Site hosted by Angelfire.com: Build your free website today!

マスコミのこと、(秩序<感情)の政治が窮地に導いている

(10-8-02)

私の家では朝日新聞を読んでいる。私はいわゆる「朝日論調」にはほとんど相反しているのだが、物心ついた頃から家では朝日新聞をとっていた。 まあ新聞を読むといっても読み方がある。父親はほとんどニュースかスポーツ欄しか読んでいない。母親も忙しさを理由にじっくり腰を据えて新聞を 読むようなことがない。弟に限っては新聞はテレビ欄のみしか読まれない。世の中の話題はほとんどテレビで知る。だから新聞の政治面や社会面は ほとんど何の影響も与えない。うちのそのような新聞への接し方が一般的であるかどうか知らないが、何となく新聞を取っていないと不自然なので 取っているだけ、そういう雰囲気がある。だからどの新聞を取ろうが結果的にはあまり変化はない。私の実家がある愛知県は中日新聞の独壇場で ある。何しろ他方から来たビジネスマンが多く利用するであろうホテルにも中日新聞しか置いていないところも多い。例えば四国に行くと、確かに 四国新聞はあるのだが、あくまで地方紙の立場を守り、全国紙とは別に扱われている。しかし、名古屋人は中日新聞を単なる地方紙の存在以上に 考えているようだ。だから全国紙を置かないホテルもある。日本で全国紙が売れないのは名古屋と北海道だけという。これを視野が狭いと思うか どうかはともかく、名古屋で全国紙は売れにくいことは確かなようである。ちなみに私は名古屋で毎日新聞や産経新聞をあまり見ない。売れないから であろう。世界一の発行部数を誇る読売新聞も中日の敵、巨人の親会社ということ安直な理由で、名古屋では人気は薄いようである。論調の差など 小市民には大した差はないようだ。と、いうわけで私の家で朝日が読まれていることも、大した要因はないようである。簡単に言えば、中日新聞で 十分事足りる名古屋で全国紙を取ろうとすれば、野球に関係なく部数も多い朝日新聞で、ということである。

実は私は高校生あたりまで全国紙は朝日新聞だけと勘違いしていた。それほど私の育った場所では他の新聞は見なかったのだ。更に新聞に差が あると知ったのは大学のとき。それまで新聞はただニュースを伝えるもの、と思っていたのだ。だから朝日と読売の違いはコカコーラとペプシの違い くらいであった。右と左の意味も知らなかった。そんな私も大学で政治学を専攻したで覚えたことが多い。元々マスコミは事実を忠実に読者に伝える ことが求められる。しかし人間のやる事、そこには必ず「意志」のプリズムが通ることになる。日本では特に、元来のメディアの使命である忠実な報道 を越えた、思想の宣伝としてのメディアという影響が欧米諸国に比べて強いことを感じた。コカコーラとペプシの差などではなかった。

右の思想と左の思想、政治に関して基本的な知識は大学で学んだ。それはユニバーサルな意味での定義だった。日本ではこれとは異なる定義が ある。天皇や憲法が絡んでいるためだ。悲しいが、アメリカのほうが政治学が進んでいると言えよう。アメリカでは右翼的な発想が政治を支配している が、学問ではバランスが取れている。政治学と実際の政治とは異なる、という前提で学ぶからだ。日本では政治学そのものが現実の政治と直結して しまっているかのごとくバランスを欠いている。日本ではなかなか政治学(要は政治哲学)が学びにくい。なぜだろうと自分に問いてみたが、恐らく ユニバーサルな意味での政治学そのものがキリスト教ベースの欧米型思想であること、つまり欧米の文化(特に宗教面)が背景にあるから、それと 異なる社会を形成している日本では欧米のそれは理解しにくい。それは仕方ないことだが、もう二つある。こちらは民族の欠点とも言えそうだ。それは 歴史に学ぶのが下手なこと、そして教育が苦手なこと、が挙げられる。学問としての政治哲学と感情の切り離し、これが苦手なのである。

