和田さんと私とは、傳統的書體で統一された文書を「美しい」と思ふ點において感性を共有してゐるやうです。現代表記は正統な表記と崩れた表記とが混在するために、醜惡にならざるを得ないのです。また、漢字には時と所により様々な字體があり、どれか一つを唯一絶對として、他を否定する意見に與しないといふ考へも多分共通するのではないかと思ひます。私は、「當用漢字字體表の字體を唯一絶對のものとして、如何なる場面でもそれを用ゐよ」、或いは、「その表の範圍から逸脱して漢字を用ゐ、または定められた音訓を超えた表現をすることはけしからん」といふ現代日本の一部の風潮を否定します。
私は康煕字典の字體を如何なる場合も用ゐるべきだなどとは考へてをりません。多分、正統表記を主張する方々も多くは同じ考へではないかと思ひます。手書の場合には、「為」「来」「体」などの略體を用ゐることに何の疑問も持ちません。誰かが手書で「鴎外」と書いても差支へありません。私は鷗外への尊敬の念から敢へてさういふことはしませんが、それは許容さるべきだと考へてゐます。しかし、從來「略字」であつたこれらの書體を「正字」に格上げして活字の世界にまで持込むことには反對なのです。コンピュータ・フォントを含む活字の世界では、これらは「爲」「來」「體」「鷗外」と正しく表記されなければなりません。「正字」といふ既に完成した體系がある以上、それを廢棄して、似て非なる新體系を作る必要が何故あるのでせう。それをすることによつて、どういふ便益があるのでせうか。却つて、言葉を混亂させるだけです。鴎外といふ表記が許容されるためには、「鴎外」と書いた原稿が、必ず「鷗外」の字形となつて活字になるといふ約束がなければならないのです。
世の中には「正しい」こと、「在るべき姿」といふものが必要だと私は考へてゐます。しかし、萬民が「正しい在り方」を墨守する必要は無いのです。無知や怠惰から正しい道を踏外す事もあるでせう。あるいは意圖的に、それに反した行ひをする事もあるかも知れません。しかし、間違ひを犯すことがあるからといって、「正しい」といふ概念が無用なわけではありません。「正しいこと」といふ概念が世の中に嚴然として存在してをり、皆それを氣にしながらも、時にはそれを踏み外すことを許容する。さういふ在り方が、最も望ましいのではないかと私は考へてゐます。(鷗外の「假名遣意見」参照せられたし。)
假定の話ですが、もし日本で使用する漢字の字體を所謂擴張新字體で統一することができたとします。さうして作成された完全擴張新字體による文章は傳統には反しますが、一應ある種の體系に則つてゐるかもしれませんし、小さな活字で文庫本に印刷するのには都合が良いものかもしれません。しかし、假にその言語改造に百年かかつたとしませう。百年後の日本人も現代の私と同じやうに、電車の中で文庫本を讀むと言ひ切れませうか。何か、もつと輕くてかさばらなく、難なく数萬の正統な漢字を美しく表示できる道具が實用化されてはゐないでせうか。タイプライターといふ「文明の利器」のために漢字廢止論にはしつた、假名文字論者の轍を踏むことになりますまいか。言葉が道具のためにあるのではなく、道具が言葉のためにあるのです。確か、sc恆存がさういふことを書いてゐたはずです。
現代人の多くが鷗外を本來の表記で讀むことができなくなつたやうに、所謂擴張新字體しか知らない世代には、現代普通に流通してゐる本を讀むことすら困難になるに違ひありません。しかし、さういふことを論ずるまでもなく、それは不可能なのです。そのことについて少し考えて見ませう。
當用漢字(常用漢字)の体系では龍、瀧を「竜」「滝」に改めたのに、襲ふは從前のままですし、表外字は正字を用ゐるしかありません。結果として、現代表記の漢字の體系は非常に混亂してゐます。籠は當用漢字、常用漢字に含まれてゐませんから、本来籠の字形を使ふべきですが(實際多く現代でも籠の字形が使はれてゐる)、奇妙なことにコンピュータ用のJIS字體で「篭」の字形が採用された。「冒涜(冒瀆)」、「鴎外(鷗外)」、「潅水(灌水)」といふ正統性を缺く表記が罷り通るやうになつたのです。「桧(檜)」「侭(儘)」「薮(藪)」なども使ふことが憚られる字體であります。
(正統表記の體系)龍/瀧/襲/ 籠 /聾/朧/寵/壟/礱/龐/巃/曨/蘢/瓏/嚨
(現代表記の體系)竜/滝/襲/(篭)/・・・
しかし、朧などの字は今のところ(多分これから先も)「竜」を含む字體で統一を図る事は不可能です。これは、小生が少し調べてみた限りですから、龍の形を含む字は他にもたくさん在ると思ひます。これらの全ての字體に対して、「拡張新自体」を用意し、またそれを普及させる事は事實上不可能でせう。戰後あんなことが出來たのは、日本全体が無理な戰争の遂行のせゐで疲弊しきつてゐたことに加へ、米國の占領統制下で一部の人間の意志で、或る意味何でも出來たからではないでせうか。
下記に、『歌の中の日本語』(藤田圭雄著、朝日新聞社、昭和四十五年)といふ不可思議な本を紹介します。
