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掲示板ログ(2003-04)

言葉 言葉 言葉 掲示板


ありがたうございます 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月29日(火)21時11分43秒

つつつつつこみ早過ぎ。
これだからうちの讀者は侮れない。


(無題) 投稿者:八郎  投稿日: 4月29日(火)21時02分31秒

闇黒日記の「メール遣いに大切なこと」の記事、4月29日だと思います。


戦後の國語改悪 投稿者:餘談  投稿日: 4月29日(火)20時21分23秒

この掲示板の皆様に一つお尋ねしたい事があります。
戰後の國語改悪が如何にでたらめな物であるかは、福田先生の『私の國語教室』を讀んで納得させられたのですが、讀んでゐて一つだけ判らない事があります。福田さんを初めとする國語改悪反対者の意見は、どう考えても筋が通つてゐます。それを押し切つてまで、國語改悪を行ふ理由とは、一体何だつたのでせうか。


拡張ヘボン式 投稿者:上西俊雄  投稿日: 4月28日(月)17時00分20秒

正字正かなづかいを実践してはいませんが、戦後の國語行政が伝統を軽んじて実用を重んじたことは、その実用の点からして間違っていたと思うものです。
判りやすい例は四仮名で、ヂヅジズをザ行だけに整理しようとしたことは、仮名の能力を不必要に削ってしまったわけで、これが逆にローマ字の表音文字としての理解を妨げ、英語習得における日本人特有の問題を惹起していると見ることができるのです。先般「拡張ヘボン式の提唱」なる一文を発表いたしました。読んでいただければ幸いです.現在halcat.comのローマ字資料室のヘボン式系統の中に納めてあります

このこと、前に一度投稿しているかもしれませんが...


憧憬 投稿者:素人  投稿日: 4月23日(水)12時00分18秒

言質を「げんしつ」と読んでもかまわない、というようなことを提唱する人が文学部教授を生業としているとは驚きです。ところで私は、憧憬を「どうけい」と読むことにも抵抗を覚えるますが、あれは「しょうけい」でなくても構わないのでしょうか。


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 4月22日(火)21時47分38秒

具体的に、こういう環境だとここが見づらい、と書けばよいのに。

もうちょっと『人に読まれる』ってことを意識して書いて欲しいです……。
編集済


 投稿者:  投稿日: 4月22日(火)14時52分23秒

もうちょっと『人に見られる』ってことを意識して作って欲しいです・・・。
ちょっとだけ見難いです・・・。


ありゃ 投稿者:toka3aki@薩摩隼人は泣きの竜  投稿日: 4月20日(日)22時23分23秒

私が示したIPの「かな正」とは、偽者だったわけですね。。。

本物の「かな正」さん(?)には、悪いことをしました。

http://homepage2.nifty.com/toka3aki/


波江氏情報 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月20日(日)18時33分21秒

波江氏の掲示板に「閉鎖勧告 投稿者:告発者 投稿日: 4月20日(日)17時56分40秒」なる投稿が。

>あなたはteacup掲示板規約に違反しています。
>>第11条(設備等)
>>会員は、本サービスを利用するために必要な通信機器、ソフトウェア、その他これらに付随して必要となるすべての機器の準備、設置、設定を、自己の費用と責任において行い、本サービスを利用可能な状態に置くものとします。また、自己の費用と責任で、任意のインターネット接続サービスを経由して本サービスに接続するものとします。
>あなたは自分の通信機器を持たず、自分のメールアドレスを持たず、店頭の売り物のパソコンや図書館の調べ物用のパソコンを使って掲示板への書き込み・管理などを行なっています。

で、下の「かな正」氏の投稿、元の文章を改竄してゐます。
編集済

http://www.poekai.net/poetjp/toukou/toukou1_2/anthologys.cgi?action=html2&key=20030418124516&log=2003042008


と言ふか 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月20日(日)15時42分42秒

>難癖のための難癖は大火傷するだけですよ。

この贋野嵜氏、口調を見ると、露骨に波江氏ですね。
編集済


多分別口でしょう。 投稿者:toka3aki@薩摩隼人は泣きの竜  投稿日: 4月19日(土)22時08分19秒

「義」は、niftyとプロパイダ契約している者です。

「かな正」は、東北のローカルなプロパイダと契約している人なのでしょう。


Domain Information: [ドメイン情報]
[Domain Name] BSTREAM.JP

[登録者名] 東北インフォメーション・システムズ株式会社
[Registrant] Tohoku Information Systems Company,Incorporated

[Name Server] ns1.bstream.jp
[Name Server] ns2.bstream.jp

[登録年月日] 2001/11/26
[有効期限] 2003/11/30
[状態] Active
[最終更新] 2002/12/01 00:30:00 (JST)

