日本のお寺漫遊(増上寺・豊川稲荷)
(10/09/02)
増上寺--------------------------------------
徳川家の菩提寺である増上寺。歴史物が好きな私にとって東京へ行ったら是非訪れたいと思っていた場所だ。増上寺は徳川家康が小田原攻め で北条氏が倒され、江戸を所領とした後に菩提寺とした寺である。山手線浜松町駅からまっすぐ西へ歩くこと10分。大きな三解脱門が構える 後ろに巨大な堂が見える。増上寺は京都や奈良の寺のような古さは感じられない。代わりに見事な豪華さが感じられる。歴史としてのお寺では なくて、現在も活動している立派な本山である。ただ近代化しすぎていると感じられるところも多い。戦時中、空襲でほとんどが焼けたということも あるだろうが、豪華さに目がくらむほど何か現在の宗教法人の雰囲気が随所に感じられる場所でもある。ただ、そこらの怪しい宗教法人とは違い、 勿論、真っ当な宗教施設であるが、立派な三解脱門が少し浮いてしまっている気分になるのだ。寺の後ろには東京タワーが間近に見える。この コントラストも江戸と東京の何か融和した芸術作品に思えてくるのだから不思議だ。正堂から右手に進み、観光記念にお守りを買う。近所の女子 高生だろうか、二人組の若い学生がおみくじをひいて騒いでいた。境内には外国人の姿がよく伺えた。千手観音の石仏の前で写真を撮ったり、 ゆっくりとお堂を眺めたり。そんな外国人が多かった。千手観音像の隣には仏足石があった。仏足石とはただの版で、足型が彫ってある。仏像が 流行る以前はこの足型を見て、そこに仏様が立っておられると感じながら念仏したらしい。仏像で仏を表し、念じることもそうだが、仏教には 聖書のような決め事はないから、いろいろな方法で悟りの開きかたを思考錯誤していたのである。果たして多数がキリスト教徒であろう外国人達が 仏足石の意味が判るのか、などと空想しながら、自分が欧米の教会に訪れたときのことを思い出した。キリスト教徒でない私が、例えばミラノの 大聖堂を見てため息をついたように、彼等も日本の仏像を見てため息をつくのであろうか考えていた。仏教は多元的で、理解しにくいものである。 ただ私が宗教目的としての仏像ではなく、芸術作品としての仏像を彼等がどう感じるのか考えてみたかった。
お堂から裏に周ってみる。あまり人が来ないような裏手にひっそりと徳川家の墓所があった。ここに眠っている有名な御仁といえば2代将軍徳川 秀忠とその正室お江の方である。この将軍、家康の影に隠れてあまりメジャーな存在ではないが、パックストクガワーナと呼ばれた太平の徳川幕府 の基礎を固めた名政治家である。関ヶ原の戦いに遅参したことや、家康に頭が上がらなかったなど、温和な方と紹介されていることが多いが、 天皇行幸や紫衣事件など朝廷に圧力をかけ幕府を強固なものにしたり、自分の意見にそぐわぬ旧家康家臣たちを追放するなど、意外と大胆な 手腕も発揮している。戦争の大将としては才能はそれほどでもなかっただろうが、治世固めのあの時代には力を発揮した政治家だと私は思う。 増上寺が徳川家の菩提寺というのはそれほど有名ではないかもしれない。秀忠が隠れているのもそうだが、それは徳川と言えば日光の東照宮という イメージが強いからだろう。父秀忠に反発していたという3代将軍家光が増上寺より東照宮に力を入れたということもある。また江戸の寺というと 寛永寺というイメージが強い。寛永寺は風水学上で江戸(東京)の鬼門を守っている。それは徳川幕府から敵対する明治政府に権力が移っても 機能していくものなのだ。そして、徳川家の繁栄と一体であった増上寺は少し日陰の存在においやられたのかな、と思えてくる。それでも 徳川家の怨念を残さぬために、日光と並んで徳川を奉る増上寺は軽率な扱いはされなかった。現在の東京を作ったとも言えるお殿様の眠る増上寺 は今もその威光を世に伝えている。
豊川稲荷------------------------------------
