初めまして。陽だまりといいます、今僕はくやしい。
9・11のテロ以来日本は戦争への道をたどっています。
最近では自民党総裁選挙の4候補全てが憲法の改正、平和憲法第9条
を柱とした改正の言動を繰り返しています。もう自衛隊は軍隊なのです。
これをきに有事三法案をはじめ、徴兵制も加わり軍隊の国になることは
眼に見えています。原子爆弾を受けた唯一の国日本、反省したはずの日本が
また同じ過ちを犯そうとしています。戦争で人を殺し殺されることになりかねません。今とめることができるのは僕達若者を含めた国民です。
やめさせてください!何かができるはずです!
人を殺すのも殺されるのもイヤです。軍隊など無くても戦争をしなくても
いい国にはなれるはずなんです。僕は静岡の高校2年生ですが
とめるための活動をしていきます!今もしています!
署名、パレード等やれることはしていきたいと思っています。
音楽で平和を表現したり、絵を使ったり、それぞれで平和を大切にしてください。
今とめないと止まりません。戦争は憎しみしかうまない。
綺麗なものは綺麗なものを見なければ生まれません。芸術でも政治でもそうです。少しでも眼止まったに人へ・・・。
人権を大切に生きてゆきませんか?
野嵜
> 早稻田大學の自治會も、隨分前に潰滅したさうですね。
波江
>現代仮名遣 太陽暦なるものも纏めて死語にせねばこの先の文明の発展は覚束無いでせう。
波江の話の仕方はこんなのばつかりです。困つたものです。
■ 波江究一さん
→和製漢字の辞典 掲示板に波江究一さんが。「へこり、の掲示板」の引越しとともに書き込みが途絶えたので心配してゐましたが、お元気さうでなによりです。でも「へこり、の掲示板」で私の書いた内容はどこかに置き去りにされたらしく、似たような話題が繰り返されてゐます。あ、いや、そんなことはどうでもよくて、お元気さうでなによりであります、はい。
「へこり、の掲示板」に波江究一さんが現れたときもさうだつたのですが、→和製漢字の辞典 掲示板でも、波江究一さんの直後に野嵜さんの書き込みが。さすが野嵜さん。何がさすがなのか私もよくわからないけど、とにかく「さすが」。
■ 最近の波江究一さん
なんと、波江究一さんと野嵜さんは、→國語問題研究會−掲示板−で、直接議論(?)されてゐたのですね。知りませんでした。ずいぶん長い議論(?)で、最初のはうは既にログから消えてます。すごい情熱です。あらためて屁理屈太郎が情熱不足であることを実感させられました。
神奈中バスの行先表示幕も最近はLED化されてゐます。白背景から黒背景に變つた時は、文字が大きくなつて良かつたのですが、LEDになると讀み辛いと言ふか何と言ふか。赤字が嵩んでゐる神奈中ですから、コスト削減が目的なのでせうけれども……うちの近所の路線も廢止になるみたいですし。
KSmiracleの表記は多分まだ、いろいろなところに殘つてゐると思ひますが、取敢ずabout關係の文書の記述は訂正しておきました。どうもありがたうございます。
w3c/aboutlink.htmlの、「『言葉 言葉 言葉』からのリンク・引用」(h2) > 「一般事項」(h3)で、サイト名がKSmiracleのままになっています。
お久しぶりです。
こないだ新幹線を利用した時、慥か京都驛だつたと思ふのですが、例の「パタパタ」の案内板のすぐ隣に、電光掲示板が設置されて「調整中」と貼り紙がしてありました。――新幹線、お前もか。
パタパタの方が見易いと云ふ意見には贊成。個人的にはあのパタパタと云ふ音も好きです(少くとも發車メロディよりは)。
まあ駅の都合から言へば電光掲示板の方が色々と便利なのでせう。例へば表示内容を簡單に變へられるとか。
日本でも西歐でも世界が物理法則なり何なりに基いて動いてゐる點では同じなのでして、それをどのやうに把握するかと云ふ處で日本人と西歐人との差別化をはかりたい人が多いやうです。そして、日本人の價値觀として感性を強調する人が多いやうです。
個人的には、それ程彼我の差異を強調する事はないと思つてゐます。或は、西歐の科學精神にしても、必ずしも日本人は拒否する必要はない――日本の國學の精神として、物事を「からごころ」を排してありのままに見る事が強調されたやうに、時代が下ればどの文化でも物の見方においては客觀的である事が重視されるやうになります。
西歐で發達した論理的な物の見方と異る價値觀として、日本人には獨自の價値觀があると強調するのは、私見ですが、對立構造を作るための作られた對立構造であると思ひます。