Contact Information: [公開連絡窓口]
[名前] 東北インフォメーション・システムズ株式会社
[Name] Tohoku Information Systems Company,Incorporated
[Email] taka-s@tinet-i.ne.jp
[Email] m-sira@tinet-i.ne.jp
[郵便番号] 980-0021
[住所] 宮城県仙台市青葉区中央二丁目
9番10号
[Postal Address] 2-9-10 Chuou,Aoba-ku,
Sendai-city,Miyagi-pref
[電話番号] 022-799-5555
[FAX番号] 022-799-5561

http://homepage2.nifty.com/toka3aki/


なんか 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月19日(土)18時38分00秒

またデマを流してゐる人がゐるやうですね。困つたものです。

デマと言ふか、騙り。多分、「義」でせう。
編集済


(無題) 投稿者:かな正  投稿日: 4月19日(土)11時15分43秒

>福光さん。野嵜氏が放火魔かどうかは知りませんが、「マルチポスター」であり、「スパマー」であり、「掲示板の荒らし」であることは確かです。要するに、ネットの不届き者です。詳しくは作者名の下のURLをクリックしてみてね。 かな正 ■2003-04-18 20:51:26
通り魔無事逮捕。何が無事なものか。正田邸は明治村か新しく岐阜かなんかに出来た昭和村にでも移してあげればよかったのにね Fe ■2003-04-18 18:32:14
野嵜さんという人、放火魔ですか? 福光 ■2003-04-18 17:44:16
この人は批判されると「火傷するぞ」と、人を脅迫します かな正 ■2003-04-18 17:39:58
難癖のための難癖は大火傷するだけですよ。 野嵜 ■2003-04-18 17:08:34
例によつて支離滅裂 かな正 ■2003-04-18 15:22:18


交感神経緊張状態 投稿者:素人  投稿日: 4月19日(土)00時06分16秒

専門家の方がノルアドレナリンが放出され云々と述べていらっしゃるように、鳥肌がたつのは交感神経緊張状態によってもたらされる現象なんでしょう。そうであれば恐怖、嫌悪と同様に「質の低い感動」であろうが「質の高い感動」であろうが、感動さえすれば交感神経緊張状態になるのですから、その時に鳥肌が立っても不思議ではありません。つまり副交感神経と交感神経の拮抗作用によるバランスの問題ですから、その緊張をもたらす刺激の種類とか、それによって人間が覚える感動の質などとは無関係な生物学的な現象に過ぎないのではありませんか。見ている現象は鳥肌が立つというような自律神経によってもたらされる現象ですから、それ自体は質の低い現象といっていえなくもないでしょうが、それをもたらす原因となった感動の質とは無関係だと思うのです。ましてや、その感動をもたらした刺激とは全く関係ないことだと思います。モーツアルトの40番、松井のホームラン、格闘技など、何に感動を覚えようとも、それに随伴する交感神経緊張状態によって起こる生物現象には差異がないとでしょう。

ですから「鳥肌が立つような感動を覚えた」などという表現は、「感動した」というのと大差ない実に稚拙な表現だと思います。
編集済


鳥肌 投稿者:義珍  投稿日: 4月17日(木)23時08分38秒

音楽や文学などを鑑賞していて、立毛筋反射(医学用語ではこういうようです。下記のページを参照のこと)が起きた、あるいはそれに近い状態になった、という体験は、俺にも何度かあります。
それは、けっして、恐怖や嫌悪のような不快な感覚ではありませんでした。しかし、そのときの自分の心理状態を思い出してみると、単に驚いたときの感覚に一番近かったような気がします。よって、「鳥肌が立つような感動」というのは、所詮、ただびっくりしているだけの、質の低い感動だということになるかもしれません。

http://www.acma.or.jp/kaihou/pen/pen152.html


印欧語族分類表 投稿者:死郎  投稿日: 4月17日(木)01時35分12秒

> http://www1.sphere.ne.jp/rthunder/master/discovery1st/indo-european.htm

 この表ですが、かなり間違いがありますね。

> ベータ語

 ヴェーダ語。『ヴ』の表記を使わないにしても、タとダの違いは大きい。

> パーリー=プラークリット諸方言

 パーリ。短母音なので伸ばさない。

> アパブランシア

 間違いじゃないけど『アパブランシャ』のほうが一般的。

> ラマーティー語

 マラーティー。

 僕がわかるインドのとこだけでもこれだけおかしな表記があるんで、他もかなり怪しい気が
します。

http://home3.highway.ne.jp/~shirou/


(無題) 投稿者:嘴細鴉  投稿日: 4月16日(水)19時31分57秒

確かにさういふ亊はあるでせうね、さう簡單に歴史の中で培はれてきたもが、或る日突然別の物に變わつてしまふといふのも考へにくいですから

私は野嵜さんのサイトで紹介されてゐる所から波及して結構興味深い物に出くはすと亊が多いのです、最近面白いと思つたのは.東洋思想といふもの根柢にインドといふ圀がありますが、インド人はインドヨーロッパ語族で言語的に辿れば古代ギリシャ語と類似してゐるらしいですね、日本語といふのは孤獨語といふジャンルに屬するらしいですが、http://www1.sphere.ne.jp/rthunder/master/discovery1st/indo-european.htm


