國語審議會 |
今日、實家で朝日新聞を讀んでゐたら、國語審議會は「表外漢字の活字書體は康煕字典書體を基本とする」やう案を出してゐるとありました。混亂を防ぐ意味でも、これは重要であるやうに思ひます。
昔、JIS78を採用してゐたNEC PC-9801シリーズと、JIS83を採用してゐた他社のパソコンやプリンタで、漢字の舊新字體が入れ替るといふ問題を見てきた、昔からのパソコンユーザは特に、表外外字は傳統的な字體のままが良いのに、勝手に弄つてくれるな、といふ人が多いと思います。
あと、ローマ字では姓−名の順を原則とするといふ案ださうですが、ようやくといつたところです。
國語を守る事 |
中華民國は領土を失つたので、國語を守つたのであります。國を喪はないと、國民は自分の文化のありがたみがわからない。
「最後の授業」の登場人物・アメル先生は、國語を守る國民は牢屋の鍵を握つてゐるやうなものだ、と言つてゐます。
もつとも、大陸の中華人民共和國も、簡體字は識字率を高める爲の方便で、いづれは本來の漢字に戻す積りだつたさうですが。
明朝體と筆寫體 |
>坂東太郎さん
明朝體と筆寫體ですが、英語のアルファベットでさへaは筆寫體ではaの形ではまづ書かないし、Qはヒゲの部分は活字體すら樣々な書かれ方をするので、漢字となると尚更でせうね。
さう考へると、明朝體は裝飾性の高い書體なのではと思ひます。デザインを重視して筆寫體とは違ふ書き方や、飾りを付けたり。印鑑で使はれる篆書体も、また違ひます。
だから、書體によって形が違ふのは當然だと思ふのですが、果たして、正しい字體の基準をどこに求めたらよいのか、これは難しい問題ですね。
香港では「しんにょう」を筆寫體と同じクネクネした形にした明朝體が使はれてゐるやうですが、そこまで極端にやる必要があるかというと、これもちよつと疑問です。
>近衞兵さん
>祖父に教えて貰ひました。
これは貴重な機會ですね。私なぞ教へてもらはうと思つた時には祖父はなし。
やはり、實際に正字・正假名を使つてゐた世代に聞くのが上達の近道だと思ひます。細かい疑問點もすぐわかりますし。
正字・正假名は面倒だといふだけで全面否定する人は多いですね。でも負けないで頑張つてください。http://kan-chan.stbbs.net/word/
はじめまして |
初めてカキコさせて貰ひます。近衞兵と申します。僕は八月半ばくらゐから正假名遣ひを使つてゐます。祖父に教えて貰ひました。正漢字は辭書を引いたりして現在勉強中です。僕は學校でも正字・正假名を使つてゐるのですが、皆理解してくれません。正字・正假名に好意的な人が居ません。破壞されてしまつた自國の文化を取り戻す事に關心がない、關係ない、どうでもいい、皆そんな感じです。
日本は一時逃れ |
從來の漢字を手放さず假名のやうな表音文字も使はない電子立國の臺灣が、最も自國民を馬鹿にしてゐなかつたといふ事です。近年の日本の片假名の威張りやうは異常ですね。若者とコンピュータおたくを喜ばすだけの状態になつてはゐませんか。支那の簡體字を嘲り笑つてゐる場合ではありません。
最先端の用語を先づは片假名で書く、これでその場は切拔けられたとしても後は何も無い。いつぱうで、漢字で書かれた、漢字の造語力が見事に發揮されてゐる臺灣のコンピュータ用語の見事さには関心させられますね。
臺灣は憧れ |
臺灣には舊字體が無い。少くとも今世紀の文學作品はその儘讀める。これは普通の國なら當り前の事なのに、日本では不可能な事であり、羨ましささへ感じます。
又、ヘ育敕語程度の文章でも「漢字ばかりで」讀む氣にもならないといふレベルになつてをり、内容に就いての議論以前の問題として表記の問題が直に立塞がつてしまひます。
支那は哀れ |
