今後、「D.D.理論」に關する研究報告は、原則として弊サイトの掲示板でやります。根氣よく續けて行けば、ソシュールの言語學説を弟子達が集大成した『一般言語學講義』を超える名著になるかもしれませんが、そこまで私の氣力は持たないでせう。とりあへず、關聯の短文を弊サイトの掲示板 http://www67.tcup.com/cgi-localbin/6731/kimura39.cgi に書きましたので、宜しければ御笑覽ください。
野嵜樣、松原先生の「大坂」講演、お誘い出來なくて申し譯ありませんでした、私の方も何度も「行く行く」と書いてゐながら、「確定」したのは前日の午後でした。今年は色々惡い條件が重なつてさうなつたのですが、來年は何とか御一緒出來ればと思つてゐます。
それと。
入力ミスのご指摘有難う御座いました。
それと。
「兼盛と忠見の二首は、優劣つけ難しとして、昔から議論の種となつてゐますが、忠見の歌の方が世評は高いやうです。」
これは、知りませんでした、壬生忠見は「天徳歌合」(村上天皇)で平兼盛に負けた後、落胆の餘り食事を取れなくなり死んだと言ふ話しが「沙石集」に出てゐます。
「忠見、心うく覺て、心ふさがりて、不食(ふじき)の病附てけり−−中略−−むねふさがりて、かく思侍りぬと、つひに身まかりにけり」
後世、忠見の歌の評價が高くなつたのだとすれば、死者の靈は慰められたかもしれません、但し、私個人は兼盛の歌の方が好きです。
しのぶれど色に出でにけり我が戀は、物や思ふと人の問ふまで−平兼盛(40)
戀すてふ我名はまだき立ちにけり、人しれずこそ思ひそめしか−壬生忠見(41)
> > なぜ引用の際に行われる新→正仮名遣いの変更を止むを得ない改変だとは思わないのか。
> 改変を行わずとも引用は可能であるから。
其れでは、D.D.さんは、どう云ふ場合ならば、「止むを得ない改変」だとする事が出来るんですか。其れとも「止むを得ない改変」と云ふ事自体が有得ないとの主張ですか。
> (snip)
> > どうやったら改竄だ、という認識になるのかが知りたいところです。
> 引用された者が「引用の際に改変することは失礼だ」というようなことを言った際に、
> 引用者が「引用ではない」と引用自体を否定はしていなかったから。
この理論だと、引用された者が何らかの不満があり「失礼だ」と述べた時、引用者が引用自体の否定をしなければ「改竄」が成立するんですね。引用者の言ひ分を切つて捨てる何とも独善的な理論だ事。引用者に対して相当失礼ですね。
大体、先般の「D.D.さんがやらかした要約」のはうがよつぽど正規の意味での改竄ですよ。要約元の文章を書いた人に対して相当失礼ですね。
いいですか。失礼をやつてゐたのは「引用された者」のはうなんですよ。D.D.さんは「失礼だ」と書いたものを見ないと判らないんですか。或は、何故さう云ふ人に肩入れするんですか。
私は、この掲示板の01/05/22_02:30の発言で、自分のウェブページの日記の記載で、D.D.さんへのお願ひを書いてゐるんですが、ご意見を頂けません。相当失礼な人ですね。
> なぜ引用の際に行われる新→正仮名遣いの変更を止むを得ない改変だとは思わないのか。
改変を行わずとも引用は可能であるから。
> 新→正仮名遣いの変更に限らず、「改竄」について普段どのような行動、対処をされているのでしょうか。
ものによってそれなりに。
(snip)
> どうやったら改竄だ、という認識になるのかが知りたいところです。
引用された者が「引用の際に改変することは失礼だ」というようなことを言った際に、
引用者が「引用ではない」と引用自体を否定はしていなかったから。
と云ふわけで、素晴らしい理論について勝手に解明してみました。
新仮名遣いから正仮名遣いへ変更した段階で、既にそれは元の文章とは変化しているのだから引用ではない、という話ならまだ理解できるのですが、どうやったら改竄だ、という認識になるのかが知りたいところです。
ちょっと長すぎるかな……野嵜さん、ごめんなさい。
D.D.さん:
D.D. さんはここで永久ループにはまり続けていなければならないのでしょうか?
途中退場という選択肢もありますが、個人的にはすっきりさせて欲しいものです。
D.D. さんは
> 『「新→正」の假名遣變更はやむを得ない改変に決まっている。』が全然わからないな。
という点について、一切の妥協も許さずに「改竄である」と認識していて、D.D. さんのその認識が改まるような事はないように思えます。
ここに書かれている方々は「正しい文字に修正 (もしくは改変) して引用した」のであって、そこに悪意が介在しているようには見えません。
それを悪意が介在する「改竄だ」と言い切るのは、明らかに D.D. さんの主観によって判断されているようにしか見えない訳で、改竄であると言い切るための根拠となる
> 『「新→正」の假名遣變更』がやむを得ない改変だとは思わない
理由を述べれば話は簡単だと思うのですが、どうでしょうか。
恐らくは他の方も求めていると思いますが、「思わないだけで。」で止めずに、なぜそれを思わないのか、という理由なり根拠なりを説明して欲しいのです。
それとも、何か言えない理由でもあるのでしょうか?
私は、少なくとも自分の書いた文章については、別に引用された文章が新→正、もしくは正→新の仮名遣いが変更されたところで、伝えたい文章や書いた文章の意味が変わっていなければまったく構わないと思っています。
そこには根本的に伝えたい情報の変化が無ければ良い訳ですから。
新仮名遣いで書かれた文章の、その字面の美しさについて述べたかったのだ、という場合は、もちろん新仮名遣いのまま引用されなければ情報の欠落が発生するでしょうから、その場合には「変えないでくれ」と明示したらよいだけの話でしょうし。
ところで、D.D. さんは、聖書の一部の言葉とか、有名人の言葉など、結構良く見かける引用された文章について同様に文句を言ったりされているのでしょうか?
