>ほかの人のご意見をうかがいたい。
憲法なんて心底どうでも良いので深く考察する氣はありません。なので野嵜氏の意見で良いのではないでせうか。彼とは何度か一緒に酒を呑んだことがあります。
役に立つとは思へませんが、これがお望みでせうか?>一読者氏
直しておきました。失禮しました。
>安岡氏の著書bit 別冊「インターネット時代の文字コード」については、池田証寿氏が『文字コードの世界』で書いてゐて
と、↓のURLのページにあるのですが、この部分には何か勘違いがあるように思われます。池田さんが「文化的背景を語るために―安岡孝一・安岡素子『文字コードの世界』に寄せて―」をお書きになったのは2000年4月16日ですから、この時点では『インターネット時代の文字コード』(共立出版、2001年4月)は刊行されていません。http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/Dennoshakai.html
>一読者氏は「自分は無謬である」とでも思ひ込んでゐるやうで、野嵜の言つてゐる事を端から誤と極附けて嘲笑してゐるやうです。
>けれども、一読者氏は、端から「野嵜の言ふ事は全て誤」と極附けて、論理的に野嵜の發言を檢討しようとしてゐません。
さうではなく、一読者氏は「いい人」にありがちな他人との意見の対立がはっきり認識できない御方なのでは? 野嵜氏の意見に対しても「嘲笑」してゐる気配は無い(だから困る)と思ひます。
と言ふか、「野嵜以外の人の意見しかききたくない」と言ふのであれば、一読者氏はこの掲示板に書き込まないで、何處か餘所で「議論」をしたら如何かと。
野嵜は別に自分の意見が常に絶對的に正しい等とは思つてゐませんが、一読者氏は「自分は無謬である」とでも思ひ込んでゐるやうで、野嵜の言つてゐる事を端から誤と極附けて嘲笑してゐるやうです。けれども、一往野嵜は論理的に物を言つてゐるのであり、それに對しては論理的な檢討・批判が可能であると思ひます。けれども、一読者氏は、端から「野嵜の言ふ事は全て誤」と極附けて、論理的に野嵜の發言を檢討しようとしてゐません。それでは困ります。
「関係として理解するとわかることが多い」のは、「関係である」事の證明になりません。「それつぽいから眞實」式の説明をして證明した氣になるのは何うかしてゐます。
國家權力の理論にしても法律の理論にしても、西歐で成立した理論ならば、確かに神學に由來してゐます。そんな事は當り前の話です。けれども、理論を離れてそれ自體として見れば、國家權力は「力」ですし、法律は「正しさ」の觀念に基いたものです。
また、Godと物理法則の關係と、國家と法律の關係とを、比例的に捉へるのは、國家權力をGodと同樣の萬能の力を持つものと見る一つの見方に從つてしまふ事であり、その捉へ方をした時點で一読者氏の「國家權力は法律に優越する」式の考へ方に從屬する事になります。
しかし、單純に「法律が國家權力の道具である」と考へる事は出來ません。もちろん、さう云ふ風に法律が使はれる場合もありますが、さうなつた時の事を考へて「法律の番人」としての憲法が存在する、と云ふのが定説であり、「憲法は國家權力に優越する」と云ふのが一往、法治主義の常識である、と看做す事が出來ます。
私は、一概に法治主義が眞實である、等とは主張しませんが、現在の日本國が法治主義を採用してゐるのは事實だと考へます。そして、法治主義の日本國で、現行憲法が正しいか、明治憲法が正しいか、と云ふ議論が行はれてゐます。ならば、法治主義を前提に考察する事は日本の取るべき立場を考察する上で當り前の態度です。我々は、「日本は法治主義の國である」と云ふ「文脈」に基いて、「日本におけるあるべき憲法」の議論をしてゐるのです。そこでその前提を一読者氏は突崩さうとしてゐるのですが、いづれにしても一読者氏が「現行憲法は有效である」と理論的に主張出來ない事は自明です。
一読者氏は「國家權力が憲法や法律を有效に『する』」と考へてゐます。しかし、それは「憲法が有效『である』」事を意味しません。
法治主義の立場を取る事で、初めて憲法それ自體としての有效性を議論する事が可能です。
>国家と法律の関係は神と物理法則の関係として理解するとわかることが多い。神と物理法則の関係は「力」と「正しさ」の関係ですかね?
神と物理法則の関係をいくら議論したところで、それは国家と法律の関係を論じたことにはならない。
すでに述べたように国家の主権概念は神学をもととして成立したものです。国家と法律の
関係は神と物理法則の関係として理解するとわかることが多い。神と物理法則の関係は「力」
と「正しさ」の関係ですかね?
これから海外に出かけるのでもどってからまた書き込みます。
ほかの人のご意見をうかがいたい。
他人の意見は何うでも良いのです。なぜなら、いろいろな人が「意見を述べる」事は出來ても、「いろいろな意見」を述べる事は出來ないからです。
現在の議論については、論理的に以下の二つの意見のみが成立します。
1.「力>正しさ」ならば、「國家權力>法律」であるが、その時、法律自體に有效性は認められず、國家權力によつて全て恣意的に決定される。
2.「正しさ>力」ならば、「法律>國家權力」であるが、その時、法律自體の正しさが要請され、正しい法律のみに有效性が認められる。
一読者氏は、その1.の立場である訣ですが、現行憲法の有效性を主張出來ません。私は、2.の立場ですが、やはり正統性の觀點から現行憲法の有效性を主張しません。2.の立場の場合、現行憲法の有效性を主張する立場はあり得ますし、檢討を必要としますが、一読者氏が指摘した通り「便宜上有效とする」と云ふ以上の主張は現状、存在しないでせう。そして、便宜主義による正當化は、論理的な檢討のみが許される「法律議論」において許されません。
よつて、いづれの場合にも「現行憲法は無效である」と云ふ同じ結論が出る、と私は考へます。ならば、「何んな場合にも現行憲法は有效性を主張出來ない」と云ふ事になります。
論理的に「現行憲法は無效である」と云ふ事になります。これに反對するには、一読者氏は1.の立場を捨てなければなりません。1.の立場をとる以上、一読者氏は「現行憲法は無效である」と言はなければなりません。
現在、一読者氏は、「國家權力は恣意的に法律を撰擇し得る」と主張してゐます。けれども、その時、法律が法律として有效なのではありません。單に權力が法律を利用してゐるに過ぎず、實は權力が有效であるだけです。一読者氏の説で、法律は法律として有效であるのではありません。
いくらでも書けますが、その前にもっといろんな人の意見を聞きたいと思います。
法治主義の立場を取らないなら、そもそも法律全てが(憲法も含めて)無效でせう。
野崎氏へ質問です。
つまり「日本が法治主義の立場を取らないならば、現行憲法は正統性が無くとも有効である」という事ですか?←この後半の文章は変だ。
>一読者氏へ
一読者氏が「法治主義」をどのように解釈しているのかハッキリさせてもらいたいもんです。「法治主義」を認めるのか否か。
