假名遣の根據が明らかになるまで、とりあへず「まいまいず」と書いておくのは、とても現實的な良案です。私共は『正假名遣』で、
二、學術的に異見ある語や、根據を確認し難い語は、明らかな誤用でない限り、慣例として多用されてきた假名遣にしばらく從ふ。
としました。さもないと「くぢら」「うずくまる」などの語が“書けない”といふ深刻な事態になります。
しかしまだ、私には疑問が殘ります。「まいまいず」は、井戸の形が蝸牛に似てゐるがゆゑの名ですから、「まひまひ」までは確實なのです。では半分だけ正假名の「まひまひず」の形を認めてよいのでせうか。
根據が明らかでも、なかなかすんなりゆかないものがあります。「交」は 漢音かう 呉音けう でありますから、「餃子」は「げうざ」とすべきなのでせうか。よく「燒賣」は「しうまい」と書きます。これは「假名遣の法則はどの範圍まで適用できるか」といふ重大問題なのです。とりあへず唐音に適用できるかどうか、私は未だ判斷を迷ってゐます。適用させるかどうかで、日常重要な言葉の假名遣が大きく變ります。
一日の間にいろいろ書込ありますね。ちょっと今日は眠いので、明日にでもゆっくり。
> 今のところそのやうな文獻は『正假名遣』しかありませんので、比較した方が皆樣にわかりやすいかと。
漢字の字音の研究でしたら、其の草分けは宣長大人の『漢字三音考』であると私は思ひます。宣長さんの偉大な功績の一つです。其れ以降の漢字音の研究は全て其の書物の延長線上にしかありません。
日本語に使へる仮名は、歴史的経緯でいろは歌に表れる四十七文字しか在りません。まあ撥音を表す「ん」を含めても四十と八文字です。この仮名をどのやうに使ふのかを先づ最初に提示してから、其の使ひ方に則つて一つ一つの漢字音を明確にして行けば宜しいのではないかと私は思ふのですね。さう云ふ風にして纏めて行けるのであれば、字音仮名遣と雖も秩序のある体系が示せる筈です。
字音仮名遣と和語の歴史的仮名遣とを混同するやうでは其の混沌から脱するのは難しい事だと思ふのであります。
書き言葉に記述の規則が在るのと同様に、ウェブにも記述の規則がある。野嵜さんの言はれる通りですね。
と言ふか、
http://homepage3.nifty.com/gimon/seikana.htm
Operaで讀めないんですけれど。讀めない文章を公開しても意味がないと思ひますが。或は「讀めるブラウザで讀め」とか云ふ高飛車な態度は如何なものかと思ひますが。
>歴史的假名遣はそんな言葉すら書けないとなれば、野嵜さんがどんなに高邁な理論を立てられても、まるで説得力ないですよ。
「まいまいず」の説明が出來ない事で歴史的假名遣の法則性が崩潰するとは考へられませんし、野嵜が書いた理論でも崩潰しません。野嵜は、「てにをは」の語意識をベースに、辭において假名遣を認めざるを得ない事を述べました。「まいまいず」のやうな詞については、必ずしも假名遣を認めなければならない必然的な理由はありません。字音假名遣も、詞の假名遣ですから、必ずしも認めなければならないと云つたものでもない、と考へます。實際、時枝博士の「改良案」でも、字音假名遣に就いては表音的な表記を容認する、と云ふ話になつてゐます。
私は、保存すべき假名遣として、「てにをは」の假名遣の方が、詞の假名遣・字音假名遣よりもプライオリティが高い、と考へてゐます。「まいまいず」の假名遣など何うでも良いし、それの説明がつかなくても全く困らない、と考へる所以です。
>『正假名遣』を御批判くださるのも歡迎はしますが、できれば多くの事實の中から秩序を見出し、「歴史的假名遣とはどういふ規則か」簡潔明確にまとめられる事を期待します。今のところそのやうな文獻は『正假名遣』しかありませんので、比較した方が皆樣にわかりやすいかと。
高崎さん達の「正假名遣」は所詮、特定の事例における「判定基準」に過ぎず、規則の體系的な原理を解明したものではありません。野嵜の「正かなづかひ早分り」と本質的な違ひはありません。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/SeikanaHayawakari.html
と言ふより、高崎さん達の「正假名遣」は、「これで『現代仮名遣』に對抗するぜ」みたいな發想に基いた兒戲であり、「ごつこ遊び」である、としか思はれません。全く馬鹿馬鹿しい代物です。あれにどんな價値があると言ふのですか。あれで「現代仮名遣」に對抗出來ると本氣で考へていらつしやつたりしますか。
