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掲示板ログ(2002.4)

言葉 言葉 言葉 掲示板


(無題) 投稿者:とほりすがり  投稿日: 4月30日(火)21時01分35秒

まともな文章ならば、縦書きでも横書きでも構はないでせう。
縦書きに拘はるよりも、まづ正しい文章に拘はりたいものです。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 4月30日(火)20時32分06秒

信託協会の関係者なのかなあ……。


砂漠の雫 投稿者:榎本昌一  投稿日: 4月30日(火)19時05分44秒

イスラエルを建国した人々は、むかし、ナチと仲良しでした。
たくさんのユダヤ人が、効率良く、殺戮されたのは、仲良し同志で
ツーカーでやっていたわけです。
 イスラエルが建国された後、イスラエル人がナチを追求するのは
矛盾だろう!

 どう思ってんだ。いったい。
 アラブとユダヤを呼んで来い!

 サリンまくぞ。


素朴な疑問 投稿者:最近の文庫はみな新假名新字體  投稿日: 4月30日(火)17時42分14秒

傳統を湛えた正字體正假名遣ひを繼承していかうと
思へば、やはり縦書きにこだはるべきなのでせうか?


昨日 投稿者:榎本昌一  投稿日: 4月30日(火)14時01分04秒

秋葉原を歩いていましたが、露天で、肉を焼いていました。
××人が犬を焼いているのかと思ったら、普通の人で
うまそうだったので、1つ買いました。
そしたら、生焼けで、レアというかもしれませんが、
うまく、食いちぎれなくて、喉につかえてしまい。
「ゲェ」といって、肉を口から引出して、道端に捨てました。
回りはゲロだらけになりました。
傍の人はいやな顔をしていました。

そういえば、他人のゲロで、自分が気持ち悪くなることを
「もらいゲロ」といいますが、皆さんご存知でしたか。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 4月30日(火)11時39分50秒

http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/knowledge/object.html

見出し「HTLMのオブジェクト化による利點」は、「HTMLの……」の間違いではありませんか。


おもろいhp 投稿者:たけし  投稿日: 4月30日(火)02時56分18秒

最高におもしろいHP見つけました。
見つけたっていうよりも、友達に紹介されました。
おもしろかったら薦めるという約束なので皆さんに薦めます。
正直こんなHP見た事ないし、こういうのを求めてました。
久々に笑いました。皆さんも一回見て下さい。
そして、おもしろかったらまず「お気に入り」に入れて毎日確認して下さい。
随時更新してますので、日記だけでも楽しめます。
そして、おもしろかったら友達や知人等に広めてください。
もちろん、私みたいにこうやって掲示板に書き込んで宣伝してくれるのも
ありがたいです。
アドレスは

http://www20.u-page.so-net.ne.jp/rd6//nippy/
どうか一度見てみて下さい。
よろしくお願いします。


まだ日付が間違っています 投稿者:うらの  投稿日: 4月29日(月)05時56分55秒

いつも興味深く拝見しております。日記の日付ですが、修正が間違っていらっしゃるようです。
ご確認下さい。


どうもー。 投稿者:JIRO  投稿日: 4月28日(日)02時31分21秒

どうやらこの衛星に搭載されたエシュロンにより、ネット上の言論活動がモニターされているそうです。

http://www.spaceguard.or.jp/SGFJ/batters/x00639/x00639.html

気をつけましょう。


はじめまして。 投稿者:KEN  投稿日: 4月27日(土)19時57分44秒

「国語改革」について検索かけて、このサイトにまいりました。
私は、オーウェルの「1984年」や、大野晋氏の著作(タイトルは忘れた)を読んで、
いわゆる「国語改革」に疑問をもち、ついで福田恆存氏の「私の國語教室」をよみました。
大変興味深いコンテンツです。

「誰もが讀んでゐる日記」について。以下の事はすでにご存知かもしれませんが。
「体系そのものを否定しかねないような証明」というのはおそらく
ゲーデルの「不完全性定理」のことかと思いますが、これは体系を否定する証明じゃないです。
「自然数論を含んだ体系では、否定も肯定も出来ない命題が存在する」
ということですね。
# 体系の「価値」を否定すると受け取られることもあるでしょうが。
矛盾を含んだ「公理」があれば、そこから「私は神である」ことさえ「証明」出来てしまいます。


「非論理的な部分」と云ふ指摘の仕方その他 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月27日(土)14時56分30秒

個人としての著作であるにもかかはらず、論理的に破綻してゐる例としては、小林よしのり氏の『戰爭論』と云ふ「好例」がありますが。

部分的に問題があつても、全體として一貫性があり、整合がとれてゐれば、そのシステムは論理的と言ふべきです。一方で、部分、部分は説明がなされてゐても、その個別の説明の間に整合性がない「システム」は、非論理的なものと呼んでよろしいでせう。
全體として正しいシステムがあつた時、色々な理由で存在する「非論理的に見える部分」を殊更にとりあげて大袈裟に非難するのは、揚げ足取り以外の何ものでもありません。逆に、全體を見れば破綻してゐるものを、個別の部分が「それぞれ説明が附けられる」と云ふ理由で支持するのも、變な話です。

なほ、非論理的さんは、歴史的假名遣を福田恆存氏が『私の國語教室』で決定してゐるかのやうに述べていらつしやいますが、事實に反します。福田氏は、複數の國語學者による研究の成果としての歴史的假名遣を承認してゐるに過ぎません。
また、歴史的假名遣が「變化してゐない」のは、「現代かなづかい」が存在したせゐです。日本語の表記が戰後50年間、全く進化しなかつた理由は、「現代かなづかい」が表記を支配した爲です。
福田氏は、日本語の表記が歴史的假名遣のままで良いとは言つてゐません。ただ、日本語の表記の進化を止めてしまつた「現代かなづかい」を廢棄し、それまで正常に進化を續けて來た時點にまで一旦表記の原則を戻し、そこから改めて自然に表記を進化させていくべきだ、と主張してゐるだけです。
「鶯」についても、福田氏は『私の國語教室』で、常に「鶯=うぐひす」でなければならない、とは主張してゐません。非論理的さんの指摘に反して、實際には、「うぐひす」と云ふ表記を「うぐいす」に「改めても良い」と福田氏は述べてゐます。ただ、表記の改變は、システム全體の整合性に配慮したり、きちんとした調査・研究を行つたりして、慎重に行はなければならない、「現代かなづかい」の採用は「とにかく改變しろ」と云ふ亂暴なやり方で行はれた改革であり、實際に問題も多い、と福田氏は述べてゐるに過ぎません。


(無題) 投稿者:非論理的  投稿日: 4月27日(土)11時35分33秒

そうですか。私が先に証明せねばならないのですか・・・鶏が先か、卵が先か。というような話になってきたなぁ。それにですね。著書一冊まるまる論理的か非論理的か。論ずること自体が非論理的です。と、いう風に話を持っていきたかったんですが。そういえば、いつぞやも、だれそれが論理的、非論理的とかって話がでていましたねえ。ばかげた話ですな。言葉の前に、人間がわかってない。

個人の書いた著作全体が、非論理的部分に満ち溢れているはずもなく、「国語教室」を読了した感じからすると著者の福田氏は、たいへんな知識を持ち、深く考えており、頭がいい方であると、もちろん思います。ただ、どうしても非論理的な部分をあげよ、というなら、それは以下の部分です。

比較不能であるはずの事象の比較を、読者に強要しているところが多々あり、しかも、福田氏が勝手に結論を出してしまって、福田氏の結論に疑問を持たなければそこに気づかないような部分があること。
これは、文中の極端な例としてあげますが、確か、「吉川英治の本を歴史的仮名遣いで出しても、売れ行きはかわらない。」などというような部分があり、便所で大声で笑ってしまいました。江国かおりの本を歴史的仮名遣いで出すと、売れ行きは伸びるでしょうか?このような、まあ、ここまで極端な部分はあまりほかには見当たりませんでしたが、興味があればご自分で探し出してください。

次に、長くなりそうなのですべては書きませんが、記号論と発音の関係の捉え方がおかしい、頭をひねらざるをえない部分がありました。仮名、発音記号、音韻、また、広く記号論までごっちゃになってしまっています。この点は、野嵜さんがFAQでまとめて論じておられるので、比較してみるとおもしろいですよ。

次に、仮名遣いが、いきなり単一に絞られて出てくるのはおかしい。先にも例としてあげましたが「鶯」→「うぐひす」という一対一の関係が完成した形で登場する。もちろん、ごく簡単にそういった一対一の関係を指摘できる語もあるでしょうが、そうではない語も数多く存在ましす。しかし「国語教室」にはそのあたりがかかれていないため読者に誤解を与える恐れがある。一般に、数多くの例に触れようとするならば、知識レベルの高い人が書いたものから、ごく低いものまで満遍なく手にすることになります。知識レベルが高ければ高いほど漢字の使用率が高くなります。また、赤本や、合巻などは、ご存知の通りほとんど漢字はでてきません。しかし、ここで、ひとつ悩むべき点がある。いわゆる現代でいうところの「絵本」から、例を引き出してよいのか。いや、引き出してもぜんぜんかまわないんですがね。実際のところ。男言葉女言葉は無視してもいいのか。そのあたりのジレンマが、なかなか楽しいぞと私などは思うのですが。福田氏は、もちろん、さまざまな例をあげて検証し、一対一の仮名遣いを完成させたものだとは思いますが、推定による部分もかならずあるはずです。そういった部分が上手に覆い隠されています。

最後になりますが、福田氏が、この本を書いてからすでに五十年近い年月が過ぎています。言葉とは徐々に変化していくものです。そういった意味でも、現代仮名遣いは失敗でした。しかし、歴史的仮名遣いを省みるとどうか。そこには、いっさの変化を拒んでいるような印象さえ受けてしまいます。では、この数十年間、日本語にはまったく変化がなかったのか。そういった部分の検討を拒むならば、それは、「正かな」ではなく「福田式かな」とでも言った方がよい。そういった意味で、質問の中に「音便について」をいれたのです。

後ろ向いたまま、前を見ずに文章を書くのか。前を見て、後ろのことを十分に配慮しながら文章を書くのか。

ということです。


補足 投稿者:義珍  投稿日: 4月27日(土)00時40分29秒

要するに、警察官が市民に対して「お前、犯罪者だな。違うというなら、お前が犯罪を犯していないという証拠をみせろ」と言っているようなものだと思うのです。
ある市民が犯罪者であることを証明する責任は、警察官の側にあるということです。


