推敲が甘すぎです。書き直し。
題名についてですが、これは違うのではないかと思います。
私もアンテナに詳しい訳ではないですが、通常アンテナは対象となるページの
Last-Modified か Content-Length の変化を見る (両方返さない場合は取得サイズの
変化を見るかもしれません) ように作るはずです。
で、カウンタは対象となるページをブラウザが読み込んだ後、そのブラウザが
img 要素を解釈し、カウンタ用 CGI を呼び出すことによってカウントアップされますので、
アンテナのような単に対象となるページを取得するだけの仕掛けに対してはカウンタは
カウントアップをしません。
したがって、侍魂のアクセス数はほぼ純粋にアクセスされている数と思われます。
題名についてですが、これは違うのではないかと思います。
私もアンテナに詳しい訳ではないですが、通常アンテナはWebサイトのトップページの
Last-Modified か Content-Length の変化を見る (両方返さない場合は取得サイズの
変化を見るかもしれません) ように作るはずです。
で、カウンタは (仮に) トップページをブラウザが読み込んだ後、そのブラウザが
img 要素を解釈し、カウンタ用 CGI を呼び出すことによってカウントアップされますので、
単にトップページを取得するだけの仕掛けに対してはカウンタは動作しません。
1/25の闇黒日記、eratta → errata かと。
ある朝僕は、ふと目が覚めると、そこにはあの有名なモーリス・イエローさんが 、いびきをかいて寝ながらいびきをかいていました、しかしよく見ると、そこに いたのはモーリス・パープルではなく、田中中田くんでした、もうそれは上から 呼んでも右から呼んでもしなびた耳毛でした、ぼくは感動してすぐさま家から追 い出しました、しかしモーリス・イエローさんは捨てぜりふを残していきました 、「モー娘。のつとむ好きだー!」
書き込んでみたくて、書き込みました、只それだけです。
「闇黒ですね」「そうですね」「曇り時々闇黒ですか」「今日もそうですね」
なんか考えつつ闇黒です。
「契冲」を購入し、正字・正假名原稿の編輯體制が整ひました。先日御話してをりました御寄稿の件、如何でせうか。また御聯絡下さい。第四號の感想などもありましたら宜しく御願ひします。
>しまりす樣
OSのネーミングにOSと云ふ文字を露骨に使ふとマイナーで終ると云ふ假説。
OS/2もさつぱりでした。
>U-Z樣
僕が……僕が一番HTMLをうまく書けるんだ……。
FM-16βとかのUNIXクローンっぽいOSを思い出す。
あのころの富士通は輝いていた
本当に輝いていた…
1月18日付け闇黒日記のレイ親子の項
dl終了タグとなるべき部分がdt終了タグとなっております。
言はれてみれば挨拶拔きでした。何方樣も平にご容赦。
私儀、園主樣の命により今日はあつちの花園、明日はこつちの花園の…
言はばネットの蝶、西部邁風に謙遜すればネットの蛾と言つた半端者でござんす。
以後御見知り置きの程を…宜しう御頼み申上げます。
>麻梛樣
「通説の到達点」――と言ふよりは、「南京大虐殺」では、「通説の出発點」と「到達點」が全く同一なのでして、それが問題なのであります。樣々な證據をもとに客觀的に檢討した結果、「南京大虐殺はあつたに違ひない」と云ふ結論が出たのなら、「到達點」です。しかし、「南京大虐殺はあつたのだ」と云ふ大前提のもとで樣々の事象を主觀的に解釋し、「ほら、南京大虐殺はあつたのだ」と「結論」を出すのは、ぺてんです。日本では、「定説」を「定説」として維持する爲の「解釋學」が盛んでして、「南京大虐殺はあつた」とする説もその「解釋學」の産物に過ぎません。そして、「現代仮名遣い」「常用漢字」の「定説」を「定説」として維持しようとするのもまた「解釋學」のなせるわざです。