『平成疑問假名遣 − 平成十七年版』にしても、相當疑問があります。「假名遣に迷ふ言葉を多く集め、疑念がないやうにする」との事ですが、誰が「疑念に思ふ」のですか。
「ただし歴史的假名遣そのものの是非を問ふやうな御意見、いはゆる國語國字問題としての論爭には一切かかはりませんので惡しからず御了承ください。」との事ですが、さう言ふ高崎さんは、結局のところ、「仲間」をしか相手にしない積りである訣です。が、それだから私は高崎さんが「マニアである」と言切るのです。そして、高崎さんは私に「仲間になれ」と勸誘するのですが、高崎さんの「仲間」の中に入つて外部と交渉を絶つ、と云ふのは、「運動」を止める事を意味します。
歴史的假名遣を使ふ人間が「歴史的假名遣そのものの是非を問はない」「國語國字問題としての論爭に一切かかはらない」事で、歴史的假名遣は「社會に廣く受け容れられる」やうになるのですか。「面白いよ」と言つて世間の人を歴史的假名遣の渾沌とした世界に勸誘する――それが高崎さんの「戰略」だと言ふのかも知れませんが、それで何うして「歴史的假名遣の合理性や今日的な意義が感じられる」やうになるのか、私には理解出來ません。「面白いよ」式の勸誘は、世間では「怪しい」と見られるのが普通だから戰略として何うかしてゐるとも思ひますけれども、そもそも「渾沌とした世界」=「合理的」と云ふ高崎さんの發想が根本的に間違つてゐると思ひます。
と言ふか、高崎さんは、「歴史的假名遣には秩序がある」と考へてをられるのか、それとも「歴史的假名遣は渾沌としたものである」と考へてをられるのか――それがはつきりしない。また、「歴史的假名遣の合理性」をどのやうに考へてをられるのか――それもはつきりしない。その邊のところを、高崎さんには是非ともはつきりしていただかないと。
あと、「事實の觀察」なんて言つてゐたら、「言葉の紊れは存在しない。言葉は變化するだけだ」式の某春彦さんの主張を否定出來ない事になつてしまふ。
>「印刷所の人は隨分困つたさうではないですか」と仰るが、「テキストファイル以上に效率のよいデータ形式はない」との返事だったですから、これまた私にはどうしようもありません。
Wordにしても何にしても、そのまゝでは印刷用のデータとなりません。印刷所で印刷にまはす爲には、DTPソフトのデータに落し込んで、レイアウトをやり直さなければなりません。その爲には、どんな形式で作られてゐても、テキストを拔出して、割附やら何やらをゼロからやり直します。ならば、テキストが一番増し、と云ふだけの話です。高崎さんが何んなにワープロソフトで「綺麗」にレイアウトしても、それは「素人としては綺麗」なだけに過ぎません。
>今のところ私にとって html はネットに乘せるための一寸と面倒な?手續きにすぎません
それは「高崎さんにとつて」の話に過ぎず、しかもその「高崎さん」は今、HTMLに關して無知です。ならば、「無知な人間にとつて面倒」と云ふ特殊な話であり、一般に「HTMLは面倒である」と云ふ事になりません。そして、私は「面倒でないマーク附けの方法」を提示して、HTMLが面倒でない事を證明してゐます。
>とりあへず今後 html の話題は御免蒙ります。
ならば、高崎さんは今後、全てをHTMLで表現しなければならないウェブの世界から現實の世界に「引込む」べきですね。「ウェブで思想を表現してゐる」時點で、「HTMLの話題」を囘避する事は許されないのです。「思想の表現」に關はる言葉の問題を論ずる人間は特に、です。
>東京の小學校では、社會科で武藏野の「まいまいず」を習ひますが、どう書いたら宜しいのか、私には未だわかりません。
私は、助詞の「は」がどうして「は」なのか、解りません。これは、どんなに觀察したところで「解る」と云つたものではありません。しかし、「は」は「は」と書くし、「現代仮名遣」でも「『は』と書く」事になつてゐます。日本人が助詞の「は」を「は」と書くのは、普遍的で確實な事實です。我々日本人は、一人の例外もなしに、この助詞の「は」を使ひ、「は」と正假名遣で書きます。ならば、「は」と云ふ假名遣を今も日本人が使はずにゐられない事實は重大な事實であると言へるのではないですか。私は、より重大な事實を重視し、その原理を解明し、きちんと説明しなければならないと考へます。それを高崎さんはやらない。
