留學生の抗議なんぞ默殺すればよいのに、わざわざ講師を解雇して「謝罪」するなんて、麗澤大學も何を考へてゐるのでせうね。教師よりも學生の方が偉いとでも云ふのですか。實に良い學校です。麗澤大學は講師のみならず、學生を教へる人間を全員解雇するがよろし。日本人學生も一人殘らず退學せしむるがよろし。麗澤大學は「中國人」留學生を受容れ何も教へず、ただひたすらちやほやするがよろし。英國の大學ならば、日本人留學生が「Japaneseは不快だ」等と言つても、間違ひなく無視します。
それにしても、或言葉の使用を禁ずるのに、「不快」と云ふ根據は有效なのですかね。私も、「現代かなづかい」は不快だから日本政府は國民に「現代かなづかい」の使用を禁じよ、とでも主張しようか知らん。
實際、正かなを使つてゐた我らの御先祖樣は、あの世からこの世を眺めて、非常に不快に思つてゐるでせうね。まあ、略字と「現代かなづかい」を使つてゐる現代の日本人は、あの世に行つて、きつと困りますよ。あの世は正字正かなが「正しい表記」ですから。
「日本のシナ文藝受容がシナ本土では雜書にすぎないジァンルまで擴大されたこと、およびそれらのシナ説話が十八世紀以降の日本文藝に多くの素材を提供したことは…」(小西甚一『日本文藝史』第4卷、392頁)
小西先生も筑波大學名譽教授剥奪ですかね。『日本文藝史』は講談社刊、平成四年度大佛次郎賞受賞、おまけに文部省が補助金を出してゐます。
恐ろしい世の中になつたものです。
30000を踏んだのは私かもしれません。
あまり気にしないもので。 申し訳無い
書き込まないのは(書き込めないのは)なかなか首を突っ込む隙が
ありませんので^_^;
最近は「読み専門」に成り果てています。
早速リンクを作つていただきありがたうございました。
勝手ながら、私のページからもリンクを貼らせていただ
きました。
ところでどなたのページを見ても動詞の活用語尾に關する説明
が今ひとつ納得できなかつたので、自分なりに整理してみました。
おてすきの方はチェックしていただければさいはひです (^^ゞ
※ トップページ右上の歴史的假名遣ひについて、のところからです。
レクラム文庫を愛した文豪の名前も「鴎外」としか出ない日本の文字コード。
ドイツのレクラム文庫がゲーテやニーチェの作品を「新正書法」に改めたと云ふ話は聞きません。レクラム文庫を範と仰いだ日本の某文庫はどうでしたつけ?
スイスのドイツ語圏に住んでゐる癖にドイツ語は餘り讀めないのですが、フランクフルター・アルゲマイネの件は話題になつてゐます。
今のところ、ドイツやスイスの他の新聞雑誌は新正書法を續けるやうです。「學校で新正書法を習つてゐる子供が迷惑する」と云ふお爲ごかしな批判や、「今更舊正書法に戻されたら書直しで大損」と云ふ教科書出版社の正直な意見が出てをります。
ドイツの國語改革は日本ほど酷くはないでせう。「名詞の先頭文字を必ず大文字で書くのは止めよう」であるとか、「エスツェット(ssを意味するBに似た字)を廢止しよう」であるとか、昔から議論に上つてはゐるやうですが、さすがにそこまで「進歩的」な改革は日の目を見てをりません。(スイスでは傳統的にエスツェットは使はず、ssと表記してゐるやうです。「通り」はStrasseシュトラーセ、「大きい」はgrossグロース)
既に30100を越えてゐます
これだけ閲覽者があるのに、掲示板の書込みが少い個人サイトと云ふのも珍しいと思ひます。山本夏彦さんによれば、讀めばきつと憤慨して嫌な氣分になるのに、なぜか一々その筆者の文章を追ひかけて讀む讀者がゐるさうです。私のサイトの閲覽者にも、その手の「讀者」は多いのではないでせうか。
ドイツの新聞の話
ドイツでは二年前に「新正書法」が制定されましたが、この度「フランクフルター・アルゲマイネ」紙が「伝統の舊綴り」に復歸する事を決めたさうです。八月一日から傳統的な綴りに戻すと、二十六日に發表しました。
<引用 讀賣朝刊>
同紙は、舊來のつづり方に戻す理由として、(1)國民の九割がプライベートでは舊來のつづり方を使つてゐる(2)多くの出版社が新正書法を拒否してゐる――點を指摘、「ドイツ語習得が容易になるどころか、ドイツ語の統一性も保つことができない」として、新正書法は「失敗」と斷じた。
</引用>
戰爭に負けたにもかかはらず再軍備を進め、灣岸戰爭にも參加したドイツの新聞は、さすがにどこぞの情けない「平和國家」の同業者とは違ひますね。日本人も、西歐を崇拜したければ、かう云ふ所を見倣へば良いのです。
「保守」を名乘る讀賣も産經も、平氣で革新的な表記を採用してゐますが、「フランクフルター・アルゲマイネ」紙のこの發表を見て何も感じないのでせうか。讀賣は「温故字新」なんて下らない洒落を見出しに掲げてゐます。讀賣の記者は耻を知らないやうです。
昨夜、家に歸つてから見たら30021でした、昨日の午後會社で見た時は29978でした。
別に狙つてゐたのでは無いのですが、少し殘念です。矢張り、野嵜さんのサイトは人氣がありますね。それでは、また。
申告がありませんが、申告出來ない方が「踏んだ」のでせうか。
こちらでは、お久しぶりです。
私も、DIONのメールアドレス宛にダイレクトメールが大量に送り付けられてをります。どこかの業者がメールアドレスを收集し、リスト化してあちこちのサイトに賣つて囘つてゐるやうです。
Freewebのcgiサーヴァが仕樣變更となりました。從來は、cgiを外部から呼出すのが禁止となつてゐました。今は、htmlファイルも外部から直接アクセス出來なくなつてをります。
「W3Cフォーラム」や「闇黒日記」は全てcgiサーヴァの中に入つてゐるので、「本館」から直接リンクを張つても、彈かれてしまひます。
さう云ふ譯で「本館」トップページなどのアンカーを削除しました。コンテンツ自體は削除してゐませんので、「別館」のトップページにあるアンカーから行けます。なほ、「NNN」は、書く事がないので、最近はお休み状態です。
ウェブでものを書いても、反響がないばかりか、妙な因縁を附けられる事も屡々。おまけに一錢にもなりません。最近はコンテンツの整理・縮小ばかりを考へてをります。
こちらでは、お久しぶりです、3つ下の投稿は何でせう、確かに「ら抜き」の方が氣に成りますね。私の所も最近變なメールが來るのです、ヤフーの掲示板は今でも「古典」の處で時々書いてゐるのですが、そちらには私の「假名遣ひ」に「文句」が有る人は直接メールで書いて下さいと書きました、變なメールが來だしたのはその後です。
それは、さて置き、「暗黒日記」は何處へ行つたのですか、私はあれが愉しみでした、あれと「NNN」は續けて欲しいと思ひます。
なぜいきなり挨拶も拔きで他所の掲示板に投稿された記事を轉載しますか。
<引用>
新銀河急行様の意見から。
投稿日 7月25日(火)23時41分 投稿者 JRを考える。 [210.236.77.199] 削除
新銀河急行様は北鮮を信じれますか?
ロシアや中国とはこそこそ会って、アメリカとは会えない国を信じれますか?
本当は現実逃避をして、自分の意見を誤魔化そうとしてませんか?
たった一回、50年ぶりに会った人間を信じますか?
平和ロケットを作るなら、自分と仲良い国にだけこそこそ会う国の主導者を信じれますか?
……
</引用>
「信じれますか」の「ら拔き言葉」の方が氣になる。
JRを考える。様へ、警告します。いい加減に考えては駄目だよ。
投稿日 7月26日(水)02時21分 投稿者 新銀河急行 [lr01pool09.usiwakamaru.or.jp] 削除
>どうも、新銀河急行です。JRを考える。様。
中略
>それと、貴方に警告しておきますが、「北鮮」という言葉ですが、今後は
>絶対にやめた方が身のためですよ。北朝鮮だけでなく、韓国にとっても、
>大変な差別用語とみられます。現に、韓国が「北韓」「北傀」という言葉
>を使わないことにしようとする動きも出ているし、自主統一を20ないし
>30年後に達成しようとしているのに、そういう雰囲気を叩き壊すことに
>もなりかねません。インターネットというものは、世界中の方々から見ら
>れているということも忘れてはいけません。もし「北鮮」という言葉が
>入っていたために、当ホームページが差別用語を黙認していたために、
>民団や朝鮮総連から訴えられたら、貴方は、どう責任を取られるつもり?
>
>大澤管理人様にも大変な迷惑が掛かるだろうし、ただ貴方が「ごめんな
>さい・・」と謝っただけでは到底済まされないでしょう。最悪の場合は
>民事訴訟にも持ち込まれて、膨大な慰謝料を請求されても文句は言えない
>でしょう。その時の負担は全部、貴方に掛かるのですよ。
●オーベルシュタインちゃん樣
お久しぶりです。なんだか暫くお出でにならないと思つたら、ウェブサイトを作られてゐたのですか。聯絡して下さつたら、kotobaseekからリンクを張つたのですけれども。
批判への對處は實に簡單です。相手に理があるならば受容れる、理がなければ無視する。或は「どこをどう直せばよいのですか」と、相手にきいてみませう。その質問に答へられない相手ならば、その批判をきく事はありません。
批判は絶對的なものではありません。批判が當を得てゐるかゐないかは結局、自分で判斷するしかありません。緑雨に「けなされて嬉しきもの褒められてかなしきもの」と云ふ短文があります。
私の場合、内容に文句を附けられる事は良くありますが、文章に文句を附けられる事がありません。非常に拙い文章を綴つてゐるにもかかはらず、誰も指摘してくれません。もの書きが互ひに文章の巧拙を論じ合ふやうになれば、「言葉 言葉 言葉」の存在意義はなくなるのですが。
IQ140から落ち初めて最近90を切った、最近自分の行ってる事が解からない(笑)
政治系のホームページを作った!