歴史に学ぶのが下手とはどういうことか。政治とは人間のすることである。完全な解答はない。しかし人間、それほど違ったことはしないのだから、 前の人間が起こした失敗を知ることにより、同じ失敗を繰り返さないように努めることができる。逆もある。同じような悪条件に陥ったとき、過去の同じ ような条件の中でそれを救った例を参考にすることができるということだ。勿論、過去と現在では諸状況が違う。しかしそれらの状況を考慮すれば 歴史は大切なデータベースとなるのである。しかし思うに日本ではあまり歴史をそのような観点で見ない。過去の失敗を水に流して忘れてしまう 傾向が強い。日本人は前向きの生き方が大好きである。それは悪くないが、生き方の参考として後ろ(過去)を見るのも重要ではないだろうか。 水に流す、前向き、というのは願いである。感情的なのだ。歴史は歴史として、論理的にこれを検証しなくては学問に生かすことができない。戦争 は悲惨な歴史、と「悲惨」などという感情的な言葉を使ってはダメなのだ。しかしどうもそうしない。例えば日本が苦杯を舐めた大東亜戦争敗北。 今の日本はこれを大いなるデータベースとして現在の政治に役立てているであろうか。そうは思えない。戦争のことは基本的に論議しにくい雰囲気 がある。または全面的にこれを否定する。要は軍国主義反対、戦争反対、そして平和憲法死守の姿勢である。これは客観的に論理で導いた結論 であろうか。日本の敗北は軍国主義で戦争反対をせず、平和憲法を守らなかったからなのか。そうとは言えまい。軍国主義で痛い目にあったから 軍隊反対というのはデータの生かし方が単純すぎる。これは論理的ではなく、感情的である。感情で考え、失敗は忘れてしまっては日本はおかしく なるばかりである。実際、今の日本はおかしすぎる。では戦争に負けた理由を論理的に考えてみよう。軍国主義とは何か(ちなみにその定義も しっかり言えない日本人は多いではないか)。軍人に国の支配を任せたことである。政治不在だ。ただしそれは国を滅ぼす直接的な原因には ならない。軍国主義でもしっかり国を運営していれば、あそこまで大敗することはなかった。つま当時の日本に軍国主義という言葉を使っていいのか も疑問なのだ。真の軍国主義なら中国と交戦しながら大国アメリカと戦争は起こさない。私は剣道の経験があるが、敵を前後二人に廻したら勝ち目 はない。しかし大日本帝国はそれをしたのである。その理由を細かく言うと、状況を空論で誤魔化した軍人官僚のせいである。更に細かく言うと、 面子のために国益よりも陸軍や海軍といった省益が優先してしまった。これではダメである。更に正当な攻撃の予定であった真珠湾攻撃も、 危機感が喪失した外務官僚のミスで卑怯な攻撃となってしまった。間抜けすぎる。しかしこの間抜けな失敗を日本人は学んだか。省益が優先して 国益をおろそかにする。危機感がない。政治不在で官僚が国を支配してしまっている。どれも現在の日本の問題点と全く同じである。過去の失敗に 目を向けず、感情的に悲惨さだけに目を向けるから、実は問題の核ではない単なる軍国主義批判に陥ってしまうのだ。エリート官僚に国を任せる。 実はこちらが問題の核なのだ。それはおざなりになっている。そしてもっと悪いのはスケープゴートにされた軍隊である。国家の必需品である軍隊を だましだましに扱ってきたから、強気な外交もできずに失敗の連続だ。感情だけで中国や朝鮮に贖罪的な目を向けるから、いつまでも彼の国に つけ上がられるのだ。前も後ろも見れない状況である。この問題を日本のマスコミは国民に伝えているであろうか。否というしかない。

