>現代では記號化されたものでないと消費されないとかいつた事をベンヤミンが述べたさうで、
記号云々は存じませんが、商品がそれ以前に有していた関係性が切断され、遊離した「くず」となることによって、それらはアウラとベンヤミンが呼んでいたものが湧出する、という趣旨ではないでしょうか。但し、野嵜さんが仰る「記號以上の何か」が、商品となった物から滲出するアウラと同等のものであるのかは、判りませんが。
因みに、物が現世の縁を切られることで商品と呼ぶべきものになるというあたりは、どこかしらの文化人類学ネタにあったはずで、それを敷衍して歴史学で商業と「無縁」の関係を説いているのが、アノ網野善彦でして。
というか、表題のネタで一本書こうとしていたら、先を越されました。
>70年代と80年代で表記が違いますが
眠かつたからだと思ひます。(´ω` )
> 微妙に一九七〇年代テイストの「オタスケマン」とか、千九百八十年代テイスト溢れる「ドリームハンター麗夢II」とかを
70年代と80年代で表記が違いますが、なにか理由があるのでしょうか?
「高み」は「高いところ」の意。
「高見」と書けば「こうけん」と読んで「立派な意見」の意。
「高見を決め込む」と書けば、間違いではありますが違和感はないですね。
使ひ切れないでしょうね、野嵜さん御財布がパンパンになっても一錢ぐらいも逝かないと想ひますので、どうか、一つ二つ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040130-00000105-yom-soci
デカルトの方法序説に「極めて徐々にしか進まないものでも、もし眞直ぐな道を歩むなら、駆けて行くけれども、眞直ぐな道から遠ざかるものより、遙かに前進できるものである」と述べられてゐる。これと、有名な「我思ふゆゑに我あり」との違ひは何かと考へてみた。後者のせりふに對しての私の挨拶は、「ああさうですか、なる程さうかもしれませんね」くらいしかない。一方前者に對しては「ああさうですか」などと、暢気な事は言へないものがある。なぜか。
「知識は教えられるが、徳は教えられない」といふ。つまり「眞直ぐな道を歩」くとは自分を誤魔化さないことであり、筋を通すことである。ならば、この言葉は、單なる奇抜な発想ではなく、誰もが心掛けなければならない「徳」といふことになる。さうして、道徳に關はる問題となり、單なる言葉として聞流す訣にはいかぬ、生き方に關はる問題だからだ。
田中美知太郎は、『哲學初歩』のなかで「哲學はデマゴギーではない」が、かと言つて、「全くの案内なしで」「ただ漫然と人生や世界について考へてみたところで、私たちは哲學の中へ、どれほども歩み入ることはできないであらう」と述べてゐる。要するに、田中美知太郎は「哲學の中へ」の「案内」人を買つて出ようとしたのである。しかし、この「案内人」は戰前不人気で、大學での講義では、たつた一人を相手に、眞剣に講義し續けたらしい。
矢澤樣
インターネットのメールの仕組みにしても信頼性があるやうでないものなのですが、借りてゐるサーヴィスがアレなものでして。
また何か情報がありましたら、御教へ下さい。あと、頂戴した情報の件ですが、うちのサイトのどの邊に記載すれば良いかなどの御指示も戴ければと幸ひです。
どうぞ、今後ともよろしく御願ひします。
謹啓
野崎様、岡田先生の掲示板の記載を転記して下さり、有難う御座いました。実は、
岡田先生の掲示板に記述した理由は、野崎様の「メール・フォーム」に、「届くか
どうかは保証の限りでない」と注記されており、送信できるかどうか心配だつたの
です。しかし、今思ひ至つたのですが、野崎様のホームページにも掲示板が存在し、
本掲示板を利用すべきだつたと思ひ至りました。申し訳御座いません。
松原先生の文章を新しく発見した時には、本掲示板を利用させて頂きたくお願ひ
申し上げます。
平成16年01月29日
敬具
あんどうさん
本題とはあまり関係ないのですが、「文書を普通にマークアップして且つHTMLらしさを出す」というのは、どういう状態を指しているのか、関心があります。
よろしければご教示ください。
PC Tipsの以下の記事に書いてあります。http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/Element/acronym.html
野嵜さん、はじめまして。
PC TipsのHTMLまわりの記事は、共感させられる事や改めて確認させられるような事が多々ありダイヤルアップな環境の私には、オンラインで読むのは辛いので全部ローカルにコピーして読ませていただきました。
野嵜さんの所を発見する事になったきっかけは、文書を普通にマークアップして且つHTMLらしさを出すにはどんな方法が良かろうかと参考になりそうな所をさがしていたところ発見したと言う感じです。
で、じっくり読みました。もちろんソースまで(笑
そこで私一つ気になる所発見しました。題名の通り『abbrとacronym』についてです。
<abbr title="HyperText Markup Language">HTML</abbr>
上記のようなマークアップがあったと思うのですが、これはacronymを使うのが正しいのではないかな?と。
その根拠は、以下のとおりです。
[三省堂新コンサイス英和辞典から一部引用]
abbr.