あの辺りなど、明らかに D.D. さんの言われる「改竄」が行われているものだと感じるのですが。
たとえば "Boys, be ambicious!" → "少年よ、大志を抱け" という言葉自体にすでに言葉の印象を変更する「改竄」が行われている訳ですが、こういったことに関する啓蒙活動などはされている訳でしょうか?
対して "仮名遣い変更" → "假名遣變更" でどれだけの印象、意味などを含む情報が変化するのでしょう。
……と、話がずれました。
私が D.D. さんに聞きたい点は 2 点です。
なぜ引用の際に行われる新→正仮名遣いの変更を止むを得ない改変だとは思わないのか。
新→正仮名遣いの変更に限らず、「改竄」について普段どのような行動、対処をされているのでしょうか。
少なくとも、D.D. さんは他人を納得させられるだけの理由を述べずに「いや違う」「そうは思わない」だけしか言っていない訳で、根拠を明確に示している野嵜さんの話には「なるほど」と思わせるものがありますが、D.D. さんの話には「で?」としか感じないのです。
単に「それは改竄だ」ではなく、「是々こういう理由で、それは改竄に当たる」と説明してはいただけないものでしょうか。
当然のことながら、「気持ち悪い」とか「嫌い」などといった D.D. さんの感情や主観は根拠にはなり得ません。しかし、今までの流れではこの辺りだとしか思えないのです。
そういったレベルであればご自分のサイトなりなんなりで文句を言っていてください。
『「新→正」の假名遣變更はやむを得ない改変に決まっている。』が全然わからないな。
> 「キレチャッタヨコイツ」と言つて嘲笑する馬鹿もゐるだらうが、「怒らせた方が勝ち」とでも考へるやうな奴は、それこそ氣違ひ。
凄いな、これは。感情で動いて、我にかえったのか。で、こう書いた、と。
> これで僞善者D.D.さんの化けの皮は剥がれました。本當に相手の氣持ちを思ひ遣つて表記變更に反對する人間ならば、それが引用でなく要約の場合でも、出來る限り表記を變へないやうに努力する筈だからです。
要約には要約者の主観が入るし、まったく問題ないと思います。
> 白状すると、「トビデバ」を「デバ」と書いたのは過失でなく、故意なのです。當初は「デバ」に漢字を當てて、萬年生きる動物の名前でもくつ附けてやらうかと考へたのですが、幾らなんでもそこまではと思ひ直し、「デバさん」としました。
傲慢というか何と言うか。流石は素敵な木村貴さんですね。話すだけ無駄ですか。
> 貴方がおっしゃる引用の原則には、問題があることを指摘したのですが。あるいは、「やむを得ない改変」となる事例を提示したのですが。というか、話をそらさないで下さい。
「やむを得ない改変」自体は否定しませんよ。『「新→正」の假名遣變更』がやむを得ない改変だとは思わないだけで。
「そんなに筑摩の本は賣れてゐなかつたのか。」(平成13年5月17日附「瞬間」)に遅ればせながら反応。
◎筑摩書房で15万部以上売れた本
・著者「書名」、出版年、累計部数、初刷部数、定価(当初)
1)臼井吉見「事故のてんまつ」、1977年、350,000部、100,000部、880円
2)山崎朋子「サンダカン八番娼館」、1972年、342,000部、4,000部、880円
3)原笙子「不良少女とよばれて(新装版)」、1984年、293,000部、20,000部、880円
4)宮本輝「蛍川」、1978年、234,500部、100,000部、880円
5)岡真史「ぼくは12歳」、1976年、234,000部、6,000部、980円
6)毛利子来「赤ちゃんのいる暮らし」、1986年、221,000部、15,000部、1,200円
7)高史明「生きることの意味」、1974年、212,000部、10,000部、1,200円
8)松田道雄「君たちの天分を生かそう」、1971年、168,000部、15,000部、700円
9)柴田翔「鳥の影」、1971年、159,000部、30,000部、550円
10)斎藤喜博「君の可能性」、1978年、153,000部、5,000部、650円
(資料:『頓智』誌、1995年10号、筑摩書房、149頁)
古い資料ですがこんな具合ひのやうです。
別に、今回の一連のことについてはどちらにも荷担するつもりはないですが、「瞬間」で
>その循環論法は、D.D.氏が用ゐてゐるが、氣違ひの用ゐる論法なので、正氣の人間は使はないで貰ひたい。
が少し気になりました。
何しろ、すぐ近くに
>言ひがかりをつける人は、過失を故意と言換へる。御用心。
と書いてあるものですから。
循環論法は、演繹におけるミスとしてしばしば発生するものであり、D.D.氏の場合も過失ではないのですか。それによって氏の論が説得力ないしは正当性を失うとしても、それだけを以って利用者を気違い扱いはどうかと思いますが。
(論理上は確かに「気違いは循環論法を使用する」と書いてあるだけで、逆は言っていませんが、趣旨としてはそういう含みがありますよね。違ったら、上記の論は崩壊しますが。)
トビデバ氏の論に引続きと云ふ部分コンテンツを21日の「何かの日記」に書いてみた。ご意見を賜ります。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8882/dasoku/diary.html
D.D.さん:
>そこから『「新→正」の假名遣變更』の正当性が読み取れなかったのですが、
貴方がおっしゃる引用の原則には、問題があることを指摘したのですが。あるいは、「やむを得ない改変」となる事例を提示したのですが。というか、話をそらさないで下さい。
野嵜サマ:
掲示板の記述、懐かしく思います。というか、日記と掲示板では、言葉の調子が全く異なることを実感しました。
<引用>
言ひがかりをつける人は、過失を故意と言換へる。御用心。
ちなみに、名前の書き間違ひと、表記の變更とは、關係のない話。
(「瞬間」平成13年5月21日)
<引用終>
白状すると、「トビデバ」を「デバ」と書いたのは過失でなく、故意なのです。當初は「デバ」に漢字を當てて、萬年生きる動物の名前でもくつ附けてやらうかと考へたのですが、幾らなんでもそこまではと思ひ直し、「デバさん」としました。そんな氣配り(?)を思へば、「感謝にあたひこそすれ、失禮とは心外」。おつと、こんな事を書くと、またぞろどこぞの馬鹿から「名前を改竄するのは人として正しくない」などと文句を附けられさうです。と云ふか、すでに附けられました。
D.D.氏は私の文章がよほど傲慢に見え、頭に來たやうです。それあ傲慢に見えるでせうとも。トビデバ氏への怒りから、考へつく限りの憎憎しい文章を書き連ねたのですから。愚かなD.D.氏も、私の文章を憎らしく感ずる程度の讀解力は持ち合せてゐたらしい。問題は、發言がなされた文脈を全然判斷出來ない事です。
思ふに、他人の文章を細切れにして「レス」を附ける事しかやらないでゐると、文章相互の關係や文脈を掴む能力が退化するのでせう。それから、狂信的な「原文尊重主義」の源は、原文コピーに對する「レス」作業や「カット&ペースト」の多用が遠因のやうな氣がします。
という訳で
「アンチW3C信者専用バナー」
を作りました。
アンチ「W3C信者」でなく
「アンチW3C」信者の使用を希望。
と云ふ部分コンテンツを20日の「何かの日記」に書いてみた。ご意見を賜ります。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/8882/dasoku/diary.html
言ひがかりを延々續けるD.D.を、誰か病院に連れていけ。本氣で頭にきてゐる。
私に「僞善者」と呼ばれたD.D.氏は、かう答へるであらう。「僕は違ふと思ひますけど。」 ただそれだけ。
ところで上記のカギカッコ内の發言は、どの假名遣で書けば「失禮」に當たらないでせうかね。呵呵。
私は、新假名遣よりも正假名遣の方が優れてゐると考へます。それを「傲慢」と云はれるなら理解出來る。だが明らかに嫌味で「感謝しろ」と云つたのを額面通りに取るやうな「なかなか頭の良い人」たちには、ほとほと閉口します。「感謝にあたひこそすれ、失禮呼ばはりされるとは、これまた心外です」などと「上品」に書かずに、どんな馬鹿でも意圖が理解出來るやうに「有り難いと思ひやがれ、篦棒め」とでも書いておけば、好かつたのでせう。ヤレヤレ。
或は、己が言動を棚に上げて「失禮な」といきり立つトビデバ氏に向かひ、「引用時の假名遣變更は、論理的に妥當で、慣習上も認められてゐます」と、聖人君子よろしく穩やかに答へる方が賢明だつたでせうか。生憎私は、「失禮な事を云つた馬鹿」に對しては、思ひ切り「失禮な事」を云ひ返さずにゐられない性分ですから、無理です。
私がトビデバ氏の假名遣を變更した何が問題か。D.D.さんによると、トビデバ氏が「失禮」と思つた事ださうです。笑はせてくれる。最初に「失禮」な事を云つたのは、このウェブサイトをよく讀みもせず「トンデモ」だの「空白」だのと誹謗したトビデバ氏です。「喧嘩兩成敗」ならまだしも、正當な報復として「失禮」な事を云ひ返した私だけを人でなし呼ばはりするとはねえ。「なかなか素敵な人」ですよ、D.D.さんは。
D.D.さんは自分の主張を敷衍して考へる能力が無いから、引用以外の場面で行はれる「失禮」には、目を瞑ります。それが證據に、他人の文章を要約する時には、意味をねぢ曲げたうへ新假名遣に改竄して涼しい顏をしてゐる。意味が變るのは文脈を讀取る能力が無いから仕方ないとしても、假名遣を變へて申し譯ないと云ふ態度が全くないのは許し難い。そして堂堂と「要約は引用と違ふ」と云ひ放つ。
これで僞善者D.D.さんの化けの皮は剥がれました。本當に相手の氣持ちを思ひ遣つて表記變更に反對する人間ならば、それが引用でなく要約の場合でも、出來る限り表記を變へないやうに努力する筈だからです。
>D.D.さん、頑張つて渡合つてゐますね。
ちょっと時間とれてなかったのでTNNさんにはお待ち頂いているというかたちになってます。
> 此れを読む限り、D.D.さんは、引用に対する主文がある必要があると解釈されてゐるやうです。
はい。それが慣行であると思いますから。
> 引用部分は、被引用者の「声」では無く、引用者本人の「声」の一部であると理解できます。
> この行が主張の主たる内容と受取りました。私は、必要に応じて「改竄」ではなく改変を認めておいたはうがいいと云ふ意見を持ちます。
なるほど。僕は日本での考え方に縛られすぎていたのでしょう。やっとわかりました。想定する基板というかそのあたりから違っていましたか。
>(1)一瞬眼を疑ひました。「感謝」云々は、無禮なトビデバ氏に對する皮肉・嫌味に決つてゐるぢやあないですか。そんな事、「デバさん」と敢へて滑稽な呼び方をした一事からだけでも明白。
あー、逆に「デバさん」という表現などから傲慢な奴だと思ってました。
> それとも「要約は引用と違つて、好きに假名遣を變へて好いのだ」と主張しますか。
もちろんです。
> 具體的にどんな問題が生じましたか。
改變された人が「失礼な」と思った。で、僕はそれも含めて人としてどうかと思っただけで。
で、そこから引用時の改変についての話になったと思いますが、わざわざそういうことを書くってことは、木村貴さんはトビデバさんの件のみについて論じていましたか?
