拙文御覽下さいまして、ありがたうございます。まさか著者の方の目に留るとは。どうぞ今後ともよろしく御願ひいたします。
川島樣、はじめまして。木村と申します。
『言語過程説の研究』は野嵜さんの文章を讀んで知り、先日拜讀したところです。言語學の本と云ふ事で難解極まる文章を覺悟してゐたのですが、たいへん平易かつ明晰にお書きになつてゐるので氣持ちよく讀めました。勿論、内容も非常に勉強になりました。理解不足の點は多いと思ひますが…。
野嵜さんより先に書込むのは失禮かとは思ひましたが、取り急ぎ御挨拶まで。
はじめまして。『言語過程説の研究』(リーベル出版)を書いた川島正平です。
野嵜さんの『「国語学」対「言語学」』読まさせていただきました。
私の主張していることを補強するような内容で、とても嬉しかったです。
お二人の論争についてのコメントは、とても短い言葉では表現しきれないので、機会があればまた別にさせていただきます。
パソコン始めたばかりなのでまだいろいろ勉強中です。そのうちHPを作ろうと思ってはいます。
取り急ぎお知らせまで。草々。
御申し出、ありがたうございます。轉載大歡迎です。よろしく御願ひいたします。
私のサイトを置いてるサーバは容量無制限なので、是非ともそのWX-3用正假名辭書を轉載したい
のですが。宜しいでせうか?
WX-3用のIME辭書を公開してをりますが、削除しようかと考へてをります。今後のヴァージョンアップ豫定はありませんし、古いIME用なので利用者はゐないでせうし、何よりファイルサイズが巨大で容量を壓迫してをります。暫くは大丈夫ですが、そのうち容量の制限いつぱいに到達したら、IME用の辭書ファイルを眞先に削らうと思ひます。
Lineはいつも讀んでをります。
「2ちゃんねる」方面の議論の中で「パクリ」の話題が出てゐたとか、文脈とかを考へれば、MAGIさんの批判のターゲットが私のサイトではない事はまあ、わかつてはゐたのですけれども。とは云へ、自分の「パロディ」が意圖的な批評であると意識をしてゐた(ゐる)ものの、矢張り後ろめたさを感じざるを得ない譯でして。その邊で「複雜」な氣分となつたのでありますが……我ながら齒切れの惡い事しか申せません。
幾ら批評としてのパロディであるとは云へ、パロディには人樣のやつてゐる事に「ただ乘り」してゐる部分がある――内心忸怩たる處があると云ふ事もあり、取敢へずサイトをリニューアルしてみました。まあ、季節も季節ですし、丁度良い頃合ではないですか――そろそろ「あき」が來るッて事で。
はじめまして。こちらの日記に、僕のサイトの内容に
対する感想があったので、一言二言。
ええと、僕はとりあえず「ソースの盗用」のみにおいてパクリを
非難したわけではありません。
「僕もいろんなサイトを見てきたし、そこからソースを拝借したこともある。」
というくだりはあるんですが、文章や画像、デザインなどに対しても
同様のスタンスでいるわけでして。で、僕のいう「パクリ」というのは、
既存のモノを「自分の物」だと偽ること、だと思っていただければ。
例えば野崎氏の行っていた「W3Cやinfoseekの『模倣』」というのは
僕の思う「パクリ」とは趣が異なるというか。
デザインは模倣するがソースは模倣しない、ということ以前に
あれはパロディであってパクリではない、と思うのです。具体的に
線引きしろということになると難しいのですが。
例えばテーブルでデザインする場合にしても、同じ見栄えを保ちつつ
違う方法で実現することはいくらでも可能ですしね。bgcolor使うか
画像使うか、テーブルを入れ子にするか、とか。
ここが今日まで國語學關係の本の穴場でした。勿論、私が根こそぎ買込んできたので、もう何も殘つてゐませんが。
少し前の國語學の本は小汚いので、BOOK OFFでは格安――見掛けたら絶對買ひです。
明治書院の『日本文法講座』(正篇6冊・續篇4冊)、時枝誠記博士監修の『講座・日本語の文法』(前4卷+別卷)、『品詞別日本文法講座』(全10卷・5・8卷缺)が1冊100圓。
他に、朝倉書店の『概説日本語の歴史』、學生社の『半死半生語集』(俵元昭著)を購入。これらは新しいので値段は高め。『品詞別日本文法講座』の缺けを補完して下さる方募集。
こんにちは、legna樣。
政治的な事は、議論をしても無駄なので、書込みは遠慮いたします。
<引用 2000.8.15>
4 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/15(火) 13:34
管理人様
タイトルなのですが、なで「天皇陛下」ではなく「天皇様」なのでしょうか?
