になるかな?
いつもhtml関係の記事を楽しく読ませていただいております。
こちらでははじめまして。
わたくしもAnother HTML Lintとの出会い以来、常に正しいhtmlを目指すべく
努力している身(のつもり)なので、ここの記事には共感できるところがございます。
しかし現状ではCSSの実装が各uaで異なるため、多くの人たちに閲覧してもらうためには
様様なuaで表示確認をしなければなりません。やはり現在は実装の悪さ故に初心者には
少々敷居が高く、レイアウトをするために表を使う「安易」な方向に走ってしまうのは
やむをえない結果であると思います(決してそれは望むべき姿ではないと思いますが)。
同じIE5でも、ポジショニングに関してはIE5.5と5.01と実装が全く違うのには参りました。
一刻も早くmozilla-browserのようなものが普及してくれれば良いのですが。
余談ですが、html講座のhtml/cssオブジェクト指向の中にhmtlの表記がございました。
長々と申し訳ございません。失礼いたします。
http://www.scl.kyoto-u.ac.jp/%7Efurubaya/_the0lena/lna0.html
情報ありがたうございました。30日に新宿の伊勢丹に行つたんですが、もう終つて
ゐました。最終日は「4時終了」だつたんですね。
来年は新春早々に新宿の京王で古書市をやります。5日から10日までやるさうで
す。今度は時間には間に合せたいと思ひます。松原正さんの本が一冊も無いのに
気付いたので、探してゐます。序でに『ビッグウイング』の第二巻も。
ctrl + ホイール の存在に初めて気づきました。一言お礼を。
NN4用シートのアレですが、リサイズで崩れちゃうのは辛いですね。
Javascriptでリサイズしたらリロードするようにすればいいのかも
しれないけど、邪魔ですし。ま、でも暇が出来たらシート書いてみます。
いつもお世話になつてをります。年の瀬押迫つたこの時期に、サイトの更新を致し
ましたので、ご報告申上げます。
最近入手の書籍。
土井忠生編『日本語の歴史 改訂版』1996、至文堂
田中克彦『チョムスキー』1983、岩波書店 20世紀思想家文庫2
新宿伊勢丹は、明日行つてみようと思ひます。
初めまして、神奈川県在住の小出と申します。
今年最大の反省は、本を殆ど読めなかったこと。
本ホームページは最近知りましたが、勉強になります(自分の勉強不足を痛感)。
明日は休みなので、町田の古本屋にでも行こうかなと考えています。
この掲示板は少し敷居が高いような気がして書き込むのは勇気が要りました。
皆さん良いお年を!
スタイナーだのフーコーだの持ち出すまでもないのではありませんか。
この掲示板の読者なら、チェスタトンの『正統とは何か』を読まれた方も多いはず。
「狂人とは理性を喪つた人ではない。理性以外のすべてを失へる人間のことなのだ。」
(旧仮名の山之内一郎訳(『正統思想』甲鳥書林、1943.3)より)
味読すべき言葉です。
「通りすがりの人」は私に話しかけてゐるのですか? 見ず知らずの相手をいきなり「あなた」呼ばはりする非常識な人間に答へる義務はありません。「讀めばわかるだらう、馬鹿」とだけ申し上げておきます。(^_^)
一言付け足り。「バロック調」の文章が「いかにもフランス的」であると云ふのは、ちよつと違ふのではないでせうか。モンテーニュにしろパスカルにしろ、簡潔・明晰を尊ぶのがフランスの正統でせう。數學・科學用語を濫用したポストモダンの晦澁・難解な文章は、フランスの正統を破壊するものです。ポストモダンは一種の破壊運動なのですから、當然と云へば當然ではあります。
初めまして、松山の暗黒騎士「暗黒な方」です。
「べーしっ君」!懐かしいですねぇ。
infoseekで検索したら、170件ひっかかりました。
そのうちアスキーのサイトにあった、単行本の紹介の文書のURLをここに掲示しておきます。
役に立つかどうかわかりませんが。http://www.ascii.co.jp/books/detail/4-7561/4-7561-0649-8.html
一段落目 「理性の危險に配る」→「理性の危險に氣を配る」
「言葉はつねに生き方を裏切る」からこそ、言行を一致させる努力が必要なのです。渡邊さんは、言行不一致を當然視して開き直るわけではないでせう。理性だけでなく、反理性も「暴力」を招きます。また、子供の躾・正當防衞から刑罰・戰争に至るまで、人間には暴力を使用せざるを得ない・せねばならない場合があります。暴力を正しく使ふには理性が必要です。理性の危險に配る事は必要ですが、理性を敵視するのは行き過ぎです。
つい個人的趣味(?)から左翼だけを槍玉に上げて仕舞ひましたが、右翼・保守派にも馬鹿な人間がゐるのは、渡邊さんのおつしやる通りです。「南京大虐殺」が無かつた事を理由に、己が日本人である事に「誇り」を持つたりするのは愚の骨頂です。
しかし、「『なかつた』といふ言説は自分に都合が惡い過去を忘れるのに役立つでせう」と云ふ渡邊さんの「言説」には、ちと首を捻ります。「都合が惡い過去」とは、「南京大虐殺」が「有つた」と云ふ斷定を前提とした記述です。これは「僕ははじめから歴史の専門家でもなく、現地に行きもしないでそんな話題を軽々しく口にする人間は信用しません」と云ふ愼重な御發言と矛盾しませんか。私自身は、「南京大虐殺」は「無かつた」と「斷定」します。不寛容な正義を持ち合はせない日本人に、十字軍やヒトラーやスターリンやのやうな大虐殺をやれる筈が無いからです。
「エスピテーメー」だの何だのと云はれると私はお手上げなのですが、少々コメントします。かりにフーコー自身(又は第三者)が「自分(フーコー)の理論はカンギレームとカントに依據してゐる」と主張したとしても、ただちに「フーコーはクーンとフロイトに依據してゐる」と云ふ見方が誤りだとは云へません。常識的には、フーコーのやうな所謂ポストモダンの思想家がクーンやフロイトと無縁であると斷定するのは、無理があるのではないですか。スタイナーのフーコー批判が的外れかどうか、これは相當愼重に論じなければならない問題でせう。「本物」程度の言葉を過敏なまでに警戒する渡邊さんが、いきなり「完全に誤解」などと斷定そのものの表現を使ひ、スタイナーをオッチョコチョイであるかのやうに印象づけるのは、自己撞着ではありませんか。
もう一つ。知識人が「自分の專門領域の外」について語つて、「とんでもない誤解」をやらかしてしまつた場合、渡邊さんは、寛容にも「讀み手がコンテクストをきちんとときほぐして、どちらかに依據しすぎないバランスを保」つてやるべきだとおつしやる。それは違ふでせう。專門外だらうが何だらうが、己が責任で「とんでもない誤解」をやらかした知識人は、「バランス」なんぞ二の次で、まづは嚴しく批判されねばなりません。さうでなければ、スタイナーの「とんでもない誤解」を眞に受けて怒り狂つたフーコーは、「讀み手」失格の大馬鹿野郎と云ふ事になりますよ。
「むしろイスラームよりも日本がキリスト教世界に近い」。一神教と多神教の違ひを無視した暴論であります。千歩譲つて、かりにそれが正しいとしても、己が正義を信ずる人間がゐる限り、虐殺・戰争は無くならないと云ふ私の主張には何も影響しません。
正気と狂気は、理性と感情との関係だとお思いなのでしょうか。狂気も理性からくることもある、ということはショーペンハウアーなどの著作に親しんでおられる方なら、少々なりとも理解があってもよいものだと思うのですが、少なくともそういうことへの考察はないように思われます。
思いいたすべきは、その「理性」はどこから出てくるものなのかというこではないのでしょうか?そこのところへの考察もなしに理性と狂気は・・・などとおっしゃっても真理は逆立ちしたままですよ。理性だってその土台がおかしな理念であったりすれば、その理性はそのまま狂気になるのですよ。「理性」と「正気」とを混同しているのではないですか?