>南京蟲樣
挨拶もしませんで、すみません。
私は「日本と云ふ國家なんぞ潰れてしまつても構はない」と思つてゐる非國民で、ただ「國を潰す爲になら嘘でも何でも活用してよい」とか云ふ發想が嫌なだけなのですが、決して落膽して「言葉 言葉 言葉」を御見捨てにならないやう……。
もつとも、國家がなくなつたところで、國語さへしつかり持つてゐる國民は、牢屋の鍵を握つてゐるやうなものですが。
>渡邊樣
HTML文書の書換へはたしか3分くらゐで出來たやうな記憶が。もとの記述が定型化されてゐると、修正は樂です。*.cssですが、形式の統一された一群のHTML文書で共用する事に意味があります。
HTMLとCSSの效率的な使ひ方は、研究をしてみると面白いのではないかと存じます。
なほ、遠山茂樹氏も五十嵐一氏も、讀んだ事がないので、全然わかりません。と言ふか、日本のマルクス主義者の本といつたら三浦つとむ氏のものしか持つてゐない、と云ふのはどうよ。わらひ。
>toka3aki樣
Yahoo!方面では相變らず御活躍のやうで何よりです。歴史論爭と言ふよりも、日本人は「歴史認識」論爭が本當に好きで、嫌ですね。認識なんて個人の勝手ぢやないかtoka思つたりします。
先日はファイルの修正ありがとうございました。
さっそく使わせていただいております。
ところで、野嵜さんは遠山茂樹さんについてはどう思われますかね?
僕らぐらいの世代の人間にとっては
近代天皇制の入門書みたいな人だったのですけれども。
それと、テロ事件以降言及されることが増えた
五十嵐一さんの著述活動についても、ちょっと意見を聞いてみたいように思います。
では、ファイルのお礼に(いらないかもしれませんが)
ちょっと楽しいコンテンツをご紹介。
BNフランスのアラブ書籍のオンライン展覧会です。
図版がとても綺麗でオススメです。
ただ、この優美な古い日本の言葉を愛する上で、過去がどうであったか、という議論はさほど大きな障害とならないのではないかとは思っています。
また、從軍慰安婦も南京大虐殺も眞實ではなかつたといふ事態、
つまり、それらはある人々の意志により捏造され、また、ある種の人々がそれらを「眞實だ」と強辯して來たとことがハッキリしたとしても…
それが貴方にとつて、さほど大きな障害にならないことを希望します。
また喩へ、貴方が「日本人が害を與へた筈だ」と信じてゐた人々に對しても、
實は日本人の與へた恩惠の方が多かつたことが明らかになつても、
決して落膽して日本語への愛を放擲なさるやうな事のなきやう…。
題名と重複しますがたくさんのレスありがとうございます。この掲示板の議論の経過をよく承知していませんので何かとんちんかんなことを書いてしまったかもしれませんが何卒ご容赦いただきたくお願い申し上げます。学生時代によく交流した国民文化系の学友もみな防衛と歴史の問題については膨大な知識と強力な価値認識を持っていて実に感心したことを思い出しました。
私としては、恥ずかしいことながら歴史観等については実はごく一般的な知識と認識しかもっておらず、先に書き込ませて頂いた内容がどうやら現在における通説の到達点であるという事以外よく分かっておりません。ただ、この優美な古い日本の言葉を愛する上で、過去がどうであったか、という議論はさほど大きな障害とならないのではないかとは思っています。
最後に、私の書き込みによってお気を悪くされた方が居られましたら、心からお詫びを申し上げますとともに、何卒ご容赦のほどを重ねてお願い申し上げます。
書込み、ありがたうございます。最近、自分の言葉が自分で皮肉か毒舌かにしか思はれない野嵜です。別に「南京大虐殺はあつた」と云ふ立場の方が書込んで下さつても、全然構ひませんので、取敢ず、冷靜かつスマートな議論をお願ひいたします。……つて、嫌みにしか見えないねえ(某T氏への)。
