投稿者:森 洋介 投稿日:07月15日(土)21時44分46秒
●野嵜様
野嵜さん曰く、
>擧句、私の「指摘」には答へず、[……]
>發言のをかしな點を指摘されても「贖罪」を行はない上、[……]
とりあへず「正仮名遣」に関してのみ、長くなるので「また今度」、と申した
ではありませんか。さう急いてはまた読み誤りますよ。今夜時間が無いので明晩
にでも「指摘」にお答へします。
さうですね、ひとまづ一晩お休みになってから、ご自身援用なさった前田英樹
氏の『ソシュール講義録注解』「まえがき」でも、虚心に再読なさっては如何で
せうか。私も読んでおきます。対象に即した方が議論は明確になりますから。
取り急ぎ。
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月15日(土)21時14分55秒
>あとは、拙文の一般的でなく「個人的」に過ぎなかった箇所をご指摘いただけば、
既に指摘してをります。
<引用 「(無題) 投稿者:森 洋介 投稿日:07月13日(木)21時10分42秒」より>
これは認識の違ひでせうね。
私は「言語学」≒「ソシュール言語学」と見てゐます。
この事は「感想 投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月15日(土)03時07分36秒」で指摘しました。
これに對する森さんのご囘答は以下の通り。
> 少々激してをられるご様子。それで私をきめつけるのは兎も角、他の方にまで
>とばっちりを喰はせては済まないので、以下申し添へておきます。
森さんは御自分の「指摘」は絶對無謬であると信じ込んでをります。
擧句、私の「指摘」には答へず、却つて私が「他の人にとばっちりを喰はせて」ゐると言つて
他の人に恩を賣つてゐます。
發言のをかしな點を指摘されても「贖罪」を行はない上、自分の信じてゐない事を主張する
人間の肩を持つてみせるのだから、森さんの立場は譯が解らないのです。
>卑怯にならぬやう私はわざわざ「特にご要望無き限りは自肅しておきます」と
>附言してゐたのですが?
意味不明です。自粛すると言へば卑怯にならないとはどう云ふ理屈ですか。
恩を賣る事が卑怯と「呼ばれない」爲の祕訣だと、森さんは勘違ひしてゐるのではないですか。
理屈と處世術とを、森さんは勘違ひしてゐるやうに思はれます。
>ナゼ敵か身方かといふ党派的に分けたがるのでせう。
なぜ、「党派」と云ふ言ひ方をするのでせう。
森さんの「理屈」を認めるならば、「トンデモ本」の著者達の主張にも「尤もな理、
生かすべき論がある」とか云ふ事になるのではないですか。
ソシュールには根本的に問題があるのですよ。森さんはそれを「認識」の一言で「問題ナシ」と
決めつけてゐるのですよ。ええ、何でも善意に解釋すれば「尤もな理」になります。
そして「なあなあ」で濟ませられる事になり、眞劍な討議も何も出來なくなる。
日本人らしい「八方美人」主義なんてものを森さんが信奉してをられるのは
非常に情けない事です。
中谷宇吉郎が金澤の街に下宿してゐる時のエピソード。
兎を飼ふ、飼はないと云ふ話になつた時の事。下宿の「未亡人」が「兔を飼ふなどといふことは
實際にはとても出來るものではないと、頑強に反對した」のださうです。「理由は、兎といふ
ものは、どんなに丈夫な檻に入れておいても、十五夜の晩には必ず逃げて行つてしまふからと
いふの」ださうです。
<引用 「科學以前の心」より>
到頭最後には、「さうやけどわたしは、ちやんとその證據を見ましたんやさかい」といふ
ことになつた。その證據といふのは、この小母さんがある町の鶏屋で、小さい檻の中で兎を
飼つてゐるのを通りがかりに見たことがあつた。十五夜になれば逃げて行つてしまふのに、
此の鶏屋も馬鹿な男だと思つてゐた。そしたらその次にその鶏屋の前を通つたら、兎の居ない
空の檻が置いてあつたので、よく考へて見たら、その間に、「果して」十五夜の晩が
「ちやんと」あつたのださうである。
</引用>
投稿者:森 洋介 投稿日:07月15日(土)20時35分10秒
●野嵜様
まづ題名から。曰く「「個人的」な「認識」を書込んだのは森さんも同罪」。
同罪――それが罪だとお認め下さるなら、ここに両者の一致を見られて大慶の
至りです。あとは、拙文の一般的でなく「個人的」に過ぎなかった箇所をご指摘
いただけば、その正否を勘案の上、私個人以外にも通用する認識へと鍛へ上げて
贖罪できます。勿論、こちらからも指摘致しますので宜しくご検討下さい。
で、野嵜さんの拙文に応じて曰く、
>>どう考へが違ってゐるか、仔細に述べるべきなのでせうか?