「理性の観念が、理性を持たぬ人間を排除する可能性があります」
これこそが狂気だということにお気づきになりませんか?私はこのようなことに思い至ることこそが理性に狂っているといえると思うのですが。
もしそうでないとおっしゃるのであるならば、あなたがおっしゃる狂人とは何をもってそう呼んでいるのでしょうか?まさか精神病患者を指してであることなどないですよね?(^_^)
野嵜サマ:
>(放射能物質をばらまいたJT)研究員は「本來の世界に戻す爲にやつた」等と話してゐると云ふ。
歴史学の書籍をひもとくと、時々「矛盾」という言葉の濫用に辟易させられます。特定の歴史学者が「矛盾」という言葉を使用するからには、「本来の世界」を想定していることになります。すなわち、その歴史学者は例の研究員と同様の病理を有するのでしょうか(笑)?
僕は言葉はつねに生き方を裏切るものだと思っています。
弱者に対する配慮と言うよりも、
むしろミクロな暴力を想定して理性に警戒しているのです。
もっとも、確かに日本には理性的な思考に欠けすぎているきらいもあるので、
この掲示板でなければ僕はもっと弁証法的に振る舞いますけれども。
スタイナーについてですが、彼は身内の「多数意見」に対して「少数意見」を言った、
ということではなくて、その「身内」が考えたくないような一面の真理を
語ったところに「凄い」ものがある、ということなのだと僕は思いました。
南京大虐殺は「あった」派にしろ「無かった」派にしろ
僕はいっぱいいると思います。左翼か右翼かを問わず。
僕ははじめから歴史の専門家でもなく、現地に行きもしないで
そんな話題を軽々しく口にする人間は信用しません。
「あった」という言説は抽象的な「戦前」を否定することで
安心しようと思っている人には都合がいいでしょうし、
「なかった」という言説は自分に都合が悪い過去を忘れるのに役立つでしょう。
本人がどう思っているかはこの際関係なく、そう機能するだろうと言うことです。
ところで、スタイナーがフーコーの『言葉と物』に書いた書評がNYTimesに
載っていますね ここで読めます。
スタイナーはいかにもフランス的なフーコーのバロック調が気に入らなかったようです。
彼の批判の骨子は、フーコーのエスピテーメーの概念が、クーンのパラダイム概念に
似ているということと、その理論的背景にあるフロイト主義への批判ですが、
これは完全に誤解で、フーコーが依拠しているのはカンギレームの歴史理論とカントです。
フーコーのエスピテーメーの理論はいろいろなところで誤解を呼び、
その後のフーコーの決定的な転回を準備するのですが、
スタイナーとのやりとりはあまり実を結ばなかったようですね。
フーコーによるスタイナーへの返答は「批評の怪物性」大西雅一郎訳、『集成』四巻所収)
で読めます。それによると「ここで問題なのは、文字どおり当の書物のことは何も知らずに、身近
なもの、既に知られたこと、ありそうなことの領域から汲み尽くせるだけのものをすべて用いて、
およそこの書物について想像しうる限り最もありそうにない幻想を製造することにある」と、
かなり手厳しいものです。
もっとも、知識人は、自分の専門領域の外についても語らねばならない場合があり、
そういう場合文脈を読み違えてとんでもない誤解が発生してしまうのは宿命のようなものです。
それを恐れてはある種最悪の日和見主義者になってしまうこともあるので、
こういうことはしかたないです。
問題なのは、それを受容する側、読み手がコンテクストをきちんとときほぐして
どちらかに依拠しすぎないバランスを保つことです。
その意味で同じNYTimesに掲載されたエドワード・サイードの書評は、
フーコーとスタイナーを「啓蒙の逆説」の地平で結びつけるなかなか良いものだと思います。
サイードはときに「お行儀が良すぎる」と批判されることもありますが、
パレスチナ評議員でありながらアドルノやスタイナーといったユダヤ人の批評家を
正当に評価するその態度がいかに困難なものを引き受けて成り立つかを
考えてみればなまなかなものではないことは容易にわかりますね。
ところで、キリスト教とイスラームでは少し価値体系が違います。
キリスト教文化は基本的に二値思考と呼ばれ、「あれか、これか」ですが、
イスラーム社会は三値、あるいは五値思考とされます(ギリシャ文化などもそうらしいです)。
ユダヤ・キリスト教の神とアラーはかなり違う思考形態を産んでいると考えたほうがよいと思います。
ちなみに日本も二値思考です。ただ、二値思考で生じる矛盾や欠陥を
多値化によって補うのではなく、「それは正しい、しかし。。。」というように
観点をずらすことによって対応していく言語文化があるようです。
これが多神教的と言うことなのでしょうが、それはむしろイスラームよりも
日本がキリスト教世界に近いということを表しています。
僕の知る限り多値的思考が 綺麗に学問的に定義されている上に、それが中等教育を受けた程度の
庶民の語彙にも自然に組み込まれているというような文化圏はイスラーム社会だけです。
Makotoさん:
>XMLスキーマ
DTD, XML Data(Microsoft), XML Schema(W3C)...、いろいろあってややこしいですね(笑)。
RDBにもデータ辞書が有りますから、これとほぼ同等の役割を果たすことは出来るでしょう。しかし、ヘボいデータ設計をこれらでカバーできるわけではありません。ちなみに、RDB黎明期(爆)にもヘボいデータ設計が蔓延しましたが、「データ正規化理論」によってある程度ヘボ設計は少なくなりました。私の心配は、RDBにおける「データ正規化理論」のような指針がないことです。数年後になれば、そのヘボ設計の後始末をやらされる奴が出てくるはずです(私もやらされた・死)。
昨日、XML Magazine No.3を購入したら、"ebXML"という規格の記事が掲載されていました。これで、いくばくかの悪夢が解消されればよいのですが・・・。
>(2)データ構造の定義、タグの命名やその属性定義は自由、これを業務として利用するのならば、何らかのルール作りを行う必要がある。
私も詳しくは分かりませんが、多分、このような為にXMLスキーマやネームスペースと言うものが出てきたのではないでしょうか。
iCabは、iCabと名乗ったりmozilla compatibleと名乗ったりするようです。設定によるものか、バージョンによってなのかまでは判りませんが。
私の使用しているLynx for WIN32は、"Lynx/2.8.4dev10 libwww-FM/2.14FM"と称しているようです。
また、IEコンポーネントを使用したCuamは、ユーザが任意に設定できます。何のためなのかは、理解に苦しむところです。
野嵜サマ:
>慥かにxmlッて、わけがわからんです。
実際に新古今をXML化していた限りにおいて、私もわけがわからんですばい(爆)。その時に感じたことを言えば、
(1)XML一次正規形データが表現可能。つまり、二次正規形によって分離されるいわゆる「マスタ」は「埋め込み」になる。
(2)データ構造の定義、タグの命名やその属性定義は自由、これを業務として利用するのならば、何らかのルール作りを行う必要がある。
私が特に気にしているのが、(2)の方。企業内で勝手にルール作りをしてしまうのならば、それは業界標準化の流れに反することになり兼ねません。せめて、リレーショナル・データベースにおいてデータ定義の指針となったデータ理論のように、そげな指針なるものがあればと思うのですが。
・・・業界用語ばかりで申し訳有りません。
理性の觀念が、理性を持たぬ人間を排除する危險はあります。だからといつて、理性の觀念を追放してしまつたら、事態はもつと惡化します。正常人と狂人の區別が無くなれば、正常人が狂人を「保護」する理論的根據は無くなつて仕舞ひます。抑も狂人を狂人と呼ぶこと自體、許されなくなるでせう。否、すでに現實にさうなりつつあります。狂人を保護する事は人權侵害だから、本來は保護されるべき狂人までが解放されて仕舞ふ。その結果、何が起きてゐますか。やはり、弱者はたやすく強者に轉じ得るのです。
渡邊さん、御返事有難う御座います。「迷惑」だなんてとんでもありません。
「本物」「僞物」の件ですが、實は私も、渡邊さんの「含意はわかつてゐて、あへて云つたのです」。以下、説明します。渡邊さんの御返答により、特定の思想・觀念に絶對的・普遍的な價値を付與する事に非常に愼重でいらつしやる事がよくわかりました。特定の尺度に照してAを選んだ結果、Bが排除・差別・彈壓される事を氣遣つてをられる。これをはつきりさせたかつた。
しかし我々は、結果的にBを「排除」する事を承知のうへで、Aを選擇せざるを得ない・せねばならない場面があるのではありませんか。否、寧ろ人生とは、そのやうなぎりぎりの決斷の連續なのではありませんか。もし私が、「頭が惚けてまで生き續ける意味はない。惚けの兆があつたら直ちに自殺する」と公言したら、そしてそれを實行したら、「惚けてでも長生したい」と願つてゐる人はさぞ不快に感じ、自分の生き方が貶しめられたやうな氣持になるでせう。たとへ私が「他人の生き方を否定する積りはない」と書き遺したとしても。或人間が正しいと信ずる生き方を選ぶ事自體、その價値觀と相容れぬ生き方を無言のうちに批判する事なのです。であるならば、私は、「他人の生き方を否定する積りはない」などと殊勝めいた科白を口にしたくない。すれば嘘になるからです。行動が言葉を裏切る事になるからです。
文學や思想についての評價も同樣です。私の判斷が、どうせ他人の價値觀を否定する事になるのなら、奧齒に物の挾まつたやうな云ひ方をせず、「これは本物だ」「僞物だ」と斷言したい。「俺の判斷が絶對的だと誤解されるのではないか」なんて心配は無用です。いやいや、自意識過剩と云ふべきでせう。私はそんなに偉くないし、抑も「絶對的判斷」なんて、それこそ神樣にしか出來ない事です。
渡邊さんは、ことに「弱者」の事を心配してをられるやうです。しかし私は、「弱者」などと云ふ抽象的な代物を心から氣に掛ける事は出來ません。理由は第一に、弱者は同時に強者でもあり得る。第二に、弱者はたやすく強者に轉じ得るし、その逆もあり得る。第三に、抑も何を以て「弱者」とするかの定義が曖昧である。第四に、弱者が道徳的に正しいとは限らない。弱者が社會的弱者を意味するとすれば、救ふのは政治の仕事であり、文學の仕事ではありません。
南京大虐殺について一言。私は、スタイナーが「身内の多數意見」に對して堂々と異論を唱へた勇氣を評價し、日本の左翼知識人と比較したのです。ならば、「身内の多數意見」の典型である「南京大虐殺糾彈運動」こそ、例として適切でせう。「原爆投下糾彈運動」は左翼知識人の間ではさほど盛上がつてゐないやうですから。なほ、「南京大虐殺」糾彈派の中に、「自分が何者であるかを引き受け」ようと云ふ氣概のある人などゐません。それが證據に、過去の日本人の「虐殺行爲」に居立たまれず自決した人は一人もゐません。
一神教に就いては野嵜さんとほぼ同意見なので省きます。
「灸を据ゑる」と云ふ表現が無くなるかも知れないさうです。
本来の意味で使用するならいいが、比喩的に悪い事をした人間を懲らしめると云
ふやうな意味での使用について「一部団体」がケチを吐けてゐるさうです。
表現の多様性を否定する見解ですね。何でかうも表現に制限を加へたがるかな
あ。
どうも、しつこくからんでみるみたいになっちゃってすいません。
いろいろ個人的に考えていることが他人の言葉に反応して出てしまって。
もしご迷惑に感じてらっしゃる様でしたら申し訳ないです。
木村さんの含意はわかっていて、あえて言ったのです。
「本物」「偽物」という個人的な趣味判断が、
あたかも文章そのものに内在している普遍的な価値判断であるかのように扱っていられるように
僕には見えたので、それは文脈に依存するのだと言いたかったわけです。
そして、「人間」という概念が、「理性」の外部を排除してしまう、
ということが僕がもともと木村さんに提起したかった疑問です。
それと、これはまた当たり前だと言われるかも知れませんが、
キリスト教徒もイスラム教徒も一枚岩ではありません。
僕にはイスラームの友人が何人かいますが、いい加減な人間はいっぱいいます。
ヨーロッパのキリスト教徒もおそらくそうでしょう。
逆に日本人にも原理的な思考をする人はたくさんいます。
そして、原理的に思考しても虐殺につながらないようにすることも可能だと思います。
全員がそうすることは不可能だと思いますが、たとえばガンジーはそういう思考を
実践した人だと思います。
というか僕は思想が虐殺をもたらすわけではなく、それをするのは人間である、
思想が本性的にそういうものだと言うのは責任転嫁だと思うわけです。
やはり「本性」を持ち出すとシニシズムになると思う。
人間の「本性」については、僕はないと考えていますし、
「いつ、誰が、何処で、何を、どのように」語るのかによって、言葉の意味は変わると考えています。
スタイナー云々で言えば、そこで「南京大虐殺」が出てくるのが変です。
あえていうなら「原爆投下をいくら糾弾したって、おれ達の心の中の獣は消えはしない」と
書くのが正しいと思います。
念のために言っておきますが、これは文脈をはっきりさせているだけで、
南京大虐殺を糾弾せよと言っているわけではないです。
歴史について語るためには、自分が何者であるかを引き受けなければならないでしょう。
ニュートラルな立場というのは単なるシニシズムに陥る危険があると思のですが、どうでしょうか?
