>「日本書紀」の「漢文もどき」の「日本語」も、日本人が中國人の眞似をして書いたと云ふよりは、華僑或は中國語の語彙の入り込んでゐた原始的な日本語を喋つてゐた日本人が書いたものと見た方が自然ではないか。///
森博達「日本書紀の謎を解く」(中公新書)では、書紀の記述における音韻や語法の分類によって、各巻が2種類に分類可能であることが明らかにされております。一つは倭習が多いまさに「漢文もどき」の巻で、もう一つは正しい漢文で書かれた巻です。前者の書き手は大陸への渡航経験者、後者は大陸からの渡来人が、それぞれ推定されております。
但し、これは私見ですが、書紀の記述とは、それは日本語であるというよりは、大陸標準の記録方法に基づく歴史の記載という気がします。大和朝廷に携わる人々に共有されていた言葉をあえて探すとすれば、朝堂院にて読み上げられ、豪族や官僚が共同で聴いた「宣命」のほうが、それに近いでしょう。その記載方法である「宣命体」のほうが、「漢文もどき」よりもより身近であったと考えております。
「國語問題研究會」が移轉してゐます。 http://ww5.et.tiki.ne.jp/~sjun/
今のところ5月4日にしか出現しないアレは国民の「休日」らしいです。
レス ありがとうございました。
「言ってはいけないこと」というのは娘曰く、「他人を傷つける言葉」だそうで、これ以外には考えられないそうです。私も考えてみましたが、やはりそういうことになります。あくまで私たち<娘や私>のおかれている環境の中でってことですが。
「他人を傷つける言葉」は必ずしも「他人に不愉快な思いをさせる言葉」ではないですよね。
>それにしても 愛犬を失くした人に 「死んでよかった」とは言えないよねぇぇ(笑)
私も贊成。もし私が死んだ犬の飼主なら、その子供を思ひ切り叱り飛ばすでせう。他人が可愛がつてゐた動物を「死んでよかつた」などと言ひ放つやうな馬鹿な餓鬼は、うんと灸を据ゑてやらねばなりません。日本だらうがタヒチだらうがアメリカだらうが北朝鮮だらうが、全うな大人はさうしてゐる筈です。
「叱り方に氣を附けよう」と云ふ意見には一理ありますが、相手によりけりです。口で言つて解るやうな素直な子なら、諄々と諭せば宜しいが、世の中には、幾ら言つても解らない惡餓鬼が大勢ゐます。寧ろそちらが多數派でせう。そんな子供には、叱責するとか、叩くとか、嚴しい態度に出るべきです。極端な話、赤ん坊が危險な眞似をしたら、「これこれかう云ふ理由で危ないよ」などと説明したつて通じません。怖い顏で叱らねばならない。
それにしても、「死んでよかつた」と放言した子供は、子供なのだから仕方ない。問題は、そんな子供を叱るどころか、放置して甘やかす大人の怠慢です。あまつさへ、坂東眞砂子さんは子供の愚かな發言を譽め讚へてゐます。とんでもない馬鹿です。死んだ犬は、草場の蔭でさぞ恨めしく思つてゐる事でせう。現代日本には、子供を甘やかす言論が滿ち滿ちてゐます。大多數の日本人の耳に心地好い「言ってもいいこと」ばかり言つてゐるのは、坂東眞砂子さん自身なのです。
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で、本題。
> それにしても 愛犬を失くした人に 「死んでよかった」とは言えないよねぇぇ(笑)
それはその通りで、要するに子供への躾としてそれを『言ってはいけないこと』として教える
ことが問題なのではないかな。
そうではなく『そんなことを言ったら相手がどんな気持ちになるか』と、想像させ考えさせる
ことは必要だと思う。ただ『言ってはいけない』という“規範”として教え込んでしまうのでは