教育が苦手。これも大きな問題だ。しかし科目にもよる。少なくとも理系の教育は悪くはない。ただ政治教育があまりに下手である。科挙のごとく 歴史や社会科についてもペーパーテストで実力を測ろうとするからダメなのである。採点は確かに簡単だ。しかし、政治は完全な解答がない。 解けない問題もある。過去にはない問題もある。だから正解のある問題ばかり解く学習では人材が育たない。これも実は上の問題点と同じである。 現場の経験がないエリート官僚(軍人)によって日本は敗北した。当時の日本が抱えていた問題は完全な解答がなく、過去にもない問題だったの である。それを打破できる才能を養う教育はペーパーテストではできない。人材というのは政治家だけではない。試験に合格して職に就く官僚 はじめ、社会に訴えるマスコミも国の大きな人材なのである。日本が潰れないのは民間企業の頑張りがあるからだ。民間企業には淘汰の法則があり、 成功できなかったり、悪いことをしたら淘汰される。常に血は循環されていくのだ。つまり現場で経験を積み重ねているのである。そういう企業は 厳しい国際競争の中でも生き残っていく。保護の元で甘い汁を吸っていた銀行が危機にあることからもよく理解できるはずだ。しかし日本の政治を リードしていかなくてならないポイントは銀行と同じで淘汰の法則が働いていない。政治教育が上手なら、世論によって淘汰されていくはずなのだが、 世間の政治を見る目もまた疑問なので、結局ドス黒い血によって日本は悪い方向ばかりに向かっていく。秩序とは何か。国民が安心して暮らせる 社会をつくることである。政治に関わる人間は国家をそう導くのが努めだ。そのとき、そのときで時には非情の決断も行わなくてはならない。政治家 というのは「決断」する職業である。決断の対義語は「先送り」である。決断できなかったからだ。決断できない理由は感情が邪魔をする甘さと、 ペーパーテストで過去の先例しか学んでこなかったことによる実力不足と判断力の自信のなさである。問題を先送りする政治家が多いということは 知られているところだ。決断をサポートするはずのマスコミもまともに問題解決に意見を述べられないのだから。こんな政治家たちに導いていて もらっては国家はどうなるのであろう。