力で領土を廣げて統治しようといふ漢民族にとつては自業自得なのですが、支那には支那で假名の如き表音文字を持たないといふ事情があります(「ピンイン」はローマ字を下敷きにしてゐる限り國民の文字としては普及しないでせう)。
然し、我國では「常用漢字」なる略字を使用せねばならぬ理由は何一つありません。本質的に「日本國憲法」同樣の迷惑な押附けだからです「平和や民主主義は素晴しい」と言ひ包められて憲法を有難がるのと同じで、「常用漢字は便利だ」などと有難がる人々がゐるのは滑稽の極といはねばなりません。
活字の理論 |
私の下記の二つの投稿は何だか矛盾して見えますね。「活字と手書き文字とを一致させる必要は無い」と云ひながら、「PC上で『曾』でなくて手書き文字と同じ『曽』を遣ふべきか?」などと書いてゐるんですから。
活字は活字で、書き文字は書き文字で、それぞれに論理的・歴史的裏付けのある形を追究すべきです。ところが活字は書き文字を母體に近代になつて生まれたものですから、活字固有の論理・歴史と云ふのはどうしても乏しい。勢ひ、私が下で書いたやうに、「書き文字と同じ形にするのが正しい」となりがちです。
誰か、活字固有の事情(最も重要なのは可讀性でせう)を踏まえた、「正しい字體を決める理論」を提示してくれないものでせうか。
活字の問題 |
康煕字典の字體は、「曾」のやうに歴史的根據が乏しい字體がかなり多いさうです。「曽」のはうが書道の歴史からは正しい形なのだから、「正字正かな派」の人間はPC上で「曽」の字を遣ふべきではないか? しかし活字の「曽」の字はどうも軽薄に見えてしまふので困つたものです。活字の世界では「曾」にそれなりの敬意を表しても好いのではないか、と云ふのが今の私の考へです。
多樣な字體 |
「現代かなづかい」を信奉する「統制狂」は、書言葉の假名遣を話言葉の發音に無理に一致させようとしますが、愚かな事です。漢字も同じで、臺灣のやうに、活字と手書き文字の違ひを明確に意識し、遣ひ分けるのが賢明だと思ひます。手書き文字の中にはさらに楷書、行書、草書などがあるわけで、かうした多樣な字體を持つてこそ、豐かな文化と云へるでせう。
なほ、唐の時代からの正統な書道の楷書によると、「曾」の字は手書きでは「曽」と書くのが正しい形です。カタカナの「ソ」の原字なのですから、上の部分は「ソ」でないとをかしい。「曾」は清の康煕字典をもとに作られた活字體で、手書きでこの形を書いたら誤りです。我々現代人は活字を通してしか昔の字體を知らない事が多いし、手書きの機會も減つてゐるので、分かりにくいですね。http://members.aol.com/kimura39/
漢字統一 |
今日、東亞細亞の諸地域で使われる漢字は簡體字、繁體字、日本の略字の大別
される。ご存知の通り中國、日本では馬鹿げた略字を正字として使っている。特に
中國では"幾"を"几"と略すなど狂氣の沙汰だ。私は今の略字に憤慨する。日本の
略字といふのは、不思議な事に、あまり難しい字だと略化が行われないのだ。ゆえ
に私達が覺えなければならない部分は結果的に揄チする。それに曾という字も、
曽というのは略字であるので試驗などに出ると絶對曾と書かなければならないと
いう全く理解がし難い。そこで、もう一度舊字體に戻し、正字を統一しなければ
と思う。しかし、舊字體(繁體字)を使っている臺灣でも、"臺"という字は滅多
に使わないし、普通の庶民が正字を書く事は全くない。つまり、俗字がその分
發展し、正字では出來ない樣な思い切った(鹽→土偏にト)簡略化が出來る。
(竝という字は使われていない、並である)臺灣は゛表記は正字、書くのは俗字"
が徹底されていて、將に漢字先進國であると感じた。絶對漢字は舊字體だ!!