法治主義を支持するならば法律の「正統性」を明らかにせねばならない。此処で言う「正統性」とは「正統らしき性質」のものでもいい。
法律の根拠は「正統性」であって「正当性」ではないから。「正統」な憲法及び下位の法律によって裁かれる「不当」な判決というものもある。まあ、この場合「不当」というのは「正統性」によって法治主義の立場からは「正当」と判断されるのですが…。
まだ詳しく読んでいないので仕事が終わったら書かせて頂きます。よろしく。
これから飲みに行きます。これも仕事…。
現行憲法無效論は、「日本が法治主義の立場を取るのならば、現行憲法は無效であると言はざるを得ない」と云ふ主張です。
「もしAならばBである」と云ふ指摘に對して、「Aと云ふ條件を疑つてゐないから愚かである」と云ふ指摘をするのは、論理的に意味がありません。もちろん、「Aと云ふ條件は何時いかなる場合にも成立しないからBと云ふ結論が出る事は絶對にない」と云ふ批判の仕方はあり得ます。が、一読者氏の批判は、「日本は法治主義ではあり得ない」と云ふものではありません。
>すると、現在は無効な憲法が国家権力の横暴によって幅を利かせていることになる。ここまで認識しているのでしたら、なぜ「法の支配」などまやかしかもしれない、と考えないのですか。
一読者氏は、現在の日本の状況は「国家権力の横暴」であると言つてゐます。現在の日本の状況は、「法の支配」が實現してゐる状況ではありません。
ならば我々は、なぜ「法の支配」などまやかしかもしれない、と考へなければならないのですか。
實際のところ、「非常時に憲法が停止されるかも知れない」と云ふ事はあり得ます。が、そんな事は、我々は承知してゐます。けれども、今は非常時ではありません。今は平時です。そして、法治主義は平時のものです。平時において、「法の支配」は暴力の支配に對してそれなりの效力を發揮します。相當の暴力に對しても、法による秩序は強力な對抗的力を發揮します。但しそれは、秩序としての法が整備され、鞏固である場合にのみです。暴力に對抗する手段としてより有效である爲に、法はより整備され、論理的に武裝してゐる必要があります。現行憲法はその爲には脆弱である、と言へます。
> 本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クルコトナシ
この部分の事を言つてゐるのでせうか。其れならもう少し現代的に手を加へる事も可能かも知れないでせうね。「政治神学」ではどのやうな憲法が対象とされてゐるのかは解り兼ねますが、かう云ふ条項が在る以上は、「外国からの侵略やあるいは内戦」に依つて、憲法の停止を宣言する必要は無いと考へます。この条規に基づいて非常時の対応が実施可能だと思ふのですが、其の場合、此れをどう運用するかが問題になるのだと思はれます。
> 現在は無効な憲法が国家権力の横暴によって幅を利かせていることになる。
其れだから「現行憲法」を無効にしろとは主張してゐないんですけど。何も現在効力を失つてゐる帝國憲法其のものが全て正しいとは思つてゐませんよ。何か勘違ひしてゐませんか。因みに、私は唯単に「帝國憲法に戻せ」とは主張してゐません。帝國憲法の必要な改正は当然に行はれる事を条件としてゐます。
>法の支配というルールにみじんも疑問を感じていないのですから。
この一読者氏の指摘は、極めて重要な指摘です。
慥かに、法治主義を否定する立場からは、法の正統性を議論する事はナンセンスであると言はざるを得ません。
しかし、「明治以來、日本は法治主義をとつてゐる」と云ふ現實があります。そして、現在も日本は法治主義の立場である事になつてゐます。現行憲法無效論の立場の人間は、必ずしも法治主義が絶對の眞理であるとは信じてゐません。ただ、法治主義を唱へてゐる日本が現行憲法を保持してゐる事は「法治主義の立場から言つてをかしい」と指摘してゐるのです。
逆に言ふと、「現行憲法で良い」と主張する爲には、法治主義を踏み躙らなければなりません。しかし、それは「現行憲法でなくとも良い」と云ふ主張とイコールです。
以上の文章は、カール・シュミットの「政治神学」を私なりにかみくだいて説明したものです。
「憲法は決して停止できない。非常事態の場合、憲法とともに国家が滅亡するのもやむをえない」という立場は、いわゆる「理神論」=「神の力は天地創造のときのみに発揮され、あとは神様は
世界の運営を自らがつくりだした物理法則に任せっぱなしで、奇跡といった形での介入は行わない」という立場に相当します。
何かあればまた。
とすると、別に日本が攻められる非常事態ではなくても、国家の本質が明らかになっ
ていることに気づきます。
日本国憲法は第9条で武力の保持を明確に禁じています。ところが、日本は自衛隊を
持っている。89条で禁じられている私学助成も行っています。
こうした「解釈改憲」は何も現憲法だから生じたわけではない。仮に憲法を改正し、
現実に合うように改正したからとて、こうした「解釈改憲」は確実に起こるでしょう。
憲法とはそういう危ういものです。現憲法と旧憲法が断絶しているのは事実ですが、
こうした危うさのなかで、そこまで法の支配を無邪気に信頼できる感覚を私はあやしみます。
仮に現憲法が無効で、旧憲法こそが正しいものとします。すると、現在は無効な憲法が
国家権力の横暴によって幅を利かせていることになる。ここまで認識しているのでしたら、
なぜ「法の支配」などまやかしかもしれない、と考えないのですか。
私に言わせれば
「旧憲法と現憲法の断絶を重視し、旧憲法に立ち返れという論者」
「現憲法は現実にあわせて改正しろと主張するものの、改正憲法がふたたび解釈改憲に
さらされることを考慮にいれていない論者」
「現憲法に合わせて自衛隊を廃止し、私学助成をやめろと説く論者」
はいずれも同じです。法の支配というルールにみじんも疑問を感じていないのですから。
こんばんは。
議論はすでに終わりにしたつもりでしたが、仕事にもいささか疲れたので、日常から離れた
議論をさらに楽しみたいと思います。
野崎氏の発言より
しかし、さうした強力な國家權力が、恣意的に法律を運用し、無制限に國民を壓迫するのを防ぐ 爲に憲法があります。憲法は、法律の法律と呼ばれますが、國家權力による恣意的な法律の運用 を防ぎ、國民の權利を守る爲にあります。
そこで一読者氏のやうに「国家権力は憲法に優先してある」と云ふ發想で憲法の議論をされて は、國民としては困る訣です。「国家権力は憲法に優先してある」と云ふ一読者氏の發想は、爲 政 者の發想であり、國民の側に立つてゐません。
まったく平常時においてはその通りです。土井たか子の発言だとしても少しもおかしくない。
ただ、現憲法無効などという議論を持ち出すほど現実から飛躍した思考実験を好むのならば、非常時のことも考えてみましょう。
日本が外国からの侵略やあるいは内乱によって、国家の存続が危うくなったとします。
この場合、憲法が規定している国会などの制度や言論の自由などの人権の保障などは、機動的な