麻梛さん、「なかつた派」に早速、總括に遭つてゐますが、私はYahoo!掲示板で「『南京大虐殺』はなかつた(あり得ない話である)」と主張したら「あつた派」に總括されたので、申し譯ないですけれども、中立の立場で議論の進行役を努めたりはいたしません。その邊は御諒承下さい。
現在、「南京大虐殺はあつたと云ふ認識」が存在するのは事實ですが、それは即ち「南京大虐殺」自體が事實であつた證據だ、とは言へません。
そもそも、「南京大虐殺」の定義自體、全くなされてゐません。「あつた派」の間でも、「南京大虐殺」に關する見解はばらばらでして、「あつた派」は、大勢で「あつた」と叫ぶ爲に「あつた派」を名乘つてゐるに過ぎません。三千人程度の「小虐殺」、三萬人程度の「中虐殺」、そして三十萬人程度の「大虐殺」――良く考へれば、これらの主張は、互ひに相容れない筈です。しかし、「あつた派」は、小異には目を瞑り、大同團結してゐます。明かに、目的Xの爲に「なかつた派」は糾合してゐると見るべきでせう。
しかしながら、人の死と云ふものを「あつた派」は、隨分輕く見てゐるのではないか、と私は思ふのであります。「あつた派」は、反省しなければならないとか、謝罪しなければならないとか、或は、事實は認めなければならないとか、「南京大虐殺」について言つてゐます。
しかしですね、反省や謝罪をして、或は事實を認めて、死んだ人間がこの世に歸つて來るんですかね。
人の死を問題にするのだつたら、物事を曖昧にして、とにかく謝つちまへとか、とにかく事實と認めてしまへとか、さう云ふ好い加減な態度はとつてはいけないんですね。死者を、生者の感傷と都合の爲に利用してはいけないんです。
カトリックでは、聖人を認定する際に、「惡魔の辯護人」が聖人の「所業」を執拗に攻撃するんです。教會は、その「惡魔の辯護人」の批判を全て論破出來て、はじめて或人を聖人と認められるんです。形式と言へば形式に過ぎない譯ですが、日本ではさう云ふ「惡魔の辯護人」のやうな存在を認めない事が多い。
「南京大虐殺」が、假に事實だとしても、現時點では疑ひが殘つてゐるんです。そもそも、何をもつて「南京大虐殺」と呼ぶべきなのかも、定説が無いんです(だから、「なかつた派」の攻撃でそれまでの主張が怪しくなると、すぐに「あつた派」は別の論據を持出す事が出來る)。ならば、「あつた派」は、「南京大虐殺」の疑ひを全て晴らす爲に努力しなければならない。ところが、まづ「信じよ」と、「あつた派」は言出すんです。
「南京大虐殺」を、歴史の眞實としたいのであるならば、「あつた派」は、「なかつた派」と云ふ「惡魔の辯護人」による批判を全部否定しなければいけません。今のやうな曖昧な状態で「南京大虐殺」を「あつた」と云ふ事にしてしまつても、世間の風調が變ればすぐに認識はひつくり返ります。その邊りの事を、「あつた派」にしても「なかつた派」にしても、意識してゐないのですが。
「南京大虐殺」否定論が最近、勢力を持つやうになつたのは、風潮に過ぎません。或は、「あつた派」のエラーが餘りに多過ぎる事が原因です。「僞寫眞」は、餘りに澤山提出されました。そして、依然として「あつた派」が勢力を保つてゐるのは、「なかつた派」の追求が甘いからにほかなりません。「なかつた派」は、守備の側である爲に仕方がない面もあるのですが、「あつた派」の戰術に左右され通しです。
ただ、南京事件については、これは自分が國を愛することとは全く別の次元として、真実は真実として厳然と存在しているのであって(「大」虐殺だったかどうかはこれまた別)、従軍慰安婦についても他国の謀略とか左翼による捏造として片付けることは現実的ではないといわざるを得ません。
國を愛する者として、真実は真実として受けとめ、それでもなおかつ國を愛するのだ、という姿勢でありたいものだと思います。