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月16日(水)07時34分52秒

>嘴細鴉さん

クリスチャンは別に教會に通ふアクティヴな信者に限定される譯でもないでせう。日本の佛教徒が寺の檀家の人間に限定されるかと言へばさうではないやうに。現實に、教會の權威が昔より低下してゐるにしても、西歐の文化は依然、キリスト教の文化なのであつて、キリスト教的なものの見方・考へ方は相變らず、一般的であると言つて良いと思ひます。
そして、さう云ふキリスト教文化の根柢に存在するのが、Godと云ふ觀念――絶對者の觀念――であり、この絶對的な觀念は、ニーチェに死を宣告されたり、マルクスにそもそもの存在を否定されたりしながら、それゆゑに却つて強固な觀念である事を實證してをり、また、今も實證し續けてゐると私は思ひます。


坪内さんの文章 投稿者:木村貴  投稿日: 4月16日(水)02時57分59秒

>坪内祐三編『「文藝春秋」八十年傑作選』の「編集だより」、正かなで書かれてゐる。

立讀みで確認しました。何だか戰前の文章を眞似たやうな一種の擬古文で、しかもそれが一貫してゐなくて、坪内さん自身が揶揄する「コスプレ」とは、このやうな文章の事ではないかとガッカリしました。

坪内さんは政治について淺薄な事を云はないところが救ひですが、私はどうも食ひ足りません。最近創刊された新潮新書の『新書百選』を、これも立讀みしましたが、大學何年の時にどこそこの何々と云ふ本屋で誰それの本を買つた、讀んだらこんな件りがあつて(引用)、凄いと思つた、と云ふ例の調子。しかし、その本のどこがどのやうに凄いのか、それが傳はつて來ない。或いは、それがそんなに凄い事なのか、と思つて仕舞ふ。言過ぎかもしれませんが、坪内さんは、他人の言葉に假託して語るに値する思想が乏しい人なのではないか、と感じてゐます。


(無題) 投稿者:嘴細鴉  投稿日: 4月15日(火)22時00分03秒

>西歐のクリスチャンは、「どんな事があつても間違へない觀念的な存在」と云ふ設定の「イデア」であるGodを持つてゐます。このGodは「絶對的な觀念」であり、そのもつとも優れた例だと思ひます。

私も觀念上そのように思っておりましたが、數年間以前西歐にいた亊があるのですが、そうでもないようです、協會にいっているのは年寄りばかりでしたし、どちらかといふと、日本人が一應、家は何々宗であるが、
仏教徒であるのかないのか良く解らないという風な感覺に近いといふ印象を受けたのですが


修正不可能 投稿者:高坂  投稿日: 4月15日(火)20時34分31秒

御指摘のオペラを通してのフォントの件ですが、修正の方法が見つかりませんでした。

「奇魂通信」に「アメリカを孤立させるな」といふ一文を書きました。野嵜さんの紹介してをられた福田恆存先生の文章をめぐつて、現在のアメリカに就いて考へたものです。

http://www8.plala.or.jp/Kusimitama/report-14.html#139


(無題) 投稿者:塗炭  投稿日: 4月15日(火)13時03分08秒

横レスご容赦下さい。前回、私が原稿を書いている間に野嵜氏(以下野嵜さんと書きます)のレスが入ってしまい焦点がぼやけてしまいました。というかアトムに喩えたのは失敗でした。ごめんなさい。

●山崎良知さん改めいずしさんへ。

親子関係の、特に躾の現場では「價値相對主義」は存在しません。たとえ子供が成人していても「考える主体」とは考えないのです。礼儀を教えるのに子供の年齢は関係ありません。当該親子関係においては躾る側が最初から正しい。でなければ叩くこともできません。お互いの人権は尊重しましょうなどと考えません。「相手も人間だから」人権を無視してはならない、という価値相対主義はむしろ排するべきです。そこには「絶對的な觀念」が存在すべきと考えます。

私が子供の頃の父は絶対でした。そもそも議論する相手ではありませんから「説得力」や「コンセンサスの得られる主張」というものが成立しません。力で勝てると思うようになって(大学は親元を離れたこともあり)好きなようにやりました。その当時はオヤヂの権威への反抗だったような気がします。それもつかの間、子供が出来て少し解かったのです。

野嵜さんは「絶對的な觀念」を「God」または「(論理を前提として)論理を超越したもの」と書きました。私は適当な言葉が思いつかなかったのと論理が前提ではないので、息子を戦地へ送り出すオヤヂの心情ぐらいしか書けませんでした。私がこの場面で息子に言うとしたら「職務を全うしてきなさい」です。「権威」ではありません。「愛」というものでもないような気がします。こんな冷たい言葉はありません。しかしながら心の中で呟く言葉は……人間であるからに他なりません。

