> 假定を根據に斷定的な結論を導くのは非論理的です。
すいません、断定的な結論を導いたつもりはありません。もう一度当該文章を引用します。
> この意味において、私の主張は「論理的な HTML を書いて欲しいのなら、W3C は、もう少し論理的な HTML 仕様を提示すべきだろう」というものです。
私は単に自分の考えた推論を書いているつもりだったので、敢えて「だろう」と書きました。こんなところで解釈がすれ違っているとは、夢にも思いませんでした。繰り返しますが、私は断定はしていません(少なくとも引用された文章においては断定はしていません)。
もしよろしければ、どのあたりで「斷定的」と判断したのかを、教えていただけないでしょうか。
よもやこんなところが論点になっているとは思わなかったので、この掲示板で失言してしまいました。訂正させてください。
「不十分な文章でした 投稿者:屁理屈太郎 投稿日: 1月25日(木)13時00分20秒」より
失言
引用していただいた文章で私が主張しているのは、(W3C が論理的な HTML 文書を望んでいるという仮定のもとで)「W3C がどうすべきか」についてです。
訂正
引用していただいた文章で私が主張しているのは、(W3C が論理的な HTML 文書を望んでいるという仮定のもとで)「W3C はこうすべきではないか」という推論です。
いろいろとお手数をおかけして、すいません。よろしくお願いします。
> なぜそのやうな事をしなければならないのでせうか。一般の文章で、段落を構成しないような短い文(あるいは語)を段落として引用する事はありますでせうか。ないと思ひますが。
とりあえず、ひとつ見つけたので報告させてください。
大野晋著 日本語練習長 第一章 単語に敏感になろう より
---- ここから引用 ----
夏目漱石の作品から、もう一例。
彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。(『行人』)
これなども、「喜ばしそう」が礼を述べることと組みになっています。……以下略……
---- ここまで引用 ----
ちなみに、引用もとでは以下のような「段落」になっています。
夏目漱石著 行人 より
---- ここから引用 ----
一週間ほど経って母から電話がかかった。彼女は電話口へ出て、昨日Hさんが遊びに来た事を告げた。嫂が風邪気なので、彼女が代理として饗応の席に出たら、Hさんが兄といっしょに旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。父からも宜しくとの事であった。自分は「いい案排でした」と答えた。
---- ここまで引用 ----
もっと実例が必要でしたら、それなりの時間はかかってしまうと思うのですが、お知らせください。可能な範囲で調べてみます。よろしくお願いします。
申し訳ありません、掲示板の仕様を理解せずに「<」(半角)などと書いてしまいました。「<」(半角)と書く代わりに「<」(全角)を利用して、再投稿します。本当に申し訳ありませんでした。
---- ここから再投稿 ----
申し訳ありません。私、いまだにどこで何を間違えているのか理解できていません。以下に私の考えを少し細かく書きますので、もしよろしければ、どこが間違っているのか教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。
HTML の仕様書では、p は、「伝統的な意味での段落」である旨書かれています。当たり前ですが、私の言うところの「段落を構成しないような短い文(あるいは語)」というのは、「伝統的な意味での段落」ではありません。以下、HTML 4.01 の仕様書からの引用です。
> 9.3 Lines and Paragraphs
>
> Authors traditionally divide their thoughts and arguments into sequences of paragraphs. The organization of information into paragraphs is not affected by how the paragraphs are presented: paragraphs that are double-justified contain the same thoughts as those that are left-justified.
>
> The HTML markup for defining a paragraph is straightforward: the P element defines a paragraph.