誤審 |
柔道のすかし技も知らない審判が五輪の決勝の主審だつたとは全く話に ならない。呆れた。 テレビや新聞の報道は總じて腰が引けてゐる。日本のマスメディアは、 あの馬鹿げた判定を尊重する必要など無いのだから、はつきり誤審と報道し 運營サイドの非を明かにしていくべきである。あれが誤審でないなら 誤審など世の中に存在しない。 「疑惑」だの「疑問」だのと括弧で括つた用語はこの際一切不要である。 件の主審自身も、「やはり西洋人を贔屓したか」と要らぬ勘ぐりを されない爲にも誤審を認めたはうがいい。 本家日本がこの儘默つて引込んでゐては、柔道は國際競技の名に價しなく なつてしまふし、選手も拐~的に立直れまい。
南北統一幻想 |
一昨日の朝日新聞一面には、五輪開會式で韓國と北朝鮮の選手團が竝んで
歩く寫眞が、日本選手團のそれより大きく載つてゐた。
着せられた日本選手自身がつかりしたであらう、あの「虹色」のマントが
いくらチンドン屋のやうだつたとはいへ、あの行進により國交正常化が
前進する譯でも無し、一見して朝鮮日報と見間違ふやうな變な紙面を
作つてしまふ感覺はどうかと思ふ。金さん同士の安つぽいパフォーマンス
以降、日本のマスコミの子供のやうなはしやぎ方はどうも戴けない。
では日本の年寄も若者と握手歡談行進でもしてみてはどうか。正しい漢字も
假名遣も、一氣に復權するかもしれない。
まあ現實には何をしようと、「よゐこ」なんて書き方が揩ヲるだけだらうが。
年寄の責任 |
梅干氏の正體に興味は有りませんが、高齡であらうとなからうと、 ああした態度で人にものを尋ねるのは、若い人の見本になりません。 かつて三島由紀夫は、全共鬪の學生を前にして、きちんとした言葉遣で、 文末も「です」「ます」にして話してゐました。そして、それが對話の ルールといふものだ、と説いてもゐました。これは立派なヘ育です。
洒落ですよ、突つ込み不可 |
鈴木幸夫氏によると、「支那」は歴史的に差別語となつてをり、公の場で言つてはいけないのださうであります。日本人に差別され、非道い目に遭つた「中國人」は、「支那」と云ふ言葉を聞くと不快に思ふのださうであります。
しかしながら、鈴木氏の主張は中途半端なものであります。歴史的に共産主義は間違つてゐた事が明かになつてをります。ならば國際社會で「俺の國は共産主義だ」と言張るのはいけない事であります。スターリン政權下で身内が肅清の對象となつたロシア人は、「中國」がいまだに共産主義を後生大事に抱へこんでゐるのをみれば、當然不快に思ふのではないでせうか。共産主義用語である「人民」は使つてはならない言葉ではないでせうか。
日本人は「支那」も「中國」も使はず、「彼の國」とでも言へば宜しいのではないでせうか。呵々。
「正しい」「正論」 |
現代の日本語で「あんたの言つてゐる事は正しい」は惡口であるやうです。「正論は反論のしやうがない、だから惡い主張である」、と云ふ「論理」が、世間では認められてゐるやうであります。
――無理が通れば道理は引つ込む。論理的に誰も反論できない主張をしても、「あんただけの正しいを押しつけるな」と言はれれば引つ込まざるを得なくなる。何が「あんただけの」だかわからないが、「あんただけの」と言ひさへすれば、絶對的の眞實も相對化されるらしい。古代の言靈信仰は、現代にも生きてゐる譯であります。
あのな |
挨拶もなしに、いきなり關西辯で話しかけんのは、なれなれしいんちやふか、あんさん。ここはウェブやで。あんさんの事、誰も知らんし、あんさんの都合なぞ、わてらにはわからんのや。
「本字は大きい」て、それあ「大きい本字は良えなあ」ッつふ話やらう? 正字正かなの頃の書物は、みんな活字が大きかつた――それあさうや。わいかて昔の本の方が讀み易いと思うてをる。だがなあんさん、希望と現實とを摩り替へたら、あかんで。つつこまれても當然や。
――正字正かな辭書に關しては以下を參照の事。關西辯は喋つた事がないので、間違つてゐても乞容赦。http://user2.allnet.ne.jp/noz/kotoba/Kokugo/IME/Orthographie.html
日本の「婆」も落ちたもの |
「本字」が略字に比べ見やすいかどうか話してゐる時に、何でいきなり「假名」が出て來るのか。譯がわからぬ。「正論」と認めたのなら、「間違つてをりました」と素直に云ふか、それが嫌なら黙つて去ればよからう。悔し紛れに「尊敬の念も消え失せました」とは、誠に見苦しい最後屁。「潔い」と云ふ言葉を知らぬと見える。
それにしても、「無理か???」だの、「必要なんか?」だの、「教えてえな!!!!!!」だのと無禮な文言を書き連ねた人間が、他人には「謙讓語」の使用を強要するとは、開いた口が塞がらぬ。
ある意味で御正論 |
確かに御正論
そやけど、本字が大きいになると
仮名も比例して大きいになるんちゃいまんのか?