けど失敗した!内容が幼稚だと指摘された、文章が判読不明なほど下手だと言われた(泣)
句読点の打ち方が無茶苦茶だと言われた(泣)句読点のうちかたの本無い?
●くまへい樣
昨今高速化するCPUやHDDが異常なまでに電力を消費すると云ふ自體は、それらが異常なまでに熱を發生する事を見ても明かであります。省電力にして環境に優しいPCの出現を望みたいものです。
この手の調査は好きなので、今後もがんがんサイトを更新して下さい。kotobaseekに登録しました。論爭の方は、「兩者の主張が平行線のまますれ違ひ」に終る結果となつてをりますので、氣になさらないで下さい。
と云ふか、西日の當る部屋でPCを使ふのは暑い。
皆樣、お忙しいところ申し譯ございません。
正字正假名遣ひとは無關係ですが、自分のサイトを全て正字正假名遣いで書き直しましたので御報告致します。
かういふマニアツクなサイトが正字正假名遣いといふのもちよつと乙なものだと思ひます。よろしかつたら覗いてみてください。
論爭中お邪魔しました。すみません。
今囘の「論爭」は、私の「地獄の箴言」には轉載しません。
掲示板の過去ログはウェブサイトの貴重なコンテンツの一つである事を忘れてゐました。
前囘は大量に轉載して仕舞ひ、本當に失禮致しました。手直しします。
森さんはソシュールと時枝とに本質的な相違が有るのか無いのか、有るとしたら何なのか、自分はまだ知らないとおつしやる。それなのに、例へば第一囘の投稿において、「ソシュールは(中略)時枝誠記の國語學とさう對立しないかと愚考します」「ならば、ソシュールと時枝も合致しませう」と、野嵜さん及び私の意見、すなはち「相違(對立)は存在する」との説を斷定的に退けられた。注意しておくが、この時森さんは誤譯に基くソシュール時枝對立説だけでなく、對立の存在一般を否定してゐる。森さんは懐疑主義者の守るべき一線を超えたのである。論旨が亂れるのは無理も無い。
森さん、「喧嘩」「對立」を避ける爲に、信じてもゐない筈のソシュールにずるずる肩入れし、少し無理をし過ぎたのではありませんか。人間、己が本當に信ずる事だけを語るべきではないでせうか。
刑事「奴はきつとクロだ。監獄にぶち込んだらさぞ痛快だらう」
警察署長「おい、滅多な事を云ふな!」
刑事「署長は奴がシロだと云ふ證據を握つてゐるんですか」
署長「いや、さうではないが…。兔に角、裏を取れよ」
刑事「(獨白)證據が無いならすつ込んでおいて貰ひたいな。裏が取れなきやあ裁判で勝てないんだから、云はれなくたつて遣るさ」
先入觀に基く見込み搜査は誤る場合もある。しかし刑事には彼なりの經驗や勘や手掛かりが有るし、少々「過激」な事を口走つたとは云へ、試行錯誤の知的努力を放棄する譯では無い。我々は、「刑事」をもう少し信用してやつても好いと思ふ。私は「刑事」の流儀が好みであるし、其の方が「ホシ」を擧げる確度も高いと信ずる。
「署長」は、クロかシロかと云ふ判斷を保留してゐる。私に云はせれば、保留する事に必要以上に固執してゐる。そのやうな流儀、すなはち懷疑主義こそが「誠實」だと考へる人もゐよう。だが懷疑主義を撰んだ人間が眞に誠實である爲には、そして論理的に筋を通す爲には、必ず守らねばならぬ一線が存在する。それは飽く迄も懷疑に徹し、クロともシロとも決して斷定しない事である。
署長は刑事に「滅多な事を云ふな」と云つてはならない。刑事の發言が「滅多な事(濡れ衣)」なのか圖星なのか、懐疑主義を撰んだ署長に斷言する資格は無いからである。
長文御容赦ください。
今囘の「論爭」は、私が野嵜さんの文章を讀んで「痛快」と書いた事がきつかけであつた。野嵜さんのソシュール信者批判(ひいてはソシュール批判)を「痛快」と明け透けな言葉で喜んだ事を、森さんは「喧嘩腰」「挑發的」と非道く心配された。私は言葉足らずだつた事を釋明したものの、なにゆゑその程度の事に森さんが神經質になるのか、よく理解できなかつた。
時枝誠記のソシュール批判は誤譯が原因だと云ふ。それなら誤讀誤譯の影響を排した本質的な批判に直ぐ話を移せば好いと思ふのだが、なぜか森さんは、その前の段取りとして、まづソシュールと時枝との共通點を探せと云ふ。福田恆存氏は「問ひ質したき事ども」において渡部昇一氏を「夜郎自大の成上がり者」と痛罵し、福田氏の弟子である松原正氏は「月曜評論」誌上において西尾幹二氏を「頭が惡い」と罵倒してゐる。「痛快」なんぞとは比べ物にならぬ「喧嘩腰」の言葉である。さて假に、福田氏松原氏の批判の一部に誤讀誤譯に基く思違ひが發見されたとしよう。その時、福田氏松原氏は渡部氏西尾氏に休戰を宣言し、「同じ保守派」「同じ西洋派」等々の「共通點」を見出すべく骨を折り、しかる後に攻撃を再開せねばならないか。そんな馬鹿な話は無い。
森さんは「不毛な對立」だけを退けてゐるのでなく、對立そのものが嫌ひなのではないか。私はさう思ふやうになつた。
森氏はソシュール言語學派にとつて有利になるやうな結果となつたのですが
↓
森氏の發言はソシュール言語學派にとつて有利になるやうな結果となつたのですが
森氏は、自分の「反論」が私のサイトをより良くするのに「有效」だつたと思つてゐるのでせうかね。どつちの身方もしないと云ふ一見非常に公正な言ひ方をする事で、森氏はソシュール言語學派にとつて有利になるやうな結果となつたのですが、それでも森氏は自分の「反論」は「筋が通つてゐる」と主張するのでせうね。
有效無效について議論をし始めたのに、いつの間にか正邪に話を摩り替へてゐるのだから、森氏は出たら目です。
<引用>
いま見ましたら、三度目の正直で、やっと指摘されたミスを直したやうですが、私の要求したのは、件のページ「ソシュールと時枝は対立するか?(「言語學」對「國語學」への反論、森さん)」の削除であって、訂正ではありません(訂正すべきミスなら他にもあります)。午前4時現在、まだ削除されてゐませんが?
</引用>
「まあ、ファイル自體を削除したから永遠に眞實は藪の中になりますがね。」と云ふ私の文章が、森氏は讀めなかつたらしい。
森氏の反論の文章を、私の文章に並べて公開するのを、森氏の要求通り取止めたのは正解です。森氏みたいな相手の文章を綿密に讀解する訓練を受けた事のない人間の「反論」如きを、私の文章と對等に扱ふのは確かに間違ひです。
<引用 「7月18日(火) 1時44分10秒」の記事>
この掲示板の禁止事項を確認しておきます。
1.質問責め禁止。
2.非論理的な處世術の講釋は禁止。
3.根據の無い人格攻撃、道徳的説教の類は禁止。
「時枝とソシュールの違ひつてなんですか」は1に、「相手を説得出來ない文章は無效です」は2に、「あなたは性急な人ですね」は3に牴觸します。
</引用>
と書いたのですが、森氏は反論出來ず、默殺しましたね。どういふ料簡ですかね。
ほら、私は正直だ。森氏は私の事を正直者と讚へなさい。
いま見ましたら、三度目の正直で、やっと指摘されたミスを直したやうですが、
私の要求したのは、件のページ「ソシュールと時枝は対立するか?(「言語學」對「國
語學」への反論、森さん)」の削除であって、訂正ではありません(訂正すべきミス
なら他にもあります)。午前4時現在、まだ削除されてゐませんが?