自発性も思いやりも育たず、ただ他人の顔色を窺う人間、事なかれ主義者になるのも宜なるか
な、と。
そこらを踏まえた上で、もっと余計な規範から自由になろうよ、ってことじゃないですかねー。
> それにしても 愛犬を失くした人に 「死んでよかった」とは言えないよねぇぇ(笑)
「みんなの意見という仮面」
(前略)
飼い犬が交通事故で死んだ。玄関前に繋いでいて、番犬として役立っていた。がっかりしていると、私の知っている8歳になるタヒチの女の子が家にやってきた時、開口一番いったものだ。「死んでよかった、これから玄関から家に入れるわ。あいつ、こわかったもん」実にあっけらかんとしている。もしこれが日本だったら、大人に、「そんなこといっちゃいけません」などと言ってたしなめられるだろう。そして子供は「言っていいこと」「言ってはいけないこと」という区別をつけはじめる。「言っていいこと」は日本人全員の意見、みんなの意見だ。「言ってはいけないこと」は個人の考えに根ざしている。子供たちは、日常のさまざまな場で、自分の発言をこのふるいにかけるように強制され、大人になる頃には、「言っていいこと」だけいうように躾けられてしまう。
日本人の会話がつまらないのは、「言っていいこと」だけいっているせいだ。みんなの意見を、個人が言い合っている。誰もがわかっていることを、再認識のようにやり取りしているだけなので、糞面白くもない。
(中略)
私はむしろ「言ってはいけないこと」をどんどん発言するべきだと思う。そこで初めて、その人個人があらわになる。「言ってもいいこと」ばかり言ってるうちは、みんなが「みんな」という仮面をつけていて、何を考えているかわからない。肝心なのは、「言ってはいけないこと」である意見を通して、人物は自己を表明し、相手はその人物の姿を正確に捉えることだと思う。ここから初めて、真の意味でのコミュニケーションが始まる
★。、::。.::・'゜☆。.::・'゜★。、::。.::・'゜
これは坂東眞砂子が書いたコラムです。
これを読んだとき、確かに私なんかはその典型かもしれないと思いました。
当り障りのない言葉で、核心にはできるだけ触れず、誰かと論争することもなく、おだやかに過ごしている・・・でもそれはときとしてとっても嫌味なことじゃないかと思ったりする今日この頃です。
それにしても 愛犬を失くした人に 「死んでよかった」とは言えないよねぇぇ(笑)
>本日の買物。
>
>「南京事件」の探究 その実像を求めて
>北村稔著
>文春新書207
私は先ほどパラパラと立ち讀みしました。
同書は「ティンパーレーの死亡記事」を『新「南京大虐殺」のまぼろし』<p.259>から引用してゐます。
>> 一九四三年から七年間にわたつて彼は國際連合に關する仕事をやり、一九五〇年、ユネスコに屬して… <<(原文:略字新かな)
さて、ここに出て來る「國際連合」は曲者です。
原語は <the United Nations> の筈です。
ならば戰爭中なのですから「國際連合」ではなく「聯合國」と譯すべきです。
彼は日本を敵とする國々(聯合國)の統轄機關で働いてゐたといふ事です。
「國際連合に關する仕事」といふと中立的な機關で働いてゐたといふ誤解を招きます。
>今の私には、欲も得もない。一人の老人として、<社会的遺言>を残しておきたいという切なる気持があるだけである。
子曰く、郷原は徳の賊なり。(先生が仰つた、村での善人と云はれるものは、[うはべだけ道徳家に似てゐるから、却つて]徳を害なふものだ。)(論語 陽貨篇)
>獅子座の流星群。3時20分前後に20分間ほど、空を眺めてみた。
「流星群観測はな、もっと殺伐としているべきなんだよ。」
