とトルーマンが言ったから八月六日は原爆記念日。
というわけで、どうも。
校正用語というのは違うんですかね、
校正は記号でしますけど、それを口頭で伝えたりするときの言葉という意味です。
電話で「ここの何行目のXXは開いて」と言うとか、そういうふうに使うわけです。
隠語なので、昔の普通の本にはまず出てきません。
おそらくいまでも教科書的な編集の本には出てこないと思いますが、
ゴシップ的な本とか、作家のエッセーなどではたまに見かけます。
僕自身編集さんがそういう言葉を使っているのを聞いたことがあります。
しかしそういういわば特殊な語法が
一般化してしまうスピードというのは最近は凄いですね。
芸人の間で「ベタ」とかいいますけど、あれも
昔の芸人ならまず絶対に人前(というか一般人の前)では
口にしなかったですよね。
いまはそれこそ「チョベリバ」みたいに
すぐに消える言葉まで書き言葉として流通するし、
そういうことにみんな鈍感になっていますから、もう少し保守的になった方がいい、
というのもわかりますが、
しかし物書き同士の掲示板とかで「開く」と書くのはいいんじゃないでしょうか。
さすがに物書きと関係ないところで普通に使うのはどうかと思いますけど。
美的感覚としては個人的には「開く」というのは僕は好きな表現ですよ。
ひらがなは女言葉なんて言われることもあるし、
なんとなくエロティックで良いです。
校正關係者の人が實際に「開く」なんて言ひ方をしてゐたものでせうか知らん。現場では、漢字に丸を附けて赤字で「ヒラク」なんて書き込んだりは絶對にしなかつたものではないかと推測します(打消し線を引いて、讀みを書込む)。
「トルルーマン」と云ふ誤植があつて、校正者が「ル」に「トル」と云ふ指示を附けたら、再校の時に「トルトルーマン」になつて來た――なんて云ふ、校正關係の有名なジョークがありますな。ちなみにトルーマンは、アメリカ第33代大統領。
1964年2月1日新版發行・1968年7月1日6版發行の『編集入門』(水田茂著・ダヴィッド社)を讀んでも、「漢字を假名に開く」式の言ひ方は出て來ないんですね。ちなみに、木版刷の時代には、出版する事を「開版」なんて言つたさうです。
「手」はいらない。あああああ。
というのは確か元は校正用語だったと思う。
隠語が一般手的な言葉に転化する(しかもしばしば意味がずれる)のは
よくあることなので、もはやどうしようもないかも。
これは、「眞理は單純である」が「單純化すれば現實は良くなる」に履違へられた近代イデオロギーの末期症状なので、反近代の思想に依據する「言葉 言葉 言葉」は否定します。
大體、日本に純粹な日本人は存在しません。日本語自體が南方語と北方語の混淆したものであります。しかしながら、そもそも純粹な民族なんぞ存在する筈もなく、「一つの民族、一つの帝国、一人の総統」なんてものは、日本
的軍國主義の所謂「八紘一宇」や共産主義の「世界革命」と同樣の純粹主義にほかならず、間違ひであります。
と云ふか、國籍で人間を判斷する事は馬鹿か利巧かを判別するよりも簡單であり、より簡單な方を選ぶ奴は怠け者であります。
日本人は、人目がないと欲得づくの發言しかしません。だから日本人の匿名の發言は、全て欲得づくの發言です。それでは困ると思ふので、「言葉 言葉 言葉」では匿名の發言は禁止です。したら差別されます。
馬鹿の生存は許さない、と云ふのならば贊成ですね。hotmailの匿名アカウントで堂々と馬鹿な事を書込む腐れ掲示板ヲタの生存は許さない、あらゆる手段でその正體を暴き、強制收容所だか監獄だかにぶち込むべし、と云ふのならば大贊成。
tosirou1@genkiyahonpo.co.jp氏は、是非とも當局へ協力されたし。このやうな人物は日本にふさはしくない。抹殺されるべし。
最近我が日本国にも外国人が多くなってきた。特に不法入国者が犯罪をおこして問題となって
いる。元々我が国は移民国家ではないのであり不法入国者など必要ないのだ。
彼らの多くが食いつめ者の下等な連中であり早く日本から追い出さないと日本が彼らに乗っ取ら
れてしまう。だから彼らを強制収容所に閉じ込めないと大変なことなるのだ。
収容所では1日にかろうじて生きていくだけの食事しかあたえない。
そして毎日鉄道建設などの重労働をさせて衰弱させ数を減らしていけばいいのだ。
ナチスにもいいところはあった。それは異民族に国家を乗っ取らせないようにしたことだ。
「ユダヤ人も人間だがそれを言うならノミも動物だ。」と言ったゲッベルスの言葉はまさに正しい
国の指導者のありかたをしめしている。中国福建省から来るチャンコロのドロボウたちにぜひ
聞かせてやりたいものだ。だいたい日本の外務省は中国に遠慮しすぎている。犯罪を輸出する
国に遠慮などする必要などないのだ。ことあるごとに南京問題を持ち出す国と友好関係など
築く必要はない。日本が戦後どれほど中国に援助してきたか。もう中国に遠慮するのはたくさん
である。今後日本国内のチャンコロが騒ぐなら彼らを危険分子として隔離センターへ収容すれば
いいのだ。そして餓死させればいいのだ。我が国にチョン公も必要ないのだ。
奴等を早く朝鮮半島に追い返すようにするべきなのだ。
神州日本に汚れた血を入れないためにも日本は不法入国者を過酷に取り扱い奴等をふるえ
あがらせればよいのである。また南米からメスチソと言う混血種族が日本に来ているがこの
過渡的な人種はガスバーナーで焼き払えばよい。イラン人は「日本にいらん人」の意味であり
日本から出ていかないならイスラム教で禁止されているブタ肉を無理矢理食べさせてムチで
叩けばいいのだ。 そして、こん棒で家畜のように殴り殺せばいいのだ。
その他にもパキスタン(以下パキと呼ぶ)などの卑しい人種が日本を食いものにしようとしている
のでこれもかたずけなければいけない。 パキはあの浅黒い手で物を盗み、人を殺し、女を犯す、
野獣のような連中だ。
一つの国には一つの民族のみが生存を許される。つまりナチスの言う「一つの民族、一つの帝国、
一人の総統」はまさに人間のあるべき姿、国家のあるべき姿を良くあらわしているすばらしい
スローガンであり人類普遍の定理である。 日本にもナチスのような政権が樹立されねばならない。
そして民族浄化により日本をもう一度あるべき姿へと戻さなければならないのだ。
囘答ありがたうございます。レイアウトの問題であるといふ考へは大いに納得しました。
また、"「戦前は右横書き、戦後は左横書き」これ本当?"も參考となりました。感謝いたします。
野嵜樣、有難う御座います。
正直、全く氣がつきませんでした(1番最初にテキスト化した物なのに)、和歌本文の方は江戸時代の骨牌(原文はほとんど平假名の骨董品)を元に愚妻に頼んで打つて貰つたのですが、今日家に歸つたら骨牌を見てみます、説明文も似たやうなものですが、人任せは不可ませんね、反省してゐます。
實は、他はスキャナーを随分使つたのですが、「ゐ」は「ゐ」「み」「ぬ」と3通りに認識してくれますから、直した積りでも他にも有るかもしれません、次囘校訂時には注意して見直します。
尚、修正した百人一首は會社からは轉送出來ないので、今晩家からサーバーに轉送します。
恥の上塗り。