『学校では教えてくれない日本語の秘密』は江古田の本屋にはなかつたので三省堂あたりに行つてみようと思つてをります。
今は、極く個人的な體驗から「現代仮名遣い」の行つてゐる事に觸れます。捨ててしまつたので具體的に擧げる事は出來ませんが、岩波文庫の泉鏡花の短篇集は奇つ怪です。地の文は、手の下しようがなかつたとみえて原文のままですが、あらう事か「ルビ」には「現代仮名遣い」を向けてあります。どうしてすなほに原作に隨ふ事が嫌なのでせうか。私には意地をはつてゐるとしか思へません。結果、文面は混亂を來し下卑た感じさへ與へます。それは君の過剰反應だらう、かも分りませんが、よし美意識といふ個人的な問題にしたつていいんです、あれは決して美しくはありません、醜惡です。
> 小林英夫わ、まことに「を」お「wo」とこえにだしていたのでしょう。
今手元に在る『言語學通論』を確認してみたのだが、其のやうな理由ではないぞ。「表音的假名遣派」を自負するのならば、よく勉強しておくやうに。
表音主義には色々な派閥が在るやうだな。少くとも今確認しただけで、三つは存在する。様々な表記方法が在ると云ふのは、読む側にとつては、非常に七面倒な事なのだがな。
ところで、和田さんは、「正しい事」は「人が決める事である」と御考へのやうですね。だからこそ「劃一化」に反對だと。人に押附けられた「劃一化」を和田さんは否定する――だから個別性を重視して、人がそれぞれ自由に書き、文字を使ふ事を「良し」とする。
ところで私は、イデアとして「正しい事」も「ある」と考へますが如何でせうか。また、「標準化」とか「高い互換性」とかは「必要である」と考へるのですが如何でせうか。個々の人が勝手に自分の獨自の語彙で物を言つてゐても、コミュニケートが出來ないと思ふのです。コミュニケーションを實現するには、語彙の共通化が或程度は必要でせう。それを和田さんは「劃一化」と言つて否定なさるのでせうか。餘り何でも「劃一化」「劃一化」と極附けて反對する事もないと思ひます。社會が存在する限り、人は超個性的なものに從はなければならないものだと思ひます。
>当用漢字字体も過去まったくつかわれたことのない「神代文字」のごとき創作新字ではない。
個別の文字にはそれぞれ別々の理由で謂れがあるらしいですが、「当用漢字」には一貫した體系がありません。或は、「当用漢字」の「體系」は、「過去全く使はれた事のない創作體系」である、と言へます。
>(書き言葉と話し言葉とが)「一致しなければならない」といったおぼえなく、おもってもいません。
「一致させなくても良い」と思つてをられるのならば、今のやうな書き方をする必要はないではありませんか。なぜ和田さんは今、書き言葉と話し言葉とを一致させて書いてをられるのでせうか。今、和田さんが「表音的」に書いてゐる事の根據を教へて下さい。和田さんは、「表音的」に「書かねばならない」と思つてをられるからこそ、今、現にかうして「表音的」に書いてをられるのではないですか。「書いても良いから書く」と言ふのでは理由にならない事――これは御解りになりますよね?
>(方言は)そのまま、つこうて、かいとればエエのんとちゃいまっか?
個々の人がそれぞれ全く別々の書き方をしたら、讀んでも理解出來ない人が出て來るでせう。同じ地域の同じ方言を用ゐる人が面と向ひ合つて話をする場合、同じ方言の語彙を持つてゐますから、方言であつても通じます。けれども、見ず知らずの人間が讀む可能性のある書き言葉の場合、方言の發音をそのまゝ記したのでは、或地方の人にとつて「語彙として認識出來る發音記號の群」が、他の地方の人には「語彙として認識出來ない發音記號の群」になつてしまふ可能性があります。その時、「文章が讀めない」「文章が理解出來ない」と云ふ結果が生じます。
「つこうて」と今、和田さんは御書きですが、これを歴史的假名遣で「使うて」と書けば、普段「つかって」と言つてゐる人も、「つこうて」と言つてゐる人も、同じやうに理解出來ます。文章は、發音が傳はればそれで良いのではなく、意味が傳はる必要があります。その爲には、見て、語彙として認識し易い文字の表記が必要なのであり、一度發音して、よくよく考へた上で語彙に還元し、意味を理解しなければならない單なる發音記號の羅列である「表音的」な表記は、書き言葉に適しないのです。
書き言葉は、より多くの人が讀んで理解し易いやうに書く可きでせう。「讀み易さ」の觀點から言ふならば、「表音的」な發音記號の列擧は「表語的」な假名遣に基いた表記に劣るのです。
>書き言葉と話し言葉とが一致しなければならないと御考へになる理由を御説明願へませんでせうか?
「一致しなければならない」といったおぼえなく、おもってもいません。
ひとびとのつかうことばが、だれかがこうあるべしといったところで、どうなったためしなし、
これからもないでしょう。
>その時には方言が消滅する事になります。
そのまま、つこうて、かいとればエエのんとちゃいまっか?