>
>述べないで逃げるのは卑怯です。
卑怯にならぬやう私はわざわざ「特にご要望無き限りは自肅しておきます」と
附言してゐたのですが? かうして述べろとのご要望のあった以上は、勿論、述
べさせて戴きますとも。あ、卑怯呼ばはりを謝られるには及びません、野嵜さん
に「認識」(といふより読解か)を誤った箇所だと認知いただければ結構です。
さて高崎さんの試案「正仮名遣」は電脳文字研メンバーを中心に検討、そこ
へ私が途中参加しました。討議は現在メイリング・リストにて進行中。
そのメイリング・リストにて7日附けで私は下記の通り疑問を呈してゐます。
| 何より、その手法[音韻主義]で「正仮名遣」が立派に出来上がったとして、それを「現代
|かなづかい」のやうに公布する成算はどれくらゐあるのでせう。公布できさうに
|なければ、無理に音韻主義から歴史的仮名遣ひを説明する必要もないでせうから
|(固より私は知的好奇心が先立ち、実践的・政治的関心は薄いのですが)。
お判りでせうが、これは本日の野嵜さんのご発言中、
>個人が何人か集つて、念入りな「内閣告示」のパロディを作つた所で、何の意味があるのですか。
>右翼が集つてクーデタごつこをしてみたり、左翼が革命を妄想したりするのと同じやうなもので
>はないですか。
>私も高崎さんや市川さんの業績は認めてをります。しかしながら、やつても無駄な事をやつて
>どうするのか、と云ふ「現代かなづかい」派の批判がある事を、皆さんはお忘れではないですか。
>森さんもお忘れではないですか。
に照応します。即ち、折角のご忠告ながら、そんな批判は既に考へてゐたので
あり、少なくともここに於て野嵜さんの「認識」の過誤は明らかです。
私の疑問に対する高崎さんからの応答の引用は越権行為だらうから致しません
(ご関心あれば前回投稿に示したメイリングの過去メッセージをお読み下さい)。
自己辯護に執するやうで気が引けますが、述べねば卑怯の誹りを受けますので、
私の考へだけ述べて高崎さんたちとは違ふ(であらう)所を示します。
元来私は、自分が歴史的仮名遣ひに拠る以上、もっと仮名遣ひに就て知りたく
思ひ、その原理や個々疑問仮名遣ひの解決やに就ての知識を深められることを期
待して「正仮名遣」の討議に参加したまでです。「現代かなづかい」に対抗して
内閣告示めいたものを作るといふやうな「実践的・政治的関心は薄い」のです。
これが恐らく私と高崎さん達との一番の違ひでせう。とはいへ、他の討議者が皆
一様な信念から討議に参加してゐるとは限りませんから、臆測できめつけてはな
るまいと存じます。
以上とりあへず「正仮名遣」に関はることのみ指摘させていただきました。抑
もの「ソシュールと時枝は対立するか?」といふ本題からすれば餘談、謂はば飛
び火の鎮火作業です。
本題に関はっては、下記に就てだけお返事しておきます。
>最後に森さんにおききしたい。あなたは「ソシュール言語學」の身方なのか、時枝博士の
>「國語學」の身方なのか。
>或は、原理原則が大事なのか、説得力が大事なのか。
ナゼ敵か身方かといふ党派的に分けたがるのでせう。如何せん、私は政治的関
心は薄いので、そんな踏絵には応じかねます。それをまた「八方美人」と言ふの
でしたら――褒め言葉(ほめ殺し?)と受け取っておきます。
冗談はさておき。私は単に「正しい」と思はれる方に就くだけです。敢へて主
義で言ふならば「党派心がなくつて理非がある主義」です(夏目漱石「私の個人
主義」)。
今回の原理原則としては、時枝誠記の国語学には尤もな理、生かすべき論があ
る、といふことが大前提です。これは野嵜さんと私で共通の筈。だからこそ、時
枝説を説得力のある形で提出できることが望ましく、色々申し上げてをります。
しかし時枝称揚のためソシュール否定に傾くのはよくないと思ひます。両方が正
しいと思はれる時には、両方を説明できる包括的論理を考へるべきでせう。
この件、長くなるので、また今度。(或いは掲示板では面倒なので、直接メール
ででもやりとりした方が捗ると思ふのですが、如何)
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月15日(土)17時21分38秒
私は森さんみたいな「大人」の態度をとれないのでして、納得が行かなければ徹底して
疑問を追求します。
>どう考へが違ってゐるか、仔細に述べるべきなのでせうか?