Re: もひとつ 投稿者:義珍  投稿日: 4月27日(土)00時32分30秒

> 「私の国語教室」が十分に論理的であるということを証明してください。

ご自分で読まれて判断しては。
その上で、「非論理的」だと判断したのならば、その理由を「論理的に」この掲示板で糾弾してみては。

別に野嵜さんを擁護するつもりはありませんが、この場合、野嵜さんに「『私の國語教室』が論理的であること」の証明責任はなく、むしろ「非論理的」さんの方に、「『私の國語教室』、またはそれに基づいた野嵜さんの文章が非論理的であること」の証明責任があると思います。


もひとつ 投稿者:非論理的  投稿日: 4月26日(金)22時45分29秒

もうひとつ、質問が増えてしまいました。

「私の国語教室」が十分に論理的であるということを証明してください。


ぜひ 投稿者:非論理的  投稿日: 4月26日(金)22時41分46秒

ぜひ、こたえてください。おまちしております。


どれかを選ぶなら 投稿者:高坂  投稿日: 4月26日(金)22時07分38秒

歴史的仮名遣の論争がまたまた持ち上がつてゐるやうですね。
私見を述べたいと思ひます。

国語の表記法は、どのやうなものであつてもいいといふ考へ方がまづあるとします。しかし、現実的には、どの表記法を用ゐるかといふ選択をしなければならないといふことになります。
私の場合、国語の表記としてどのやうな仮名遣を選ぶかといふことになれば、その基準として、伝統を重んじる精神を体現した表記法を選びたいと思ひます。
この立場からすると、現代仮名遣は出自が悪すぎます。また合理性においても歴史的仮名遣に優つてゐるわけではありません。どちらかを選べといふことになれば、私は歴史的仮名遣を選びます。
歴史的仮名遣が絶対的な規範かどうかは別として、それが正統を目指す精神を持つてゐるのはたしかです。さういふ意味で、歴史的仮名遣を国語表記の正統と考へる人々が「正かな」と呼ぶことも理解できます。私はふだんは歴史的仮名遣と言つてゐますが、上述の理由から正かなといふ言葉を使ふこともあります。

さしあたり以上のやうなものが私のスタンスです。なほ、現実的な必要上、私は正かなと現代かなとを併用してゐます。

http://www8.plala.or.jp/Kusimitama/


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月26日(金)22時04分04秒

疑問さんへ。

>中田さんが「正邪の判断」と書かれたところを野嵜さんは「判断は全て…」にすり替えています。

論理學的に正確に表現しただけですから、すり替へではありません。
中田さんの論理は三段論法ですから、中田さんの「判斷」は「全ての判斷」でなければなりません。

1.全ての正邪の判斷はイデオロギー的である。
2.假名遣の正邪を判斷する事は、正邪の判斷である。
3.從つて假名遣の正邪を判斷する事はイデオロギー的である。

中田さんの論理は、上記の三段論法でなければなりません。この1.が「一部の正邪の判斷は」と云ふ特稱命題である時點で、中田さんの論理は崩潰します。
もちろん、中田さんの1.の命題が全稱命題であつたとしても、そもそもその命題が間違つてゐるのですから、中田さんの理窟は間違つてゐる、と云ふ事になります。

非論理的さんへ。

>なるほど。「正かなへの移行の手引き」ですか。非論理的な手引きに従えば、正かなの入り口が見えてくる ということでよろしいでしょうか。

よろしくないでーす。
あれは實用的な「移行の手引き」、詰り、正かなで書けるやうになるテクニックを示した亂暴なガイドです。間違へ易い部分だけを指摘した、全く體系的でない説明です。
しかし、私が「非論理的」と書いたものは全て非論理的であると、どうして非論理的さんは御思ひになつたのでせうか。

>私が「正かなの説明」とすりかえたのは、ほかに説明らしい説明がみあ たらないからです。

「言葉 言葉 言葉」には現状、正字正かなの體系を説明した文章がありません。だからと言つて、「すりかえ」をやられては堪りません。

>つまり、他人に説明できるほ どの論理がないのです。誰かが言っていることを右から左へ流しているだけにちがいない。

「言葉 言葉 言葉」の國語論は、福田恆存が『私の國語教室』で言つてゐる事の受賣りです。しかし、「言葉 言葉 言葉」は『私の國語教室』の受賣りだから、正字正かなには理論が無い、と云ふ理窟は成立ちません。
「受賣りは全て非論理的だ」とは言へません。『私の國語教室』は十分に論理的ですから、その受賣りだつて論理的になり得ます。「受賣りだ」と云ふ非難は、非難として不當です。受賣りを非難するには、受賣りの仕方が拙い事を指摘しなければなりません。

>それで、ほかの質問の答えは?

あれに答へろとおつしやる?


素人さま 投稿者:にゃ  投稿日: 4月26日(金)08時10分06秒

いえいえ、とんでもない。私などに心遣い頂きまして本当に感謝しております。やはり素人さまのご判断が望ましいものかと思われます。言葉が本来の意味をかけ離れ、一人歩きしてしまう現象を恐ろしいものだと、つくづく感じてしまうにゃでございます。


ふむふむ 投稿者:非論理的  投稿日: 4月26日(金)03時50分49秒

なるほど。「正かなへの移行の手引き」ですか。非論理的な手引きに従えば、正かなの入り口が見えてくるということでよろしいでしょうか。私が「正かなの説明」とすりかえたのは、ほかに説明らしい説明がみあたらないからです。

話し言葉と違い、書き言葉は、たいへん高度なものです。習得にかなりの努力と勉強が必要です。しかも歴史がある。この点において、野嵜さんの言っている事に別段疑問は感じません。話し言葉は、いうなれば、ホットミルクの表面にできた、薄い膜のようなものかもしれません。その下にぐらぐらにえたったミルクがある。そのミルクを、どう咀嚼するのか?

A4にして数項で言葉のすべてが説明できるなんざ、思っても見ませんよ。膨大な資料の末端には非論理的な部分も数多くでてくるのはあたりまえです。

ただ、「正字正かなは、過去から現在に至るまで潛在的に一貫して存在する日本語の原理原則を、近代的な觀點から意識化し體系化したものです。」とある。この、入り口、さわりの部分が、「もっとも非論理的」だというのであきれたのです。自らをもってして「正しい」とするなら、しかも、「原理原則を、体系化した」というのならば、せめて、入り口ぐらい論理的にできるんじゃあないですかねえ。俺が言うから正しいのだ、というのは、論理ではなく、宗教に近いものがあるんではないでしょうか。まったく理屈が通用しませんよね。最後は、「これが正しいから正しいのだ」でおわりなんですから。だから、今までの研究者たちは「歴史的仮名遣い」といっているのではないですか?

それで、ほかの質問の答えは?


(無題) 投稿者:アラレ  投稿日: 4月26日(金)02時58分09秒

殺伐としないで( ● ´ ー ` ● )


イデオロギー 投稿者:疑問  投稿日: 4月26日(金)02時46分12秒

「判断」について。
中田さんが「正邪の判断」と書かれたところを野嵜さんは
「判断は全て…」にすり替えています。
野嵜さんは判断というものは全て「正邪の判断」であると
考えているのでしょうか。

たとえば「正邪の判断」と「真偽の判断」とを並べた場合、
その二つに差異は無いと考えているのでしょうか。


この掲示板 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月26日(金)00時07分24秒

煽りは可ですが、下ネタは禁止。


誰もが観てゐるサイト 投稿者:超論理的  投稿日: 4月25日(木)21時51分31秒

『言語にとって美とは何か』という思索を行なったのは、確か吉本隆明氏であったと思ふ。以下のサイトを御鑑賞され、美と何かよく思案されたい。

Formula Nippon Race Queen Official Home page
http://www.vino.metamart.co.jp/formula/

Gal's Square
http://www.d1.dion.ne.jp/~naobumi/


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月25日(木)21時11分41秒

>肝心の正かなの説明に なると「このサイトの中でもっとも非論理的である」と、突如、腰が砕ける。

あれは「正かなの説明」ではありませんけど?

「現代仮名遣い」を用ゐてゐる人の爲の「正かなへの移行の手引き」以外の何物でもない文章を、「正かなの説明」と決め附ける意圖は何ですか?


にゃ様 投稿者:素人  投稿日: 4月25日(木)17時19分26秒

ごめんなさい。あなたの投稿を読むことなく、義珍さんのものだけ読んで好き勝手なことを書いていたようです。高校時代、数学の先生にいつもケアレス・ミステイクを指摘されていたのですが(正直、ケアレスだけじゃない、理解不足による間違いの方がずっと多かったのですが)、この欠陥、数学に限ったことではないようです。先ほど読み返してみて、前二回の私の投稿は義珍さん宛ではなくて、むしろあなた宛にすべきだったと思った次第です。大変失礼致しました。

前二回の投稿も言葉が足りない部分も多かろうとは思います。まあしかし、私の姿勢の概略は述べたつもりです。


便利です。 投稿者:非論理的  投稿日: 4月25日(木)15時10分42秒

大いに参考にするべきです。言葉とは、このようにして使うものです。そして、その傾向はこのサイト全体にあふれています。

現代仮名遣いが抱える問題点は、あらためて論ずるほどのこともありません。あれは、ひどいものだ。しかし、このサイトでいう、正かな(こういう言葉がこの世にあったとは知りませんでしたが…)も、同じくらいひどい。

正かなは「過去から現代まで日本語の根底にながれる原理原則」であるそうですが、肝心の正かなの説明になると「このサイトの中でもっとも非論理的である」と、突如、腰が砕ける。つまり、他人に説明できるほどの論理がないのです。誰かが言っていることを右から左へ流しているだけにちがいない。そこで、質問。

1.あ、亜、阿など、おなじ仮名を異なった文字で表現してよいという決まりになっていました。では、いつ、だれが、それらを、「あ」一つに統一したのですか。そして、その統一したときの理由はなんだったのですか。教えてください。そして、このサイトで批判することなく、その統一された仮名を使用している理由を教えてください。

2.仮名遣いは、古典を読めばすぐわかりますが、地域、知識レベルにより、かなり差異があります。いったいどのレベルの仮名が、正しい仮名なのですか。教えてください。

3.かんたんな例をあげます。「鶯」という字があります。これに仮名を振ると「うぐひす」が正しい。「うぐいす」はただちに誤りである。と、こうなるかと思います。名詞の「ひ」が、「い」に変わることにはかなり敏感なようですが、正かなの中身を読んでみると、音便による変化には非常に鈍感であるように思われます。その理由を教えてください。

4.「ん」についてですが、古くは「武」「无」などの仮名がありました。しかし、先に述べた中の撥音便の仮名遣いでは、さらに、さまざまな試みが古くから行われています。いつ、誰が、「ん」一つにまとめてしまい、それが「正しい」と決めたのですか。教えてください。音便については、もっともっと聞きたいことがありますが…

5.歴史的仮名遣いを語る上で避けることはできないと思われる濁音表記のことが一切触れられていません。それはなぜですか。教えてください。

6.過去の例をピックアップしてみると、異なる仮名遣いに出会うことはよくあることです。では、二つを一つに絞る作業は、誰が行ったものが正しいといえるのですか。教えてください。

7.造語や、新語、外来語は、どのように表記すべきか。誰の仮名遣いが正しいのか、教えてください。

8.もしかして、私と、あなたの仮名遣いという言葉の意味が違うような気がしてきました。あなたのおっしゃる「仮名遣い」とは、いったいなんでしょうか。教えてください。このサイトを眺める限り、漢語の仮名表記も試みているようです。つまり、日本語を全て仮名で表したときの仮名の使い方、ということでしょうか。この解釈でよろしいですか。

9.最後になりますが、なぜ、「歴史的仮名遣い」ではなく、「正仮名遣い」などというのですか。教えてください。この言葉自体、日本語感覚から非常に外れているように思えるのですが…また、「正仮名」とは、誰による造語ですか。教えてください。


あの〜 投稿者:  投稿日: 4月25日(木)13時25分42秒

ここは煽りを許可していますか?