abbreviated; abbreviation
abbreviation
短縮(語); 省略(形); 略語
acronym
頭文字(数語の始めの1字[数字]を組み合わせた語)
NATO(North Atlantic Treaty Organization)
と言うことで、abbrと言う語句自体がabbreviationのabbreviation(?)になります。
故に、以下の様なマークアップ例が適切だと思います。
<abbr lang="en" title="abbreviation">abbr.</abbr>
<abbr lang="en" title="Corporation">Corp.</abbr>
<abbr lang="ja" title="通商産業省">通産省</abbr>
<abbr lang="ja" title="セクシャル・ハラスメント">セクハラ</abbr>
<acronym lang="en" title="HyperText Markup Language">HTML</acronym>
<acronym lang="en" title="Organization of Petroleum-Exporting Countries.">OPEC</acronym>
こうやって使い分けてみると、abbrは日本語でも使いみちがありますが、acronymはちょっと日本語での使いみちがやっぱり思い浮かばないですね。
料理関係で、こんなのは有りですかね?(笑
<acronym lang="ja" title="砂糖、塩、酢、醤油、味噌">さしすせそ</acronym>
というわけです。
本来ならメールで書くのが望ましいかと思いましたが、私の現在のアカウントが廃止直前なものでメールだと万が一返事を出された場合届かないと言う失礼な事態にもなりかねないので掲示板に書きこみさせて頂きました。
重箱の隅を突く様な指摘、大変失礼いたしました。
勘辨して下さい。
> シェイクスピアの「じやじや馬ならし」を現代風にアレンジしてエロ小説化したら、とてもエロい小説になると思ふ。
是非書いてください。
「内」と「外」を行き來できるといふことは、どういふことか、考へ中。
正字に関係ない書き込み失礼しますが、ホームページを是非ご覧ください
よろしくお願いします
なんかスルーされ捲りで可哀想なので。
>「喧嘩をうる」とか「喧嘩をかう」と言う言葉を使うのは女性として下品なのでしょうか?
喧嘩そのものが品の良い行爲であると言へるのか何うかが取敢ず問題なのではないかと。
「喧嘩」云々と云ふ表現そのものは、他に言ひやうもないし、仕方がないと思ひます。
ヤフー掲示板で少々議論してゐます。ついでの時に、お立寄りくだされば幸です。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1000003&tid=ffckdc8la4na4bfa4aa4ka1aya58ea4nta28l2fe3wa4khbfut&sid=1000003&mid=1&type=date&first=1
> 天がアンカットだと埃が溜るので本にとつてはよろしくないと言つたのは誰だつたか。
むしろ埃が溜らないようにアンカットにしている、という話を聞いたことがありますが、出典は失念。
>中身がInternet Explorerと同じMicrosoftのHTMLレンダリングエンジンの「タブブラウザ」なんて使つて何うするんだ。
インターネットしてます。
「喧嘩をうる」とか「喧嘩をかう」と言う言葉を使うのは女性として下品なのでしょうか?
場違いな質問でしたらすみません。
私の國語教室 文春文庫 146頁-2 もみじ?