したがって、「段落を構成しないような短い文(あるいは語)」を p タグで囲むのは、論理的に正しくありません。したがって、以下のような HTML の書き方は論理的に正しくありません。
<blockquote>
<p>云々</p>
</blockquote>
※↑「云々」は、段落を構成しないような短い文(あるいは語)です。
もちろん「上記の p タグは、引用者側の意図した段落であって、引用元の文章の段落ではない」、と解釈することも可能です。が、この場合、「blockquote 内の p タグは引用者によるものなのか、それとも引用元にあったものなのかを、判別できなくなる」という問題が生じます。
もし、HTML が論理的思想に基づいて設計されたものであるなら、blockquote も、div、dd、li、th、td 等と同様に、%flow; を要素として含むようになっているはずだと考えます。blockquote 要素だけを div、dd、li、th、td 等と区別して扱うことに、論理的根拠はないと考えます。
※ Transitional では blockquote が %flow; を含むよう定義されているのですが、何故か Strict のほうでは %block; のみしか許されていません。
以上が、私が「HTML の設計思想は非論理的だ」と考える根拠です。もしよろしければ、私がどのあたりで踏み外しているのか、教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。
以下、余談です。例えば以下のような HTML ならば「論理的に正しい」と言えなくもないと思います。
<blockquote>
<div class="sentence">云々</div>
</blockquote>
が、これをもってして「HTML の設計思想は論理的だ」と主張するのであれば、「div と span さえあれば何でもあり」ということになってしまいます。「論理的な HTML 文書が作成可能であること」は、「HTML の設計思想が論理的であること」の根拠としては、非常に薄弱であると考えます。いかがでしょうか。
---- ここまで再投稿 ----
申し訳ありません。私、いまだにどこで何を間違えているのか理解できていません。以下に私の考えを少し細かく書きますので、もしよろしければ、どこが間違っているのか教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。
HTML の仕様書では、p は、「伝統的な意味での段落」である旨書かれています。当たり前ですが、私の言うところの「段落を構成しないような短い文(あるいは語)」というのは、「伝統的な意味での段落」ではありません。以下、HTML 4.01 の仕様書からの引用です。
> 9.3 Lines and Paragraphs
>
> Authors traditionally divide their thoughts and arguments into sequences of paragraphs. The organization of information into paragraphs is not affected by how the paragraphs are presented: paragraphs that are double-justified contain the same thoughts as those that are left-justified.
>
> The HTML markup for defining a paragraph is straightforward: the P element defines a paragraph.
したがって、「段落を構成しないような短い文(あるいは語)」を p タグで囲むのは、論理的に正しくありません。したがって、以下のような HTML の書き方は論理的に正しくありません。
<blockquote>
云々
『論理哲学論考』はめちゃくちゃ面白いですよ。
僕は中学生の時にこれを読んで数学に本気ではまりました。
もっとも、ヴィトゲンシュタインは前期と後期でまったく違うので、
『哲学探究』のほうも全集版で精読をオススメします。
あ、久しぶりでございました。一応日記は拝見しているのです。では。
こんな私でも『「言葉 言葉 言葉」關係者(?)』と認めて頂いて宜しいんでせうか。
光栄の至りです。
随分昔の話で恐縮ですが、2000.12.30附けの闇黒日記の記述で『「文藝」の「藝」と
「安芸」の「芸」とを「芸」』と有りますが、「安芸」の正字は「安藝」となるのが正しいと
理解します。正字としての「芸」は、音は「ウン」となり、日本初の公立図書館と伝へ
られる「芸亭」などの漢字熟語が有ります。2001.1.22附け闇黒日記記述によりご入
手された『岩波古語辞典』をご参照下さい。
因みに、「弁」についての記述は相違ありません。又、私が何故「異体字」で記述し
てゐるのかは、いつか自分のサイトで改めて書く豫定でをります。
> 段落を構成しないような短い文(あるいは語)をブロックレベルで
> 引用する手段が用意されていないから。
(改行適宜挿入)
ありますよ。
http://www.w3.org/TR/html4/struct/text.html#edef-Q
元々HTMLの役割は、学術論文の公開と交換であったと記憶しております。なれば、HTMLの元々の性格としては、発表したい事項を平易な文章として記述するためのものとなるわけでして。表現そのものとしての記述のために、HTMLがあるわけではなかったりします。もちろん、表現そのものとして記述したHTMLファイルの方が、圧倒的多数という現実もあったりするわけですが。
HTMLでさまざまな表現を行おうという私たちの行動は、何でもMicrosoftWordで書類を作りたがる「おやじ」の態度に似ていて、やっぱり嫌です。とは言っても、そげな「おやじ」が顧客だったりする悲しい現実ももあったりするわけですが。
ところで、野嵜サマ、日記の方に「就業時間外の集中力が極端に落ちてゐる」とありますが、もしかして再就職されたのでしょうか?そうであれば、喜ばしいことです。
>或は、前惡と正邪とは別だと云ふ事を理解してゐないのだと思ふ。
といふ文の「前惡」は「善惡」の變換ミスと捕らへてよろしいでせうか?