「森氏の要求を私は飮みますよ」といふ条件は満たしたのですから、お約束を履
行してくれなければ、野嵜氏は嘘吐きです。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
<引用>
下記の部分、木村さんからの引用文にも拘はらず、未だに森の地の文に紛れたまま直ってゐません。
</引用>
性急ですねえ。すぐに氣附いて直後に完全版を公開しましたよ。まあ、ファイル自體を削除したから永遠に眞實は藪の中になりますがね。
<引用>
抑も論点がズレてゐます。
</引用>
自分の批判が論點をずらしたものであつたのを棚に上げて、良く言へますね。
<引用>
慣習法など、はじめから「掲示板の使ひ方」に記されてゐなければ、察しろといふのは無理です。
</引用>
明確にしたらしたで、「後から決め事を足して」云々と、嫌みを並べ立てましたねえ。
<引用>
そんな感情的発言が「ちやんとした理由」になるとは思ひつきもしませんでしたが、
</引用>
さうでせう、森氏は「唯物論者」ですからね。自分の意見などと云ふものを、森氏は全く持つてゐないのです。
>野嵜様
下記の部分、木村さんからの引用文にも拘はらず、未だに森の地の文に紛れた
まま直ってゐません。
>いやしくも「學説」と名前の附く以上、ここだけは讓れない點が互ひに有る筈です。[……]
別に故意に「紛れさ」したのでなくウッカリ「紛れさ」したのでせうが、「マ
ークアップし忘れ」にせよ、かう続くのでは不注意に過ぎます。満足に原文との
校合もしないでゐて恥ぢぬやうでは野嵜氏の「編輯」能力に信用が置けず、故に
拙文を委ねたくありません。
>「私はこんな風に纏めてみたが、これで森氏の意見を歪めた事になるか」と私は森氏に尋ねた
>積りだつたのですが、森氏はなぜ惡意にとりますか。
抑も論点がズレてゐます。纏め方を問題にする以前に、勝手に掲載して「よろし
い」のか否かを尋ねたと取りました。慣習法など、はじめから「掲示板の使ひ方」
に記されてゐなければ、察しろといふのは無理です。
或いは、
>「大嫌ひな野嵜に俺の文章を利用されたくない」とか、ちやんとした理由を提示して貰へるの
>ならば、森氏の要求を私は飮みますよ。
そんな感情的発言が「ちやんとした理由」になるとは思ひつきもしませんでした
が、それで要求を飲んでいただけるとあらば、嫌々ながらも申し上げませう――大
嫌ひな野嵜氏に私の文章を利用されたくない。よって件のページは削除願ひます。
但し「證據隱滅」の意図は無いので、繰り返しますが、「「國語學」對「言語學」」
に経緯を註記して掲示板ログへリンクしていただきたく存じます。
以上の意見が容れられた場合、先の「人の意見を聴くつもりが無い」といふ判
断は撤回いたします。
ミサト:シンジくん、エヴァのラスト、知つてる?
シンジ:體育館で洗腦セミナーみたいな獨白劇が續く……ときいてゐます。
アスカ:あんたバカぁ? エヴァは映畫版があるのよ。今時TV版の話しか出來ないなんて、これだから駄目だわ。映畫では、このアスカ樣の華麗なる、華麗なるアクションシーンがたつぷり出てくるんだからぁ。
ミサト:サーヴィス、サーヴィスぅ。
シンジ:でも、結局ラストは「おめでたう」だつて……。
アスカ:あんたッて、本ッ當にバカね。あれのどこが「おめでたう」なのよ? バカシンジはあたしに默つてついてくれば良いのよ!
――なんか書いてゐて非常に自己嫌惡感を催してきたので、轉載禁止。
私が木村さんの發言を森氏の文章に「紛れさ」せた、と森氏は言ふけれども、私が「紛れさす」意圖を以て「紛れさ」したのならば、もつと増しなやり方をする筈ではないですかねえ。
<引用>
私はソシュールのソシュールたるゆゑん、時枝の時枝たるゆゑんを知りたい。
私も知りたいし、教はりたいのです(素人ですから)。
</引用>
「私は知りたい。私も知りたい。」なる修辭上の技法は、日本語に存在しません。少しでも頭を働かせて讀んでゐる人間には、間違ひなく不自然な表現と映る筈。わざわざ不自然な表現を殘す事が「紛れさす」の意味だとは、まさか森氏も主張しないのではないか。
さらに言ふならば、私が木村さんの發言を森氏の文章に「紛れさす」積りならば、「ここで私は木村さんのご意見(の一部)を容れて」云々の文言は抹殺するのではないですか。なぜわざわざ木村さんの名前を殘しますか。引用符をとつぱらふ即「紛れさす」事だ、と主張する森氏の論理構造が全く理解出來ません。文章批判をするのならば、ちやんと文章の文句を一字一字點檢してほしいのですよ。
或は、この二つの文章だけを取出すのは、不適切だ、讀者の誤解を生む、と森氏は主張なさいますか。そんな事を言ひ始めたら、窮極的には世の中で引用と云ふものが成立しなくなるのですが。
私の「判斷」を記しておきませう。森氏の批判はその場限りの「言ひがかり」です。まあ、森氏の「削除要求」には、「言ひがかり」の集大成を纏めて「反論」と呼ばれるのは嫌だ、と云ふ森氏なりの良心的な判斷があるのでせう――と私は森氏に好意的に「推測」しておきます。
人の指摘は「決めつけ」呼ばはりするくせに、自分の決めつけは「推測」だ、「判斷」だと言張る森氏の態度には呆れます。或は、人の事は「説得力がない」と批判するくせに、自分は説得力皆無の文章を綴るのが、森氏の缺點です。その上、妙に恩着せがましい文體が嫌らしい。
<引用>
結局、私がよろしくないと返事しても掲載するのですね。ではこれを「根據」として、「よろしいですか」などと聴く振りしてみせても矢張り「はなから人の意見を聴くつもりが無」かったものと判断します。
</引用>
嫌なら嫌と最初から素直に言へば良いでせう? なぜ一々讀者だの周りの人間だのに恩を賣りつつごねにごねて見せたのですか。「私はこんな風に纏めてみたが、これで森氏の意見を歪めた事になるか」と私は森氏に尋ねた積りだつたのですが、森氏はなぜ惡意にとりますか。
<引用>
これは木村さんのご発言で、私の元の文では引用符を付けてゐました。しかし野嵜氏編輯版では「木村さんの投稿からの引用文を森の地の文に紛れさす」やうになってしまってゐます。少なくとも私のブラウザIE5.1ではさう見えます。
</引用>
それはただのマークアップし忘れ。最初に「ここにミスがある」と言へば良かつたのに、なぜ執拗に尋ねられないと森氏は答へなかつたのですか。後から「ほら見ろ」と言はんばかりの口吻で以て持出す邊りに森氏の「惡意」が見え隱れしてゐると「推測」します。
そもそも、「紛れさす」と云ふ私の「意圖」を森氏が見出しえた根據は何ですか。
<引用>
「掲示板の使ひ方」にそんなこと書いてありませんでした。後から決め事を足して自分の都合のよいやうにできるのは流石に管理者の特権で、敵ひませぬ。
</引用>
「慣習法」と云ふものを、森氏はご存じないやうです。或は、そもそも森氏は私の發言を注意深く讀んでゐないのです。なぜ私が以下のuriを書込んだのかを、森氏は考へませんでした。
http://user2.allnet.ne.jp/noz/IME/shitoji.html
以前から掲示板の發言をもとにコンテンツを作ると云ふ事を私がやつてゐるし、「常連の間には、掲示板の記事をコンテンツに轉載する事に關して、暗默の諒解がある」と云ふ事を私は言つてゐるのです。
<引用>
「唯物的」指摘でお気に召さないでせうが、お改め下さい。
</引用>
「お改め下さい」と云ふ事は、「削除の要求」を諦めると云ふ事ですか。私が故意に木村さんの發言を森氏の文章に「紛れさ」したとか、私が意圖的に森氏の主張を歪めてゐるとか、或は「大嫌ひな野嵜に俺の文章を利用されたくない」とか、ちやんとした理由を提示して貰へるのならば、森氏の要求を私は飮みますよ。讀者を人質にとつてごねたり、ケアレスミスを惡意にとつたり、「管理人は偉いね」の類の捨臺詞を吐いたりするのは止めて貰へますか。結局「管理者の特權」を認めてしまふのならば、最初からごねなければよいのではないですか。
森さん、あなたは本氣で削除して欲しいとは思つてゐなかつたのではないですか。ソシュール擁護が本氣でなかつたやうに。それは即ち、森さんの「批判」が「批判の爲の批判」でしかない事を證してゐるのではないですか。そして、本氣でないから「無闇に敵を作るよりは寧ろ『言語学』理論をも考慮した言語過程説を練り上げてゆく方が好ましいのではないでせうか。」等と書けたのではないですか。
>野嵜様
結局、私がよろしくないと返事しても掲載するのですね。ではこれを「根據」
として、「よろしいですか」などと聴く振りしてみせても矢張り「はなから人
の意見を聴くつもりが無」かったものと判断します。
>(3)この掲示板に於る發言は、野嵜が筆者の意圖を歪めない範圍で編輯し、「言葉 言葉 言葉」
>に轉載・引用する權利を保留する。
「掲示板の使ひ方」にそんなこと書いてありませんでした。後から決め事を足し
て自分の都合のよいやうにできるのは流石に管理者の特権で、敵ひませぬ。
仕方無い、最後に「事実誤認」だけでもご訂正願ひませう。
野嵜氏編輯による拙文「ソシュールと時枝は対立するか?(「言語學」對「國語學」
への反論、森さん)」中、下記を見られたし。
>いやしくも「學説」と名前の附く以上、ここだけは讓れない點が互ひに有る筈です。[……]
>私はソシュールのソシュールたるゆゑん、時枝の時枝たるゆゑんを知りたい。
これは木村さんのご発言で、私の元の文では引用符を付けてゐました。しかし
野嵜氏編輯版では「木村さんの投稿からの引用文を森の地の文に紛れさす」やう
になってしまってゐます。少なくとも私のブラウザIE5.1ではさう見えます。
「唯物的」指摘でお気に召さないでせうが、お改め下さい。