なかなか説得力のある本ですが、肝心の歴史的仮名遣ひで、誤植が多いやうですね。
会社の姿勢が問はれます。
カヅサツさんどうもです。直しておきました。月曜評論を購讀してをらず原文と對照出來ないのですが、多分御指摘通りだと思ひますので。
>檢索エンジンのクローラ・ロボットの類についても、XHTMLの文書をXMLとしてパースし、他のHTMLや謎の文書とは異る處理をしてゐる、とは聞かない。
処理系が対応しているかどうかはともかく、そもそもその文書をXML文書として*明示*させなければ意味がないかと。いくらXHTMLとは言え、text/htmlとしてサーバから送られてしまっては仕方がありません。
そもそも、送られてくる文書がどのような型を持っているのかは、HTTPヘッダで決めるべきことであって、受け手によって判断すべきことではないと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/MATSUBARA/hoshu07.html
> そいつは大莫迦の腰拔けのんこんちきである。
原文を読んでないのですが、「『こ』」んこんちき」ではないですか。
仕事しろよ>オレ
Le Grand Princeさんの仰せのとほり。
(誤)流(りふ)木→立(りつ)身
(正)立(りふ)木→立(りつ)身
「流木」は「立木(りふぼく)」の変換ミスと云ふことですか。
この「立木」の「立」は「建立(こんりふ)」の「立」ですね。
小生の昨夜の投稿、
「流(りふ)木→立(りつ)身」
はをかしいですな。あとで訂正します。
会社で使つてゐる辞書には字音の正仮名遣が出てゐないので、確認できませんゆゑ。
早(さふ)朝 → 早(さつ)急、早(さつ)速
もさうですね。「早急に善処します」を「ソーキューに〜」と発音する人が結構ゐます。
子供の答案に「ジュッコ」と書かれてゐたのに、×を付けた先生は、日本語に関する見識を持つた人物でありませう。
子供の答案に「ジュッコ」と書かれてゐたのに、×を付けた先生は、日本語に関する見識を持つた人物でありませう。
「最近、「十手」のことを「ジュッテ」と発音する人が多くなつた。しかし「十」の字の音読み(厳密には字音仮名遣ひ)が「じふ」であることを知つてゐれば、それが時に変化して「じつ」となることは至極自然である。勿論「十手」は「じつて」と読むのが本来正しいのだが、「十」の読み(現代仮名遣ひ)が「ジュウ」となったことが、「十手」の読み方の変化、「じつて」といふ伝統的な読み方から「ジュッテ」といふ今様の発音への変化を助長したと私は考へずにゐられない。」
小生のホームページより
http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/ronpaku.html
それから、「じふ→じつ」となるやうな音便変化(?)は他にもあつて、
急(きふ)流→急(きつ)度
合(がふ)格→合(がつ)宿
執(しふ)着→執(しつ)権
拾(しふ)得→拾(じつ)得
入(にふ)学→入(につ)唐
法(はふ)律→法(はつ)度
流(りふ)木→立(りつ)身
などいくつもあつて、「つふ相通」と言ふことがある。これは、荻野貞樹の「旧仮名を楽しむ」を読んで知つたこと。
正假名で書くやうになる(約二年前)までは、「じゅっか」と疑ひも無く……。
今でも意識しないと、さう發音してしまふかも……。
http://noz.hp.infoseek.co.jp/column/FreedomMemo.html
「互ひに少し自嘲して」は「互ひに少し自重して」だと思ひます。
私の身の回りでは、大半の人たちが「十課」は「じゅっか」、「十個」は「じゅっこ」だと思っています。
かくいう自分も、子供の頃はそう思っていました。
小学生だった頃(もう二十年以上前です)、漢字のテストで「十個」の読みを「じゅっこ」と書いてバツをもらいましたが、その答案を見た父母も「あれ? 『じゅっこ』でいいんじゃないの?」と首をかしげていたことを覚えています。
すでに当時から「じゅっこ」という読みが普及(?)していたものと思われます。
私は以前、中国の高校で日本語を教へてゐた事があります。その学校で使つてゐた教材は『新日本語の基礎』といふ教科書でしたが、その附属カセットでは「第10課」は「だいじゅっか」と吹き込まれてゐて、私は初めてそれを聴いた時に驚倒しました。『新日本語の基礎』は外国人用日本語教科書の中では最大のシェア(あるデータに依ると60数%)を占める教材なのですが、そのやうな誤りがあるにも拘らず、一向に訂正される気配がないのは、現場の日本語教師からの指摘がないからでせう。どうやら現場の日本語教師の大半は「第10課」を「だいじゅっか」と読む事に違和感を感じなくなつてゐるといふ事のやうです。
私は先生に東京を案内します。(不可)
私は先生に東京を案内してやります。(可)
私は先生に東京を案内してあげます。(可)
私は先生に東京を案内して差し上げます。(可)
※私は先生に入会方法を案内します。(可)
失禮なのは私かも。
來月まで賣れ殘つてゐたら買ふかも。今月はちよつとやつぱりいろいろと。
皆さんに是非お伺いしたいのですが、
(1)私は先生に東京を案内します。
といふ文は日本語として正しいものでせうか。私の語感では不自然だと
思ふのですが、どうも確信が持てません。
>『妖精の森』を買へとでも?