便利ですね。 投稿者:論理的  投稿日: 4月25日(木)09時40分56秒

自分の気に食わない言葉の使われ方をした時は「そんな日本語があるのか」と議論を逸らして、いざ自分が突っ込まれる段になると「比喩表現だ」で逃げれば良い訳ですか。参考になります。


略をして使う言葉はどんなのがあるか 投稿者:たく  投稿日: 4月24日(水)11時07分56秒

若者が使っている言葉


みなさん有り難う。 投稿者:しょう  投稿日: 4月24日(水)10時54分03秒

みなさん有り難うございました。とてもいい勉強になりました。けれどまだ若者言葉についてよく分からないので意見がある人はこれからもよろしく御願いします。


(無題) 投稿者:アラレ  投稿日: 4月23日(火)23時36分49秒

具体的にどういうものを指して「若者言葉」なのか
判断しかねているんですが。私も若いと言いたかったり(^^ゞ
でも私のイメージする「若者言葉」に対しての悪いところは、
嬉しい、美しい、不快、怒り。
いろんな感情を表現するのに、気持に忠実な言葉を考えたり選ぶ事なしに、
反射的に言葉を使う傾向があるように思うところです。
考える事なしの言葉を聞いた時、何となく「若者言葉」だなと思うかもしれません。
ただ、そういった言葉も数多く出てきたし、出てくるでしょう。
その中には、ひたと感情にあてはまる言葉も出てくることがあるかもしれません。
そういうものを、若者言葉のいいところと感じることがあるかもしれません。


有り難う榎本昌一さん 投稿者:しょう  投稿日: 4月23日(火)11時57分47秒

ありがとうございました。いい資料になりました。でももう一つ御願いしたいことがあります。
それは若者言葉の良いところか悪いところかどちらでもいいのでお答えしてくれれば光栄です。
まあ、そういう事で御願いします。


自閉症とは 投稿者:榎本正一  投稿日: 4月23日(火)00時51分53秒

自閉症とは、人生の負け犬。
社会に甘え、家族に甘え、自分に甘える自堕落なもの
あしたジョーを見習え、髪が真白いになるまで、働け。
そうでなければ、飢え死にするほどの貧乏がふさわしい。
まったりしていてはならぬ。韓国に行き、靖国神社が日本の心でであることを
伝道するのだ。

何、それもできない?!
それでは、

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再び義珍様 投稿者:素人  投稿日: 4月23日(火)00時07分14秒

ご丁重なるお返事、ありがとうございます。私の誤解だったようで、たいへん失礼致しました。失礼のほどご容赦のほどを。医学的、或は国語として云々、については私もよく分かりません。

ただ、自閉症の方と接する機会をお持ちだったということですが、「倫理的」とか「医学的」という言葉の妥当性はともかく、やはり私の言っていることに近いのではないかなあ。自閉症者という言葉からもそれを感じますし(きっと、正しくは自閉症者というのでしょうね)、一般にはあまり知られていないことだが、という表現からも同じことを言っているのじゃないかな、と思わなくもありません。

まあ、あまり突き詰めていくべきことでもないので、この辺で。私の論点、お分かりいただけましたやら。ついでながら、私も医学と全く無縁ですし、春先にはやや鬱々とすることはあっても自閉症に悩む者でもなければ、その家族でもありません。


比喩として 投稿者:義珍  投稿日: 4月22日(月)23時39分31秒

私は医者ではありません。ついでにいうと、自閉症者でも、その家族でもありません。以前、自閉症者と接する機会があったので、ふつうの人よりほんの少しだけ詳しい、というだけの者です。
「器質的」という言葉も、それほど深く考えて使ったわけではありません。自閉症が、心の失調や単なる社会性の欠如といった問題ではなく、先天的な脳神経系の異常なのだということを強調しようとしただけです。(医学的、あるいは国語的に不適当な表現だったらごめんなさい)
また、私が、「あまり適当ではない」と書いたのは、あくまで「比喩として」ということです(「倫理的に」とか「医学的に」ではないことにご注意ください)。つまり、野嵜さんが「AはBに似ている」と書いたのに対して、「(一般的にはあまり知られていないことだが)AとBはあまり似ていない」と書いただけのことです。それ以上の意味はありません。
「素人」さんがおっしゃったようなことが言いたかったわけではありません。


自閉症という比喩について 投稿者:アラレ  投稿日: 4月22日(月)19時14分00秒

私は表現としてはいいと思います。
まさか言葉をそのまま捕らえられてつつかれると困ると思います。
つまり、本当に言いたい事を人の心に伝える場合、
何か言いすぎたような事をいい、相手のを惹き付けるという手法は有効だと思います。


若者言葉について 投稿者:榎本昌一  投稿日: 4月22日(月)18時01分54秒

若者言葉は、我が物言葉。
弾圧すべし。穴を掘り、罠を仕掛け、肩すかしをくらわせ、足を払いましょう。
できれば、ヤクザにぼこぼこにやられて欲しい。
涙流して命乞いして欲しい。
だって、若者は人間のくず。

http://www.bb-mail.com/index.cgi


義珍様 投稿者:素人  投稿日: 4月22日(月)11時59分41秒

あなたはお医者様でしょうか。私たちが比喩として様々な言葉を使用する場合、そのすべてについて専門的知識をもっている訳ではない。ですから、自閉症にしたって、器質的な原因による先天的な障碍、という定義を理解したうえで使う人は少ないのではないでしょうか。おそらく読んだり聞いたりする側だって、それほど深く考えているわけではない。ああ、自分の中に閉じこもってしまう状態を指しているんだな、という程度の認識でしょう。使う側も、上述した定義に従うとなると、日常会話ではちょっと使い道がないかもしれない。じゃあ使わなければいいじゃないか、と言われればそれまでですが、そこまで行くと、他の言葉だって比喩として「正しく」使用されているか否か。それこそ素人の私ですが、おそらく器質的というのは英語のorganicの訳語なのだろうな、機能的(functional)に対するorganicなのだろうな、というところまでは分かりますが、では具体的にどういうことを指すのか、functionalとorganicの差異は何か、と質されると甚だこころもとない。おそらく、専門知識のない一般人の認識はその程度だと思います。ですから、今回のケースも比喩としては(私もその自覚なき自閉症患者の範疇に入りそうですが、それはさておき)、まあそれほど不適切ではないように思います。

ところで、これから述べることは全く異なった立場です。不幸にして自閉症に悩む人たち、或はそのご家族にとってどうか、という問題です。たとえ比喩であれ、自閉症という言葉が本来の学術的な意味合いから外れた形で使用されれば(大半はnegativeな意味で使用されるでしょうから)、本人や家族にどれほど不快感を与えるか計り知れません。ですから、世間の誤解を招く表現は止めて欲しい、医学的な定義以外の意味では使わないで欲しい、という主張もわかります。結局、原則として医学的な意味以外での使用はしないで欲しい、ということになるでしょう。

さて、この類の問題はよくマスコミでも問題になりますし、これを契機に断筆宣言した作家もいたはずです。そんなことを言い出せば、日本で古来つかわれてきた的確な表現が消え去ってしまうじゃないか。古典落語は一体どうすりゃいいんだ。差別だ障害者への配慮だと言っていては、使う言葉さえなくなるじゃないか。まあそんな議論ですよね。

さて、こんな大きな問題の是非について論じる気などありませんが、私自身はどうかといえば、できるだけ自分ではその類の言葉は使用しないよう心がけています。正直、つい口をついて出ることもありますが、次からは特にその言葉は使わぬよう注意することにしています。上述した古典落語が云々、古来の言葉が云々、という問題以前に、やはりそんな言葉が不用意に(言ったり書いたりした本人はそうは思わなくても、障碍や病気に悩む人や家族には不用意だと感じられる)使われるのを耳にして堪えがたい不快感を覚える人がいることに配慮すべきである、という判断からです。

一般論ではいえないでしょうが、年代も大きく影響するのでしょうね。祖父の言葉にはドキッとすることしばしば、父はほとんど口にしない(何故か二歳年下の母はする)、姉、妹は皆無といっていいほど口にしない(時には言葉自体を知らない)。

野嵜様、あなたが使用されたのは「別に比喩じゃん」だと思います。ただ、余計なお世話だと思いますが、義珍さんは言葉少なに、ひょっとして上述したようなことを言いたいのではないかな、と思っただけのことです。あしからず。その類の表現の是非については、私は上述した立場です。

義珍さん、勝手なことを書き連ねましたが、あなたの主旨とは無縁のことだったかもしれません。そうであれば、ご容赦を。英語を借りれば、OK, just forget it!といったところでしょうか。


誰か答えてくださーい 投稿者:しょう  投稿日: 4月22日(月)09時25分39秒

誰か答えてください。内容はしたに投稿


言葉の善し悪し 投稿者:しょう  投稿日: 4月22日(月)08時52分33秒

みなさん若者言葉についてどう思いますか?