ボクも自分の日記で言及しようとか思いましたが、アッチコッチに振るのもアレなので、やはり投稿します。
> HTML では段落を構成しないような短い文(あるいは語)をブロックレベルで引用したりする手段が用意されていないから。
ソレを言い出したらブロックレベルで強調する手段もレベル6以下で見出しをする手段も複数の段落をアンカ(リンク)にする手段もないですヨ。結局アレもコレもとキリがなくなってきたので XML を(も)勧告したというトコロでしょう。W3C としてはシンプルなマークアップ言語を勧告する上で、このあたりが落としドコロと決め打ちしたものと思われます。悲しいけどコレ、シンプル故の限界なのよね(なんでもガンダムネタにするのはよくないとおもいます)。
ボクが W3C だったら H1, H2... などとせずに、 HEADER 要素を作ってレベルは LEVEL 属性で、 ということにしていたとか、イロイロもうそうしたりはします(末期)。まぁしかし、ココまでやるのは八百屋批評かなという気がしたりして落ち込んだりもするけれど、私は元気です(だからと言って魔女宅ネタもどうか)。
はじめまして。(U-Z さんの掲示板の書き込みからの)引用ありがとうございます。ですが、今回の引用は不適切なもののような気がしてなりません。おそらく私の文章が不十分だったことが原因と思いますので、少し補足させてください。
> と云ふか、W3Cの勸告したHTMLの仕樣のどこが非論理的なのだらうか。
まず確認させていただきたいのですが、私が非論理的といってるのは、HTML 仕様の設計思想であって HTML の仕様そのものではありません。非論理的とした根拠は以下です。
段落を構成しないような短い文(あるいは語)をブロックレベルで引用する手段が用意されていないから。
> 人が論理的な文章を書くのは當り前の事で、HTMLの仕樣がどうだから云々は關係ないのではないですか。
私もそう思います。
引用していただいた文章で私が主張しているのは、(W3C が論理的な HTML 文書を望んでいるという仮定のもとで)「W3C がどうすべきか」についてです。野嵜さんが書いている「人が(HTML の利用者が)どうすべきか」という問題とはまったく関係ないと思います。
おそらく私が「私の個人的な感覚」の問題や、「(私が)他人に推奨」できるかどうかといった問題を、きちんと分離せずに書いてしまったところに問題があるのだと思います。誤読を誘うような文章でした(論理的に十分な整理がなされていない文章でした)。すいませんでした。
今後も更新を楽しみにしております。今後ともどうぞよろしくお願いします。
XHTMLカテゴリのWeb Study Deskのコメントで、Makotoさんの名前がMakotさんになっています。また、24日付闇黒日記の屁理屈太郎氏の発言引用部のp終了タグが抜けています。
こんな報告ばかりで、申し訳ありません。
実は私のサイトからリンクを張っています。
取り敢えずこちらを。
http://www-user.interq.or.jp/naoki/
他にも色々サイトを立ち上げているみたいです。
絵とか雰囲気とかは結構好みなのですが。
>「tableなんて七面倒臭えもの、使へるか」
ASPやXSL(T)でない限り、<table>は保守に相当の負担を与えますね。
<table>で記述している自分のページは、本当はXMLで記述したかったです。
>Macの場合、基本は[Command]キーですから、[Ctrl]キーは案外使はれてゐないのではないですか。
そですね。
強制終了がうまくいかないときに左の方にあるキーを纏めてバンバン叩くときぐらいしか使いません。
CADや Illustratorを使うときなんぞは、基本的に片手はマウスにあるので、片手で[Command]キーとショートカットを使うことになり不器用な自分は指が攣りそうになります。
それにしても、図面等をメールでやりとりするようになるとMacは何かと不利なようです。
10年以上のつきあいだし、悩むなあ。
野嵜樣