述べないで逃げるのは卑怯です。
或は、根據ナシに「私の意見は違ひます」と主張した所で、説得力がありません。
少くとも、確認させて「いただく」爲に必要な根據は、森さんから提示されてをりません。
「決めつける」根據だけは森さんが提示して「下さり」ましたが。
そもそも、自分の信じてゐない側の身方をして、反論してみろ、なんて言ふのは、「掲示板荒し」
の常套手段です。自分はソシュールを信じてゐないが、ソシュールにも「大事な側面」を
認めたい、だなんて、さう云ふ態度は「八方美人」と呼ぶのです。
最後に森さんにおききしたい。あなたは「ソシュール言語學」の身方なのか、時枝博士の
「國語學」の身方なのか。
或は、原理原則が大事なのか、説得力が大事なのか。
投稿者:森 洋介 投稿日:07月15日(土)13時06分55秒
●野嵜様
少々激してをられるご様子。それで私をきめつけるのは兎も角、他の方にまで
とばっちりを喰はせては済まないので、以下申し添へておきます。
確かに私は高崎さん作成の「正仮名遣」に就ての討議に参加させて戴いてをり
ます。しかし、高崎さんや市川さんと私とでは恐らく考へが違ってをります。一
緒くたに非難されては「正仮名遣」に関はる方こそいい迷惑でせう。
どう考へが違ってゐるか、仔細に述べるべきなのでせうか? しかし辯明は書
くより読む方がウンザリでせうから、特にご要望無き限りは自肅しておきます。
兎まれ、野嵜さんが「個人的に」如何に「認識」されようとご勝手ですが、そ
れが下記の如く掲示板に書き込まれてしまふと、それだけを見るこの掲示板の読
者には、森なる者の考へが即「正仮名遣指針」の方針なのか、などと誤解する人
が出来ぬとも限りません。それでは困りますので、高崎さんはじめ「正仮名遣」
に関はる方々と私(森)とではそれぞれ差異懸隔のあること、先づはそのことのみ、
ご「確認」いただきたく願ひます。
では失礼します。
参考
■以下野嵜さんのご発言
>森さんが「固執する勿れ」と云ふ主義をお持ちである事は明かになりましたので、私も心置きなく
>森さん達がやつてをられる「正假名遣指針」批判が出來ます。
>「現代かなづかい」に對抗する規範を作らうだなんて、非道く下らないと私は思ひます。
>そんな事をやつてゐるから、處世術みたいな「批判」をしないではゐられなくなるのではないか
>とまで邪推したくなります。
>個人が何人か集つて、念入りな「内閣告示」のパロディを作つた所で、何の意味があるのですか。
>右翼が集つてクーデタごつこをしてみたり、左翼が革命を妄想したりするのと同じやうなもので
>はないですか。
>私も高崎さんや市川さんの業績は認めてをります。しかしながら、やつても無駄な事をやつて
>どうするのか、と云ふ「現代かなづかい」派の批判がある事を、皆さんはお忘れではないですか。
>森さんもお忘れではないですか。
>
>「ソシュール言語學」を敵視する必要はない、とおつしやる森さんが、「現代かなづかい」の
>存在を認め、「現代かなづかい」を敵視しない「正假名遣指針」作りに一生懸命になつて
>いらつしやるのは、なるほど納得出來る事です。
「正仮名遣」及びその討議に就ては下記URL参照。
平成疑問かなづかひ
同上メイリング・リスト
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月15日(土)03時23分51秒
>福田恒存を愛読するとは、批判抜きの盲信では無い筈。
「批判込み」の盲信ならばよろしいのですね。私はさう云ふ意味での「福田信者」です。
或は、私は福田さんの弟子だから、師匠を信じます、信ずるに決つてゐます。
師匠を疑ひの目で見る「弟子」なんて存在し得ません。
小林秀雄(英夫ではなく)流に言ふならば、疑つて疑つて、それでも疑ひやうがないと思はれた時、
人は信じなければなりません。私は小林秀雄の「信者」です。
最後に、私は松原正先生の弟子であり、「信者」です。
だから、對立する二つの立場の間で、兩方に良い顏をする八方美人の態度を輕蔑します。
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月15日(土)03時16分14秒
>「(国粋主義と)誤解されたり、(殖民地国語統制に)利用されたりするやうな事を言っ
>てゐるのだから、時枝の「国語学」には最初から問題があるに決ってゐます」。
短見どころか、それは事實をねぢ曲げてゐるだけではないですか。「一理」も糞もありません。
私は、「ソシュール信者」がソシュールの思想を或意味「正しく」引繼いでゐると言ひたいのですよ。
それにしても森さんは「確認」が好きな人なのですねえ。
人の立場を「確認」する時は、まづ自分の立場をはつきり表明してからなさるのがよろしいのでは
ないですか。
ちなみに私は個人的に、森さんは「相対主義」信者であると認識しました。
森さんはこれに反論出來ません。何しろ「認識の違ひ」なのですから。
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月15日(土)03時07分36秒
●森樣。
>故にこれ位の言ひ抜けは並のソシュール信者なら楽にやってのけるでせう。
身内の人間の揚げ足取りはやめておいて貰へますか。