>野嵜さんは日本は西洋に敗れたのだから西洋の論理を学ばねばならないとお考えのように拝察しましゅが
實際のところ、日本に「感性的な物の見方」なるものがあるとしても、西歐的な「論理的な物の見方」に全面的に敗れた訣でも勝つた訣でもない、とは言へます。が、日本的な感性が西歐的な物の見方に對して絶對的に優位に立つてゐる訣でもありません。
日本人的な物の見方は、さう云ふ物が存在して、それに意義があるにしても、弱點を持つのであり、西歐的な論理的な物の見方(勿論、西歐人にも感性は存在するのであり、かう云ふ言ひ方自體が一面的な見方である事は承知の上で言ふのですが)の持つ長所に學ぶ事によつて、その弱點を自覺し、反省する事は、可能であり、必要であると思ふのであります。
『年を経た鰐の話』では振り仮名が現代仮名遣なのですか。嘆かはしいことですね。
現在では文語文で書かれたものでさへ現代仮名遣で書換へられてゐる場合がありますね。
高校生の時、徳富蘆花の『不如帰』を岩波文庫で読んだのですが、文語文であるにも拘らず、仮名遣は現代仮名遣に書換へられてゐたので、非常に読みにくかつたのを覚えてゐます。
闇黒日記で見て、山本夏彦譯『年を歴た鰐の話』覆刻版を註文、入手しました。かな遣ひ・漢字が書き換へられてゐるか、と思つたら、さうでなく嬉しかつた。しかし、よくよく見ると、振がなが「新かな」ではありませんか! がつかりです。(版元に言ふだけは言はうと思つてゐます。)
このやり方が、最近、目につきます。中日新聞でこの頃、漱石、鴎外、龍之介の小説を毎日、連載してゐるのですが、これも同じやり方です。變な方法が定著しつつある樣子であります。
「感性」は感情の領域、「論理」は理性の領域。政治と道徳の峻別と同様、感情と理性の峻別もまた必要ってことにゃのね。
で、思うのでしゅが、野嵜さんは日本は西洋に敗れたのだから西洋の論理を学ばねばならないとお考えのように拝察しましゅが、日本の価値観(文化?)を考えるとき、日本人は感性と論理を峻別して来なかったわけで、その感性と論理とを渾然一体にして「道理」と呼んでいたんではないかと思ったりしましゅ。
で、日本の価値観を語るとき、「論理」で語ることによって日本の価値観の事実なり真実なりに近づくことがどこまで可能なんでしょうか?日本の価値観は、最後の最後には客観ではなく主観でしか語れない限界があるのではないとずっと疑ってたりしましゅ。
(三島事件はその限界に対する一つの解答、あるいは挑戦だと感じましゅ。西洋に勝つ、つまりは西洋の価値観に日本の価値観が飲み込まれないためには「道理」が必要ではないかと思ったりする。ただ西洋の価値観に飲み込まれることがいけないことなのかどうかの考察も必要でしゅが…)
ほなほな
略字略仮名で失礼します。私は原文の仮名遣を変更することは、原則として不可と考えます。商売のためか正仮名遣の書物を略字略仮名で出版する出版社が目に付きますが、まったくの不見識です。従って引用する場合も原文の仮名遣を尊重すべきです。ただし明らかな間違いは、変更すべきでしょう。もちろんその間違いそのものを論ずる場合は別ですが。そして正字正仮名の立場からすれば「略字略仮名は明らかな間違い」に相当します。したがって引用にあたって訂正すること(=仮名遣を正すこと)には何らの問題もないと思います。もちろん略字略仮名そのものを論ずる場合は別ですが。逆に引用される場合は正しい仮名遣=正仮名遣で引用されるべきです。どうして正字正仮名が正しく略字略仮名が間違いなのかって?その理由は略字略仮名=現代仮名遣いが正しいという主張を見たことがないからです。もし略字略仮名が「正しい」と主張するなら必然的に戦前の文献の仮名遣いは全て間違っていることになり正さなくてはなりません。源氏物語も徒然草も枕草子も全て間違った仮名遣いで書かれていることになります。そこまで主張するなら正仮名遣いと現代仮名遣いのどちらが正しいかあらためて検討しなければなりませんが、その必要はないでしょう。正しいかどうかならはじめから勝負が付いているのですから。
この二つ下の私の書き込みは、鴎外の「鴎」の字を正字体で打つたために、このやうな文字化けが生じてしまひました。
確かに、福田恆存先生の『私の國語ヘ室』だけでなく、森鴎外先生の『假名遣意見』も必読の書ですね。
エ_かに、牽弥紳贋枠伏の〆暴の・モZ莫片〇だけでなく、畢t翌枠伏の〆邪兆撚吭メ梶Zも駅ユiの菩「任垢諭」