> はい、というか仮名遣いの改変は、
> それほど問題になる(というか問題視しなければならない)ほどの
> ことではないと思う、ということです。
なるほど。考え方の違いですね。
>かわいそうな人だと思います。
(snip)
なるほど。
> もっとも普通そういう馬鹿げたことを言うのは
(snip)
あー、そっちかも知れませんね。
「実篤の引用」というのは、下の投稿で、
「僕が仮名遣いを改変して実篤の文章を引用している」ということですよ?
「立派に生きてもらいたい」の原文は正字旧かなですから。
それと、「やむをえない改変」というより、
僕は引用の仮名遣いなど「好きにすればよい」と思っているのです。
文章というのは前後の文脈に多くの意味が依存するもので、
一部だけの引用で、その元の文章の意味が理解できると思う人は普通いませんね。
正確に理解しようと思えば原文を確認すると思います。
引用には、程度の差があれかならず引用者の「操作」がつきものですから。
「仮名遣い」など比較的些細な問題だと思います。
むしろ僕は引用よりも出版社の仮名遣いの改変のほうが、
「文学者として許しがたい」と思いますね。一冊丸ごと変えてしまうわけですから。
新かなの一葉など誰が読みたいと思うものか。
ちなみに偏った心情だということは自覚していいますが、
翻訳に関しても僕は否定的です。古典も、出来れば古文書で読むべきだと考えています。
というか読まないときちんと理解できるわけはないです。
翻訳はあくまで翻訳。翻訳で理解できることなど素人の斜め読みに過ぎない。
むろんそれにはそれなりの面白さもあるので、
「意味がない」とか「人として許しがたい」とは思いませんが。
>「私は君の意見に反対だ、しかし〜」
ヴォルテールですね。
翻訳か解読か変換かは別として
D.D.氏と同じように「正仮名遣いであるなら旧文法で書くべき」
吹u正仮名遣い≠現代国語」と考えていらっしゃるのでしたら別ですが
現代国語である正仮名と古文を同列に並べるのはどうかと思います。
それとも「翻訳」とか言葉の言いまわしの問題なのでしょうか?
それなら岡崎氏の納得のいく言い回しを探りあてるまで
D.D.さんに頑張って頂く方向で。
>> では、読めますか?
> 僕は読めませんが、引用の話ですよね?翻訳の話じゃないですよね?
翻訳とは、任意の言語に基づく文章を他の言語に移し替えることです。仮名の古文書は日本語(文語体)であり、これに漢字変換・濁音記号句読点の追加しても、日本語には変りありません。ただ、D.D.さんも感じた通りあれでは「読めません」から、最適な漢字を当てはめ、句読点や濁音記号を付加して引用することは、「やむを得ない改変」です。
ついでに言うと、酷い「引用」を行ったと「日記」に記されているOという人物ですが、実際にまだYahoo!掲示板で「活躍」しております。私から「紹介」しますから、そちらの批判なんかをされてみてはいかがでしょうか。
出版物の話は「すり替へ」ではありません。D.D.さんを含む「改竄反對派」の主張の一貫性を質す試金石であります。渡邊さんもおつしやるやうに、もしD.D.さんが「新→正」の假名遣變更は許さぬがその逆は許す、とお答へになつたなら、よほど納得の行く理由を示さぬ限り、身勝手な二重基準に過ぎません。私はまづそれを質したかつた。案の定と云ふべきか、「ちよつと違ふ」と反應されたから、「矢張り二重基準だ」と思ひ突込んだのです。
ところがD.D.さんは次の投稿で、「もちろん『近代日本文學・思想書』なども改竄によつて著者の主張などが傳はりにくくなることだと思ひます」と述べられた。おやおや。と云ふことは、D.D.さんは「引用」と「出版」とにおける「改竄」は、雙方ともに「人として正しくない」と考へるわけですね。ならば、最初から「ちよつと違ふ」などと云はず、「本質的には同じ」と認めるべきでせう。D.D.さんは引用と出版との表面上の違ひにこだはり、議論に無用の混亂を招いたのではないですか。
囘り道をしました。D.D.さんが「新→正」「正→新」の雙方、及びそれらを含むあらゆる表記の變更を「(たとへ斷り書きをしようと)許さぬ」と斷乎主張されるのならば、非常識な意見とは云へ、それなりに筋が通つてゐます。但しその信念を皆が實行に移した場合、いろいろと厄介な問題が生ずる事は、岡崎さんが指摘された通りであります。古文の難讀語の表記を變へるのは飽く迄も「表記變更」であつて、D.D.さんがおつしやるやうな「飜譯」ではありません。
さて、ここからがやつと私の反論になるわけですが、D.D.さんによれば、表記を變更してならない理由の一つは、「主張が傳はりにくくなること」であります。では、今囘の議論の端緒となつたトビデバさんの文章は、私が「改竄」を加えた前後で、その「主張」が異るかのやうな誤解を招いたでせうか。そんな事は全くない。「私に対して質問されているようなのですが」と、「私に對して質問されてゐるやうなのですが」とで、どこにも「主張」に違ひは生じません。
となれば、D.D.さんが明言してゐるもう一つの理由こそ、「改竄」反對の本當の理由と云ふことになる。すなはち、「字面から受ける印象」であります。ああ、「印象」! しかもD.D.さんは、例へば「フォントを丸文字」に變へた場合の「印象」の違ひはよろしいとおつしやる。もう單刀直入に云ひませう。D.D.さんや「改竄反對派」の本音はかうでせう。「たいていの『改竄』は我慢出來るが、正假名遣とやらだけは止めて呉れ。こつちまで右翼か變人に思はれる」。
いや、別に好いのです。氣持ちは判りますから。しかし、氣持ちは判つても、表記の「改竄」はやめません。信念にかかはる事だからです。
> もし上の実篤の引用がOKだということであるなら、
それは引用ではないと思いますけど。渡邊さんは本当にそれを根拠として、
「だから他者の意見を評するときに引用部を新かなを旧かなに改変することはやむを得ない改変にあたる。」
と思っているのでしょうか?