わたしわ、「扇を」お「a-fu-gi wo」、「〜でしょう」といいたいときに「〜でせう de se u」と
なにもかんがえずにでてくるようになればいいなあといっているだけです。
>もし「表音的なものですませておいてもよいが、すませなくてもよい」と云ふのが和田さんの主張であるならば、
和田さんは「表音的假名遣派」の看板を即刻下ろさなければなりません。
「XX派」とはある主張で自らと全人民の全生活を支配し、反対勢力をこの世から殲滅するまで闘う者と
一般的に定義されているなら、看板を下ろします。
「正假名遣の規範性を認識」--よくわかりませんが、あきらめといえばあきらめです。
http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/え、うつれとおっしゃるならそうします。
>何か理由がありやなきや。
わたしが「戦前の表音主義者」でないからです。
小林英夫わ、まことに「を」お「wo」とこえにだしていたのでしょう。
私が橋本博士の PDF を伝統的明朝体でつくっているのは、「正しい」とおもうからではなく、
「美しい」とおもうからだ。「飢饉」「神祗」は醜悪だ。もし「拡張新字体」でそろうならそれでもよい。
-- 所詮、活字やフォントの字形などかざり文字には、ただしいもへったくれもない --
(と、白川静「漢字百話」よりよみとった)
「正字」派の主張が、-- 明朝体で正式印刷物をつくるときには、
伝統的な明治以来の日本の活字職人ごのみの康煕字典体風(いわゆる康煕字典体)字形をつかうべきだ --、
ということならば、ひとつの見識であり、わたしは文句をつけない。
どうぞ印刷業者にそう注文したり、康煕字典体風フォントでみずから印刷するなりご自由に。
これ以上いうことなし。
しかしこれが、およそ漢字には、ただしいかたちがひとつあり、康煕字典によりきめられる、
日本のあらゆる文字表現物の漢字字体(筆写体や Computer Display 表示等まで)は、
これにしたがうべきだとまでいうならば、とんでもないことだ。
康煕字典を絶対視するなら「畑働榊」はどうなる、
すべて「着」は「著」、「綿」は「緜」、「笑」は「咲」とするのか。
「為」、「来」、点なし「者」も、康煕字典序にもちいられた楷書の「正字」だ。
伝統をいうならむしろ、ときところにより、ある文字がかたちをかえる、
これでかまわないとするべきだとおもう。変体かな、異体字をもふくめて。
「為爲」「着著」「来來」はおなじ文字というのこそ伝統である。
手書原稿は楷書行書草書でも(康煕字典体とは無縁)、なにも指示せず印刷/出版業者にわたすと、
康煕字典体風明朝体で印刷されてかえってくる、これがあたりまえだった、ときいている。
森林太郎だって「区鳥」とかき、かかれても問題にしなかったろうとしんずる。
表示能力に制約のある現在の Computer Display ではつぶれてよめないものなど問題外、
どんどん略体つかうべし。
当用漢字字体も過去まったくつかわれたことのない「神代文字」のごとき創作新字ではない。
ただ印刷文字については当用漢字字体から無理に明朝体をつくってしまったのは失敗だったとおもう。
新字体は「教科書体」にまかせるか、「昭和明朝体」「新体」とでも名前をかえて
あらたに活字をつくれば混乱はへらせたのではあるまいか。
さらにいいたい。
戦時体制下での「変体活字廃止運動」(楷行草隷書/清朝/宋朝活字等を供出させ、艦船・航空機をつくる)、
戦前戦後の画一教育(ただしいこたえはたったのひとつで、エライひとがきめる--天皇またはソ連共産党が)は、
明朝体至上主義者をうみだしてしまった。学術論文でも、詩歌でも、小説でも、なんでもかんでも明朝体。
JIS例示字体は明朝体だけ。はしご「高」、土「吉」を明朝体でつくって文字コードに追加しろ。
シメスヘンは「ネ」じゃなく「示」でないといけない・・・・かなしいことだ。
p.s.
次期 Windows では Adobe-Japan1-6 準拠の OpenType MS明朝/ゴシック標準搭載との噂です。
IE の出来次第では、Click 一回で当用漢字字体を追放した昭和初期風画面がゴシック体でしょうが
出現する(お好み Cmap 編集自由自在ならいうことなし)?
文字コードと明朝字形のもともとあろうはずのない関係をスッパリきりはなした Adobe は
さすが合理的欧米企業。文字コードにある特定の字形をむすびつけるという発想はないのでしょう。
東大明朝/GT書体をわらえ。
みなさんへの返信は、またあらためて。
関西に住む中国人ですが、関東の日本知人と電話での話でホテルが取れないので(しょうがないやろ)と言ったらいきなり電話を切られました、後日何故切ったのか聞くと貴方の家庭内で(しょうがないやろ)を使うのは勝手だけど私は威圧的にしか取れないと怒られました。
これって私が間違ってこの言葉を使っていたのか、それとも相手の解釈が間違っているか何方か教えて下さい。
関東の人は威圧的にただ感じるのでしょうか。
全部野嵜のミスです。電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも野嵜の所爲です。すみませんすみませn
「正字正かなQ&A」の改訂日付が二千八年のものになつてゐるのは故意でせうか?
二十一日の闇黒日記、日付が二十日となつてゐますが?
>私の身近に「人」を云へない人がをります。「しと」と云つてしまふ、と當人は云ふのですが、私の云ふ「しと」とはどこかに違つてをります。
江戸つ子は「ひ」と「し」との區別が出來ないので「しぶや」と「ひびや」がごつちやになるとかならないとか。タクシーの運轉手が「澁谷まで」と言はれたと思つて御客を連れて行つたら本當の目的地は日比谷だつた云々。
>書き言葉と話し言葉とでは性質が違ひます。
私の身近に「人」を云へない人がをります。「しと」と云つてしまふ、と當人は云ふのですが、私の云ふ「しと」とはどこかに違つてをります。志ん生は蛙を示す時、其の語尾をru音ともro音ともつかない發音で致します。聽いてゐてとても樂しいです。又私は沖繩方言を話しますが、それを書くといふ場合、一應、片假名などで表音はしてみますけれども、音を寫すといふ事に於ては、おのづと限界はついてまはります。言葉は生きものだと云ふではありませんか。むかし、「月」と「雪」の「き」の音が異なつてゐたなんて何だか嬉しく思ひます。
> くだらないものにきまっている、そういうよのなかになれば、しめたものだ。
大した事ぢやないんだが、戦前の表音主義者等は、「言」や「云」の「いふ」を「ゆう」と書いてゐたさうな。更に、かの小林英夫は、表音的表記を実践した書物を書残してゐるが、助詞の「を」だけは其の侭「を」と書いてゐましたな。和田さんは、其のどちらの表記とも違ふ表記を採用してゐるやうだが、何か理由がありやなきや。
和田さんは、正假名遣の規範性を認識してゐながら、諦めのために表音假名遣派を名乘つてゐるのではないですか。
僭越ながら、私にはそのやうに思へます。
と言ふか。
>はなしことばにかぎらず、かきことばのうちでも、すぐにきえさる、どうでもよいものわ、
>「表音的」なものですませておいてもよい、というのがわたしのかんがえだ。
「すませなければならない」ではなく「すませておいてもよい」と云ふのが、主張として極めて「弱い」やうに思はれます。「すませておいてもよい」のならば、當然の事ながら「すませなくてもよい」のです。さうなると、表音主義は「主義」として意味をなさなくなります。「表音的でなくともよい」と云ふ主張は、何處が表音主義なのでせうか。もし「表音的なものですませておいてもよいが、すませなくてもよい」と云ふのが和田さんの主張であるならば、和田さんは「表音的假名遣派」の看板を即刻下ろさなければなりません。
>みなが「わたしはこれをつかふ」お「wa ta si fa ko re wo tu ka fu」と、はなすようになり、
>千年のあいだに、なまりになまったことばが、そのもとのひびきお、とりもどすときに、
>「仮名遣問題」わ、きえてなくなる。メデタシメデタシ。
書き言葉と話し言葉とが一致しなければならないと御考へになる理由を御説明願へませんでせうか?