欧米型政治学は日本社会で学びにくいと話したが、それは悪い面ばかりとも言えない。日本人は欧米人とは違う政治のやり方で国を治めてきた。 その手腕は欧米に勝るとも劣らない。「欧米型政治」は日本人には難しいが、「日本型政治」でそれに対抗しようと思えばできるのだ。江戸時代まで は実際にそうしてきた。直接欧米と関わることはなかったが、社会の成熟度や独自の政治哲学は同時代のヨーロッパより優れていたことも多い。 ただし、それには条件がつく。私は日本の政治を武士型政治と貴族型政治に分類する。日本が優れていたのは武士型政治である。鎌倉時代から 明治時代まで日本は武士型政治であった。最近は貴族型政治に戻ってしまった。そのような差があるのか。武士は実力を持ちながら貴族に身分 の低さだけで不当に扱われてきた。まず平将門が関東に(武士が実質支配する)独立国を建設するために朝廷に立ち向かった。そして平氏の時代 を経て武士による鎌倉幕府が成立。武士の政治とはどんなものか。まず身分の差は残ったが、貴族政治より比較的実力が重視される。特に乱世で はそうだ。乱世においては知恵がないと生きていけない。生き残った者も家を守るために責任感が芽生える。そして武力、つまり軍事力をもって 治める。なぜなら支配している正当性は軍事力だからだ。自分のテリトリーを守るための自分勝手な戦争を起こしたとしても、それは結局国民を守る ことにも繋がる。本当に自分勝手なら負けてそこで終わりである。何より支配者が危機感を持っている。ところが、貴族政治は違う。まず支配する正当 性は血つまり家柄である。実力に裏付けされていない分、身分の差は広がり、下の者を一層見下すことになる。軍事力を持たないから危機感もない。 守るべきは一族だけで、それは国民の利益に直結しない。責任感もない。問題は先送りし、追い詰められると辞めればいい。やり方は得てして勝手 である。この違いに気付くと日本の政治が見えてくる。かつてイザヤ・ベンダサンが絶賛した「政治天才の日本人」とは武士のことである。そして 日本人の精神年齢は12歳と言ったマッカッサーが言った日本人とは貴族(下の日本人)である。軍国主義の戦前が貴族型政治というのはイメージ がわかないかもしれないが、陸軍大学校に代表されるエリート意識と傲慢さ、そして軍事力に関する現実的な見解ができなかったことを考えても 戦前の軍人官僚は貴族型政治であったと言えるだろう。荘園制度などおよそ政治と思えない滅茶苦茶な政治を行った平安貴族たちは結局武士が その力を奪った。武士は何も貴族を抹殺したわけではない。天皇家も滅ぼしたわけではない。ただ自らの手で「普通の政治」に戻しただけである。 また中世日本には寺社勢力という利益をむさぼりとるとんでもない利権集団がいた。座でカルテルを作り、関所で莫大な交通料を取った。一番困る のは庶民である。物価は高いし、物は流通しない。これを壊したのは貴族ではない。貴族は寺社と組んでこの利権のおいしい味に乗っかった。 結局この悪癖を叩き壊したのは武士の織田信長であった。昔の寺社勢力は現在の特殊法人と同じである。この利権にむさぼる貴族政治家たちを 滅ぼすには比叡山焼き討ちのような荒業が必要である。沢山の僧たちを虐殺したから信長は酷い人、などと感情に訴えいては何も変わらない。 過酷な弱肉強食であるアメリカ主体のグローバリズムに呑み込まれようとしている今、日本人の中から信長が出てこないと困る。ペリーの黒船ように 外圧からしか変われぬなら、不平等条約に苦しんだペリー以降明治初期のように日本は欧米諸国に対して劣悪な環境と化してしまうだろう。 結局、貴族型政治とは自己中心の感情と利益が先走るバランスが欠如した政治で、武士型政治とは感情を押し殺した秩序主体の政治のことだ。 今の人間に武士道のような精神は期待できない。武士型政治はある意味で理ばかり先走る非人間的な政治でもある。政治家は人間だからある程度 感情も考慮してしまうことはやむを得ない。ただ貴族型政治のように度を過ぎた自己利益中心の政治を正すには、マスコミが論理的な秩序を提唱 して世論をサポートしなくてはならない。日本のマスコミは、しかし、残念なことに実に貴族的なのである。

話が長くなったが、朝日新聞の話題に戻りたい。いろいろ語ってみたが、朝日新聞というのはどうも全ての面で適合しているのだ。悪い点で、である。 まず右や左という定義が、日本ではプリズムを通ると言ったが、朝日新聞は見事にそのプリズムを作っている。客観的報道が思想によって歪められ 読者に伝わっている。歴史にも目を向けていない。安易な軍国主義批判は正確な批判ではないと言ったが、それは朝日に言いたいことである。 感情に訴えてはいけないのだが、朝日の論調は正に感情に訴えている。そして超現実主義といっていい軍隊に関することに朝日は一種のタブーを 強要している。朝日の論調は実に空論が多い。現実主義を無視した空論は真実を伝えない。マスコミは論理的秩序を訴えるべきと言ったが、 せめてマスコミは真実をそのまま伝えるべき、と妥協して思うのはこうした現実があるからだ。マスコミの政治的知力がない限り、下手なプリズムを 通すと逆に国民はふとそちらになびいてしまう危険があるからだ。メディアは広告ではない。政治が判らないならば事実を淡々と伝えるだけで よいのだ。下手に誘導されては困る。