武者小路実篤氏よりお言葉です。
ご静聴下さい。
「僕は人間に生まれ、いろいろの生き方をしたが、皆いろいろの生き方をし、皆てんでんにこの世を生きたものだ。自分がこの世に生きたことは、人によって実にいろいろだが、人間には実にいい人、面白い人、面白くない人がいる。人間にはいろいろの人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間は立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。皆立派に生きて、この世に立派に生きられる人は、立派に生きられるだけ生きてもらいたく思う。皆、人間らしく立派に生きてもらいたい。」
ありがとうございました。
それはともかく、引用するときに仮名遣いを変更するのが「改竄(本来は字句などを改め直すことだが、ニュアンスとしては"不当な"という意味が最近ではこめられることが多い)」に当たるか、ということで論争が続いているのですよね?
これだけ出版社や教育機関などで旧かなから新かなへの改変が行われている御時世に、社会的な影響力も強制力もない一個人が新かなを旧かなに改変することが「人として」それほど不当であるとは僕は思いません。たとえば僕は上の実篤の引用を新かなに改変していますが、これも人として許されないような改竄なのでしょうか?
もし上の実篤の引用がOKだということであるなら、仮名遣いを改変していることではなく、新かなの文章を旧かなに改変することだけを攻撃していることになります。旧かなよりも新かなのほうが「正しい仮名遣い」であるから改変は不当という主張であるというのならそれはそれで理解できるのです(同意するかどうかは別にして)。しかしそういう問題ではない、といわれるのなら(「正しい仮名遣い」に対するこだわりはない、と)、ちょっと納得できかねます。よろしければご説明下さい。
それと、旧かなを使うのなら文語で、という意見がありましたけど、口語文というのは新かなが出来る以前から存在するという事実を考慮されれば、「文語体」や「口語体」というのは「文体」の問題であり、仮名遣いとは違う水準で問題にされるべきものである、ということがおわかりになられるかと思います。
嚴密には「反語」「修辭疑問」ではなく、「否定疑問の形を藉りた肯定」だな。
》"論"を展開していない以上、せめて"愚論"ではなく"愚問・奇問"などとしていただきたいものです。
泣き言はやめて戴きたいものです。
》あなたが歴史的かな遣い(正かな遣い)にこだわるのはかまいませんが、それではなぜ、あなたのお書きになる文章の文法が現代口語文法なのですか?
なるほど、これは價値中立的な只の幼稚な「疑問」「質問」と言へなくもないから、かうした「愚問」で止めておけばよかつたものを、更に續けて、
》歴史的かな遣いにこだわるならば、文語文法(古典文法)で書くべきではないのでしょうか。
などと書いてゐる。これは單なる疑問といふよりは、あなた自身の「意見および主張」つまり「歴史的假名遣に拘るのならば、當然、文語文法(古典文法)で書くべきだ」といふ反語的主張の入つた一つの「論」であると受け取りました。「べき」いふ助動詞が用ゐられてゐる以上、さう解釋されても決して文句は言へません。それゆゑ「愚論」と斷じた次第です。
誤讀されるのが嫌ならば、まづは御自分の文章の不手際を反省す「べきではないのでせうか。」――無論これは單なる疑問ではなく、私自身の明確な主張の入つた修辭疑問ですよ。呵々。
いづれにせよ、ロウカル・ルールにもあるとほり、「疑問があつたら先づ正字正かなQ&Aを參照」し、先に私が書いたやうに、「ここの過去ログ及びコンテンツを熟讀」すれば、あなたの書き込んだ内容が愚かしいものでしかない事は自明な筈。「顏を洗つて出直して來い」と言つておきませう。
>>> 漢字や濁音・句読点を引用者が書き込まない限り、その内容を伝えることは困難です。
>> 困難であろうとも、引用するならば、原文を尊重すべきでしょう。
> では、読めますか?
僕は読めませんが、引用の話ですよね?翻訳の話じゃないですよね?
>そんなに筑摩の本は賣れてゐなかつたのか。
ベストセラー嫌いの私が気に入っている筑摩書房ですから、やはり売れているとは思えません。出版社としてベストセラーを目指すならば、読者の私を切るべきでしょう。
D.D.さん:
>> 漢字や濁音・句読点を引用者が書き込まない限り、その内容を伝えることは困難です。
> 困難であろうとも、引用するならば、原文を尊重すべきでしょう。
では、読めますか?
というか、さっきのリンクが間違っていました。訂正致しますので、こちらの方を参照して、「原文を尊重」する必要性があるかどうかをご確認いただけますでしょうか。http://www.geocities.co.jp/Bookend/8675/history/mouko_1.html
ゆんさん、岡崎敏明さんの主張は
「引用時に正字正かなに書き換えるのはやむを得ない改変である」
ということでしょうか?それとも、それとはまったく別の話をしているのでしょうか?
