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20.「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆- (1998.1.4) |
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世に「孝明天皇暗殺」と呼ばれる「疑惑」が語られてきました。幕末の激動の中、倒幕・佐幕両派の抗争の中で、岩倉具視と長州志士等によって、刺殺されたとも毒殺されたとも言われています。殺害方法がいずれの方法だったとしても、孝明天皇が暗殺された事は、紛れもない「事実」と考えていいのではないでしょうか? その根拠として、
岩倉具視や薩長土肥の開国・倒幕派にとって、孝明天皇は彼らの目標実現を阻む「敵」として映ったのではないでしょうか? だからこそ、孝明天皇は「暗殺」され、倒幕派により「幼君」(睦仁親王)が擁立されたのではないでしょうか? ちなみに、余談になりますが、孝明天皇の信任厚かった将軍・家茂も急死しました。この「家茂急死」も「暗殺」だったと言われています。そして、孝明天皇と将軍家茂とは皇女和宮を通して、「義兄弟」だったのです。
- 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
- 孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
- 薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。
(120)仁孝天皇┬(121)孝明天皇─────(122)明治天皇(睦仁親王)
└── 親子内親王(和宮)
┃
(T14)徳川家茂━━━━━(T15)徳川慶喜
さて、本題に映ります。ずばり言いましょう。なんと、明治天皇も「暗殺」されていたと。では、なぜ、そう言えるのか? まずは、下の表を通して、「即位前」と「即位後」の「明治天皇」(正確には睦仁親王と言うべきですが・・・)を眺めてみて下さい。
以上、即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)を比較してみましたが、誰が見ても、同一人物とは思えません。即位前、虚弱体質で臆病で字が下手で女官と遊んでいた「睦仁親王」と、即位後、相撲で相手を投げ飛ばす程の巨漢で字が上手く乗馬もこなした「明治天皇」。これらの事実から、「睦仁親王」と「明治天皇」が「別人」であったと考える方が、むしろ自然では無いでしょうか? これは一体どう言う事なのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。つまり、睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位したと。そして、睦仁親王は父・孝明天皇同様、岩倉具視一派によって暗殺されたのだと。
即位前(睦仁親王時代) 即位後(明治天皇時代) 睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。 明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。又、実際の顔にも「あばた」は無かった。 元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。 睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。 睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。 明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。 即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。
では「明治天皇」として即位したのは、一体「何者」だったのでしょうか? その名前もちゃんと分かっているのです。彼の名は「大室寅之祐」(おおむろとらのすけ)。そして、その出自はと言うと、先祖は南朝初代の後醍醐天皇!! つまり、彼は「熊沢天皇」同様、南朝の末裔だっのです。
「三浦皇統家」記録明記の南朝系図
┌義良親王(後村上天皇)・・・・・・・・・・熊沢天皇
(96)後醍醐天皇┼尊良親王─(97)興国天皇─小室門院
│ ┠──(99)松良天皇┬(100)大宝天皇
└(98)宗良親王─興国天皇(小松天皇) └光良親王・・・(173)大室寅之祐
つまり倒幕派は、頑迷で退廃的で「佐幕派」であった孝明天皇と、その皇子で虚弱体質で利用価値のない睦仁親王を暗殺し、長州に住んでいた南朝の末裔を擁立した訳です。これはある意味で、倒幕以上の意義を持ちます。つまり、「北朝」系の孝明天皇・睦仁親王に代わって、「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)が即位する。明治維新とは、実は「王朝交替」だった訳です。だからこそ、孝明天皇(北朝)の「忠臣」だった徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(南朝)にとっては「逆賊」となってしまったのです。
これを裏付ける「証拠」が「皇統譜」(皇室系図)に載っています。
昭憲皇太后上の系図を見ての通り、明治天皇の正妻は「昭憲皇太后」です。この名前にキーワードが隠されているのです。天皇の后妃ならば、本来、「皇后」と付けるべきです。つまり、この場合、「昭憲皇后」と言う訳です。しかし、実際には「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる「皇太后」の尊称が付けられています。更に、明治天皇の子・大正天皇の生母は典侍だった柳原愛子(なるこ)です。なぜ、明治天皇と昭憲皇太后の間に子供が出来なかったのでしょうか? 昭憲皇太后が子供を産めない体だったのでしょうか? 私は決してそうではなかったと思います。
┃
孝明天皇─明治天皇
┠──大正天皇
柳原愛子
孝明天皇─睦仁親王(本来の明治天皇)
┃
昭憲皇太后
明治天皇(大室寅之祐)
┠────────大正天皇
柳原愛子
もし、上記の様に、昭憲皇太后が睦仁親王の正妻だったとしたらどうでしょう? 明治天皇(大室寅之祐)と昭憲皇太后との間に「関係」がなかったとしても、別段、不思議ではありません。むしろ、その方が自然ではないでしょうか? 自分の夫を暗殺され、更に夫の名前を語って即位した者に、体を預けるでしょうか? 現在よりも「女の操(みさお)」を大切にしていた時代の事、尚更です。昭憲皇太后は終生、御所内に「幽閉」されたも同然であったのではないでしょうか? 又、こう考える事で、初めて「皇太后」尊称の意味が通るのです。「明治天皇」にとって、短命だったとは言え、「睦仁親王」は孝明天皇より皇位を継承した「先帝」です。その先帝の妻だったからこそ、「皇太后」なのです。そして、柳原愛子こそが、明治天皇にとっての本来の「皇后」だった訳です。
しかし、明治新政府が「王朝交替」を秘匿した事、その王朝交替が、孝明天皇・睦仁親王父子「暗殺」と、明治天皇「すり替え」と言う姑息な手段によって実現した結果、日本最大の動乱−戊辰戦争を引き起こしてしまったのです。そして、戊辰戦争自体も「南北朝争乱」の一つの産物だったのです。
参考文献
提供情報
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