>「絶對なる觀念」というのは具体的に何のことを指しているのでしょうか。

自説を申し上げました。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月15日(火)08時27分38秒

『事実とは何か』(朝日文庫)の表題作に「主観的事実」の定義が載つてゐます。
>僕自身は自分の主張が「他人を信じ込ませれば勝ち」という考え方を強く持っています。
實際のところ、「主観的事実」の概念、「他人を信じ込ませれば勝ち」と云ふ考へ方は、一面の眞理ではあると思ひます。が、これは一面の眞理なのであつて、全面的な眞理とは言へない、或は言つてはならないと私は思つてゐます。
>そして、僕は他人を信じ込ませるためならあらゆる方法をとります。
いずし氏は、「いろいろな人の言葉を引用したり、信頼に足る統計量を参考にしたり」とおつしやつてゐて、それはそれなりの客觀性をもつて他人を説得せしめる事であり、穩當なやり方だと思ひますし、それ以外に適當な説得の方法はないと思つてゐます。
が、「あらゆる方法」として危險な方法をとる事も、本多氏やその他の「價値相對主義者」の人々は屡あるのであり、それは困つた事だと私は思ふのです。例へば、デマ・風聞を流す、自分の氣に入らないものに惡い印象を持たせる、或は、洗腦・マインドコントロールと云つた手段を用ゐる、など。これは「主観的事実」と云ふ觀念に對する信仰を徹底させれば當然、是認される事です。が、それを實行されては困る。
論證や傍證の提示は、「主観的事実」を信奉する立場から見れば、完全に客觀的な事とは言へないでせうが、一應「常識的」なレヴェルでは客觀的な態度とは言へるでせう。そして、この場合、「常識」は、論理を超越したものです。だから、絶對的な觀念と言つても良いだらうと、私は思つてゐる譯です。

クリスチャンのGodと云ふ觀念は、連中の道徳の世界において甚だ有效な觀念となつてゐます。が、八百萬の神しか知らない日本人に、Godを信ずる事――と言ふより、そもそも理解する事は、殆ど無理と言つて良いと思ひます。私も當然、Godを信じてゐませんし、完全に理解もしてゐません。が、昔の日本人は、一應、「お天道さま」とか「天」とかの、中途半端ではあるがそれなりの觀念は持つてゐたのであり、今の日本人でもその程度の觀念を持つ事は、まだ不可能にはなつてゐないだらうと思つて、「絶對なる觀念」の復活を唱へてみてゐるのですが、まづは殆ど不可能の粋に入りつつあると思つてゐますので大して期待はしてゐません。

と言ふか、「價値相對主義者」と云ふのは、「全ての事物は相對的である」と云ふ事を絶對の眞實として信仰し、さう云ふ風な態度でいついかなる時にも世の中を見るのですが、その時點で自己矛盾を起してゐます。また、彼等は屡、「相對化」を至上命令として實行する爲、とにかく「絶對的」なるものを否定しますが、その自分の態度を相對化する事がありません。即ち、自分の言動は絶對に正しいと思ひ込みます。或は、「正しいと思ひ込ませれば勝ちだ。だから自分の負けを認めなければ良い」と思つてゐます。確かに、論理には穴がありませんが、何かが間違つてゐるとしか私には思はれない。

しかし、そもそも「價値相對主義」を信じるのならば、全ての人間の持つ價値はそれぞれ異るものであり、互ひに理解不可能なものである、と云ふ地點にまで考へを至らせなければなりません。即ち、コミュニケーションは不可能である、と云ふ地點にまで到達しなければ、嘘です。が、「價値相對主義者」に、そこまで行つた人間はゐません。少くとも、私は見た事がありません。結局、「價値相對主義者」も、コミュニケーションを實現するのに必要な何かを信じてゐるのです。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月15日(火)07時59分35秒

薄笑斜構(actkyo012157.adsl.ppp.infoweb.ne.jp(61.210.118.157))が「鉄腕アトム」の歌詞を轉載したので削除しました。