森さんの「批判」には、知つてゐてとぼけてゐる雰圍氣が露骨です。
> これは認識の違ひでせうね。
> 私は「言語学」≒「ソシュール言語学」と見てゐます。
この言ひ方は、相手を默らせる爲に個人の見解をさも一般的であるかのやうに見せかける
「言ひ拔け」であり「嫌がらせ」であります。
はつきり言つて、「言ひ拔け」に先囘りして反論を用意しておかないからお前の主張は駄目だ、
なる「批判」は批判ではありません。そんなの、「説得術」の問題ではないですか。
そんなものはどうでもよろしい。問題は原理原則です。
森さんが「固執する勿れ」と云ふ主義をお持ちである事は明かになりましたので、私も心置きなく
森さん達がやつてをられる「正假名遣指針」批判が出來ます。
「現代かなづかい」に對抗する規範を作らうだなんて、非道く下らないと私は思ひます。
そんな事をやつてゐるから、處世術みたいな「批判」をしないではゐられなくなるのではないか
とまで邪推したくなります。
個人が何人か集つて、念入りな「内閣告示」のパロディを作つた所で、何の意味があるのですか。
右翼が集つてクーデタごつこをしてみたり、左翼が革命を妄想したりするのと同じやうなもので
はないですか。
私も高崎さんや市川さんの業績は認めてをります。しかしながら、やつても無駄な事をやつて
どうするのか、と云ふ「現代かなづかい」派の批判がある事を、皆さんはお忘れではないですか。
森さんもお忘れではないですか。
「ソシュール言語學」を敵視する必要はない、とおつしやる森さんが、「現代かなづかい」の
存在を認め、「現代かなづかい」を敵視しない「正假名遣指針」作りに一生懸命になつて
いらつしやるのは、なるほど納得出來る事です。
投稿者:森 洋介 投稿日:07月14日(金)23時21分37秒
●野嵜様
>私は、そこまでソシュールを好意的に評價する必要はないと思ひます。
>誤解されたり、利用されたりするやうな事を言つてゐるのだから、ソシュールの「言語學」には
>最初から問題があるに決つてゐます。
まづ確認。「攻撃目標」はソシュールと云ふよりは「ソシュール信者」、でし
たよね。その上で――
(1)ソシュールは齧った程度の私ですら斯かる辯護をしてみせることができまし
た。故にこれ位の言ひ抜けは並のソシュール信者なら楽にやってのけるでせう。
こんな反論など豫期済みで折り込んだ批判でなければ、やはりソシュール信者に
は効くまいと懸念します。
(2)ソシュールの「言語学」には問題がある――私は既にそれを認めてゐるのです
が?(吾が仏尊しの信者ではありませんから) その上でソシュールの「反・言語
学」の側面も大事だらう、と附け加へただけです。そんな反面まで「評價する必
要はない」といふことでせうか。となれば何を以て「必要」となすか、ですね。
私は逆に「そこまでソシュールを敵視する必要はない」と思ひます。時枝誠記が
ソシュールを批判してゐたからといって、そんな恩讐を引き継ぐ義理はありませ
ん。もはや時枝の理解してゐた「ソシュール」と今日解釈される所の「ソシュー
ル」とでは異貌を呈してゐるのですから。ましてやソシュール言語学と時枝国語
学の合致をさへ指摘する論があるなら、それを用ゐた方がソシュール信者に対し
ても説得力があるでせう。それとも、ソシュール信者を説得する「必要」は無い、
とのお考へですか。
(3)野嵜さんのおっしゃりやうは一理ありますがいささか短見に失する恐れがあ
ります。例へば次のやうに言ひ換へたら、暴論だと思はれるでせう?――「(国
粋主義と)誤解されたり、(殖民地国語統制に)利用されたりするやうな事を言っ
てゐるのだから、時枝の「国語学」には最初から問題があるに決ってゐます」。
実際イ・ヨンスク氏辺りかう述べかねませんが、これが一理あっても短見に過ぎ
ることは明白と存じます。元来先方が短慮から(時枝を)誹謗するのだからこちら
も誹謗を以て報いるのみだ、とおっしゃるかもしれませんが、それでは低次元の
罵り合ひにはなっても、とても実のある対論には至れまいかと恐れます。
>福田さんの主張のどこにどのやうな問題點があり、どこが既に古びてゐるのか――等の
>レポートを望みます。
では、いづれ福田恒存のメーリング・リストででも少しづつやりませう。
その前に確認。福田恒存を愛読するとは、批判抜きの盲信では無い筈。野嵜さ
んはその意味の「福田信者」ではありませんよね? 信仰を争ふと得てして議論
にはなりませんから、何であれ信者との論争は避けたい存念でをりますので。
宣長が「かならずわが説にななづみそ」と言ったのは学問上の心得でしたが、
さういふご当人が上田秋成との論争では頑なに皇国主義を発揮してしまひ、信仰
表明にしかならなくなった悪しき先例を有し、門弟ときたら猶更師説に固執しま
した。固執せず、且つ過度の相対主義に流れず、とは、議論するもの誰しも課題
とする所でせう。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月14日(金)14時31分09秒
●森樣
> つまり「反・言語学」とはソシュール以前・以外の言語学への「反」であると
>共に、「言語学」として語られてしまふ自らの言説への懐疑でもあったと解され、
>それ故、やはりソシュールは両面的だったと思ひます。誤解でせうか。
