初めてヨーロッパに行ったときの話
(04/05/02)
今から4年も5年も前のこと。一人でヨーロッパに行った。一人で、ということがなんとも味噌で、 響きの良い反面、あれ程人間の脆さが出ることもないなという思いを経験されられた。
米国に家族で滞在していた高校時代、典形的な働き蜂だった親父がここぞとばかりに卒先して旅行 に出るぞと言い、家族4人でフロリダからナイアガラ、テキサス、ユタと西海岸を除いた全米を 馬鹿デカいバンで走り周った。そのため旅行には慣れていたが、高校卒業後に家族で日本に戻って くると私は一人旅をしてみたいという衝動に刈られた。大学が決まらず浪人同然だったもので、そ の空いた時間を幼いなりに活用したいと思ったのだ。
行き先は欧州。米国は既に旅行済みなので次は欧州かという単純なもの。今思えばアジアという 選択肢もあったが、灰汁の強いアジアよりは先ずは欧州のほうが一人で行くには賢い選択だったと 自負する。欧州へ行きたいと思う気持ちの何処かには高校時代の友人の存在も大きいかった。高校 には数人欧州からの留学生がいた。ほとんどが東欧人。彼らと話を重ねるにつれて何処か暗い時代 を引きずる東欧に惹かれていたのかも知れない。ところが東欧に行くとなると大変だ。西欧なら社 会も安定していて観光客も多く便利だが、入国ビザ一つ取っても、日本のパスポートでフリーに入 国出来る西欧に比べて東欧だとそうは行かない。それならばと思い付いたのが、西欧国内にある東 欧の奮囲気を持つ都市はどこだということだった。目的地はドイツのベルリンに決定。19歳の頃 の夏だった。
目的地を決めてからはベルリンという名前が大きな存在になった。歴史で言えばロンドンやパリ のほうがディープだろう。暗い時代の影を見るというならロンドンには産業革命による都市化によ り悪辣な労働者階級の暮らしがあった。数多くの詩人が残した暗い倫敦。そしてパリにはこちらも 暗さでは負けない「あゝ無情」ユゴーが描いた市民革命当時が持つ暗い時代。その中でベルリンは 新しい。鴎外が描く「舞姫」の世界のベルリンは華麗であるとも言えるプロイセンのビスマルク時 代である。しかし前近代のそれらの印象を忘れるようなインパクトが東西分断のその地というベル リンにあった。冷戦、この実に暗い言葉は実際には私には現実的に響かない。その暗さは日本にも そして一方の当事者である米国にもない。最も暗かったのは分断された彼の地であるベルリン。高 校時代に見たヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」を思い浮かべる。実に人間らし い天使が人間に憧れて世に降りるストーリーを殺那なベルリンの街を通して美しく描かれた作品だ。 その天使が人間になる前の話は白黒で描かれる。冒頭に彼が飛行機から見降ろすベルリンの街。天 使役のブルーノ・ガンツが飛行機の中でボソボソと「ベルリン」を語り出し、最後に「東京、京都、 パリ、ロンドン。。。ベルリン」と呟き、ベルリンの空が映し出される。まるでB29から見た東 京の街のような印象を受けるその写法に影響され、それはそのまま期待に変わっていった。
だが、その期待は何に裏付けされた期待だろう。頭の中だけで存在する欧州像。その頭の中では私 はいつでも安心できる日本の地に帰ってくることができる。勝手な想像。その通りのようであった 気がする。実際私はベルリンの街に着いた頃は既に幾分か後悔の念を持っていた。