お久し振りです。昨年松原氏の著書をお譲りいただいた者です。その節はどうもありがたうございました。歴史的假名遣ひも何とか綴れるやうになりましたので、お禮とご挨拶に参りました。
正字正假名の習得に當たつては、ここのコンテンツを始めリンクされてゐる多くのサイト及び紹介されてゐる書物を參考にさせていただきました。まだまだ未熟ではありますが、少しでもまともな文章が綴れるやうに日々努力したいと思つてゐます。
それでは。
と言つても大分前に「なぜ日本語を破壞するのか」の件で書き込んで以來なので、覺へてないかも知れませんが・・・。
因みに「なぜ日本語を破壞するのか」ですが、漸く手に入れることが出來ました。
これで忌まわしき現代語からの脱却をしたい所存であります。
>2001.1.17
>本屋で平臺の本の上に鞄を置く人は、八百屋に行つたら野菜の上に鞄を置き、魚屋に行つたら魚の上に鞄を置くのだらうか。
當方は書店で働いてゐるのですが、全く以て共感しました。
鞄に限らず、携帶電話や財布、既に購入した本までをも置く輩の神經を疑わずには居られません。
もうこの類の不滿を、公共廣告機構の「ジコチュー」に送り始めたらきりがない程です。
道コ心は何處へやら。
また來ます。
それでは失禮致します。
「結婚物語」とは懐かしいですね。夫役は陣内孝則氏だった筈。後に続編の「新婚物語」(記憶が曖昧)というのも放送していたはずです。ぬいぐるみが大量にあったなあとか眼鏡とか、物語とは無関係な部分しか覚えていないところがなんとも残念です。
はじめまして、須王と申します。闇黒日記より…
>「言葉 言葉 言葉」のコンテンツが最近全く増えてゐないにもかかはらず、一日當りの閲覧者數が倍近く増えてゐる事實は、一體何を意味してゐるのだらう。
私もここ最近から出入りさせていただいているひとりです。また、それより以前にもリンクフリーの言葉に甘えてリンクを張らせていただいていました。
気がつくとkotobaseekの方に登録されていたようで。今後も閲覧のみが多くなるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
日本語力に興味を持つものです。
こちらには「言葉づかい」で検索していてやってきました。
毎日使ってる日本語ですがまだまだ分からない事だらけです。
たとえば丁寧語なんかは使ってるつもりで変な言葉になってたりして恥をかいた事もあります。
私がよくいく日本語力のHP(http://www.nihongoryoku.co.jp/)でも、話題になります。
日本は狭いのに方言は様々でそういうことも話題に上りとても楽しいです。
是非のぞいてみてください。
>一日當りの閲覧者數が倍近く増えてゐる事實は、一體何を意味してゐるのだらう。
ややや、ぼか今部屋の中で仕事をしていますので、暇ができるとあちこちとのぞかせてもらってます。
そのせいかしらん。
そんな数じゃないか。
今年もよろしくお願いします。
> それにしても、レモンエンジェルのほかの二人は、一體どこへ行つてしまつたのでせうねえ。
ボクが知る限りレモエンの解散は絵本さんの妊娠(によるメンバー欠如)が原因でしたし、
えりか姫は『女優の修行に行きたい』とアメリカに旅立った(レモエンとして最後に出演したラジオにて発言)と記憶しております。
こういう情報は黙して語らずがファンの基本なのでしょうか?
智たんが結婚してた事を隠してたのが公表になってショック受けたボクはファン失格なのでしょうか?
#複雑な心境でして現在アルコールはかかせません……自然と涙が流れます
「ガマフ@蒲生chapter 431@妖精王者は、正しくは旧仮名遣いではなく「字音假名遣」です。」
とされてゐますが、これは両字とも和語ではないでせうか(「がま+おふ(?)」)。
韓国の伝統発酵食品であるキムチの調理法、歴史、効能などを紹介するサイト。農水産物流通公社は農水産物の流通分野において様々なサービスを提供しております。
韓国本場高麗人参の歴史、効能、栽培、楽しみ方をを紹介するサイトもあります。世界各国の高麗人参も紹介しております。
http://www.kimchi.or.kr/
http://www.insam.or.kr/
是非、行ってみてね!