また論理学的にも意味が言語に内在すると考えるのは誤りだと思います。
スタイナーは正氣を保つ大事を主張したうへで、それでも人間は狂氣に陷る場合がある事を認めたから偉いのだ−−と云ふ御意見に異存はありません。私の最初の投稿は少し誤解を招いたかも知れません。無論、スタイナーはナチスのユダヤ人虐殺を認めたわけではありません。「ナチスを切り捨てれば人間の殘虐と云ふ難題が解決すると思つたら大間違ひだ、殘虐なる心は己の中に有る」と同胞たるユダヤ人に對し云ひにくい事を敢て云ひ放つた、それが「凄い」と書いたのです。日本の左翼知識人の中に、「南京大虐殺をいくら糾彈したつて、俺達の心の中の獸は消えはしない」などと云へる立派な人がゐるでせうか。
【小疑問】新潮國語辭典によれば、「本物」には以下のやうな語義があります。
(一)本當のもの。僞りでないもの。實物。また、本當のこと。事實。
(二)[1]本格的であること。[2]技藝などが、本格的であること。また、その人。玄人。
私と渡邊さんは現在、ダイヤモンドの鑑定や古代遺跡から發見された土器の話でなく、文學や思想について議論してゐるのですから、私が「本物」と云ふ言葉を(二)の意味で使用した事は誰の目にも明らかであります。「本格的」は「優れた」と言ひ換へても好いでせう。ところが渡邊さんは、恰も私が(一)の意味で「本物」と云ふ言葉を使つたかのやうに、「文學書や思想書は、單に排列された文字の束であつて」「論理的に本物と僞物といふやうな區別がない」と餘りにも當たり前の事を力説されました。一體何故なのか、理解に苦しみます。
【中疑問】渡邊さん曰く、「植物状態にある人間は、『人間』ではないのか?」「精神や意識がなければ『人間』ではないのか?」。これもまた、餘りにも當たり前の問ひを何ゆゑそのやうに仰々しく發せられるのか、不思議であります。「精神のない人間」と云ふのはちよつと想像がつきませんが、「意識のない人間」も「植物人間」も人間に決つてゐます。渡邊さんが滿足するやうに私の主張を細く云ひ直せば、「人間(但し植物人間・癡呆患者・失語症患者・心身耗弱者・乳兒・蘇生したゾンビ・その他諸般の事情により精神が不自由または未成熟な者を除く)は、己が正義を信じないではゐられない。だから虐殺や戰爭は無くならない」とでもなりますか。我々は人間一般について議論する場合、いちいちこんな長いカッコ書を插入しなければならないのでせうか。
【大疑問】渡邊さん曰く、「僕には人間に『本性』があるといふ考へがそもそも疑はしいのです」「あらゆる時代と状況を貫いて永遠不變に存在する『人間』のイデアなるものがあるとはどうにも思へません」。さうでせうか。私は渡邊さんと異り、人間には變らない理想や道徳が存在すると信じます。少なくもそれらを追求する努力をせねばならぬと考へます。父を殺し、母を犯す事は、オイディプス王の時代も現代も變らぬ大罪ですし、未來永劫、大罪でなければならぬと考へます。ソクラテスの昔から中東・灣岸戰爭の現代に至るまで、人間は正義にこだはらずにゐられませんでした。日本人は正義に關して鈍感な民族かもしれませんが、少なくもクリスト教徒やイスラム教徒は違ひます。ならば、彼らが地上に存在する限り、戰爭も虐殺も無くならないと云ふ事になりませんか。
lynxでも、野嵜さんのサイトはちやんと見られます。ご安心下さい。
かう云ふプログラムの事をユーザエージェントと呼ぶんですね。勉強に成りました。
解答、どうもありがとうございました!!!
早速本をさがしてみます★
本当に、どうもありがとうございました!!!
渡邊さん:
>それは時代の状況に置いて「発明」される概念(=道具)なのではないでしょうか?