私は、書き言葉と話し言葉は一致する必要がないし、一致してしまふのは良くない、と考へます。
もし「仮名遣問題」がわださんの仰るやうな形で「きえてなくなる」時が來たら、その時には方言が消滅する事になります。それは果して「メデタシメデタシ」な事でせうか。
書き言葉と話し言葉とが「必ずしも一致しない」事で、話し言葉における「搖らぎ」が認められる事になります。話し言葉において自然に存在する個人差や地域差が許容される事になります。
書き言葉は規範的ですから個人差や地域差は無くなる傾向にありますし、その方が便利です。
書き言葉と話し言葉とでは性質が違ひます。それで良いと思ひます。書き言葉と話し言葉が一致してしまふのは不幸な事です。
>よろしければ、「表音的假名遣は假名遣にあらず」の論旨に對して論駁していただけませんでせうか。
いいまかすことわできない。わたしも「歴史的仮名遣」が、ただしいとおもうし
(「正かな」といってもよい)、このことお、まなびやでおしえるべきともおもう。
ただ、いますべてのひとに、これにならえというのわムリだろう。70年まえでもできなかった。
はなしことばにかぎらず、かきことばのうちでも、すぐにきえさる、どうでもよいものわ、
「表音的」なものですませておいてもよい、というのがわたしのかんがえだ。
でも、ただしいやまとことばのものさしとして、「歴史的仮名遣」お、
しっかりとさだめておくことわ、よいことだろう。
ものさしがしっかりしていれば、すこしぐらいずれても、もとにもどれる。ずれもたのしめる。
「歴史的仮名遣」派のみなさん、うつくしくただしいかきことばお、
よりおおく、のちのよにのこしてほしい。すべて「表音的」にかかれたものわ、
くだらないものにきまっている、そういうよのなかになれば、しめたものだ。
よむにあたいするかきことばわ、それらお、もじのとおりに、くちにだしてよむのが、
ただしいとおもいちがい?するひとがふえてくれればいいなあとおもう。
みなが「わたしはこれをつかふ」お「wa ta si fa ko re wo tu ka fu」と、はなすようになり、
千年のあいだに、なまりになまったことばが、そのもとのひびきお、とりもどすときに、
「仮名遣問題」わ、きえてなくなる。メデタシメデタシ。
「正字」についてわ、あらためて。
御指摘のソフトですが、小生は存在を知りませんでした。御教示いただき、有難うございます。
しかし、橋本新吉電子文庫に電子データを寄稿してゐる方が、表音假名遣派であるとは驚きです。一寸信じられない氣分であります。
よろしければ、「表音的假名遣は假名遣にあらず」の論旨に對して論駁していただけませんでせうか。
「日本語のために」さんへ
>下にあるpdfの私の文章も、一字一字文字鏡で拾つて作つたものです。正直言つて、大變。
>いつでもやれるやうな仕事ではない。正字正假名用のソフトを買へば良いのだらうが。
わたしわ pLaTeX+dvipdfmx+ヒラギノ をつかい、「橋本進吉電子文庫」の PDF をつくっているものです。
TeX ですと「正字」も、すこしわざがいりますが、「新字」とおなじようにあつかえます。
ただし TeX そのものになれるまでがタイヘンかもしれません。
ごサンコーまで。
ps.