野嵜さん、「闇黒日記」で弊サイトに鋭い御指摘ありがたうございます。私もまだまだ論理マークアップの考へ方がわかつてゐませんね。他人様に教へを垂れるやうな文章を書いておきながら、お恥ずかしい限り…。「失はれた国語を求めて」とか、「魁! 国語塾」とか云つたシリーズ名はいつその事、個々の文章の見出しからは削除した方がすつきりして好いかもしれません。少し考へて、なるべく早く直します。
些細な話ですが、「はじめてのWWWドキュメント」ではなくて「はじめてのWebドキュメントづくり」と言うタイトルみたいです。
身許を明かにしないまま、要点の良くわからない「批判」をする人物には、常に高壓的かつつつけんどんな對應をする事にしてをりますもので、こちらも非常に失禮な言辭が多かつたかと存じます。
また何かありましたら、どうぞ書込み下さい。
野嵜さま。
「石膏」名義で「詰問」をくりかへしてをりました森岡と申します。
御質問をいただいたのですが,これは畢竟ずるに私が論理的に正しく真摯に物を考へてゐないことの駄目押しをなさつたものだと考へます。ですから,お返辭は「分りました。申し訣なうございました」となります(何だか開きなほりのやうに見える言葉ですが,けしてさにあらず)。
本當にながながと失禮いたしました(かう書いたところで,私の無禮が帳消しになるとはさらさら思ひませんが,しかし何もことわらぬ訣にもゆかず)。
はきいた事があります。その手の話はカンちやんさんの「學校で習はない 日本語の話」も見て下さい。
縱書き・横書きの話は、思想の一聯の流れである言語を紙などの媒體上でいかにレイアウトするかの話なので、言語の本質とどこまで關係があるのか、個人的に疑問に思つてゐるので、「言葉 言葉 言葉」では餘りとりあげてゐません。
はじめまして、瀬良と申します。
俄に質問をさせていただきます。
昔の日本語は一行につき一文字しかない縱書きといふ話を又聞きしたのですが、さういふ話を聞いたことはありますか。
私が「傳統なんぞ糞喰らへ」と云ふ立場である事を、石膏氏は理解してゐなかつたやうです。
私はこのサイトのあちこちで「正統表記」と言つてゐますね。
<引用>
活字体と筆写体との別々の伝統(江守賢二『解説字体辞典』三省堂を参照)を無視した意見ではないですか
</引用>
無視して何が惡いのですか。
<引用>
その正字體が(あへてつよいことばをつかへば)筆寫體の傳統からはほどとほい康煕字典のでつちあげた字體だといふことを御存知のうへでの御立言なのでせうか。
</引用>
知らなかつたら、或は知つてゐたら、どうだと云ふのでせうか。
<引用>
書寫體(秦漢隸書から隋唐楷書への流れ,また,本朝奈良時代以降の手書きにおける一般的字體)と活字體(説文解字から開封石經・干祿字書等へつながり康煕字典に大成される印刷字體)とふたつの流れが存すること。その二つが各々別のものであつて,略―正の關係ではないことをお認めいただき,「構はない」であるとか,「それは仕方のない事だと認めてゐる。」といつたやうな,書寫體への繼子あつかひ(僻目でせうが,さう見る者もゐるのです。)を廢めていただきたいのです。
</引用>
なぜやめねばならないのですか。
<引用>
それは理解はするけれど,腑にはおちません。
</引用>
理解出來るのに、なぜ腑に落ちないのですか。
<引用>
くりごとをながながと失禮いたしました。
</引用>
さう書けば失禮でなくなるとお思ひですか。
――石膏氏はなぜ私に對する詰問を繰返しましたか。
「言葉 言葉 言葉」(http://user2.allnet.ne.jp/noz/)はアクセスログをとつてゐません。
しかしこの掲示板は、TeaCupのおしきせの儘なので、ソースにリモートホストが記録されます。どこからアクセスしてゐるかが或程度わかるので、「匿名」にこだはる一部の方々はお氣をつけ下さい。
勿論、身許をあかしてきちんとした言論活動を行ふ覺悟の出來てゐる方は、氣になさる必要など最初からありませんね。
<引用>
突字については,氏が「論理的に正しい」といふのがどういふことか,それについてのこちらの推測がただしいか否かを訊ねたので
</引用>
なぜに自分の意見を言ひませんか。相手の意見を推測する前に、自分の意見を言つたらどうですか。或は、石膏氏自身はそれが論理的に正しいと認めるのか認めないのか。勿論、「論理的には認めるが、腑に落ちない」式の「感情論」を平然と石膏氏は言つてのけるのでせうね。要するに、石膏氏は自分にとつてどうでも良い事を相手に要求し、一生懸命揚げ足をとつてゐるだけなのです。石膏氏は、なぜにそんなに自分にとつて切實でない事を、眞面目な顏をして論じますか。
正しい字體の觀念があつて、それを手で書く時には書き易いやうに略すものではないですか。
略して書くのが普通だから、略す事を略すと言つてはいけない、だなんて、譯がわからないですね。石膏氏は、黒を白と言ひくるめてゐるんです。何でも「傳統」と附ければ偉くなるのですか。怠け者にだつて傳統はありませう。でも、人間は怠けたがる存在だから、怠け者と云ふ觀念は存在しない、と言つたら、馬鹿ですよ。
論理的に理解出來るが、腑に落ちないから納得しない――そんな事を言はれちや、議論になりませんよ。
石膏さんは、最初から感情論ばかり言つてゐたんです。それなのに、こつちが惡いやうな言ひ方をするなんて、なんて失禮な人なのだらう。
野嵜さま。「馬鹿馬鹿しい」と思はれながらも,わざわざの御返答ありがたうございます。
◎私が,僻目かもしれぬがさう見るものもゐる,というたのは,氏が構はぬとか仕方ないといふやうないひかたをするのを,繼子あつかひ,とまでいふのは穩當を缺くかと思うただけのことで,それを書寫體と活字體との系統のはなしにまでおよぼして歴史修正學派の妄説よばはりされるのは心外であるけれど,これもひとへに私の惡文によるところであらう,と愚考してかかる注をしるす次第です。
◎突字については,氏が「論理的に正しい」といふのがどういふことか,それについてのこちらの推測がただしいか否かを訊ねたので,これも,何もその態度が論理的でないとは言うてをらぬつもり,これも注。
◎如上の兩系統は,源をおなじうしながら,それぞれの用途にあはせて特化してきたものであつて,書くばあひには書寫體を,それを印刷する際には活字(正字)體を,といふやうに二本だてでやつてきた傳統にしたがはうとすること――だから,わざわざ活字體で手書きする必要はないし,新字體のごとく書寫體を活字化するのはをかしい――が,なにゆゑにことさら正字體を擯斥することになるのか,そこのところの論理の聯關がこちらにはよくわかりません。私が,「『正字體と言ふのはいかがなものか』と云ふ疑問の形式をと」つて(「正字體とは言ふな」といふ?)「思想の押しつけをやつてゐる」といふのは,どういふことなのでせうか。(それも分らぬほどの愚圖なのか,と云はれさうですが。)
◎私が,書寫體を略字というてくれるな,といふのは字源に照らしてどうかうといふのはなくて,ひとへにそれが手書きの標準字體であつて,特にあらたまつた場面においても正字體をつかはねばならぬことがなかつたこと(たとへば『康煕字典』の序も基本的には書寫(楷書)體でしるされてゐる[シカシナガラ,タトヘバ科擧ノ答案ハ正字體])によります。