私は「まいまいず」なる言葉を見た事がありませんが、見たからと言つて(と言ふか、今、見ましたが)別にそれの假名遣が極めて重大で深刻な問題だとは思ひません。「まいまいず」は珍奇な言葉であり、特殊な言葉であるに過ぎません。さう云ふ特殊な言葉に高崎さんは興味を感ずるのですが、それこそ高崎さんが「マニアである」事の證據です。それも、質の良くないマニアですね。「いかもの喰ひ」と言つたらよろしいでせうか。なぜその「まいまいず」に興味を感じ「なければならない」のですか。「まいまいず」なる言葉の假名遣に拘るべき必然的な理由を、高崎さんには説明して貰ひたいものです。「興味を持つても良いだらう」では、必然性の理由になりません。「俺はそんな言葉に興味ない」の一言で、話は終りです。「面白いよ」のやうな「勸誘」で話をしようとしても仕方がありません。世の中には假名遣の問題なんかよりも、もつと面白い事がいつぱいあります。虹裏とか。
高崎さんは特殊な事に拘る。私は、特殊なものよりも普遍的なものに興味がある。
「HTMLの表現力」という言ひ回し、なにか懐かしい響きがします。
>「まいまいず」
どう書けば宜しいのか、未だわかりませなんだら、「まいまいず」と書けば宜しいのと違ひますか。將來「まいまいず」の語源が明らかにされて、それに合はせるのが猶適切ならば然うするのが適正な態度でおはす。萬民悉く語の源や歴史に詳しい訣ではおはせぬ。大抵の人は「我流」で書きます。然らば當然表記に亂れが生まれる。そこで過去の表記を參考に正す。假名遣は適切に使ふべき物であり、書ける書けぬを制限する物ではございませぬ。
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/MarkUp.html
最終改訂が來年になつてをります。
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「事實の觀察」つて言語學でせうか。
>HTMLは單に文章の構造を記述するものです。(表現力が貧弱」と云ふ批判は的外れです。
なるほどこの説明は腑に落ちますね。關聯ページもざっと拜見し、初めて少し面白いもんだなと思ひました。市販のテキストとはだいぶ趣が違ふ。少しづつお浚ひさせてもらひますが、たぶんゆっくりでせう。
「印刷所の人は隨分困つたさうではないですか」と仰るが、「テキストファイル以上に效率のよいデータ形式はない」との返事だったですから、これまた私にはどうしようもありません。
どんな技術であれ、開發意圖と需要が必ず一致するものではないでせう。今のところ私にとって html はネットに乘せるための一寸と面倒な?手續きにすぎません。野嵜さんの情熱は十分理解しますし説明も秀逸ですが、少なくとも私は依頼のない添削を自ら買っては出ないし、それをまた自ら投げて「御金を貰へれば、」と嘆きはしません。毎日のやうに「現代仮名遣」の文章はやつて來る、のならば、それは何故だらうと考へます。
とりあへず今後 html の話題は御免蒙ります。
>適當に「事實」を無秩序のまま並べ立てる
まづは事實の觀察から始めねば。東京の小學校では、社會科で武藏野の「まいまいず」を習ひますが、どう書いたら宜しいのか、私には未だわかりません。歌枕にも縁があって、由緒ある井戸なのです。歴史的假名遣はそんな言葉すら書けないとなれば、野嵜さんがどんなに高邁な理論を立てられても、まるで説得力ないですよ。『正假名遣』を御批判くださるのも歡迎はしますが、できれば多くの事實の中から秩序を見出し、「歴史的假名遣とはどういふ規則か」簡潔明確にまとめられる事を期待します。今のところそのやうな文獻は『正假名遣』しかありませんので、比較した方が皆樣にわかりやすいかと。
一寸色々とあつて、ネットワークから離れてゐました。で、其の間に自分なりの正字正かなサイトの構想構築をやつてゐまして、なんとか立上げにまで漕ぎ着けたので、報告しておきます。
野嵜さんのサイトのはうは、随分中身が変化してゐるやうですね。之からもつと整理が進んで行くのかな。
test
自分で讀返してゐたらいろいろ突込みどころや直したいところが。と云ふ訣で少し修正。
取敢ず
「テキストをマーク附けする」
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/MarkUp.html
だけでも御讀み頂ければと。
あと愚痴。
・罫線文字は罫線に非ず。
・tableなんて面倒臭くて一々マーク附けしてゐられない。
>「歴史的假名遣の判斷基準は平安中期(延喜天暦)以前の文獻用例による。」といふ、契沖以來の大前提があっけなく否定されてゐて大きに恐れ入りましたが、野嵜さん、まさかこれを肯定していらっしゃるのですか?