價値相對主義 投稿者:いずし  投稿日: 4月15日(火)06時12分35秒

丁寧なレスありがとうございます。
ここの掲示板に書き込むことがちょっと怖くてつい偽名を使ってしまいました。申し訳ございません。本来のハンドル(いずし)で発言することにします。
ある事象がある人にとっては「正しい」ことであり、ある人にとっては「間違った」ことであることが発生する状況における人の持つ信念が「價値相對主義」というのでしょうか。
僕は本多氏いう人物の書いた文章を知らないので評価はできないのですが、「客観的事実は存在しないし、あつても無意味だ」という発言には納得できるものがあります。純粋な科学の分野においては「客観的事実」らしきものは確かに存在するかも知れませんが、少なくともジャーナリズムや言論の分野では「客観的事実」というものの存在は疑わしいと考えます。
「あるのはイデオロギーや世界観に基いた主観的事実だけである」という発言にもある程度納得できます。本田氏が「主観的に納得できる事は、事実なのである」と考えられたているかはわかりませんが、主観的に納得できることは「主観的事実」の範疇を超えるものではなくてそれを「事実」としていると決め付けるのは飛躍だと思います。
そのくだりに「客觀的な事實――正論」という記述がありますが、これがどうもわかりません。論というのはあるイデオロギーから派生すると思います。客観的な事実を前にしても人の考えは千差万別でしょう。それともここで云われている「正論」というのは違う意味なのでしょうか。
「認識は主観的なものである」ということから、その認識によって得られた事実に対する情報は「主観的事実」と云ってもいいのではないかとも思います。もちろん、「主観的事実」が「事実」になるわけではないとも思います。
そして、もし、その「主観的事実」が間違っているという指摘をされたいのならば、もっと異なる主観的な事実を構成することのできるような事象を提供し、そこから生じた主観的な認識によって、より説得力あり、コンセンサスの得られる主張をすれば、それをひっくり返すことはできるのではないでしょうか。「説得力」、「コンセンサス」という概念自体が的外れなのでしょうか。
話は変わりますが、野嵜さんの相對的な主觀を持つ自分といふ存在以外の絶對的な存在を認めよ」というのは、つまりクリスチャンにおけるGodという「絶対的存在」を認めよということなのでしょうか。そして、その認めるといいうことはどのようなことをさしているのでしょう。
また、日本における「絶対的存在」「絶対的観念」ということがいまいちわからないのですが、何かヒントはございませんでしょうか。
僕自身は自分の主張が「他人を信じ込ませれば勝ち」という考え方を強く持っています。他人も考える主体です。こちらの主張に対して、それなりの根拠を見出して判断を行い、それゆえ信じてくれるのだと思います。そして、僕は他人を信じ込ませるためならあらゆる方法をとります。たとえばいろいろな人の言葉を引用したり、信頼に足る統計量を参考にしたり。そいういう作業も「價値相對主義」の方法論なのでしょうか。
本田氏の考えはわかりませんが「價値相對主義」とは「自分の主觀を絶對化する事」ではなくて「自分の主観まで相対化することだと考えています。
本田氏についてよく知らないのにこのような発言をするのはちょっと失礼かも知れません。野嵜さんが批判の対象にされている本多氏の文献など教えていただければ幸いです。
長文失礼しました。メールか自サイトで論じてほしいとのことでしたら、そのように対処いたします。


アドレス変更 投稿者:松尾光明  投稿日: 4月13日(日)19時37分40秒

高野山真言宗 常福寺のアドレスが変更になっています
http://www.jyofukuji.net/ よろしくお願い致します


文脈から讀取つていただきたいのですが 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月13日(日)19時14分40秒

>本多の「價値相對主義」は、有害な思想であり、徹底的に批判すべき對象である。私は「今こそ絶對なる觀念の復權をはかるべし」と主張する者である。と言ふより、日本人はもともと絶對なる觀念を知らないので、それを頭から否定する本多のやうな眞似はやめて、謙虚にそれを學ばうとすべきだと言ひたい譯である。

「すべての價値は相對的である」詰り「どんな事であつても、正しいと評したり、間違ひだと評したりできる」と云ふのが「價値相對主義」です。今の人は大概、この「價値相對主義」を盲目的に信じてゐます。本多勝一は、この「價値相對主義」を積極的に利用してゐます。
其れに對して、「或種の事柄は、論理を超えたレヴェルで眞實である」「眞實の存在を認めよ」と私は言ひたい譯です。

西歐のクリスチャンは、「どんな事があつても間違へない觀念的な存在」と云ふ設定の「イデア」であるGodを持つてゐます。このGodは「絶對的な觀念」であり、そのもつとも優れた例だと思ひます。

#「Godの命じた事」が「正しくない」からといつて「Godなる觀念は間違つてゐる」と「價値相對主義者」は非難します。が、クリスチャン的に考へるならば、「正しくない解釋をしたのは人間であり、神は間違つてゐない」と云ふ事になります。カトリックの教會は、飽くまで人間界におけるGodの代行者に過ぎず、間違ひをやらかす事は當然、あり得ます。が、教會が誤つたとしても、それは人間が誤つたのであり、神は過ちを冒さない、と云ふのが、カトリックの考へ方です。

絶對者としてのGodも、クリスチャンにとつては絶對であるだけで、日本人にとつては絶對ではありません。しかし、人間の世界ではその程度の「絶對的」しかあり得ないのであつて、それを一々否定するのはやめるべきだ、と私は言ひたいのです。
「1+1=2」は、常識的な見方をすれば、決して絶對的な眞理ではありません。が、數學の體系においては「絶對的な眞理」です(數學では「公理」と呼んでゐます)。このやうな絶對的な眞理の存在を、一應認めておいても良いだらうと、或は、信じても良いだらうと、私は言つてゐる譯です。

#と言ふか、本多勝一は、客觀的な評價よりも主觀的な評價を重視する餘り、「他人を信じ込ませれば勝ち」と云ふ非常に怖い考へ方を平氣でするやうになつてしまつてゐます。この考へ方が一般化すると困つた事になるから、私は冷靜に物事を論證する事の大事を主張してゐる譯です。本多氏の「價値相對主義」とは「自分の主觀を絶對化する事」であり、私の言ふ「絶對なる觀念を信ぜよ」といふ主張は「相對的な主觀を持つ自分といふ存在以外の絶對的な存在を認めよ」と云ふ事です。


(無題) 投稿者:山崎良知  投稿日: 4月13日(日)04時34分54秒

「絶對なる觀念」というのは、すなわち「神」のような概念のことでしょうか。


アトム 投稿者:コピー  投稿日: 4月11日(金)21時17分59秒

好きでも嫌ひでもありませんが
ぼーくは無敵だ♪鐵腕アトム 良い子の爲へに鬪うぞ......
亞米利加みたいですね
これは人間のアトムでしたよね、一代目は蛇腹 二代目は胸筋

漫画のやつ 
空を越えてラララー★ の彼方 ヽ(~o~ ;(^ヘ ^;川ゝこっちだった!ハハハ〜....ゆくぞアトム......
そのままどっかいっちゃたんでしょうね....