◎しかし,さういふと,それは既得權にすぎず,いくら一般につかはれてゐやうが論理的に正しからぬかぎり略字は略字,それを全うだといひくるめやうとするのは見苦しい。過ちを改むるに憚ること勿れ,といはれるのがおちでせう。
◎それは理解はするけれど,腑にはおちません。しかし,さうなると最早こちらの感情論で,いよいよこの掲示板にはふさはからぬものとなりますので,やめにいたします。くりごとをながながと失禮いたしました。
間違ひはそれだけではないと思ふ。
前回投稿の拙文にまちがひがありましたので,訂正いたします。
誤)開【封】石經→正)開【成】石經
江守賢治氏の『解説 字體辭典』(三省堂)は私も持つてをります。ペトロニウスさんがすでにまとめてくださつたのですが、江守さんが本を書いた動機を一口で云へば、「現代人は近代に生まれた活字の形に引き摺られて、三千年の傳統を持つ書き文字を忘れつつある」と云ふ嘆きのやうです。原田種成さんも『漢字の常識』(三省堂)などで同趣旨の事を書いてゐます。これらの主張自體には私も贊成です。
書道には勿論流派は樣々ありますけれども、誰もが認める大家たる虞世南、歐陽ジュン(言扁に旬)、チョ(衣扁に者)遂良、顏眞卿らの楷書を見る限り、「神」の示扁を「示」の形に書いた例は一つもありません(二玄社『唐楷書字典』)。傳統的な書き文字では飽く迄も「ネ」が正統な形です。但し、漢字が生まれた頃の甲骨文や金文まで溯れば、「示」は神を祭る祭卓を象つたものであり、「T」とか「〒」みたいな形をしてをります(白川静『字統』)。これを見ると活字體があながち歴史性・論理性を無視した形とは言ひ切れません。手書き文字は、書道家たちが手書き獨自の美意識や效率を重んじた結果、「ネ」と云ふ形に練れて行つたのだらうと想像します。康熙字典には歴史性を無視した變な字體もあるやうですが、だからと云つて、それなりの歴史を重ねた活字體を廢止するのは忍びない。この邊りの感想は、先日、「國語問題研究會」でも書きました。
私自身は、手書きの正字體がわからない場合、活字ではなく、『唐楷書字典』などの書道字典を見るやうにしてゐます。不便ですけれども、これが活字の便利を享受する代償と觀念してをります。まあ活字との食ひ違ひはそれほど多いわけではありませんから、大した苦勞ではありません。戰前の子供は、活字が「示」でも、手書きの時はちやんと「ネ」と書いたさうです。我々は手書きの正字を見る機會が急激に減つてゐますから、なかなかかうは行きません。
手書き文字と活字は細かい部分で相違もありますが、理念そのものは大きくかけ離れたものでは無いと思ひますし、かけ離れるべきでもない筈です。この大前提を踏まへたうへでならば、「虞世南は『示』とは書かなかつたんだよ」といつた話題について話すのは、それなりに有益であると思ひます。
「論理的にはAだとは認めますが、Bだと思つてゐて不便はないからBを認めてAを認めるな」と、石膏氏は主張してゐます。私は「論理的にはAである。だからBを認めない」と言つてゐます。
どつちが全うな主張ですか。
結局のところ「正字體と言ふのはいかがなものか」と云ふ、疑問の表明と云ふ形式をとつた思想の押しつけを石膏氏はやつてゐるだけなので、私としては馬鹿馬鹿しくて議論なんてやつてゐられないのであります。
<引用>
しかし,そのうへでなほ,書寫體(秦漢隸書から隋唐楷書への流れ,また,本朝奈良時代以降の手書きにおける一般的字體)と活字體(説文解字から開封石經・干祿字書等へつながり康煕字典に大成される印刷字體)とふたつの流れが存すること。その二つが各々別のものであつて,略―正の關係ではないことをお認めいただき,「構はない」であるとか,「それは仕方のない事だと認めてゐる。」といつたやうな,書寫體への繼子あつかひ(僻目でせうが,さう見る者もゐるのです。)を廢めていただきたいのです。
</引用>
「略―正の關係である」ものを、根據なく「さうではない、認めろ」と言はれても、困るのですけれども。「さう見る者もゐる」と言はれれば、それあどんな變な物の見方をする人もゐますよ。でも、さう云ふ事を認めちやいけないんです。だつて、それを認めたら、「正字體はユダヤ人の隠謀だ」「當用漢字はフリーメーソンの隠謀だ」とか、そんな事だつて言へてしまふでせう。「さう見る者もゐる」と言はれたら認めなければならない、だなんて事はあり得ません。
<引用>
なるほど,書寫體の「突」字は,野嵜氏には點が缺けてゐて,「穴から犬が飛出す意なのに一畫減じ犬を大にしたので無意味とな」(榊原邦彦『国語表現事典』和泉書院,76頁)つたものとうつるかもしれません(「論理的に正しい」とはかういふことを言うてゐるのだと理解してよいでせうか)。
</引用>
それは論理的ではないですか。それが論理的である事に石膏さんは反論出來ないのではないですか。反論出來ない事ならば、素直に認めればよろしいのではないですか。なぜ無理に反抗して見せますか。私はさう云ふ駄々ツ子みたいな見苦しい眞似はすべきでないと言つてゐるのです。
ちなみに私は「正確な劃數通りの字體」を用ゐた吉田賢抗編の『新釋漢和』(明治書院)を中學生の頃から使つてゐます。印刷字體(フォント)と手書きの字體が異る事は意識し過ぎるくらゐ意識してゐます。しかしさう云ふフォントの差などはどうでも良い問題であります。
問題は、「略字を繼子扱ひするな」と云ふ、石膏氏みたいな「既得権益を守らうとする」現代日本人の態度自體にあります。私にしてみれば「正しいと云ふ事を認めろ」と言ひたい譯です。正しいと云ふ事を現代人は疑ひ過ぎます。
野嵜さま。御返答ありがたうございます。
まづ,江守氏の論に依據してゐながら,氏が「書寫體」としてゐるものをあやまつて筆寫體といひつづけてきたことを訂します。
さて,無論私は野嵜氏が正字體を手書きすることを禁止することはできません。「極言すれば,それ[書寫體]に合致しないばあひには『正字體は手で書いてはいけない』」と書いたのは,「正字體を手で書いてはいけないとでもおつしやるのでせうか。」といふ野嵜氏の言に對して,さしてうまくもない喧嘩を買うてでたまでで,仰言るとほり,「敢て強い言葉を使は」ないはうが「よろしい」やうです。
「また、私は『康煕字典體が正字體である』と言つた覺えもありません。」貴サイトの内容をよく拜見しないままに,通念にたよつて物を書いてしまうたこともまた反省いたしたく存じます。
なるほど,書寫體の「突」字は,野嵜氏には點が缺けてゐて,「穴から犬が飛出す意なのに一畫減じ犬を大にしたので無意味とな」(榊原邦彦『国語表現事典』和泉書院,76頁)つたものとうつるかもしれません(「論理的に正しい」とはかういふことを言うてゐるのだと理解してよいでせうか)。しかし,そのうへでなほ,書寫體(秦漢隸書から隋唐楷書への流れ,また,本朝奈良時代以降の手書きにおける一般的字體)と活字體(説文解字から開封石經・干祿字書等へつながり康煕字典に大成される印刷字體)とふたつの流れが存すること。その二つが各々別のものであつて,略―正の關係ではないことをお認めいただき,「構はない」であるとか,「それは仕方のない事だと認めてゐる。」といつたやうな,書寫體への繼子あつかひ(僻目でせうが,さう見る者もゐるのです。)を廢めていただきたいのです。
