正仮名使い→現代仮名づかいの問題って、明治から昭和後期の間の日本の知識人の思想を
封じ込める一因になってそうですね。
このサイトは情報がたくさんあって、それを選択する知識もないのでお尋ねしたいのですが、
面白そうなものでNo_Zさんのおすすめを一つあげるとしたら、どのようなものでしょうか?
足跡です。
最近、どうしてらっしゃるんですか?
●まつもと樣
どうもです。
菊一氏、免許合宿ですね、あれは。
どうも、お世話さんです。
キクさんお帰りのようですよ。
ちょっとほっとしたので、お知らせまで。
おじゃましました。
●木村樣
と云ふか、「言葉 言葉 言葉」が未だに一部ファイル名で分類されてゐたりします。
●カンちやん樣
「學校が始まりますよ」と「學校に遲れますよ」の混淆でせうか。
「高井ルビー」氏と云ふ名前が氣になる今日この頃(謎)。
>ゐらつしやい
「いらつしやい」の間違ひですね。失礼。
「切符の切らない方」とは興味深い表現ですね。
ところで、私の最近氣になつてゐる表現なのですが、昭和初期頃までには使はれてゐたと思はれ
る、「學校が遲れますよ」という表現です。
母 サアサアサア茶目子さん、もう七時ですよ、學校がおくれますよ
茶目子 アラ私まだ眠いワ、お母様お早うございます
母 サア着物を着て仕舞ったら、早くお顔を洗ってゐらつしやい
茶目子 ハイ
――「茶目子の一日」昭和4年、平井英子・高井ルビー・二村定一、日本ビクター發賣
他にも國語の教科書を含めあちこちで「學校ガオクレマスヨ」といふ表現を見たように思ひます。
通常の文法で考へるなら、「學校が遲れますよ」では、まるで茶目子が來ないと學校の鐘が鳴ら
ず、授業開始が遅れるかのやうな言ひ方ですが、實際には「學校に遲れる」と同じ意味で使つて
ゐるやうです。
「ファイルの分類に關しては、ファイル名の規則で處理すべきか、フォルダ毎に配置すべきか、は、特に決りがないと思ひます」
私の以前の遣り方もあながち邪道ではなかつたのですね。どうも有り難う御座います。
「html文書の命名法」の記述は大量の誤りを含んでをりました。先日書直したのですが、公開するのを忘れてをりましたので、木村さんには間違ひだらけの文章を御目にかけてしまひました。ただいま最新版を公開いたしましたので、改めて御參照下さい。
ファイルの分類に關しては、ファイル名の規則で處理すべきか、フォルダ毎に配置すべきか、は、特に決りがないと思ひます。ただ、一つのフォルダに餘り澤山ファイルを入れておくと、ftpでファイルの一覽を取得する際に時間がかかる上、サーヴァに餘計な負荷をかけてしまふだけの話であります。
(私の理解した)「言語過程説」の立場から申しますと、html文書に於て構造が重要なのではなく、自分の主張・意見を觀察すると自然に「構造的」なhtml文書が出來上がるものである、と云ふ事になります。自分の主張に一貫性を持たせたいと考へる論者は、從來の「ホームページ」流の「部品の寄集め」ではなく、完成系のイメージからスタートする「言語過程説」的な手法に據つてサイトを作るべきでせう。
野嵜さん、「PC tips」の「html文書の命名法」「ウェブ過程説」拜讀いたしました。
甚だ初心者的な話で恐縮ですが、私は自分のサイトを作り始めた頃、何とフォルダの使ひ道を知らず、文書の整理に苦勞しました。同じ「松原正名言集」と云ふコンテンツに属する文書を、今では「meigen」のフォルダにまとめてゐますけれども、最初はどうしたと思はれます? 文書名の先頭に「1」と云ふ數字を付けたのです。「現代の批判」は「2」、「失はれた國語を求めて」は「3」。かうすれば同種のコンテンツの文書がひとかたまりに竝ぶわけです。フォルダはワープロ文書を整理するものくらゐの認識しかなくて、ウェブサイトの構造を組み立てるうへで必須の部品だとは思ひ至らなかつたのです。
どうもウェブサイト作成の入門書には、フォルダの使ひ方を含め、多數(數十〜百頁程度)の文書をどのやうなフォルダ分け・階層分け・相互リンクの下に組み立てれば、閲覽性に優れ、かつ、更新しやすいサイトを構築出來るかと云ふ「構造面の手ほどき」が不足してゐるやうに思ひます。入門書に出て來るサイトの見本つて、せいぜい四五頁しかないですね。個々の文書上で「見榮え」を優先して文書の「構造」を輕視する風潮は、多數の文書間の「構造」を輕視する傾向と同根だと思ひます。
>川島樣
私の文章に意義を認めて下さつてありがたうございます。
もつとも、本來あの文章は「国語という思想」に對する反論が目的でした。それが「ソシュール批判」にしか受取られなかつた、と云ふのが實状であります。イ・ヨンスクらの論理展開を「眞似」て、グロテスクな形で再現した積りだつたのですが、論爭時に「敵」には「パロディ」的な文章であると云ふ意圖が全く傳はらなかつたやうです。尤も私自身が自分の意圖を忘れてゐたのですが。