それでは。
私が森氏の發言の意圖を歪めてゐる箇所を具體的に指摘して下さつたのならばよかつたのですが。森氏は、ご自分の發言に於る意圖をすら、自覺していらつしやらなかつたのでせうか。森氏の指摘は極めて「唯物的」です。文章に對する論理的な批判を、森氏は全く出來ません。ただ、印象からものを言ふだけです。
或は、自分の主張に對する批判を、森氏は豫想していらつしやらないのではないですか。森氏は主張を疑問に摩り替へる事で屡々「逃げ」を打つてゐます。しかし、豫め批判が來た時の爲の豫防線を張る努力を全くしてゐません。
>はなから人の意見を聴くつもりが無いのだと推察されます。
(1)いつもの通り根據ナシの推察。
>木村さんの投稿からの引用文を森の地の文に紛れさす等の重大な誤りを含みます。
(2)事實誤認。
>著作権を主張できるのか存じませんが、
(3)ならば書かぬがよろし。
>拙文を読みたいといふ奇特な方に対しては、
(4)讀者讒謗。
(1)私も森氏が「削除申請」をした理由を以下のやうに推察する――森氏は自分で自分の意見を纏められないくせに思ひつきを掲示板で並べ立て、擧句、他人に自分の意見を整理されるのが恐くて證據隱滅をはかつた。
(2)掲示板で物理マークアップを好んでやる森氏は、blockquote要素で引用が明示されてゐる事に氣附かない。
(3)この掲示板に於る發言は、野嵜が筆者の意圖を歪めない範圍で編輯し、「言葉 言葉 言葉」に轉載・引用する權利を保留する。
ペトロニウス氏の發言を轉載。
http://user2.allnet.ne.jp/noz/IME/shitoji.html
(4)謙遜の積りで、讀者を罵倒してしまつてゐる。
相手に向つて「ご『確認』いただきたく」と言ふなど、森氏は言葉を正しく使はない時がある。私は「07月15日(土)17時21分38秒」の發言で當てこすつたのだが、森氏はそれに氣附いてゐない。※相手に確認を求めるのならば、「ご確認くださいますやう」云々と言ふべき。
やはり森氏は謙遜な態度を裝ひつつ、實は傲岸不遜であるやうに「推察されます」。
私は、掲示板の發言で、より多くの閲覽者に讀んで貰ひたいと感じた記事を「言葉 言葉 言葉」に轉載する事に決めてゐる。
しかし、森氏は自分の意見が多くの人間の目に觸れるのは困ると思つてゐるのであらう。だから掲示板の過去ログの中に自分の發言を埋沒させたいのであらう。「削除を求めます」と云ふ要求は、實は「證據隱滅」を意圖したものなのである。
森氏の發言は、私や木村さんの發言に應じて書かれたものである。それは確かにその通りである。だが、「だから」「それらと併せ読まれ」なければ、讀者には正しく理解され得ない、と云ふ事にはならない。事實、森氏は「なるたけそれらと併せ読まれんことを望みます」と書いてゐる。だが、「併せ讀まれなければ、自分の主張は正しく傳はらない」と、森氏は断言出來ない。
森氏の「といふわけで」は、極めて非論理的である、根據薄弱である。森氏の論理は、森氏の獨り合點である。私は全く納得出來ない。
>野嵜様
野嵜さん曰く、
><引用>
>森さん御自身が森さんの主張を纏めて下さらないのであれば、掲示板での森さんの發言を私
>が編集して「言葉 言葉 言葉」の方に掲載してしまひますが、それでもよろしいですか。
></引用>
>
>と云ふ譯で、纏めてみました。出來るだけ森さんの發言を歪めないやうに注意して編集して
>みましたが如何?
ご発言は7月17日21時54分のもの、うち自己引用は同日21時11分のものです。
1時間と待たず、未だよろしいとも何とも返事をしないうちから早々と掲載し
てしまったのは、はなから人の意見を聴くつもりが無いのだと推察されます。
また、見た所、野嵜さんによる拙文の「編集」は、単純な脱字は兎も角、木村
さんの投稿からの引用文を森の地の文に紛れさす等の重大な誤りを含みます。何
より、拙文は野嵜さんや木村さんのご発言に応じて書いてあるものですから、な
るたけそれらと併せ読まれんことを望みます。
といふわけで、あの掲載は「よろし」くありませぬ。不認可であります。
著作権を主張できるのか存じませんが、私は『言葉 言葉 言葉』に於る「ソ
シュールと時枝は対立するか?(「言語學」對「國語學」への反論、森さん)」のペ
ージ全面の削除を求めます。
拙文を読みたいといふ奇特な方に対しては、先にも申した通り、代りに「掲示
板ログ」を参照するやうに註記してリンクを張れば充分でせう。さうして下さい。
例へば下記の如し。
木村さん曰く、
>森さん、結局の所「両者の譲れない対立点」に御関心が向かはれるのであれば、
>最初から「いや、ソシュールと時枝とは対立しないかもしれないのだ」などと
>力こぶを入れずとも好かつたのではありませんか?
今でも、誤訳や誤読に拠る不毛な対立は解消すべきとの考へは変ってをりま
せん。また、対立するにも、何ら共通の基盤が無ければ擦れ違ひに終って無益
です。従って、敵視や先入観に基因する無用の対立は止め、まづは時枝とソシ
ュールで合致する(と見える)点を認めるべきです。然く共通性を踏まへた上で、
何より本質的な対立点をば見極めるべく論を展開するのが適当だと思ひ至り、
斯くて先にも「相同における相違を検討」と申し上げた次第。
以上、意見が変ったやうでも、論理的には筋が通ってゐると思ってゐます。
論理は段階を踏んで順に進めるもの。「結局の所」と、前提抜きに性急に結論
だけ問はれても応対に困りますので、今少しご考慮あれば幸ひです。
私は木村さんのご発言を参考にして持論を一歩進められたので嬉しく存じま
す。しかし当の木村さんには拙文の理路が通じなかったやうで、我が文章の達
意ならざることを哀しく存じます。
悲喜こもごも。(笑)
>平塚様
いやあ、これこそ掲示板の効用、やはり質問は出してみるもんですね。ご示
教いただいた下記文献、大いに参考になります。有り難うございました。
○柴田健志「言語と主体――時枝誠記のソシュール批判再考」
京都大学文学部哲学研究室紀要『PROSPECTUS』No.1(1998)
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phil/pros/02/shibata1.html
一読した所、時枝に批判的な論です。とはいへ一方的にソシュールの観点か
ら斬る無理解な批判ではなく、一通り時枝の立場に沿って考へることもしてゐ
て順当かと思ひますが、より時枝側に立つ観点からすればなほ反論は出せさう
にも思ひ、今度はさういふものが読みたくなりました。
もしさういふ論考が無いのなら、仕方ない、そのうち野嵜さんの挙げた川島
正平『言語過程説の研究』でも読んでから自分で考へるしかないのでせう。で
も川島氏が三浦つとむ系統の人なら、唯物論に拘泥はる悪癖があるんぢゃない
かと心配……(←先入観!)。自称「イデアリスト」(=観念論)の野嵜さんは気
にならないのかしらん。
また、同じく柴田氏の別の論文の註に次の文献も挙がってゐました。大橋氏
はレヴィ=ストロースの訳者ですから、構造主義式の「再検討」でせう。いづ
れ入手して読んでおかねば(嗟乎、読むべき本がまた増へた……)。
○大橋保夫「ソスュールと日本 服部・時枝言語過程説論争の再検討(下)」
『みすず』1973, 9月号
ところでこの「ソスュール」の「スュ」。1991年内閣告示「外来語の表記」に
も出てこない例といふ点、ワ゛だのデュだのの比でない。こりゃ発見だ――「仮
名 かな カナ」の「注」に追加登録願ひます。 >ペトロニウス様
ソシュールの言つてゐる事は、讀者の都合でいかやうにもとる事が出來る。その爲、ソシュール言語學の立場に立つ人間には反對者に反論する手段が幾らでも出てくるし、相手に應じて幾らでも反論のやり方を變更出來る。
時枝誠記に對する批判は、常にソシュール言語學の立場にある人間から出てゐると云ふ事に注意する必要があります。謂はば、ソシュール言語學に都合の良い論理で時枝誠記を斬つてゐるのですから、その分割引いて受取る必要があります。森さんは、その「割引」をしてゐないやうに思はれます。時枝誠記に對する批判的継承者として三浦つとむがをります。三浦さんがどのやうに時枝博士の學説を修正してゐるかを把握してから、ソシュール學派の人は言語過程説批判をする必要があります。
●平塚樣
御紹介の文書、非常に參考になりました。どうもありがたうございます。
ソシュール言語學は單純な根據に基いてゐるが、理論的に錯綜し、矛盾を抱へてゐる。
時枝誠記の言語過程説は理論的に一貫してゐるが、根據が見當らない。
そこが兩者の噛合はない最大の「對立點」なのではないかと云ふ氣がして來た。
或は、前者が觀念で現實を割り切らうとし、後者が現實を巧く説明する事だけを目的としてゐる、と云ふ點が最大の對立點なのではないか。
初めて書き込みます。
> で、時枝の如き誤解に基づかず、且つ表面的な一致をも超えて、本質的に時枝
>とソシュールとが対立する点があるとしたら、何なのでせうか(或いは、何だと
>思はれますか)。どなたでもご示教下さいませんか。
以下のページに参考になりそうな論文が掲載されています。
> 例へば、時枝の言語過程説は「主体」を重視し、言語は主体的活動であるとし、
>言語を何か道具でもあるかのやうに客体視する欧米近代言語学の非を唱へました。
>この近代言語学の代表格がソシュールと目されたわけです。ところがこれぞ誤解
>の最たるもので、ソシュールこそは言語学は何を措いても「話す主体」から出発
>しなければならぬと断じた人でした。言語を「主体」的に捉へるのはソシュール
>言語学の基本原則なのです。これでは一体何が対立してゐるやら判りません。
