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馬鹿の文章は無意味に長い。例:「虱潰し法」
・馬鹿で、己の馬鹿である事に氣附いてゐない場合。
・馬鹿で、馬鹿である事を欲しない場合。
・馬鹿で、馬鹿である事を欲する場合。
手の込んだ嫌みを言つて、相手に腹を立てさせる。
「死に至る病」とは馬鹿の事である。
馬鹿は知性における、すなはち自己における病であり、そこで三樣の場合が考へられる。
・馬鹿で、己の馬鹿である事に氣附いてゐない場合。
・馬鹿で、馬鹿である事を欲しない場合。
・馬鹿で、馬鹿である事を欲しない場合。
キエルケゴールは絶望を論じて、「しかも救濟はまさに死ぬことにおいて、往生において、成立する」と述べてゐる。殘念ながら、馬鹿に關して、この言葉は眞理ではない。「馬鹿は死ななきや治らない」と言はれる一方、「馬鹿は死んでも治らない」と云ふ説も根強い。
一方、自覺的な馬鹿については、以下の事柄が知られてゐる。
・自分で自分を襃める馬鹿。
・自分で自分を貶める馬鹿。
いづれの場合も、馬鹿以外の何ものにもならうとしない邊が、この手の馬鹿の特徴である。馬鹿は、馬鹿であるがゆゑに惡いのではない、馬鹿以外の何かにならうとしないので惡いのである。
他人を馬鹿呼ばはりしてゐる人間は、馬鹿以外の何ものかに屬すると云ふ譯でもない。もちろん、馬鹿以外の何ものかにならうとして、馬鹿を罵る人間もゐる。しかし、馬鹿以外の何者かであらうとする人間を馬鹿と罵つて快感を覺えるタイプの馬鹿も確かに存在するのである。このタイプの馬鹿は、馬鹿を罵る際に、一切の論理を用ゐず、レッテルを貼つたり、「常識」を振りかざしたりするのを常套手段とする。自分の罵倒が犯罪的である事に氣附かないのも、この手の馬鹿の特徴である。この手の馬鹿の目的は大概、相手を默らせる事である。相手が默るまで惡口を止めないし、相手が默るととても喜ぶ。
このタイプの馬鹿は、「迷信家」に多いが、イデオロギーを盲信してゐる人間にも屡々見られる。なぜか、本多勝一に心醉してゐる人間は、常にこのタイプの馬鹿である。
このタイプの馬鹿の知性は、ひたすら嫌みを言ふ事にのみ向けられる。手の混んだ嫌みを言つて、相手が腹を立てさせる。相手が腹を立てて、をかしな行動を取ると、この手の馬鹿は、鬼の首でも取つたかのやうに喜んで、さらに惡口をエスカレートさせる。
そして、この手の馬鹿は、常に匿名かダブハンを使ふ。
>自覚のない馬鹿は、もっと困りものですけどね。
全くもつて、その通りです。
ちなみに私は、アレクセイ田中幸一さんに、
>野嵜健秀さん、貴方が馬鹿じゃないんなら、私が馬鹿なんでしょうね。
と言つていただきました。「自覺のない馬鹿」は困りますが、「馬鹿だと云ふ自覺がない」からといつて、その人間が馬鹿である譯ではありません。
まあ、その邊りの論理がわからない人間は、自覺のあるなしに關係なく、客觀的に馬鹿であると言へさうです。論理的に物事を考へられない、或は、客觀的に自分の發言を省る事のできない人間は、馬鹿だといつてよろしいでせう。そして、客觀的に自分の發言を反省できる人間は、前後で論理的に矛盾した發言をしないものですし、したら恥入るものです。論理的に矛盾した發言をして平氣な人間は馬鹿です。そして、さう云ふ人間の決り文句が、「マナー違反」であり、「道義的義務」であり、「自覚がない」です。論理性を無視する馬鹿に限つて、禮儀とか道義とか云ふ主觀的な基準に頼りがちです。そして、さう云ふ主觀に頼つてゐるにもかかはらず、自分の意見は一般的であると信じて疑はないのも、馬鹿の典型的なパターンです。
田中さんのお考へによると、俺が前囘引用した「貧困なる精神・貧困なる知性――近藤和宏氏について」の筆者こそ、ネットワークにおける言論の在り方を辨へぬ馬鹿者と云ふ事になりますな。だつて、ネットワークにおいて些事に過ぎぬ「同一人物か否か」と云ふ點について、それこそムキになつて、「親の顏が見たい」も同然の罵倒までして、延々と嫌味たらしく反論してゐるんですから。田中さんみたいに泰然自若としてゐりやあ好いのに。「左樣な些事は論ずるに及ばず。同一人物と信じたくば御隨意に」なんてね。
あとで、あの筆者の名前を確かめておきますよ。田中さんの爪の垢を毎食前、バケツ一杯づつ呑ませてやらなきやあ。
上記の通り。
わらひ。
自分が馬鹿だと自覺してゐても、馬鹿が馬鹿である事に變りはありませんが。どつちにしても、馬鹿は迷惑です。
よくおわかりになりましたね。わらひ。
タイトルで言い尽くしてしまった(笑)。