言語過程説に本格的に「のめり込む」きつかけとなつたので、個人的には無意味な論爭ではなかつたとは思つてをります。
>波江樣
どうもありがたうございます。
言語に於るリズムに關しては時枝博士にも研究があつて、吉本隆明が注目してをります。單純な韻律に關しても、文末表現が現代の日本語では極めて制約される爲、詩にならない事が多いですね。なほ、私の名前は「建秀」ではございませんのでその邊を今後は一つよろしく御願ひします。
野嵜建秀氏へ折句參る
言飢ゑつ癒え侘ぶ世にも燈り充ち室根晴る夢なほ痩せぬ恩ぞ
のさきたけひて
しへをれくまゐ
らすことうゑつ
いえわふよにも
あかりみちむろ
ねはるゆめなほ
やせぬおんそ
愚頁リンクに入れて頂きたるやうにて有難く 只今來信リンク有志の芳名詠込みし返歌送信中
乞ふ御笑覽 國語荒廢の淵因に韻律觀念の未熟があります 踏むとか押すばかりが韻では無く
まして言語に於ける韻律とは人間に於ける骨組も同じきに骨無き人間有り得るといふ前提の下
人間を論ずるが如きことを詩についてして來たが近現代の文の底淺き所でせう
この文メールにて送らむとせしがエラーになりますので掲示板に致しました
お久しぶりです。川島正平です。
野嵜さん、木村さん、こちらこそよろしくお願いいたします。
まず最初に、正かなで書込みできないことをお詫び申上げます(パソコン初心者なもので)。
少し遅くなってしまいましたが、今日は『言語過程説の研究』の著者として、野嵜さんと森さんの「国語学」対「言語学」論争を読んだ感想を述べさせていただきたいと思います。
あまり長く書く場所ではないと思うので、論点を絞ってごく短く述べさせていただきます。
野嵜さんは、論争の元となった『「国語学」対「言語学」』という論文をぼくの本の第一章を参考にして書かれたということですが、ぼくはそこで、便宜上ソシュール理論を『一般言語学講義』に限定して扱うと言っています。いわばよく言われる「ソシュールの二重性」をいったん塩漬けにして、ソシュールの『講義』のみを対象として論を進めると宣言しているわけです。
ですから、もしも野嵜さんがそのような事情を知りつつ、ソシュールの「手稿」や「新資料」を無視してソシュールが時枝より劣っていると言っているならば、それは早急過ぎる物言いということになってしまうでしょう。
けれども、野嵜さんの掲示板発言をよく読んでみると、どうやら野嵜さんは、上記のような事情を知りつつ、盲目的なソシュール信者に対する問題提起のために、あえて挑発的に時枝優位論を展開したように見受けられます。
そうだとしたならば、ぼくは野嵜さんの発言の存在意義を認めたいと思います。
なぜなら、いまだに「語る主体を重視したソシュール…」云々ということを平気でいう人や、ソシュールの「手稿」や「新資料」の無条件の優越性を信じている人が少なからずいるからです。
たしかに『講義』に収まらないソシュールには、豊かな可能性があるのかもしれません。
けれども、ぼくが調べたかぎりでは、
ソシュールは「語る主体を重視した」言語学を体系的・具体的に記述したりしていないようです。
ソシュール信者の中には、ソシュールの「手稿」や「新資料」を盾に時枝や三浦を批判する人たちがいますが、傍から見ていると滑稽です。およそ具体性のない批判というものほど滑稽なものはないからです。
野嵜さんの『「国語学」対「言語学」』は、一部の人たちから不評を買ったようですが、少なくとも彼らソシュール信者の存在を顕在化し、時枝誠記及び言語過程説の存在を際立たせたという意味において、野嵜さんの今回の提言には意味があった、とぼくは思います。
本当に簡単な論評ですが、これにて失礼いたします。
これからもがんばってください。
大小の「やゆよつ」を嚴密に餘りに嚴密に區別する現行のIMEには、困つたものです。IME用正字正かな辭書を作る上で、拗音と撥音への對應が一番面倒な問題であります。
<引用>
本文表記については、原則として新字旧かなとする。異体字はなるべく生かす。明治時代は表記法が一定ではなかったので、発表形を尊重して、表記の統一などは行わない。
</引用>
ルビを多めに附したり、脚注には圖版を用ゐたり、かなり工夫された内容となる模樣。「ちくま文学の森」と雰圍氣が似てゐます。
讀みやすさと云ふ觀點からは、個人的には活字の線を太めにして貰ひたい所であります。活版印刷で物理的に線を細く出來なかつた反動からか、寫植・電算寫植ではやけに活字の線が細いが、これが非常に讀みづらい。
本日書店にて廣告を入手しました。
1.假名垣魯文
2.河竹默阿彌