もうええは、謙譲語の無い大風呂敷の御意見は。
ほな、御免やしておくれやして。
尊敬の念も消え失せました。
目の事なんぞどうでも好い |
梅干婆さんは「本字」だけを「大きく」書いた本や書を御覽になつた事がおありなのか。私はそんな奇怪な本や書は見た事も聞いた事も無い。この掲示板でも「畫」と「画」、「會」と「会」、「辭」と「辞」はどう見ても同じ大きさである。梅干婆さんが何を「解るやろ」と云ふのか、さつぱり解らぬ。
百歩讓つて、「本字」が「目に優しい」と假定しよう。「本字」は「目に優しい」、だから「本字」は善いものである−−と云ふ理屈を一旦認めたならば、「本字」は畫數が多くて「目に優しくない」と主張する年寄が多數を占めたら「本字」を廢止せねばならなくなる。そんな事になるのは眞平御免だから、私は「目の悪い年寄りに優しい、此れ大事やでえ」と云ふ梅干婆さんの主張を認めない。目に優しいだの優しくないだの、そんな事は國語にとつて全然「大事」でない。
確かに本字は目に優しい |
あのな、本字は画数が多いちゅうか
大きいちゅうか、其の為に細い字
書かれへんはなあ、字が大きいんや。
此れが、わてらには、ごっつうええねん。
解るやろ。
國語は特定世代の所有物に有らず |
「若い世代に配慮して」古典を略字新かなに改竄するのが間違つてゐると同樣、年寄の視力囘復を國語の目的にするのも誤つてゐる。それにしても、「本字」が「目に優しい」とは初耳。
關西辯 |
「梅干し婆」さんは人に頼み事をする手紙を書く時も、「關西辯」で「教えてえな!!!!!!」などと書かれるのか。「本字」の勉強なんぞより前に、學んでおくべき事がおありなのでは。
書けないが読める |
書けまへん。関西弁しか出来まへん。 そやけんど、本字はええわ、目の悪い 年寄りに優しい、此れ大事やでえ。 旧仮名使い、宜しいなあ。大賛成や どないしたら本字がかけまんのや?? 教えて欲しいなあ、特にPCではどない すんのやろ、孫のPC使うてんやけど 無理か???何か特別なTOOLが 必要なんか?教えてえな!!!!!!
プーシキン祭 |
ロシヤ國民にはトルストイやドストエフスキーより、詩人のプーシキンの人氣が高いらしい。昨年、モスクワでは彼の生誕何十周年だかを祝ふ祭が盛大に行なはれたと云ふ。ロシヤ人はロシヤ語を愛してゐる。それは即ち、ロシヤを愛してゐると云ふ事である。國語を蔑ろにする國民に「愛國心」など有る筈が無い。
日露もし戰はば |
「三佐」のやらかした犯罪が「漏えい」。
自國の軍隊を何十年も虚假にして平氣でゐる事と、阿呆な言葉遣ひを何十年も續けて平氣でゐる事とは、いづれも根は同じ、日本國民の知的怠惰であります。
右翼はロシヤを忌み嫌ふけれども、ロシヤ人は全體主義體制の下でも正教の信仰を捨てなかつた。勿論、ロシヤ語も捨てなかつた。戰後、假に日本が全體主義勢力に占領され續けたとして、我々は日本古來の文化を捨てなかつたであらうか。「自由主義陣營」に属してさへ今の體たらくなのだから、捨てなかつたと言ひ切る自信は殘念ながら無い。根性のあるロシヤ人と再び戰爭したら、日本人は勝てるか。
駐屯地 |
「當用漢字」の時代には、「駐とん地」としか表札に書け なかつたのですね。見るからに力の拔ける字面です。 國語を守るのは最終的には軍隊でせう。それなのに國語は 自らその守護者を馬鹿にしてゐた譯です。 當然ながら士氣も下り、冷戰が終つた今でもロシアに國を 賣らんとする「三佐」が現れる始末。木村さんの危惧した とほりになつてゐる。
銀座の街に裝甲車 |
自衞隊を動員した防災訓練なので「軍事演習のやうだ」と 評した心配症の人もゐたやうですが、では災害時には、 隊員皆リヤカーを曳いて行け、とでもいふのでせうか。 かういふ人には海外の災害地のニュースを篤と見て貰ひ、 裝甲車が如何に有用か勉強して欲しいものです。因みに 戰車なら火砕流にも耐へるさうです。 外國からの侵略に對しても自らの力で自分を守る氣概を 持つべき旨の都知事の訓話にも、いちやもんがついた。 然し折角實質的な軍隊を動かして、目の前にしてですよ、 首都の長が士氣を鼓舞する言葉掛けくらゐ有つていい筈だと 思ひますけどね。 「氣を附けて駐屯地へお歸りください、御苦勞樣」の挨拶 だけで終つたら、それこそ自衞隊は「災害屋」だつて事に なるんぢやないですか。