「南京大虐殺」や「從軍慰安婦」は眞實だ、との假定のもとに御話をお進めになりたいお氣持は判ります。
人間とはさういふものです。
が、自己のアイデンティティに必要なものは即ち存在する、と見做すのは社會的にはカルト教團の認識でせう。
學問的には「南京大屠殺(ナンチン・ター・ツー・シャー)」の存在を肯定する學者がゐるとは思へません。
これは定義が餘りにハッキリし過ぎてゐますから…。(ゴマカシが效かない)
>真実は真実として厳然と存在しているのであって
横レス失礼します。
過去の出来事即ち歴史とは、「語り」に基づく「構築」によってしか記述し得ないのであります。貴方がおっしゃる「真実」なるものも、結局は構築主義的な語りなのです。その記述の判断基準とは、結局は共同体に共有された言語空間に基づくしかないのです。その場合、中共の「共同体に共有された言語空間」と、私たち日本人の「共同体に共有された言語空間」は、共有し得ぬ部分が必ず存在します。そのような、いわゆる「他者の声」という他共同体の言語空間によって、私達の自己同一性の「語り」が記述されるのは、いかがなものかと私は考えています。
掲示板を拝見していて、独特の仮名の遣いから、そのむかし国民文化研究会という会で出会った人たちのことを思い出しました。たしか難波田春雄さんという人(大学の先生?)が主宰していらしたと思います。書き言葉はみんな旧(?失礼、古式というべきか、これも失礼?)仮名遣いなんですよ。文化って根強く残っているんですね。
自分も國を愛する者の一人として、そうした古の國のすがたに魅力を感じて研究会に入ったものです。
ただ、南京事件については、これは自分が國を愛することとは全く別の次元として、真実は真実として厳然と存在しているのであって(「大」虐殺だったかどうかはこれまた別)、従軍慰安婦についても他国の謀略とか左翼による捏造として片付けることは現実的ではないといわざるを得ません。
國を愛する者として、真実は真実として受けとめ、それでもなおかつ國を愛するのだ、という姿勢でありたいものだと思います。
バナーコレクションに追加して頂き、恐縮です。
参照先のURLとしては、
http://www.akatsukinishisu.net/itazuragaki/#x-district_banner
は、更新されていくと見られなくなるので、
〜/itazuragaki/?x-district_banner
〜/itazuragaki/2002_01.html#x-district_banner
の方がよいかもしれません。
「弟子に取つて呉れ」と云ふ依頼ならば、「ご教授下さい」でよろしいのではないかと存じますが。
メーリングリストや掲示板で、ちよつと教へる、或は、簡單なヒントを與へるとかいつた程度の事を「教授」と言ふのは、オーヴァなのではないかと。
貴サイトをいつも楽しく拝見しております。
さて、某技術系メイリングリストで「ご教授ください」と書いている人がいたので(まあ珍しくも何ともありませんが)、回答ついでに「ご教示くださいが正当」という意味のことを書き添えて投稿しました。
すると、ある方からメイルが届きました。彼いわく、自分も「ご教示ください」が正当だと思っていたが、
http://dic.yahoo.co.jp/bin/docsearch?p=snj7955972&check=c
によるとあながち「ご教授ください」も間違いではないのかもしれない、とのこと。ただ彼も「ご教授ください」は気持ち悪いとおっしゃっています。
私はいまだに「ご教授くださいは誤り」という気分なのですが、うまい説明が見つけられません。どなたか、どうぞ救いの手を。
御指摘およびバナーの御紹介、どうもありがたうございます。
このバナーで「valid」と言ふのは、果してvalidなんでせうか知ら?
