在に操れるからだ。馬は 第一次大戦で戦車が出てくるまで最強の武器だった。遊牧民で馬に長けていた モンゴル人は実はそれが最強の武器であることを知ったときに最強となった。 さて、馬である。馬は戦闘中は道具として使うのだが普段は勿論生き物だ。そ の生き物を大量に海を越えて日本に持ってくるのは不可能だ。モンゴル軍は全 員馬に乗ってるから強いのだ。つまり日本攻めでは兵は来れるが武器は持って これない。仮に持ってきても全員は無理だからやはり戦力は落ちる。更に持っ てきても大陸と違い地形が細かい日本では思うように馬は操れなかっただろう。 日本の武士も全員ではないが馬に乗る。条件が同じなら日本の地形に慣れてい る鎌倉武士のほうが強い。

日本軍は北条を中心とした御家人達の連合軍だ。北条は天皇でも将軍でもない から強大な統率が難しいが、元軍のほうはもっとバラバラだ。日本軍でいう北 条にあたるのが中心のモンゴル人で、高麗軍などとの連合軍だ。2度目の弘安 の役ではその直前に倒れた南宋の軍もいた。御家人どころではなく他民族軍で ある。それも仲良しなどではなくモンゴルに滅ぼされ怨みを持つ連合軍である。 元冦はモンゴルが攻めてきたのではない。モンゴル人を中心とした他民族国家 元の軍が攻めてきたのだ。統率という面で両者では大きく違う。しかも他を服 従させた最強のモンゴル軍は馬が使えず戦力が落ちている。そしてモンゴル人 は内陸の民族で造船技術はないだろう。船は高麗に命じて作らせた。元の船は モンゴルに威された高麗人がしぶしぶ作ったものである。そうして作られた船 は本来高麗が持っている高い技術で作ったものより完成度は劣ったはずである。

始めから日本にかなり優利な条件があった。そこへ神風という自然現象が起こ った。日本よりはるかに強かったはずのモンゴルが敗れたのもわかる。モンゴ ルは本来の力は出せなかった。重要なことだが戦争とは如何に相手に本来の実 力を出させないかが重要だ。戦争が始まる前が大事なのだ。どれだけの完成度 で戦争を始められるかに勝ち負けがかかる。普通戦力で見るとはるかに弱い敵 が相手でも状況によっては大敗もありうる。元冦のときの日本は相手の力を弱 体化させたという点で良かった。しかし勝ったことは良かったのだが、日本が 勝った(つまり相手を弱体化させた)要素はまず日本の地形、海、そして風で ある。つまり日本軍は自分で出来る対策は何もしていない。たまたま運が良か っただけにすぎない。鎌倉武士で戦えたのはたまたまそのときが武家政権だっ たからである。つまり国を挙げて軍を作り防衛したのではなく、たまたまそこ にあった軍が日本軍になっただけ。その軍がたまたま強かったのである。勝て たのは武士の対抗プラス運である。比率は50:50ではあるまいか。確かに 武士が盛んに抵抗しなかったら元軍が船に戻ることもなく、暴風雨が降っても 意味がなかったからだからだ。しかし運がなかったら武士の抵抗だけで元は止 められなかっただろう。

日本はこの防衛をたまたま勝てたラッキーなものとして教訓にしただろうか。 いや、神のおかげとなった。朝廷は天皇の祈りで勝てたと信じ、武士のおかげ ともならなかった。ラッキーなだけなのに。これが太平洋戦争で無茶な戦局を 開くことになったと思う。自分の戦力や戦術をきちんと見ない癖がついたから だ。

時宗に話を戻す。これまで元冦でなぜ勝てたかを考えたが、ではなぜ元は攻め てきたのか。元は南宋を孤立させるために日本との交流を絶ちたかった。そし て何度も国書を持ってきて従えと言った。日本はそれを無視し続け、時宗は最 後には使者を殺している。それにキレた元がついに攻めてきたのだ。

まず時宗は鎌倉幕府の長である。鎌倉幕府は軍事政権である。日本独特の概念 で天皇も公家も滅んでいない。つまり幕府は軍事力で朝廷を抑えている他に支 配力はない。権威はあくまで朝廷の側にある。つまり軍事力を捨てたら終わり という政権だ。捨てなくとも力が弱わまればすぐに朝廷をかついでクーデター を起こされる可能性も大きい。現に後に北条の力が弱まったときに後醍醐天皇 に乗った足利尊氏は北条氏を滅ぼした。鎌倉幕府とは軍事力で支配していると いう点では規模こそ違えモンゴル人と同じなのである。モンゴルの武力が強い からといって従うことは鎌倉軍事政権の終わりを表す。時宗には元と戦うしか 道はない。

では戦うと決めたからにはどう対抗するか考えなくてはならない。日本はモン ゴルと争っていた南宋とは民間交流が盛んだった。モンゴルの情報はある程度 は入手できたはずだ。モンゴルがどう日本を見ているか、相手の意図は何かな どを知らなくては、いざ日本に使者が来たときに対応できない。つまり外交の 教化だ。外交次第では従わなくても戦争を避けられた可能性もないとは言えな い。国防を第一に考えるなら許される範囲の妥協も考えられたはずだ。しかし 時宗は何もせずに元の国書が来ても無視し続けた。幕府は外交に対して知識が 足りなかった。しかし朝廷の意見にも耳を貸さない。勿論外国からの有力な情 報も聞かない。相手がどんな相手であるかすらわからなかったのではないか。 相手の戦い方も知らないのにどう戦うのか。本来軍事政権は軍事の専門である からそういうことには強いはずである。ここでも時宗の対応は太平洋戦争あた りの陸軍に通じる。両者とも相手のことも自分のことも深く分析もしないで理 想と意地を通す。時宗は更に使者を殺してしまった。これはひどい。相手にま ったく妥協を許さないような状況にしてしまったのだ。

時宗は断固たる決意で元と戦うことを決めたと言えば響きはいい。しかし戦争 に至るまでの戦略を見ると国の代表としては頭が堅すぎる。時宗の行動は教訓 として反面教師にできるが、元を倒した功労者として見るのは正しくないと思 う。現在日中関係は非常に不安定だ。日本もとっくに防衛を正さなければいけ ない時期にきている。元冦から学ぶことは多い。同じ日本人のとった行動だ。 過去のことだけですまされない。これを書いている時点でまだ大河ドラマは序 盤。元冦に至るまでの時宗をどう描くであろうか楽しみである。元冦だけでな く「北条時宗」では北条得宗家を中心に鎌倉の武家を描く。武士がどうあるか という哲学が出来ていた戦国時代から見れば、鎌倉は武家政権序盤のドロドロ とした人間関係や暗殺の繰り返しだ。大河ドラマといえば主に戦国時代の題材 が多い。鎌倉時代の話ということで今までとは違った楽しさがあると思う。

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K.Wakabayashi
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