變體假名については,それをつかふ環境にありませんので特に何の所見もありません。かなしいことながら,所詮自分は昭和・戰後の子なのだと思ひます(それもはなはだ自己鍛錬を怠つた)。これは感傷的な斷定にすぎませんが,野嵜氏の正字正かなへの(この言葉はお嫌ひかもしれませんが)こだはりに,生來正字正かなをつかつてきた訣ではない人間にありがちな潔癖症を感じるのです(この一文掲示板の不許可事項にふれてをりませうか)。
石井勳の著作は未見です。これを機會に是非勉強したく思ひます。いろいろとありがたうございました。
◎おひおひがき
・「語意識と發音の破壞」の問答に関連して。
杉本つとむ『東京語の歴史』(中公新書)をよんでゐたところ,「東京方言の使い手は、蠅はハエかハイか、ハイ帳とはいってもハエ帳はないから、やはりハイが正則だろうなどと類推する。東北弁ならずとも、このイとエの混同はしばしばおこる。また、亭主もテイシュでなくテイシの江戸語を用いる。十銭はジュッセンよりジッセンである。」(264頁)とありました。勿論この記述(杉本氏の書きかただと「ジュッセン」が本來の發音のやうにみえる)を鵜呑みにする訣にはいきますまいが,御參考までに。
・「『當用漢字』『現代かなづかい』制定の經緯」「辭書・辭典」「參考文獻リスト」のページで,金田一京「助」といふなまへが,京「介」になつてゐます。御訂正ありたし。
・ペトロニウスさま。ありがたうございます。
くだくだしく蕪辭をつらねました。御用捨くださいませ。
ひらがなやカタカナについては、規範として決められたものがあるので、通常は
其れを使ふのが望ましいでせう。ある文章を書くのに一部の仮名を変体仮名で
使用したいのであれば、其の仮名の部分は其の文章の中だけでも一貫させる
べきであると考へます。如何でせう。
伝統的な楷書と正字体に対しての見解の遣り取り、拝見させて頂きました。
当方、江守氏著の同書の普及版が手元にありますので、私としての見解を
示しておきます。
この辞典では、実際に書かれた楷書の実例写真をふんだんに使用する事で、
支那や我が国で以前から使用されて来た楷書の書体を明かにしてゐます。
<引用 解説字体辞典まえがき>
〇楷書で書かれたある漢字を、漢和辞典で捜しても見当たらないことが多い。
〇たとい漢和辞典に出ていても、両者の形が著しく異なっていることが多い。
〇逆に、楷書としては書かれたはずのない形の字が、漢和辞典に出ていることが
多い。
</引用>
この辞典の著者の漢字に対する考察は、過去より筆写されて来た楷書の
書体と、康煕字典体を中心とする漢和辞典に採用されてゐる明朝体の書体
との整合を図る事で、実際に筆写された書物などの解析に便ずると云ふ事
なのだと思ひます。
著者は、夫々を「Aの系統」、「Bの系統」と表現してをり、其れらの相違を
明示して解説してゐる処が資料として重要な点であると思ひます。
正字を書写で使つてはならないとか、正字以外の文字を使用してはなら
ないと云ふやうな趣旨の話では無いと理解します。唯、正字と楷書の混ぜ
書きは一貫性と云ふ面でも成るべく避けたはうが宜しいでせう。
亦、著者はかうも書く。「然力説字體一態而創制新體者愚」、此れは恐らく
康煕字典を楷書の見地から戒めたものだと思ふんですが、「当用漢字」や
「拡張新字体」に対して書かれた一文であれば尚一層的を射てゐると思ひ
ますね。
野嵜さん、見てみれば判りますが、意外と面白い辞典だと思ひますよ。
私からもお薦めしておきます。
例によつて畫像を「別館」で公開しましたので、參照下さい。
漢字に關しては、石井勲氏の著作を參照して下さい。
しかし、「現實に手書きでどう書かれてゐるか」なんて、それこそ「流派」によつて異る譯で、一概に「傳統」なんて言へる筈もないのですけれどもね。石膏さんは石角さんは、傳統的な假名の異體字については、どのやうにお考へなのでせうか。或は、やつぱり書物の「鵜呑み」ですか。
<引用>
極言すれば,それに合致しないばあひには「正字體は手で書いてはいけない」
</引用>
なぜ禁止しますか。正しい正しくないの議論と、許可する禁止するの議論は、無關係ですが。或は、「正しい」を認めたくない人はどうして「正しい」を認めたら「正しくない」ものを使用する事が絶對的に禁止されると思ひ込みますか。
私は「正字體を認めろ」と言ひますけれども、一方で「通ずるならば嘘字でも可」と云ふ立場をとつてゐます。或は、「嘘字」と言ひたければ、「正字體」を認めなければなりません。それだけの話です。
傳統的云々はよろしいのですが、石膏さんも河角さんも「論理的にどう云ふものが正しいか」と云ふ事に興味がおありにならないのは殘念です。私が『歴史的假名遣」と言はず「正かなづかひ」と言つてゐる時點で、「傳統的」が二の次にされてゐるのはおわかりになる筈だと思つたのですが。
康煕字典體が正字體を「でつち上げた」と云ふ事實はないと思ひますよ。また、私は「康煕字典體が正字體である」と言つた覺えもありません。
既にウェブでも指摘してある筈ですが、國定教科書の字體も、年代によつて變化してゐます。「正字體即康煕字典體」と云ふのは、「あへてつよいことばをつかへば」新聞の「でつちあげ」ですね。
野嵜さま。御應答ありがたうございます。
河角さんは,私が空疎なことをかいてゐるのに,具體例をだして補助をしてくださつたのだと思ひます。面識のあるかたではございません。
私が「無視」してゐるといつたのは,江守氏の書物ではなく,傳統を,です。「強制してはゐない」といふのは,本來ならば正字體をつかふべきである,といふことでせう。無論正字體を手でかくことは可能でせう(私も以前は,石川淳の言にしたがつて明朝體活字を手本にして正字體を書いてゐたことがありました)。しかし,その正字體が(あへてつよいことばをつかへば)筆寫體の傳統からはほどとほい康煕字典のでつちあげた字體だといふことを御存知のうへでの御立言なのでせうか。こと手書きに關しては,「者」字は決して點をはぶいた「手拔き」の「略字」ではないのです。眞に正統の規範にしたがふことを冀求するならば,手書きにおいては手書きの傳統的な字體をつかふべきでせう(極言すれば,それに合致しないばあひには「正字體は手で書いてはいけない」)。
具體的な事例については,江守氏の書物におつきください。(私はこの書をほとんど鵜呑みにして物をいうてゐて,「筆寫體の傳統」を實檢したわけではありませんので,江守氏の主張はまちがつてゐる,といふかたがいらつしやれば,御教示くださればさいはひです。)
あと,「勿論,正字を満足に表示できぬ活字・フォント状況は私もよしとしませんが。」と既に私は書いてゐるやうに,「正字體を廢止してしまはう」とは考へてをりませぬ。
正字體があつて略字を使ふのなら當り前です。しかし、略字を「正しい」事にして、正字體を廢止してしまはうと考へるのはどうかと思ひます。正しい事があるから簡略化をして良いのであつて、簡略化を正當化する爲に正しいものを正しくない事にしてしまはうとするのは、無理を通して道理を引つ込ませようとする事です。簡略化は、手拔きですから、威張つてやつて良いものではありません。手拔きをする後ろめたさを感ずる爲にも、正しい事は正しい事にしておかなければなりません。
石膏さんと河角さんの御關係は?