思考概念なるものが時代に全て従属するのであれば、恐らくは私たちは古典の物語を読むことすら出来ないでしょう。古典文学初心者(まだ言ってる・爆)である私を含めて、私たちが少しでも古典を読み取ることが出来るのは、そこに少しでも共有可能な思考概念が存在するからです。そして、私たちが古典の物語において思考概念が共有し得るのは、それだけ時代性の拘束から免れているということだったりします。
考えてみれば、イギリスの「古典」といえば古代ギリシアやローマのそれだったりします。言語も宗教もことなるというのに、これを「古典」として読み解くことが可能なのは、やはりその「古典」が共有可能な思考概念の宝庫であることを示します。まあ、共有可能な思考概念を延長し過ぎて、バイロンのようにギリシア独立の義勇軍として参加して、当地でカルチャーショックを受けることも無いわけでは無かったりする(笑)。
木村サマがリクールを読んだなら、恐らくはその「御行儀の好」さに辟易するかもしれません。なにしろ、物語派歴史学論者の擁護は行わないと言明してくるくらいですから(笑)。そこいらあたりは、西洋中心というよりフランス人的かもしれません。それでも、彼が導出した結論はやはり歴史は物語であるということなのです。彼が主張する「出来事の記録」の重視は、その導出結果に対する自国民への弁明にしか私には聞こえませんです(笑)。まあ、「・・・である」と「・・・べき」を峻別しながら読むのであれば、さほど心配はしていませんが。
わたしがコレを読む理由は、日本の歴史学とくに歴史教育における歴史の形而上的認識の誤謬に対抗したいというのがあります。現在、個別の「事件」に対する評価はさまざまな論争となっておりますが、その根本に対する追求がない議論では個別を累積してもキリがないと私は考えています。そして、その根本となるのは「歴史は科学であり物語なんぞではない、物語論者は反動的だ」という認識です。「何斤大逆札」toka「十軍医按府」tokaは私から見れば三の丸や出城でしかなく、「歴史は科学である」という認識こそが実は本丸だったりします。それは、「人文科学と社会科学の融合」tokaいった奇麗事を口にしながら、実際は人文科学を蔑ろにして社会科学こそ真理であると信仰する、20世紀の病理の一形態なのです。かくの如き病理を克服するためにも、歴史を物語と再認識する作業は必要不可欠であると私は考えます。
「狙い目は大きく、上がりはセコく」というのも、私のモットーだったりします(爆笑)。
>木村さん
いえ、僕が言う「悪人」というのは、誰かによって「悪人」とされた人間のことで、
本人の自意識はこの際どうでも良いです。また、「狂人」というのも、
ある種の痴呆患者などのように、そもそも言語や論理による思考が不可能な人間を含めてです。
また植物状態にある人間は、「人間」ではないのか? ということです。
極端に言うと、精神や意識がなければ、「人間」ではないのか? ということでもあります。
それともうひとつ、僕は「本物」の文学や思想などはないと思っています。
文学書や思想書は、単に配列された文字の束であって、
それを使うのは個々の人間だと思いますし、使い方は人それぞれです。
「マルクス主義は終わった」などという人がいますが、
軍事独裁政権と対抗するゲリラの中で、マルクスやレーニンの著作は、
現在でも力を持っていますし、それが「使える」ものであることは明らかです。
(念のために言い添えますが、良くも悪くも、です)
「文学」や「思想」そのものは、抽象概念のカテゴリーですから、
論理的に本物と偽物と言うような区別がないと思うのです。
ちょうど言語の意味がシンタックスに依存しないで文脈によって「発明」されるように。
だから僕には文学や思想に「本物」があるとするような考えは
一種の英雄主義、あるいはロマンティシズムのように思われます。
もちろん「優れた文学作品」とか「下らない作品」とかは、
批評によって個々の文脈で指摘できるでしょう。
しかし、本物と偽物を区別できるような一般的な規則は存在しないと思います。
単純な問題なのですが、そもそもどのような本であれ、
その本を読めない人間にとってはその本はまったく使いものにならないわけです。
しかしだからといってその本が偽物だと言うことにはならない。
だからその本が「使える」かどうかは、本自体よりもむしろ読者の能力と
彼が置かれている状況にかかっていると思います。
そういうことも含めて、僕には人間に「本性」があるという考え方がそもそも疑わしいのです。
あらゆる時代と状況を貫いて永遠不変に存在する「人間」のイデアなるものが
あるとはどうにも思えません。
それは時代の状況に置いて「発明」される概念(=道具)なのではないでしょうか?
>野嵜さん
気づいてますよ、日記の文章。
ところで、アルトーについては、彼は非常に面白い文学者ですが、
実際にはかなり不当に監禁され拷問をされていたわけで、
あまり精神分裂病に関する夢想的なイメージの代表として語るのはどうかと思います。
あと意識的に麻薬を用いて精神を破壊するような人でもないです。
似たようなようなことはしていますが、それは重要な部分ではない。
確かに晩年は完全に極限的な状況になっていますし、狂気の直中にいたようですが、
それでもなお、あそこまで凝縮した詩的な文章(いうまでもなくそれは
論理的にかなり厳密です)を書けたことからして、
そこで語られる「狂気」は、普通の意味での精神病と比較すれば
彼の置かれた状況下で出てくる隠喩、あるいは「文学」の言葉に他ならない。
おそらくスタイナーはそれほどフランスの状況にも
(といいますか、まだその時代では単に「キリスト教徒ではない」というだけで
「狂人」とされ、監禁・拷問を受けるなんてことはざらにあったわけです。
アルトーはそういったタイプの被害者であり、しかもその状況下にあって、
みずからの「狂気」をさらに意識的に狂わせていくことで抵抗した文学者です)
アルトーの作品にも詳しくないので、一般的に語る「例」として
「アルトー的なケース」を挙げていると思うのですが
(例えば日本の土方巽のように、アルトーを土着的なアニミズムや
シャーマニズムの陶酔に結びつける傾向というのは確かにありますから)、
しかしそういう文脈を外してしまうと、
単にわけがわからなくなるというか、サイケ思想とあまり変わらなくなってしまうので、
ちょっと書いておきます。
ところで、「正常であることへの努力」は大切だと思いますが、
「異常である人」を保護しようと考えるのも、
「正常であることへの努力」だと思います。
そしてその「保護」は時として暴力になる(「狂人」のアルトーが監禁と電気ショックの
「治療」を受け、心身ともにボロボロになっていったように)。
だからこそ、知的であろうとすること(正常であろうとすること)は、
つねに自己批評的でなければならないし、普遍性や、永遠や、理想を求めるのではなく、
「このわたしの生」における一回性の中でのエステティックなものであると思うのです。
「もしおれが法律もこれほど嚴しくなく、趣味もこれほどお上品でないところに生まれてゐたら、一夜の慰みにそこにゐる二人を生きたまま解剖して樂しむのだがなあ」
E.ブロンテ『嵐が丘』(田中西二郎譯、新潮文庫451頁)よりヒースクリフの科白。
「闇黒日記」13日〜18日分は今日中にアーカイヴの方に行つてしまふので、こつちにも書いておきます。と云ふか、最近野嵜が掲示板の囘答を「闇黒日記」でしてゐる事實に氣附いていらつしやらない方は結構多いのでは。
<引用>
はじめてですみませんが、誰か準副体助詞についておしえてくれないでしょうか、、、、。??
