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そして東京へ

(12/26/02)

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社会は常に物理的に流動である。勿論人口も流動的であるが、それは絶対物理的ではなく、また絶対経済利益的でもなく、人間が本能的に 抱える或る一定の精神的流動性が関与する余地が大きい。その影響の大小の割合は歴史性に深く依存する。定住民族においては神性に依存 するより武力に依存された権力が長く力を誇った歴史を抱える民族は精神的な流動性が若干薄い。しかしそのような国民が精神的流動性を発し た時、ベクトルが指し示す方向は必ず一定でその勢いは強いと考えられる。
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上に述べたテーゼは私が大学の論文で唱えたものである。砕いて言えば日本人は東京へ移動したがると言うことだ。東京が日本人に対して発する 求心力は外国を含めた他の都市が発するそれに比べて高いと言うことである。故に東京は世界最大規模の都市に成長した。何もこれが完全に 正しいとは言っていない。単に私が示した意見である。反論があるならそれもよし。ここでは全部は語れないが、私には多くの根拠を示すことができる からだ。まあ社会学に完全は正解はないので、ここではこの論を正しいものとして話を進めていくことにする。

私自身も来年には東京へ移住する。

なぜ東京へ行く必要があるのだろうか。私の住む愛知県は第二次産業の強い地域で、日本全土が不況と言われている中で就職には比較的 明るい地域である。愛知県の中心である名古屋は都市圏を含めた人口が四百万人を越す都市である。何も不服はないと思われる。ここまでは 従来の特に米国における文化地理学が基本的に唱える考え方である。経済面、利益面、そして生活保障面に基づく考え方である。これはある 意味正しい。しかし私はそこに更に精神的ベクトルを考えてみた。つまり私が東京へ行く理由、それは「ただ単に東京へ行きたいだけ」である。 そんなこと好みの問題じゃないか、と言われるだろうが「単に行きたいだけ」というのは経済性や利益性に基づく考え方ではない。(なぜ行くのか ではなく)なぜ行きたいのか、それはなかなか説明しにくい。憧れとも言える。理想とも言える。これは経済性や利益性を度外視した考え方である。 そしてなぜ行きたいところが東京なのか。これが私が言う「精神流動性」と「ベクトルは或る一定の方向に向かう」という考え方である。東京には 何かがあると感じる。だから憧れや理想が生まれる。私の理論を言うと、東京が中心だからである。何の中心か。それは歴史における権力の中心 である事実から発生される精神的な文化の中心である。何かが集まっているところから何が発生する。発生させたいなら何が集まる「そこ」へ行か なければならないとう精神的圧力がかかる。「そこ」が東京であると感じたときに目的を果たす発散の欲が東京へと目を向けさせ体を動かすので ある。逆に言えば、目的がなければ力は働かないし、発散させたいという欲がないと働かないし、目指す場所を感覚しないと働かない。そう考える と、学問を修めれば修めるほど知的欲求が増すので、そういう者こそそれを発散させたいと思うことになり、そういう者達が何かを感じる場所に 集まるというわけである。つまり教育によって高いポテンシャルを持つ者ほど一定の地に流動し、そこにて知の発散が活発化され、付加価値を 持った都市が形成される。例えばニューヨークは経済の街と呼ばれているが、経済という土壌で知を発散させたい者が集まり活発化されるので ある。ニューヨークと比べ東京はあらゆる方面での知の発散に対して求心力を持っている。求心力を言い換えると「魅力」であろう。私は魅了された のだ。なぜ魅了されたのか、それは知的欲求が生まれたからである。よく言われる「あなたのような人は東京に行ったほうがいい」と言葉。これは 無意識に人物を評価してその発散方法を理解した上でその者に伝えているのである。

しかしこれは別に東京が唯一絶対の価値というわけではない。現在の日本で考えてみても大きな地方都市は沢山ある。東京が絶対なら地方都市 は存在してはいないだろう。地元に残る者は別の精神的流動性が働いているとも考えられる。知の発散場所に地元を感じとったことということも あるし、知の発散を求めないためということもある。ベクトルは一つと言ったが、それは強力なベクトルが一つという意味である。米国と比べてみよう。 実は米国においては知の発散に最適な場所は東京ほど具体的にはない。産業の中心地の多極化、国土の広さ、民族の多様性など日本と異なる 要素が多いためである。加えて移民で成る米国民は歴史的に非定住的である。非定住的ということは常にベクトルは流動的なわけで、人口の 移動における精神的な力は至極弱い。簡単に移動してしまうのである。日本人は定住民であるから移動には多大な力が必要とされる。移動の度 に発生する力は大きい。移動回数が少ないから精神的流動性の方向が一定化されやすいのである。また日本は歴史の早い段階で政治の実権 が神性(権威)から武力(権力)に移行したために「中央」というものに対する概念が強くなったと考えられる。もし神性政治であれば、生活面における 宗教性つまり神の影響が大きい。神というものに生活を依存する場合は地勢的な概念はあまり関係ない。ユダヤ人がいい例である。しかし武力に おける権力に生活を依存する場合はどうしてもその権力が位置する場所に目が向いてしまう。ここで日本の特殊性も語らなければならない。本来 地勢的な概念の薄いはずの宗教生活でも日本では地勢的な概念が発生するのである。神の居所が明確だからである。氏神という概念があるし、 御所という神の子孫である天皇がいる「場所」がある。仏教でも元々大衆的な大乗仏教が入ってきたし、早いうちから宗教団体化されて仏の居場 所も比較的明確になっていた。更に複雑な地形の中で暮らしてきた日本人には自然を敬い自然と共に生きる習慣がついている。自然を意識する ということは「場所」について非常に敏感な民族だということだ。風水という考え方は外来ではあるが元々日本人にフィットする概念であったために 日本人の意識の中に深く刻まれている。そのように、日本人はいかなる外国の民族よりも強いポテンシャルを持った精神的流動性があるのである。 何をするために何処に行けばよいかという感覚が他民族より強い。積極的に海外旅行を楽しむという性格もこういうところに理由がある。そこに 長い幕府(中央政権)の歴史が積み重なる。天皇が京都にいた頃はまだ精神的なベクトルが東海道を上ったり下ったりしていただろう。しかし明治 以降の東京は多大な求心力を持つ都へと発展を遂げた。国際化が進む現在の東京の求心力はドメスティックな知の発散場所に留まらない。 世界という大きな魅力が発見された今、東京はその経由地として再び強力な求心力を持っている。

私は導かれるままに東京へ向かおうと思う。そこで理想としていた知の発散を遂げることができるならきっと満足感を味わうことができると思うから である。

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by K.Wakabayashi