私は、そこまでソシュールを好意的に評價する必要はないと思ひます。
誤解されたり、利用されたりするやうな事を言つてゐるのだから、ソシュールの「言語學」には
最初から問題があるに決つてゐます。
> 橋本進吉の論に就ては、以前、この掲示板でも少し疑問を呈しました。『私の
>国語教室』も仔細に見れば不満な点がありますし、同じく福田恒存著『批評家の
>手帖;言葉の機能に関する文学的考察』も、現代言語論と併せ読むことでより深
>く読み込めるのではないかと考へます。
福田さんの主張のどこにどのやうな問題點があり、どこが既に古びてゐるのか――等の
レポートを望みます。
物事に固執しないのは、日本人が自分で勝手に評價する「日本人的美徳」に過ぎません。
明治以來、日本人は少しばかり正義を愚弄し過ぎました。
ソヴィエト崩壊以來、イデオロギーを輕んじるやうになりました。
「價値の相對化」が大流行です。もつとも、日本人は宣長の時代から――否、元來、絶對的價値を
認めたがらない國民なのではありますが。
投稿者:木村貴 投稿日:07月14日(金)03時30分11秒
私の言葉足らずな書き込みが凄い議論に火を付けてしまつたやうで……。
森さん、説明不足で済みません。私が「痛快」と書いたのは、
野嵜さんが説明された通り、野嵜さんがいい加減な「ソシュール信者」を
厳しく批判してをられたからです。ソシュールその人の学問について云々
できるやうな知識は、私はそれこそ正真正銘の「素人」ですので、
ありませんし、それゆゑ、よく知りもしないソシュールの事を
頭から否定するつもりもありません。
私が嗤つたのは、盲目的なソシュール信奉者であります。
程度の低い連中を嗤ひのめす事は、学問的には詰まらぬ事かも
しれませんが、道徳的にはなかなか大事なことだと私は思ひます。
学問的な議論の続きは、私の出る幕でないので皆さんにお任せします。
それでは……。
投稿者:森 洋介 投稿日:07月13日(木)21時10分42秒
●野嵜様
行き掛かりとはいへ、ソシュール信者でもない私がソシュール辯護の役回りに
就くのも妙な話ですが……。
拙文に野嵜さんの応へて曰く、
>>即ち「言語学」へと至る契機がある一
>>方で、前田英樹氏の指摘する「反・言語学の問い」もあったわけで、
>
>前者の「言語學」は「ソシュール言語學」です。一方、後者の言語學はソシュール以前或は
>より一般的な言語學の概念を指しまして、「反言語學」即「ソシュール言語學」と云ふ事になります。
>「兩面性」はないのです。
これは認識の違ひでせうね。
私は「言語学」≒「ソシュール言語学」と見てゐます。野嵜さんも「日本に於
る一般的な「言語學」は「ソシュール言語學」である」(#)と書いてをられたでは
ありませんか。即ち、現代的「言語学」はソシュールを以て確立された――それ
以前の言語学の批判と共に。
ソシュールの「一般言語学講義」が弟子の編纂を経て「言語学」の代名詞にも
殆い(ほぼ言語学と同義の)「ソシュール言語学」を成立させるわけですが、とこ
ろで当のソシュール御大はと言へば、そもそも「講義」を引き受けるのさへ乗り
気でなく、公刊など以ての外だった(だからこそ死後編纂の『講義』には色々問
題があるわけです)。では何故ソシュールは乗り気でなかったかといへば、自ら
が「言語学」を語りつつも同時にそれに対する「反・言語学の問い」があったか
らだ、といふのが私の理解です。
つまり「反・言語学」とはソシュール以前・以外の言語学への「反」であると
共に、「言語学」として語られてしまふ自らの言説への懐疑でもあったと解され、
それ故、やはりソシュールは両面的だったと思ひます。誤解でせうか。
# 「國語學」對「言語學」
>「その後のソシュール研究(及び構造言語学)の進展」を考慮する必要があると言ふのであれば、
>當然我々も『私の國語教室』や橋本博士の「表音的假名遣は假名遣に非ず」に固執しては
>ならないと云ふ事になりませんか。
お説の通り、当然、固執してはなりますまい――福田信者や橋本信者でない以
上は。本居宣長も「かならずわが説にななづみそ」(『玉勝間』でしたっけ?)と
戒めたではありませんか。
橋本進吉の論に就ては、以前、この掲示板でも少し疑問を呈しました。『私の
国語教室』も仔細に見れば不満な点がありますし、同じく福田恒存著『批評家の
手帖;言葉の機能に関する文学的考察』も、現代言語論と併せ読むことでより深
く読み込めるのではないかと考へます。
素人考へですらさうなのですから、専門の方にはなほ異見がありませうし、も
っとそれを知った上で再考できればと望んでをります。ご示教得られれば幸甚で
す。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月13日(木)19時50分41秒
>即ち「言語学」へと至る契機がある一
>方で、前田英樹氏の指摘する「反・言語学の問い」もあったわけで、
前者の「言語學」は「ソシュール言語學」です。一方、後者の言語學はソシュール以前或は
より一般的な言語學の概念を指しまして、「反言語學」即「ソシュール言語學」と云ふ事になります。
「兩面性」はないのです。
「その後のソシュール研究(及び構造言語学)の進展」を考慮する必要があると言ふのであれば、