私個人は「表音的仮名遣い」派です。
また漢字については楷書体こそ美しい「正字」であると考えております。
明朝印刷字体特に「康煕字典体」は好みではありません。
さう氣づかされて讀んでみますと「なんとなく面白いですね」
面白いと思ひます。
>野嵜さん
>十二日は、「ない」のではなく、あります。
なんとなく面白いですね。
筆の滑つた箇所(惡書の文字と最後の二行)を削除しました。
http://aratama-kouki.at.webry.info/200506/article_7.html
これも「無職でアニメファンのノズラーは、どんなに正しいことを言つても説得力がない」と言ひたいんですかねえ。
江古田の古本屋で千二百五十圓で買つた『sc恆存語録日本への遺言」は、エピローグと題して「言論は空しい、いや、言論だけではない、自分のしてゐる事、文学も芝居も、すべてが空しい。が、それを承知の上で、私はやはり今までと同じ様に何かを書き、何かをして行くであらう。…略…詮ずるところ、幾ら食つても腹が減る事を承知しながら、やはり食はずにゐられないといふ事に過ぎまい」(言論の空しさ)とだけを擧げてあり「…法は、そして論理とか理想とかいふものも、現實を粉飾し糊塗する爲のアクセサリーに過ぎぬといふ考へ方であり、随つて、…略…憲法そのものは勿論、護憲論も改憲論も、その他あらゆる言論について言へる事は、それによつて現實が牽制され動かされるのではなく、その反對に現實が自ら變化する事により、その力に牽制されて言論が動かされるのだ、人々はさういふものを納得してゐるのである」等の文章が削がれ「文脈」が殺されてをります。
私は、齋藤氏の書いたもの及び推したものを讀みませんが、文學に關る仕事をし當り前に「現代仮名遣い」で書く人の文章は、どうして信頼する事は不可能です。
以前、TVで齋藤教授が「文脈力」といふものを論じていらつしやるのを見たことがあります。惡文を讀んで文脈を讀む力を得よといふことなのでせう。――違ひますか。
古い印歐語は明かに屈折語であるが、英語は孤立語的になつてゐる、と云ふ事で、説ではなくて言語の方が變つてゐると言つた方が良いでせう。
一般論で言つて西歐の言語は屈折語である訣で、野嵜が勘違ひしてゐたのですが、あの文章で用語だけを變へるのは無理なのでそのまゝにしておきます。
十二日は、「ない」のではなく、あります。ただ「十一日」と書いてしまつただけです(日附をコピー&ペーストした爲)。訂正しました。何うも有難うございます。
>孤立語である西歐の言語
「屈折語」ではないのですか? 最近は説が変ったのでせうか。
それと、十二日が無くて十一日になってます。
旅行に行ってたため、しばらくネットにつなげませんでした。
遅くなりましたが、返信ありがとうございます。
旧字と新字は1対1対応でないんですね。納得しました。いくつか、旧字に関する本も出ているようなので、そのへんも読んでみます。
辭書もいきものだなあと思ひました。お叱りを受ける言ひ方をしますが、辭書によつて表記の異なるのを見ると何だかワクワクしてしまひます。
外國の方と食事をして「コレ、オイシー」と云はれた事があります。「美味しいよこれ」とも云へますが「私、綺麗」の樣な「てにをは」を拔いた言廻しは日本人からでもよく耳にするところです、會話であればさういふ事も成立します。ところが文章に書く場合「てにをは」一つで言葉に對する姿勢が歴然としますからこはいと思ひます。例へば「父よりいただいた」といふ表現を私はしがちですがこれは「より」は誤りで「父から…」とするのが正しいさうです。又「朝と晩とに本を讀む」といふのも誤りでこの場合は「と」は一つでなければならないさうです。既に讀まれた方も多いでせうが林武著『國語の建設』といふ本の「助詞の語源」といふ箇所を要約して次に擧げてみます。※林氏は洋畫家ですが本居宣長の高弟林圀雄以來三代にわたる國學の家に育つた人でその父君甕臣(みかおみ)氏は助詞の事を靈辭と云つてゐます。
「主格名詞」につくものとして「が、の、よ、は、も、ぞ、や、か、こそ、と、さへ、すら、だに」がある。其の内はじめの「が」と「の」が第一の靈辭であり「よ」以下の十一の靈辭は、ただ「が、の」の二字の變化をあらはすに過ぎない。「が、の」には名詞に「主格」としての、また「物主」としての資格を具へさせる機能がある。
〈が〉自己の擧動とか物主である事を示す特性があり、その語源は「吾(あが)」である。
〈の〉「が」と同じく自己の擧動とか物主である事を示す特性があり、その語源は「己(おの)」である。
〈よ〉呼びかけ詠嘆の義を示す特性をもち、その語源は「ヨー」と思はず發する嘆聲である。
〈は〉物があれこれと相分れ相異なつてゐる事を示しニ物の差異をはつきりさせる特性があり、その語源は「ニ(ふた)」である。
〈も〉物があれこれと同じである事を示し又二物だけでなく同類の物の數が多い事を示す特性があり、その語源は「ゥ(もろ)」である。
〈ぞ〉物が數多くある中で、唯その一物を指定する義を示す特性を持ち、その語源は「唯其(ただそれ)」である。
〈や〉物を半信半疑に怪しみ疑ふ意を示す特性があり、その語源は「怪(あや)」である。
〈か〉物が怪しく異樣で不思議であるのを疑ふ義を示す特性があり、その語源は「異怪(けあや)」である。
〈こそ〉物が數多くなる中から其の比べるもののない一物を特にぬき出して指定する義を示す特性を持ち、その語源は「特(こと)に其(それ)」である。
