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定義について

(08/27/01)

米国人は子供の時から定義づけについて熱心に勉強させられます。まだ僕が英語を満足に解せな かった頃(今でも完璧ではありませんが)、子供相手によく英語の勉強をしました。最初は子供 が話すきれいで解り易い発音を教わりたいと思っていたのですが、その内僕はふと気付いたこと がありました。彼等は子供でありながら実にしっかりとした語意の説明ができるのです。日本の 子供より難しい単語を解すのではなく(難しい単語なら日本の子供のほうが沢山知っているでし ょう)、日本の子供より言葉の意味を上手に説明できるのです。思えば米国人は子供だけでなく 大人もしっかりと単語の意味を説明できます。米国の大学の授業では必ずデファニションの問題 があります。デファニションは定義という意味ですが、ある語をいかにうまく説明できるかは子 供だけでなく高等教育にも欠かせないものなのです。定義化、これは欧米社会の学問の追究でも あるわけです。ファイナルボキャブラリーというのは政治用語ですが、最終的な定義とでも言い ましょうか、その時代において誰も反論できない定義ということです。そのファイナルボキャブ ラリーを覆すことこそ革命という政治哲学なのです。

話は飛びますが英語を含む欧州語というのは表音文字です。表音文字というのは文字が音を表す 言葉です。欧州語はほとんどラテン語から来ています。エジプトやメソポタミアの古代の表意文 字からフェニキア、ギリシャを経てラテン語で発達した表音文字ですから、欧州語は文字に音を 見て考える言語ということになります。(ちなみに彼等は表意文字から表音文字に発達したのを 進化と見ているところがありますので、帝国主義時代、彼等が表意文字を残した漢字文化圏に対 して優越感を感じていたと言われています。)文字は音を表す。逆に言えば単語は規則させ覚え れば発音できます。ちなみに、僕は幾つかの言語を基本レベル程度に習いましたが、ドイツ語や イタリア語などは音と文字が同意しています。フランス語は文字の並べ方で多少発音が変わりま すが、これは発音が文字数より多い苦労でしょう。英語は文字と音があまり一致しません。Aを アと呼んだりエイと呼んだりします。現在英語はほとんど全世界の人が話し、各民族で独特の発 音を生みだすのも英語のそういった面からでしょう。それでも一記号に僅か5つもない。だから アクセントの違いはあるものの言いたいことは通じます。音の文字、表音文字はそのように発音 を表す言葉です。表音文字の言葉はAとかBとかCを並べたもので、そこから意味はわかりませ ん。例えばHとAとNとDを並べる言葉は「手」を意味すると「覚え」なければなりません。口 で「ハンド」と言う「手」を表す言葉を音で表す文字にするからHANDというスペルになりま す。ハンド=手という意味を知らなければなりません。HANDという言葉はそれを視覚に表す だけのものです。ですから英語圏を含めた表音文字言語ではHANDと並んだ文字が何を意味す るかをじっくりと考えなければ言葉が次の世代に伝わっていきません。4つの文字が並んでいる。 ハンドと発音する。ここまでは習わなくても基礎を知っていればわかります。しかしその言葉が 手を表すというのは学ばないとわからない。だから彼等は子供にしっかりと定義を教え、ある文 字を並べたとき、それは何を意味するか教えているわけです。そこには曖昧な定義はありません。 言葉を見ても、それは26文字から成された文字の並びに過ぎないですから、そこから意味を知 るのに何もヒントがないのです。Aという記号をじっくり見たところで何のイメージも沸かない。 ですからしっかりと定義を学ばせないと読み書きができない、所謂リテラシーが維持できなくな ってしまいます。DOGとスペルが並ぶ時、それは「ホ乳類の仲間、4本足で立ち、大きさは1 mから50cmほどで、主に人間の愛がんとして家や庭で飼われる動物」として説明できること が単語を覚えるということです。欧米人はそうして言葉を覚えていきます。