政治判断の妨げとなりかねません。内閣総理大臣になるのか、天皇になるのかいざとなってみないと誰かはわかりませんが、こうした事態に憲法を停止し、国家権力が国会などの制度を無視、人権を制限するということは十分に考えられることです。こういう場合にも国家が憲法を守って憲法と
ともに滅びるのが国民のためなのか、それとも憲法を無視して国民を擁護する国家が
国民のためなのか、は考えるに値するテーマです。
誤解のないように付け加えますが、私は有事の法整備をきちんとしろ、などと言いたいわけではありません。有事立法は有事のときにも「法の支配」の原理を貫徹したい、という意識の
表れではあります。ただ繰り返していうように、国家権力があるから憲法があるわけで
その逆ではない。ゆえに緊急時に憲法は停止できます。
こうした考えはすなわち、神と物理法則の関係そのものです。神は全能で、天地を創造し、
物理法則を作りだしました。しかし、神は全能ですからいざという場合には物理法則を
いつでも無視できます。りんごが地面に落ちるとは限らない。空中に浮揚することもあるし
突如としてみかんに変わることもあります。こうした物理法則を無視した事態を「奇跡」
と呼びます。
上で私が指摘した非常事態とはすなわちこの「奇跡」です。奇跡によってこそ神の存在
が明らかになる。同じように、非常事態によってこそ国家の本質が明らかになるのです。
それは大韓民國の人名ですがな。
裴勇俊
崔志宇
李炳憲
張東健
元斌
朴龍河
柳時元
尹孫河
まあ、色々な経緯があつての現在の「言葉 言葉 言葉」なのだらう事は、大体察しが附いてはゐました。唯、サイトの管理者が、手を加へたいと云ふ考へのある事は、今回の日記を読んで改めて知る事が出来たと思ふんです。其の侭放つておいていいものでもないですしね。
実は、私も仮名遣に重点を置いたサイトを立ち上げようと思つてゐた処なのです。先づ、電子テキストを打込んで、年代順に分けて公表してみようと構想を練つてゐます。或る程度形になつた処で、構想を固めてから公表する考へがありますが、まだ、いつ立ち上げるかは決めてゐません。
私が思ふに、正字正かなに批判を加へる人は、あまりにも安直にものを決め附けてゐるやうに感じられます。一体、反論者自身が物事をどれだけ掘下げて思考してゐるのかが、殆ど見えて来ないんですね。唯、表面に見える部分だけを論つて脊髄反射の如くの受答へばかりでホトホト疲れると云ふものです。新しい表記を推奨するのならば、餘程の注意と何手も先読みをする豫測を充分に練つてから始めてものが言へるんだと考へてゐたものですが、こんな感じぢやあ全然話にもなりませんよ。であるからして、其のやうな安直な反論に対して確りとした論拠を示せるだけの資料としてのサイトぐらゐは私も作るべきと感じてゐた処でした。まあ、行く行くは、表音主義やカナモジや羅馬字に対しての実質的な反駁のリソースも立ち上げるやうになるかも知れません。豫定は未定ですが。
其れにしても、実生活の関係とかもあつて、此ればかりに関つてばかりもゐられないのも現実です。お互ひ時間と相談し乍ら進めて行きませうや。とまあ、こんな感じです。
確か、福田恆存氏が「當用憲法論」に書いてゐたやうに思ひます。
国家として民族としての尊厳を守るには、一度明治憲法に立返ることが効果的であると思ひます。そして明治憲法を民主的に改正するのです。
実現しないとは思ひますが、それが出来ない限り我国は二流国家であり続けるのです。
「現行憲法」の期限切れですか。此れは考へにありませんでした。
私の考へでは、「現行憲法」の無効を決議する前に、事前に、帝國憲法の改正議案を作成しておいて、「現行憲法」の無効を決議と同時に自立した国家の民主的な憲法に改正する帝國憲法改正議案の決議を行ふと云ふのを考へてゐました。其れも、下位の法律の効力の留保を提起した上での話です。
其れか、もう一つには、変則技ですが、「現行憲法」の改正と銘打つて、中身を全く入替へると云ふ方法も出来ると思ひます。実際の中身は帝國憲法の改正した後の姿として、此れを「現行憲法」改正の後の新憲法法案として提出して決議を行ふと云ふ方法です。新憲法の前文には、是非とも日本国の誇りと素晴しさ明文化して書き加へて貰ひたいものです。
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万葉仮名は、字音を借りたものは固より、字訓を借りたものや、「十六」と書いて「しし」と読ませるやうな複数の漢字で一定の音を表すものなど、多種多様でした。其の上に上代特殊仮名遣を使ひこなさなければなりません。読むのも難しいのですが、此れを書くとなると、相当の知識と見識が必要とされます。でも、或る意味で継承してゐるとも見えますね。
香港
桑港
沙港
星港
亜港
尼港
阿媽港
一寸亀ッてしまつたが、一往、調査してゐたと云ふ事で許して欲しい。
種明し
http://www.geocities.jp/laihama/bunsyo/kamireki.html
現行憲法無效論についてですが。締切が目の前なのに順調に仕事が遲れてゐて詳細を書いてゐる暇がないので簡單に。現行憲法については「戰時立法」だか何だかの類で一時的に有效である事が必要であつたと解釋し、その間の法律の有效性を認めた上でそれを必要とする状況が終了したとして現時點を以て現行憲法の有效期間が終了した事を宣言し、明治憲法を正統の憲法として復活させた上で即座に(と言ふ事は事前に用意しておく訣ですが)民主的な内容の憲法に改める、とさう云ふ方法で何とか出來るだらうと福田さんが慥か述べてゐたかと。一往これで形式的な法律の連續性を維持する事は出來る筈です。とは言へ、昭和三十年代から現在まで長い時間が流れ、現行憲法無效論で憲法の權威を維持すると言ふのは、當時以上に茶番として見られるでせうし、それゆゑ、正統性・連續性よりも實利を優先する考へ方をする人には支持され得ないのでせうが、だからと言つて、實利を優先され、理を無視されれば、理を以て暴力を抑へ國民を守る法治主義が崩潰する訣で、結果として國家權力による暴力を國民は甘受しなければならない事となり、それでは一國民として困る。
日本の古典的かなづかいを継承しているのは暴走族のにぃちゃんたちで、あのさわがしい暴走は彼らなりのますらおぶりの表現だったり。
仏恥義理
世露死苦
愛羅舞勇
そういえば、先日何かの番組で、昭和天皇が帝国議会で日本国憲法を公布しておられた映像がでていました。
摩訶末
塔什元
大食
呼羅珊
薩末鞬
縛達
的迷失吉
阿刺比
答へを書いておきます。
ニュージーランド(New Zealand)、
フランス(France)、
ベルギー(Belgium)、
フジテレビの番組でのIQ問題、なぞなぞの領域といふか、オヤジギャグといふか、
何故かあの手のクイズはほぼ全てとんちレベルの論理である樣な氣がします。
さういふ事を言つているともしかして一休さんの樣なとんちの論理の方が一般的なのではないかと嫌な考へが頭をよぎりました
これはなんと読むでしょうか?