それで、何をおつしやりたいのでせうか。
正字體を手で書いてはいけないとでもおつしやるのでせうか。私が正字體で書けると云ふのを疑つていらつしやるのでせうか。
それあ、手書きでは略字を書く方もいらつしやるでせうね。でも、私は「手書きの際に正字體を用ゐよと強制してはゐない。」と書いてをります。ただ單に、書かうと思へば簡單に書けるよと言つてゐるだけです。
<引用>
戦前生まれの人が「黌」の字を活字通り書くか見ていたら學の上の部分と同じ箇所は活字通りでしたが、黄の部分は略字で書いていたので、活字と手書きは違うんだなあと思ったことがあります。
</引用>
で、それが何か。「私はかう云ふ例を見ました」と幾らおつしやつても構ひませんが、それが何なのかをはつきりとおつしやつて下さい。
そもそも「黌」の字を誰かが書く場面を目撃なさつたのは、あなたの幸運に過ぎないと思ひます。
私など、「處」を活字通り書いてゐる例を見た事があります。「著者」と云ふ字にそれぞれ活字通り點が附いてゐる例を見た事があります。活字と手書きは同じである事もあるのだなあと思つた事があります。
仕方ないのでWindows固有文字を使いますが
それは一部の字について、
手書きの場合、「~」と書くか「神」と書くかっていう問題ですよね。
活字は「示」であっても手書きでは「ネ」と昔の人も書いていますね。
これ以外でも活字は「」「K」でも手書きでは「横」「黒」と書くと
いうのもあるようです。
戦前生まれの人が「黌」の字を活字通り書くか見ていたら學の上の部分と
同じ箇所は活字通りでしたが、黄の部分は略字で書いていたので、
活字と手書きは違うんだなあと思ったことがあります。
>川島樣
『講座日本語の文法別卷』所收の時枝博士の講演速記に『中等國文法』とあるので、それに基づいて書いたのですが、「中等文法」が正解なのですか。一次資料があれば問題はないのでせうが、本に書いてある事を基に書かざるを得ないので、どうにもあやふやになつてしまひますね。
>石膏樣
無視どころか、讀んでもゐないので、何とも申し上げやうがありません。ただ、「正字體は手で書ける。」と云ふ記述の何が問題なのでせうか。「手書きの際に正字體を用ゐよと強制してはゐない。」と既に私は書いてをります。活字體と筆寫體に別々の傳統があると、どうして正字體は手で書けない事になるのでせうか。或は、正字體は手書きでは絶對に使つてはならないとか、さう云ふ事でせうか。よろしければ、問題點とその解決について、具體的に説明して頂けますか。參考にしたいと存じますので。
「正字正かなQ&A」の「漢字」のところの,「面倒その2」について。
野嵜氏は,「もつとも、正字體は手で書ける。」と書いておいでですが,
これは,活字体と筆写体との別々の伝統(江守賢二『解説字体辞典』三省堂を参照)
を無視した意見ではないですか。
(勿論,正字を満足に表示できぬ活字・フォント状況は私もよしとしませんが。)
川島正平です。お久しぶりです。
最近、ある人から指摘されて気づいたことをお知らせします。
野嵜さんの「『橋本文法』と『教科書文法』の関係について」という論文の中で、
戦中に文部省が編纂した国定教科書のことを
「中等國文法」と表記されている箇所がありますが、
これはどうやら「中等文法」が正しいようです。
「中等國文法」は、昭和17年に朝鮮総督府が刊行した教科書で、
時枝誠記もその編纂者の一人だったものです。
ですから、拙著の当該箇所も間違いだったということになります。
混乱させてしまって申し訳ございませんでした。
>まつもと樣
あれは外部スタイルシートファイルへのリンクを外しただけで、完全にindex.htmlそのままです。特に面倒と云ふ事もないし、スタイルシートの有る無しの比較に調度良いと思ふので、當面置いておきます。
>Makoto樣
修正しました。御指摘ありがたうございます。と云ふか、19日の23時前にサーヴァに修正版をputした積りが、FFFTPに騙されてputに失敗してゐて、Piroさんにも再度指摘される始末。駄目駄目。
http://user2.allnet.ne.jp/noz/PC/Tondemo/105Tohoho.html
このページの44行目、citeの終了タグが欠けてますよ。
なんか、ご面倒をかけました。
でも専用玄関ができたみたいで非常にうれしいです。
いや、ホント。
ずっと利用したい気分ですが、おじゃまでしょうから早急にIE.5を入れることにします。
その折は連絡させていただきます。
でも、いいなあこれ。感謝感謝。
>ペトロニウス樣
自分で紹介を書かうとしてゐた矢先にペトロニウスさんに「取られて」しまつて、しまつた、と云ふか、やられた、と云ふか。
『日本語と私』は色々と參考にしました。朝日新聞社も、書籍部門は良いものを出します。
>まつもと樣
どうもすみません。IE4.xではまともに表示されないだらうと思つてゐましたが、やつぱり見られませんでしたか。
取敢へず(こればつかり)スタイルシート拔きのhtml文書を「裏表紙」と云ふ事で置いておきましたので、そちらを御覽下さい。
Mac版でもIE5ならばまともに見えると思ひます。Mac版IE4.xは不具合が多いさうですので、IE5を導入なさるのが吉かと。また、實はNetscapeNavigator 4.xで「言葉 言葉 言葉」表紙はそれなりに見えます(多分)。
Netscape6のPreviewRelease3か、Mozilla5の最新nightly buildでならばばつちりの筈ですが、Mac版は餘り良い評價を聞きません。
聞けなかったのですが、自分はMacでIE4.5を使って野崎さんのところを覗かせてもらっております。
実は、一部表示が重なっちゃって下になっている部分を見ることができません。
「この下には何があるのだろうか」と気になってしょうがないのであります。
説明も読ませていただいたのですが、やっぱり判りません。
降参であります。
何か、うまい方法はないものでしょうか。
やはりご覧になられていらつしやつたやうですね。日本の国語について専門的に