(無題) 投稿者:にゃ  投稿日: 4月22日(月)08時38分01秒

はい、その通りです。サイトの中はとても楽しく拝見させて頂いておりますが、こればかりは世間の誤解をさらに深めてしまいかねないかと危惧しております。関係者の方がご覧になれば胸を痛めるものがあるかと・・・


css誤リンク 投稿者:まきかずひこ  投稿日: 4月22日(月)00時40分57秒

はじめまして。まきかずひこと申します。
いつも闇黒日記(個人的には「やみくろにつき」)拝読しております。

さて、“「PC Tips」のHTMLに關する記事について”という記事
(http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/htmlcssintro.html)
が、CSSに正しくリンクしていないようなのでお知らせします。

ところで、Operaがcite属性を或る程度まともに解釈してくれたら
闇黒日記の閲覧もさらに快適なのに、と常々思っております。
いまさらMozillaをメインに使おうという気もしませんし。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 4月22日(月)00時30分37秒

まあ、そうなんですけど、比喩としてもあまり適当ではないんじゃないかと思ったので。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月21日(日)19時40分50秒

別に比喩表現ぢやん。


自閉症 投稿者:義珍  投稿日: 4月21日(日)01時29分23秒

もしかして、「自閉症」という言葉の使い方が間違っている、というツッコミではありませんか(違ったらごめんなさい)。
「自閉症」という言葉は「後天的かつ心因性の、コミュニケーションにおける不全」という意味で用いられることが多く、この文章でも、そういった意味で使われているように読めます。
しかし、医学的には、自閉症は「器質的な原因による先天的な障碍」とみなされています。


…… 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月21日(日)00時07分31秒

匿名掲示板の發言者は、コミュニケートをしてゐる積りで、實は全然コミュニケートをしてゐない、と云ふ意味です。

>匿名の假面の背後に自己を隱し、情報を一方的に發信する事は、果して眞のコミュニケーションと呼べるものだらうか。


??? 投稿者:にゃ  投稿日: 4月20日(土)20時41分21秒

http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/BBS/TokumeiMessage.html
>あなたは「自覺なき自閉症患者」となつてはゐまいか。

意味がよくわかりません???


あうう 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月20日(土)19時17分59秒

ドの附く方へ。囘答は「闇黒日記」に書きました。


Re:あうーっ 投稿者:赤シャツ  投稿日: 4月20日(土)19時09分45秒

人名「大野」と「小野」の発音は英語では「オウノウ」と同一になつてしまふといふ話を聞いた事があります。「Oh, no.」と同じ発音ですね。私の場合「あうーっ」といふのは余り馴染みがありませんが「あっ」でも、まあ同じ事でせう。日本語には「あ」と「あっ」の二種類があります。NHK教育テレビで外国人向けに日本語を教へる番組がありますが「あ、違います」といふのを教へてゐました。私は日本生れ日本育ちであり「あ」といふ国語をこのやうに明示的に或は正式に教はつた事が無く違和感がありましたが。ともあれ日本人が「あ」と「あっ」の意味における違ひ、発音における違ひをそれぞれ説明することは容易ですね。ところでこれを英語にするとどうなるか興味深いものです。つまり「あっ」をローマ字で表す方法は無いやうな気がします(「あ」と同じになつてしまふ)。或は英語「at」は「アト」「アット」とどちらに発音しても良いが、またそれを英語人が聞き分ける事は出切るが、表記し分ける事は出来ないのではないか。といふ事です。この辺の事は、やはり「音韻」といふ概念がポイントでせうか。『私の國語教室』に「椅子」の「す(su)」と「いただきます」の「す(s)」は発音は違ふが表記は一つだと書いてあり示唆に富む内容でした。



Re: 波江樣 投稿者:ペトロニウス  投稿日: 4月20日(土)00時58分02秒

此方ではご無沙汰してをります。

波江さんへの私信のやうですが、此処では私が戦前の法令の電子テキスト化した経験から述べます。
 
日本語には色々な文体がある。色々な言回しがある。此れは全く認める処です。其の中には、全く句読点の使はれない文体も在るのは事
実です。句読点が無くとも日本語の文章である事に変りはありません。疑問であれば『軍人勅諭』を見てやつて下さい。
唯、句読点を使はねばならない文体も在る事は解つてをります。さう云ふ処の書分けも必要かも知れません。


一言 投稿者:素人  投稿日: 4月19日(金)23時08分05秒

Mr.Noyori, please make it sure that Doshiroto differs from Shiroto.

Mr.Doshiroto, I don't like my name to be mixed up with others.
Could you kindly change yours to different one? If you don't like it, just let me
know . Maybe I will change mine to avoid possible troubles caused by mixing up
our similar names.


Thank you for your consideration .   

                           Sincerely, Shiroto


御指導賜りたく 投稿者:ド素人  投稿日: 4月19日(金)21時42分22秒

これは反論でも、批判でもありませぬ。インターネットなるオープン・システムの単なる一閲覧者として御指導を請ひます。

日本語に於て守られるべきものは、何故『日本語の原理である假名遣ひ』であり、『文體』や『用語』ではないのか、この点について御指導賜りたく思ひます。


所謂日本語の「横書き」について 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月19日(金)21時41分07秒

「日本語の横書きは右から左に文字が進む」と云ふ傳統がありまして、それを波江さんがやはり勘違ひして、變な既述をしていらつしやいます。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~namie/sub11.htm
に「る依に史歴の圖音十五 著氏雄孝田山」なる記述があります。これは異常な記述です。
何が異常なのかと波江さんは反論するかも知れませんが、もし波江さんのこの「表遷變圖音十五」を「縱書きブラウザ」で表示したらどうなるかを想像すればすぐに異常の異常なる所以は理解出來る筈です。「縱書きブラウザ」で「る依に史歴の圖音十五 著氏雄孝田山」は、「下から上」に文字が進行するやうに整形されます。
title要素に「sub11五十音圖變遷表」と「正しく」記述されてゐるのをみれば、波江さんが深く考へず、取敢ず見た目を何とかしようとしてゐる事は自明です。しかし、それは無駄な努力以外の何ものでもありません。

現状、Internet Explorer及びその他の多くのブラウザがデフォルトで、日本語の文章を「左から右」に文字が進むやうに整形します。しかし、Cascading Style Sheets level.2及びunicodeの仕樣に準據して作られてゐるブラウザでは、文字の進行方向をユーザスタイルシートで變更出來る筈です。制作者がスタイルシートで文字方向を指定してゐれば、その手のブラウザは制作者の意圖に從つて、文字方向もきちんと整形します。

また、bdo要素で文字表記の進行方向を指定する事も出來ます。

波江さんがさう云ふ正攻法をとらず、裏技的なやり方を用ゐてゐるのは、感心しません。技術的な問題を知つてゐて、承知で敢て裏技を用ゐるのならばまだ良いのですが、波江さんは單なる無知で裏技を用ゐてゐるに決つてゐます。
ウェブで「正しい國語のあり方」について論じたいならば、「正しいHTMLのあり方」についても知つておく必要があります。年齢を理由にテクノロジを知らうとしないのは知的怠惰であり、知的怠惰は即ち道徳的怠惰です。


波江樣 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月19日(金)21時23分48秒

句讀點くらゐは遣つたらどうかと思ひます。擬古文は止めるべきだと思ひます。
波江さんの正かなによる擬古文は、White中田氏の御氣に入るとは思ひますが、それゆゑ私は波江さんの文章に反感を覺えます。文體や用語、補助符號は、日本語の枝葉末節です。日本語に於て守られるべきものは、日本語の原理である假名遣ひです。或は、日本語には原則がある、と認める態度こそが大事なのだと、私は斷言します。見た目は問題ではありません。

と云ふ譯で、波江さんの「縱書きHTML」も、私は氣に入らない。「縱書きHTML」は、言語學的に正しくない代物です。HTMLの話で出て來た「リニアでフラットな構造」はもともと、自然言語に當嵌る表現です。言語による表現を、人間は頭から讀込み、順次解釋します。
HTMLでも話は同じです。ブラウザは、HTML文書を頭から讀込み、順次解釋します。ですから、自然言語をもとにマーク附けのなされたHTML文書も、頭から順次解釋して、意味の通るものでなければなりません。
しかし、「縱書きHTML」の文書は、頭から讀んでいくと、譯のわからないものとしか解釋出來ない代物です。「縱書き」に見える「縱書きHTML」は、データとしては出たら目な代物でしかあり得ません。そして、コンピュータの世界で、出たら目なデータは屑データと同義です。

>五十音図変遷表
http://www5a.biglobe.ne.jp/~namie/sub11.htm

勞作であるのはわかりますが、データとしてはプリントアウトしないと意味をなさない代物です。言換へると、データとして再利用し辛い代物です。「未来永劫に転移複写し続くるべきか」などと暢氣な事を言つて貰つては困ります。複寫も糞もない代物です。

>一枚の用紙に収まるやうにサイズを調節致しましたので

無意味なサーヴィスです。閲覽者の環境によつて「一枚」の意味は變化しますし、波江さんの考へる「適正」なサイズが、閲覽者にとつて適正である保證はありません。寧ろ、ああ云ふレイアウトを「決め打ち」されたデータこそ、印刷し辛いデータであると、私は思ひます。

私にしてみれば、自分で段組を設定したり、A4や文庫といつたサイズに自由に變更したりして再利用する事の出來ないデータは、全て糞データです。

波江さんも勘違ひしていらつしやるのですが、「縱書きHTML」と云ふ概念自體が間違つた概念です。日本語は縱書きで書くのが良いと考へるのは結構ですが、それを「縱書きHTML」なる小細工或は小手先のテクニックで實現しようとするのは、正しくありません。
「縱書きブラウザ」で「ウェブに於る日本語の縱書き」の問題は全て解決します。
解決は全て合理的になされるべきであり、現状に妥協して小手先のテクニックでごまかすのは、それこそ「現代かなづかい」の冒した過ちを繰返す事にほかなりません。「縱書きHTML」を使つてゐる時點で、波江さんのサイトは駄目なサイトです。

>月日の間にアラビア数字を挟む悪癖は止めたまへ太陰太陽暦の日付を注記するぐらゐの見識は保つこと

西歐の近代及びその合理主義を日本人は拒絶出來ないから、句讀點も、太陽暦も、現代の日本人は使はざるを得ません。
また、太陰暦とそれに從つた御祭は、日本人の生理にかなつたものです。それはわかつてはをります。が、西歐諸国と附合つて行く上で、日本人が太陽暦を採用したのはやむを得ません。
拜外主義も困つたものですが、排外主義も同じやうに困つたものです。