バナーコレクション(おまけ)内の
平田さん提供のCSSコミュニティバナー近辺にて、
dt開始タグの重複がある様です。
そして匿名掲示板に反対するバナーを。
もとは反2ちゃんねるバナーだったのですが。
うちのサイトも某所で「電波系」と言はれてゐるのでして。
やつぱり何か、通じてゐるんですかねえ。
日記に岩谷宏さんのことが出てきて少々驚いてます。(自分にとっては「師」な人なので)
「現代思想」での連載はもっと直裁な表現で本質論が語られていて凄かったですよ。
あの人は集団主義的かつ論理を軽んじる日本人への批判という点ではかねてから徹底していて、野嵜さんとも通じるものを感じるのです。
氣に入らない人物を「非國民」だの何だのと決めつけて痛めつけた戰前の國粹主義者みたいな人間が左翼思想に感染すると、今度は「從軍慰安婦を信じないのか」などと言つて大威張りするんです。我々日本人は、絶對者を持たないので、相對的な「正義」を絶對の眞理と思ひなし、それを信じない人間を居丈高に罵るんです。
「從軍慰安婦」にしろ「南京大虐殺」にしろ、信じてゐる人間は狂信者ですから、信じない人間を人間扱ひしません。肯定派と否定派の論争は、殆ど「宗教論爭」ですよ。そして、日本に宗教は存在しないから、この「宗教論爭」はやくざの出入りと同じなんです。
日本人にとつての「從軍慰安婦」は、ビジネスの問題ではありません。「從軍慰安婦」を信じてゐる人間にとつて、「從軍慰安婦」を信じてゐない人間を罵る事は至上の快樂です。快樂の問題なんです。ビジネスなんて、御立派なものではありません。
ビジネスほどにも、御立派なものではないんです。残念な事に。
従軍慰安婦の問題は政治の問題ではなく、ビジネスの問題と思っています。
戦争当時、日本兵がハオハオとでも言えば、女が股をおっ開げてついてきたという類の話。信じる方が間抜けでしょう。中国や韓国の女性は、そんなヤワではない。
話はむしろ逆なような気もしますが、これを宮沢・河野の無能コンビ以来、中国や韓国の政治家は外交カードに利用している。このカードは使えば使うほど自国女性のプライドを傷つけるジョーカーみたいなもの。従軍慰安婦について、両国とも明らかに捏造と思っている。そういう彼らが、プライドをかなぐり捨ててこのカードを使うという現状に、日中韓交流の難しさを思います。
掲示板の引用部、「下の發言ですが」「あなたが連續投稿をしてゐるので」の2箇所で、ddの開始タグがないやうです。
コミュニケーションをとつてみようと試みた譯ですが、「惡い冗談」で終はつてしまひましたねえ。
「言葉は通ずる時もあれば通じない時もある」とは、時枝誠記の言葉。
時枝さんは、國語國字改革反対派が氣勢を上げてゐる時に、冷静に「もう假名遣は復活しない」と述べた事があります。にもかかはらず、「正しい日本語」を守るべく時枝さんは戰つたのであり、決して諦めはしなかつたのですが。
「正しい日本語」も「正しいHTML」も、「正しい道理」も、幾ら説いても受容れようとしない人は受容れません。それでも、「正しい事」は、馬鹿を見ても、誰かが説かなければ無くなつてしまひます。
たまには、「馬鹿を見ない」事があつても良いとは思ふのですが、まあ、無理でせう。
これからもよろしく御願ひします。例の「偉大なスタイルシート」は、自分でも超えられません。泣き笑ひ。
あけましておめでたうございます。
以前、メールを送らせていただきましたが、この掲示板への書き込みは初めてです。
年明け早々、アレクセイさんに無視を決め込まれてしまひました。
投稿削除の「告知」も無いと云ふ状態です。これが立ち入り禁止の「勸告」だと云ふのでせうかね。
あけましておめでたうございます。私は年明け早々、元気です。げんなり。
「闇黒日記」はもう、ネタ状態です。苦笑。
本年もよろしくお願いいたします。