どうも失礼を。↓あのやうに書いてをられたので、
「詳細希望」を御希望なのだと誤読してしまひました。
>(無題) 投稿者:野嵜 投稿日: 1月11日(日)18時19分52秒
>と言ふか、誰も『妖精の森』の詳細を希望しないけれど。
なんかいよいようちの電子テキストコーナ、不要になつて來たやうな氣が。
『妖精の森』を買へとでも? 貧乏なので同人誌一册に一萬圓出すのは無理です。
「買へ」と云ふ書込みが百件(全部別人による)あつたら檢討します。
きちんと正字正仮名で表示されてゐて、清々しい気分になります。(書込みが略字で失礼します。)素晴らしい御仕事です。参考になります。
「表音的仮名遣は仮名遣にあらず」対校
http://snob.s1.xrea.com/2003/11.shtml#nov2901
橋本進吉電子文庫( http://home.q02.itscom.net/tosyokan/hasimoto.htm )
「詳細希望」を御希望のやうなので、『妖精の森』の詳細希望。
でも、私は吾妻ひでおの名前を知ってゐるだけで、彼の作品の
マンガ界における意義についてまったく無知なので、
教へていただいても猫に小判ではありますが。
電子テキストの橋本進吉の論文を読ませて(利用させて)いただきました。
誤記らしきものを見つけたので御報告します。(勘違ひかも知れませんが)
「表音的仮名遣は仮名遣にあらず」では「永くつゞゐた」。
「仮名遣について」では 、「「う」の假名も「牛馬」の時には「ウ」とよみ」の「牛馬」が
どうも変です。
>「入荷する」の場合、動作・作用を表はす爲に使はれる場合と、>時間的推移や状態を表はす爲に使はれる場合とがあるやうに思はれます。「出荷する」は、>もつぱら動作・作用を表はすのに使はれるやうな氣がします。
場所を主体に考へると、「入荷されて、そこにある物」は実体がありますが、
出荷した物の実体は失はれるわけですから言ひ表はし様がありません。
その辺に差が生じたと考へられさうですね。
岩波国語辞典だと、「出荷」は他動詞で、自動詞・他動詞のどちらにもなる「入荷」とは非對象になつてゐます。「出庫」「入庫」も同樣。
>「本が出荷した」などと用ゐないのは慣例的なもので、辞書の解説はそれに倣つただけの気もします。
そもそも文法と云ふものが、實際の用例を理論的に體系化したもので、辭書を根據に「正しい」「間違ひ」と言ふのもアレなのですが。
自動詞・他動詞にしても、日本語の場合、問題がある事は、先日にも話題になつた通りです。自動詞についても問題があつて、岩波国語辞典の品詞概説に以下のやうな記述があります。
また自動詞の意味も単一ではない。「行く」「寝る」などはみずからそうするのであるが、「見える」「聞こえる」「老いる」などは自然にそうなるのである。後者は動作や作用を表すというより、時間的推移が考えられるような状態を表すといえよう。
「入荷する」の場合、動作・作用を表はす爲に使はれる場合と、時間的推移や状態を表はす爲に使はれる場合とがあるやうに思はれます。「出荷する」は、もつぱら動作・作用を表はすのに使はれるやうな氣がします。
しつこい様ですみませんが、余計分らなくなりましたので引続き失礼します。
「売る」との違ひは分るのですが、出荷と入荷の対比については如何なものでせう。
「本が入荷した」があり得るならば「本が出荷した」もをかしくないはずです。
「出る」も「出す」も有得るわけですから。
「本が出荷した」などと用ゐないのは慣例的なもので、
辞書の解説はそれに倣つただけの気もします。
といふか、「入荷」も「出荷」も単体では名詞であるわけで、
「する」「される」の付け方によつて自動詞と他動詞の違ひを
話者が明示できるものと考へれば、さう使ひ分けた方がよいのかもしれません。
これはもう正誤の次元でなく、私自身の意志の表明でしかありませんが。
と言ふか、誰も『妖精の森』の詳細を希望しないけれど。
他動詞だと「荷を入れる」、自動詞だと「荷として入る」という感じでしょうか。
口語的表現としては「『妖精の森』が売っていた」もあまり違和感を感じない方なので、「〜が入荷していた」も気になりませんが、むしろ「『入荷する』は自動詞(たりうる)」ということの方に違和感を感じます。