というキーワードをサーチエンジンで検索したことがありますが、
予想通りそのものズバリはありませんでした。
自分で作るしかないのかも知れません。
HTML+の仕様書を読んだところ、
見出しは「Header」として説明されていました。
http://www.w3.org/MarkUp/HTMLPlus/htmlplus_10.html
「h1〜h6はヘッダ」という説明は
もしかしたらHTML+から来ているのかも知れません。
52行目のq終了タグが開始タグになっているようです。
><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html;charset=Shift_JIS">とお書きになつてゐますが、文書はEUCで保存されてゐるやうで、ブラウザで見ると文字化けします。
もしかしたら、geocities.co.jpの「EZアップロード」なるものを利用すると、漢字コードを勝手に変換するのでしょうか。とりあえず、大急ぎで"charset"を書き換え直してみました。
ご迷惑をおかけしました。
いきなり失礼ですが、宣伝させて下さい。
ようやく、わたしもホームページを開設しました。
古典と歴史をネタにしております。
来て頂ければ幸いです。
では。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/8675
》所謂「ROM」の事を、「監視者」と呼ぶのはどうでせうか。
英語では“lurker”と云ふやうです。
Centris650じゃなかったかと思われます。それともQuadra650だったかな。
引用開始
Ctrl + Insert、Shift + Insert、Shift + Deleteなんてショートカットキーを使ふ人間は最早少數派なのでせうか。
引用終了
私の周りを見回すかぎりでは、この手の操作をキーボードで行う人間が少数派なのかもと思ったりもします。
野嵜サマ:
>Ctrl + Insert、Shift + Insert、Shift + Deleteなんてショートカットキーを使ふ人間は最早少數派なのでせうか。
マウスとの連動が便利な Ctrl+'X'|'C'|'V'というショートカットは、「証拠」らしき「文献」のカット&ペーストで正義を主張したがるタワケモノの増加という現代の病理を生み出したと、私は考えております。
本年もよろしくお願いします>皆々様。
今年の正月に大江戸線を踏破する予定でしたのですが、結局断念してしまいました。おなじリニアの大阪市営・長堀鶴見緑地線は踏破済みですが、狭い車内のうえにさして速度は上がらず、えらい窮屈な印象を持っております。いかにも、従来よりも建設費を圧縮したというアピールが、うざいです。 同様のコンセプトを持つ大江戸線も、同様なのでしょうか?ちなみに、リニアは円形である従来の直流モーターを文字どおり線形にして動力を推進するのですから、やはり電車には間違い有りません。
きのふ、新宿京王の古書市へ行つて来て、やつと表題の大野博士の著書を入手
できました。探してゐた本の一つです。
其の外、『福田恆存飜訳全集第一巻』、『閉された言語・日本語の世界』、『桜もさよ
ならも日本語』の三冊を入手しました。
『閉された〜』のはうには福田さんの書評が載つてをり、唯其れだけの理由で買つ
てしまひました。
然し、未だに以前入手した古書すら読み始めてゐない。うう。
全然あやしくないです。「W3C信者」とされている所でも、もっと怪しいのは沢山あります。
と言うか、それも含めて怪しくないです。
電気機関で動く列車や車輌の事を日本では一般的に「電車」と呼んでゐますね。
蒸気機関やヂーゼル機関で動く列車や車輌は「汽車」と呼びます。自己に機関を
持たない列車や車輌は「客車」とか「貨車」とか呼んでゐます。
リニアモーターカーの場合は、どうなんでせう。電気機関では無いのは解りますが、
電磁理論の技術で成立してゐる列車や車輌と云ふ意味合ひでは「電車」で構はな
いのかも知れません。フレミングの法則をご存じでせうか。電磁理論では、電気と
磁気は相伴ふものとして理解されてゐます。
若し、正かな派の人間が「W3C信者」であるならば、私も同じく「W3C信者」と云ふ事