當然我々も『私の國語教室』や橋本博士の「表音的假名遣は假名遣に非ず」に固執しては
ならないと云ふ事になりませんか。
投稿者:森 洋介 投稿日:07月13日(木)19時03分23秒
>野嵜様
早速お返事ありがたうございます。
野嵜さん曰く、
>私の文章に於る「攻撃目標」は飽くまで「ソシュール信者」にあります。
また曰く、
>辨證法的な對立の解消はそれはそれで宜しいのですけれども、喧嘩腰に書くと色々と評判に
>なるものですし、個人的に對立を解消する前には互ひに徹底的に否定し合はねばならないの
>ではないかと考へてゐるものですので、當面「言語學」を敵にまはしたいと思つてをります。
さういふことなら了解です。しかしそれにしても、例に出しては失礼ながら、
例へば木村さんの反応より察せられる如く、時枝派のソシュール嫌ひの偏見を
助長するに留まり、却って対論にはならない危険性の方が大きくありませんか。
まづ、ご文章には、ソシュール批判なのかソシュール信者批判なのか辨別し
がたい所がありました。そのいづれにしても、小林英夫訳のみを頼りにソシュ
ールの批判と反批判が行はれてゐた時枝の時代とは違ひ、その後のソシュール
研究(及び構造言語学)の進展を考慮せねばならない筈です。それ無しにソシュ
ール信者を攻撃した所で、今時そんな不勉強な信者がゐるのか疑問ですし、ゐ
たとしても「攻撃目標」としては餘りに卑小、敵とするにも足りず、やはり生
産的な対論は望めますまい。
ソシュール自身には、おっしゃる通り「弟子によつて歪められ、弟子にとつて
都合よく中身を改變させられる契機」――即ち「言語学」へと至る契機がある一
方で、前田英樹氏の指摘する「反・言語学の問い」もあったわけで、その両面性
が重要です。敢へて「攻撃」するためとはいへ、これを単純化してしまっては、
所謂「最低の鞍部で越える」といふ奴で、敵を低く見積もるのに合はせて自分ま
で低める恐れがあり、批判としても上出来ではないかと存じます。まあ、これは
議論の仕方の問題ですから好き好きでもありませうが。
私も議論好きなので「和を以て尊しとなす」でナアナアにされるのは好みませ
んが、かといって挑発的に攻撃姿勢(「喧嘩腰」)を見せても中々思ふやうな効果
を上げられた験しがありません。大抵は、変に感情的になられて議論にならない
か(論といふ以上、論理的たるざるべからず)、或いは、こちらの方が多いのです
が、挑発に応じて貰へず、自分の領分に引き籠られて対話の拒否に終はるか、で
した。これでは全く「対立」以前です。従って挑発戦術を取るのは控へるやうに
してゐます。とはいへ他に良き策も思ひつきませんけれど。畢竟、私のレトリ
ックが未熟なのでせう。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月13日(木)15時52分42秒
●森樣
いつもお世話になります。
>別にソシュールを目の敵にせずとも
「攻撃目標」はソシュールと云ふよりは「ソシュール信者」にあります。
<引用>
よく讀めば、いや、好い加減に讀んだとしても、學問の對象として取敢へずlangueだけを扱ふ、
と云ふ事しかソシュールが言つてゐない事は誰の目にも明かだらう。或は、langueだけを採りあ
げて對象とすれば研究は簡單になる、とソシュールは言つてゐる。一般的な言語をソシュールは研
究對象にしてゐない。ただ、langueに關する研究だけをするのは簡單だ、と言つてゐるに過ぎな
い。
</引用>
そして、そもそも「ソシュール信者」が誤解したのは、ソシュール自身の解説に穴があつたから
だ、と言ひたい譯です。
或は、弟子によつて歪められ、弟子にとつて都合よく中身を改變させられる契機を、
ソシュールの講義ははじめから含んでゐたと言ひたい譯です。
前田英樹氏が飜譯し、註釋を附した『ソシュール講義録注解』(法政大學出版局)にはかうあります。
<引用>
言語の最も眞正で本質的な座を問ふとしたら、必要なことは、ことば(ランガージュ)……と
言語(ラング)を區別することである。後者はきはだつて社會的な事がらうにある。どんな
事象も、全員の事象になるのでなかつたら、出發點が何であらうと言語的には存在してゐないのだ。
</引用>
>その辺を追究した丸山圭三郎
>のソシュール読解によれば、ソシュールは野嵜さん謂ふ所の「難問」を決して避
>けてゐなかったのであり、時枝誠記の国語学とさう対立しないかと愚考します。
私の文章に於る「攻撃目標」は飽くまで「ソシュール信者」にあります。
>まあ何が何でもソシュールを辯護したいわけではありませんが、既にかうした
>論のある以上、ソシュール以来の言語学と喧嘩せずとも時枝国語学は主張できる
>かと存じますし、無闇に敵を作るよりは寧ろ「言語学」理論をも考慮した言語過
>程説を練り上げてゆく方が好ましいのではないでせうか。
前田英樹氏は『講義録注解』の「まへがき」でかう書いてをられます。
<引用>
けれども、彼の語りかたをついに「言語學」のそとへ、知の沸點の向かうがはへ連れて
いくものは、この自己註釋の執拗な運動なのだ。
</引用>
<引用>
だが、少しでも念を入れてこの「言語學入門」を讀めば、たちまちそれが溢れ出る反・言語學の
問ひにうづめつくされてゐることに氣づくだらう。
</引用>