> ブラウザの設定でフォントを丸文字に設定してWebを見るのも
> 「それは字面から受ける印象が変わるからよろしくない」
> と思われるのでしょうか?
「よろしくない」とは思いません。
> 漢字や濁音・句読点を引用者が書き込まない限り、その内容を伝えることは困難です。
困難であろうとも、引用するならば、原文を尊重すべきでしょう。
> あと著作権は著者の死後50年で消滅したような・・。
完全に消滅はしませんが、まあ、言いたいことはわかります。
そういえばD.D.さんは人としてどうこうって話ですから
法律的に問題無くなったかどうかとはあまり関係ありませんでした
誤解の書き込みもうしわけないです。
>ユーザが10倍になれば云々のつつこみが入らない。
いや、入らんでしょう。
ユーザーが無限にいるのであれば別ですが人間の数に限りがある以上
ユーザーが10倍になれば云々という法則は数が増えることによって
成り立たなくなります。そもそも増えるかどうかの保証もありませんしね。
ねずみ講の「必ず儲かる」というのが詐欺にあたるのは
これが理由だったような・・・。
>古文書
横からですが、「内容を伝えるのが困難」なものを
書き換えるのはすでに翻訳の範疇では?(ぼそ
あと著作権は著者の死後50年で消滅したような・・。
>引用元の主張などをできるだけ正確に伝えようとすると改竄しない方がいいでしょう。
前述の「蒙古来襲絵詞」の如き古文書でも、漢字や濁音・句読点を引用者が書き込まない限り、その内容を伝えることは困難です。漢文でも、書き下し文に直すことに関しても同様です。その点について、D.D.さんのご意見をぜひお伺いしたいと思います。
古文書の例->http://www.geocites.co.jp/Bookend/8675/history/mouko_1.html
漢文の例->http://www.geocites.co.jp/Bookend/8675/history/mouko_c.html
ちょっと皮肉の入った質問ですが、D.D.さんは
ブラウザの設定でフォントを丸文字に設定してWebを見るのも
「それは字面から受ける印象が変わるからよろしくない」
と思われるのでしょうか?
> D.D.さんは、「引用する時の改竄」は許し難いが、出版社による假名遣の改竄は「ちよつと違ふ」とおつしやる。
引用してその部分について何らかの意見を書く場合、引用元の主張などをできるだけ正確に伝えようとすると改竄しない方がいいでしょう。字面から受ける印象も変わりますから。
もちろん「近代日本文學・思想書」なども改竄によって著者の主張などが伝わりにくくなることだと思います。
しかし、ここでそれを論じるのは「ちょっと違う」ことでしょう。話のすり替えとしか思えません。
> ひよつとして、一言「改竄しました」と斷りさへすれば「OK」なのですか。
違う。
D.D.さんが眞劍に考へた末、それでも私の「改竄」行爲を「人として正しくない」と斷ずるのであれば、私の事を「人でなし」と罵らうが、「人非人」と譏らうが、まだしも氣持ちが好いでせう。ところが「結局は改竄だろ?」と云ふ條件反射的な口調が端的に物語るやうに、D.D.さんの思考は不徹底であります。他人の行爲を道義的に批判する人間が、道義的に完全無缺である必要は勿論ありませんが、「もう少し良く考へてからにしてよ」と云ひたい。「説得力に富む御意見です」などと嫌味の一つも云ひたくなります。
D.D.さんは、「引用する時の改竄」は許し難いが、出版社による假名遣の改竄は「ちよつと違ふ」とおつしやる。嚴格なる「原文尊重主義者」ならば、まだしも「敵ながら天晴れ」と尊敬出來たかもしれないが、とんだ腰碎けです。議論の過程で他人の文章のほんの一部を「改竄」する事すら許さないのに、商賣を目的に大量の書物を丸ごと改竄する事を許すとは、一體全體、なにゆゑですか。それはD.D.さんの「原文尊重主義」が單なる御都合主義だからです。
ひよつとして、一言「改竄しました」と斷りさへすれば「OK」なのですか。それなら「人として正しくない」などと云ふ表現は餘りに大袈裟です。「マナー違反」とでも云へば宜しい。但し、私はそのやうな「マナー」は、「リンクしました」「引用しました」と同樣、不必要な虚禮と考へます。親しい人・親しくなりたい人に聯絡する一種の口實として傳へる事はありますが、必須のマナーなんかではありません。インターネットの世界は、虚禮を嫌ふビジネスライクな人が多いと思つてゐましたが、さうでもないのですね。
新假名遣の文章を正假名遣に直して引用する事の法的是非は、野嵜さんが詳しく説かれたのでそちらを參照してください。「何で素人が法律の話を出來るんだ」なんて難癖をつけないやうに。大學の教養過程あたりで法學をちよつと齧つた人ならば、いやいや、普通の社會人ならば、行政や司法の法解釋が結局のところ「常識」と「條理」とを據り所にしてゐる事を御存知の筈。第一、さうでなければ、安心して日常生活を送れないぢやあないですか。從つて、トビデバさんやD.D.さんの文章を「改竄」した私が監獄にぶち込まれる心配も無い譯です。呵呵。
彌次馬野郎のしつこい長文、お許しくださいまし。それから餘計な事ですが、人を不快にさせた事を詫びたそばから、また不快にさせるやうな事を書くのは、いろんな意味でまづいと思ひます。
ペトロニウス様と木村貴様、そして岡田俊之輔様と和様丁寧な御指摘と御指導ありがとうございます。
しかし岡田俊之輔様、和様私の以前の書き込みのどこが"論"・"批判する"にあたるのでしょうか。