これは日本語としておかしいような気がします。
根拠をお教えいただければありがたいのですが・・・
</引用>
『日本の心』(保田與重郎と中河與一の對談)に、保田の以下のやうな發言があります。
<引用>
以前は、天皇のお生まれの日を天長節といつたですね。私はあの方がええと思つとつたです。さうしたら、ちやうど今年のその日、京都でタクシーに乘つたら、國旗をつけて走つとるですわ。それで運轉手に、あんたとこの車、旗たてとるなと言つたんです。さうしたら、「けふは天皇さんの誕生日さかいに國旗たてますねん。うちはいつもたてまんね」と、さういふのでう。その天皇さんの誕生日といふのが、いい言葉だなと思つた。威勢がよいその言ひ方がまたうれしく思へて。
京都の人は「天皇さんの誕生日」といつてるんです。私はそれをきいて、天皇さんが、その運轉手のとなりにをられるやうな氣がしてね。まつたく身近かでせう。天長節とか明治節とか、むりにかへす必要ないですな。ただ私個人が言ふ時は天長節です。
</引用>
「天皇樣」「天皇さん」――「社長さん」「市長さん」と同樣、別にをかしくないのではないですか。或人物が身近であるのを示す場合に、役職に「さん」を附ける事はあります。
それにしても、WXGに「明治節」が入つてゐないのには參つた。
こんにちは。
legnaと申します。
この度、天皇様掲示板というものを開設致しましたので、
もし宜しければ一度お立ちより下さると光栄で御座います。
それでは失礼致します。
正論九月號の「編集者へ編集者から」に「ただ『正論』を読んでいて気にくわないことといえば、旧カナづかいの文章があることです。」なる投稿がある。それを見て、反論してやらうと思つて正論を久々に買つたが、面倒なのでほつたらかしにしてゐた。誰か反論するだらうか。
そもそも、「ただ『正論』を讀んでゐて氣に食はない事と云へば、「現代かなづかい」の文章がある事です」と云ふ事が、私が正論を購讀しない理由だつたりする。
「回顧 月曜評論の30年」と題して、月曜評論は過去の記事を掲載しはじめてゐます。かつて「ゼンボウ」は囘顧記事を掲載し、直後に廢刊になりました。月曜評論もそろそろ危ないのでは。
伊勢丹の古本市には、丸山圭三郎のソシュール事典や、御大ソシュールの言語學講義(新譯版)等が出てをりました。高いので買ひませんでしたが。小林英夫は1973年に言語學講義をかなり改譯してゐるやうです。
深瀬さんの『日本の沙漠の中に』は帶付極上美本で2500圓也。
新宿伊勢丹と、小田急で古本市。伊勢丹は例年の如く、異常な迄に込合つてをりました。小田急は、矢張り例年の如く、のんびりしたムード。
伊勢丹で購入したもの。
『日本の沙漠の中に』深瀬基寛著
『現代の詩神』深瀬基寛著
『日本語の文法』三浦つとむ著
創元選書『日本の面』野間清六著
『森鴎外』伊藤佐喜雄著
『花の宴』伊藤佐喜雄著
ヴァレリイ全集第6卷『マラルメ論叢』
『デカルト』アラン
「むさうあん物語別册・竹林無想庵追悼録」
小田急で購入したもの
『言語と人間』フンボルト著
『文明の實驗・西洋のゆくえ』A.トインビー著
『辰野隆随想全集2 え・びやん』
『日本の將來』C.S.バビア著
WX-3 for Win3.1に比べると、格段に重い。
バックスあたりに、「羽のやうに輕い」正字正かな對應のIMEを開發して貰ひたいところ(最近のユーザにはわからないネタです)。
解説の林大氏は、「JISの日本語文字コード策定にかかはつた唯一の國語學者」です。