なぜか、ハイパーリンクになつてゐなかつたやうです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/kokugokokuji/kanadzukaiiken.htm
仮名づかひについて論ずるならば、鴎外の意見を忘れるわけにはいきません。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/kokugokokuji/kanadzukaiiken.htm
山田孝雄の文章も凄みがあります
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/kokugokokuji/yamada1.htm
読んでゐる人間もゐます。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000003&tid=ffckdc8la4na4bfa4aa4ka1aya58ea4nta28l2fe3wa4khbfut&sid=1000003&mid=1&type=date&first=1
掲示板での論争も煮詰まつて来たので、ホームページを開かうかと思つてゐます。
まだ工事中なので、近日公開。
義も讀んでゐないんだらうなー。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/fukudakyoshitsu2.htm
國語問題協議會
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/index.htm
《訂正》4行目 露わにして → 露にして
歴史的仮名遣で書かれた日本語には過敏に反応しながら、「歴史的仮名遣」で書かれてゐる英語やフランス語には全然反応しない人たちの感覚を、わたくしは訝しく思はざるを得ません。
わたくしは学生時代にフランス文学を専攻してをりました。大学在学中は日頃お世話になつてゐる先生方に正字正仮名遣で認めた年賀状を出してをりましたが、後である仏文の老教授から不快感を露わにして「君の表記は安岡章太郎あたりの世代でしか通用しないんぢやないのか。」と云はれました。惟ふに、その老教授は「歴史的仮名遣」で書かれたフランス語を何十年も読んで来た筈なのに、フランス語はなぜ「歴史的仮名遣」で書かれてゐるのかといふことを考へたことがなかつたのでせう。
日本人は西洋から多くのことを学ばうと努めて来ましたが、「正書法」といふ概念だけは学び得なかつたやうです。
[Windows]と[Ctrl]+[Esc]は等価ではありません。
[Windows]+"e"(同時)でエクスプローラを起動できますが、[Ctrl]+[Esc]+"e"(同時)ではスタートメニューが一瞬表示されるだけでなにも起こりません。つまり、[Ctrl]+[Esc]には、[Windows]を一回押したときのファンクションしか割りあたっていないことになります。
ややこしいのは、[Windows]には、押すだけでスタートメニューが起動するような、「ファンクションキー」としての機能と、他のキー("e"が有名ですが)と組み合わせて使用する「シフトキー」としての機能があることです。
さらに、レイアウト上は邪魔ながら、なんだか使いこなせば便利そうな[Windows]なのに、[Windows]+[キー]というかたちのショートカットが定義できない(知らないだけかもしれませんが、Helpで発見できませんでした)ことでただの場所ふさぎとなっています。
こんな変な挙動のキーを増やすよりは、スタートメニュー表示時に有効なショートカットキーの設定を容易にしたり(現在は、スタートメニュー表示時に文字キーを押すと、その頭文字を持つ項目を起動する。複数ある場合は順にジャンプする。つまり、日本語名のメニューには無効)、キーアサインの自由化をはかってほしかった。
ちなみにわたしは、HappyHackingKeyboardLite2を使用しています。右の"◇"に[Windows]を(嫌々)割り当て、スタートメニューの表示やエクスプローラの起動に使用していますが、[Windows]+[キー]の組み合わせのほとんどが無効なのは非常にもったいないと感じています。
歴史的仮名遣い―その成立と特徴 中公新書
通りすがり様