10月半ば、名古屋空港より一日かけてベルリンへ向かった。途中千歳空港を経由する愉快な便だ った。これから2、3週間欧州に行くというのに売店の北海道みやげに心が行っている。帰国した 時も同様に千歳で一休みした。数刻後には息子の道楽旅行の帰りを空港まで迎えに行かなければな らない母親は、欧州帰りの筈の私から「北海道にいる」という電話を受けた時、そっけなく「ふー ん」と答えた。名古屋を経って半日、私は乗り継ぎ先のアムステルダム空港に着いた。乗客の大半 を占める日本人ツアー客とはゲートを出てすぐに別れた。ツアー客と言わずほとんどの乗り継ぎ客 はここから西に向かうはずである。欧州の観光地と言えばロンドン、パリ、ローマが定番。修学旅 行のごとく引っ張り回されるツアーでも大体3都市は押さえてある。アムステルダムから東と言う とドイツだが、どの観光ガイド本に目を通してもドイツを頭に持ってきている本は見たことがない。 ドイツはあまり観光には向かないようだ。メルヘン街道などのツアーもあるが、これは主要観光地 を制覇した人の次段階の目的地であろう。まして私は更に飛び越えて誰も行かないベルリンまで行 く。それも一人の初旅行で、である。
アムステルダムでは随分と待たされた。乗り継ぎ便の出発が相当に遅れていたのだ。時間が有り余 ったので日本円をオランダギルダーに替えて喫茶店で軽い食事をした。ついでにドイツマルクも手 に入れておいた。これが後で随分と役立つ。カフェには想像通りサンドイッチが主なメニューとし てウィンドウに並んでいた。しかし定番のハムや玉子の他に見た目の悪い魚のサンドイッチもあっ た。後で知ったがオランダではハーリングと言い、ニシンの酸漬けをパンに挟んで食べるものらし い。知ってみると、さほど珍しくもないものだが、初めてで正体の解らないものはやはり不気味な のだ。昼過ぎにはアムステルダムに着いていたのに、ベルリンのテゲル空港に着いた時は空港の施 設が全て閉まっている深夜だった。これは予想外。空港の施設が全て閉まっているということは両 替所も観光案内所も利用できないということだ。何よりせわしない。入国の審査が呆れる程に簡単 に行われた時は気付かなかったが、空港職員は皆揃って早く帰りたいという奮囲気だったのである。 私が乗ってきたアムステルダム発の便が最終便。恐らく通常なら最終便はもっと早いはずだ。国内 線並みの距離で、乗客は皆軽装。観光客らしいのはいない。重そうな荷物を持っているのは私だけ であった。こうなるともはや電車の駅と同じ。気の利いた対応はするはずもない。空港がどんどん 暗くなるので私は慌てた。実は到着がこんな深夜になるとは思っていなかったので、現地に着いて 探そうと宿もロクに取っていなかったのだ。無計画のツケが早々と訪れた気がした。足早に観光案 内所に向かい、ユースホステルの場所を聞く。二人いた女性の一人はもう帰り仕度をしていた。対 応してくれた女性も表情は嫌々である。それでも紙に住所だけは記してくれた。小さな小さなター ミナルの外へ出て、ガイド本の地図を見ようとしたらあまりの静けさに驚いて辺りを見回してしま った。後ろでは私の出るのを確認した職員がターミナルの入り口を閉めていた。同じ便に乗ってき た乗客誰一人として居らず、タクシーすらもいない。右方を見ると一台だけバスが止まっていた。 私は一も二もなくバスに駆け寄った。このバスが行ってしまったら私は路頭に迷う。恐怖心でのと っさの行動だ。時差と乗り換えの疲れでボケでいた頭は冬のベルリンと寒さと焦りで既に冷めてい た。
バスに走り乗った私は運転手に先程の紙を見せ、英語で「ここへ行くか」と尋ねた。もしその場所 まで行かなくても、中央駅など人が集まる場所に行けば何とかなると思っていた。しかし当然と言 えば当然だが、運転手に英語は通じなかった。高校の時に少しだけ習った実に幼稚なドイツ語で、 「ココ、行く?」と尋ねた。返事は「ヤー」、つまりイエスだ。ホッとして席に向かおうとしたら 運転手に「マネー」と言われた。安堵してしまいバスの運賃を忘れていたのだ。しかしマネーとい う英語だけは国際共通語であるらしい。運賃を払う際、アムステルダムのスキポール空港で換えて いたマルクが役に立った。もし換えていなかったら現金のマルクは無い。内心ゾッとしたものだ。 バスを降ろされたらもうどうしようもない。もしバスの乗客が私だけなら頼んで両替してくる間待 っていてくれたかもしれないが、一人若いビジネスマン風の乗客がいたのである。彼も私と同便に 乗っていたことであろう。出張でオランダに行っていた、そんな様子だ。彼はバスが動き出して十 分程の住宅地で降りた。私は運転手の横に座り地図を見ていたが、真夜中で初めての国で現在地が そう簡単にわかるものではない。そんな折、バスが止まった。運転手は、紙に書かれた住所はここ から歩いて2、3分のところだ、と言う。私は重ねて位置を確認したが、大した説明もないままバ スは行ってしまった。真夜中のベルリンに一人ポツンと降ろされて時計に目をやると時刻は午前1 時を指していた。