まさに、森さんのこの疑問から出発し、時枝博士の誤解の原因をつきとめる
内容になっていると思いますので、参考になればと書き込みしました。
この掲示板で言われている「ソシュール信者」ではなく哲学者の方の
考察ですので、一読されるとよいと思います。
A:「あれか、これか」
B:「あれか、これか、なんて言ふべきではない」
A:「言つて何が惡いか」
B:「俺は別にきみの發言を禁止はしてゐないよ、飽くまで『言ふべきでない』と言つてゐるだけさ」
『言語過程説の研究』(川島正平著)で、丸山圭三郎は散々にやつつけられてをります。同書で、丸山が觀念論のお化けとなつてゐる事を川島氏は指摘してゐるのですが、詳細はいづれ紹介すると云ふ事で、森さんは納得して下さい。
また、ソシュールが兩面性を持つてゐるとしても、それは人間の發言には常に兩面性が存在すると云ふ意味での兩面性でしかないと思はれます。或は、ソシュールはその兩面性の片一方だけを採りあげるのが科學的だと言つてゐるのではないかと、私は個人的に認識或は解釋してゐます。
そして、どうやら森さんは、さう云ふ一方的なソシュールの態度に氣附いてをられないのではないか。森さんは、ソシュールが兩面性を認識してゐると云ふ點にだけ目をとられて、ソシュールがそのうちの一方を選擇した點を無視してゐるのではないか。
「ソシュール信者」は、二つあるものから一つを選ぶ、と云ふ人間の表現過程を認める事が出來ません――ただ、「二つある」と云ふ事だけが「科學的」に論ずる事の出來る對象だ、と思ひ込んでゐます。私は、言語過程説の「信者」ですので、二つあるものから一つを選んだ人間の表現過程或は表現に於る態度を重視したいと思ふ譯です。
この掲示板の禁止事項を確認しておきます。
1.質問責め禁止。
2.非論理的な處世術の講釋は禁止。
3.根據の無い人格攻撃、道徳的説教の類は禁止。
「時枝とソシュールの違ひつてなんですか」は1に、「相手を説得出來ない文章は無效です」は2に、「あなたは性急な人ですね」は3に牴觸します。
●野嵜様
こちらが何ともお返事申し上げないうちに掲載してしまふとは、相変らず野嵜
さんは性急[イラチ]な人ですねえ。
いづれ掲示板ログは「物置」に保存されるのでせう? でしたら「「國語學」對
「言語學」」に「この一文には批判があった」とでも註してログのアドレスへのリ
ンクを張ればよいのではありませんか。さうすれば「金を拂つて確保してゐる」
スペースを本館と物置とで二重に占めずに済むし、拙文は野嵜さんや木村さんの
ご発言に応じて書かれてをりますから、読者にはそれら前後の文脈をコミで読ん
で貰って判断して貰った方が、私としても助かります。それは野嵜さんもご同様
かと存じます。
同じく、時枝誠記のソシュール批判にせよ、時枝の言ひ分だけでなく当時ソシ
ュール側に立った論争相手の服部四郎やその後のソシュール論を併せ見て、初め
て公平な断が下せるといふもの。
まあ何より、こんな低水準の論争(?)――だってソシュールや時枝の基礎知識
の確認にさへなってゐない――を大っぴらに掲げるのは気が引けますしね。宜し
ければ掲示板過去ログにリンクを張る形にして下さい。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
で、時枝の如き誤解に基づかず、且つ表面的な一致をも超えて、本質的に時枝
とソシュールとが対立する点があるとしたら、何なのでせうか(或いは、何だと
思はれますか)。どなたでもご示教下さいませんか。
森さん曰く、
>お判りでせうか。ここで私は木村さんのご意見(の一部)を容れて、両者の譲れ
>ない対立点を見出すことに関心が向かってゐます。ここぞ弱点、意見が変ったと
>明言すべきなのにそれを怠ったと責められたら、唯々反省のほかない。
ううむ、さう簡単に意見を変へないで下さいよ……。
森さん、結局の所「両者の譲れない対立点」に御関心が向かはれるのであれば、
最初から「いや、ソシュールと時枝とは対立しないかもしれないのだ」などと
力こぶを入れずとも好かつたのではありませんか?
これは素人の直観、あるいは平凡人の常識から申上げるのですが、
二人の思想家、しかも西洋人と日本人の言語学者の意見が本質的に一致するとは、
ちよつと信じ難いのですよ。
裁判の「疑はしきは罰せず」とは逆(?)ですが、とりあへず「対立する」と疑つて
かかるのが妥当乃至無難ではないでせうか。特に「素人」の議論においては。
私は典型的な「素人」ですので、ソシュールと時枝とは対立するものだと云ふ
先入観を抱いてをります。「通底する」なんて言葉がありますが、政治や科学思想なら
まだしも、言語観までが文化の壁を越えて簡単に「通底」するものでせうか。
言語とは文化そのものであるのに。
森さんが丸山圭三郎と云ふ強力なる証人を従へてゐらつしやつたので、
先入観が崩れるかと期待(乃至は動揺)したのですが、丸山証人の詳しい
証言内容がわからなかつたため、先入観はいまだ健在であります。
丸山さんの本を読むべきなのでせうね。今のところ、私の「読前感」は、
「対立点が無いなんて本当なの?」と云ふ、甚だ「不遜」なものであります。
一週間ほど接續しませんでしたら、えらく論爭が始まってゐたのですね。私は
殘念ながら言語學の素養がなく、どちらの主張が當を得てゐるのか、俄かには
判斷つきません。願はくは建設的な結論が出ますやうに。
>> 「現代かなづかい」に對抗する規範を作らうだなんて、非道く下らない
ううん、さういふ忠告は以前から受けてゐるのですよ。内閣告示と同樣、
「言葉いぢり」に墮したものだ、といふ意見はよく聞きました。それはさておき、
私の『正假名遣』は實務に徹したものだ、といふ事は御承知置き願ひたいのです。
我々は「歴史的假名遣」が存在する事を毫も疑ひません。しかし世の中には、
「存在しない」とか「過去の缺陷品」だと強硬に主張する人も多いのです。
さういふ人に「このやうに存在してゐます」と嚴密に説明するのは、なかなか
苦勞です。しかしそこを説明できないと、假名遣に關する我々の主張は悉く
瓦解してしまふ。私は野嵜さんや森さんのやうな高水準の議論はできませんので、
足腰を固める作業をしてゐるつもりです。簡潔な言葉で的確に定義をするのは
實に難しいもので、森さんたちの御批判に四苦八苦してゐますが、お蔭樣で
假名遣や歴史的假名遣についての認識は深まったと感じてゐます。その意味で、
今のところ「やつても無駄」ではないですよ。「假名遣」といふ言葉が、人に
よってこんなに異なる使ひ方をしてゐるとは思はなかったですし。この點を
御含み置きの上、批判を賜れば幸ひです。
<引用>
森さん御自身が森さんの主張を纏めて下さらないのであれば、掲示板での森さんの發言を私が編集して「言葉 言葉 言葉」の方に掲載してしまひますが、それでもよろしいですか。
</引用>
と云ふ譯で、纏めてみました。出來るだけ森さんの發言を歪めないやうに注意して編集してみましたが如何?
一方の側がころころ態度やら意見やらを變へると、議論にならないと云ふ事を、森さんにはいつの日にか氣附いて貰ひたいものです。
<引用>
どこのウェブに載せる心算か知りませんが、こんな論争以前の言ひ争ひに終始する有様で、場所を移したら埒が明くとは到底思はれません。
</引用>
埒は明きませんよ。私の主張は既に「國語學對言語學」で示しました。森さんが逐一私の主張を點檢し、レポートして下さつたら、「言葉 言葉 言葉」で公開しませうと云ふのです。私はものわかりが良くないが、だからと云つて反對者の主張を彈壓し、反對派を彈壓しようとは思ひません。
或は、掲示板で幾ら言ひ爭つた所で、原理原則重視でイデアリストの私と、説得術重視でソフィストの森さんとの意見が噛み合ふ譯がありません。ならば互ひの主張を並べて掲載し、讀者には好きなやうに判斷して貰へばよろしいでせう。私が金を拂つて確保してゐる「言葉 言葉 言葉」のスペースを提供するから、森さんはそこで御自分の御考へを示して下さいと私は言つてゐるのです。
別に決着なんか附けたくはありませんよ。ただ、決着がつかないのならば、それぞれの論者の主張を讀者に提示して論爭は終りにするしかない。私は森さんの主張を認めないが、森さんの主張を無かつた事にする積りはない、と云ふ事です。
森さん御自身が森さんの主張を纏めて下さらないのであれば、掲示板での森さんの發言を私が編集して「言葉 言葉 言葉」の方に掲載してしまひますが、それでもよろしいですか。
私は自分の考へに固執して徹底的に物事を考へてみたいだけです。最初から融通無碍な考へ方をするのと、一つの考へに固執するのと、どつちが先に正しい考へ方に到着するかはわかりません。
A:「あれか、これか」
B:「あれも、これも、で良いだらう? 何を迷つてゐるんだ」
A:「あれとこれとは大違ひなのに?」
B:「どこが違ふんだ? 俺には違ひがわからないよ? まあ、俺は素人だがね」
A:「素人に違ひがわからないのは當り前だが、それを根據に、あれとこれとは違はないと斷言するのは變ぢやないか?」
B:「變ぢやないよ。まあ、きみも勉強するんだな」
A:「きみは素人ぢやなかつたのか?」
B:「素人だよ。だからきみも勉強しろと言つてゐるんだよ」
野嵜さん曰く、
>どうせなので、森さんには長文のレポートをメールででも御送り頂き、ウェブに掲載すると
>云ふのではどうでせうか。
どこのウェブに載せる心算か知りませんが、こんな論争以前の言ひ争ひに終始
する有様で、場所を移したら埒が明くとは到底思はれません。それで私の文章力
が増し、野嵜さんのものわかりがよくなり、有益な助言者が現れるとでも?