それから、波江さんの文體は、どう見ても居丈高で他人を見下したものです。「止めたまへ」も「保つこと」も居丈高な命令で、非常に不快です。

# と言ふか、波江さんの本當に守りたいものが正字正かなであると、私には思はれない。波江さんの守りたいものは、假名遣ひよりも文體なのではないか、と私は疑ふ。例の中田氏の裏返しが波江さんにほかならないのではないかと私は思つてゐる。

最後に。御自分のサイトの宣傳をあちこちの掲示板に書いて廻るのは止めるべきだと思ひます。單なる宣傳は、一番嫌はれる行爲です。


いまいま 投稿者:さっぱり★  投稿日: 4月19日(金)08時11分17秒

すみけんさんのいまいま(4月18日 18:00)で、「すみけんリソース!を斬る」について書かれています。
<q>すばらしい。パーフェクトな理解。パーフェクトな要約</q>
だそうで。


五十音図変遷表印刷保存の薦め 投稿者:波江究一  投稿日: 4月18日(木)21時50分53秒

五十音図の歴史と変化を一目瞭然の物とした変遷表を掲載してあります 今後如何なる
辞書にも必ず掲載さるべき物と存じ錯誤を訂正し一枚の用紙に収まるやうにサイズを
調節致しましたので諸君是非プリントアウトして机上の資料として下さい
著作権などいふけちな事は申しません 現在の表記の根拠となつてゐる内閣告示
の項は赤で表示してあります かかる文明の患部を未来永劫に転移複写し続くる
べきか即刻切除すべきか国民諸君よくよく思念あられたい

五十音図変遷表
http://www5a.biglobe.ne.jp/~namie/sub11.htm
追記
闇黒日記の日付表記 月日の間にアラビア数字を挟む悪癖は止めたまへ太陰太陽暦の
日付を注記するぐらゐの見識は保つこと 旧暦旧仮名 新暦新仮名といふ物言ひで解る
やうに閏月分の俸給支払を吝しんで改暦に走れる藩閥政府の愚挙が今に至る国語汚染の
淵源なり
貴君のリンクの少生の項に何やら苦情要望らしきこと書き添へてあるので当方からもやめて
ほしいことを申上げ置く
福田氏はもつと正直であつた 愚作示した上にて近代の文学作品なる物は日本人が日本語
で考へ日本語で書いた翻訳物に過ぎぬといふ結論を申し送れる所御説のとほり申し訳無い
と葉書寄越された
とまれ小生の忠告に従はぬ限り貴君等の運動も百年河清を待つが如き物と言ふべきなり


流星樣 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月18日(木)21時04分16秒

文章の内容についてはどうでも良いのですが。
松原先生關係のサイトの掲示板で、大阪辯の投稿を匿名ですると、「喧嘩を賣つてゐる」と關係者から看做されますので、御注意下さい。


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 4月18日(木)11時09分26秒

狐に関する件、誤訳、誤植についてのご教示、ありがとうございます。

生産的という言葉が不適だったのでしょうか。ヴァリアントを詳細に検討するという書誌学に代表される手法(これは自然科学の分野においても、今でこそちょっと廃れ気味のようですが、嘗ては有力なacademic strategyの一つであったこと、「科学史」なる、それこそちょっと非生産的にさえ思える講義で聴いたことがあります。尤も、非常勤講師の講義がおそろしく退屈だっただけで、科学史なる学問それ自体の持つ問題ではないかもしれません)が非生産的だなどとは努々思っておりません。アニメ云々については、全く不案内なのでノーコメントです。

古くなった記述や、新たに発見された事実がある際に、内容が訂正される。それは、とても生産的なことだと私には思われます。生産的という言葉が好きか、と言われるとそれほど好きではありません。どちらかというと嫌いであまり使いたくない。ただ、語彙の貧困さあって、適切な言葉が見つからなかっただけのことです。


ところで、こんなん出ましたぁ・・・ 投稿者:流星  投稿日: 4月17日(水)22時11分21秒

あのね、「とはずがたり」といふのが有りますやん。後深草上皇の愛人、中院源雅忠のむすめ二条が書いたとかいふ回想本ですう。

まあ、高校時代にはこれにはまったく難儀致しましたわ。別に古典がいややといふわけではありまへんでえ。(本音は堪忍して欲しいとことろやったね。主語のない文章を書くなど絶対に許さん。)なんで、こんなどーでもエーような告白本に付き合わされないかんのかと思ふと、ホンマに深い深いニヒリズムに陥ってしもうたといふことです。この程度の内容ならば、普通の女性週刊誌のゴシップ記事と変わりませんでえ。ちゃいますか。それを国語の教育現場で読ませるとは何事ですか。

まあ、こんなことを書くとまた暇な人達から一杯反論が来るんやろうな。エントロピー増大法則やな。

しかし、その後、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリという二人のフランス人哲学者の著作に出会ふにおよび、ちとは文学もおもろいもんじゃなあといふ気がしましたわい。
このシャレわかるゥ?

とはずがたり⇔ドゥルーズ&ガタリ

実によふ似てますがな。中身の深さ、そして濃さは月とすっぽんほどの違いほどありますけど。

ところで、二十世紀最大級の哲人、ドゥルーズとガタリは、諸機械といふ哲学的概念を考案し、世界が理念的、発展的に進化していくといふビジョンを完全に否定してもふた。でも、この二人の言ふてることはいつも明るくて楽しいんやね。

ところで、検索したらこんなHPが見つかりました。皆も活用してチョンマゲ。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/7132/new.html_001.htm


Re2: 補足・訂正  投稿者:羽織ゴロ助  投稿日: 4月17日(水)21時46分43秒

>でも、この場合の「あう」は、(現代仮名遣いで表記すれば)
>「おー」と発音するんじゃないでしょうか。

さうです。この「あう」は現代假名遣で表記するところの「おう」ですね。(歴史的假名遣においても「おう」)
二重母音[au]が[o]の長音に轉じて、それに引きずられて、表記も「おう」に變化したのか、或いは母音交代が起こつて「あう」から「おう」が派生したのかは良くわかりませんが、「あう」も「おう」も根源的には同じものと言へます。

さらにいふと、この「あう」と、現代假名遣で書く件の「あぅーっ」も歸するところは同じでせう。何が同じかといふと、要するにこれは、感動詞「あ」+「う」の複合語だらうと。
「あいや」といふのがありますね。「あいや、參りまする!」の「あいや」。これは何故「あひや」ではなく「あいや」と書くかといふと「あ」+「いや」が合さつたものだからださうです。[i]音を寫したから「い」なのではなく、「いや」の「い」だから「い」といふわけです。

今の人たちが「あうっ」だの「あうーっ」だのをどんな感じで使つてゐるか、ネット上の文章を見てまはつたのですが、(Google で「あうーっ」を檢索したら、2480件もヒットした)、一番目に付いたのは、「あうーっ、道に迷っちゃった」といふやうな困つた時や苦しい時に出すうなり聲としての使ひ方です。
辭典によれば、感動詞「う」には肯定・納得・承諾の聲の意の他に、うなり聲、力み聲・泣き聲の意があります。「あうーっ」の「う」は、「う」が持つ表意性(うなり、うめき)を繼承してゐると見なせば、「あ」+ 「う」の複合語といふ説は、一應なりたちさうです。
だとすれば、歴史的假名遣ひでも、「う」の表意性に從つて「あうーっ」は「あうーっ」になると思ひます。
(まァ、本當は、語として定着してゐるわけではないので、アウーッなどと書いたはうがいいんでせうけれど)


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月17日(水)20時06分31秒

http://www.bookreview.ne.jp/book.asp?isbn=4167258064
http://www.bookreview.ne.jp/book.asp?isbn=4166601989

>実名、教えていただけませんか。

「狐」の本名つて、何なのでせうね。

大森望氏いはく、氣附かなければその人にとつて誤譯は存在しないも同然だし、氣附いたら優越感に浸れるからその人にとつて誤譯は喜ばしいものであると、そのやうな事を言つてゐますが。

誤植や誤譯は、重版がかる際には屡々訂正されます。學術書等では、古くなつた記述や、新たに發見された事實がある際に、内容の改訂される事があります。
また、書物を扱ふ學問として、書誌學と云ふものがありまして、或書物のヴァリアントを非常に細かく調べ上げる事があります。一般人はそのやうな學問を「非生産的」と呼ぶかも知れません。
と言ふか、アニヲタのやつてゐる「アニメ評」の類は、大概非生産的ですがそれが何か。

「生産的」な學問ぐらゐ、怪しい學問は存在しません。


名うての書評家って誰? 投稿者:素人  投稿日: 4月17日(水)18時13分49秒

木村様、 不勉強で「活字中毒者」(何とも品性を欠く言葉ではあります)、名うての書評家とい言われてもさっぱり分かりません。誰のことですか。差支えなければ(支障あるからこそ、このような表現に留まっているのかもしれませんが、、、)実名、教えていただけませんか。


「活字中毒者」の御粗末 投稿者:木村貴  投稿日: 4月17日(水)01時22分23秒

>これが感動的なまでに明晰(めいせき)な記述で、一読すれば、表記の法則性として「歴史的かなづかひ」のほうがずっと合理的なことがよく分かる。
>たしかに名著。最近はインターネット上で、この本を「聖典」として「歴史的かなづかひ」を実践するサイトなどもいくつか出現しているようだ。ただ、それらがあまりおもしろくないのは、文章が「歴史的かなづかひ」にもたれかかっているのである。「歴史的かなづかひ」をはずすと、文章が倒れる。

福田恆存と云ふ權威はさすがに批判出來ないので、「『歴史的かなづかひ』を実践するサイト」にいちやもんをつけて勝つた氣になつてゐる。支離滅裂。この程度の人物が名うての書評家の一人と云ふのだから、現代日本の書評界の水準が知れる。


誤植について 投稿者:素人  投稿日: 4月17日(水)00時14分16秒

誤訳に関して、訳者本人の責任ではあるけれど、時代背景ぬきにして批判ばかりするのはいかがなものか、と書きました。誤植に関して言いますと、校正というものがいつごろからあったものか存じませんが、先般この掲示板で問題になって件に関して言えば校正がなかったはずもなく、当然ながら著者の責任は免れません。ただ、これだってやはり時代というものは考慮すべきでしょうね。その証拠というと語弊があるけれど、あの時代の著書は昨今の著書に比して明らかに誤植が多いようです。ただそんなことは詳細な検討をするに値しないから(無論、価値ありと思うなら、やってもかまいませんけれど)、「時代背景」として片付けるほかないでしょう。そんなことに関して責任追及したって何も生まれませんからね。

さて、そこで野嵜さんにおききします。誤植の多い著書について、著者が故人である場合、しかるべき方(例えばあなた)が校正を担当して、巻末に訂正箇所について注釈を書き記すというような事は許されないことでしょうか。誤植やら誤訳やら、そんなことばかりを指摘するクレイージーなことからは生産的なものは何も生まれてこないでしょう。そう思いませんか。


Re: 補足・訂正 投稿者:義珍  投稿日: 4月15日(月)21時29分21秒

でも、この場合の「あう」は、(現代仮名遣いで表記すれば)「おー」と発音するんじゃないでしょうか。
自分も自信ありませんが。


さらに訂正 投稿者:羽織ゴロ助  投稿日: 4月15日(月)19時44分15秒

「喝」を「渇」などと變換してゐる自分に、ふたたび喝!