私は唯一言、福田恆存先生の『私の國語ヘ室』(文春文庫)を是非一度お読み下さい、とだけ申し上げておきませう。
正書法の存在を認めるのならば、正書法が現實と乖離する事は當然の事として認めなければなりません。現實と乖離してゐる、不自然だ、と云ふ「批判」は、批判にならないのです。
>私は話し言葉も書き言葉も時代によって移り変わる物だと思っています。
書き言葉は時代によつても移り變はるべきではないものなのです。口語が移り變はるのは仕方のない事ですが、書き言葉は意識して移り變はらないやうに努力すべきものなのです。書き言葉は、性質上、保存されるものであり、書かれた瞬間から古び始めるものです。ならば、時代とともに移り變はる側面があるにしても、根本的な原理を守る事で、後世にも讀めるやうにしなければならないのです。
先程、「新しい正書法」について「不斷の創作」と言ひましたが、言語が不斷に創作される事はたしかに事實ではあります。が、だからこそ、長く保存される書き言葉は、通時的であるべきなのです。不斷に創作される事で言語が常に變化する――或時代の言語と後の時代の言語とが大きく變化したものとなる――ならば、或時代に話された内容は、後の時代には理解されなくなる。けれども、話し言葉は、話をしてゐる時にだけ通じれば良いものです。だから、變化しても全然問題は無い。が、書き言葉は、時代を經て讀まれる事があり得る。もちろん、同時代の人にも讀まれる事があり得るから、同時代の人に通ずるやうに書く事は必要である。が、別の時代の人にも通ずるやうに書く努力をする必要もあるのではないか。
日本語は、上代・中世・近代・現代で變化してゐますが、日本語と呼ばれます。同じ日本語と呼ばれるからには、變化したにしても變化しない本質的なものが、歴史を通じて、一貫して存在してゐる筈です。或は、古典を現代人は讀んで或程度、理解出來ます。ならば、本質的に日本語は變化してゐないといへます。言葉は變化する、と云ふのは、一面の眞理でしかない、とも考へられます。
また、「感覚」とおつしやいますが、昭和二十年まで普通の日本人は歴史的假名遣を全く違和感なく使つてゐました。半世紀前に不自然でなかった歴史的假名遣ですが、私は今、それを使つて全く違和感を感じません。
逆に、昭和二十年代、三十年代に書かれた文章には、「現代かなづかい」で表記されてゐたとしても、古風で違和感を覺えるものが尠くありません。星新一のショートショートは、當時としてはモダンな文章だつたのでせうが、今では古めかしい感じがします。
文章の印象は、樣々な要因で決るものですが、その要因を正しく同定出來ない人が多いやうです。文體の與へる印象と、表記の與へる印象とを混同する人が大變多いやうに思はれます。
歴史的假名遣を採用する人は、屡々保守的(保守派とは敢て言はない)で、古風な文體を好みます。その文體の所爲で、歴史的假名遣の文章を古めかしいと思ふ人は尠くないやうです。が、それは飽くまで文體の印象であり、表記による印章ではありません。
異樣だとか古めかしいとか、さう云ふ主觀的な判斷は、個人的には甚だ危險なものだと考へます。感情論と言つても良いのでして、理性的でない判斷は、それが大勢を占めれば占めるほど、間違つてゐる可能性がある。そして、その間違ひを、數を恃みに壓殺しようとする――そして、さう云ふ「數の論理」を振りかざす人は屡々善意の人です。「通りすがり」の方もさうですし、國語國字改革を實行した當事者もまた、自分達の正義を信じた善意の人だつたと思ひます。
が、動機を理由に行はれた改革が、常に正しかつたとは言へません。我々は、動機を理由に全ての行爲を許す事は出來ません。善意で行はれた行動であつても、客觀的に見て不正であるのならば、罰せられなければなりません。鼠小僧は、義賊であつても、大衆に支持されてゐても、犯罪者です。
國語國字改革は、「現代仮名遣」「常用漢字」が定着したからと言つて、「正しい」ものだつたと評價されてはなりません。實際のところ、定着したと言はれる「現代仮名遣」は、決して定着してゐません。「近ずく」のやうな「現代仮名遣」としては間違つた表記を使ふ人は、尠くありません。漫畫の臺詞やライト小説の文章は、屡々「現代仮名遣」の規則を無視してゐます。そして、「そーゆー」のやうな表記を「より自然」だと思つてゐる人は、或一定の年齡より下の人には多いと思はれます。ですから、「現代仮名遣」は完全に破綻してゐると言へます。