〈と〉ニ物の相對比する事、二人が相共同する事、またニ物の連接する義を示す特性があり、その語源は「共(とも)」である。※「と」を二つ使ふのはニ物相對しニ物相共同するものに限られ、「と」を一つ使ふのはニ物連接するものに限られる。「これとそれとを合せれば幾つになるか」「これとそれがあの人の分です」
〈さへ〉物が一つある上に尚おまけに一物が加はり添ふ事を示す特性があり、その語源は「其(そ)が上(うへ)」である。
〈すら〉大の物の量を推測するため小の物の度の實測を示す特性があり、その語源は「總(す)べ等(ら)」である。
〈だに〉數の澤山ある物の量を推測する爲ただその一物の度の實測を示す特性があり、その語源は「唯(ただ)に」である。
※「目的名詞」につく靈辭。
〈を〉「主格名詞」の意思や動作の「目的」を示す特性があり、その語源は「折(を)り」である。「折り」は物を動かし移し左右する意味。
※「所在名詞」につくものは「に、へ、から、より、まで、ゆゑ、で」の七つ。其の内「に」は「主格名詞」の意思や動作の「所在」を示す特性をもつ靈辭の本體で「へ」以下の六語はただ「に」の變化を示すに過ぎない。
〈に〉主格の擧動の爲にその場所を「主語」に供する特性を持ち、その語源は「根居(ねゐ)」である。「根居」はその所在が地上地中地下にある事また物をすゑ物をおく意。
〈へ〉物の方位を指さし示す義でその方位を表す特性を持ち、その語源は「方(へ)」である。
〈から〉は物の起り始り發するところを示す特性を持ち、その語源は「起(おこ)り新(あら)」である。
〈より〉物の發程を表す特性があり「まで」に相對する靈辭である。その語源は「矢起(やおこ)り」である。「より」の語源はその到着の的に對して弓を射る矢から來てゐるので「から」とは違ひ到着の目標を持つてゐる。※「より」は目的を豫期し「どこどこよりどこどこまで」といふやうにその「發程」を示す特性があるのに對し、「から」はその到着を豫期する事なくただその起り始り發するところを示す。
〈まで〉物の到着を表す特性を持ち「より」に相對する靈辭である。語源は「的當(まとあ)て」である。
〈ゆゑ〉物の理由とか所以を表す特性を持ち、その語源は「由(よ)る譯(わけ)」である。
〈で〉事の所作を表す特性を持ち、その語源は「於爲(にし)て」である。(車にて⇔車で)
キーワードとして「現象學」「谷徹氏」「基體とか判斷とかの用語」が出て来たのですが、其れ等の事柄については、現時点では無頓着である事を伝へておきます。用語等の一致の上で論じ合ふ必要があるのであれば、少くとも谷徹氏の著作の内容を確認するお時間を頂きたく思ひます。矢張りと云ふか、取敢へず、現時点では意が尽せてゐないと認識しておきます。
日本語のてにをはについてソシュール的な言語学からどのやうに説明できるのか、私からも詳しい知識を御持ちの方の御意見をお待ちしませう。
一往確認しておきますが、平頭通さんは、文脈上、この話が現象學の話である、と云ふ事は御解りになつていらつしやいますよね? 特に谷徹氏の著作に基いてゐる、と云ふ事。
基體とか判斷とかの用語も同書に據つてゐますので、當然ながら、さう云ふ觀點から話をされてゐるのですよね?
訂正の件、確認しました。
> そのとき「は」は何うなつてしまふのだらうと、さう質問してゐるのだが。
「は」と云ふよりは、感知と云ふ行為自体が"S"を"p"に置換へる所作なのではないかと思ひます。であるならば、"p"が事前に無ければ"S"を感知できないとなります。其の時、「Sはpだ」のやうなモデルを通過するのかどうかは検討の餘地があらうかと思ひます。「Sはpだ」自体が思考のモデルだからです。
判断の「多い」「少い」や「大きい」「小さい」など色々ありますが、最も原始的な判断は「快」と「不快」だと言はれます。
思考は、種々の"p"や其れ等に就いての判断に基づいて思ひ廻らす事です。尚、直感は思考を通りません。
(意を尽せたかどうか心配です)
ですからー。
>詰り、"p"が存在しなければ、"S"が目前に見えてゐたとしても感知できない状態になります。
そのとき「は」は何うなつてしまふのだらうと、さう質問してゐるのだが。
「日本語に於ける「てにをは」とは、認識とか判斷とかに於て、何を意味するのですか」
「は」は、係助詞ですよね。文中に「は」と来れば文末は「終止形」で終ると云ふのがお約束です。終止形で終る文は、倒置の表現にはならないので、文全体は強調され得ません。「は」の受ける語句は、話し手と聞き手の間で共通に認識されてゐる事柄になり、「は」の後に続く語句は話し手が聞き手に伝へたい事柄になると云ふ考へ方があります。
「判斷を行ふ際、基體Sに對して、規定・意味pを結び附ける」と云ふ場合は、恐らく、人が或る現象を五感や六根で感知して其れを言語に置換へる所作の事を云ふのかも知れません。此の場合別の見方をすれば、「規定」や「意味」と云ふ概念を通して「基体」を感知する事が可能となるとも考へられます。詰り、"p"が存在しなければ、"S"が目前に見えてゐたとしても感知できない状態になります。
(処で、「嗜好」は「思考」の誤りなのではないかと)
下にあるpdfの私の文章も、一字一字文字鏡で拾つて作つたものです。正直言つて、大變。いつでもやれるやうな仕事ではない。正字正假名用のソフトを買へば良いのだらうが。
8日の事の日附が7日の儘ですが如何に?