補足・訂正 投稿者:羽織ゴロ助  投稿日: 4月15日(月)19時37分11秒

失禮。後で岩波古語辭典で調べたところ、過去の用例が、ちやんと載つてをりました。

>あう[感]
>@驚いたときや感動した時などに發する聲。
>「あう、そちはよい人ぞ」
>A應答する聲。
>「あう、その人の事ならば我らがよく存じたよ」


*最初に辭典を調べなかつた自分に、渇!


みずほ銀行 投稿者:赤シャツ  投稿日: 4月15日(月)06時59分01秒

みづほ銀行にしたら幸先が良くなるのではないか(笑)。

瑞穂(みづほ)‥‥みづみづしい稲の穂。

豊葦原之千秋長五百秋之水穂国。


無題 投稿者:羽織ゴロ助(Grayfox unLTD.)  投稿日: 4月14日(日)18時50分34秒

久々に立ち寄つたので、たまには書きこみの一つもしておかう。


>「あうーっ」いう叫びについてですが、どのように表記したら正字正かな的にvalidなのでしょうか。
>1. かなづかいの規則に従って「あふうつ」(?)と書く。
>2. 妥協して現代仮名遣い的に「あうーっ」と書く。
>3. かなよりも表音的なローマ字を用いて「AUH!」などと書く。
>4. そういった表現は避ける。

「あぅーっ」は「あぅーっ」でいいんぢやないでせうか。

「あ」は口を開いて出す聲、「ぅーっ」は口を閉ぢて出す聲、つまり「阿」「吽」の變化したものと考へられます。
「正字正かな的にvalidなの」かどうかは、過去の文獻に用例があるかないかで決定されるわけですが、この場合「あぅーっ」や「あふうつ」といふ用例はないものの、「阿吽」の歴史的假名遣ひ「あうん」は確定してゐるので、その變化形(あうん → あうーん → あぅーっ)ととらへれば宜しいかと。


あうーっ 投稿者:義珍  投稿日: 4月14日(日)02時33分53秒

「あうーっ」いう叫びについてですが、どのように表記したら正字正かな的にvalidなのでしょうか。

1. かなづかいの規則に従って「あふうつ」(?)と書く。
2. 妥協して現代仮名遣い的に「あうーっ」と書く。
3. かなよりも表音的なローマ字を用いて「AUH!」などと書く。
4. そういった表現は避ける。


「私の國語教室」 投稿者:zombifide  投稿日: 4月13日(土)03時35分24秒

當所は野嵜さんが正字正かなで書いておられるのは、つまりは嗜好・美意識の問題かな、と漠然と思つてゐたのですが、背景には主として合理があると言ふことを納得しました。


お知らせ 投稿者:Grayfox unLTD.  投稿日: 4月12日(金)23時08分03秒

○「こずゑ for Java」alpha 2 版 公開

Grayfox unLTD. は、歴史的假名遣對應IME「こずゑ for Java」の alpha 2 版の配布を開始しました。下記の Web サイトより入手可能です。

  <主な新機能、變更點>

■ 膠着語分析エンジンを強化。
■ 文節單位の漢字變換機能を追加。
■ キーボードと假想キーコードの對應を一部變更。
■ 連文節變換時の最適解の探索アルゴリズムを、バックトラック法から改良型幅優先探索法に變更。

http://home.interlink.or.jp/~grayfox/treetop/index.html


(無題) 投稿者:アラレ  投稿日: 4月12日(金)21時32分19秒

正かなを自分で実際に遣うと言う考えが今までなかったのですが、
ここに来てから考えが変りました。
考え方も、物凄く参考になります。
正かながまだ正しく使えないから間違うくらいなら普段の言葉で書こうと思ってそれすらも間違って書き込みしていて恥ずかしいと思って自分の書き込みを見ています。
そこに触れずにいてくれてありがたいです。


「竹」+「銭-金」=「せん」 投稿者:安祥寺  投稿日: 4月12日(金)08時45分36秒

昨日の朝日の朝刊で、変な漢字を見つけました。
処方箋の「箋」なのですが、「戔」が「銭−金」になっているのです。その「銭−金」には、「せん」と
フリガナがふってありました。
読者からの投稿の掲載でしたが、読者が、「銭-金」の「せん」を使うとは思えず、
朝日が作った漢字なんでしょうね。


仮名遣いと文体 投稿者:義珍  投稿日: 4月12日(金)06時27分00秒

「歴史的仮名遣いを使うなら、それに相応しい文章(文語体? 横文字を排した文章? 格調高い文章?)を書くべき」とか「現代の日本語を表すのに歴史的仮名遣いは相応しくない」と主張する人たちは、いわゆる「古典の名作」しか読んだことがないのでは。
つい五十数年前まで、ずいぶんくだけた文章でも歴史的仮名遣いで書かれていたことを知らないので、「歴史的仮名遣い=古びた文章」といった固定観念を抱いているような気がします。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月10日(水)06時17分34秒

アラレさん、擁護どうもです。ただ、testerさんのたれこみはただの無意味な情報ではないので、testerさんにも感謝。

文春文庫版の『私の國語教室』には、山のやうに誤植があります。本の誤植は猪川さんが專門ですが、『私の國語教室』の誤植もまとめて下さるとありがたいんですがねえ。

「Net Press」の件は「闇黒日記」でねたにしておきました。アクセスアップには「ちゆ」で採上げられるネタを扱ふのが良いみたいで。

マーク附けのミスもtypoと呼んで良いものなのでせうか。いつもどうもありがたうございます。


typo報告 投稿者:バリッドちゃん  投稿日: 4月 9日(火)23時27分41秒

<blockquote title="HP管理人の方へヒトコト" cite="http://yukiko.2y.net/dokuzetu44/hpnet.html">
のところでdl終了タグが欠けている様です。

NN4を簡易エラーチェカとして使うのは
あまり宜しくないのですが。

http://www6.vc-net.ne.jp/%7Eainosato/v-chan.html


「Net Press」について 投稿者:徳保隆夫  投稿日: 4月 9日(火)20時16分16秒

「Net Press」の記事がひどい自己矛盾を起こしている理由は簡単です。根幹記事の一部が「Webデザインテンプレート」というサイトのコピーだったりするのです。ついでに書きますと、サイト作成法の記事は「HP-DESIGN.NET」からの堂々たるコピーがまじっています。あちこちのサイトの記述の寄せ集めなので、あのようになっています。

さて、ご批判をいただいた件ですが、大筋で納得いたしました。少しずつご意見に沿った方向へ修正していくことになろうかと思います。

定義リストの忌避については簡単に理由を説明させていただきます。定義リストは定義されるべき言葉がまずあって、続いてそれについて説明する内容を考えた場合にふさわしいものだと考えています。見出しと段落の場合はこれとは異なり、段落の内容にふさわしい見出しを、あとから考えてもけっこうではないでしょうか。私は基本的に見出しを後から考えておりますので、定義リストを用いておりません。アドバイスの内容においても同様です。まずずらずらとアドバイスを書き、それを各見出しに割り振って再構成しています。定義リストとして、dt要素をまず念頭において説明の文章を書くという手順ではないのです。

また、見出しの中身がどーんと大きな段落になっており、形式段落が改行で作られているのも、執筆側の事情を正直に反映したものです。本来なら一段落ですっきり書きたいものが、筆力の不足により長々と書いてしまった結果、大変読みにくくなったので、適宜改行を入れている、ということであります。

最後に、いくらページビューとはいえカウンターの回りがよすぎるとは思っていたのですが、その理由が「ちゆ12歳」であることは闇黒日記で初めて知りました。どうもありがとうございました。


誤植? 投稿者:義珍  投稿日: 4月 9日(火)16時49分05秒

ここで訊くべきことではないかもしれませんが、『私の國語教室』文春文庫の323ページの11行目に「原文一致」とあるのは、文脈から判断しても「言文一致」の誤りではないかと思うのです。
これは組版の際に生じた誤植でしょうか。


>tester 投稿者:Noz Agent  投稿日: 4月 9日(火)14時07分56秒

讀み手が適切に理解出來ないのは、讀み手の讀解力のバグで、正字正かなの責任ではない。
読解力のバグを正字正かなのせゐだと言つてゐます。はつきり言つて、責任轉嫁です。


testerさんへ 投稿者:アラレ  投稿日: 4月 9日(火)10時59分25秒

私は半年前からこのサイトが好きです。
正かな使えはいけれど。


解放と開放 投稿者:義珍  投稿日: 4月 8日(月)20時05分58秒

何か理由があって使い分けておられるのでしょうか。


『私の國語教室』買ひました 投稿者:赤シャツ  投稿日: 4月 7日(日)19時58分27秒

いま読んでゐます。「素人」と書いてありまして一寸意外に思ひました。やはりシェイクスピアなどの方面が御専門なのでせうか。特に教育論などは考へさせられます。中身の濃い本です。皆様にも御薦めします。


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 4月 7日(日)16時54分36秒

思考というものを生理学的に捉えれば、それが言語だけに依存していないであろうことは、素人がちょっと考えただけでも納得できそうです。思考だって生物学的現象ですから、突き詰めていけば、他の生物学的現象同様にいくつかのファクター、ステップあって起こるに違いない。そのような生命科学的立場からすれば、思考が言葉だけに依存しているのではない、という証拠は沢山みつかるでしょう。しかし、だから「人間の思考を言語から開放せよ」というのが間違いではない、というのは論理のすりかえに過ぎません。思考という生物学的現象の様々なステップで、言葉に依存しない因子がいくつ介在しようが、言葉なしでは「思考」と呼ぶに値するものは生じ得ない。ですから、あえて主張するほどのことはない、のではなくて、思考を言葉から開放することなど不可能だと思います。念のため書き添えますが、思考を生理学的に捉えることの意義を云々するのではありませんよ。それはそれで、とても大切なことだと思います。