「入れる」だと他動詞なのですが、「入る」だと自動詞になります。そこで「入荷する」となると自動詞・他動詞の兩方が「あり得る」訣で。
「賣る」は他動詞でしかあり得ません。
その邊に違ひがあると思ふのですが……。
自動詞「賣切れる」では、「本が賣切れる」と云ふ文が成立します。
辞書にさうあることは了解いたしました。
個人的にはやはり違和感がありますが、私の方がをかしいのでせうね。
ありがたうございます。
むしろ元々のログをXMLで用意し、そこからXSLを使ってRSSもXHTMLもindexの更新履歴も作るような…本来そういう利用をして楽をする爲の道具であるXMLがSGMLとかHTMLとかと同じようにしか使われていない現状はこれから段々と変わっていって欲しいところです。
そういう利用の仕方をしないならXMLよりSGMLの方がずっと使い易いと思いますし、XHTMLなんか後方互換性を切り捨ててまでソレである必要が無いと思われます。
> RSSのテキストが、RSSリーダによつてパースされる事はあつても、それ以外のXMLツールで何らかの處理をされ、スタイルシート等を利用したデータの變形によつて別のアプリケーションで利用される、等と言つた實態がある、とは聞かない。
RSSを提供しているサイトでは、(IE, Mozilla等に対して)RSSにXSLスタイルシートを適用させてXHTMLとして表示させている例も見かけますが、それが正に「それ以外のXMLツール」での処理例にあたるものかと。
(ブラウザはRSSファイルをXMLとして扱い、XSL変換してXHTML文書として表示)
平成十六年一月九日
「しかし小林は、さう云ふ方面からの理解に頼つてゐない。」
上記部分のddタグがきちんと閉ぢてゐないやうです。
Mozillaでは問題ないのですが、w3mだと妙なレンダリング結果になります。
「出荷」だと「荷を積み出すこと。特に、商品を市場に出すこと」を意味し、「本が出荷した」は誤、「本が出荷された」が正しい、と云ふ事になります。
一方、「入荷」は、「出荷」の對義語として「荷を入れること」と云ふ意味もありますが、「荷が商店などにはいること」の意味も辭書には載せられてをり、「本が入荷した」の形で使はれる事もあつて良い筈です。
例によつて典據は岩波国語辞典第三版。
そっちのほうでしたか。とらうまへのツッコミかと思ってゐました。
関連リソース。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/kotoba/Utteita.html
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1071246734/374-
>中野書店に吾妻ひでおの『妖精の森』(虎馬書房)が入荷してゐたよ。
わざとなのでせうか?
呉智英の本は『現代人の論語』です。
それと、宮崎市定『現代語訳論語』は『論語の新研究』の一部を本にしたものですが、
もとの本の考証篇のほうがおもしろいやうに思はれます。
毎度どうもです。またそのうち何かにかこつけて集りませう。今度は人けのない場所で。何と言ふか本當に殺伐としたオフ會に……。
1月3日の例の件ですが、実はあの後都合により撤退してしまいました。呼び出ししたまま帰ってしまい、申し訳ないです。
というか、人ごみは本当に駄目なんです。落ち着かないですし。疲れますし。隣人の肩がぶつかったら嫌な目に遭いそうですし、相手が。
古本市 フレーザーの「呪術と宗ヘ」を立ち讀み。すると近くで喧嘩發生。爺さんと若造。爺さんが一発背中に食らはして一件落着。
> 腰が痛い。
お疲れですね。ゆつくり休んで下さい。
けふはどうもありがたうございました。本年も宜しくです。
んでもつて歸宅。腰が痛い。
ただいま起床。これから出撃する積りです……。
あけましておめでとうございます、本年も夜露死苦宜しくお願いします。
というか、たった今京王百貨店へ行ってきましたのですが。。。本日はどうしましょうか?
今年も時々お邪魔します。
皆様、どうぞよろしくお願ひします。
野嵜様。おめでたうございます。今年もよろしくお願い致します。
現在、體内時計が半日ふつうの時間とずれてゐるので、「反省會」はできれば三日にしたいのですが……本日、十一時に寢て十九時起床。
年が明けやがつたよ。まあ今年もよろしくと云ふ事で。何がよろしくですかねえ。我ながら。