本質的に、ソシュールの「言語學」自體が言語學と對立するものである、とは考へられませんか。
『言語過程説の研究』で川島正平氏は、三浦つとむ氏が時枝學説を繼承しつつ、
「ソシュールのラングとパロールの對立を止揚して、兩者を統一した過程的構造圖式を提出した」
と書いてをられます。マルクシストには御馴染みの辨證法です。
<引用>
本書で研究の對象となつてゐる言語過程説は、國語學者の時枝誠記(1900〜1967)が
その主著『國語學原論』(1941)において體系的に明かにした言語學説を、後に言語學者の
三浦つとむ(1911〜1989)が唯物論的に修正し發展させたところの理論をさしてゐる。
三浦つとむが發展させた言語過程説の理論は、彼自らこれを時枝理論の『批判的繼承』と
述べてゐる通り、内容的には時枝の理論と異なる部分が少なくない。
三浦は、大づかみな觀點からするならば、確かに時枝の理論を繼承してゐるといへるのであるが、
一方で、個別的な觀點からするならば、時枝理論を徹底的に批判してゐるともいへるのである。
</引用>
川島氏は「三浦のこの『批判的繼承』を本質的に正しかつたとする立場から」同書を書いて
をられます。私の「國語學」對「言語學」は同書の第1章に基いて記述したものです。
辨證法的な對立の解消はそれはそれで宜しいのですけれども、喧嘩腰に書くと色々と評判に
なるものですし、個人的に對立を解消する前には互ひに徹底的に否定し合はねばならないのでは
ないかと考へてゐるものですので、當面「言語學」を敵にまはしたいと思つてをります。
なにしろ私は「和を以て尊しとなす」日本人を批判する立場にあるので、對立は大好きなのですよ。
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月13日(木)15時05分22秒
●木村樣
こんにちは。
>時枝さんの本も読みたいのですが、絶版ばかりなので、古本屋の無い所に住んで
>ゐるとなかなか手に入りません。
インターネットにウェブサイトを開いてゐる古書店で、たまに時枝博士の絶版本が出てきます。
海外まで送つて貰へるかどうかはわかりませんが。
●匿名希望樣
はじめまして。
2ちやんねる方面からお越しとの由、あちらで當サイトの評判は非常に惡いみたいですが
あちらよりも危險と云ふ事はないので、安心して見て囘つて下さい。
投稿者:森 洋介 投稿日:07月13日(木)12時35分01秒
野嵜さんの「「國語學」對「言語學」」
拝見しました。
これに就て木村さん曰く、
>ソシュール信奉者に対する批判、素人ながら痛快な心持ちで拝読いたしました。
何もそんな痛快にならずとも……。別にソシュールを目の敵にせずとも「国語
学」を説くことは出来ると思ふのですが。
私も素人ですし、格別ソシュール信者でもないのですが、野嵜さんのご説明は
いささかソシュールを誤解させる恐れがあり、且つ、程度の低い盲信者なら兎も
角、真っ当なソシュール読者には有効な批判にならぬかと存じます。
野嵜さん曰く、
>paroleを「言」と譯してゐるからには、langueは「語」とでも譯しておけば良
>い。言と語が合はさつて言語になる――と云ふのならば、誰でも納得出來る話
>であらう。なのに小林はlangueに「言語」と云ふ譯語を當てた。どう考へても
>「言語」はlanguageに當てるべき譯語なのに。しかし小林はlanguageを「言語
>活動」と譯した。なぜか?
ところがlangueは「国語」とも訳されます。日本語や英語やフランス語といっ
た個々の言語がlangueなのですから。そして、何語であるかを問はず人間である
限り何人も有する所の言語活動、言語一般をlanguageと呼ぶわけです。謂はば単
数形と複数形との区別です。双方「言語」と称してもさう怪しむに足りません。
第一、小林英夫訳は問題あること、この方面では周知に属します。野嵜さんの
ご指摘では、たとひ小林のソシュール理解の批判にはなるとしても、ソシュール
自体には届きますまい。故に、小林訳の信者(そんな程度の低い信者が未だにゐ
るとして)には有効な批判でも、ソシュール信者には無効かと懸念する次第。
しかも原書自体、ソシュール死後の編纂で、編輯した弟子が師の思想を歪んで
伝へたらしいことが今日明らかになってをります。その辺を追究した丸山圭三郎
のソシュール読解によれば、ソシュールは野嵜さん謂ふ所の「難問」を決して避
けてゐなかったのであり、時枝誠記の国語学とさう対立しないかと愚考します。
ソシュールのみならず「言語学」一般でも然り、必ずしも「国語学」と対立し
ない。例へばソシュールの「ラング」の言語学への批判とされるエミール・バン
ヴェニストの「ディスクール」の言語学。これが時枝の言語過程説と重なること
は夙に指摘されてゐます。それに、これまた丸山圭三郎『ソシュールの思想』以
来の読解に従へば「バンヴェニストの批判はソシュールの主張の精神に完全に合
致している」(山田広昭)のだとか。ならば、ソシュールと時枝も合致しませう。
まあ何が何でもソシュールを辯護したいわけではありませんが、既にかうした
論のある以上、ソシュール以来の言語学と喧嘩せずとも時枝国語学は主張できる
かと存じますし、無闇に敵を作るよりは寧ろ「言語学」理論をも考慮した言語過
程説を練り上げてゆく方が好ましいのではないでせうか。