という人が出ても、おかしくないような気がします。
>葉樣
「某所」ではどうもです。
御覽になればおわかりになると存じますが、「言葉 言葉 言葉」は正字正かな專門サイト(國語國字問題批判專門サイト)でして、古典は殆ど扱つてをりません。
こちらは、あちらと違つてあんまりほのぼのとしてゐないのですが、今後ともどうぞ御贔屓に。
某所からうろうろとさまよっていたら たどり着きました。
古典を研究されている方がほんとに大勢いらっしゃることに感激して、
あまりにもたくさんのHPをのぞいてしまったため、とりあえずお気に入りには入れてみたものの、何からどう手をつけばいいのかとまどっています。(笑)
このHPは言葉についてのものなのでしょうか。
これからゆっくり拝見させていただきますね。
まずは ごあいさつまで。。。。(^_^)
>現行のブラウザに對する不滿を教へて下さい。
>CSS2のcounterを早く實裝して貰ひたい。
Opera6.0 は、counterに対応しているらしい。。。
>ダンテやシェイクスピアやドストエフスキーを生んだ國は、殘念ながら民主主義國ではなかつたのですがねえ。
おおよそ芸術なる物ほど、「民主主義」になじまないものはありません。クラシック音楽だけをとっても、「民主主義」的な指揮者なんてのは探すのが困難です。自己の芸術作品への責任をなげうってまで、「民主主義」を信奉する義務を説明しない限り、「民主的ネットワーク」という言述は単なるプロパガンダです。
>まづ、日本文藝家協会と云ふ「ねぢれ現象」を何とかする事から日本文藝家協会ははじめたらどうか。
理事長の高井有一氏は、正假名派だつた筈です。國語問題協議會 http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/list.htm の理事も務めていらつしやいます。正假名派で國語問題協議會理事の作家が晴れて文藝家協會理事長に登り詰めても、世の中なかなか變らないやうです。率直な討議の場である筈の協會で、文藝にとつて最も大切な國語に係はる問題が熱心に論じられない有樣は、日本の文藝家の水準を如實に物語つてゐます。一應、國語檢討委員會(坂上弘委員長)なるものは存在するやうですが、何をやつてゐるのやら。
ところで、國民新聞十月二十五日號四頁の記事によると、九月二十五日に同協議會と電腦文字研究會共催で開かれた「契冲歿後三百年・宣長歿後二百年記念講演會」で、正假名ソフト契冲の製作者である市川浩さん http://www5a.biglobe.ne.jp/~keichu/ が「ここにいる皆さんが先頭に立って、正漢字、正假名を實踐して頂きたい」と聽衆に訴へられたさうです。高井有一さんがもし出席なさつてゐたら、どんな心持ちでこの訴へをお聽きになつたのでせう。
>民主的ネットワークを創出するつて、具體的にどう云ふ事なのだらう。
ダンテやシェイクスピアやドストエフスキーを生んだ國は、殘念ながら民主主義國ではなかつたのですがねえ。せめてE.M.フォースターに倣つて、「民主主義に萬歳二唱。三度もやる理由は無い」とでも言つて貰ひたい。「民主主義を取るか、文學を取るか」と言はれたら、ネット作家の皆さんは何と答へるのでせうか。
>メールの送り方が、いかにも素人つぽい事を、T氏は咎めたのだが
これは、一九九八年九月二十日附の「『電腦正統記』御案内」のことかしら。
私のところにも來たけれど、メールの送り方の何處が「素人つぽい」ものだつたのか、よく分からない。
ブラインド・カーボン・コピーではなく、カーボン・コピーを使つてメールを送つたのがケシカランとか、さういふ話なのかなァ?