新西蘭。
仏蘭西。
白耳義。
明らかに法律論に於ける「正統性」の概念と「正当性」の概念が混同され曖昧になっている。
二読者氏感謝。
意外と地味ですね、と云つて良いものなのでせうか。
根拠の全く無い権力という化け物は古今東西に亘って存在した事が無い。
「不当」と思われる権力なら存在する。逆もまた真であり「正統」と思われる権力も存在する。
一読者氏は「不当」な権力と「根拠の無い」権力というありもしないものを混同しているのではないか?平たく言えば近代以前は「力(宗教も含める)」が権力の大きな根拠であった。それは今も変わらないが近代以降は「力」以外に権力の根拠を求めるようになっただけのこと。
澤田様
以下は如何でせうか。
http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/04gaisetsu.html
<引用 title="(無題) 投稿者: 一読者 投稿日: 4月21日(木)00時08分1秒 nttkyo034174.tkyo.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp">
一応は帝国議会の手続きを経て大日本帝国憲法の改正手続きに沿って制定されたもの
</引用>
といふのは、何を見たら分るのでせうか。
やつと野嵜さんのお出ましですね。お疲れ様です。帝國憲法には、日本国が近代国家として其の事実を内外に表明する目的もあつたと思ひます。其の為に、其の当時の最先端だつた西欧の国家を範としてゐたのでせう。帝國憲法は、自立した国家の為の憲法でした。
> 現憲法下の元首が誰なのかについては定説がない
「現行憲法」は占領された国の為に作られた「憲法」です。なので「現行憲法」には明確な元首の条項がありません。唯あるのは「象徴」と曖昧に定義された天皇だけです。GHQの占領統治下に、元首は必要なかつたんでせうが、結果的に天皇の条項を「現行憲法」でも排除できませんでした。其の結果が曖昧な「象徴」としての天皇なのです。でも、現在、天皇がどのやうな仕事をなさつてお出でかを考へてみれば自づから答は出て来るものと思ひます。現在の日本国は独立国家ですから、事実を憲法に反映させるべきと考へるのも当然の事です。呉々も元首と清朝の雍正帝のやうな専制君主とを混同しないやうにして下さい。
下位の法律云々の話ですが、「現行憲法」無効と同時に効力の留保の措置を採れば充分でせう。
「犯罪者」氏が自分の「犯罪」を無效とする爲に現行憲法無效論を唱へた時、單に國家權力でその主張を押潰すのは――それは可能であり「現實的な對應」であるかも知れませんが――得策とは言へません。なぜなら、その時、「犯罪者」氏の主張は論破された訣ではないので、「犯罪者」氏に理がある事になつてしまふからです。言換へると、その「犯罪者」氏の主張を力づくで否定した國家權力の方には理が無い、と云ふ事です。
一読者氏は、現行憲法を守つた積りなのかも知れませんが、實際には現行憲法の存在意義そのものを否定してしまつてゐます。
一読者氏は斯う書いてをられます。
>要するに、憲法があるから国家権力が存在するのではなく、国家権力は憲法に優先してあるわけです。国家権力は究極的に無根拠です。正統性うんぬんの議論はこうしたことを認めた上での
つまらないゲームにすぎません。
しかし、さうした強力な國家權力が、恣意的に法律を運用し、無制限に國民を壓迫するのを防ぐ爲に憲法があります。憲法は、法律の法律と呼ばれますが、國家權力による恣意的な法律の運用を防ぎ、國民の權利を守る爲にあります。
そこで一読者氏のやうに「国家権力は憲法に優先してある」と云ふ發想で憲法の議論をされては、國民としては困る訣です。「国家権力は憲法に優先してある」と云ふ一読者氏の發想は、爲政者の發想であり、國民の側に立つてゐません。
國民としては、國家權力に對抗し、國民の權利を守る爲に、有效で、より權威のある憲法を必要とします。その點、正統性に問題がある、成立の過程に疑義を含む現行憲法は弱い。
明治の時點で日本の國家體制は一度切れてゐます。明治になつて日本は西歐の流儀を採入れて近代的な統一國家を形成しました。だから、そこで近代的な憲法を作るのは自然です。そこで、「なんで突然、憲法なんて出來たんだよ」と疑問を述べても、仕方がありません。明治に日本は、それまでの流儀を止めて、西歐の流儀を採用したのです。そして、現在も明治に採用した西歐の流儀を、日本は採用してゐます。だから、明治以來の體制・方針を堅持する事だけが、國家の體制を考へる上では必要である、と言ふ事が出來ます。さう云ふ意味で、明治憲法の正統性なるものを疑ふべき理由は全くありません。明治憲法は日本の史上、初めて作られた西歐的・近代的な憲法である、それだけの話です。
さて、「現行憲法を無效にすれば、法律も無效になる」と云ふ一読者氏の説ですが、それが妥當だとすれば、尚更現行憲法は無效であると一刻も早く宣言し、正當な改正手續きを經て有效な憲法を成立させなければなりません。
その種の法律に據つて明かに「犯罪者」とされるべき人がゐたとします。その人が、自分の「犯罪」を成立させたくないが爲に、法律そのものが無效である、と主張しようとしたとします。その爲に、現行憲法そのものが無效である、と主張したとします。
>無効な法律によって裁判を受けた人によって国家賠償の訴訟が起こされる可能性ももちろん
あります。戦後すべての裁判が無効な憲法の裁判制度により、無効な法律により行われた
のですから。
正に一読者氏の言はれる通りです。
さう云ふ「犯罪者」の主張を、單純に「認めない」の一點張りで押潰すのは如何なものかと思はれます。
一読者氏は「明治憲法の正統性をこそ先づ反省すべきである」と指摘されましたが、それを反省したところで、現行憲法の正統性を認める事は出來ません。明かに、現憲法の成立には疑義があります。一読者氏は、思想的な理由で現行憲法無效論を主張する人を非難してゐますが、「犯罪者」氏のやうな動機で現行憲法無效論を主張する人があり得る事を考慮に入れてゐません。
明治憲法下の元首は天皇ですが、現憲法下の元首が誰なのかについては定説がない、といふのを読んだ記憶があります。一般向けに書かれた法律に関する読み物かなにかで。
ここらへん、平野さん(誰)とか詳しさうなので、聞いてみたいです。
大日本帝國憲法が無根據であると主張するのは、假名遣が無根據であると主張するのと同じでせう。
色々と書いて置いたんですが、仕方ないから此れだけは書かせて貰ひます。
> 旧憲法は突然天皇が俺は偉いと叫び出したという構図で、こんなものを正統的なものとして受け入れなくてはいけない理由はどこにもないんです。
天皇は今も昔も日本国の元首です。明治維新以前の時代も征夷大将軍を任命してゐたのは天皇でした。昔から御璽や国璽を捺印できるのは天皇だけです。帝國憲法発布で突然「俺は偉い」などと叫んだ訣ではありません。
旧憲法の正統性には疑問を感じないわけですね。つくづく不思議な人々です。
旧憲法も無根拠であるのは同じだということを考えたことがないわけですな。
この議論はこれでやめます。
それは比較論でしかありますまい。
日本人が自ら作つた大日本帝国憲法と、戦勝国に押付けられた当用憲法。
正統性といふことならば、私は前者に軍配を上げます。
民族にとつて最も重要なものは文化です。その文化の華である言語は、占領下に行はれた国語改革でずたずたにされました。
近代的な法治国家にとつて法律はなにより重要です。同じく、占領下に作られた現行憲法は、虚偽または誤つた世界認識に基づいた碌でもない代物であります。第一、占領下の国家には不完全な国家主権しか行使できませんし、現行憲法がGHQから押付けられた憲法の英文和訳にしか過ぎないことは歴史的事実です。その憲法草案ですがGHQの権限が極東委員会によつて制約される前に駆込みで作られたものに過ぎません。現行憲法の正統性に、私は強い疑問を感じます。
何よりも大切なことは正統性を取戻して、文化と国家体制を正常化することだと思ひます。個々の法律の有効性を確認することは、技術的に解決できる各論でしかありません。
むなしくなってきたので、下で述べたことと論点をずらしたことを書きます。
現憲法の成立に疑義があると指摘する人は多いのですが、こうした人々は大日本帝国憲法は
なぜ正統的なものとして受け入れることができるんでしょうか。同じ日本人がつくったからですか?