私はかう書いてゐます。
Q.そもそも正統っていうなら何時の時代の仮名遣いが正統なわけ?
A.或特定の時代の表記を基準に「正統」と呼ぶのは不適切です。
私は上記のQAで、「判斷基準」ではなく、「正統」の概念について述べてゐます。
「規範について」のQA
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/QA/authority.html
で、私は「現在の紊れた言葉の用法を、過去の用例に基いて正す、と云ふ事が歴史上、なされてきました。定家假名遣にしても契冲假名遣にしてもさうして成立したものです。過去の用例と云ふ事實を規範と「する」のです。規範が「ある」のではありません。」と書いてゐます。
>「混沌とした假名遣の世界」から目を背けては駄目ですよ。
では、なぜ高崎さんは歴史的假名遣を使ふのですか。また、假名遣には渾沌のみがあつて秩序は全くない、と御考へですか。それこそをかしな考へ方だと思ひます。
>確かに字音假名遣は複雜ですし、實踐せよとは申しません。しかしながら一度は全體像をつかまないと話が進まないのではないですか。結構面白いですから少しは勉強してみてください。
抽象的・精神的批判には取合ひませんので惡しからず。高崎さんの言つてゐる事こそ、抽象論であり精神論に他なりません。そして、精神主義の齎すものは、非合理的なものの強引な押附けです。
私は、理性的な説得のみ、認めます。ただ、適當に「事實」を無秩序のまま並べ立てるのは、説得でも何でもありません。研究としても、精々大學生のレポートのレヴェルです。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/
「正かなづかひの理論と實踐」を急いででつち上げ。乞御一讀。
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/
こちらも御讀み頂ければと。「HTML講座」の1〜5だけで十分です。
>「タグ埋込」「データごとに箇條書」「ワード」「エクセル」さまざまなデータ形式を提案しましたが、jis罫線入りのテキストファイルが「よりまし」だったのださうです。
Word、Excelのデータは、印刷所では受附けません。印刷所で受附けるのは、DTPソフトのデータか、epsが普通です。それらでなければ仕方がないからテキスト、と云ふ話になるだけです。
>「罫線を使つて表を組む」事が間違つてゐる、といふ御指摘もわからぬではないのですが、實際に毎日のやうにさういふメールはやってくる。
實際に毎日のやうに「現代仮名遣」の文章はやつて來る、「正しい表記」などない、と云ふ「理窟」を、私は認めません。
「正しい技術の使ひ方」は、あります。Wordの正しい使ひ方もHTMLの正しい書き方も述べました。高崎さんは、それらの野嵜の文章を無視してゐます。
>結局野嵜さんの力では編輯できなかったのでせう。たしか投げ出した場所は、罫線上に文字が重なる部分でしたよね。
編緝出來なかつたのではありません。面倒だから投げただけです。ノイズである罫線文字を削除し、ノイズである空白文字を削除して、構造を再構築し、タグ附けする、なんてのを、他人の文書に「やつてやる」なんてのは、やつてゐられません。御金を貰へれば、それなりに「やる」モチベーションが生ずる訣ですが、タダでやれたものではありません。
>htmlの表現力が貧弱なのだから、仕方ないではありませんか。
HTMLは單に文章の構造を記述するものです。(表現力が貧弱」と云ふ批判は的外れです。
>よく勉強すれば何とかなるのかもしれませんが、だから私にとって便利になるとは到底思へない。
「現代仮名遣」を使つてゐる人が、歴史的假名遣について抱く感想そのものですね。
實際のところ、ちよつと勉強すれば何とかなるのがHTMLですが、それ以前の素養で高崎さんに何かしら缺けてゐる部分があるとしか言ひやうがない。
>これまでだいぶ多くの方とデータを交換しましたが、私も相手も特に不都合はおきてゐません。「桐」データをぢかに貰った時だけ困ったぐらゐです。二次利用を考慮してhtmlを書く義務もありませんし。
互換性のないデータを貰つて困つた經驗はあるけれども、だからと言つて互換性のあるデータに價値があるとは思はない、と云ふ事ですか。
HTMLもさうですが、高崎さんの互換性のないテキストデータを貰つた印刷所の人は隨分困つたさうではないですか。
高崎さんは他人に迷惑をかけてゐるのです。
>>その出力した紙を印刷所は貰つて、そのまゝ版下に使ふ、とかすれば良かつたのに。
>これはまさにその通りでして、最初は強く希望したのです。