</引用>
「準副体助詞」は橋本文法の用語で、橋本進吉獨自の分類です。『國文法體系論』や「助詞の研究」に記述があるみたいです。
年末までに助詞・助動詞關係の一般的な記事を書く豫定。
渡邊さん
正義を主張するのは「善人」だけではありません。「盜人にも三分の理」と云ふ言葉があるやうに、「惡人」には「惡人」なりの正義があります。ヒトラーには「私腹を肥すユダヤ人の撲滅」、スターリンには「反革命分子の肅清」と云ふ「正義」がそれぞれありました。狂人だつて人間ですから、なかなか立派な「正義」をお持ちの方が多いやうです。むかし都知事選に立候補して、「公立料理教室、榮養素=病名=道徳を大幅に改革する」なんて公約を掲げたM井L峯さんなんて人もゐました。この公約、私はちよつと意味がわからないのですけれども(笑)。
正義は究極の所、相對的ですけれども、それでも人間は己が正義を絶對的だと信じずにゐられません。Aと云ふ正義を信ずる人間と、Bと云ふ正義を信ずる人間とは、妥協出來る場合もあるでせうが、出來ない場合もある。妥協出來ない場合、暴力に訴へてでも己が正義を貫かうとする。從つて、虐殺や戰爭は無くならない。それを無くす事が出來るかのやうに説く思想は、所詮は綺麗事であり、「使へない」思想であり、「實行可能なオルタナティヴ」を提示する能力などないでせう。リクールがどうだか知りませんけれども。
私は何も虐殺愛好家ではありませんし、殺人を安易に認める積りもない。もしも私の家族を虐殺されたら、私は必ずや悲しみ怒るでせう。しかし同時に、自分が虐殺をやらかす可能性もあると認めます。早い話、私の家族を虐殺した人間を、私は虐殺したいと望まずにいられないでせう。かうした人間の本性を直視した思想や文學こそ、本物であると私は信じます。
ということは、狂人や悪人は人間ではないということになりますが、
それでよいのでしょうか?
僕はそういう人間至上主義には疑問があります。
正義は重要な観念だと思います。
アリストテレスは人間における共同性を人間の本質的な属性としました。
したがって正義の観念はつねに要請されてあるものだとアーレントは主張します。
それはまったく正しいと僕も思います。
しかし「理性の外部」を「人間」の名のもとに排除するのを容認し、
それをもって歴史がもたらす虐殺や不正を是認するのは話が違います。
というか、思想書や文学書は、単に文字が配列されてあるだけの物質です。
それが何かをするわけではない。
つねに何かを考え、行動するのは善人も悪人も狂人もひっくるめて
世界に存在する人間です。世界は理性的な人間のためにだけ存在するわけではない。
ほとんどの場合、自分が何をしているのか意識していないがそう行動する、
というふうに人間は生き、その結果が、世界に存在する現実であって、
それは万人に開かれて<いま・ここ>にある、と僕は思います。
「知」は、そこでつねに事後的に現状を批判するものとしてある。
それは、世界を少しでも良いものにしていこうとする道具として自らを
他者に使用してもらうためにあるであって、
「凄い」と誰かに思ってもらうためにあるのではないと思います。
リクールがお行儀が良かろうと悪かろうと、そんなことはどうでもいいと思うのです。
その思想、具体的にはその著作が、誰かにとって「使える」ものであるかどうか、
それによってどのような現実を生み出していけるのか、
問題はそこにあるのではないでしょうか?
知性は、「正義」や「真理」を教えるだけや、単に現状を批判するだけではなく、
実行可能なオルタナティヴを呈示しなければならないと僕は思います。
ユダヤ人の批評家、ジョージ・スタイナーは「ヒトラーの思想を生んだのはユダヤ人である」と凄い事を云つてのけました。ナチズムに関しては、私は、スタイナー以上か、少なくも同等の「凄い事」を書く思想家でないと読む価値は無いと信じてをります。「第二のヒトラー」出現防止を至上命令とするかのやうな御行儀の好い思想には、どうも魅力を感じません。リクールがさう云ふ「御行儀の好い」思想家なのかどうか、読んでゐないので断言は出来ませんが。
人間が、少なくも西洋人が、己が正義を信ずる存在である以上、「第二のヒトラー」「第二のスターリン」は必ず生まれる。それを避ける事は出来ない。正義を信ずる事をやめれば、人間は人間で無くなるのだから。この事実から目をそらす学問や文学やは、無意味であると私は信じます。
すいません〜誰か体の旧漢字知ってますか?
液体等の体です。
「骨+豊」←だった様な・・・変換してもでないんです。
>岡崎さん
リクールは、「意志的なものと非意志的なもの」しか読んでいないです。
僕はフーコーの読者なので、その関係で興味はあるのですが。
買うと高いので、図書館で借りてまとめて読んでみます。
そしたらいろいろ相手して下さい。
僕は基本的には小説が好きな文学の人です。
ですから言語学や哲学にはまったく素人なので、
気楽に相手してやって下さいね。
> 野嵜さん
フランスの、というよりもハイデガー以降の西欧の
哲学・文学理論関係の本は、もう原文を参照するか、
ある程度原語の構文の構造とかを頭に入れて読まないと
読んでいられない気持ちになってくることが多いみたいですね。
最近僕もそれを実感してフランス語に真面目に取り組んでいます。
ちなみに「落語風小説」。。。
何故わざわざ落語風にするのかがわからないことが多いですね。
円朝の「牡丹灯篭」ですら書かれたものとしては浅井了意に遠くおよばないのに。
やはり話芸は話してこそ「話芸」です(当たり前ですが)。
たまには自分のサイトのURLとか入れておきます。
野嵜サマ:
>北朝鮮にもMacがあるみたいですね。
例の"Yin."というコピーは、朝鮮民族好みなのかもしれません。陰陽のあのマークを使いたがるのも、Mac信者ですし。
それにしても、HTMLにツールの商品名が記載されているとなれば、そのページの管理者はツールのユーザであることになりますね。であれば、メーカーがweb検索を使えば自社ツールを使用しているサイトを調べることが出来ます。そして、そのサイトへユーザ登録確認を行って、それが不正(爆)使用であれば、そのメーカーはユーザから代金を請求することが出来ますね。
日記の過去ログを読了。掲示板等の過去ログは6割ほど……
文書の量が多い上に流し読みするのも勿体無いのでじっくり取り掛かっています。
Makotoさんも仰っていますがHTMLリファレンスなどは、必要に迫られて要点のみ確認することが多いので、ミスが有ってもなかなか気付かないのかもしれません。
ネットサーフィンをやっていて、ここにたどりつきました!