研究されていらつしやる大野さんから、歴史的仮名遣の擁護の一文を見出した
ので、ご紹介させて頂きました。当然ですが、此れは歴史的仮名遣や正仮名遣の
布教宣伝活動の一環としてコンテンツを立ち上げたものです。
又、同書籍で福田恆存さんの「私の國語教室」も取上げられてゐる点も興味深い
処ですね。
>おかじま樣
はじめまして。
『夏目漱石』の下卷ですが、私もいつ頃出るのか全く存じません。信頼出來る筋によると「いつか出る」との事です。出る事は確實であるさうですが、何年後になるかわからないさうです。
取敢へず上卷中卷は先に買つておいた方が良いのではないか、との事です。
はじめまして。私は数年来の松原正先生の読者です。
「戦争は無くならない」「天皇を戴く商人国家」
「文学と政治主義」など、愛読してまいりました。
さて、私は松原先生の「夏目漱石」下巻の出版を
心待ちにしていますが、いつ頃になるかご存知でしたら
お知らせいただけないでしょうか。
上中下の三巻が揃えば、まとめて購入する予定です。
以上、よろしくお願いします。
>Nisino Tatami樣
どうもはじめまして。
obsoleteの件。成る程、慥かにさうですね。訂正しました。辭書くらゐ引かないと駄目ですね。自戒。
「obsoletede」なる意味不明な表記も1箇所發見。
実はばけらさんのサイトから来ました。
トンデモHTMLの記事、楽しく読ませていただきました。
ところでスタイルシート講座などのリンクの側に
"obsoleted"という記述がありますが、
obsoleteは形容詞(廃れた、古臭い)、
ないし名詞(古臭い人/物、廃物)なので、
"obsolete"ないし"obsolete content"
という書きかたが正しいです。
あるいは動詞obsolesce(古くなる、廃れる)を使って
"obsolesced"と書くことも出来ます。
野嵜健秀様、木村貴様
ご返答ありがとうございました。
いろいろ勉強してみたいと思います。
ありがとうございました。
阿川樣
平假名片假名の字源と云ふことでしたら、例へば榊原邦彦著『國語表現事典』(和泉書院、2500圓)の冒頭に載つてをります。この本は字源はもとより、國語についての様々な知識が小さい中にぎつしりとまとめられてをります。現代表記で書かれた本ながら、著者は正統表記に好意的で、國語全般にわたり立派な見識をお持ちのやうです。何かの機會に皆さんに御紹介したいと思つてゐましたので、これを好機にと云つては阿川さんに失禮かもしれませんが、お知らせする次第です。
>Doppel樣
と云ふか、數字を入力する時に(106キーボードの)最上段の列のキーとテンキーとをごつちやに打つやうな人間に、さう云ふ事を聞いてはいけません。
メーカも、正字正かなと新字新かなのどちらでも入力可能なやうにIMEを作つて呉れれば良いのですけれどもねえ。
>阿川樣
どうもはじめまして。
「字母」と云ふ用語が實は問題でして――假名の字源と云ふ事でせうか、それとも活字の母型の事でせうか。
前者ですと、大學生用のテキストを御覽になつた方が早いかと存じます。著者の異る「國語學」の本を3冊參照すれば、大體必要な知識は集まると思ひます。
# 橋本進吉に「假名の字源に就いて」と云ふ論文があります。草書體や古體の文字が頻出するので、2年近い間、入力作業が止つてゐます。
後者ですと、印刷會社關係のサイトを御覽になると良いのではないかと推測しますが、私には全くわかりません。
こんにちは。
仮名の字母について学びたいと思うのですが
なにかおすすめの書物はありませんか?
なにか良いものがあれば、教えていただけると嬉しいです。
お願いします。
>野嵜さん
:本來新字新かな用のIMEを使つて正字正かなの變換を實現してゐる以上
なるほど、あとは入力する側の工夫になるでせうね。いづれにせよ、なんとか正かなづかひで入力できるやうになつただけでも感謝したいと思ひます。今まではいちいち手作業で訂正し直してゐましたからその手間を考へただけでも隨分とよくなりました。
本來新字新かな用のIMEを使つて正字正かなの變換を實現してゐる以上、入力のやり方に精密さを求めても仕方がないと個人的に思ふので、數字の入力を統一するにはどうすれば良いのかなんて考へた事がありませんでしたね。
私など、「600」「ろっぴゃく」「ろくひゃく」「ろくひやく」のいづれを打込んでも、「600」「六百」「六〇〇」といつたいづれの形式にでも變換出來れば良いと思つてゐます。時と場合に應じて、適切な變換結果を選擇する事にしか、私は興味がありません。
>野嵜さん
御教授ありがたうございます。
今入力してゐて一番悩むのは「数字」の促音便です。
例へば「六百」は「ろくひやく」なのか「ろくぴやく」なのか「ろつぴやく」なのか(これは「八百」も同様です)。
「一回」「一体」「一見」の「一」は「いち」なのか「いつ」なのか。
まあ漢字にすれば見えないのですが、IMEで入力するときに統一したいのでどうすればよいのか考へてしまひます。
野嵜健秀様
的確なご意見、有難うございました。
>句讀點の嚴密な遣ひ分けは、歐米諸語の影響で明治以後に成立したものです。
なるほど、そうでしたか。しかし、「、」「。」は明らかに歐米語の "," "." とは形状が違うので、自信を持って使えますね。何故理系文献に「,」「.」が優先的に使われているのか、その動機が気になるところです。見たところ、理系の教科書、専門書類のほとんどに「,」「.」が使われています。 "," "."は半角、「,」「.」は全角の違いはあるものの、形状としては同じです。
もし、歐米のピリオド、カンマにあわせるために、という動機なら、使いたくないですね!
しかし、おっしゃるように、喧嘩するほどこだわる必要なないでしょう。もっと妥当な動機があるのかもしれません。その点をご存知の方がおられたら、お知らせください。
野嵜様、常連の皆様、どうもありがとうございました。正当表記を使いたかったのですが、勉強不足で出来なくて申し訳ございません。失礼の段はお許しください!