(無題) 投稿者:tester  投稿日: 4月 7日(日)15時44分50秒

http://pc.2ch.net/test/read.cgi/hp/1014869060/323-


解法のテクニック 投稿者:快報  投稿日: 4月 7日(日)01時24分28秒

確かに人間は言語を使って思考しますよね。だから、「人間の思考を言語から開放せよ」という洒落が成り立つんですね。それから、人間の思考活動が言語だけに依存していないことは、大脳生理学の分野で実証済みです。「人間の思考を言語から解放せよ」というのは間違いではありませんが、あえて主張するほどのことではありません。


老婆心 投稿者:素人  投稿日: 4月 6日(土)10時02分19秒

ええとですね、amazingの使用法が明らかに間違っています。それから、「人間の思考を言葉から開放せよ」など暴論もいいところ。野嵜さんのおっしゃるとおり、人間は言葉で思考します。だからこそ、言葉は大切にすべできあって、言葉から開放された思考が可能ならば、言葉本来の意義は大方うしなわれてしまうでしょう。アインシュタインはむろんのこと、amazingなどという簡単な言葉一つだって侮ってはいけません。


或は 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(土)03時10分52秒

自分で責任を引受けると言ふのなら、幾らでも轉載はやらかして下さい。その場合、轉載を行ふ主體の身許・聯絡先は必ず明かにして下さい。そして、苦情は全部引受けて下さい。

笑福亭 藤原定家さんは、聯絡先や身許を一切明かさず、私に責任を押附ける形で無斷轉載をやらかしてゐたので、不許可です。


書誌データにもcopyrightはあるので 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(土)03時03分58秒

匿名で轉載をして貰ふと、掲示板の「借り手」である私に苦情が來かねません。
やめておいて下さい。


と言ふか 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(土)01時01分47秒

コピペ荒し禁止。

http://www.nakayama.org/polylogos/philosophers/wittgenstein-papers.html


ウィトゲンシュタインの研究サイトを作つて下さい 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(土)00時51分01秒

ウィトゲンシュタインを偏愛するのもいかがなものかと思ひますがー。と言ふか、他人のサイトの掲示板に書くやうな内容ではないと思ひますがー。しつこいでーす。

「人間の思考を言語から解放せよ」なんて無理です。人間は言語で思考します。

>話は変わりますが、以前、このサイトの書き込みにおいて、『明治時代において使われたような仮名遣いを使わぬ者は、日本文化を理解していない』かの如き趣旨の非常に傲慢な主張を見かけました。

確かにその通りで、現代の日本人は現代の日本語に基いて文章を書けばよろしい。ただ、、「現代仮名遣い」は、現代の日本語に基いたかなづかひではありませんから、使ふべきではありません。


(無題) 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 6日(土)00時18分31秒

他人樣の記事を無斷で轉載してゐるので削除。


(無題) 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 6日(土)00時15分24秒

他人樣の記事を無斷で轉載してゐるので削除。


そうなんです。 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 6日(土)00時09分47秒

実はそうなんです。

明治時代の仮名遣いを偏愛する者などを含め、こういった代物を盲目的に標榜する輩はすべて危険であります。

だからそこ、ヴィトケンシュタインということになるわけです。

言語を文学や政治から解放せよ! そして、人間の思考を言語から解放せよ!という訳です。



(無題) 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 6日(土)00時04分49秒

Yes! You are correct!

That's an amazing book.


『富士宮下文書』『東日流外三郡誌』 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(土)00時00分23秒

いづれも「トンデモ本」です。

『東日流外三郡誌』が僞書であることは、右翼雜誌「ゼンボウ」が熱心に主張してゐました。


『秀真伝』 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 5日(金)23時56分06秒

あれは「トンデモ本」です。


次回は・・・ 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 5日(金)23時53分08秒

別に怪しげなことを申し上げやうとしているのではありませぬ。

次回以降は、『富士宮下文書』、『東日流外三郡誌』などについて語ろうかと思ひます。

言の葉を愛す皆々様、これらの古文書の研究にお励みください。


こころ、ほつまとなるときは・・・ 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 5日(金)23時48分24秒

『秀真伝』に関するサイトを紹介しておきます。

http://www3.justnet.ne.jp/~ky24730/1/hifum/hifum4.htm

http://www.age.ne.jp/x/oohashi/66hotuma.htm

http://www.d1.dion.ne.jp/~kintarou/hotuma3.htm


まずは当たり前のことから・・・ 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 5日(金)23時39分04秒

素人様のご熱心さには感服いたしました。

別に理学的、工学的なエピステーメーに頼らずとも、印象批評から脱却する方法はこの世にいくらでもあろうかと推察いたします。ゆっくりと、楽しみながら物を考えていきませう。今後ともどうぞよろしゅう。

話は変わりますが、以前、このサイトの書き込みにおいて、『明治時代において使われたような仮名遣いを使わぬ者は、日本文化を理解していない』かの如き趣旨の非常に傲慢な主張を見かけました。

そのような主張をした方、あるいは潜在的にそのような錯覚に惹かれる向きは、何やら非常に浅薄なエスノセントリシズムに陥っているに過ぎぬやうに思ひます。もし、さう主張されるのであれば、明治の仮名遣いの使用すら止め、秀真文字(ホツマ文字)を使用すべきであろうかと思ひます。もし、ホツマ文字の何たるかも知らぬようであるならば、中臣氏家伝書『秀真伝』(ホツマツタエ)の読解から始められたい。

中臣氏家伝書『秀真伝』に残る秀真文字こそが「かな」の真の起源であり、漢字を崩して「かな」を作ったなどというこじつけが定説になっているからこそ、このような傲慢な主張がなされるのであろう。

万葉記紀だけでなく、『秀真伝』こそを歴史家は研究すべきであろう。


ミスタイプだらけ、、 投稿者:素人  投稿日: 4月 5日(金)23時13分10秒

物理を勉強した後で、ミスタイプが沢山ありました。お許しを。


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 4月 5日(金)23時11分29秒

確かに、1964年、河出書房版は誤訳が多くて理解不能の箇所がありますよね。これは集英社の新訳では大幅に改善されています。下訳の点検をしっかりしなかったことはあるでしょう。ただ、一つ忘れてならないのは、1964年に日本人が訳したものを今現在のチェックする場合、訳者の側にははかなりハのンディキャップがあるということですよね。かつてcerealには穀物という意味しかないと考えたか、「朝食に穀物を食べた」とか何とかトンチンカンな訳をした方(翻訳者としても、かなり高名な方だったはず)もいましたよね。今や、シリアルと言えばそれがコーンフレイクを指すこと、子供でも分かります。でも、この誤訳は訳された時代を考慮すれば止むを得ないんでしょうね。後は、柴田元幸さんにして誤訳は避けようがない、と言っています。事実、誤訳を発見しようと思えば、その作業はさほど難しくありません。数学や物理はできなくても、英語なら少しは出来る私でさえ、翻訳せよと言われても出来るはずもありませんが、誤訳を見つけよと言われれば、柴田さんの訳本だって簡単です。その気になれば(なりませんけれどね、つまらないから)、たちどころに見つかります。

それはさておき、物理学の本を持ち出してアインシュタインの勉強を開始しましたが、これは駄目です。DNAの欠陥があって、分かりません。努力の及ばぬ領域です。理系の才能を欠く者がアインシュタインを理解しようなどと思った日には、印象批評どころか、全くの知ったかぶりで終わってしまいますね。もう止めにして寝ます。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 5日(金)21時35分48秒

<引用 http://www.tomita.net/tboard/tboard003.cgi 富田 靖 Re:Re:未完
(投稿日) 2002年03月11日>
「大衆決断」というHPにこんなことが書いてありました。

小田誠也による「丸谷才一の『ユリシーズ』は"超訳"だった」が載った『宝島30』94年4月号を買う。「"超訳"」は『ユリシーズ』の丸谷才一による訳文と原文を徹底的に比較して、丸谷氏のミスを指摘していくという内容。これが結構すごい。

「九つの足もて駆ける者のこの当意即妙な提案は……」(P390)
 九本の足を持った人物とは一体どんな姿をしているのだろう? しかもその足で駆けるとは! まったく想像を絶する訳文である。訳者は何も不思議に思わなかったのだろうか。原文で「九つの足」に相当すると思われるのはninefooterなのだが、これは単に「身長が9フィート」という意味にすぎない。

劇や神話に登場する固有名詞や、実在する作家や商品、会社名が山のように登場するところも『ユリシーズ』の面白さの一つなのだが、丸谷氏は、固有名詞をそれと気づかずに訳してしまう間違いをあちこちで犯している。
「彼は自分用の蓋つき茶碗、山高のダービー帽のかたちをした茶碗にお茶を注ぎながら微笑を浮かべた。」(P77)
(原文略)
「山高帽の形をした茶碗」とは面白いが、crown Derbyといったら、英国王室御用達の由緒ある陶器メーカーのことである。

こんな調子で次々と誤訳が指摘される。裏づけを得るために元ジョイス学会会長やダブリン大学の教授に疑問をぶつけたり、ダブリンの街を30回前後おとずれて歩き回ったりと氏の努力は並みじゃないのだが、結局誤訳と思われる箇所は全体で百五十箇所以上見つかったという。権威者としての丸谷氏を彼の翻訳を通して批判するという仕事は意義のあるものだが、『宝島30』という非アカデミックな場所で、一会社員が為したこの告発を、当時の英文学界はどう受け止めたのだろう。また、小田氏は明言していないが、これは丸谷氏の翻訳ミスというよりも、彼が下訳の点検を徹底しなかったことにあるのではないだろうか(よく判らんけど)。
</引用>


re:FAQ読後感 投稿者:赤シャツ  投稿日: 4月 5日(金)17時16分42秒

>「萬葉假名」の項で對應可能なのではないかと。

野嵜様、有難う御座いました。参照させていただきます。


『教養講座』のこと 投稿者:高坂  投稿日: 4月 5日(金)17時15分54秒

野嵜さん、お久しぶりです。
ちよつと宣伝をさせて下さい。
やうやく弊誌別冊としての文化論集の原稿が集まり、昭和節の日付で刊行したいと思つてゐます。九篇のうち正かなの論文は三篇です。今回は活字フォントの不統一の問題があり、正字には対応できませんでした。私は正かなで「マンガ学とは何か」といふエッセイを書いてゐます。弊誌ホームページに文化論集の詳細を掲載してをりますので、これをご覧の方で関心を持たれた方はご連絡下さい。
どうも失礼致しました。

http://www8.plala.or.jp/Kusimitama/


訂正 投稿者:素人  投稿日: 4月 4日(木)16時12分07秒

「駄目なのということで、、、」は、「駄目ということで」の誤りでした。


(無題) 投稿者:素人  投稿日: 4月 4日(木)16時06分24秒

文学を個々の作品レヴェルで捉えるのではなくて、文学が成立してきた認識論的背景の中での位置づけを考えなければ、ただ単に読んだ読まないの問題に終始するであろうし、読後も印象批評の域を出ないであろう。そういうことですよね。そういう認識は誰しも持ってはいるのでしょうけれど、何からどうアプローチすれば印象批評から抜けられるか分からないんですよね。先ずは、お奨めの沢山の本、少しずつ読むことに致します。