論・批判における基本的な論理展開様式は、まず意見および主張を述べ、そしてその意見などのもととなるある程度の数の事実を挙げ、それらの根拠理由を述べたものではないでしょうか。
私は強いて挙げるとたった一つのデータ〜私の以前の書き込みでは文法についてのみですが〜でのみ文を書き疑問を提示しているだけなのです。
またタイトルに"質疑応答の場…"と書いてあるので同じことの繰り返しになりますが、単純に疑問を提示しているにすぎません。
したがって"論"・"批判する"にはあたらないはずです。
最後に岡田俊之輔様。早大文学部英文科で講師をなさっているならば、"論"を展開していない以上、せめて"愚論"ではなく"愚問・奇問"などとしていただきたいものです。
一様、改めましてご返事ありがたうございます。
一様のご意見を要約するとかうなります。
『「「私の文体の方が優れている」と表明しているととれ」る事・「「無様ですね。」とまで言」ずる事が目的では「妥当」であるとはとても思えません。
盗人猛々しいにも程がある。』
此れが一様が解釈する「野嵜さんの目的」だつた様です。私はこの様に受取つておきます。
皆さんがもう少し冷静になつて欲しいと思つて16日00:34の発言をしました。ですので、発言者を特定してゐる訳ではありません。
人の意見は十人十色「いろいろな考えを持った人が居」て当然です。
現実を見ることは決して悪いことではありませんが、理想を追ふことも現代社会を生きる上で不可缺であると私は考へます。
人は皆夢や理想を心に抱いてゐるものです。夢や理想があるからこそ、現代社会で頑張る事ができるんでせう。夢や理想を持つて努力すれば、いつか其れも実現するものです。
理想や主張は人それぞれ違ひますが、お互ひを尊重し合つて意見を出し合ふ事が出来ればいいですね。
改行位置の変更の但し書の件は、必要に応じて人知れずやつておいて構ひません。私の場合は其の辺り寛容です。
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安芸川晴海さん、ご返事ありがたうございます。
正字に一定のご理解がおありのやうですので、其の点安心してをります。私自身、正字で文章をタイプする事は稀ですが、正字は正しい漢字であるとの理解でをります。
色々な経緯があるとは云へ、全ての正字を正字として表現できない電脳環境が恨めしいです。当方の前回発言をご理解下さつた事だけでも嬉しうございます。
> 多分、字体の違ひ或は字形の違ひの事を言ひたかつたんでせう
その通りです。すみません。用語を混同しておりました。
> 歴史的かな遣いにこだわるならば、文語文法(古典文法)で書くべきではないのでしょうか。
あしさんからこのやうなご質問がありました。歴史的かなづかひと、文語文法或は古典語文法は厳密に云ふと違ひます。仮名遣と文法は峻別されなければなりません。
勿論歴史的かなづかひは文語が其のベースとなつてをりますが、標準語或は現代語を書き記す為に音便と云ふ概念を用ゐて再構成されてをります。
文法で云ふと、標準語で使はれてゐる文法其の侭で使へるのが歴史的かなづかひであります。
ですので、文語文法に出て来る已然形と云ふ活用形はありません。係り結びもありません。
安芸川晴海さんは、正字と略字の違ひを「書体の違い」とされてゐます。書体と云ふのは楷行草とかゴシック体・明朝体の違ひを指して云ひます。
多分、字体の違ひ或は字形の違ひの事を言ひたかつたんでせう。間違つてゐない筈です。
> それは兎も角、D.D.さんやその他の「改竄絶對反對派」の皆樣は、出版界に横行する近代日本文學・思想書の新假名遣への改竄
> に、日頃よりさぞや激しい憤りを燃やしてをられるに違ひありません。
他者の意見を評するために引用することとそれらはまたちょっと違うのでは?
法人と個人はおなじでありましょうか?
個人への批判は悪しきことではないと思いますが
この例はあまりよろしくないかと・・。
>歴史的かな遣いにこだわるならば、
>文語文法(古典文法)で書くべきではないのでしょうか。
既出。
拘っている部分は正仮名遣いのみとの記述を見かけた気がしますが。
>D.D.さんからは「議論に・・云々
「人として正しい」かどうかを判別する術は私にはよくわかりませんが
評する人間が「人として正しい」必要は無いかと思われます。
希に「それじゃあ、お前がヤレ」と申される勘違いクリエイターの
方を見かけますが、別に出来る必要はないのでは無いかと思うのです。
上記理論に従えば、一流フランス料理を評するのには
一流フランス料理のシェフにならねばなりませんし、
アメリカを評するにはアメリカ人にならねばなりません。
理由にはなってないかもしれませんが
「人として正しい」かどうかを論ずるのに「人として正しい」必要は無いと
考えます。
これは、実際に言ってることとやってることが違うかどうか、
説得力が有るか無いかとは別問題です。
あと、個人的には文学は出来るだけ原文のままがよろしいと思います。
外国語のものは約に頼ってしまいますが、
読める日本のものくらいは原文のままで読めても良いかと思います。
なんでもかんでも元のままが良いというわけじゃなく
ただ、選択肢として選べれば良いと思うのです。
新仮名現代口語に改めた物と原文のままの物と
共に違う需要があるのではないでしょうか。
需要云々と改変が良いか悪いかとは別問題ですが。