が、「そーゆー」「近ずく」のやうな「新しい」表記を正書法として認定する事は不可能です。一度正書法とされた或種の表記は、正書法として認定された瞬間から古びはじめ、現實と乖離し始めます。現實はどんどん變つていきます。だから、「新しい正書法」は不斷に創作されなければならない、と云ふ事になります。が、そんな事をし始めたら、「正書法」は意味を失ひます。その「正書法」は、現實の後追ひでしかありません。
「現代仮名遣」が自然な進化でない事は、ウェブの多くの文章が「現代仮名遣」に從つてゐない事で明かだと思ひます。良く調査していただければ、「現代仮名遣」に完全に準據して書かれてゐる文書が大變尠い事が明かになると思ひます。そして、それらの文書の表記は、「現代仮名遣」よりもずつと「表音的」な方向に「進化」したものです。
或は、「話し言葉も書き言葉も時代によって移り変わる」のであるならば、「現代仮名遣」と云ふ規範が存在する事自體、不自然な事だと言へます。「話し言葉も書き言葉も時代によって移り変わる」のならば、規範は存在してはならないものです。「話し言葉も書き言葉も」、飽くまで規範のない状態で、「自然に」「移り変わる」やうにしなければなりません。でなければ、「話し言葉も書き言葉も」自然に「移り変わる」事が出來ません。
逆に、規範が存在すべきである、と考へるならば、その規範は過去から現代そして未來に至るまで一貫した規則を持つべきものである、と云ふ事になります。規範は變るべきでないものです。さうなると、一度成立した「過去の文獻に基く」と云ふ規則に則つた歴史的假名遣を上書きする形で「現代仮名遣」を認める譯には行かなくなります。
「言葉は變化する」と云ふ前提から考へると、「現代仮名遣」と云ふ固定された規範は存在が許されません。
規範の存在を認めるのならば、歴史的假名遣の存在を無視して「現代仮名遣」を採用すべき理由がありません。
「それが誰かを不当に苦しめたりするもので無ければ排除されるべきではない」との御意見ですが、「現代かなづかい」と「当用漢字」は不當に日本人を苦しめました。「当用漢字」が「魚」に「さかな」の訓を認めなかつたので、「魚屋」と書く事が事實上禁止されてゐたのですが、それで「魚屋」が困つたと云ふ話があります。「現代かなづかい」を採用した出版社(岩波書店)が『ジャーナリズム』(岩波新書)の表記を勝手に變更し、それが不快だつたと清水幾太郎が岩波新書『愛國心』で書いてゐます。歴史的假名遣から「現代かなづかい」に表記を變更しなければならなくなつて、多くの日本人が混亂したことは事實です。
ついでに言へば、小學校までで「現代仮名遣」を教へられ、中學校以降に改めて歴史的假名遣を教へられる學童・生徒は、勉強をする上で「不当に苦しめ」られてゐると言へます。最初から歴史的假名遣でやつてゐれば、二つの表記を學ぶ苦勞が無くなります。既に歴史的仮名遣は千年以上使はれてきたのであり、その存在を否定する事は出來ません。日本人が日本の歴史を知る上で、歴史的假名遣を知らない譯にはいきません。
中には、「現代仮名遣」による教育を守る爲に歴史的假名遣を教へないやうにしようと主張する教育者もゐますが、その結果、歴史的假名遣を知つてゐる知的エリートと知らない愚民との格差が生じますから、私はさう云ふ主張に反對です。
私は、同時代的な平等と、通時的な平等とを主張してゐるだけです。
はじめまして!サーチエンジンで偶然こちらの旧仮名遣いのページを見つけて読ませていただきました。
私の考えでは、世の中には色々な主張を持った人がいるべきで、
それが誰かを不当に苦しめたりするもので無ければ排除されるべきではないと思っているので、
旧仮名遣いを推奨、推進される野嵜様の意見を一方的に排除しようという内容ではないという事はご理解頂きたいと思っているのですが、
私の感覚からして疑問に思う事があるのでご意見を伺いたいと思います。
私は話し言葉も書き言葉も時代によって移り変わる物だと思っています。
いつの時代も若い人たちは自分たちの世代が生きた証明として新しい単語、新しい文法を作り出します。
また同じようにいつの時代の年寄りも、自分たちの世代が生きた証である、自分たちの言葉を守ろうと、若い世代の言葉の乱れを憂います。
言葉はこうやって人間の歴史と一緒にまさしく"生きて"きました。
良いか悪いかは別として成長し、進化してきたのです。
そして言葉はコミュニケイションと情報保存の手段です。
コミュニケイトする双方が同じ言葉がわからなければ意味がありませんし、