旧憲法は突然天皇が俺は偉いと叫び出したという構図で、こんなものを正統的なものとして受け入れなくてはいけない理由はどこにもないんです。60年近くも存続した現憲法の無効を説く人々を思わず笑ってしまうのはこういうことを少しは考えたことがあるのか、と言いたくなるからです。
要するに、憲法があるから国家権力が存在するのではなく、国家権力は憲法に優先してあるわけです。国家権力は究極的に無根拠です。正統性うんぬんの議論はこうしたことを認めた上での
つまらないゲームにすぎません。
現憲法は確かに正統性にいろいろ議論がありますが、一応は帝国議会の手続きを経て大日本帝国憲法の改正手続きに沿って制定されたもので、下位の法律がそのまま存続するのは当然です。
憲法を改正する場合、下位の法律との整合性の問題はありますが、下位の法律が
自動的に無効になることはありません(刑法200条が憲法14条に反し無効との判断が出たように、裁判によって個別に無効と判断されるケースはあります)。経過措置を経て順に改正を進めていけばいいわけです。
ただ現憲法を無効と決議したら、そもそも戦後できた法律すべてが無効な国家機関により
制定されていたことになり、それをそのまま存続させたら法の支配という大原則が宙に浮いてし
まいます。下位の法律が自動的にすべて無効となる、と主張するゆえんです。
新たに発足させた衆議院と貴族院によって(衆議院はもちろん男のみで選挙)下位の法律をいったん追認する決議を行う必要があります。
> 改正は改正前の法制度を是認したうえで、行うものです。
この言葉は、「現行憲法」にこそ表現されねばならないと私は感じますが、如何なものでせうか。占領下に制定された「憲法」ですから、改正前の法制度云々など考慮される由もありません。然も、確りとした手続も経てはゐません。又、「現行憲法」が制定された当時、実際には其れ以前から制定されてゐた下位の法律も其の侭有効であつたものも在ります。前例がありますから、実際には「現行憲法」の無効決議と同時に下位の法律を無効にさせる事は出来ないと判断します。若し、下位の法律を廃止するのならば、其れ相応の処置をするべきです。
或る法律を施行する場合は、通常ならば補則の記述で新たに制定される法律の以前から存在する内容の重複する法律を廃止する措置が採られます。然し乍ら、「現行憲法」の場合は、其の措置が採られてはゐません。現在「帝国憲法」は「現行憲法」が有効になつてゐる関係上、失効してゐますが、完全な廃止とはなつてゐないと私は見てゐます。
帝国憲法の時代には国家無答責が原則でしたから、現行憲法を無効にして帝国憲法の有効を確認すれば、一時的に国家から損害賠償の責任はなくなります。(国際的にも当時はそれが普通であつたらしい。)
勿論、当用憲法時代に行われた国家賠償は無効とせず、帝国憲法については国家賠償の規定を含めて現代社会に相応しい改正を施せば良いのです。
平頭通氏へ
無効と改正は違いますよ。無効だとしたら、即時、下位の法律も無効となるのが自然でしょう。
改正は改正前の法制度を是認したうえで、行うものです。
無効な法律によって裁判を受けた人によって国家賠償の訴訟が起こされる可能性ももちろん
あります。戦後すべての裁判が無効な憲法の裁判制度により、無効な法律により行われた
のですから。
「い」を「ゐ」と書くといふのは認識に誤りがある。
「ゐ」を「い」と書いてゐるのが実態ではないか。
> 現憲法が無効だとすると、戦後成立した法律は同時にすべて無効となります。
其の論で行くと、「現行憲法」を改正するにしても、戦後に成立した法律全てについて「改正憲法」の条文一つ一つに整合するか否かの判断を下さなくてはならなくなります。であるから、現在の日本国の実状に合せて各条文の改正と私は表現したんです。憲法を現状に合はせれば戦後成立の法律を無効にする迄もないと考へます。
若し、戦後成立した法律が無効になるのなら、当然、「常用漢字」や「現代仮名遣い」も無効になる訣ですね。私としては其のはうが好都合だが。
「現行憲法」は、敗戦国の悲哀ッて奴ですね。
憲法改正の機運が高まつてゐますが、砂上の楼閣を如何に改修したとて、土台が腐りきつてゐるのですから、仕方がない。
国軍を認知するだけでも現行憲法より遙かにましであるとは思ひますが。
現行憲法は虚構のうへに構築された砂上の楼閣以外の何物でもありません。
憲法前文を読むとき、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに私はいつも暗然たる気分となります。
明治憲法下に制定された法律でも、民法のやうに現在でも有効なものもあります。
また、戦時立法で現在も継続されてゐる施策は一体は幾つあるでせうか。
現行憲法無効論と各論的な法の有効無効の議論とは一応分けて考へるべきではないかと思ひます。
現行憲法は異常な状況で当時の日本人の意志とは無関係に制定されたことは歴史的事実でありますから、これを無効と考へる立場には一理あると私は考へます。重要なことは原則や根本(この場合憲法ですね)に立戻つて考へることであつて、各論である戦後立法の無効論は重要性としては下位にあるものではないでせうか。
こんばんは。
現憲法が無効だとすると、戦後成立した法律は同時にすべて無効となります。
あたりまえですが、法律は現憲法の下位にあるものとしてつくられているだけで
なく、法律を通す「衆議院」「参議院」という枠組み自体が現憲法によって
規定されているためです。
こう考えると、現憲法の無効論などというものは単なる思考実験としては面白く
ても現実的な政策としてはまったく無効であることがわかると思います。
先づGHQの占領統治時代に成立した現在の「日本國憲法」の無効を議決します。其の後、自然に有効になる帝國憲法に対して現在の日本国の実状に合せて各条文の改正をすれば宜しいでせう。因みに先日岩波文庫から、伊藤博文著『憲法義解』が復刊されてゐますから、実際の条文や補注は其の本で御確認下さい。
>「い」を「ゐ」と書く表記が、見にくいです。
實際には、「い」は「い」と書かれ、「ゐ」は「ゐ」と書かれてゐるのだが。
正しい事をやつてゐる人間が「バカっぽ」く見えるといふのは、日本ではありがちな事でせう。正しいか間違ひかといふ事よりも、「バカっぽい」かさうでないかといふ事の方が重要だといふのですから、典型的な日本人と言へるのではないでせうか。
「HTMLやCSSの解説は素晴らしいのに古い日本語のせいで読みづらいのが残念」といふ投稿は半ば恒例行事のやうなものですが、「バカっぽい」といふのは新鮮ですね。
ギャル文字(ていふんですか?)みたいなものと思つてゐるのかなあ。
>「い」を「ゐ」と書く表記が、見にくいです。
>そしてなにより、バカっぽいです。
でも、このやうな傳統的表記で掲示板に書く訪問者を、「讀みにくい」などと云つて排除したりせず、きちんと受け入れてくれる、そんな雰圍氣が、このサイトの良い所だと私は思ふのですが。
他所の掲示板では、いつもは「個性重視」とか「個人の自由」ばかり主張して居るくせに、いざ正字正かなで掲示板に書く人が出現すると、「みんなが読めない言葉は使わないでください、ちゃんと“正しい現代の日本語”を使ってください」と叩かれて仕舞ふ所もありますが、此処の掲示板はそんな不自由なところではないのが氣に入つて居ます。
私はいつもいつも正字正かなを使つて居るわけではありませんが、時々使つて居ます。此処は私のやうに正字正かなの愛用者がヤボな文句の一つも言はれず安心して書ける數少ない掲示板の一つです。そして、その傳統的表記を今でも大切にして居る、運営者野嵜さんの信念は立派なものだと思ひます。
まあ、多樣性があって良いぢやあ、ありませんか。高々おぢいちやん、おばあちやん世代に現役だった表記ぢやないですか。私には戰後五十年以上正字正かなを固守してきた祖父の事が思ひ出されて懷かしいし、略字に現代かなづかひ全盛のこの世の中で一徹に正字正かなを貫いて居る姿にはシャッポを脱がざるを得ません。
初めての方には物珍しくて當然かも知れませんが、まァこんなモンだと割り切つてください。じき慣れますよ。
それから、もし本屋やコンビニに行く機會があつたら、「文藝春秋」といふ月刊誌を一度パラパラとめくつてみてください。一部の筆者は今でも歴史的かなづかひで寄稿して居ます。決して絶滅した表記ではなく、今でも細々と生き延びて居るなんてスゴイ事です。
「ゐる」や「用ゐる」や「率ゐる」のやうに、「ゐ」の仮名を遣ふ語には「ゐ」を遣ふのが歴史的仮名遣の書き方になります。「見にくい」か「バカっぽい」かどうかは別として、色々な種類の本を読み進めて行けば、どうしてかう云ふ書き方があるのか判ると思ひます。其の後で改めて自分が今思つた事を考へ返してみて下さい。見た目ではなく、本質を知るやうにして下さい。
>一意見ですので気になさらないでください
気にされたくないのなら、書き込むべきではないのに。
どうでも良いのですけれども、Yahoo!BB多いな。
今日HTMLとCSSを勉強しはじめて、「HTMLとは」と検索しましたら
このサイトに辿り着きました。
基本的な部分から細かな部分まで書かれていて、とても勉強になります。
ただ、一言言わせていただきます。
「い」を「ゐ」と書く表記が、見にくいです。
そしてなにより、バカっぽいです。
サイトとしてのポリシーのようですが、
私のような一目者にはそう見えてしまいます。
すばらしいサイトなので、その部分だけはもったいなく感じてしまいました。
一意見ですので気になさらないでください。
例えば以前に野崎氏が何処かで書いていたように僕もG・スタイナーの『トルストイかドストエフスキーか』の邦訳は酷いと思っている。主語が多数あったりどの言葉がどれにかかっているのか不明確である。そこでもし僕が「野崎氏の主張通りあれは酷い翻訳だ!」とて書き込めば即野崎氏に連帯してるという事になるのでしょうかね?