き 來:拡張て・で+,一段動詞
き 來:拡張て・で+,一段動詞 "來":拡張て・で+,一段動詞,なし,0:補助用言くる,一段連用形,連用,0
き 來:拡張て・で+,一段動詞 "き":拡張て・で+,一段動詞,なし,0
間違ひ。
き 來:一段動詞語幹+,一段動詞
を登録します。
さ變動詞「印刷」に一段動詞「出」と僞一段動詞「來る」がくつついて「印刷出來る」が實現します。
ハイパー定家さんの正かな辭書が新字正かな版です。
岩波の辭書によると「蠅」は「はへ」ですね。漢字の讀みは、膨大な量になるので、『變換すればわからない」と云ふ事で大分ごまかしてゐます。
現在ウェブに出囘つてゐる正字正かな辭書には、殘念ながら完璧なものがありません。單語數の不足はユーザ登録で囘避する事が可能なのですが、助詞・助動詞・活用語尾などに關してはユーザ登録でも普通のやり方ではどうにもならない事があります。WXG4では北極三號+私のWX3用辭書では「印刷出來る」が「印刷出来る」か「印刷で來る」にしか變換出來ない筈です。WX-3では問題なく變換出來てゐたので、WXGの不具合です。附屬語辭書に
で 出:さ変名詞+,一段動詞
き 來:拡張て・で+,一段動詞
き 來:拡張て・で+,一段動詞 "來":拡張て・で+,一段動詞,なし,0:補助用言くる,一段連用形,連用,0
き 來:拡張て・で+,一段動詞 "き":拡張て・で+,一段動詞,なし,0
を登録する事で、「印刷出來る」の一括變換が可能となります。
それから、WXGの辭書エクスプローラなどのツールには、実用上問題にならないだけで2000年問題があります。辭書テキストを書出すと、日附が2000年ではなく100年になります。
>野嵜さん
現在使用してゐるのはWindows用がWXG Ver.4、98DOS用がWX3です。どちらも「北極三號」と野嵜氏提供の正字正かな辞書を結合させて使つてゐます。
使用感ですが、私は新字正かな派なので、漢字の部分のみ自分で追加登録してゐます。ただ、漢字の促音便の一部だけ私の入力法と異なるので(基本的に丸谷才一氏の表記法と同じ)、そこだけが不便ですね(例へば「北海道」が「ほくかいどう」では登録されてゐない)。あと気になるのが「重」が「ぢゆう」で出ないために、「重要」とか「重大」などはいちいちユーザー登録しなければいけないのがちよつと大変です。あと、「蝿」の正かなづかひは「はへ」だと思つてゐたのですが「はえ」で登録されてゐるのでどちらが正しいのかわかりかねてをります。
些細な部分を除けば、このWXG(WX3)+正字正かな辞書のおかげで入力は非常に快適です。以上ご報告まで。
はじめまして。「言葉 言葉 言葉」の野嵜です。
>Doppel樣
御役に立てて何よりです。よろしければ、IMEと入手なさつた辭書の使用感など、御知らせ下さい。
>RIO樣
手許の資料をちよつと搜索してみたのですが、「,」「.」に關する記述が見つかりませんでした。ただ、句讀點は補助符號の仲間でして、基本的に假名遣とは關係のないものです。句讀點の嚴密な遣ひ分けは、歐米諸語の影響で明治以後に成立したものです。
他の正かな派の方はどう御思ひになるかはわかりませんが、「,」「.」を使つてゐるからと云つて、その文章が間違つた日本語であると私は申しません。自分では絶對に使ひたくないものですが、他人に「,」「.」を使ふなとは申しません。ただ、ヨーロッパ人の眞似をして「,」「.」を使つたからと云つて、別に威張れた事ではないと思ひます。
文部省の表記に關する御達しは現在「目安」ですので、「,」「.」に關する規定も強制力はない筈です。
仕事で句讀點を統一しないと御金が貰へないと云ふやうでしたら、仕方がないので逆らはない方が良いと思ひます。日本人は表記に關して話す時、どう云ふ譯か頭に血が上るので、下手に議論すれば喧嘩になるでせうし、さうなつて御金が貰へないやうな事になつても困るでせうから。まあ、意味もなく「,」「.」に固執するやうな人は、こちらが下手に出ておけばにこにこしてゐるものですから、或意味扱ひ易いと言へば扱ひ易いと言へなくもありません。
野嵜健秀様、はじめまして。日本語、特に旧仮名使いなどにお詳しいお方だと想像しております。ご意見を賜りに伺いました。
理系の文献などでは、「、」の代わりに「,(全角)」、「。」の代わりに「.」が使われていますが、これは正しい日本語なのでしょうか?最近、文部省がこのように規定しているらしいと知りました。仕事でも、「,」「.」を使用するよう、言われることがあります。何か違和感があるのですが、「,」「.」の使用について何かご存知なら、ご教示くださるよう、よろしくお願いいたします。
みなさま始めまして。Doppelと申します。
私的な部分で新字正かなづかひをしてゐた関係で正かなづかひ入力できるIME用辞書がないものか探してゐるうちに、ここのWebサイトを見つけました。
ここのサイトから正字正かな用辞書を見つけ、やうやく日本語入力環境が整ひました。
ここのサイトを運営してゐる野嵜さん、ごくろうさまです。
これからも覗きにきますのでよろしくお願ひします。
>CHRD樣
フジテレビは、かつて朝日新聞に連載され、現在朝日新聞社によつて單行本が刊行されてゐる『サザエさん』のアニメを毎週放送してゐます。商賣の事を考へれば、産經も下手に朝日新聞を刺戟したくはないのかも知れません。
>波江樣
名前の間違ひは良くある事なので、私は全く氣にしてをりません。
電子テキストは御自由に御利用下さい。リンクは御自由に御張り下さい。出張の方、御氣をつけて。
先日は芳名一字間違へて送信致しましたるやうにて大變失禮且面目次第も無きことでありました
事後承諾願ふ形にて恐縮ながら貴頁よりは漢字御廢止之儀と假名遣意見とをプリントアウトさせ
て頂きました 次回更新時に之につきて種種思ふ所を論載せんと思ひます リンク帳も新設致の
所存にて當然貴頁もリンクさせて頂きたくご了承願ひます 糊口止む無き出張に入る前に取急ぎ
お詫びとお願ひまで
フジ産經グループが、産経新聞の「正論」路線を止めさせたがっている
という記述をときどきみかけます。
グループのなかで、新聞だけが異質なのだとおもいます。
フジテレビなんか他のテレビ局と同じですよね。
>産經はいつごろから右に轉じたのでせうか。一寸氣になつてゐたりします。
昭和49年10月30日第1刷、昭和53年11月15日までに16囘版を重ねた『誰も書かなかった韓国』(佐藤早苗著)と云ふ本があります。同書には「『女子挺進隊』という名の慰安婦」と云ふ章があり、そこには以下のやうな記述があります。
<引用 46ページ>
いま韓国には、元日本兵として戦わされたもの以外にも、強制的に徴用され、重労働を課せられたものが多い。また、日本帝国は、韓国の男だけでなく、女子にまで手をのばしたのだ。女子挺身勤労令などという法令を作って、ふつうの家庭の娘たちを工場労働者と偽って徴用し、日本軍兵士のための慰安婦として南洋まで遠征させたケースもある。彼女たちは砲弾のとどろく下で、野獣のような男たちのはけ口としてもてあそばれた。