3.三遊亭圓朝
4.坪内逍遙
5.二葉亭四迷
6.尾崎紅葉
7.廣津柳浪
8.泉鏡花
9.徳田秋聲
10.山田美妙
11.内田魯庵
12.幸田露伴
13.饗庭篁村
14.森鴎外
15.齋藤緑雨
16.島崎藤村・北村透谷
17.樋口一葉
18.徳富蘆花
19.石川啄木
20.正岡子規
21.夏目漱石
22.國木田獨歩
23.田山花袋
24.近松秋江・岩野泡鳴・正宗白鳥
25.永井荷風・谷崎潤一郎
坪内氏によると、篁村の卷をたてた事が「セールスポイント」との由。
白鳥や谷崎、荷風は明治の作家と言つて良いのだらうか。各卷の「編集解説者」が狙ひ過ぎであるやうな氣も。
先月私は「シニアのパソコン教室」なるものの講師を依頼されて、(どうやら、ようやく)
つゝがなく終へることができたのですが、國語學的に大分考へさせられるところがありました。
戰後の日本の國語改革は確かに間違ひだらけだつたといふ確信を更に強めるものでした。
お年寄りに特有の、パソコンでの日本語入力に於ける二大障礙、それは
・拗音や促音について、假名を小書きにする習慣がない爲、小書きにしない儘、變換しようとす
るが、できない。
・ひらがなで書く語は現代假名遣ひをよく知つてゐるが、特に漢字で書く語は讀み假名が漢字に
紛れてゐて、現代假名遣ひをよく覺えてゐないお年寄りが多い。
前者はお年寄りを對象にした講習では、重點的に教へる必要があるやうに感じました。實際私
も拗音・促音を打つ練習問題を補足資料として作成して練習させました。
後者についてですが「蝶々」を「てふてふ」で變換するが如くの間違ひは、まづありませんで
した(むしろ「ちようちよ」と全部大書きにする間違ひが殆ど)。むしろ、「きうり」と「きゅ
うり」、「じず・ぢづ」の使ひ分けなど、細かい部分の間違ひが多かつたです。
手書きだと漢字で書く文字の正確な讀み假名を知らなくても良いし、一寸正字や正假名が混ざ
つたところで、戰後教育の世代でもある程度きちんと讀んでくれます。しかしコンピュータは融
通が利かないもので、全部現代假名遣ひで入力しないと、きちんと漢字變換してくれません。俳
句や短歌の同人誌を作るからと正假名遣ひを使ふにも、漢字變換だけは現代假名遣ひの讀みを知
らないと出せません。
實際、こんな障壁に比べたら、ローマ字を覺えるくらい造作ないものです。覺えるのに一番時
間のかゝつてゐた生徒でさへ、終了する頃には大分ローマ字入力に慣れてゐましたが、しかし假
名の小書きはもつと慣れるのに苦勞してゐたやうで、よく間違へてゐました。
「お年寄りはアルファベットやローマ字に疎いから、ローマ字入力よりかな入力の良い」なん
て誰が言つたんだらう? 經驗上、私は「既にかな入力に慣れてゐるなどの例外を除き、お年寄
りでもローマ字入力」をすゝめます。どうせURLなどの英字入力でアルファベットのキーは覺え
なくてはいけないから、ローマ字入力の方が二度手間にならず樂です。
假名遣ひも歴史的假名遣ひに直してほしい。最近は「原文のママ」が流行のやうですが。
筑摩書房と云へば、「明治文學全集」(全百卷!)と云ふ偉業がありますが、坪内さんの手掛ける本もその遺産を生かすのでせうね。坪内さんは「全集」の「總索引」だけ買つて眺めて、本文を讀む必要があれば圖書館に行く…とどこかで書いていらつしやいました。「全集」は現在勿論品切れで、「三遊亭圓朝集」などは古書店で相當な高値が付いてゐるとか。「明治の文學」に圓朝が入るのは嬉しい事です。露伴、紅葉、獨歩、鏡花なども「シブイ」撰集が出ると好いですね。それにしても漢字が正字でないのは惜しい。矢張り「明治文學全集」を古本屋で集めようかなあ、「明治の文學」が出れば値段も下がりさうだし。
野嵜さんは、既に、御存知かと思ひますが、筑摩書房から坪内祐三編集「明治の文學」全25巻が刊行されます。私は、昨日、都内の本屋で廣告を見て知りました。
「シブイ本」を書いた坪内さんらしく、今囘の25巻の内容は「シブイ」。何しろ、仮名垣魯文、河竹黙阿弥、圓朝、山田美妙、内田魯庵、饗庭篁村、齋藤緑雨と言つた作家に1巻をたててゐるのです(賣れるのでせうか?)。
9月13日に第1囘配本が始ります、第5巻「二葉亭四迷」、第17巻「樋口一葉」です。
後は、毎月1冊で、10月12日は第14巻「森鴎外」、その後は解りません。
私は、今まで、好きな作家の個人全集ばかり買つてゐましたから、「日本文學全集」「世界・・」の類は持つてゐませんでした、今囘はこれを機會に「明治の文學」を集めてみる積りです。
因みに、定價は2400圓+税、表記は「新字旧假名とする、異体字はなるべく生かす。明治時代は表記法が一定ではなかったので、発表形を尊重して、表記の統一などは行わない」さうです。