情報を保存する方と保存された情報を取り出す方も同じ言葉が理解できなければいけません。
正仮名遣いは(…ここでは野嵜様のご意向に従って旧仮名遣いの事を正仮名遣いと表記させて頂きましょう。私にとっては不自然な単語ですが。)
正仮名遣いはほとんどの現代日本人にとって理解が困難なものです。
良いか悪いかは別として現代仮名づかいこそが決められた標準であり、
ほとんどの現代日本人にとって自然なものです。
そこで「何故あえて感覚的に不自然な正仮名遣いを使わなければいけないのだろう」という疑問が湧きます。
FAQを拝見した所では「意識的に構造的な體系を抽出した結果」だから正しいのだという主張のように見受けられますが、
これは(少なくとも私の中では)ありえない言語への不変性、完全性を求めた物のように思います。
言葉は構造まで含めて変わっていく物であり、何か一つの形を持って「これが未来永劫まで正しい」というのはありえない事だと思うのです。
書き言葉を正仮名遣いというルールに拘束することによって、新たに生まれた言葉をいざ文章にしようという時に
かけ離れすぎた話し言葉と書き言葉のギャップによって、どう表記していいか判らずに、
思った事が文章として表現できないという、道具としての言葉にとって大きな問題が生じると思います。
それは現代仮名づかいでも同じ、と仰りたいと思うのですが、実際にはそれは違います。
現代仮名づかいは現代日本人にとって自然なものであり、自然な物は自然な変化をとげます。
しかし正仮名遣いは現代日本人にとっては不自然な物なのです。
不自然な所から変化させようとすれば解釈の違いによる混乱などがより大きく生じるでしょう。
もし私が「日本語には正しい表記法が必要だ。」と感じたならば、過去の表記法も参考にするでしょうが、
何よりも現代の人間にとって自然な物を目指すと思いますし、現代語からのスムースな移行も意識すると思います。
だから何故野嵜様が現代の生きた口語から遠くはなれた形の正仮名遣いという一つの形に拘られるのか、
もっと発展的かつ現実を見据えた自然な進化というのは考えられなかったのだろうかと思うのです。
もし私の疑問にお答えいただけたら幸いです。
今時、『韓国からの通信』を読んで真に受ける阿呆はゐないと思ふのですが、なぜ今頃になつてからそんなトンデモ本を復刊する気になつたのか洵に怪訝です。岩波書店の料簡が分かりません。
>大嘘吐きT.K生の『韓国からの通信』が増刷され、本屋で平積みに。
T.K生の本名が「判明」してから三日後に、すでに店頭に出回っていましたよ。奥付の増刷した日付は、その「判明」した日の翌日でした。あの「報道」が出版がらみのキャンペーンであることは明白です。
[WIN]キーは[Ctrl]+[esc]と等価です
だからKan-chanさんの例は[WIN]キーなしでもできますね
「趣味としての摘発――誤記・誤字・誤植をあげつらう」です。洋泉社版『インテリ大戦争』は略字略かなで印刷されてゐますので「趣味としての摘発――誤記・誤字・誤植をあげつらう」と表記されてゐます。呉氏自身は正字正かな派ですので、正字正かなでも新字新かなでもどつちでも良いと言ふかも知れませんが。
式氏は偉い先輩なので存じあげてをります。會つた事はないですが。PhoenixのWMC35周年記念号に寄せた文章でも酒井康満氏が式(清水)氏の事を言及してゐました(「WMCで思い出すこと」)。また、Phoenix創刊以前に「OBファイル」と云ふ個人誌を清水氏が出してゐた事を大塚勘二(仁賀克雄)氏がPhoenix三十周年記念号の巻頭言「WMCの創立とその時代」で述べてゐます。あと、20周年記念号のワセダ・ミステリ・クラブOB紳士・淑女録、付録[住所録、職業分類、Jr名簿]が「清水聰監修」です。
餘談ですが、PhoenixのWMC創立三十周年記念号に呉智英、瀬戸川猛資、宮脇孝雄三氏の對談「WMCレポート(1)早稲田祭'86 一生之読書計画――吾二十而志読書」が再録されてゐます。これは式貴士と全然關係ありません。
はじめまして。
無教養なもので、正字・正かなには弱く、
新字・新かなで失礼いたします。
こちら様のサイトは、キーワード検索により、
偶然に発見させていただきました。
私は、今は亡きSF作家「式貴士」の業績について研究するサイト
【式貴士と私】を運営している者でございます。
「式貴士」は本名を清水聰といって、
13年前に58歳で亡くなるまでに、