商売繁盛で有名なお稲荷さん、愛知県豊川市にある豊川稲荷を訪れたのは子供の頃以来であった。そのときの混雑したイメージとは違い、 平日に訪れたこともあって、境内は随分と閑散としていた。名古屋駅から名鉄に乗り、豊川への分岐駅である国府(こう)駅で降りる。ちょっと先には 愛知県第二の都市である豊橋があるのだが、のんびりしたローカルな駅であった。時折、名鉄特急が物凄い勢いで駅を通過していく。名古屋を またいで豊橋−岐阜間は東海地方の主要線で、名鉄電車とJR東海道線が競争にしのぎを削る区間である。本数で勝る名鉄だが、JRより駅が 圧倒的に多く、路線も直線で結ぶJRよりも複雑なので、所要時間で若干劣る。町中ではどうしてもスピードが落ちるため、名鉄は豊橋−名古屋間で ガンガンに飛ばす。120キロ運転は私鉄で最も速いと聞いたことがあるが、その区間がちょうどその国府駅辺りでマックススピードになる。私の母方の 出はこの近くの旧東海道の御油宿なのだが、遠い親戚で名鉄特急に轢かれて死んだ人がいると聞いたことがある。確かに駅で通過列車が通ると、 勢いで足がよろけるほどだ。国府駅で15分ほど待ち、豊川稲荷駅行きの電車に乗り換える。さきほどの特急列車と違ってのんびりした各駅停車の 電車だ。国府駅から約10分、豊川稲荷の参道にあたる豊川稲荷駅に到着する。隣合ってJR飯田線の豊川駅がある。JRの立派な駅舎とは対照的に 名鉄の駅舎は随分ボロい。ボロいのは駅舎だけではなくて商店街も同じであった。駅から稲荷までは10分ほど商店街の中を歩くのだが、人がほとんど 歩いていない。みやげ物屋が並ぶが、歩いているのは私だけなので必ず声をかけられた。悪いと思ったが欲しいような物はないのでさっさと正門に 向かった。
正門から境内に入るとやはり狐のお稲荷さんが歓迎してくれた。正堂へと向かう。ここで私は正に狐につままれたような気分になった。豊川稲荷と いうのは神社だと思っていた。しかしお堂の中では般若心経が唱えられ、唱えているのは坊さんである。不思議に思って聞いてみた。「ここは神さん を奉っているが寺だよ。正式名は妙厳寺と言ってね云々」。私は豊川稲荷に来たのか、妙厳寺に来たのかわからなくなった。しかしやはり豊川稲荷 なのだ。不思議に思いながらも奥へと足を進める。どこにも豊川稲荷という看板が無い。歩いていくと、大黒天がいたり、弘法大師がいたり、ますます 判らない。奉っているのは天である。天とはインドの神様が仏教に採り入れられたもので、結局は仏であり神なのだ。いわば豊川稲荷は見事な神仏 習合の地だったのである。それが現在は分けて考えるから無理やり寺に神が祭ってあるのである。日本の宗教はまことややこしいと痛感した。 さて、最も奥の場所まで歩いた。先には何百本の旗に導かれた狐塚があった。森の中の先が見えない暗い道を歩いた。辿り着くとそこには大きな 岩があり、どうやらこの中に狐が封印されているような感じだった。そしてその周りには無数の狐の石像が取り囲んでいた。歩いて来るときも少々畏怖 したものだが、夜には絶対来たくない場所だなと思った。特に狐に見送られての帰りは嫌なものである。よく「憑く」というが、憑かれたら困るので 必死にお祈りしてきた。もっとも宗教なんてこんな風に信仰が始まるのであろう。壮大なことを謳っていても、一般には保身が信仰のきっかけになる ものだ。
狐に別れを告げて帰路についた。神社ではなかったので御札もなく、お守りも買わなかった。ただ不思議さがあり、納得しかねる場所であった。 どこでどう商売繁盛と結びつくかは知らない。もっともこっちはお願いするために訪れているわけでもないので、そんなことはどうでもいいが、何と なく自分が何に参りに来たのかイマイチわからなかったので、空虚な感が残った。門を出て、再び人気のない商店街を歩き、駅についた。 駅近くの弁当屋で、名物の稲荷寿司を買って電車に乗りこんだ。帰りの電車は名古屋まで直行してくれる。豊川を出て、豊橋、豊田、豊明と 三河地方には豊の字がつく地名が多い。昔から肥沃な地で農作物に恵まれていたのか、逆に恵まれなかったために豊の字をつけて豊作を願った のか。そんなことを考えているうちに再び名古屋の喧騒の中に帰ってきた。