ところで、理科系に進んだのは友人たちで、数学(特にIIIc)と物理の出来なかった私は、不本意ながらに文科系に進んだ者の一人(この選択自体、問題ですよね。でも、入れてくれないところには行けませんもの)。という訳で、アインシュタインと言われると困るんですよね。質量とエネルギーの等価性、互換性を示したという程度の認識しかありません。どう考えても、アインシュタインを理解することなど私には出来そうにもありません。そうなると、何をするにも数学、物理ができない人間は駄目なのということでしょうか。困ったな。

ええと、それから長野県知事の田中さんでしたか、これは読んだことがないので分かりませんが、その更に下を行くのが印象批評である、印象批評は既に負け犬である、とまあこういうことですよね。どこまでが印象批評の範疇に入るのか、分かりませんが、脱出したいものです。


re:FAQ読後感 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 4日(木)13時39分02秒

「萬葉假名」の項で對應可能なのではないかと。


FAQ読後感 投稿者:赤シャツ  投稿日: 4月 4日(木)07時21分36秒

或る新字論者から、「あ」は略字であり正字は「安」、「い」も略字であり正字は「以」である、正字論者は何故平仮名(及びカタカナ)を使ふのか、をかしいぢやないか。といふ反論がありました。さう云はれて見ると確かにさう云ふ気もして来ます。また意表を突いた見事な質問といふ気もして来ます。此の質問もFAQとして是非御加へになつては如何かと感じました次第です。

実は斯く申します私も初心者故、考へた事の未だ無い質問であり、今一つ解らないのです。御答へを頂けましたら幸ひです。



(無題) 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 3日(水)23時45分03秒

他人樣の記事を無斷で轉載してゐるので削除。


私に底知れぬ衝撃を与えた書など・・・ 投稿者:笑福亭 藤原定家  投稿日: 4月 3日(水)23時43分48秒

素人様、手前味噌で誠に申し訳ございませんが、私に衝撃を与えた書を紹介させていただきます。

「ケンブリッジ・クインテット」ジョン・L・キャスティ著 藤原正彦・美子訳 新潮クレスト・ブック 定価一千九百円也

この小説は、一九四九年の英国ケンブリッジに五人の知的巨人達が集まり、数日間にまたがる晩餐会にて人工知能の可能性について議論するというふ仮想的な舞台設定となっております。そのなかの一人にWittgensteinがおります。また、登場人物のなかにはチュ−リングという数学者もおりますが、この人物もWittgensteinにひけを取らぬなかなか面白い大思想家であります。理工系の方であれば、この人物の業績を恐らくご存知でありましょう。

その他、この小説とは関係有りませんが、興味のある人物として、不完全定理を証明した偉大な数学者ゲーデルがおります。実はゲーデルは、アインシュタインの提示した一般相対性理論における宇宙方程式に関し、非常に奇妙なある解を発見したという業績を残しております。その解は、回転宇宙解と呼ばれており、我々の住む宇宙はいずれ再び全く同じ状態(時間・空間ともに完全に同じ状態)に戻ってくるということになっております。一般相対性理論が正しいと仮定する限り、この解の妥当性も否定することはできませぬ。すなわち、ニーチェのいふ「永劫回帰」といふことが成立するわけです。私自身は、このような事態を全く信じては居りませぬが、そのアイディアによれば、私がこうやってこのサイトに書き込むのも、素人様がレスを下さるのもすべて宇宙方程式の解に従った永劫回帰の一環に他なりませぬ(爆笑)。

さらにもう一冊衝撃を与えてくれた書をあげさせていただきますと、「日本近代文学の起源」柄谷行人著があります。これなどは、文学を個々の作品として捉えるのではなく、文学というもの事態がどのような認識論的背景のうえで成立してきたかを論じております。

ついでながら、このサイトの書き込み内容について敢へて個人的な意見を申し上げさえていただきますと、ミッシェル・フーコーのいうようふなエピステモロジー的な観点に立った書き込みがこれまで非常に少なく、多少残念であります。笑福亭こと藤原定家としたしましては、印象批評は小中学校の感想文レヴェルの世界、思想的にはすでに敗北し終わった世界、あるいはこれから永久に終わらせるべき世界であります。

印象批評を肯定するくらいであるならば、長野県知事、田中康夫氏がかつて書きまくった感覚的かつ低俗な小説の方こそを良しといたしたいと思ひます。

敢へてこの一般論としてボヤいてしまいました。お許し有れ。


予想的中せず。 投稿者:素人  投稿日: 4月 3日(水)16時23分24秒

カフカ、答を聞けばなるほどと思ったものの、予想的中せず。ちょっとすかされたような気がしないでもありません。無論、スタンダール、フローベール、モーパッサン、バルザックなどはあり得ぬと。ミラン・クンデラだって到底考えられないし、ガルシア・マルケスもないであろう。カズオ・イシグロもない。サリンジャーなどとんでもない。などなど考えあぐねた結果、候補として頭の中にあったのは、アンドレ・ジイド、トマス・マン。脈絡がないと言われるかもしれないけれど、邦人では辻邦生と福永武彦。いずれもペケでした。

カフカと言われて、ウーン、納得したようなしないような。コメントを拝読しても、筆致さえいつもと異なっていて、別人から返事を聞かされているような(念のため書き添えますが、疑っているわけではありませんよ)。実は、そのカフカ、池内紀訳になる全集で読み返したばかりですが、やはりよかったですねえ。無論、出版社が言うように、池内さんの手によって以前の訳本より数段面白いかというと、そんなことはない。以前の訳本で読んだって面白いし、作品によっては池内流の解釈によって切れ切れの原稿の順番を入れ替えが敢行され、従来とは構成が異なる今回の全集ですが、それはそれで面白い。

ともかく、お返事賜わり、ありがとうございました。今日もまたグレアム・グリーンの「情事の終わり」を読み返したり(何度読めば気がすむことか、そんなもの何度読んだって何の役にもたたないよ、と笑われそうですが、、、)、ちょっと飽きると坪内祐三の「ストリートワイズ」「古くさいぞ私は」を開いたりして夕刻を迎えます。意を決して、Wittgensteinに取り掛かるべき時なのですが、、、。また、しょうもない質問をすることがあろうかと思いますが、その折には素人にも分かるように(他人の頭の悪さに責任が持てるか、とこれまた叱責されそうですが)教えてください。


とりとめもなく・・・ 投稿者:藤原定家  投稿日: 4月 2日(火)23時31分24秒

嗚呼、素人様、とりとめもない書き込みをお許しください。それにしても、「素人」とはなかなか粋なペンネームですわい。

もし、私がカフカとお答へしたら、素人様は驚かれるのでありましょうか。それとも「予想的中!」と膝を叩かれるのでありましょうか。ただ、カフカの「城」については多少残念に思ふ点があります。主人公の「K」は、つべこべ御託を並べず単純にその「城」を爆破すべきだったのではないでしょうか(笑)。決してこの発想を笑ってはなりません。現代の混迷せる中東情勢は、このメンタリティを通じてこそ理解できると思ふからであります。

かつては三島由紀夫に惹かれたこともあります。故人の行動を批判することは控へたいと思ひますが、自衛隊を撹乱するといふ反乱にも近い同氏の最期の行動は日本人として非常に残念に思ひます。むしろ、もうしばらく生き長らへ、ノーベル文学賞の授賞式においていきなり自決していただきたかったと思ひます。

話をカフカに戻しますと、「変身」についてでありますが、いきなり虫になっているのではなく、鈴木宗雄的存在になっていたといふ設定こそが、これからの新人作家にとっては重要であろふかと思ひます。

他人樣の記事を無斷で轉載してゐるので削除。


読んでみます 投稿者:素人  投稿日: 4月 2日(火)11時46分06秒

高校時代、Wittgensteinが好きな友達が二人いて、その頃はクラスで論理哲学論考がちょっとしたブームでした。彼らは分かっていたんでしょうけれど、大半は私のように訳も分からず読んでいたんだろうと思います。いずれも理科系(東工大と京大理学部)へ進んだので、最近は疎遠になってしまい、同時に私もWittgensteinとも無縁になりました。坪内さんの言うレヴェルよりずっと低いところで、ただ楽しむための読書ばかりしてきた私の頭が、極めてlogicalな思考、思索をfollowできるか否か、こころもとないところではありますが、お奨めに従って、挑戦します。正直、その一方で、小説を読むのにそれほど高度な論理的思索が果たして必要なのだろうか、と思わなくもありません。芸術と道徳、芸術と倫理が云々、という観点さえ今の私には理解不能です。Wittgensteinを熟読し、何かを掴んだ時には、それが分かるのでしょうか。ところで、小説をお読みになることがありましょうか。お読みになるようでしたら、好きな作家、好きな作品などお教え願えませんか(今、頭の中で何人が描いておりますが、これも外れるような予感が、、、)。


(無題) 投稿者:藤原定家  投稿日: 4月 1日(月)23時32分29秒

ウィトゲンシュタイン論文リスト



他人樣の記事を無斷で轉載してゐるので削除。


蛇足的追伸 投稿者:素人  投稿日: 4月 1日(月)10時56分54秒

些事ながら書き添えますと、むろん大岡信の言葉をそのまま信用しているわけではありません。やはり歌をものしたというご尊父が揃えた膨大な蔵書(いずれも精選されたものに違いないでしょう。選書も何も、賢人のフィルターにかけられた本に囲まれた少年時代を送った訳ですよね)に囲まれて育った人ですし、DNAだって優れているに違いない。そんな方の言う事を、凡人が字義通りに信じていてはどうなることやら。

ついでに些事をもう一つ。前回の投稿の訂正です。下から二行目、「真面目の」は「真面目に」の誤りです。