(無題) 投稿者:塗炭  投稿日: 4月10日(木)21時20分27秒

>アトム嫌ひ。 と言ふか、手塚治虫嫌ひ。センスがオヤヂだから。

アトムが人間だとしたら今ごろは間違いなくオヤヂなので、その気持ちを書いてみます。

生まれた頃は大半が戦争体験者というか巻き込まれた世代です。阪神大震災に遭った人、または遺族の気持ちと大差ありませんでした。それが人為的に起こされたものだから、その後の全共闘世代となって反戦平和を訴えたのかもしれません。

いつしか結婚し子供ができます。自分が親から受けた躾を思い出しながら、躾としての暴力が必要なことを悟ります。人間だと思うから叱る。物分りのよいオヤヂであるだけでは子供を育てられない。これは親としての教育の放棄につながります。その子供たちも今や社会人として自立するようになりました。

戦争はなくならない。しかし子供の頃健在だった祖父が父を戦場に送り出したように、果たして自分は我が子を喜んで戦場に送り出せるかを問うと自信がありません。国の安泰を願うより息子の無事を願ってしまうでしょう。おそらく塗炭の苦しみであるに違いありません。

アトムというオヤヂはそういう感情的な考え方が合理的ではないと知りつつ弱々しく呟くのです。
「まあ、とりあえず戦争反対かも」……このセンスがオヤヂです。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月10日(木)21時12分38秒

觀念を具體的にと言はれても。
歡迎できなければ人間的でないと言はれても。


(無題) 投稿者:山崎良知  投稿日: 4月10日(木)11時31分29秒

野崎氏は義をも人間として扱っていると仰ってますが、狂人と極め付けられているのは、人間として扱っているとする範疇に収まるのでしょうか。野崎氏自身が狂人ととして扱われた場合、それを人間として扱われているとして歓迎できることなのでしょうか。甚だ混乱します。


(無題) 投稿者:山崎良知  投稿日: 4月10日(木)11時04分42秒

「絶對なる觀念」というのは具体的に何のことを指しているのでしょうか。闇黒日記にて後学のために具体的に明示していただければ幸いです。


野嵜様への返信 投稿者:日本語のために  投稿日: 4月 8日(火)22時03分46秒

こんにちは。返事が遅くなりました。
私はE.M.シオラン氏の著作は読んだ記憶がありません。しかし、「祖國とは、國語だ。それ以外の何ものでもない」との言葉は至極もつともだと思ひます。名言です。勉強になりました。ありがたうございます。
とはいへ、私は人間の存在自体が呪はれたものだとは思ひません。
ペシミストであるよりは寧ろオプティミストであらうと日夜努力しつづけた結果、私はやうやく後者になれたやうな気がしてゐるのですから。(カタカナ語は嫌ひですが、これを悲観とか楽観とか書くと少し意味が違ふ気がする。)


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 4月 8日(火)17時55分45秒

dtの背景色を濃くするより、文字色を濃くした方が簡単かもしれません。


素人様 投稿者:日本語のために  投稿日: 4月 7日(月)23時05分13秒

ヤフー掲示板、御覧いただきましたとのこと。
ありがたうございます。
「丸谷さん、亡くなりましたね」の投稿には驚きました。まさか、かういふ冗談をいふ輩がゐるとは思ひもよらず、必死でネット検索してしまひました。本当に心外です。不謹慎極まりない。

懐古趣味氏の投稿には、少し悲しいやうな寂しいやうな気がしましたが、脇から助けてくださつた方がおいででしたので、何とか立直りました。

時々こちらにも顔を出しますので、これからも、よろしくお願ひします。
編集済


(無題) 投稿者:義珍  投稿日: 4月 7日(月)06時38分53秒

dtの背景色を濃く、には同感です。
あと、できればa:hoverの色も変えた方がよいかと思います。


(無題) 投稿者:古林寛  投稿日: 4月 6日(日)21時39分43秒

定義リストのアンカーは見やすくなりました。
ただその反面、普通の定義リスト見出しの文章が読みにくくなりました。桜色を少し濃くしてもよろしいのでは、と。

そう言えば、うちのスタイルも長い間変更していないな。とは言え、もはや新しいスタイルを作る気力が無い。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(日)21時31分05秒

といふか、塗炭さんの書込みと前後してスタイルを更新したので。


(無題) 投稿者:塗炭  投稿日: 4月 6日(日)21時22分40秒

失礼しました。キャッシュが残っていたようです。
ピンクでよろしいかと思います。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(日)21時21分25秒

スタイル、また變へてみました。いかがなものでせうか????