政治を判っている人間は恐らく日本の新聞には期待していない。記事はヘッドライン程度、大胆な論説がなく、その論説は的を得ていない。また、 日本の将来に関わる大きな問題が何かも伝わらない。一つの問題をじっくり時間をかけて伝えないからだ。論説が雑だというのは、匿名で無責任な 空論がほとんどという点もあるが、何より一元的な意見のみで終わるからだ。政治に関してはよほどのことがない限り意見は分かれる。政治的決断と いうのは利益と秩序と感情のバランスで行われており、その答えはペーパーテストのように完全な解答はない。昔は政治家が自分の裁断で秩序 を作りあげていたが、今はなるべく多くの者が納得する決断が問われ、そのために選挙で国民の代表を選ぶ。それが民主主義政治で、日本は その政治型を取りいれているのだ。そのため、分かれた意見で、それぞれの主張を載せなければ読者が判断出来ない。正解はないのだから、 なるべく多元な意見を載せないと真実に近づかないのだ。例えば憲法問題だ。憲法を改正するべきか、改正しないべきか、またその方法はどんな ものか。それは新聞社が判断することではない。新聞は改正派、護憲派それぞれの意見を多様に載せ、読者の判断に任せる。そのバランスが 取れるように計らうのがメディアの役目だ。そして、自分たちの考えに合わないからといって報道を不当に控えるのは問題だ。隠蔽である。朝日新聞 には特に偏見的な報道が多いと思うのはこうした仕事をおろそかにしているからだ。

全てが悪いわけではない。報道は報道としてきちんと行っているのはわかる。しかし事実を述べた後で、「悲しいことだ」とか「慎むべきである」とか、 読者の判断を意図的に肯定か否定かに導くような言葉が記事の最後を飾っている。そして、およそ関係ない事柄を持ち出し故意に関連付ける記事 も多い。よくあることだが、中国や韓国のある事件を報道する際に特にそれが目立つ。特に政治に関してはバランスが取れている限り、無理やり 他者の立場にたつことはないのだが、朝日を読んでいると何か日本の外から日本を評しているような印象を受ける。多くは客観的というより、 非日本人的な文章である。朝日新聞の論説はほとんど匿名なのだが、まるで中国人や韓国人が彼等の意図で書いたようなものが多い。日本を 第一に考えてくれていない新聞は甚だ困る。極(ポール)はしっかりと国益の立場に立たせ、そこにおいてバランスを取らなければならないのに、 極が立っていなかったら界はバランスどころか方向性まで失ってしまう。友好やら親睦やら、確かに大事なことには違いないが、それには限度がある のである。工作船を領内に送りこんだり、上陸して国民を拉致するような国や、反日感情をいつまでも剥き出しにし、あからさまな内政にまで口を 出してくるような国とはそれほど友好を真剣に考えなくて良いのである。ほとほどに牙を向けてこない程度に相手にすればよい。しかし、現実は 尾っぽを振って迎合するような友好論と、結局牙を剥き出しにされている現状である。敵が敵である以上、一方的な歓迎ムードが通用しないことは 中学生でもわかる。マスコミがわからないのは中学生以下の頭しかないか、わかっていながらやっているのである。どちらも害である。肝心のところで バランスを失い、日本の視点からも脱落しかけた新聞は日本にとって必要が不必要か簡単な問題である。不必要ならまだしも日本に害をもたらす 新聞は国賊扱いされてもおかしくない。

有史以来、我が先人達は偉大な歴史を育んでこられた。文明を築き、文化を創り、それを伝え、土地を守り、暮らしやすい国をつくってきた。各民族 が地理的に分裂していた時代から、白人によって世界は支配と被支配の二極化に分かれた。それが軍事力であれ、今の経済力であれ、日本は 白人に対し常に肩を並べてきたのである。その日本人の心は広く外国に、特に今も白人による被支配に苦しむ有色人種たちに伝わっている。 そんな日本人の功績がここ数年の政治家はじめマスコミたちの愚行でどんどん泥を塗られている。そんな愚行は本当に困る。