僕がかつてLegionn時代に荒らし行為をやったという事実から野崎氏は僕を人間的に信頼していないだろうし、こちらはこちらでたまに拝見する闇黒日記を読んで「なんでわざわざ日記を公開するんだろう?その神経が分からん。闇黒連絡にでもすればいいのに。」と思う。
もとより僕も小林秀雄、福田恒存、松原正に影響を受けているであろうから野崎氏とは主張自体はそれほど変わらない道理である。それと信頼関係は別の話で要は2ちゃんねらーはその区別も付かないらしい(笑)。
闇黒日記がそれほど不愉快ならば読まなければいいだけの話であって彼等は余程の閑人であるのであろう。
全国の杉伐採政策実現するなら共産党に投票してもいい、ということをずいぶん前に書かれていましたね。杉花粉飛散の盛りは過ぎたようですが、具合はいかがですか?闇黒日記楽しみにしています。嫌がらせ対処も大変でしょうが…。
福田恆存は三島に批判的でしたね。
ええと、「観察同好会」なんてサークルが2ちゃんねるにあるやうですよ。連中は、自分逹が仲間を求めて集まつてゐるから、他人もさうであると極附けたがつてゐるのではないですか。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵るものです。
連中、「掲示板に書く」と云ふ事實が問題で、「書かれてゐる内容」は問題ではないらしいです。「観察同好会」もその御仲間も、單なるゴシップ好きです。
2ちゃんねるによると僕が「仲間」とやらを欲しがって此処に投稿しているらしい。
野崎氏に僕の解釈の感想を聞いて貰った覚えはあるが「同意」を求めた事は無い筈だが…。
武士道と聞いて北畠親房及び「今様、北畠親房」の葦津珍彦氏を思い出しました。
かかる掲示板では今度は陽明学が流行っています。何でも三島由紀夫に見習えとか…。
最近活発な支那の反日運動ですが、当該政府や現地警察の対応の状況を見てゐて、何か裡が在りさうな感じがします。不穏な状況へ進む事の無いやう祈るのみ。
保田與重郎が、岡倉天心について書いた文章で、武士道は「死ねば良い」ではなくて「死んでも良い」でなければならない、と主張してゐました。論理的に考へれば、「死んではならない」と「死ななければならない」とが對立する物ではないのですが、案外、今の右翼の人にはその邊の事が解らないやうです。結局のところ、連中は西歐の嚴密な論理を、上滑りであつても理解してゐないのでせう。そして、「死んでも良い」と云ふ自由があるところで死を擇ぶからこそ、その死が道徳的に意味がある訣ですが、單純に武士道武士道と言つてゐる人にそれが解つてゐるのか何うか、慥かに疑問があります。嚴密な思考を缺いた日本人の「道徳觀」が、道徳と政治の峻別を主張する西歐的な考へ方に比べて、必ずしも優れてゐるとは言へない所以です。
『興津や五右衛門の遺書』→『興津弥五右衛門の遺書』
で漱石、鴎外の時代には確実に存在した「和魂」は地を掃い現代の日本は「無魂洋才」であり頻りに西欧文明が齎した物質文明に文句を附けるが、その文明を産み出し育んだ精神文化=洋魂には全くの無関心であり当用として「武士道」、「愛国心教育」、「道徳教育」が安易に論じられる始末であり、そういう傾向には懐古趣味しか感ずる事が出来ない。
道徳とは自分自身に尋ね自分で判断する精神の動きであると思っているから強制であってはならず義務であるべきであると思う。「道徳教育」の必要性を説く人は数多といるが彼の道徳的判断に就いて「何故そのように判断したのか?」と訊かれたら彼は「学校でそう習ったから!」とて堂々と答える積もりなのだろうか?単なる自分に対する無責任としか思えない。
僕が言いたいことは漱石、鴎外が彼我の文化の優劣を論ったのではなく西欧の物質文明に圧倒される日本人が彼等の文明の根幹にある精神文化=洋魂の深遠さに全くと言っていいほど日本人が無関心であったという事に対する漱石、鴎外の危機感を『かのやうに』、『興津や五右衛門の遺書』に観るわけですがこういう解釈は正しいのでしょうか?
あれ?おかしいな。
クメ、ィ、ニホトテネホトサッ、eホ・ヒ、キ、ニ抱、ォ、サ、ニ、筅鬢ヲ、ネハハッ。「ヘ筅マアヒホメ、ホホトサッ、ホ・チモ、豆テ、ソ、ホ、ヌ、マ、ハ、ッホキホトテホト讀鬢、・、、チヲ、ラ、ヌヨァ、ィ、ニ、、、・ヒオネ、ホセォノトサッ(」スム、ヒ拳、キコヘサ熙ヌ拳ソケ、キ、隍ヲ、ネ、ケ、・ンクナ、ャ、「、テ、ソ、ネ、、、ヲ、ウ、ネ、ヌ、キ、遉ヲ、ォ」ソ
メヤノマ、ホ、隍ヲ、ハメ簧カ、ヌネユアセネヒ、ャハ「、ヒホキ、ホホ・|ホトテ豆コ、・r、ヒ、ウ、ホム熙環荀ネ、キ、ャ、チ、タ、ネ、、、ヲハツ、マヘャメ箋エ、゙、ケ。」
あれ?
ホトサッ、ネホトテマ・ホ・ヌ、「、・ハッ。「ヘ筅マアヒホメ、ホホトサッ、ホ・チモ、豆テ、ニ、、、ソヤU、ヌ、マ、ハ、ッホキホトテホト讀鬢、・、、チヲ、ヒコヘサ熙ヌアリヒタ、ヒ拳ソケ、キ、隍ヲ、ネ、キ、ニ、、、ソ、ネ、、、ヲユJラR、ヌ、ケ、ォ」ソ
ホキ、ホホ・|ホトテホオラ、ヒ、「、・ォノトサッ(」スム、ヒネユアセネヒ、ャ楼、皃ニ殪騅ミト、タ、ネ、、、ヲ、ハ、鬢ミヘャメ箋エ、゙、ケ。」
殆どの方々が所謂「つくる会」の会員であり、これは明らかに政治的運動体ですから「連帯」を求めてくるのは当たり前なんです。ただ余りにも安易に「自ら死ぬる権利」とか「死ぬる覚悟」とかいう発言が頻出するので立腹したんです。西欧の文明を受容れざる得ない現実を無視して日本文明(彼等が言うには日本型資本主義など)を世界にアピールしたいようです。それに何の意味があるのか?と怒っていたらいつの間にやら村八分。
平たく言えば「人間に対する関心(=生き方)」は閑問題と見做され、それを論ずるや否や野暮天または言葉遊びと思われる始末だったわけです。
何故か彼等は西欧の物質文明と日本の精神文明を比較して優越感に浸りたがり西欧の物質文明を生み出し育んだ彼等の精神文化には全くの無関心。自分達が今や「無魂洋才」たる事に気付かない。気付いているのかな?それを安易に解決しようと思ってか「武士道」とかが横行しているのかもしれません。
以上、愚痴でした。すみません。
彼我の文化の優劣を論っても無意味ですが近代から現代の文明というものは圧倒的に欧米の方が日本よりも優位に立っていると思います。というか現代文明というものは欧米のために存在するかのように思います。だから悪いと言っているわけではなく、だからこそ欧米の文明を侮る事無く勉強すべきであると思います。
サミットなどで日本の首相が白人の中に混じっているのを見ると欧米の教育機関でよく見られる「有色人種特別枠」を想起します。これは自虐的なんですかね…?