(中村さんが、カーボン・コピーを使つたのは、多分、意識的にやつたことなので、素人云々は關係ない氣がする)
>元々イスラム教というのはユダヤ教とキリスト教を手本にしてマホメットがアレンジした宗教である。
> しかし、今は現代である。国連は経済制裁を続行するだろうが、直接軍事行動には出ない。世の中ちょっと動きにくくなった。おかげで平和だけど。
引用箇所からも馬鹿文章である事は証明されているのですが、
>タリバンが以前、バーミヤンの佛像をぶつ壞して、騷ぎになつたと云ふ事實は、最早誰からも忘れられてゐる。「タリバンは空爆されてかはいさうだ」の大合唱。世間樣かくありき。
上記の野嵜氏のコメントが、意味不明です。「タリバンによる仏像破壊」について云々であればもっと良い文章があった筈ですが、何故このような馬鹿文章を引っ張り出してきたのか。
わざわざ取り上げるまでもない三文文章を引っ張り出して一言コメントするという「闇黒」スタイルと何か関係があるのか。
出来れば説明頂きたい所。
>言葉さん
問題を自分のページのネタにさせて頂きました。
解答はsatoshiiさんに先を越されてしまいましたが……http://www.akatsukinishisu.net/itazuragaki/2001_11.html#drawing-water_quiz
以下4Lのカップを[4]、9Lのカップを[9]とする。
[4]で計った水を入る分だけ[9]に移す、という動作を三回繰り返す。
すると、[4]に3Lの水が残る。[9]の中身を捨て、[4]の3Lを[9]に移す。
後はもう一度[4]で4Lの水を計り、それを[9]に移して完了。
>まさに、言葉と表現の関係は、このパズルのようなものであろうと思います。
その心は…目的となる量より無駄になる量の方が多い?
「地獄の箴言」から来た新来者です。
カップの問題は(十年一昔として)大昔のパズルものブームの時代に見た記憶があります。
(カップが直円筒形で、傾けて半分だけこぼすことが出来る事が前提)
@両カップに水を満たす。
A4リットル・カップを傾けて水の半分をこぼす。(2リットル残る)
Bこれに9リットル・カップから水を加えて再び満杯にする。
C9リットル・カップには(9−2で)7リットル残る。
違いますか?
初めまして、言葉と申します。
皆様の言葉に対する深い情熱に感動致しました。
そこで、私、言葉にとっての言葉についての見解を述べさせてください。
言葉とは可塑的であり、また流動的であり、再現性と非可逆性を持っております。
そもそもが矛盾した存在です。しかしながら、その矛盾自体を論じるには言葉が
不可欠であります。
そこで、皆様に、次の問題を提示致したいと思います。
水道水から水が流れつづけています。また、9リットルのカップと4リットルのカップが
1個ずつ存在します。水が途中で捨てても良いので、最終的に7リットルの水が9リットル
カップに残るようにするにはどうすれば良いか。
まさに、言葉と表現の関係は、このパズルのようなものであろうと思います。
こちらにははじめまして。
> 泣きながら日本橋へ行く(ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない)。
この文を括弧を用いずに書くとすれば、
「(A)ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていないので、(B)私は泣きながら日本橋へ行く。」
のようになるかと思います(ついでに「私は」も補っていますが)。
この場合、Aの文はBの文の補足説明であり、主文脈に直接からむものではないので、AとBとで主語が同一である必要はないように思います。逆に両方の文を、「私」を主語として書きかえる方が難しいのでは。
Aの文が主文脈から外れたものであることは、括弧を用いることでより強調されており、その意味で効果的であると感じました。
* * *
助詞「は」については、つい最近『「馬が走る」と「馬は走る」はどう違うか?』(下記URL)というページにて、「は」は主題を示すが必ずしも主語を示すわけではない、という説明を読み、なるほどと納得させられました。
先に批判の対象となっていた「〜が売っていた」については、たしかに文章として書くにはくだけ過ぎと感じますが、それと「〜は置いていない」とは、また別の問題なのではないかという気がします。
ちと本筋から外れますが、渡邊さんの議論の中で以下の記述が氣になりました。
>基本的に日本語では「モノ」と「ヒト」を区別していない。
[渡邊利道実験中より 売られていた。Date: 2001-10-31 (Wed)]
一般的には、日本語は「モノ」と「ヒト」とを區別する言語だと言はれてゐる筈なのですが。