アメリカ大統領が、自分はアーリントン墓地に詣でない、と聲明を發表したら、アメリカ國民は大統領を即座に馘首にするでせう。國を守る爲に戰つた戰士に敬意を表するのは、まつたうな國の人間にとつては當り前の事です。然るに我が日本國の總理大臣は、靖國神社に詣でない、と言はないと國民に支持されない。
朝日新聞が「アーリントン墓地がニューヨークはマンハッタン島のセントラルパークの隣にある」と云ふ記事を載せたら、アメリカ人は腹を立ててよろしい。アメリカ人は皆、アーリントン墓地の意義を知つてゐるからです。しかし、靖國神社は支那にある、と云ふ記事をニューヨーク・タイムズが載せた事について、日本人が怒れるでせうか。「明治天皇はどこに祀られてゐるか」と訊ねられた大學生が「靖國神社ですか」と答へた、と松原先生が書いてをられましたが、靖國神社の意義を日本人は皆、忘れてゐます。ならば、日本人はアメリカ人と同樣、靖國神社について無知である譯です。靖國神社の事を知らない日本人が、アメリカ人は物を知らない、と批判する事は出來ません。
早速初日の今日、仕事帰りに寄つて来ました。お知らせありがたうございます。
ざつとしか見て廻つてゐないのですが、今回は比較の為にこんな古書を買つて
みました。
「國文法體系論」橋本進吉著・岩波書店
第七冊になるさうです。其の昔学校で習つた「国語の文法」のやうな内容が出て
ゐるみたいに読めます。
扨、靖國神社は我が国日本と其の国民の為に戦地で亡くなられた戦士を祭る
神社であります。シナに在る筈が有りません。昨今の政治家は公人として参拝
しない事を以て「諸国民との協和による成果」を確保してゐる積りになつてゐる
のでせう。(辛口だなあ)
仮名についての頁を更に更新しておきました。
くまへいさんの頁へリンクしておきました。
新聞に面白い記事が載っていましたので、紹介します。
米国のニューヨーク・タイムズが中国発で中国人の対日嫌悪を報道したなかで靖国神社は
中国領内にあると記していることが九日、明るみに出た。
上海発のニューヨーク・タイムズのクレグ・スミス記者の記事で八日付けのインターナショナル・
ヘラルド・トリビューンなどにも転載された。
二十九歳の中国人が損害賠償訴訟を起こしたケースを主題に、中国人が日本をひどく憎んでいる
という中国の現状を紹介している。 その憎悪の理由の一つとして、「日本は戦争犯罪に関して
中国に対し十分に謝罪していない」と書き、そのすぐ後に「日本は絞首刑となったA級戦犯
七人を含む日本の将兵の戦死者を祭る神社を中国になお保持している」と明記して、
靖国神社が中国領土内にあるという信じられないような事実誤認を犯している。
そのうえで、中国領土内にあるその日本の神社に「森喜朗首相は今月の終戦記念日には
公式参拝をしないと七日、語った」と書き、さらに「しかし、昨年は参拝した」と述べている。
ニューヨーク・タイムズの記事は通信として全世界のマスコミにも配信されるが、それほどの
大手紙が日中関係についてはこの程度の事実認識で「日本の謝罪」を求めるような論評を
していることは注目に値する。 〜「靖国神社は中国領土」より抜粋〜
私としては、こんな誤解をされても仕方が無いな という思いもあります。
中国から抗議を受け、参拝する、しない、といつも揉めるのですから何も知らない人から
見てみると、「中国に神社があるので、「するな!」と言われると出来ないのか」と
思うのでしょうね。 まさか日本国内にある神社に参拝する、しないと揉める訳が無いと
まともな人間なら考えるでしょう。特に米国ならそんなくだらない外圧に屈することは
有り得ませんしね。
野嵜さん、皆さん、「電腦正統記」の中村義勝さんが久しぶりに掲示板に
登場されました!