以上、もし、そんなことは承知で敢へて「「國語學」對「言語學」」を書いた
のだ、といふことでしたら、餘計な差し出口、ご寛恕の程を。
投稿者:匿名希望 投稿日:07月13日(木)00時27分43秒
國文學科の學生です。
「弐ちやんねる」で此の主頁の存在を知つた次第です。
IME九八では、漢文・古文の入力が、ままならない爲、良い入力しすてむを探していた次第です。
これから、この主頁で勉強いたします。
投稿者:木村貴 投稿日:07月12日(水)22時34分10秒
こんにちは。略字にて失礼いたします。
>「正字正かな派」同樣の少數派集團「スタイルシート利用コミュニティ」へようこそ。
ありがたうございます。「少数派集団構成員」の名に恥ぢぬやう(?)努力します。
>なんだか非常に恥づかしい發言が轉載されてゐるのに氣附いて愕然としました
御免なさい。野嵜さん以外の方々の御発言を含め、たいへん勉強になり、かつ思ひ出に
残る内容ばかりなので、つひつひたくさん収容してしまひました。今後は少し遠慮
しますので、何とぞ御容赦を。
ソシュール信奉者に対する批判、素人ながら痛快な心持ちで拝読いたしました。
時枝文法の話はたいへん勉強になるので、これからもいろいろ教へてください。
時枝さんの本も読みたいのですが、絶版ばかりなので、古本屋の無い所に住んで
ゐるとなかなか手に入りません。
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月12日(水)02時13分56秒
>さて昨日、過去にこちらの掲示板に投稿した自分の文章と、關連する皆さんの
>投稿をピックアップして弊サイトに掲載致しました。
なんだか非常に恥づかしい發言が轉載されてゐるのに氣附いて愕然としましたが、
一度言つた事ですので、削除しなくても結構です。
掲示板での發言は、取返しがつかない事にされてしまふので、嫌ですね。
最近、さつぱり掲示版に書込まなくなつた原因が、後から推敲出來ないと云ふ
掲示板の缺點に氣附いたせゐです。
まあ、推敲もしないまま書き上がつたばかりの文書をウェブで公開し、毎日讀み返しては
氣附いた問題箇所を少しづつこつそり訂正すると云ふやり方も、餘り良くはないのですけれども。
投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月12日(水)02時05分27秒
「たいくかん」が問題になつてゐましたが、「言葉の誤用」を集めたサイトなどでも
この手の「誤用例」が取沙汰されてゐます。參考にしてみてはいかがでせうか。
>ペトロニウス樣
實はそのサイトは、以前からリンクを張つてゐます。
kotobaseekからリンクを張つても、階層が深いと誰も氣附かないと云ふ大問題は、
どうしたものでせうね。
>木村樣
「地獄の箴言」のスタイルシート化、歡迎します。
「正字正かな派」同樣の少數派集團「スタイルシート利用コミュニティ」へようこそ。
「正字正かな派」は歪められた假名遣の理念をあるべき姿に戻さうとし、
「スタイルシート派」は歪められたhtmlの理念をあるべき姿に戻さうとしてゐます。
兩者はいづれも「現實追隨主義者」から、非論理的な誹謗・中傷・罵倒・嘲笑を浴びてゐます。
「正字正かな派」と「スタイルシート派」は實に良く似た状況に置かれてゐると
言つてよいでせう。いづれも極めつけのマイノリティ集團です。
「正しい」と云ふ事に拘はる人間が現代には如何に少いかを、かうした現状は
良く示してゐるのではないでせうか。困つた事です。
投稿者:木村貴 投稿日:07月04日(火)08時58分51秒
近く移轉一周年との由、お目出度う御座います。思へば私がインターネットを
やるやうになつて間もなく、野嵜さんのサイトを「發見」したのは昨年の今頃
でした。以後、勉強させられる事ばかり。最近は「言葉 言葉 言葉」を拜讀
してゐるうちに、遲ればせながら苦手な技術系の勉強をしようと思ひ立ち、
『パソコンにおける日本語處理/文字コードハンドブック』(川俣晶著、技術
評論社)なる本を買い込みました。いづれ感想を自分のサイトに書きたい。
いや、書きます。
さて昨日、過去にこちらの掲示板に投稿した自分の文章と、關連する皆さんの
投稿をピックアップして弊サイトに掲載致しました。管理者の野嵜さん竝びに
投稿者の皆さんに事前に御了承を頂きませんでしたが、失禮の段は何卒お許し
ください。事後連絡になつて申し譯ありませんが、何か問題がありましたら、
どうぞ御連絡ください。
投稿者:ペトロニウス 投稿日:07月03日(月)23時54分51秒
野嵜さん、森さん>
仮名文字、特にカタカナについての様々なご意見、ありがたうございます。
近くご意見を反映させた修正版を提示したいと思ひます。
扨、表題の件ですが、国際電網を何と無しにさ迷つてゐたら、偶々見付りました。
手持ちの岩波文庫版は「現かな」に改変されてゐるものなのですが、この電子
テキストでは「大正時代の旧仮名」を使用してゐます。
其の「序」を見れば分るかと思ひますが、此れを書いた人は「和人(シサム)」では
有りません。然し乍ら、和人に引けを取らない「美しい」日本語を操つてをります。
是非とも電子テキストのリンク輯に加へて頂きたいHPとしてお節介乍ら進言して
おきます。