自ら素人と称して立場も定まらない者のレポートを当てにするよりか、それぞ
れがソシュールを丸山圭三郎の概説ででも読み、そして時枝のソシュール批判を
再読し、両者を虚心坦懐に突き合はせて考へてみた方が餘程タメになるでせう。
それで私の述べたことに誤りがあるのだったら正して戴ければ幸甚です。
ついでに、木村さんに倣って戯文を一つ。
骨董屋にて――
A「あれか、これか」
B「何を迷ってゐるんだ。同じやうな物を弄くって、どう違ふってのさ」
A「いや、そのうち眼識が具はれば見分けがつく筈なんだが……」
B「精々勉強するがいいさ」
続きです。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
●森さんの「批判」の再檢討 投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月17日(月)00時08分
>「對立は不要」から「對立しない」、そして「對立以前」に、どんどん森さんの意見が變つ
>てゐるのです。いつの間にか、信念が既成事實へと變貌を遂げてゐるのです。
どうしてかう話が噛み合はないのかしらん。もっと重大な所で意見を変更して
ゐるのを気付きもせず、あさっての方角の揚げ足取りばかり。ここまで繰り返さ
れると、幾ら我が文章力不足に因ありとはいへ、抑も野嵜さんはご自分に賛意を
示す者以外、他者の論旨をキチンと読み取る気が無いのではと疑はれます。
私はかう書いてゐます;
「ソシュールと時枝の対立点?」07月16日(日)21時28分
|[時枝の言語過程説と同様に]言語を「主体」的に捉へるのはソシュール
|言語学の基本原則なのです。これでは一体何が対立してゐるやら判りません。ほ
|んにまるで「ソシュール學説が時枝學説に同化した」かのやうな……。
| 勿論、この一致共通をよくよく検討すれば、別な対立点が見えてくるのかもし
|れません。しかし私のソシュール理解・時枝理解は到底そこまで及んでゐません。
|>いやしくも「學説」と名前の附く以上、ここだけは讓れない點が互ひに有る筈です。[……]
|>私はソシュールのソシュールたるゆゑん、時枝の時枝たるゆゑんを知りたい。
| 私も知りたいし、教はりたいのです(素人ですから)。
| 既にこの(時枝とソシュールとの)相同における相違を検討した論考はあるので
|せうか。[……]
お判りでせうか。ここで私は木村さんのご意見(の一部)を容れて、両者の譲れ
ない対立点を見出すことに関心が向かってゐます。ここぞ弱点、意見が変ったと
明言すべきなのにそれを怠ったと責められたら、唯々反省のほかない。それを、
全く逆に「對立しない」に固執してゐると読むとは、無理解もあんまり酷い。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
で、時枝の如き誤解に基づかず、且つ表面的な一致をも超えて、本質的に時枝
とソシュールとが対立する点があるとしたら、何なのでせうか(或いは、何だと
思はれますか)。これはどなたがご示唆下さっても歓迎します。
枝葉末節はもう結構、さういふ実りある論題に絞りたく存じます。如何。
野嵜さんの三つの投稿の四点に応答し、締め括りに提言致します。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
●森さんの原則 投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月16日(日)23時12分
>森さんの原則は、「より説得力のある側に附く」であつて、「正しい側に附く」と云ふもの
>ではないのではないですか。
理論の場合、「より説得力がある」=「より正しい」でせう。どうせこれにも異
議アリでせうが、その件まで論ふ暇はありません。ゆゑに問題を限定するため、仮
に「森の原則は「より説得力のある側に附く」である」としておきます。
しかし、さうだとしても何か不具合が? 私の指摘が間違ひになるわけぢゃな
し、説得力はあった方が良いに決まってゐますから、一向に構ひませんがね。
この件オシマヒ。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
●今更と言へば今更ですが 投稿者:野嵜健秀 投稿日:07月16日(日)23時47分
>よろしいですか、私の理屈の中でlangueの譯語が「語」であるべきだ、と云ふ事、
>そして私の理屈が妥當である事に、森さんは全く反論出來なかつたのですよ。
あれが理屈ですって? 戯れにわざと屁理窟を捏ねたものと思って微笑みこそす
れ、まさか本気の主張とは思ひもせず、だから反論もしなかったまで。「しなかっ
た」を「出來なかった」と言ひ張るのは、現実を願望と取り違へてゐます。
論より証拠、反論してみせませう。次の箇所ですね。
>>>paroleを「言」と譯してゐるからには、langueは「語」とでも譯しておけば良
>>>い。言と語が合はさつて言語になる――と云ふのならば、誰でも納得出來る話
>>>であらう。[……]
大体、言+語=言語(language)だなんて、parole+langue=languageといふ
のが定義に合はぬ以上、どうも戯れの言葉遊びとしか思へないのですがねえ。
langueとは言語体系、謂はば「語彙+文法+……+α」で、paroleとは言語
使用、個々の発話です。後者を「言」と訳すのはまだしも、前者を「語」一字で
意味させるのは無理。また「語」では単語(mot)と勘違ひするから不可。Q.E.D.
いかん、ツイ真面目に「反論」してしまった、冗談にも等しい戯言に……。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
次にここ。
>そこで森さんは、にはか「ソシュール信者」となつて、「ソシュール信者」の視點を持込
>み、「ソシュール信者」らしい「誤解」をして見せた。
仮の立場を取るにせよ、私は一往は尤もな読解しかしてゐないつもり。
私が「誤解」を? どこで? どんな? きめつけずに順を逐って一々説明し
て貰ひたいもの。単なる揚げ足取りでない内容上の誤りを野嵜さんは全然具体的
に指摘してくれず、短絡的に臆断する一方です。議論し甲斐がありません。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
長くなったので分割。続きます。
ある會話−−。
A「あれか、これか」
B「何を迷つてゐるんだ。その二つは同じものだ。兩方とも取れば好いのさ」
A「ああ、さうか」
まとまつた文章で森さんの御意見を拜讀するのは私も贊成です。
例へば以下のやうな疑問が氷解されれば有難いですね。
(疑問1)
「森さんの立場はソシュールか、時枝か。それとも他の原則か」と
云ふ私の質問に對し、森さんは「他の原則」とお答へくださつた譯ですが、
その後で、「ソシュールも時枝も正しい」「兩者が對立するとの考へは誤譯に
基づく誤解である」「自分は正しい方に就く」等の主旨を述べてをられる
事から見ると、むしろ下記のやうな關係にあると理解出來ます。
「ソシュールの立場」=「時枝の立場」=「森さんの立場」
上記の等號は、本質にかかはる部分が一致する(=對立しない)事を
示します。森さんは幾つか留保を附けてはゐらつしやるものの、
大筋では上のやうになるでせう。
すなはち、森さんの立場は「他の原則」と云ふよりは、むしろ
「ソシュールの立場でもあるし、時枝の立場でもある」と云つた方が
紛れが無いのではないでせうか。
(疑問2)
>しかしさうではない側面こそ今日注目されて
>ゐるソシュールである以上、時枝や野嵜さんのやうな解釈に基づく批判はせいぜい
>半面の真理、正しさに於て全然不充分です。
時枝や野嵜さんのソシュール批判が誤譯に基づくものであり、
ソシュールの權威たる丸山圭三郎に「一蹴」されてしまふやうな代物で
あるならば、「せいぜい半面の眞理」どころか、「根本的な誤謬」と
云ふべきではないでせうか。
どうせなので、森さんには長文のレポートをメールででも御送り頂き、ウェブに掲載すると云ふのではどうでせうか。
>あ、また野嵜さんがまたわからないことを言ふ(疲れたので今度反論します)。
「うまいことだまかしなさる」と言つて理屈を認めなかつた下宿先の婆さんを評して、中谷宇吉郎博士は「科學以前の考へ方」と呼んでをります。
うわ、なんや下部が真っ青になってしもた。
あ、また野嵜さんがまたわからないことを言ふ(疲れたので今度反論します)。
お、ペトロニウスさん。下記URLに内閣告示「外来語の表記」があるので参考に。
ヴュはあるけれどヴャやヴョは無いとはこれ如何に。
TeaCupが掲示板のcgiを變更してをります。右端で折返されるので、改行を入れなくても大丈夫になりました。さう云ふ譯ですのでよろしく。
くどくど長文で掲示板を占め、恐縮です。短簡に要言できぬ力不足、お許しを。
さて野嵜さんご指摘の箇所は以下の通り(投稿日:07月15日(土)03時07分)。
>> これは認識の違ひでせうね。
>> 私は「言語学」≒「ソシュール言語学」と見てゐます。
>
>この言ひ方は、相手を默らせる爲に個人の見解をさも一般的であるかのやうに見せかける
>「言ひ拔け」であり「嫌がらせ」であります。
ここでは言ひ方に反撥されただけで、いい加減、内容はご理解いただけてゐる
のだと思ってゐました。
しかしその後、次のやうな言葉が足されて(投稿日:07月15日(土)21時14分)、はじめて未だ説明が通じてゐないことに気づきました。不明を恥ぢます。
>ソシュールには根本的に問題があるのですよ。森さんはそれを「認識」の一言で「問題ナシ」と
>決めつけてゐるのですよ。
「問題ナシ」と決めつけるどころか、その逆さへ認めてゐるのですが、どうも
読み過ごされたやうです。
従って、この件繰り返しを含みますが、再説させて戴きます。
まづ言ひ方が疳に障ったやうですが、確かに、婉曲ならんとして却って達意に
缺けたこと、反省すべきです。もっと直截に言ひ改めます(但し一字足すのみで)。