良いところなんて、正かなである、と云ふ點くらゐしかありませんからね。
と云ふ事は、將來も日本に少なくも一つは正假名遣の文章が殘る譯ですね。
良かつた良かつた。
レーヴィットの本の引用、有難う御座いました。
最新のActivePerl(ActivePerl Ver.5.6 build 616)ではdrpl Ver.1.06が動きません。ActivePerl 522では動作します。
新宿伊勢丹大古本市は8月10日〜15日に開催されるやうです。
今年の京王古本市では、橋本進吉博士の著作も何冊か見られました。橋本博士の著作集は、後の卷になるほど値が上がります。『國語學史・国語特質論』は三千圓でも安い方なので買ひました。神保町邊りでは、下手をすると一萬圓を越えます。逆に云へば、お金を出しさへすれば、橋本博士や時枝博士の本は、樂に變へます。貧乏人には堪つたものではありません。
> 去年の京王はさつぱりだつたやうな記憶がありますが、今年はかなり充實してをりました。この
夏は新宿伊勢丹と澁谷東急の古本市には顏を出す豫定です。
> #小田急の古本市は今年もあるのかな?
>
と云ふ事で、遅れ馳せ乍ら最終日の京王の古本市に行つて参りました。「支那文學」・
「支那藝術」・「支那史」等など、古本の世界では今でも「支那」と云ふ文字が所狭しと
躍つてをります。侮蔑的な用法はなかつたと思ふんですがねえ。
件の石原莞爾氏の著作の発見に迄は至らなかつたのですが、少々興味深い著作を
見附けましたので、一応此処にご報告申上げます。
「國語學史」時枝誠記著・岩波書店、「國語學原論・續篇」時枝誠記著・岩波書店
この私には読み応へが有り過ぎます。(^^;;
時枝博士は時の京城帝大の教授だつたんですね。京城は禁止用語の一つだつたかな。
因みに現在の"Seoul"へは一度行つた事があるんですが、華僑街では確かに「漢城」
と表現されてゐました。
扨、伊勢丹のはうはいつだつたでせうか?
洒落で「日本國憲法」を文法的に分析し始めたら、「日本國憲法」が「改正不可能」である事に改めて氣附きました。
<引用 前文>
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
</引用>
「日本國憲法」は「確定」されてゐるのであります。「確定」されたものを「改正」出來る譯がありません。
ちなみに、私は「批評」の大半を戯れ文の積りで書いてをります。皆さん、いつも眞面目にお受取りになるので、甚だ困惑してゐるのですが。勿論半分は本氣ですが、殘る半分は冗談の積りで「批評」の類は書いてゐるのであります。妙に眞劍に反論されたりするので、ここで辯解しておきます。
●ペトロニウス樣
去年の京王はさつぱりだつたやうな記憶がありますが、今年はかなり充實してをりました。この夏は新宿伊勢丹と澁谷東急の古本市には顏を出す豫定です。
#小田急の古本市は今年もあるのかな?
●木村樣
<引用>
もちろん學生は懸命にヨーロッパの書籍を研究し、事實またその知性の力で理解してゐる。しかし彼等はその研究から自分たち自身の日本的な自我を肥やすべき何らの結果をも引き出さない。彼等はヨーロッパ的な概念――例へば「意思」とか「自由」とか「精神」とか――を、自分たち自身の生活思惟言語にあつてそれらと對應し乃至はそれらと喰違ふものと、區別もしないし比較もしない。即時的に他なるものを對自的に學ぶことをしないのである。ヨーロッパの哲學者のテキストにはひつて行くのに、その哲學者の概念を本來の異國的な相のままにして、自分たち自身の概念とつき合はせて見るまでもなく、自明ででもあるやうな風に取りかかる。だからその異物を自分のものに變へようとする衝動も全然起らない。彼等はだから自分自身へ復らない、自由でない、即ち――ヘーゲル流に云へば――彼等は「他在に於いて自分を失はずにゐる」ことがないのである。二階建ての家に住んでゐるやうなもので、階下では日本的に考へたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの學問が紐に通したやうに並べてある。そしてヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き來する梯子はどこにあるのだらうかと、疑問に思ふ。