あー、「義」でもアレクセイでも「観察同好会」でも、變な事を言はなければ別にこの掲示板に書込んで呉れても構はないと思つてゐますから、森さんも書込んで下さつて結構ですよ。ただ、今の數件の書込みの文章は、當方には何だか良く解らない事が幾つも書かれてゐるので、そこは何とかして頂ければと。
私も、仕事では略字略かなで妥協しますけれども、自分の掲示板や自分のウェブサイトでは文句を言はれる筋合ではないですからがんがん正字正かなを使ひますよ? 一概に、全ての場面で正字正かなを捨てる理由はないと思つてゐます。そんなに私は潔癖症的ではありません。
當方、西尾掲示板の状況は全く存じませんし、森さんが其處にした投稿の内容も全く存じません。今、森さんが投稿されました文章を讀んでも、森さんの意見なり何なりは矢張り、良く判りません。そんな訣で、勝手にいろいろと書きます。
・何かが「良いから」と云ふ理由があつてそれで「國を愛する」と言ふのでは、本當の愛國心とは言へないと思ひます。「自分が生れた國だから」と云ふ理由で國を愛するのでなければ愛國心ではない、と云ふ風な事を、矢張り福田さんが何處かで書いてゐたやうな記憶があります。
・漱石も鴎外も、西歐に劣等感を抱いた、と云ふ事はないと思ひます。優劣の觀念を持込んで、西歐と日本との關係を考へる事自體に誤があると考へます。ただ、全體としての文化に優劣はないにしても、西歐の文明が日本の文明に力の面で優越してゐる事は否定出來ず、その爲に日本人は西歐の文物を採入れざるを得ません。けれども、日本人が、かつて支那の文物を採入れたやうに、西歐の文物を採入れる事が出來たかと言ふと、それは疑問があります。根本的な部分で西歐の文化と日本の文化とには違ひがあります。その違ひを意識する事が重要であり、そこで「どつちが優れてゐる」のやうな考へ方に行つてしまつたら、拜外主義か排外主義に陷るのが落ちです。それでは困ります。
・日本人が西歐の文明を受容れざるを得ないのは事實ですし、西歐の文明を理解する爲には西歐の文明のバックボーンである西歐の文化を理解する事が必須です。しかし、それは日本人にとつて、極めて困難な事です。日本人が支那の文物を採入れるのは比較的容易でしたが、西歐の文物を採入れる事には困難がありました。その困難を、漱石も鴎外も意識してゐたと思ひます。その困難を、多くの日本人は理解してゐないと思ひます。しかし「上滑り」にでも日本人は西歐の文化を理解しようとしなければならない、と漱石は講演で述べました。
・多くの日本人は、單に西歐の文明の物質的な側面の物を採入れて、それで十分、日本人は西歐を理解した、と思ひ込んでゐます。實際には、文化の側面の理解が全く缺けてをり、日本人は西歐を理解してはゐません――或は、血肉化はしてゐません。しかし一方、物質文明を支へる西歐の精神文化は、物質文明を通して日本人に影響を與へてゐます。それは既に日本の精神文化の領域にまで入り込んでゐます。日本人は、日本の傳統的な精神文化を喪失してゐます。それを鴎外は憂へて晩年、歴史小説を遺しました。一方、日本人は西歐の精神文化の側面を見ないで來ました。日本人は明治以來、「和魂洋才」と言つて來ましたが、實際には「和魂」を失ひ、「洋魂」を得る事は出來ず、現在に至るまで「無魂洋才」と言つて良い状態にあります。
・「無魂」では困るから、「和魂」の復活を保守派は叫び、「武士道」のブームが起きたりする訣です。或は「愛国心」にしてもさうですけれども、「武士道」のやうなものが結局、「生き方」にならず、單なる禮讚・憧れの對象である「物」としての「文化」に留まつてゐるのが、現在の右翼なり保守派なりの問題であるやうに思ひます。
鴎外は、「かのやうに」を書いたのですが、乃木大將の自決の報を聞いて、「かのやうに」では駄目であると悟りました。そして「興津彌五右衞門の遺書」を書き、以後、既に失はれたけれども本當は失はれてはならない筈の「日本人の魂」を歴史小説と云ふ形で記録しようとした訣です。
訂正箇所以外にも変なところがたくさんありますよ。
此処を僕の愚見を→此処「で」僕の愚見を
筑摩書房の『深瀬基寛集』全二巻が7,500円で売りに出ていて買つてしまつた。
若い頃(医学生の頃)にレポートや論文は全て正字・正仮名で書いた。いざ仕事に就くと正字・正仮名よりも円滑な医療行為のために正字・正仮名は棄てた。僕は仕事場では正字・正仮名を一切使わない。その方が「効率的」だからである。僕にとっては文化よりも患者の方が大事であった。それはヒポクラテスが誓った言葉だった。
【お願い】
僕は野崎氏及び木村氏とネット上で『食卓歓談』やうに話し合いたいのだが何処が分からない。よって此処を僕の愚見を投稿していいのか訊きたい次第である。
野崎氏へ
すいません。契沖ソフトを完全にインストールしていないので中途半端な正字・正仮名は使いたくないが故に略字・新仮名で書かせてもらっていいでせうか(中途半端ですね)?