(無題) 投稿者:塗炭  投稿日: 4月 6日(日)21時15分21秒

スタイルシートを変更されたのですね。すでに指摘が数件あるようですが、アンカーの色について「気付かないわけがない」というのが所感です。したがって「私にとっては」見にくいという感想以外にはありません。あるがままに受け容れるという意味で現実派です。受け容れたものをどのように咀嚼するかはさて置き、この件で要望する気になりません。ご本人が敢えて採っている方法だからと思っています。

>正字正かなを用ゐるのは、矜持の爲でしかありません。多くの場合、世間の人から嗤はれるだけであり、馬鹿を見るばかりなので、現實派の人には全くおすすめしません。

皮肉ではなく、まったく同感です。


悪質な、あまりにも悪質な 投稿者:素人  投稿日: 4月 6日(日)17時20分49秒

「日本語のために」様

興味あってヤフー掲示板を拝見、a-souneとやらの「丸谷さん、亡くなりましたね」と題する投稿を発見した時には、仰天しました。何の目的あってあのようなことをするんでしょう。

懐古趣味氏の暴論にも呆れました。何のことはない、彼が無知なだけです。今後も時々のぞきます。ご健闘のほどを。
編集済


(無題) 投稿者:平民  投稿日: 4月 6日(日)15時29分23秒

「人々は国家の発展過程で生じる一大事の際に、愛国心に駆られるものだ。
さらに、その愛国心を論理的に裏付けるために、歴史的事実や真理を探究する。
そして、人々の確固とした意志の力こそが、勇敢な行動を決断させる源となるのだ。」
        
                           サダム・フセイン


(無題) 投稿者:平民  投稿日: 4月 6日(日)15時10分40秒

米英の失態を笑おう!


(無題) 投稿者:古林寛  投稿日: 4月 6日(日)14時53分20秒

定義リストの中のアンカーが非常に似通った配色になっており、読めません。
恐らく色盲の人にとっては致命的でしょう。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 6日(日)02時22分12秒

「日本語のために」さんの考へ方には大體贊成ですが、まづ希望はないと思つてをります。
私は日本人に希望を持つてゐません。人間に希望を持つてゐないからです。

ちなみに、人間に何の希望も持つてゐなかつたどころか、人間の存在そのものが呪はれたものであると信じてゐたE.M.シオランが「祖國とは、國語だ。それ以外の何ものでもない」と言つてゐて、山本夏彦氏も口眞似してゐます。
編集済


 投稿者:とほりす  投稿日: 4月 5日(土)22時19分57秒

目がチカチカするんですが。↓

https://www.angelfire.com/id2/memo/kokugolog/


現實派の現状肯定主義 投稿者:高坂  投稿日: 4月 5日(土)15時38分02秒

>正字正かなを用ゐるのは、矜持の爲でしかありません。多くの場合、世間の人から嗤はれるだけであり、馬鹿を見るばかりなので、現實派の人には全くおすすめしません。

世間の人が正かな派を嗤ふ理由は、世間の人が正かな派が今の自分とは違ふことをやつてゐるといふ事に對して理屈拔きに否定的であるのと、世間の人が何となく昔の事を輕んずる價値觀を持つてゐるからでせう。
世間の人には、今の自分は常に時代の先端にをり、その進歩し續けてゐる自分を肯定するといふ現状肯定主義がありさうです。しかもそれは論理ではなくあくまで氣分であり、論理は氣分を害するものとして嫌はれます。

http://www8.plala.or.jp/Kusimitama/


さうは言つても 投稿者:日本語のために  投稿日: 4月 5日(土)14時00分03秒

ことは文化の問題。自国語の在り方の問題であります。
少々の嫌がらせを受けようとも、自分の可能な範囲で、現代国語の問題点について意見を述べることが必要ではないかと思ひます。そのために、ヤフーの掲示板で、意見の表明を行つてゐるのです。
野嵜さんのやうな孤高とも言へるやうな態度は、日本人に対して少々失礼では無いでせうか。私は、日本人の一人として日本語と日本民族にまだ、少しだけ希望を持つてゐるのです。
全ての日本人が正しい日本語を操ることが必要なのではありません。それは多分不可能です。正字正仮名を使はうと、略字新仮名を使はうと、同じことです。
最低限、言葉にかかはる仕事をする人、言葉を愛する人達のあひだで、正しい日本語が再び生返ることがあつても良いのでは無いか、と思つてゐるのです。

小生は、最低でも仮名づかひくらゐは、戦前の状態に戻すべきだと考へてゐます。
まだ、日本人にもその程度の能力は残つてゐるはずです。

歴史的仮名づかひは学ぶに容易で、何より論理的です。
子供が覚えるにも、外国人が覚えるにも、言葉は論理的であつたはうがよいに決つてゐます。

思ふところを遠慮無くかかせてもらひました。ではまた。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 5日(土)09時18分22秒