少しでも多くの人人に讀んで貰ひたい爲に假名遣、字體を改めました、といふ斷り書きを時時目にする事があります。
敬愛する百鬼園先生が別人になつて新潮文庫に収められてゐますし、このあひだ古本屋で姿の變へられた「sc恆存語録」を見ました。
キーを叩けば正字の多くは出ますが出て來ない字も多いですね。ひところは「文字鏡」で一つ一つ拾つた事もありましたが、手間でない事はなく今では止してゐます。悔しい樣な氣がします。
「弁護士」の「弁」と「弁当」の「弁」の字は本當は違ふとかいふやうに、
本當はこれではないなどと言はれるのは嫌ぢやないですか。
本當はこれだけど、あなたたちは馬鹿なのだから簡單な字を使ひなさいなどと言はれてるやうで。
馬鹿でも正しい事を知りたいし、本當の事を知りたいよといふのが、
正字や正かなに拘る理由なのかも知れぬ。
少々遲かつたかも知れませんが、正字體についての私の考へです。
御覽いただければ幸ひです。http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/KANJI_NO_JITAI_NI_TSUITE.pdf
どうよ、と言はれてゐますが、私は既に読了してゐます。感想としては、新聞なりなんなりをよく調べ上げてゐるなあと云ふ具合です。事実を時間経過に沿つて述べ乍ら、著者が意見を述べてゐるやうな本でした。
我ながら野暮かつ頓珍漢だつたな。
単なる愚痴なので…。
('A`)
すみませんね。板を借りて。
http://otd13.jbbs.livedoor.jp/335514/bbs_plain←しょ〜もない。
忙しくて書き込まないと好き勝手に言われるものですね。僕は松原正氏のスパイだと思われてるらしいですよ(笑)。
http://logos.blogzine.jp/1/
前田氏は「私は馬鹿であるか」と自問して、そうであると公表している。という事は謙虚などとは無縁の単なる開き直りである。自分の「馬鹿」を楯に好き放題物を言う人物とお見受けした。自尊心とプライドを混同しているとしか思えない。
http://aratama-kouki.at.webry.info/
ノズウォッチャーとやらの御意見はこの程度か…。
徹底的に叩きのめす必要も無し。
何かを思ひめぐらす時に實際に正假名遣で書いてみては如何でせう。
喜びとはかういふ氣持なんだなあと、私は感覺でしか言ふ事が出來ませんが、さういふ氣持が實際に起きて來る譯ですからやはり喜びとしか言ひ樣がありません。鷗外は先人の息遣ひのとほつた「假名遣」を「寶物」であると書いてゐます。
「この夕べ」と短歌でよく言ひますが、それは「ゆふべ」であり「ゆうべ(昨夜)」との區別がありますし、「たえる」は「絶える」でも「堪へる」であり、「いえ(否)」が「いへ」でないのは「いや」だからでせう。
ところで私は「神」が嫌ひです。示して申すから「」なのではと考へます。
最後にてばさんへ。「假名遣」は間違はなくなるまで間違へてしまふと思ひます。私はよく間違へます。「つい」であつたか「つひに」であつたかなと何囘も辭書をめくつてゐる現状です。三島由紀夫は假名遣の確認の爲『廣辭林』をせつせとひいてゐたさうです。ああ、と氣附けば嬉しい事でその都度なほしていけばいいやと思ひました。
若輩者がついをこがましい事を書きました、お許し下さい。
> 「見た目」以外にも何か、正字を用いる理由があるように思うのです。
私の場合、普段正字体を使つた電子文書を打込む事が少いので、あまり此の件について強くは言へないのですが、少々述べさせて下さい。
正字を用ゐる理由とは、と云ふお問合せですね。先づ第一に、漢字の書体に一貫性が保てるのが、大きな理由になります。偏旁に「兪」の部分を使ふ字は多数ありますが、其れ等を仮に一覧にしてみます。「喩 愉 揄 渝 愈 楡 瑜 逾 瘉 蝓 諭 覦 踰 輸 癒」まあ代表的な所だけですが、形だけ見ると二種類に分けられるのが解ると思ひます。之等は元々全て同じ「兪」のやうに印刷されてゐたのですが、「当用漢字字体表」の制定で一部の漢字が「諭」の旁のやうな形に変へられてしまひました。処が「表外漢字字体表」については、No.929からNo.932のやうに結局「兪」の形が保存される事になり。元々一つしか無かつた「兪」が二様に表現される結果を招いてしまひました。此のやうな漢字が「常用漢字」と「表外漢字」との間に幾つも見出されます。
更に、「常用漢字」では、「弁 辨 辯 瓣」等、複数の正字体の漢字を一つの「新字体」で書換へる等と云ふ遣り方をしてゐますので、其の点においても、文字表現がより正確になると云ふ点で正字体のはうが優れてゐると判断されます。こんな処でせうか。
御質問どうも有難うございます。
一往、
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/
で當時の状況を含めて説明した積りですが、御讀み頂いた上で疑問に思つてをられるものと解釋します。
>「國」と「国」は外見が違うだけで、同一だ
「語は記號的に意味を指し示すものである」と云ふ考へ方からすれば、慥かに「國」も「国」も同じものを指し示してをり「同一だ」と言へます。ですから、必ずしも略字體を惡と極めてしまふ訣にも行きません。
現行の略字體は、もちろん、戰後の國字改革の際に定められたものですが、一貫した方針に基いて定められたものではありません。「劃數を減らせば能率的に書けるやうになる」と云ふのが國字改革の根據であつたやうにも思はれますが、劃數が増えた「歩」のやうな事例があり、單純に極められません。
所謂「正字體」ですが、漢字の研究が進むにつれて、決定的にこれが正字體だ、と言へる状況にはないやうです。けれども、金文以來の字義や字體の變遷が多くの人々によつて研究されてをり、歴史の流れの中で、どのやうな字體がどのやうな理由で正統のものとされて來たか、は明かになりつゝあります。さうした「歴史の流れ」を重視する立場から言へば、能率と云ふ理想を掲げただけで技術的・學術的な根據無しに行はれた字體の改革は認められない、と云ふ事になります。