はじめまして!
はじめてですみませんが、誰か準副体助詞についておしえてくれないでしょうか、、、、。??
私がおばかなため、どの本をしらべればのっている、とかすら、わからず、
きになってしかたない日々をおくっていたりします。(汗)
さいごに自己紹介★
現在22歳の人妻&人母です。
ほんとに突然すみません〜〜〜〜〜〜(@_@)^^
ただいま投稿したDoppelです。
私の勘違ひで誤つた指摘をしてしまひました。野嵜さんの正字正かな辞書には「祗園」といふ単語は入つてをりませんでした。
充分な確認をせず投稿してしまひ野嵜さんにご迷惑をおかけしたことをお詫びします。
(どうやらWXG自体がこのやうな変換をしてゐるやうです)
久し振りの投稿になります。
まづ指摘です。野嵜さん提供の正字正かな辞書の中に登録してある「祗園」といふ語ですが、「祇」の正字は「示」+「氏」であり「祗」は「シ」と読む別字だつたはずです。ご確認お願いします。
現在、個人的には正字を入力するにはIE5.0附属のMingLiUフォント(台湾の繁体字用フォント)+Unicodeといふのがベターな選択のやうに思へます。ただしここのやうな掲示板では使用は無理ですけれど。みなさんもいろいろ苦労してゐると思ふのですがいかがですか。
一寸前に、野嵜さんが色々なブラウザの使用レポートを掲げられてをりましたが、
最近当方は、"lynx"を導入しました。軽くてサクサクと動作するんです。
唯、此れはcssを無視して表示してしまふんで、野嵜さん好みでは無いでせう。
済みません。読み始めてかなり経つんですが、野嵜さんのサイトをまだ全部読み切
つてをりません。でも「正かなIMEプロジェクト」のリンク元が幾つか途切れてゐる
事は存じ上げてをりましたが、申上げる事を怠つてをりました。
最近、件の野嵜さんによる「インターネットいろはカルタ」や、複雜也さんの「小倉百
人一首」の公表に至り、当方も一般的な「いろはカルタ」の一覧を公表してみた次
第です。
一応、江戸と上方と尾張が古来からある伝統的ないろはカルタの代表的な語句に
成りますが、「上毛かるた」は、群馬県内で広く流布してゐる地域カルタの一種と成
ります。地域カルタ代表として一覧に追加しました。
カルタの件は、其れだけで多数のコンテンツを抱へる事の出来る題材なのです
が、色々な方面のウェブサイトで考察がなされてゐるので、私としては口出ししない
事にします。唯、語源的には、ポルトガル語の"carta"が元となつてゐると云ふ事
が定説ですので、かるた、歌留多、骨牌、等と書かれますが、外来語由来としてカ
ルタと書くのが正書法として正しいと考へます。
『時間と物語』に悪戦苦闘中の、toka3akiです。
渡邊さん:
>京都賞を受賞したそうですね。
そうなんですよ。\(^o^)/
『時間と物語』についでですが、歴史なるものが物語であることは間違いはないと確信しております。しかし、異なる物語をそれぞれ保持する共同体との間で誤解が生じた時、どのような処方箋があるのかが問題となると思います。その場合、「歴史家」も「裁判所」すらも無力になるのではないかと危惧しております。実際に「歴史認識」でゴタゴタが起こっているのは、「異なる物語を保持する共同体」との間の問題だったりしますから(何処?爆)。リクール氏は出来事の記録を重視しようとしていますが、その記録すらもすでに保持していたりする物語から果たして自由であるだろうか、やっぱり疑問となってしまいます。
・・・すみません、哲学書初心者のクセして生意気なレスで。もし、すでに『時間と物語』を読了されておりましたら、よろしく御教授下さいm(_ _)m。
Yahoo!でニュース漁りをしていたら、「北朝鮮」のカテゴリーの「関連サイト」欄にテロリスト連中のHPへのリンクが掲載されていました。ちょっと不愉快(^^;。
http://www.dango.ne.jp/ogenki/
つまらないとかいう問題ではなくて、あまりにも多岐で大量な文章があって、
目を通しにくいというのが実状じゃないでしょうか。
それと、実用系の文章に関しては、必要な時以外はなかなか見ないものですしね。
京都賞を受賞したそうですね。
以下中山元氏のリポートです。
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証言の意味について、哲学の分野で長い間考察を続けてきたのがリクールで
した。リクールは稲盛財団の京都賞の講演では、自分史や世界観などについて語
っていたようですが、朝日新聞のインタビューでは、今年の秋に刊行された
『記憶・歴史・忘却』を踏まえて、記憶と証言の重要性を強調しています。
リクールは、おそらくニーチェの歴史論を踏まえながら、ホロコーストのような
「言語を絶した犯罪」に対しては、三つのアプローチが可能だと語ります。
裁判官、歴史家、そして作家としてのアプローチです。このあたりはきっと
『記憶・歴史・忘却』のコアの部分だと思うので、少し詳しくリクールの話を
聞いてみましょう。
裁判官は、法的に手続きにのっとって、客観的な証拠に基づいて裁きます。しか
しこれには限界があります。判決は個人の犯罪だけを裁けるのであり、この犯罪
を可能にし、あるいは強制した政治構造や、その背後にある民族全体の責任を問
うことはできないからです。許すということが不可能に思えるほどの極限的な犯
罪に対しても、既存の量刑を科すことができるだけで、判決がでると、一件落着
となってしまいます。
これを補うのが歴史家の仕事です。歴史家はさまざまな説明や理解の方法を採用
することで、議論をいつまでも続けることができます。そして歴史像はつねに書
き替えられ、共同体としての民族の自覚に影響を与えることができます。さらに
作家は、フィクションという方法を用いて、人々の心のうちに、この問題を描き
出すことができます。
そしてこれらのすべてのアプローチを支える役割を果たすのが、当事者の証言で
す。朝日新聞の12月8日の夕刊から引用。
「当時その現場にいて、直接体験し、傷ついた人々が語る言葉の前では、沈黙す
るしかない。われわれはそれを受け止め、記憶することが求められている。最近
ホロコーストはなかったという主張が出てきた。生存者はいずれいなくなってし
まう。証言をもとにした時代から、書かれた資料をもとにした時代に移りつつあ
る」。
ぼくたちはだれも、当時の日本軍の行為に対しては直接は責任を負わないのです