まあ、そんな事をすれば同人誌レヴェルの版面になるので、印刷所ではプライドにかけてもやりたがらないでせうね。隨分、印刷所の方も努力して下さつたのではないですか。印刷屋さんに文句を言ふのは如何なものかと思ひました。
「正字正假名覺書 - 高崎一郎氏の字音假名遣について」を辿りました。
「歴史的假名遣の判斷基準は平安中期(延喜天暦)以前の文獻用例による。」といふ、契沖以來の大前提があっけなく否定されてゐて大きに恐れ入りましたが、野嵜さん、まさかこれを肯定していらっしゃるのですか?さうだとすると話は全く噛合ひませんので、ここまでといたします。
「研究成果」として認めない、とは光榮の限りですが、私には何ら新しい知見がありません。一次史料にも當ってゐません。從って自分では全く「研究」とは思ってゐません。單に諸碩學の成果をまとめただけです。「混沌とした假名遣の世界」から目を背けては駄目ですよ。ちなみにこれまでの經驗から申上げますと、「假名遣マニア」だらう人の多くは漢字音に弱くて、一向に近づきませんね。
確かに字音假名遣は複雜ですし、實踐せよとは申しません。しかしながら一度は全體像をつかまないと話が進まないのではないですか。結構面白いですから少しは勉強してみてください。抽象的・精神的批判には取合ひませんので惡しからず。
>正しいHTML文書に書直さうと思ひ附いて、少し作業して、投げた事がある。元のデータが非道過ぎたからだ。
結局野嵜さんの力では編輯できなかったのでせう。たしか投げ出した場所は、罫線上に文字が重なる部分でしたよね。htmlの表現力が貧弱なのだから、仕方ないではありませんか。よく勉強すれば何とかなるのかもしれませんが、だから私にとって便利になるとは到底思へない。これまでだいぶ多くの方とデータを交換しましたが、私も相手も特に不都合はおきてゐません。「桐」データをぢかに貰った時だけ困ったぐらゐです。二次利用を考慮してhtmlを書く義務もありませんし。
>その出力した紙を印刷所は貰つて、そのまゝ版下に使ふ、とかすれば良かつたのに。
これはまさにその通りでして、最初は強く希望したのです。
掲示板に書込むのは何年かぶりです。
「闇黒日記」六月二十四日二十五日拜讀。仰りたいことは十分に理解できますが、テキストファイルを選擇したのは印刷屋さん自身なので、私にはどうする事もできません。「タグ埋込」「データごとに箇條書」「ワード」「エクセル」さまざまなデータ形式を提案しましたが、jis罫線入りのテキストファイルが「よりまし」だったのださうです。
「罫線を使つて表を組む」事が間違つてゐる、といふ御指摘もわからぬではないのですが、實際に毎日のやうにさういふメールはやってくる。日本で「ワード」が評判わるいのも、Pフォントと罫線の扱ひづらさが二大原因でせう。「使ひ易い」技術はあっても、「正しい」技術など無いと私は思ふのですが。
何と言ふか、結局、一人で「自分の意見」として纏めておく必要があると、やつぱり思ふ訣で。高崎さんのところで
http://homepage3.nifty.com/gimon/
例の『正假名遣』が再公開されて、何うにも納得が行かない部分が多いのですけれども、批判するならやつぱりこちらもきちんと理論を纏めて態度を示しておく必要がある。
投稿は募集してみようかと。「しろはた」の本田透氏が巧いのは、掲示板を作らないで投稿を募つた事だと最近認識。
せつかく「擧手」していただいたのに濟みません。またいろいろ教へて下さい。
編輯と言ふのは詰る所整理整頓で、整頓するには方針が必要で、二針は行かぬ。さうなると結局…。
「1」について葦津氏や福田氏等の論を參考にして一本の文にする事から手を着けませうか。然しそれは編輯と違うて一個の論の樣な氣が。
考へる程に編輯人の出番が無うなつていきますね。仰る通り投稿を募集して野嵜樣御自身が云々。「字源」の簡野道明先生も編纂縁起に「若し夫れ速成を期せんが爲めに、他人の援助を藉らんか、杜撰鹵莽の譏りを招かんことを恐る」と學者の職人氣質を陳べてをられますし。
HTML文書記述、訂正しておきました。毎度何うも有難うございます。
最終的な取り纏めは結局俺自身がやらなければならないやうな氣が。
構成と言ふよりも、「話の流れ」はかうしたい、と云ふメモです。
1.正かなづかひを使ふべき理由
御先祖樣の流儀である事。歴史上成立したものとしての合理性を書く事。
2.言語の原理から見た正かなづかひの意義
言葉――個人の思考に使はれる→個人と個人との間の意思疎通にも使はれる。言葉が通ずる必然性はない。偶々通じてゐるだけとも言へる。
「概念-音聲-表記」の相互の關係は記號的な關係。
固定的(static)な概念→動的(dynamic)な思考。個別の語は靜的。語と語とを繋げて動的な思考を構成する。膠着語である日本語では、「體言・用言=詞」を「てにをは=助詞・助動詞・活用語尾=辭」によつて繋げる。