私は焦っていたはずだが、なぜか愉快な気分になりベンチに腰を降ろした。一服した後、私は現在 の位置を確認するために先ずバスを降ろされた場所の表識を読んだ。エルンシュトロイタープラッ ツ。長たらしい名前だが、その時緊張感一杯の私は今でも覚えているほど鮮明にその名を記憶した。 ローター状の交差点をぐるっと見渡し、通りを探した。見渡す限りは通りには誰もいなかった。何 しろ夜中の1時過ぎ。紙切れに書かれた住所のみを手掛かりに取り敢えず歩きだした。不安な想い の中、10分程歩くとその番地に着いた。しかし紙に書かれた番地の数が無い。辺りを行ったり来 たりしても、数は大きくなり、小さくなるだけ。並木の下に立って一息ついてから目の前にある番 地の書かれていない古くて埃がたつ廃虚のようなビルのドアをそろりと開けてみた。ギィというド アの音はお化け屋敷感覚そのままだったが、人間切羽詰まるとできることもある。中に入って行く と電気はついているが実に薄暗い。入り口付近に上のほうがよく見えない階段が見えた。演出効果 は抜群だ。階段の昇り口には看板があって、ユーゲントガストホウズ4階と書いてあった。英語に 訳すとユースゲストハウスである。やはり紙に書かれていた住所は正しかった。しかし未だ落ちつ いてもいられず、階段を登り始めた。階段を登るにつれて、明るい声が聞こえてきた。4階まで辿 りつくとドアがあり、中から声が聞こえる。ドアを押して中に入ると若者達数人が談義中であった。 私はドイツ語で彼らに、ここはホステルか、と確認の意味で尋ねた。彼等は頭を捻った。私の独語 が通じていないと直感したが、違った。次の瞬間彼等は「英語が喋れるか」と英語で尋ねてきた。 米国人と英国人のバックパッカー達だったのである。私はホッとして荷物を降ろした。奥に小さな バーがあり老婦人がいた。仏頂面のその婦人に話しかけると彼女が職員だという。ピクリととも笑 わないきつい顔。ドイツ人のイメージは案外正しい。早速4日程泊まれるように言う。部屋はある が、クレジットカードもトラベラーズチェックも駄目だという。現金のみ。私はベルリンについて 両替しようと思っていたので、アムステルダムで換えたのは五千円のみ。空港のカフェとバス代を 引いた額しか払えない。本当にギリギリだった。手持ちが三千円だとすると一泊二千五百円くらい だ。もしタクシーでも使っていたら泊まれなかったところである。とりあえず一泊分の料金を払い 部屋を獲保。残りは明日に両替して払うことを告げた。
部屋は狭かった。何の飾りもない物置のような空間。シングルベッドが部屋の3分の2を占める。 荷物をおいたらそれだけで終わりだ。私は靴と靴下だけ脱いでベッドに横たわるとそのまま寝てし まった。出発前には初日は興奮して眠れないかと想像していたものだが、いつ寝たかわからないほ ど呆気なく寝入った。疲れもあるだろうが、安心したのが一番の理由だろう。たまたま換えていた マルク、少しだけ会話が出来たドイツ語、たまたまバスが残っていたこと、なんとか見つけられた ホステル、ギリギリ持っていたお金。思えば薄氷の上をなんとか渡り辿りついたベッドだった。明 日は何処へ行こう、ベルリンで何をしよう。そんな先のことを考える余裕はまるでなく、とにかく 寝場所があることに安堵した初日。窓から入る隙間風もジャケットをそのまま着て寝てしまったの で気にならなかった。
続く
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K.Wakabayashi
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