</引用>
朝日新聞が泣いて喜ぶ(?)やうな記述ですが、この本はフジ産經グループのサンケイ出版から發行されたものです。
>カンちやん樣
そちらの掲示板で眞劍を振囘す野暮な眞似をやつてをりますが、申し譯ありません。
現實の世界で、最初に覺えた言語が母國語になるやうに、htmlの世界でも、最初に覺えた流儀がその人にとつては「當り前」の事になるのではなるものであります。(だから、入門・講座・ガイドの類に間違ひを見つけると、私は攻撃をしたくなる譯です)
普通は「物理マークアップ」に依存した書き方を最初に覺えて、論理的なマークアップに苦勞して乘換へる事になります。私が「物理マークアップは駄目」と言ふと、普通の人は抵抗を感ずるものだと思ひます。
私の場合、iNTERNET magazine 1998年11月號の「スタイルシート」特集でhtmlの書き方を勉強しました。この號には小册子「HTML 4.0 & スタイルシート 完全互換性データファイル」が附録になつてゐまして、重寶したものです(今でも利用してゐます)。この小册子には、或タグ(及びその屬性)が「廢止豫定」かどうかが明記されてゐます。私は當然のやうに「廢止豫定」のタグなんぞ覺えようとしませんでした。その爲に、私は論理マークアップで純粋培養されてしまつた譯です。
html 3.2や古いNetscapeNavigator(4.x以前)はhtmlの世界に於る「現代かなづかい」みたいなもので、便宜主義に基いて仕樣が決められてゐます。だから私は嫌ひなのであります。しかし、合理性を重視したhtml 4.01が、結果としてhtml 2.0とそつくりなものになつてゐる。この事實は、假名遣の問題に關しても示唆的であるやうに思ひます。
TCUPでは<p>がタグとして認識されるのを忘れてました。すみません。
以下再掲。
野嵜さんのHTMLに關する解説を讀むと正直グサッと來ます。
私はHTML 2.0/3.2時代に、當時の他のウヱブページのHTML、HTML入門書、とほほのHTML入門、
を參考にしながら書いていつた人間なので、「タグは文字の裝飾用」といふ概念や、<p>が2行
改行といふ誤解に基づいた變な書き方の部分が結構殘つてゐるもので……
とは言へ、<blockquote>がUAによつてはインデントされないことや、<ol><ul>は箇條書き用
といふ事は元々考へてゐたし、<title>も殆ど付けてゐるので、そこらはせめてもの救ひですが。
特に<p>の誤用は見付け次第つぶし回つてますが、段落を<p></p>の間に入れるやうに全部變
へるのは、かなり手が掛かりさう。でも、ぼちぼち、時間をかけてHTML 4.0準據を目指してぐわ
んばらうと思ひます。
野嵜さんのHTMLに關する解説を讀むと正直グサッと來ます。
私はHTML 2.0/3.2時代に、當時の他のウヱブページのHTML、HTML入門書、とほほのHTML入門、
を參考にしながら書いていつた人間なので、「タグは文字の裝飾用」といふ概念や、が2行
改行といふ誤解に基づいた變な書き方の部分が結構殘つてゐるもので……
とは言へ、<blockquote>がUAによつてはインデントされないことや、<ol><ul>は箇條書き用
といふ事は元々考へてゐたし、<title>も殆ど付けてゐるので、そこらはせめてもの救ひですが。
特にの誤用は見付け次第つぶし回つてますが、段落を
の間に入れるやうに全部變
へるのは、かなり手が掛かりさう。でも、ぼちぼち、時間をかけてHTML 4.0準據を目指してぐわ
んばらうと思ひます。
>朝日新聞社はアカだアカだと言はれてゐますが
さういへば、30年ほど前のサンケイ新聞社の、大東亜戦争に關する書籍では、何と今では信
じられないことに、南京大虐殺が事實として、しかも30萬人説を擧げてました。産經はいつご
ろから右に轉じたのでせうか。一寸氣になつてゐたりします。
>Alfas樣
ああなるほど。
國語國字問題關聯のガイドとしては『私の國語教室』(福田恆存著)が「聖典」なのですが、現在文庫版が絶版で、文藝春秋の福田恆存全集でしか讀めません。橋本進吉博士と時枝誠記博士の著作も全滅です。「正字正かな派」關係の本は、わざとではないかと思はれるくらゐ、徹底的に抹殺されてゐます。
大野晉博士の『日本語と私』(朝日新聞社)を今讀んでゐるのですが、大野博士は知る人ぞ知る國語國字改革反對派で、本書でも強烈な國字改革批判をしてをられます。殘念ながら「やむなく」新字新かなです。國語國字改革に關する事以外にも、興味深い記述が滿載ですので、おすすめいたします。
朝日新聞社はアカだアカだと言はれてゐますが、國語國字改革批判も出版するのだから、そんなに惡い新聞社である譯でもありません(但し、惡くないのは出版部門だけ、と云ふ噂も)。
>菊地樣
いよいよ公開。當方からも、早速リンクを張りました。
niftyですと、cgiが使へると思ひますが、全文檢索のシステムを用意なさつたらいかがかと存じます。iNTERNET magazine(impress)の11月號によると、古典の全文檢索にはニーズがあるみたいです。
遲れに遲れました自分のサイト「古典文學の村」が本日完成しました、野嵜さんの處もリンク張らせて頂きましたので、御聯絡致します。
尤も今の處面白さうな事は何も書いてありません、htmlは途中から手書きで直し始めたので各々のページがバラバラの書き方になつてゐます、ある程度電子テキストを揃へたらhtmlも書き直します。何卒御容赦下さいませ。「ホームページビルダー」は手直しには向きませんでした、直し始めてからが長かつた?
ごめんなさい。
このサイトの中なのではなくて、手に入りやすい入門用の書籍という意味でした。
書評読んだのですが、どれがいいかわからなくて。
『國語改革を批判する』がよさそうには思ったのですが。
今度本屋へ行った時に探して見ます。
『言葉言葉言葉』の中ではQ&Aが面白いです。『歴史』も面白かったです。
サイト全体では『news』が面白かったです。
顔文字使えないのがつらいです。
他の記事から、「メディアミックス」だけが浮いてゐますね。そこでも浮いてゐる「御言葉」コーナは、實は「言葉 言葉 言葉」の穴場。
權藤監督は辭めさせられるし。「森監督」になつたら、横浜ファンをやめます。……と云ふ最近の野嵜です。今晩は。
>Alfas樣
「言葉 言葉 言葉」のどこが一番面白いか、ですか。私も知りたい位です。一番受けてゐる所がわかれば、そこの更新に集中します。と云ふ譯で、ここを覗いていらつしやる常連さんは、「言葉 言葉 言葉」のどこが一番面白かつたかを書込んで下さい。閑話休題。
國語國字問題、福田恆存さん・松原正先生、PC(Web)の記事(PC Tips)――全てのコンテンツで閲覽者に或程度の知識のある事を前提にしてゐるので、なかなか「おすすめ」のものがないのが現状です。選擇なさらずに、片つ端から見てまはると云ふのはいかがでせうか。どこを讀んでもそれなりに面白く感じられるやうには、努力して書いてをりますので。