詞=記號的に概念を指示する語。辭「てにをは」=語と語との關係を記述する語。文章を構成する爲の機能を持つ語。詞を辭が結合して思考を形成する。
辭「てにをは」=文章に於る語の機能を記述する語。→山田文法における辭の定義。
助詞・助動詞・用言の活用語尾→「てにをは」。「てにをは」における「語意識」の存在→かなづかひの必然性。
實際のところ、既存の記述の寄せ集めで「出來る」やうなものではないと思ひます。で、取敢ず上記の「2」は全部野嵜自身で書かなければならない筈で、「1.」を誰か巧く書いて呉れれば非常に助かると。
何と言ふか、正かなづかひ關係の投稿を募集した方が良いのかもと。さうなると結局、俺が編緝を云々。
>山田博士の「日本文法要論」
殘念ながら、古本屋さんで未だに見附けられてをりません。よろしいのでせうか。それでは是非。
山田博士の著作、結構持つてゐるにもかかはらず、全然讀めてゐないのですが。
其の手で行きませう。六月二十七日の記述だけを纒めるのでせうか。それとも今後の一から七までに關連する記述を纒めるのでせうか。過去の日記も調べたり。
ところで山田博士の「日本文法要論」は御持ちですか。でなければ差し上げますが。是だけ持つていても餘り値打の無い物ですさかい。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/ の
「國語國字問題に關するメモ」へのリンクのURIが「./column」と末尾のスラッシュが拔けてをりますです。
やつぱりblockquoteやqではないみたいな感じ。
御申し出、何うも有難うございます。編緝。どんな風にしたものですかねえ。「闇黒日記」の野嵜の記述→ローカルで切り貼りしてそれつぽい一本の文章にして野嵜にメール→「闇黒日記」に公開→訂正なり何なり。?
取敢ず「とっぷぺーじ」の記述は訂正。と言ふか削除しました。
表頁のh2の「主な記事」から直接行ける「私(野嵜)の假名遣に關する考へ方」がリンク切れになつてゐます。
ところで、記事の編輯の件、私買うて出たうございますが。
略字新カナで失礼します。
書籍の表紙を引用とする場合ですが、書籍の表紙である以上、単なる引用と言うより参考文献として引合いに出すものと思われますので、当該<img>要素を<cite>要素でマークするのが妥当ではないかと思いますが。
この場合、ブロックレヴェル要素としては任意で良いのではないかと思います(逆に<blockquote>要素とするのは不自然な気がします)。
親告罪なのですが、本来は道徳で考えるべきだと思います。
>何と言ふか、「文句を言はれなければOK」みたいな。
ぶっちゃけ「著作権」というのが法律ならばそうなりますね。
何と言ふか、「文句を言はれなければOK」みたいな。
きだみのるのコーナではイラスト入り・寫眞入りの畫像をばんばん出してゐるし。今氣附いた。
条文を引用します。
著作権法第三十二条には次のように書かれています。
>公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
この法律の目的として同法第一条に次のように書かれています。
>(前文省略)これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
古書表紙写真での判例をWebで探してみたのですが見付かりませんでした。おそらく著作権法で争われたケースは零に近いのではないかと思います。
商業デザイン等商用目的物では商法知財関連での係争はありますが、文芸等一般には最終的に民法や刑法などで争われることが多いようです。同じ私有財産の権利ですが他人の物を盗った(盗作盗用)と言う方が争点を明確にし易い。著作権法の引用は「文化」を規定しているので日本では「世間的にグレー」というような脅しに役に立つているのかも知れません。
私有財産と「文化」は異なる原則なので、経済を重視する場合はマークアップ等で明示しておくのが無難と考えます。「文化」であれば合目的かどうかであり実際のマークアップや言及等の情況は本質的に不要と考えます。私は後者を支持します。
「畫像の埋め込み」であるにしても、lynx等のテキストベースのウェブブラウザではaltの中身が展開されるので、それが「引用」であるのか何うか、と云ふのも問題。
早川清と勝呂忠の間で起きたポケミス表紙の原畫所有權に關するトラブルなんて事が昔あつて、著作權が「ある」と看做される藝術作品になると明かに問題だと思ふのですが、デザインのレヴェルのものだと何うなるのかと。
岩波文庫や創元選書のイラストも何も無いデザインのみのものにも著作權なり何なりが「ある」ものなのか。創元選書の表紙は「青山二郎デザイン」ですが、デザインならば意匠であつて著作物ではないとも看做し得る?