There is a house. 家がある。
There is a boy. 少年がゐる。
○ ビールが置いてある
○ ビールが置いてない
△ ビールを置いてある
△ ビールを置いてない
× ビールが置いてゐる
× ビールが置いてゐない
○ ビールを置いてゐる
○ ビールを置いてゐない
3段目は、1段目と4段目の混同と思はれます。なほ、2段目は日本語としてやや不自然な表現です。
助詞が「は」の場合は、いづれも基本的には○でせう。
○ [その店に、日本酒は置いてないが] ビールは置いてある
○ [その店に、日本酒は置いてあるが] ビールは置いてない
○ [その店の親爺は、日本酒は置いてゐないが] ビールは置いてゐる
○ [その店の親爺は、日本酒は置いてゐるが] ビールは置いてゐない
「ビールが置いてゐない」と云ふ誤用の原因としては、以下のやうな理解も可能です。
× ビールを置いてない [話し言葉としては可]
○ ビールが置いてない [書き言葉として正しい日本語]
「〜を置いてない」を「〜を置いてゐない」と直すのは正しい。しかし、その聯想で「〜が置いてない」を「〜が置いてゐない」と直すのは間違ひ。
「ビールを置いていない」文法的に可
「ビールは置いていない」文法的に可
「ビールが置いていない」文法的に不可
とらさんが仰ったように、
例えば「日本酒は置いているがビールは置いていない」なら問題はなし。
これを単に「ビールは置いていない」と言っても問題ない。
「ビールはありますか?」「ビールは置いてないよ」も問題ないし。
語順が悪いということも文を解析しにくくしているように思いますが、
「ビールは近所の酒屋には置いていない」
≒「近所の酒屋にはビールは置いていない」は文法的に可である筈です。
文章として「は」の連続が美しくない、という点では異論ないのですが。
(前者の語順も「近所の酒屋には」を強調する意味では不可抗力な気が)
「ビール『を』置いていない」は単に事実を述べているだけですが、
「ビール『は』置いていない」には『特にビールが』無かったという事柄を
取り出して呈示する意味があります(勿論「近所には」の『は』もそうですし)。
単に整った文にするという意図で「を」に置き換えるべきではないと思います。
「〜には」の場合は「に」が残るのに、
「〜をは」の場合には「を」が消えてしまうというか。これは違うか。
正直なところ、文法に自信があるわけではないんですが…。
ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない
(私は・●●は・▲▲チェーンは)(××のプリンター用紙を置いているのに)ヒューレット・パッカードのプリンター用紙は近所(にある店)には置いていない。
ということなら文法的にOKか。
しかし省略が多くて、いろいろな意味にとれてしまってやや曖昧。
はじめまして。
------------------------
ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない
について。
まず、「は」自体を考える。
「は」は「が」のような格助詞ではなく、副助詞・係助詞といわれるものである。
「〜は」は時に「〜を」という意味をとることがある。
(例) 私は車を洗うが皿は洗わない。
「○○は」の○○は、「○○が」の○○と同様に主体をあらわしているとは限らないのである。
さて、
ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない
を、下のように他の事態と区別する・対比する意で「は」を使っているなら、文法的にこの「は」はうなずける。
(××のプリンター用紙を置いているのに)ヒューレット・パッカードのプリンター用紙は置いていない。
ただヒューレット・パッカードのプリンター用紙の例文の場合、このなかに「近所には」とあるのがネックになっている。
(××のプリンター用紙を置いているのに)ヒューレット・パッカードのプリンター用紙は近所(にある店)では置いていない。
もしくは
(××のプリンター用紙が置かれているのに)ヒューレット・パッカードのプリンター用紙は近所(にある店)には置かれていない。
と、私なら書きたい。
「ヒューレット・パッカードのプリンター用品は近所には置いていない」はgrammaticalだと思いますが。
>歴史は科学ではなく、物語であり文学である、と云ふキャッチコピーが勘違ひを誘ふので「危險」。小林よしのりの言ふ「フィクション」と云ふ事ではないので要注意。
例のリクール「時間と物語」では、物語は「歴史物語」と「フィクション物語」に分類されています。物語性とは記述の形式であり、物語とはまさに「語られる物」です。