英語と対極をなすと思われる中国語はどうでしょう。すなわち漢字です。漢字は現代の表音文字 世界において、古代的な表意文字が残る唯一の言語だと思います。つまり発音を表すのではなく 意を表す文字。漢字は一字一字に豊富な情報が詰めこまれています。例えば「看」という文字一 字で「見る」から「注意せよ」まで意味が通じる。文字が意を表す、英語の反対で定義が曖昧に なっているのでは、と僕は思いましたがどうやら逆のようです。意味が豊富だからこそ定義にこ だわる。だから中国人は似たような物を差をつけて表現するために数多くの字を作ったそうです。 例えば家。邸、館、亭、軒、舎、堂、宮、房、屋、庵、ちょっと考えるだけでもこれだけありま す。そして各字に定義がある。家を表す字でも、どういう家を示しているのか字で区別していま す。中国人の教授から教えてもらったことによれば、家は家でも盛土をした上に建てた家を宮と いうらしいです。英語とは少し違いますが、中国人もまた定義を追究してきた民族と言えそうで す。

彼等と異なりわたしたち日本人は定義を曖昧に覚える民族だと思います。平均的な日本人でしっ かりと館と邸の違いを説明できる人は少ないと思います。「なんとなく」や「らしさ」でわかり あえるからです。単一民族でしっかりと人に説明しなくても「心」で通じあえる、という理由は あるとは思いますが、日本人は文化的に外来のもの(漢字も外来です)を取り入れて活用してき ましたが、そのものの持つ全ての面までは受け入れて来ませんでした。良いとこ取りだけして日 本式に使い易いように改良してきたのが日本文化です。漢字は元々中国人がしっかり意味を持た せた字として使っていたのを日本人は取り入れ、その表意文字が持つ便利さを使ってきました。 表意文字というのは意を表しますが、発音が曖昧になってしまいます。つまりどう読んでもいい。 だから意味を持たせた名詞や動詞などには使いやすいですが、意味を持たない音だけを文字にす るには都合が悪いです。日本語は中国語と違い、助詞や助動詞を使いわけて会話する言語です。 そこで日本人はカナという表音文字を発明しました。そして表意文字である漢字と織り交ぜて何 とも見事に使っています。こんな言葉は世界にないでしょう。言葉を知らなくても、漢字で意は ある程度通じるし、カナで発音もわかります。その便利さが逆に定義にこだわらなくてもよいと いう日本人の性格を生みだしたのかな、と思ってしまいます。しかし、今の日本人は明らかに昔 に比べて国語力が落ちていると思います。僅か100年前の国語をしっかりと理解するのが難し い。漢字が読めなくなっている。字が書けなくなっている。意味もわからず使っている。これら の問題は語の定義をしっかり教えて来なかった国語教育にあるのではないでしょうか。年表だけ でテストする歴史と同じように、きちんとした日本語が持つ中身を教えなかったのが問題だと思 います。全て悪いというではなく、日本人は元々しっかり定義はしないのでしょう。しかし国際 化と言われ、片仮名語がこれだけ日本語の中に入っている時代です。漢字なら字から意味がなん となく解りますが、片仮名は完全な表音文字化です。つまり英語圏の大人が子供にしっかりと定 義を教えるようなことをしないと文字の本意がわからないまま使われてしまうということです。 僕は一応英語をある程度解るため、片仮名語も何とか理解して使えています。しかし日本人は元 々外国語に弱いはずで、便利な日本語の一部だと思い使っていると、定義を知る前に表音文字文 化に飲みこまれていってしまいます。気付けば何のことか解らない。ニュアンスだけの言葉にな ります。片仮名語は外来の概念を理解するのには良いですが、何でも訳してはいけません。言葉 というのは文化と同体ですから外来語というのは、大陸的、個人主義的、多民族的、狩猟民族的、 一神教的など日本と異する文化から生まれたものです。外来語を外国の概念を表す語として日本 語に取りいれるならともかく、訳して日本語の代用として使うのは違うはずです。しかし現実は どんどん訳されて日本語のほうが消え、外国語のほうが定着してしまう語もあります。より一段 と定義を覚えなければいけないはずが、そういう努力は見えません。