になつてしまひます。早くDOCTYPE宣言を急がねばならないのでせうか。当方のサ
イトではテーブルを多用してゐますが、此れも考へ直したはうがいいんでせうか。
「闇黒日記」1/4分を讀んで、さうだつたのか、大江戸線はリニアモーターだったのかと納得。
私も昨年末に乘つたのですが、レールの間にある金屬の板は何なのか疑問でした。
大江戸線は上の架線から電氣を取つて、電氣リニアモーターで動いてゐるので、リニアモーター
式の「電車」で間違ひないと私は思ふのですが。
現在試驗中の磁気浮上式は何と呼ぶのでせうかね。「磁車」でせうか。
ところで、私のウヱブサイトは現在改裝作業を進めてゐます(やつと國語セクションの改裝が
終りました)。掲示板を(かの2ちゃんねるで惡名高き)スレッド浮上式に切替へたのが主要變
更點です。スレッド浮上式は話題を整理しやすく讀みやすく、氣に入つた方式ですが、匿名の
「名無しさん」ばかりが無禮講で罵倒しあふ雰圍氣は嫌ひなので、「投稿者覽を空欄にしたり、
“名無しさん”“通りすがり”等匿名を謳つたハンドルでの書込を拒否」「投稿者のリモートホ
ストを表示」機能パッチを當てて使つてゐます。
「名無しさん排除」「リモホ表示」機能が標準装備の状態でCGIスクリプトが配布されるやう
な時代になつて、やうやくスレッド浮上式掲示板も一般に市民權を得るのではと思ふのですが、
それが待ちきれなかつた私でした。
どうも、お邪魔します。サイトのほう、大変興味深く読ませていただきました。
僕などもたまに冗談半分、似非旧仮名遣いで文を書いたりしますけれど、たぶん間違いだらけ
なのでお恥ずかしい限り。
言葉の問題にはいろいろ思うところもあります。リンクさせていただいてよろしいでしょうか?
ところで、國語學・國語國字問題/資料篇/用語解説/補助符號/音符/反復符號 の項目ですが、
>・「々」(漢字)、「ヽ」(平假名)、「ゝ」(片假名)など。
とありますけれど、失礼ながらこれは平仮名と片仮名が逆ではないでしょうか。
あけましておめでたうございます。
ご感想ありがたうございました。敬語と同様、このやうな言葉も色々と発達して来て
現在があるんだらうと思つてをります。尊大語と侮蔑語は本来別物ですが、コンテ
ンツの上で同系統のもの(「不敬語」)として扱つてしまひました。
現在の日本の社会では階級が廃止されてしまつたので、尊大語はほぼ死滅したと
云つても過言では無いと思ひます。ですが、文学作品の観賞などではこのやうな言
葉遣も理解しておく必要があるでせう。現在は「給へ」が辛うじて残つてゐる程度で
せうか。
侮蔑語のはうは、現在でも色々な場面で実際に使用されてゐますね。日本語の場
合、欧米諸語と比べてこの手の言葉が貧弱だと云はれます。ですが、探せば色々
な表現を見附ける事が出来ると思ひます。差別語と同様に学校教育の場面では教
へて呉れない言語表現ですね。
渡邊さん、體調不良のところ、わざわざ御返事有難う御座いました。
小林秀雄氏は吉屋信子女史の小説のほんの最初だけ讀んで、「詰らぬ」と斷言したさうです。眼力さへあれば、全部讀まなくたつて本質は掴めるものです。私はさすがに自分を小林秀雄氏になぞらへるほど圖太くありませんけれども、それでも、過去の乏しい讀書經驗の中から、所謂ポストモダン思想にかなり嚴しい「偏見」を抱き、その判斷にはそれなりの自信を持つてをります。ちなみに、フーコーの著作は一册も讀んだ事が無いのですけれどね(笑)。しかし、例へばフーコーの『狂氣の歴史』がどう云ふ書物か、今囘の渡邊さんの御發言を讀んでゐると大凡想像はつくのであります。世間には、讀まなくとも議論出來る事柄は幾らでもあります。フーコー・スタイナー論爭に就いて、私は「讀まずに云へる」範圍内で議論したつもりです。
しかしフーコーの事はさほど重要ではありません。私が今囘の議論に於て、最終的に主な批判對象としたのは、「言行一致・自己撞着」と云ふ題名からも判るやうに、渡邊さん御自身の發言中の矛楯であります。フーコーとスタイナーの論爭ならば「非專門家」が立入るには限界があるかもしれませんが、掲示板への投稿者同士が互の論理構成を批判する事には何の障碍もありません。私の嫌ひな横文字をあへて使へば、フーコーやスタイナーの「テクスト」を直接論ずるよりも、彼らの思想を論ずる渡邊さんの「メタ言語」を問題にしたかつたのであります。