が、父親や祖父の世代の人々が行ってきたことは、知っておき、記憶しておく
必要があるのではないでしょうか。アレントは『人間の条件』において、人間の
アイデンティティは、歴史として物語られることによって初めて作られるのであ
り、それは個人についても、国民についてもあてはまると語ったことがあります。
ぼくは『記憶・歴史・忘却』はまだ未読なのですが、リクールもまた『時間と物語』
において、そしてこのインタビューで、ほとんど同じことを指摘しています。
民族は自らの歴史を一つの物語として語り、伝えることで、共同体としての自覚
を獲得するのだと。
なおリクールの京都賞の講演要旨は次の場所で読めます。
このサイトには、過去の十六回の受賞者の紹介と講演内容が掲載されているので、
参考になります。京都賞は 先端技術部門 、基礎科学部門 、精神科学・表現芸術
部門 の三つの分野で授与され、哲学の分野ではポパーやクワインなどがすでに
受賞していますね。基礎科学部門では、シモーヌのお兄さんのアンドレが授賞
し、ブルバキ創設の頃について語ったようです。写真をはじめてみました。なる
ほど(笑)という感じ。
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中山元氏はフーコーやアーレントの研究で著名ですが、
Polylogosという活動もされており、
哲学に関するMLをいくつか主宰されています。
学位論文の翻訳や、一般には入手しにくい資料の情報などを読めますし、
理論的な裏付けのない投稿は少ないようなので、
哲学と歴史、あるいは政治などに関心のあるかたには有益になるかもしれません。
よかったらどうぞ。
P.S. 野嵜さんはリクールには関心がないんですよね。すいません。
でもまあ、歴史と言語のネタということで。
何処も同じ秋の夕暮れ(いまは冬だけど)。http://www.lexpress.presse.fr/Express/Info/Societe/Dossier/intello/dossier.asp?id=244408
身許が最初から割れてゐましたので、多少暴れられても餘り迷惑ではなかつたりします。もつと暴れて呉れたら會社の方に直接ちくる積りでしたので、逃げられて殘念かも知れません。
ちよつと目を離した隙に、とんだ御迷惑をおかけしました。
兜町関係の人は、荒らしたければうちの掲示板を荒らすやうに。
當掲示板を荒した場合、投稿元を探つてISP・企業に直接通報しますので、御注意下さい。或は、誰が見ても文句の附けやうのない、全うな意見だけを投稿して下さい。
210.196.132.198(株式会社ゴールデンチャート社)のIPから11件に亙り木村氏の名前を騙つて投稿した掲示板荒しがゐました。投稿は全て削除しました。この人物はニルヴァーナ氏、「小囃子秀雄」氏と同一人物です。ニルヴァーナ氏はどうやら札つきの「アカ」だつたやうです。
自分で書く文章は、俗字体が多いのですが、此れは正字体に対する反動ではあり
ません。全ての正字体が表現でき得ないこの「日本の電脳事情」に対する反発と
受止めて頂ければ幸ひです。
ですので、正字体への改変の上での引用は認めてゐますし、さうされても文句は
言ひません。
どうやら論点がすれ違つてゐたやうですね。失礼申上げました。
記紀万葉の時代は、漢字を輸入した事によつて将に表音的なかなづかひを行つて
ゐたんだと思ひます。まあ、其の中にも訓を意味を消した形で利用した場合もあつ
たり、色々な工夫がなされてゐた事も事実ではあります。
話し言葉は変化して行くものと言はれますが、書き言葉の変化はでき得る限りの
範囲で食止めるべきとの考へは、一致してゐると存じます。其の意味で正字正か
な、或は、歴史的かなづかひは勝れた表記方法だと思ひ実践してゐる処です。
「現代仮名遣い」と「常用漢字」は、其の根底に表音主義と漢字制限若しくは漢字
廃止の思想が隠されてゐます。此れが無意識の時代への回帰と云ふ事になれ
ば、「現代仮名遣い」で書かれた文章に対して、かなづかひや漢字の字体を改変し
て引用されたとしても、其の件で文句を附ける事自体でき得ない事になります。例
へ其の侭のかなづかひで引用されたとしても、かなづかひを改変して引用されたの
と同様、事情は変らない事でせう。
この論理で云へば、「表音主義者」の行ふ主張は、近代以前の思想に基いた主張
となる訳ですね。成る程納得。
他人が書いた事に對して「そんな事は阿呆でも判る」と云ふのは、書いた本人を「判り切つた事を書くな、この阿呆」と罵るのと同じである。それを知つて書いたのなら論外、知らずに書いたのなら、「ニルヴァーナ小林」氏こそ言葉の遣ひ方を知らぬ「阿呆」と云ふ事になる。私は後者、すなはち小林氏は日本語を知らぬ「阿呆」であると見る。全部指摘してゐたら切りがないので一點だけ云ふ。
小林氏も私もアダムでは無いから、人間の「起源」では無い。しかしこの事は、小林氏や私が人間で無い事を意味しない。同樣に、マルクス・レーニン主義が唯物論の「起源」で無い事は、マルクス・レーニン思想が唯物論で無い事を意味しない。それどころか、マルクス・レーニン思想は現代における代表的な唯物論である。唯物論の例として出して何の不都合が有るか。そもそも前の投稿で、小林氏は「これを唯物論者はどのように考えるのでしょうか」と發言してゐるではないか。小林氏はこの問ひを現代の唯物論者で無く、古代ギリシャの人間に向かつて發したのか。それならこの掲示板の投稿も古代ギリシャ語で書いたら宜しからう。
ニルヴァーナ氏へ
まづ、掲示板に書込みたいのであれば、掲示板の使ひ方に關する注意書を讀むやうに。
それから「先生」は禁止。
<引用>
先生の御見解によれば、契沖は個人主義者だったといふことになりますが、この理解でよろしいでしょうか。
</引用>
何處を何う讀めばさうなりますか。勝手に「御見解」を作らないやうに。
>「現代かなづかい」を使用してゐる時點で、その人は近代的な個人主義を拒絶してゐるのであり、その人に近代的な主義主張がある事はあり得ない、と云ふ事です。
さう云ふ意味で、「現代かなづかい」派の人が自己の文章に意識的になれる筈は無く、私の引用の仕方に文句をつける事は不可能である、と言つた譯であります。
先生の御見解によれば、契沖は個人主義者だったといふことになりますが、この理解でよろしいでしょうか。御指導、御鞭撻のほど宜しく御願い申し上げます。