あと。
http://noz.hp.infoseek.co.jp/Kuwahara/
カヴァなしの「本體のみ」の畫像なんてものにも著作權なり何なりが「ある」ものなのかとか。
「削除すべき」とはいへないが「削除したはうが無難」といつたところでは。野嵜さんが知りたいのはさういふことではないでせうけど。
個人的には、ただ画像を貼り付けただけのものを引用と呼ぶのは違和感があります。それに対する言及がないと「正当な慣習に従つた引用」の要件を満たさないのではないかと。
表紙に対する言及があればよいだらうとは思ふのですが。(デザインに対する感想とか、データの補足とか)
自分は消さなくてもとは思ふのですが……。
とすると「削除すべき」と云ふ結論でよろしいでせうか?
さうですね。これは(デザイナー、寫眞家、發行者などが持つであらう)著作權といふ話ではありません。まあ記憶に新しい、關連した話題、といふことで。
殆どの表紙に著作權はあるから、無斷掲載は場合によつて權利を侵害してゐると訴へられる可能性はある、としか言ひやうがないでせう。
話を最初に戻せば、私自身は自分のサイトで單純な複寫畫像を使ふ場合は、HTMLの記述でも引用であることを明示してゐます。著作「權」がどうであれ、それが誰かの創作物であることはつきりさせたいので。
此れはパブリシティ權關係の樣に見受けられるのですが如何に?
レコード・ジャケットの写真を使用して、レコードの紹介をした本が訴へられた、「キング・クリムゾン事件」といふのがありますね。
「さうすべきだ」とは考へませんし、「一概に違法である」とも考へません。言ひわけ染みますが、私は法律に曚いので違法かどうかは分りませんし、削除すべきとも言へません。ただ、ひよつとするとグレーなのではないかと思つたので申上げたのです。
判例があれば明確なのでせうけど。
「表紙に言及しないと駄目」とかいふ發言も何處かで見ましたが、何うなんでせうねえ。
一概に「違法である」と言ふ事が出來るのであれば、當方、全ての表紙畫像の削除を行ふ用意がありますが?
「さうすべきだ」とCooldさんは御考へですか? 或は、一概に「違法である」とCooldさんは御考へですか?
<引用>
本の表紙畫像は「引用」扱ひでblockquote要素とすべきか?