| これは認識の間違ひでせうね。
| 私は「言語学」≒「ソシュール言語学」と見てゐます。
これなら「認識」といふ語も気にならないでせう。まあ「解釈」と言ひ換へた
方がより適切でせうが、要は野嵜さんが拙文に応答して下記のやうに述べたのは
間違ひだと言ふことです。
>>即ち「言語学」へと至る契機がある一
>>方で、前田英樹氏の指摘する「反・言語学の問い」もあったわけで、
>
>前者の「言語學」は「ソシュール言語學」です。一方、後者の言語學はソシュール以前或は
>より一般的な言語學の概念を指しまして、「反言語學」即「ソシュール言語學」と云ふ事になります。
>「兩面性」はないのです。 [投稿日:07月13日(木)19時50分41秒]
ここで問題となってゐる前田英樹氏の『ソシュール講義録注解』「まえがき」
の当該箇所を以下に引用します。これは抑も野嵜さんが援用された資料ですが、
その時省略された箇所をも引きました。野嵜さんが引いた箇所は斜体。
「ソシュールにとって、「一般言語学」というものがもし成りたちうるなら、それはこ
うした[言語それ自体への問ひを隱蔽する]技術の〈哲学〉ではなくて、言語学がみずか
らの〈言葉〉を徹底した懐疑に投げこむ一種過剩な自己注釈の作業以外のものではあり
えなかっただろう。
「けれども、彼の語りかたをついに「言語学」のそとへ、知の沸点の向こうがわへ連れ
ていくものは、この自己注釈の執拗な運動なのだ。ところで、こうした運動は、彼の私
的な草稿の〈書きかた〉のなかでは顕著に現われるが、学生たちの講義録では必ずしも
見やすくはない。それは彼の「一般言語学講義」が、極めて巧みに「言語学入門」の形
を装い、そのことにとうとう成功してしまっているからだ。だが、少しでも念を入れて
この「言語学入門」を読めば、たちまちそれが溢れ出る反・言語学の問いにうずめつく
されていることに気づくだろう。」
さて、これを私はかう解釈しました。
| ソシュール自身には、おっしゃる通り「弟子によつて歪められ、弟子にとつて
|都合よく中身を改變させられる契機」――即ち「言語学」へと至る契機がある一
|方で、前田英樹氏の指摘する「反・言語学の問い」もあったわけで、その両面性
|が重要です。
或いは、
|つまり「反・言語学」とはソシュール以前・以外の言語学への「反」であると
|共に、「言語学」として語られてしまふ自らの言説への懐疑でもあったと解され、
|それ故、やはりソシュールは両面的だったと思ひます。
斯くてその「言語学入門」と化す所に問題があったと認めてをり、「問題ナシ」
なんてしてをりません。それが死後、言語学の代名詞にも近い(つまりほぼ同義の)
「ソシュール言語学」を成立させる。しかしさうではない側面こそ今日注目されて
ゐるソシュールである以上、時枝や野嵜さんのやうな解釈に基づく批判はせいぜい
半面の真理、正しさに於て全然不充分です。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
●ペトロニウス樣
今晩は。今夜の皆既月蝕は御覽になりましたでせうか。赤黒い月がなかなか「怪奇」でした。
閑話休題。
「デュ」の追加をお願ひします。
例「マルセル・デュシャン(人名)」「デュマレスト・サーガ(SFのシリーズ名)」
「スカイラーク對デュケーヌ」なんてのもありますね。Doc.スミス最後のスペースオペラです。
> 第一、小林英夫訳は問題あること、この方面では周知に属します。野嵜さんの
>ご指摘では、たとひ小林のソシュール理解の批判にはなるとしても、ソシュール
>自体には届きますまい。故に、小林訳の信者(そんな程度の低い信者が未だにゐ
>るとして)には有効な批判でも、ソシュール信者には無効かと懸念する次第。
既に述べた通り、森さんの懸念には根據がないのであります。
或は、森さんの見せた「誤讀」のやり方は、まさに「程度の低い信者」のすべき「誤讀」でしか
ありません。この手の誤讀をする或は「して見せる」のは、「程度の低い信者」である筈です。
「07月13日(木)19時03分23秒」で森さん自身がこのやうに書いてをられるのは、實に皮肉です。
>敢へて「攻撃」するためとはいへ、これを単純化してしまっては、
>所謂「最低の鞍部で越える」といふ奴で、敵を低く見積もるのに合はせて自分ま
>で低める恐れがあり、批判としても上出来ではないかと存じます。
森さんの「批判」の再檢討――次に行きます。
> しかも原書自体、ソシュール死後の編纂で、編輯した弟子が師の思想を歪んで
>伝へたらしいことが今日明らかになってをります。その辺を追究した丸山圭三郎
>のソシュール読解によれば、ソシュールは野嵜さん謂ふ所の「難問」を決して避
>けてゐなかったのであり、時枝誠記の国語学とさう対立しないかと愚考します。
これは、「07月16日(日)21時28分02秒」で、以下のやうに言換へられてをります。
> 日本に於るソシュールの代表的研究者は故・丸山圭三郎です。確か丸山は
>『ソシュールを読む』(岩波書店)か何かで、時枝によるソシュール批判は、小林英夫
>の誤訳に基づく不毛な論争だったとしてゐました。その意味で、時枝の批判した
>相手はソシュールとは言へず、両者は未だ満足に対立してすらゐないのです。
「對立しない」が「對立してすらゐない」に變つてしまつてゐます。
「07月13日(木)12時35分01秒」で森さんは、かう書いてをられたのではなかつたですか。
>別にソシュールを目の敵にせずとも「国語学」を説くことは出来ると思ふのですが。
「對立は不要」から「對立しない」、そして「對立以前」に、どんどん森さんの意見が變つて
ゐるのです。いつの間にか、信念が既成事實へと變貌を遂げてゐるのです。
要するに、森さんは「解つてゐない」のにもかかはらず「對立不要」に固執してしまつてゐるのです。
森さんは、「ソシュール信者」を演ずるうちに、自らの否定する「信者」になつてしまつたのです。
>野嵜さん
アイヌ神謡集の件は失礼しました。其の后リンク輯の電子テキストの項目にリンクされて
ゐるのを確認致しました。
●特殊なカタカナ表記について
皆様からのご助言を賜り、追記「注」と云ふ形で「仮名」の頁を更新致しました。まだまだ
認識の足りない部分があるかと思ひますが、こんな感じで如何でせうか。
追記:
お互ひの見解の不一致を徹底的に表現し合ふ事は大変重要な事だと思ひます。
唯、互ひに嫌なしこりを残すやうな事の無いやうに出来る事を望みます。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8882/kana/kana_hira-kata.html
>>paroleを「言」と譯してゐるからには、langueは「語」とでも譯しておけば良
>>い。言と語が合はさつて言語になる――と云ふのならば、誰でも納得出來る話
>>であらう。なのに小林はlangueに「言語」と云ふ譯語を當てた。どう考へても
>>「言語」はlanguageに當てるべき譯語なのに。しかし小林はlanguageを「言語
>>活動」と譯した。なぜか?
> ところがlangueは「国語」とも訳されます。日本語や英語やフランス語といっ
>た個々の言語がlangueなのですから。そして、何語であるかを問はず人間である
>限り何人も有する所の言語活動、言語一般をlanguageと呼ぶわけです。謂はば単
>数形と複数形との区別です。双方「言語」と称してもさう怪しむに足りません。
これは、實は何の反論にもなつてゐないのです。
「ところがlangueは『国語』とも訳されます」と云ふ反論が、一見「有效」であるかのやうで、
實は全く「有效」ではないのです。
「paroleの反對概念としてのlangue」の譯語に就いて、私は論じてゐるのです。
森さんはそこに、別の原則を持出して、國語「とも」譯せる、と言つてをられる。
よろしいですか、私の理屈の中でlangueの譯語が「語」であるべきだ、と云ふ事、
そして私の理屈が妥當である事に、森さんは全く反論出來なかつたのですよ。
そこで森さんは、にはか「ソシュール信者」となつて、「ソシュール信者」の視點を持込み、
「ソシュール信者」らしい「誤解」をして見せた。
私は、森さんと違つて、自分の文章が誤讀されるのではないか、と云ふ心配はしてゐませんでした。
森さんの批判は、「お前の文章は誤讀出來るぢやないか、『果して』誤讀が『ちやんと』出來た」
と云ふ、まさに「科學以前」の「批判」でしかないのです。
レッテル貼りではないのです。
森さんのこの言葉は私には信じ難い。
>他の原則です。繰り返しますが、私は単に「正しい」と思はれる方に就くだけです。
森さんの原則は「正しい」ではありません。森さんの發言が雄辯にその事を語つてをります。
「07月13日(木)12時35分01秒」附の發言で、森さんはこのやうに書いてをられます。
> 私も素人ですし、格別ソシュール信者でもないのですが、野嵜さんのご説明は
>いささかソシュールを誤解させる恐れがあり、且つ、程度の低い盲信者なら兎も
>角、真っ当なソシュール読者には有効な批判にならぬかと存じます。
森さんは最初、正しい正しくないではなく、有效無效を根據に私の文章を批判なさつたのです。
さらに言ふならば、森さんは私の文章が「誤解を生むから良くない」と主張なさつてゐます。
その後も執拗に森さんは「誤解」「誤讀」と云ふ文句を繰返してをられます。
森さんの原則は、「より説得力のある側に附く」であつて、「正しい側に附く」と云ふものでは
ないのではないですか。
森さんの今までの言動が、森さんの原則が「正しい」ではないと云ふ事を證してゐませんか。
まづ片附けやすい些末事から――。
野嵜さんは餘程レッテル貼りがお好きと見え、先日来「「相対主義」信者」と
か「八方美人」とか「卑怯」とか「科学以前」とかエライ云はれやうな私ですが、
とりあへず「卑怯」の汚名(笑)だけでも雪いでおきませう。
野嵜さん曰く、
>>卑怯にならぬやう私はわざわざ「特にご要望無き限りは自肅しておきます」と
>>附言してゐたのですが?