本當のところ、彼等はあるがままの自分を愛してゐる。[キリスト教的]認識の木の實をまだ食べてゐないので、純潔さを喪失してゐない。人間を自分の中から取り出し、人間を自分に對して批判的にするあの喪失を嘗めてゐないのである。それに、チャンバレンがdelicate sensitivenessと呼んだ極端な感じ易さがつけ加はる。その裏側は短氣(touchiness)で、これは眞實を囘避するし、前後を顧慮する辨へが無い。筆者は、ボドレールやフロベールの如く、ブルゥドンやソレルの如く、ワ”ーグネルやニーチェの如く、ヨーロッパで見られると同じ嚴しい鋭さを以つて、自己及び自己の國民を問題にする日本人が果してあるだらうかと疑つてゐる。(迷妄ならば筆者は勿論よろこんでこれを訂正したいと思ふ)
</引用>
●カンちやん樣
本氣で他人を憎めない人間が、本氣で他人の事を思ひ遣る事は出來ないと思ひます。日本人は支那人を本氣で憎んだ事はありません。即ち、支那人の事を本氣で思ひ遣つた筈がないのであります。日本人に眞劍みが足りないから、支那人は日本人を輕蔑するのであります。
●すず樣
はじめまして。うちは、特に變つた事をやつてゐる譯でもなく、寧ろ「全く變つた事をやつてゐない」と云ふただ一點でのみアピールしてゐるサイトです。語學は、學校の成績が意味をなさないものですので、正字正かなに恐怖しないでやつて下さい。それから、kotobaseekからリンクを張りました。どうぞよろしく御願ひします。
散々悩んだあげく、使い慣れた日本語で投稿させて頂きます。。。
先日「相模原情報交換&出会いのHP」を開設しました。
まだ日が浅いので情報等が非常に少ないです。
リンク、相互リンク大歓迎です。HP登録コーナーもあります。
是非遊びにきて何か情報を落として行ってください♪
なんか個性があっておもしろいHPですね^^
私はあんまり成績が良くなかったので読めないモノが多いけど・・・
もし宣伝の書き込み禁止だったら削除してください。>管理人さん
>戰前から日本人は一貫して平和主義を信奉してゐた
さうですね、日支事變(日中戰爭)の最中でさへ、「日支の共存共榮」だとか言つてるのだから、
戰前の日本は、心底から支那が憎かった譯ではないと私は思ひます。
日本は日本的な方法で支那に平和を取り戻さうとした(尤も、これが正しいと言つてゐる譯では
ない)が、それは結局、支那、特に反日運動家には受け入れられず、たゞ反感を買つただけに終
つた、といふことだと思ひます。
>今囘の收穫は『ヨーロッパのニヒリズム』(カルル・レヰ”ット)。
「日本人は普段は一階で生活してゐるが、西洋學問をやる時には二階に行く(日常生活と學問で得た知識とが遊離してゐる)」と云ふ本ですか? 三百圓とは羨ましい限り。それと私が感心したのは、ヰの濁音を書く裏技であります。
京王百貨店の古書展へ行かれたやうですね。去年は行つたのですが、
唯のひやかしで何も買つてゐなかつたと思ひます。
1日も、新宿には行つたんですが、結局百貨店には入りませんでした。
行くと古銭に金が飛んで行つてしまふもので…。
然し、野嵜さんがいらつしやるのならば、行くべきでした。
冒頭でいきなり「絶對平和」を説いてゐる。戰前から日本人は一貫して平和主義を信奉してゐた良い證據として購入したかつたが、お金が足りないので購入出來ず。
そもそも、「八紘一宇」とか「絶對平和」とか言ひながら戰爭をやつて、勝てる譯がありません。日本人は勝つ氣もないのに、何で戰爭なんかやつたのでせうか。
すつかり忘れてゐた。今日はたまたま新宿に行く用事があつて、電車の中吊り廣告を見て思ひ出した次第。
お金がないので、石原莞爾の「戰爭史」(「祕」と表紙にあつた。二千圓)を買へなかつた。
購入した古本は以下の通り――橋本進吉の『國語學史・國語特質論』(三千圓)、土井晩翠譯『イーリアス』(二千五百圓)、『日本語とタミル語』(大野晋)、『国語教育学の構想』(西尾実)。「言葉 言葉 言葉」の參考資料になる、と云ふ基準で本を取捨選擇してゐる自分が哀しい。
今囘の收穫は『ヨーロッパのニヒリズム』(カルル・レヰ”ット)。この名著が僅か三百圓で出てゐるのを見た時には思はず目を疑つた。