</引用>
そもそも本の表紙畫像を使ふのは合法なのでせうか。
http://noz.hp.infoseek.co.jp/books/ToyamaShowashi.html
の引用で「転向1」といふのがありますが此れは如何。
あ、成る程、「soft-est」なのですね。やはり英語は苦手……。
原文のまゝです。人間の心が一番柔らかいものであるとの主旨。
十八日の福田氏論文、最後の引用内に「ソフテストウェア」といふ單語があるのですが、間違ひでせうか。
ぐぐりました。成る程。どうもです。
ふたば☆ちゃんねるのとっぷぺーじから二次元裏を擇んで行くと答は解る筈です。
或は 虹裏 may でぐぐる。
mayつて何でせうか。
虹裏用語かも知れませんが。
某にじうらにてローゼン祭終了。mayでの祭は體力的にきつい。と云ふ訣で今晩は。
>宴會
御無沙汰してをります。また呑みませう。
>撮影時
うちのかめら君、オートで撮影しないとろくな畫像になつて呉れませんもので。
取敢ずマニュアル見てみます。
>「白點を設定」
なるほど。參考になります。
皆樣いろいろどうもありがたうございます。
ぐぐつてみました。
http://www.kitamura.co.jp/express/dckihon/0106/01_062.html
HTMLが駄目駄目ですが上記URI曰く、レヴェル補正の「白點を設定」が良い樣です。
合はせる場合は二枚竝べ、アクティヴの畫像に對してインアクティヴの畫像から白を取る……のか知ら……。
> PhotoshopElementsで巧く色味を合せる方法の傳授希望。
Photoshopの使ひ方はわかりませんが、撮影時に、カメラのホワイトバランスの設定をオートにせず、固定にすればたぶん同じやうな色味になる筈です。
> それとも、發言の場所を變へてまだ續けてゐるのでせうか。
先の江州さんの発言(「役に立つとは思へませんが、これがお望みでせうか?」)の直後に、2ちゃんねるのノズラースレッドで「江州とかいふやつの下品な発言が不愉快だつたのでまう止めた」といふやうな意味のことを書いてました。まあ、匿名掲示板のことなので、本当に同一人物かどうかはわかりませんが。
それよりも、この「一読者」氏の発言に対して、例のnoz_watcher(こちらはトリップをつけてゐたので間違ひなく当人)が「その江州とかいふのは、おそらくDIVEとかいふサイトをやつてゐる佐藤とかいふやつの変名だらう」といふ意味のことを書いてゐたのには失笑しました。野嵜さんのウォッチャーを名乗つてゐるのに江州さんを知らないなんて、奴はモグリだな。
なんだか色々とご無沙汰です。今度、宴會でも企畫しませうか。
>役に立つとは思へませんが、これがお望みでせうか?>一読者氏
一読者氏、あれから反應がありません。氏が本當に憲法は論ずるに値する課題であると考へてゐるのなら、そのやうに主張すべきなのですが、どこぞに逃走したといふことは「その程度の課題でしかない」と自らの行動によつて證明したやうなものなのですが。
憲法記念日近くに憲法の話題を振れば、そりあ食ひつきが良いでせう。が、それが本當に眞劍に論ふべき課題であるならば、或る時期だけでなく有意義な結論が導き出されるまで續けるべきでせう。それとも、發言の場所を變へてまだ續けてゐるのでせうか。それならば御苦勞なことですが、結論部くらゐはここに擧げても良いのではありませんか?氏が意見を求め、私がそれに應へた。となればそれくらゐの「縁」はあると考へますが如何。
十二日の「猫跨ぎその2」の中に「さう云ふ文脈を踏まへて考へれれば、」とありました。
あるいは「ら抜き」容認派でらっしゃるのかも知れませんが、たぶん誤記なのではないかと。
重箱の隅をチョイ。
noz_watcherだつたかの日記で我がアカウントたるkahusiは最初の頃コメント不可になつてゐました。云々。
さて此處でOpera8正字正かな化言語ファイルの宣傳です、といふか宣傳の方法が分りません。
野嵜さん、澤田さん、ありがたうございます。あの話題が出たのは、まう2年も前のことだつたんですね。
はてなの携帯モード、試してみましたが、変換された文字が他の字を巻き込んで文字化けしたり、同一ファイルのフラグメントに対するリンクが正常に機能しなかつたりといつた不具合があるやうです。無料なので文句は言へませんが。
Googleのはうは、これですね。
http://www.google.co.jp/imode
「驪」だの「麗」といつた変な文字が挿入されるのは、i-modeの絵文字でせうか。
auでも大丈夫な樣で。502等のエラーが頻發するのは時間が惡いだけか知ら……?
過去ログより。なんか「義」が暴れてゐたけれども無視して。https://www.angelfire.com/id2/memo/logfiles/kotoba_200301.html
携帯電話等の端末でもウェブブラウジングできるやう、不要なタグ等を消去したり、ファイルを分割したりしてくれるサイトが、以前、この掲示板で紹介されてゐたと記憶してゐます。どなたかご存知の方がいらしたら、もう一度教へていただけないでせうか。お願ひします。
美味しそうな写真ですね。一口で入る大きさの小さなものなのでしょうか。シュークリームは小学生の頃よく作っていました。生焼けでオーブンを開けてしまうと皮が膨れず、よく失敗しました。
シュークリームに似たお菓子にエクレア(eclair 本当は最初のeはアクサン・テギュつき)があります。シュークリームの上にチョコを塗っただけ、と思われているようですが、名前の通り稲妻のように早く食べないと中のクリームが流れ出てしまう、という意味だと耳にしたこともあります。どちらが本当なのでしょうね。
ともかく、あまりに美味しそうだったので、思わず今日買って食べてしまいました。