Yahoo!のIDは、削除される方が或意味、正常だと思ひます。

WXGが「正常」を「清淨」と誤變換して呉れた。或意味、適切な變換。


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 5日(土)09時16分34秒

現在の體制をどんな手段を用ゐても守らなければならないと信じてゐる人が、「現代仮名遣」「常用漢字」と云ふ體制を守る爲に正字正かな派に對して嫌がらせを働くのです。彼等は論理的な説得に耳を貸しません。論理的にものを考へる事が出來ないのは日本人の宿痾です。
だから、もし現實に正字正かなを復活させようと思ふのならば、現在の體制を打倒して獨裁體制を作るか、正字正かなは良いものだと云ふムードを作るかしか、方法はありません。が、そんな事をするのは無意味です。どつちにしろ、甚だ非論理的な手段であり、日本人は以前と同じやうに非論理的なままだからです。
日本人が、論理的にものを考へて、それで正字正かなを自發的に選び取るのならば、正字正かなは長持ちするでせう。しかし、さうではない非論理的な理由で正字正かなを採用しても、大勢が變化したり、世の中のムードがまた逆轉したりすれば、再び正字正かなは不人氣になり、元の木阿弥になります。だから、論理的な思考をする努力の大事を説かなければならないのですが、日本人相手にそんな事をするのは或意味、時間の無駄です。話が通じる筈がありませんし、理想が實現する筈もありません。
正字正かなを用ゐるのは、矜持の爲でしかありません。多くの場合、世間の人から嗤はれるだけであり、馬鹿を見るばかりなので、現實派の人には全くおすすめしません。


正仮名だけなら反発は少ない 投稿者:日本語のために  投稿日: 4月 5日(土)01時54分39秒

最近ヤフーの掲示板で、略字正かなを使ひはじめました。
ガーデニングのトピックスなどでも、歴史的仮名遣ひを使用してゐますが、正仮名であることに対する批判や読めないなどといふ投稿は無いみたいです。

一方、戦後の國語改革に反對するトピには、嫌がらせが頻繁に来るみたいです。


「物置」の中見せていただきました 投稿者:日本語のために  投稿日: 4月 5日(土)01時44分39秒

野嵜様。こんにちは。
過去のヤフー掲示板の要約見せていただきました。
私も、正仮名のトピを維持してゐるのですが、訳のわからない嫌がらせみたいなものが多いです。
我々の主張が、何か不愉快なのでせう。理解は出来ませんが。
自分の頭で考へる能力のある人間であるならば、「私の國語教室」を読んだら目が醒めるものです。
私もID取消されないやうに気をつけます。


(無題) 投稿者:名無しさん  投稿日: 4月 4日(金)22時01分34秒

何も言わない奴は何も言っていない


(無題) 投稿者:コピー  投稿日: 4月 4日(金)19時26分20秒

あれこれいう輩は結局何も云つてゐない


(無題) 投稿者:野嵜健秀  投稿日: 4月 3日(木)16時50分03秒

「闇黒日記」で書きましたが、連中は「主観的事実」(多數の人間が信じてゐる事/容易に信ずる事)を信じない少數の懷疑派を、數を恃みに包圍して、嗤ひものにして喜んでゐるのです。


ホンカツ 投稿者:義珍  投稿日: 4月 2日(水)20時21分47秒

本多勝一氏のファンを何人か知っていますが、彼らの言動から類推するに、
「独断だの偏見だの私憤だのはレトリックであって、本当は正論なのである」
あるいは、
「独断や私憤だが、それがすなわち正論にもなっている。だから本多氏は凄いのだ」
といった風に考えているのではないかと思います。
直接訊いたわけではありませんが。(怖くて訊けません)


(無題) 投稿者:コピー  投稿日: 4月 2日(水)20時09分12秒

正邪は物事の中になどはありはしない 觀察すれば子供にでも解る それは人間の思考の中に存在する幽靈のやうな物です


誤植指摘 投稿者:八郎  投稿日: 4月 1日(火)18時35分13秒

誤植です。一応。
pctips/www/Advice.html
「リファレンスは購入しない」
> しかし、初学者がHTMLの事を学ぶのに便利なリファレンスは、書籍には<em>ほとんどど</em>ありません。


現在台湾 投稿者:古林寛  投稿日: 4月 1日(火)02時53分28秒

現在台湾にて出張中ですが(リモートホストを見れば分かります)、こちらでは、いわゆる日本で言う「旧漢字」が日常的に使われております。略字は使われておりません。
ただでさえ漢字ばかりの文章である上に、日本で「複雑で分かりにくい」と言われている「旧漢字(正字)」が使われているわけで、日本人である私から見れば、とても頭が下がる思いです。

逆に言えば、このような漢字が日常で使われていると、それが当たり前のように感じるのでしょうね。つまり、日常生活にどれだけ漢字が普及しているかは、単なる「複雑かどうか」というものではないでしょうし、略したからと言って分かりやすいものになるかというとそうでもないのではないか、というのが、私の率直な感想です。