>
>意味不明です。自粛すると言へば卑怯にならないとはどう云ふ理屈ですか。
では説明します。
そもそも私はかう書きました;
|[……]しかし、高崎さんや市川さんと私とでは恐らく考へが違ってをります。一
|緒くたに非難されては「正仮名遣」に関はる方こそいい迷惑でせう。
| どう考へが違ってゐるか、仔細に述べるべきなのでせうか? しかし辯明は書
|くより読む方がウンザリでせうから、特にご要望無き限りは自肅しておきます。
読む方がウンザリだらうから、辯明は自肅する――第一、また長々書いた所で
果してチャンと読んで貰へるのか心配でしたから(事実、誤読されたやうに思ひ
ます)。しかし私はこれを「逃げ」と取られる恐れを感じ、「特にご要望無き限
りは」と断り書きをしておきました。つまり、ご要望あれば自肅は解いて述べて
みせる、といふわけです。述べる用意はして待機してゐるのだから、逃げではな
いでせう。これは別に突飛な理窟ではないと存じます。それ位、ご理解いただけ
ると思ってをりました。「走れメロス」ぢゃござんせんが、三日のうちに戻ると
いふ留保附きで刑場を離れても逃げでも卑怯でもありますまい。
ところが野嵜さんのお返事に曰く、
>>どう考へが違ってゐるか、仔細に述べるべきなのでせうか?
>
>述べないで逃げるのは卑怯です。
――正に恐れた通りの誤解をなさる! わざわざ「特にご要望無き限りは」と
附言したのに!
私ははじめ野嵜さんの悪意からくる曲解かと邪推し、次いで自分の文章の伝達
能力不足に失望しました。なぜなら、ご要望に応じて辯明を述べた後でも、野嵜
さんは卑怯とおっしゃるから。暴虐の王でさへメロスが約束を守って帰って来た
のを見て、考へを改めたのに。これは拙文がメロスの誓約ほどの感動を伝へぬこ
とを證しますね(笑)。
冗談は兎も角、以上、「卑怯」とのご「指摘」は誤認とお判りかと存じます。
ご付与戴いた呼称のうち「八方美人」の方は、これまで周囲から偏窟男と呼ば
れたことはあっても美人呼ばはりは初めてなので、本意ではありませんが、尊称
として有り難く承っておきます(笑)。あ、別に女装趣味なわけではありません。
次に、認識の違ひ云々に就ての「指摘」に応じます。また暫くお待ち下さい。
野嵜さんも「森さんの立場は譯が解らない」とおっしゃってゐたことですし、
まづ下記の木村さんのご質問からお答へしておきます。
>森さんはこれから書かれるところでせうが、一つ、御自分の立場を明確にして
>頂けませんか。[……]
>森さんの立場は、原則として、ソシュールなのか、時枝なのか、
>それとも他の原則なのでせうか。
他の原則です。繰り返しますが、私は単に「正しい」と思はれる方に就くだけ
です。個々の論点ではそれぞれ優劣正誤があるにせよ、大筋としては両者とも正
しく思はれます――今の所は。「今の所は」と言ふのは、一番最初の投稿で申し
た通り私も素人であり、ソシュールであれ時枝であれ齧った程度、これから学び
知るべき対象だからです。だが、それにしても両方正しいだなんて、両者の原則
は対立するではないか、と反論がありませう。
>互ひに共通する部分なんぞ、いくら話合つたつて仕方無いのであり、
>對立點を探り出し、批判し合ふ事こそ、眞に實の有る議論でせう。
ところが実はその対立点がまづ明確でないから困ってゐるのです。
日本に於るソシュールの代表的研究者は故・丸山圭三郎です。確か丸山は『ソシュールを読む』(岩波書店)か何かで、時枝によるソシュール批判は、小林英夫
の誤訳に基づく不毛な論争だったとしてゐました。その意味で、時枝の批判した
相手はソシュールとは言へず、両者は未だ満足に対立してすらゐないのです。
例へば、時枝の言語過程説は「主体」を重視し、言語は主体的活動であるとし、
言語を何か道具でもあるかのやうに客体視する欧米近代言語学の非を唱へました。
この近代言語学の代表格がソシュールと目されたわけです。ところがこれぞ誤解
の最たるもので、ソシュールこそは言語学は何を措いても「話す主体」から出発
しなければならぬと断じた人でした。言語を「主体」的に捉へるのはソシュール
言語学の基本原則なのです。これでは一体何が対立してゐるやら判りません。ほ
んにまるで「ソシュール學説が時枝學説に同化した」かのやうな……。
勿論、この一致共通をよくよく検討すれば、別な対立点が見えてくるのかもし
れません。しかし私のソシュール理解・時枝理解は到底そこまで及んでゐません。
>いやしくも「學説」と名前の附く以上、ここだけは讓れない點が互ひに有る筈です。[……]
>私はソシュールのソシュールたるゆゑん、時枝の時枝たるゆゑんを知りたい。
私も知りたいし、教はりたいのです(素人ですから)。
既にこの(時枝とソシュールとの)相同における相違を検討した論考はあるので
せうか。少なくともソシュール側に立つ者からは出さうにない。既に丸山御大に
誤解と一蹴されてゐますから。とすれば、それは時枝側のなすべき事柄です。時
枝誠記の誤解を訂して合致する面は認めた上で、なほかつソシュールはじめ近代
言語学と対立する点があるなら、その相違を打ち出してこそ、はじめて近代言語
学の誤謬を是正すると豪語するに価します。それが時枝の衣鉢を継ぐ国語学者の
責務かと存じますし、さういふものこそ読んで学ばせて戴きたく存じます。
以上、これが私の「立場」です。
次に、野嵜さんのご「指摘」に応じますが、また暫らくお待ちを。
…………−…………−…………−…………−…………−…………−…………−…|
「程度の低い連中を嗤ひのめす事は道徳的に大事」だと私は書いたのですが、
少々補足します。「嗤ふ」と云ふ言葉は誤解を招いたかもしれません。
要は、己が道徳的に許し難いと信ずる相手は、なあなあで濟ませず、
徹底的に攻撃すべし、それは道徳的な行爲であると云ふ意味です。
「御行儀」は良くないかもしれませんが、「御行儀」と道徳は別物です。
日本の傳統的な「道徳」「徳」と云ふ言葉とは多少意味が違ふかも
しれませんね。例へば、私は論敵を「念佛地獄、禪天魔」と罵つた
日蓮を非常に道徳的な人物だと思ひます。
「攻撃」の一形態として、「嗤ふ」、すなはち嘲笑する場合もあるでせう。
しかしながら、嘲笑と云ふのは、きはめて無禮な感情表現ですから、
相手が餘程非道い場合に限るべきでせうね。
無論、「人を呪はば穴二つ」「目糞鼻糞を笑ふ」と云つた諺もあるやうに、
他人を攻撃する場合は己の側にもそれなりの氣構へが必要な事は言ふ迄も
ありません。馬鹿の相手をすると馬鹿になると云ふ言葉はありますが、
困つた事に、民主主義國の昨今の馬鹿は、相手をしないと自分が馬鹿だと
わからぬと云ふ難點があります。
それに馬鹿と云へども、批判することで自分が勉強になる面も矢張りあるのです。
出戻りの書込みで恐縮です。「素人」でも分かる範圍で述べさせてください。
森さんはこれから書かれるところでせうが、一つ、御自分の立場を明確にして
頂けませんか。それあ、ソシュール學説にも時枝學説にも採るべき
ところはあるでせう。しかしながら、いやしくも「學説」と名前の附く以上、
ここだけは讓れない點が互ひに有る筈です。でなければ、「ソシュール」「時枝」
と云ふ名前なんぞさつさと廢止して、政黨のやうに合併してしまへば好い。
思想に「對立が無い」筈は無い。思想間の「和」には限界がある筈です。
いくら「異貌」にならうと、ソシュール學説が時枝學説に同化した譯では
ありますまい。私はソシュールのソシュールたるゆゑん、時枝の時枝たる
ゆゑんを知りたい。
互ひに共通する部分なんぞ、いくら話合つたつて仕方無いのであり、
對立點を探り出し、批判し合ふ事こそ、眞に實の有る議論でせう。
その意味で、對立點を際立たせる野嵜さんのやり方に私は贊成です。
森さんの立場は、原則として、ソシュールなのか、時枝なのか、
それとも他の原則なのでせうか。
森さんは「ソシュールと時枝との恩讐」とお書きになりましたが、
意見の對立を「恩讐」などと呼ぶ必要はありませんよ。
議論の世界に「和を以つて尊しと爲す」の徳は不要・有害です。