繰り返しになりますが、外国語のほうが定着してしまったという語は沢山あります。わかり易い 例では「ラーメン」です。僕の子供の頃はまだ「中華そば」と言ったりしていましたが、今では 聞かなくなりました。中華そば、という日本語は解りやすい。中華(中国文化)のそば、つまり 麺だとすぐにわかります。パスタも「イタリア式小麦そば」と言ったほうが意味がわかって良い と思います。使い慣れたら実際にイタリアのことを知り現地ではパスタというのだと覚えれば良 いと思います。いきなりパスタと覚えるから、定義がしっかりわからないのです。スパゲッティ ーとパスタは一緒と思っている人が多いでしょうが、正にそれです。厳密にはパスタは総称であ り、その中で細く長い麺の内である太さのものをスパゲッティーというわけですが、日本に言葉 が入ってきたときにしっかりと定義を学んでいないからわからなくなる。定義を覚えるのが面倒 ならさっき言ったように「イタリアそば」と呼べばよいと思います。話がイタリアに飛んでしま いましたが、「中華そば」は「ラーメン」と呼ぶ。ラーメンというのが元々中国では何を指すか、 知らない日本人がほとんどでしょう。僕も詳しく知りません。一度米国の中華料理点で漢字で書 かれた拉麺を頼んだら焼きそばみたいなものが出てきました。恐らく中国の中でも地域によって ラーメンが違うのでしょう。しかしラーメンの定義は同じはずです。違うなら彼等は違う字を作 るはずだからです。日本人は定義を知ろうとしないから、定義に沿わないものでも「なんとなく 」似ているものは同じにしてしまうことがある筈です。日本語ならいいでしょうが、海外では「 知ったかぶり」になってしまって恥かしいですね。

僕は大学で中国語を取りました。そして改めて漢字というものを再確認するといかに自分が曖昧 に語の意味を捉えていたかわかりました。例えば故という字。関係にあるもの、という意ですが わかっていませんでした。その意味を知ったとき、始めて故人、故意という意味がわかりました。 故人というのは亡くなった人と思っていました。恥かしいですが、過去の去と間違えていたので す。故人というのは自分と関係がある人ですし、故意というのは意図的にむりやり関係づけるこ とという説明ができるようになりました。故に、と書いて「ゆえに」と読む意味も二十歳を過ぎ てやっとわかる始末です。日本人でありながらしっかりと日本語が説明できない自分が情けなく なりました。それでも僕が気付けたのは外国に来て、または外国語に触れて、定義づけが言語を 習うのに当たり前という文化に触れたからです。それまでは何の疑問も持たずに日本語を使って いました。外国人に日本語を教えてくれ、説明してくれと言われたときもうまく説明できません でした。あるときフランス人と話をしていて、彼がBonjourとは「良い日」という意味で 晴れた良いを共有するというあいさつだが、日本語の「こんにちは」とはどういう意味だと質問 されたことがあります。僕は「おそらく」という前置きをしてから、「こんにちは」は「今日は」 と書き、本日はどうもという、また今日も出会いましたねとお互いを確認しあう言葉を短縮した ものだと答えました。辞書で調べたわけでもありません、全部僕の推測です。恐らく間違ってま す。しかしそのフランス人は定義の国の人です。僕が日本語を習うときにしっかりとそう習った のだと信じて疑わなかったはずです。僕が言った「おそらく」という言葉を僕は「推測だが」と いう意味で使いましたが、彼は「確かこう覚えたはずだが少し忘れてしまった」と取ったことで しょう。僕は僕なりに頑張りながらも外国人一人に定かではない日本の知識を与えてしまいまし た。外国人と触れあう機会があった日本人も意識的か無意識に関わらず、きっと僕のような体験 をしていることと思います。外国人が3人の日本人にある単語の定義を訪ねたら3通りの答えが 返ってくると思います。日本語は曖昧、と言えるわけですが、言語は曖昧というのは日本人だけ の考えのようで、日本人はしっかりと日本語の特長を知った上で、日本語を考えなければいけな い時代になっているようです。

外国に行き「なんとなく」で通じないのは言葉だけではありません。せめて「なんとなく」では 言葉は通じないと思うことができれば、そこから全てに通じるはずです。説明能力、これこそが 今日本人が必要としていることです。自分のこと、自国のことをわかってもらう。立場をわかっ てもらう。自分の長所や短所を含めた特長を伝えることができ、相手を分析したり欠点を指摘す ることができる。日本人が外交に弱いと言われるのも、外国語ができないといわれるのも、性格 がいまいち理解できないと言われるのも、全て説明不足と言えるでしょう。言葉をきちんと説明 できること、すなわち日本語がきちんと説明できること。それは言葉だけの問題ではなく説明能 力という日本の国の問題でもあるわけです。日本がこのアメリカ化のグローバル社会の中で世界 を相手に戦いって行くこれからはアメリカの説明能力文化に対応しなくてはなりません。ある意 味日本人の良いところでもある「なんとなく」と「心の通い」。これは日本文化ですし、大事な ことで残していくべきです。しかし一歩外で出ればそれは弱点になってしまうということもこれ からは知っていかねばならないと思います。

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K.Wakabayashi
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