世界には様々で相違な価値感を持った人がいる。その中で、「良い」と「悪い」の区別はどんなところでつくのだろう。私の考えでは、同一民族間では 宗教や習慣が善悪を分ける。他民族間では秩序と感情がそれを分ける。日本人が外国人に評価される部分はそこである。秩序と感情。秩序とは 日本人の行動を第三者の目で論理的に評価することであり、感情とは己の立場から日本人の行動の損得を考えた評価である。秩序で日本を評価 する代表は東南アジア諸国や台湾である。支配国である欧州列強に代わり、新たにつくられた日本の秩序を評価している。日本が良い悪いでは なく、システムをつくった日本人の行動の評価である。良い悪いの百かゼロの論議ではなく、その中の優れたシステムは優れたシステムであると 素直に評価しているのである。他にも戦後日本の復興を知るアフリカ諸国は経済において高度成長を成り遂げた日本の行動を高く評価している。 感情で日本を評価する代表はフィンランドやトルコである。彼等はロシアという敵に苦労してきた立場から日露戦争に勝った日本(つまり敵の敵は 味方)を高く評価するのである。損得で考えたとき、ロシアの敗北は彼等の得になったからである。感情で日本を評価する悪しき代表は中国と朝鮮 である。秩序的評価を全く試みない彼等はとにかく感情に訴えるのである。秩序と感情は政治学の基礎である。自らの感情と客観的な秩序の バランスが即ち政治である。そう考えると、客観的な秩序が欠落している中国と朝鮮に政治テクニックはあっても優れた政治哲学はない。そんな 隣国を持った日本は不運であった。日本は日本の政治をすればいいのである。そしてその行動は中国や朝鮮以外ではおそらく正当に評価される。 そして隣国を啓蒙してゆけばよい。真の政治哲学が欠如し、感情だけで日本に矛をむける隣国と友好関係はちと危ない。外務省や朝日の一辺倒 な弱腰が日本の国益になるはずはないのである。対象とする極を隣国に置いてはいけない。明治の日本は隣国など気にしなかった。見ていたのは 世界(欧米列強)である。日本が朝鮮と戦争をしたであろうか。世界を見なければ生きていけなかった日本にとって、朝鮮はそんな対象ですら なかったのである。日本が東アジアで秩序を保つために朝鮮を併合したことと、朝鮮が可哀相と訴えて同情することと、どちらが政治であるか、 日本人は判断が下手である。戦前だけではない。戦後、日本は経済発展に朝鮮戦争の特需を利用した。そうした冷静な政治が結局東アジアに 大きな秩序をもたらしたのである。現在、世界はアメリカ型資本主義(グローバリズム)の渦に巻き込まれていく。欧州各国はユーロの実現で新しい 秩序をつくろうと努めている。日本の政治が目を向けなければならないのは隣国か、それとも。。政治を知るものはそれを知らなければならない。 もちろんマスコミもである。

日本のマスコミも結局中国や朝鮮と同じなのである。自分の損得を計算した感情的にしか物事を語れない。朝日はとにかく空論的平和主義、そして 隣国ばかりに極をおいて、自国の視点からも足が浮いている存在なのだ。バランスが欠けている。世界の国々は己の国益を守ることで必死なので ある。そしてその政治的決断は感情と秩序のギリギリのところで動いているのだ。日本もこれに同じでないと真っ先に潰される。その感情と秩序の ギリギリの政治的決断を、日本のマスコミが無知な感情論で世論を誘導するので怖いのである。真っ当な決断も不安視させ、不安な決断も見逃して しまう。そんなマスコミに誘導されて、本当にハラハラしてしまうのが、今の日本である。政治を判断するときは必要以上に感情を考慮してはならない。 それでは秩序は保たれないのである。利益がぶつかるとき、現在の社会では大岡裁きなど至極困難ということを考えれば、冷酷な決断もやむを 得ない。今の日本は秩序より、自己中心的な権利ばかり蔓延る社会になってしまっている。権利というのは西洋の哲学で、和の社会の概念ではない。 ない以上、権利には義務という秩序を一体化させねば機能しない。感情的になるあまり、そのことがうやむやにされて社会が混乱しているのが今の 日本である。なぜこれほど感情的になるのか。元々日本人の気質なのか。いや、それなら日本はもっと早くに滅びている。外国にも評価される勇敢な 日本人もいないはずである。戦後日本の堕落さ。それは感情ばかりに走り、政治無知を招いたのが原因であろう。その責任はマスコミにある。 そう考えてもおかしくはないではなかろうか。

--------------------------------

k.wakabayashi
oiseimairi2@hotmail.com