西尾掲示板の賛同者はどうやら鷗外の『かのやうに』を読んでないらしく、と言いつつ自分が書き込みをしている掲示板の方々を悪く言う積もりはないのですが、それ故松原先生よろしく村八分になっております。
僕は明治の日本人が、鷗外と漱石ですが、受けた「健全な」抗し難い劣等感を現在の日本人がサッパリ感じていない事に、それは詰り何の根拠も無いのに日本が経済大国であるという理由だけで優越感を感じているのですが安易に「愛国心」だの「国家」だのというのを苦々しく思います。最近流行っている「武士道」も同じではないでしょうか?彼等は「自ら死ぬる権利」とやらを激賞します。まさしく「愛国心は悪党の隠れ蓑」です。
僕は西尾幹二関連の掲示板(天才バカ板)に今回所謂「竹島問題」についてこの問題が永遠に解決出来ない理由についてかのフォークランド紛争を題材に書かせて貰いましたが、やはり此処でも理解と納得(=得心)の違いを強調しましたが暖簾に腕押しでた。徳義の民たる欧米人の矜持を説いたのですが何故か全く理解されませんでした。
野崎氏の言わんとしている事は見巧者の目に映る信心の危機ですか?それならば僕も同意します。これも『かのやうに』ですが…。
西尾関連の掲示板でも宣長よろしく「わが思ふかたにみをたてて、世の人のいふところのひたすらいひおとすは、是すなわち物の哀しらぬ我執のつよき人也」といふ風潮があり仲間同士の批判はご法度です。
【最後の質問】
野崎氏の親愛なる木村貴氏はLegionn時代の荒らし行為を許してはいないんですか?本来は木村氏に直接訊けば済む問題ですがアクセス出来ないので敢えてお尋ねする次第です。
【感謝】
こちらこそ今後ともよろしく御願ひします。
今晩は。URL修正しておきました。今後ともよろしく御願ひします。ええと、西尾掲示板ですか、そちらは全然見てゐないので文脈がさつぱり判りませんが、取敢ず「物」として文化を見てしまつたら、その瞬間に文化は死物と化すのではないですか、と申し上げておきます。福田恆存曰、文化は「生き方」である。私見ですが、傳統や文化と切離された現代に於て、意識的に傳統や文化の復興をはかる事はあり得ると思ひます。ただ、金閣寺とか能の舞臺とかを保存するやうな「文化」を福田さんは本當の文化であると考へてゐませんでした。さう云ふ風な死物としての「文化」しか語らないやうでは結局のところ文化とは無縁の生き方になつてしまふのではないですか。西尾幹二は福田さんが批判した文化人そのものですね。參考文獻『日本への遺言』。
野崎氏へ
僕が書き込みをしている西尾幹二氏関連の掲示板では「伝統」及び「文化」は、それを目的として意識し得るものだと考へてるらしいのですが得心が得られません。
憚りながらお尋ねするのですが「伝統」、「文化」は基より意識化(=言語化)できるものなのでせうか?
Legionn時代の荒らし行為を抜きにして(忘れろとは言ひません)如何なるものかと思ふ次第であります。別段無視・黙殺されても構いませぬ。
「琉球の風」の渡名喜將嗣といふものです。「正字正かなを應援してゐます」の一言に心を動かされ御邪魔しました。「正統表記關聯サイト」に拙「琉球の風」がありました事を喜びと感じ御禮を申し上げます。なほ下記にアドレスが變はりました。
今後も愉しいサイトを運營して下さいますよう應援いたします。
まあ、誰も本氣で「人権保護法案」を潰す積りなんてありませんからねー。言論の自由なんて、本當は誰も本氣で守りたいとは思つてゐませんから。「あれば良い」程度の物を、誰も本氣で守る氣にはなりません。
今の時點でも言論彈壓が起きる可能性はある、とか。
そんな事より正字正かなをだなー
と言ふかマルチポストの荒しぢやないか。
「人権擁護法案」は、必ず「言論弾圧」に「なる」、と言ふのではなく、「言論弾圧」になる「可能性がある」ものであり、その點はきちんと區別すべきだと。この邊の誤魔化しをやつてゐる人が「人権擁護法案」は曖昧だとか言つても説得力が。
私はコピー&ペーストの投稿は嫌ひだ。
私は先日、「人権擁護法案」という法案について、インターネット上で知りました。一見するとよさそうな法案に見えますが、内容は全く異なります。
その内容ですが、大まかに言うと、人権委員会が、人権侵害やそれを誘発・助長する恐れのある発言や出版などに対し調査する権限を持っていて、事情聴取等の協力を拒否した場合には、罰金等の処罰があります。もし人権を侵害していると認められた場合、当該行為をやめるよう「勧告」され、従わない場合には氏名等の個人情報を含む勧告内容が「公表」されてしまうのです。
この法案の問題点は第一に「人権侵害」の定義があいまいなため、恣意的な拡大解釈がまかり通ってしまう点です。また、人権委員会の行動を監視する機関などがないため、人権委員会の権力があまりに強大な点も問題です。
さらに実務をこなす人権委員の人数は5人(常任は2人)と十分な人数とは思えません。この人権委員と実際の調査などを行う下部組織の「人権擁護委員」(2万人以内)には国籍条項もありません。委員の人選の仕方も不透明です。
しかし、一般マスコミはなぜこのことを報道しないのでしょうか。数年前、同じような法案が話題になりましたが、それはマスコミに対する規制があったからであり、今回の法案はその条項が「凍結」されました。マスコミが報道しない理由について、法案が可決されればネット上の掲示板、ブログ等の情報などが規制され、テレビなどでの情報操作がしやすくなるから報道をしていないという説まであります。
この法案によってやろうとしていることは、「人権擁護」なのではなく、「言論弾圧」です。小説や映画などにも影響が出るでしょう。この法案は成立させるべきものではありません。皆さんにこの問題を知っていただければと思い投稿しました。この法案が廃案になることを切に願っています。
質問の意圖が良く解りませんが?
ツボおされちゃいましたか。
眠いので文章ぐだぐだだが掲示板に書く文章は何時もぐだぐだなので放置。
もしかして某watcherも「野嵜がこんな事してゐるんだから、同じ事を野嵜にもして懲らしめてやるぜ」とか思つて、「ブログ」を作つたり某2ちゃんねるにスレを立てたりしてゐるのかな? それで當人、眞似をした積りでゐるとしたら、好い氣なものです。しかし、noz_watcherが「野嵜の矛盾」と稱するものが、矛盾でも何でもなく、ただの曲解であるのを見ると、noz_watcherは「野嵜の眞似」の積りでわざと曲解をやつてゐるのではないかとすら思はれます。詰り、noz_watcherは、野嵜がしてゐる批判がそもそも野嵜の曲解に基くものであると言ひたいのだと推測。しかし、私は何も、曲解も故事つけも、してゐる積りはないのですがねえ。
態度とか口調とかの表面的な部分でしか文章を評價出來ない人が世間には多いやうで、困つたものです。大人の態度とかそんなのは何うでも良いので、ただ理窟に適つた事を言ふ必要があるだけなのですが、それが解らない人には解らないらしい。
ついで。
>半端な旧仮名遣いなんて奇を衒っているとしか思えないのですが
もしかして、
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/
すら見てゐませんか。さうですか。
と言ふか。
>それは大人の所業なんでしょうか。
なぜ野嵜が、批判對象であるとほほ師のやうな「大人の態度」の眞似をして、自分で自分を否定するやうな事をしなければならないのでせうか。
あと。
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/Tondemo/Tohoho.html
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/Tondemo/intention.html
當然、當方の意圖は理解した上でjgkim氏は書いてをられるのだと思ひますが?
あー野嵜の假名遣に間違ひがあると云ふ事でせうか?
よろしければ御指摘頂ければ訂正しますが。
半端な旧仮名遣いなんて奇を衒っているとしか思えないのですがそれは大人の所業なんでしょうか。http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/Tondemo/003Tohoho.html
教員免許持つてたのかー(何か違
タンクトップつて何でしたつけ、と樂天で搜す自分は物知らずでせうか。http://www.rakuten.co.jp/kiara/193447/281757/281758/272299/#265134
まほらばが無視されてorzな記事に於いてdl要素の子にli終了タグ\nli開始タグが在ります。
↓闇黒日記のCSSからはてなダイアリテーマを作つて良いのでせうか。
>新しいバナーは野嵜さん御自身で作られたものですか。
Oui. あんこくバナーは何時も自作です。
>描かれてゐる人物は誰ですか。のあたん? あやのたん?
さあ? 適當に描いたので。
世間では闇黒日記、蟲の話が受けてゐるやうです。何うしたものやら。
・新しいバナーは野嵜さん御自身で作られたものですか。
・描かれてゐる人物は誰ですか。のあたん? あやのたん?
・ついでに、3年前の公式バナーも「やばい感じ」ではありませんか。相手がW3Cではなく、任(略
・かういふところにしか反応しない俺は駄目な読者ですか。
闇黒日記のバナーが何時の間にか變つてゐますねえ、と此れだけ……。