数々の筆名を駆使して、数々のジャンルにわたる文章を著してきた才人であり、
また奇人なのですが、
この「式貴士」というのは小説家としての筆名です。
それ以前は雑学研究家の「間羊太郎」という名前で、
少年マガジンに『へんな学校』という雑学知識ページの連載を持っておりました。
その『へんな学校』について、
ネット上で検索をかけて調べている過程で、
こちら様のサイトの2001年6月21日の日記、
「すべからく」問題の箇所に出会った、というわけです。
かつての呉智英氏が、
あらゆる媒体の誤植・誤記・誤用を発見しては、
投書で指摘することを趣味にしておられた…という逸話は、存じておりましたが、
その鋭い指摘が、間羊太郎の執筆記事にまで及んでいた、ということは、
こちら様のサイトを拝読するまで、まったく知りませんでした。
非常に勉強になりました。ありがとうございます。
私のサイトでは、
故人が実際に自分で著した文章のリストを掲載する以外にも、
故人および故人の作品に対して、他の方が論評や回想など、何かを記されている文章、
それが書籍に収録されている場合は書籍名、
そういうものについても、リストを製作していこうと考えております。
そこで、非常に虫のいいお願いで恐縮なのですが、
その「すべからく」の一件についての呉智英氏の文章が、
どこに発表されたものなのか、また呉智英氏の著書に収録されているのならば書名は何か、
御教示いただけませんでしょうか。
なにぶん、呉智英氏の著作というものは膨大な数で、
また現在では入手が難しくなっている書籍も多く、
本来はそうするべきなのでしょうが、当該の文章を捜して、
1冊1冊あたっていくのは、たいへん困難です。
もし、よろしければ、
お分かりになる範囲で十分ですので、
調査のヒントとなる情報だけでも、教えていただきたく思っております。
当該の文章の標題は
「趣味としての摘發――誤記・誤字・誤植をあげつらふ」ということで、
よろしいのでしょうか。
(呉智英氏も、標題を正字・正かなで記しておられたのでしょうか?)
唐突なお願いで、申し訳ありません。
お返事をお待ちしております。
お邪魔しました。http://www.geocities.co.jp/Technopolis/1814/shikitakashi.html
>[Win]+D...總てのウヰンドウを閉じる
>[Win]+M...同上
[Win]+Dは、デスクトップ[Desktop]を表示する
[Win]+Mは、すべてのウインドウを最小化する[Minimize]
の意味だと思います。
[Ctrl]+[Esc]...スタートメニューを開く
[Alt]+[F4]...ウィンドウを閉じる
[Ctrl]+W...同上
「マイコンピュータ」をツールバー化してタスクバー上に設置...簡易ファイルブラウザになる
フォルダを開いて[Ctrl]+F/[F3]...當該フォルダ以下の檢索
[Ctrl]+[Esc]+R...フアイル名を指定して實行
「マイコンピュータ」のショートカットメニューから「プロパティ」...システムのプロパティ
假名漢字變換のオン・オフで多用する[Alt]、アプリケーション内でのショートカットキーとかで多用する[Ctrl]と干渉するので、[Windows]キーとアプリケーションキーは敵です。システムの爲だけのキーは要らない。
[Win]...スタートメニューを開く
[Win]+D...總てのウヰンドウを閉じる
[Win]+M...同上
[Win]+E...エクスプローラ
[Win]+F...檢索
[Win]+R...フアイル名を指定して實行
[Win]+[Break]...システムのプロパテイ
私はWindows終了ダイアログを[Win]→Uで出してます。
[Win]+Eは毎日使つてます。
例によつてJ-COMのサーヴァが擧動不審なので、今夜の更新は最う御終ひにします。またあした。
で、明後日も更新出來ないのですが、あらかじめ御了承いただければと。
<轉載>
□作業内容:
WebSpaceサービス および メンバーサービス メンテナンス
□作業日時:
2003年9月3日(水)18時00分 〜 9月4日(木)17時00分
※メンテナンスが終了次第、サービスを再開いたします。
</轉載>
と言ふか、何かあつたら、iswebのばっくなんばー置場の方にファイルを置きますので、そつちを見て下さい。infoseek方面も色々あるみたいであやしいのですが。