渡邊さんの御發言の矛楯、例へば「本物」程度の「絶對的・普遍的」言葉に過敏な迄に神經を尖らせながら、直後に「完全に誤解」といともたやすく云ひ切つて仕舞ふ事などは、實はポストモダン思想が抱へる矛楯と密接に關聯してゐるやうに私には感じられ、だからこそ執拗に絡んだのですが、ここで詳しく述べる餘裕はありません。ただ一點、云ひたいのは、小説家だらうが評論家だらうがジャーナリストだらうが、プロだらうがアマチュアだらうが、文章を書く時には、論理上の矛楯が無いやうに氣をつけなければならない、と云ふ極々當たり前の事であります。
今囘の議論、私にはたいへん刺戟になりました。またやりませう。お體の方、どうぞお大事に。それから申し遲れましたが、野嵜さん、私のゐる國は二十一世紀までにあと一時間少しありますけれど、明けましてお目出たう御座います。本年もどうぞ宜しくお願ひします(「好い加減にして呉れ」と突込まれさうですね)。
話の途中で消えてしまってすいませんでした。
ひとつは年末の雑事のせい、もうひとつは体調不良のせいです。
作家協会と友達のサイト以外にはもうアクセスする気力が無くて(汗)。
>木村さん
スタイナーの書評が「完全な誤解」だと僕が思ったのは、
僕が読んできたフーコーの論文に比して、スタイナーの書評が、
おそらく「言葉と物」だけを読んで書いているに違いない、
しかもフーコーが当時世間で受けた批判にスタイナーは
読む前からかなり影響されていたのではないか? と思ったからです。
それと、僕が読者は冷静に(寛容に)ならねばならない、といったのは、
すでに当事者が死人になっているからです。
また生きている人間であったとしても、本来、批判というのは、
相手の目に触れる(即ち反論できる)状態で書くのと、
相手の知りようのないところで書くのとは意味が違うからです。
スタイナーがフーコーを批判し、フーコーがそれに反論する、
これはまっとうなやりとりですね。
そこに参加して物を言うのは僕は大いにするべきだと思います。
しかし、それを専門にしていない人間同士が、外野で相手に届かないかたちで
「いいもの」「わるもの」みたいな区分や論争をしても、
あまり有意義ではないのではないか? と思います。
僕がスタイナーが「誤解している」と書いたのは、
スタイナーよりもフーコーのが偉いということが言いたいからではありません。
だいたい僕はフーコーの本はほぼすべて読んでいますし、原文にも結構触れていますが、
スタイナーは一、二冊、それも翻訳で読んだことしかないのです。
それでスタイナーの思想全体について何か理解できていると主張することはしません。
たとえばアメリカ人の学生がですね、日本語がほとんどできず、
翻訳だけで本居宣長を一、二冊読んで「宣長は国粋主義者だからダメ」とか
書いたら度し難く醜悪だと思われるでしょう?
だから僕はあの書評をめぐるスタイナーとフーコーのやりとりの経緯と、
それを冷静にときほぐしながら読んでいるサイードの書評の3つでもって、
状況の中にいる人間と、その状況を「歴史」として引き受ける立場の人間のスタンスの違い、
ということがいいたかったのです。
イスラームについては、最近一神教でありながら「あれか、これか」にならない
イスラームの文化に触れはじめたところで、ものすごくわかりにくいのですが
面白いのでつい書きました。確かに木村さんの主旨にはあまり関わりがないとは言えますね。
ただ「あれか、これか」という思考は
必ずしも宗教から来るものではないのかもしれないとか思ったりもするのです。
これについてははっきり言えません。実はラテン語もアラビア語もできないので(笑)。
でも今回ここでいろいろ書かせてもらって、
やっぱりもうちょっとちゃんと勉強しなくちゃなあとか思いました。
とはいえ僕は小説家ですから、やはり哲学や歴史について
一知半解でものをいうな、ということなのでしょう。失礼しました。
になったかな?
野嵜殿、明けましておめでとうございます!
今年も良い年になると良いですね^^
になるだらう。