きむらき |
評論家の呉智英氏は御自分の名前を「くれともふさ」「ごちえい」のどちらの読み方でも好いと云つてゐますね。と云ふより、両様の読み方ができるやうな筆名をわざわざ選んだらしい。作家の結城昌治氏は筆名を決める時、「音読みでも訓読みでも読める名前が好い」とアドヴァイスされたさうです。「まさはる」「しようじ」とどちらでも読めます。学校や職場でも音読みが一種の愛称になつてゐる人は多いですね。池田勇人総理は「はやと」「ゆうじん」どちらでも呼ばれました。外人は「何でハヤトとユージンが同じ名前なんだ」と不審がるかもしれませんが、これは漢字に音訓両様の読み方がある日本ならではの文化です。
私も音読みできる名前に憧れては、木村貴は「きむらき」としか読めないから、どうも様にならないと思つてゐました。ところが、明治文学研究の権威、木村毅氏の御名前は「つよし」でも「たけし」でも「こわし」でもなくて、「き」と読むと知りました。きむらき、何だか格好よく見えてきた。
金さん |
台湾出身で日本語学校校長の金美齢女史がテレビの討論番組に出た時の事、他の出演者の一人が、しきりに「キムさん、キムさん」と呼びかけたさうです。支那語なら日本語と同じ「キン」なのに、その出演者は「金」はアジアではどこでも「キム」だと信じ込み、「日本流」に読むと差別になるとでも思つたのでせう。
今は江沢民を「こうたくみん」、毛沢東を「もうたくとう」と読んでも差別とは云はれませんが、そのうちどうなる事やら。いづれは孫悟空を「そんごくう」とも読めなくなるかも。
日本は未だに敗戰國扱ひ |
まァ、米國も中共も韓國も未だに我が國を敗戰國だとなめてるんでせう。
日本の敗戰國やーい。日本の罰當たりめ。おまへらは一生俺たちの言ひなりになつてゐれば良いのだ、と。
政治的にも民間の問題でも、明らかに不當な要求や批判は突つぱねるくらい出來ないといけないのに、日本も腰拔けなものである。
當初は西洋諸國になめられてゐて、不平等條約改正等々に盡力(じんりよく)しつゝ、西洋と肩を竝べられる大國にのし上がつていつた、あの明治時代の日本は何處へ行つたのだらうか。
いろは歌留多 |
私の手元に有るものには、「をいては子に従へ」「ゑんの下の力持」
なんて誤りが堂堂と書いてあるんですが、昔の人はさほど頓着せず
假名を使用してゐたんでせうか。
金嬉老 |
假釋放で韓國に里歸りしてゐた兇惡犯金嬉老が、性懲りも無く
又惡さをしたらしい。どこが祖國の「英雄」なんだか、普通の
日本人の感覺では呆れてしまひます。日本の新聞が「金さんが…」
なんて「さん」附けで呼んでゐるのも、なんか間拔けですね。
そして又「金」には「キム」と振り假名が有る。これに關しては
「キン」と一氣に音讀みしたはうが、「キム」と二拍で發音する
より實際の朝鮮語の音に近い、といふ説を聞いた事が有ります。
バックとは俺の事かとバッハ言い |
柳美里、柔かい感じの「やなぎみさと」のはうが日本人の同姓にも 受けがいいやうに思ひますけどね。「ここは日本なんですから、 好きなやうに讀んで下さつて結構」といふ度量がどうして無いんだらう。 「在日」だからといふので、名前が賣れるとすぐ祖國の鬪士だ、 みたいな事になつちやうのも不思議です。先日誕生したボクシングの 新チャンピオンもさうでした。
「薫り」は「かをり」か「かほり」か |
どうも契沖でさへ悩んでゐたらしいですね。
下の資料に書いてありました。
http://www.asahi-net.or.jp/~me3y-hys/yam015.htmhttp://www.asahi-net.or.jp/~me3y-hys/
いろはがるた滅亡の危機 |
最近「いろはがるた」の話を昔ほど聞かなくなつたが、やはり
京都版で「盲の垣のぞき」
江戸版で「癩(かつたい)の瘡(かさ)恨み」(癩(ライ)病患者は少しでも状況の良さそうな梅毒患者を羨む、の意)
があるから、いつしかタブーになつたのだらうか?
「大辭林」には特別ページにいろはがるたの一覽があつたが、『「いろはガルタ」には、差別的な表現を含む句もあるが、歴史的背景を示す観点からあえて原形で掲載した。』とのこと。かういふ注意書きでも付けないといけない時代とは……