たかだか數日前の、誰でも讀める投稿を引用するのに、いちいち「原文の新假名遣・略漢字を正假名遣・正漢字に改めました」なんて註釋する閑人ぢやあありませんよ、私は。そもそもトビデバさんの假名遣を改めた事で、議論の流れに何か支障がありましたかね。ありやあしません。議論を混亂・脱線させたのは、私や野嵜さんの批判に知らん顏を決め込むトビデバさんを不問に付し、枝葉の問題に過ぎぬ引用表記を大袈裟に云ひ立てた皆樣です。木を見て森を見ぬ人ばかりで困つたものです。
D.D.さんからは「議論に支障が有るとか無いとかぢやあない。人として正しくないのだ」と責められさうですね。私から見ると、見ず識らずの人間に對して、いきなり「それ、引用ぢやないやん」だの、「結局は改竄だろ?」だの、馴れ馴れしい口調で話掛ける方が、よつぽど「人として正しくない」やうな氣がするのですがね。何とも説得力に富む御意見です。
それは兎も角、D.D.さんやその他の「改竄絶對反對派」の皆樣は、出版界に横行する近代日本文學・思想書の新假名遣への改竄に、日頃よりさぞや激しい憤りを燃やしてをられるに違ひありません。これは心強い身方が出來た、やれ嬉しや。「いざ」と云ふ時は頼りにしますから、宜しく。メールや掲示板で行動を呼び掛けても無視しないでくださいよ。
S.S.さんは全然判つてをられないやうですが、他人の文章をただ引寫すだけでは、「引用」とは呼ばないのです。他人の文章を材料に己が主張を展開しなければ、ただの「轉載」です。轉載は馬鹿でも出來ます。さあさあ、クサチュー語を支持するのがS.S.さん自身なのか架空の人物なのか知りませんが、早いところ私の文章をクサチュー語に直して引用して、縱横に論じてくださいよ。勿論、クサチュー語で。野嵜さんは私みたいに物好きではないので、すぐ削除されちまふかもしれませんがね。
「あし」さん。正假名遣であり、且つ、「現代口語文法」によつて書かれてゐる文章を一つ御紹介します。「何人も、裁判所において裁判を受ける權利を奪はれない。」(日本國憲法第32條) まづ政府に質問してみては如何でせう。「歴史的假名遣にこだはるならば、文語文法で書くべきではないのでせうか?」と。
最近、大河ドラマで話題(謎)の「蒙古襲来絵詞」について、現在いろいろと調べております(中断中・笑)。
その「蒙古襲来絵詞」を引用した書物は結構ありますが、大概は引用者の責任で漢字を当てはめたり句読点を付けたりしております。「歴史教科書」の改竄を詰った村井章介氏なんかも、原文の「御をんふきやう」を「御恩奉行」と書いております。というか、普通の人には読めませんよ、R.R.サンの言う通りの引用にしたら。http://www.geocities.co.jp/Bookend/8675/history/mouko_a.html
》歴史的かな遣いにこだわるならば、文語文法(古典文法)で書くべきではないのでしょうか。
いいかげん、うんざりだな。>何度も繰り返されるこの種の愚論
ここの過去ログ及びコンテンツを熟讀してからにして下さい。
ペトロニウス 様
どうやら私宛に仰られているようなのでレス付けさせていただきます。
> 誹謗には悪口と云ふ意味合があると云ふ事、中傷には濡れ衣に準じた意
> 味合があると云ふ事。
> 今回の件に此れらが当て嵌るか今一度冷静になつて判断して貰ひたい。
> でも、さう考へてゐる人が実際にゐるんですね。
(改行位置変更しました)
誹謗について。
原文をの文体を変えることは暗に「私の文体の方が優れている」と表明している
ととれます。もしもそのつもりがないのであれば「文体を変えさせて戴きました」
等の但し書きを入れるのが礼儀ではないでしょうか。
中傷について。
暗闇日記で5月15日ですが「無様ですね。」とまで言ってしまっては
これはもう立派な中傷でしょう。(ここだけ見ていては分からないかも
しれませんが宛先違いの事実誤認です。)
残る改竄については私の発言ではないので意見は控えさせていただきます。
好む好まないに拘わらず、いろいろな考えを持った人が居ることは事実です。
理想を追うことは決して悪いことではありませんが、現実を見ることも
現代社会を生きる上で不可欠であると私は考えます。
>「。」「、」も、近代になつて「一般化」したものですし、
>正しいと言へば正しいし、間違ひと言へばまちがひ、ではないでせうか。
IMEの設定を,変えてみました.
プログラマー向けの本など欧文が交じることが多い文書では,
こういう句読点の用例も見かけます.
(さて,戻すか)
改竄には悪意の意味合が込められてゐる事、誹謗には悪口と云ふ意味合があると云ふ事、中傷には濡れ衣に準じた意味合があると云ふ事。
今回の件に此れらが当て嵌るか今一度冷静になつて判断して貰ひたい。でも、さう考へてゐる人が実際にゐるんですね。
私の文章ですか。「現かな」或は「クサチュー語」に改変して引用したいのであれば、さうされても構ひませんよ。
処で、くろねこはにゃさん、後でうちのウェブページでも見てやつて下さい。
はにゃでございます。
はにゃの友人が教えてくれたことによると
世界大戦中のヨーロッパの人たちは空襲下であっても
ユーモアを忘れなかったんだそうです。
(なんか、具体例があると説得力があるんですが、
残念ながらはにゃは知りません。でも、なんとなく
そんなエピソードがあったとしても
おかしくないような気もしています)
いや、この間からCSSコミュニティーの各サイトで
リレー的に続いている、ガンダムだとかヤマトだとかその他もろもろから
ぱくった迷言集を見てたら、友人の言葉を思い出してしまって……。
あなたが歴史的かな遣い(正かな遣い)にこだわるのはかまいませんが、それではなぜ、あなたのお書きになる文章の文法が現代口語文法なのですか?
歴史的かな遣いにこだわるならば、文語文法(古典文法)で書くべきではないのでしょうか。