漢字の研究と、それに基く國語改革批判は、白川靜氏のものが信頼出來ると想ひます。
正字を苦手にさせる教育も思へば久しいものですな。
自分はこの問題について詳しいわけではありませんが(略字で書いてゐるくらゐだし)、高島俊男さんの『漢字と日本人』が参考になるかもしれません。略字新かなで書かれてゐるので、正字が苦手な人でも安心?です。高島さんは、野嵜さんとは考へ方が異なる面もあるやうですが。
個人的には「そもそも漢字を手で書くときは、活字のやうに一画一画正確に書く必要はない。正字(漢字)は書くのが難しいから新字(かな文字、ローマ字)の方がよい、といふ考へ方は、前提からして間違つてゐる」といふ指摘に目から鱗が落ちました。
>義珍さん、渡名喜さん、相場師さん
回答どうもありがとうございます。
今までに見た歴史的かなづかいの文章がすべて正字で書かれていたので、歴かな=正字の問題と思っていました。歴史的かなづかいで書くからって、正字を用いなくてもいいんですね。
私は渡名喜さんよりも生まれが20年ほど後で、歴史的かなづかいや正字に触れる機会は皆無でした。初めて読んだ坊っちゃんも現代かなづかいと略字で書かれたものでしたし、今までに読んだ、歴かなや正字で書かれた本は、十にも満たないでしょう。ですが、こんな私でも、正字を使ったほうが読者に訴えかけてくるものは大きいと思います。歴史的かなづかいについても同じことが言えるでしょう。しかし、歴史的かなづかいは「見た目」のほかにも様々な理由があって、現代かなづかいに比べて日本語として正しいのだと思います。「見た目」なんてどうでもいい、とは言いませんが、「見た目」以外にも何か、正字を用いる理由があるように思うのです。
覚えればいい、と言ってしまえばそれまでですが、国(文部省?)が略字を用いるように定めたときも、かなづかいの問題と同じように反対派も居て、そのそれぞれに根拠があったでしょう。同じ文章に二通りの書き方があるなら、なぜそう書くのか、それぞれの根拠を知りたいのです。また、「ゐ」は現代かなづかいにするときに無理やり「い」に統一してもので、歴史的かなづかいでは「ゐ」と「い」が本質的に異なっていました。ですが、「國」と「国」は外見が違うだけで、同一だと思います。正字は略字に比べて判別しやすいというのは、その通りだと思います。
乱文で失礼しました;;
>いわゆる旧字(國、圖、學など)を用いるようですが、わざわざ簡略化された字(国、図、学)を
>このように難しく書くのはどうしてでしょうか。
例へば「くに」と入力して變換すれば「國」が出て來ます。別に難しくはありません。
手書きの時は簡略化された文字を使ふことはありますが、PC等で入力する分には何も難しい事はありません。
正字は複雜ではありますが、難しくはありません。ただ知らないだけです。調べれば直ぐに分かるのだから簡單です。かなは「ゐ」と「ゑ」が讀めれば讀める。漢字はもう少し種類が多いといふだけのことでせう。多いと言つても知れてゐます。漢和辭典の裏表紙に收まる程度です。
また文字は讀む爲にあるので、複雜な方が判別しやすくて良いのではないですか?
私は昭和三十九年生で、てばさんと同じ樣に、先人達が實際に書き殘した文章を身近に讀む事が出來なくなつてしまつた世代の一員です。さうかと云つて昔の人が今の人に分らなくする爲に「わざわざ」「難しく書く」樣ないぢわるな人達であつたとは思ひたくないのです。私のこの齒がゆさをどうしたものでせう。現在の略字「当用漢字」は利便の上で役立つものである事は確かです。それは言語を道具として使ふ場合だからです。田氏は「教育のために言語があるのではなく、言語のために教育があるのです」と書いてゐますね。私は必要があつて小泉八雲の譯文を手に入る限りの全部を調べた事がありますが同じテキストで、一方では力があり一方では力がないと云ふ、謂はば奇怪な現象に愕然とした體驗を持ちます。現在圖書館等に置いてある漱石鷗外等の作品も呼吸がまるで違ひますから(或いは視覺の要素があるでせう)本當のものでありません。一字一字書きとめたそのままの彼等の作品に接する事をお薦めしますし、それが禮儀だとも思ふのです。確かに舊字は面食らふ事はありますが(現行教育のおかげで)すぐ慣れるものであり、又「当用漢字」の不具合もおのづと實感されると思ひます。私は縣廳(県庁)鹽(塩)等が讀めませんでしたが、讀みづらいものはさう多くないと思ひます。最後にてばさんへ。辭書をひく行爲は素らしい事ですよ!
正字については詳しい方が御教示くださるでせうから、自分からはひとつだけ。
歴史的かなづかひで書くときは、必ず旧字(正字)を用ゐねばならないわけではありません。自分のやうに略字正かなで書くこともできます。かなづかひと漢字の問題は(密接な関りがあるものの)ごつちやにすべきではないでせう。
「言葉 言葉 言葉」を読んで、歴史的かなづかいに興味を持ち、福田恒存の「私の国語教室」を読みました。
なるほど歴史的かなづかいの理屈はわかりやすいし、現代かなづかいの不合理も、確かにそのとおりだと思います。ですが、どうしても腑に落ちないところがあったので、ここで質問させていただきます。
歴史的かなづかいで文章を書くときには、いわゆる旧字(國、圖、學など)を用いるようですが、わざわざ簡略化された字(国、図、学)を、このように難しく書くのはどうしてでしょうか。
「私の国語教室」にあった通り、歴史的かなづかいそのものを読むのは苦でもなんでもなく、すらすらと読めるのですが、知らない旧字が出てくると、わざわざ漢和辞典で調べなくては意味がわからなかったりと、苦労しました。
「台湾」が略字の様です。
大分前にフランス語の数についての闇黒日誌を拝読しました。遅レスですが、確かに英語よりも大分とっつき難いですね。万、億、兆、という四桁刻みに馴れている私は桁が千、百万、という三桁刻みの方が英語やフランス語の難しさだと思っていましたので、石原都知事の仏語数字への批判は的外れだと感じました。が、お陰様でそうでもないのだ、と思い直しました。
「林健太郎様」というサインの入った清水幾太郎書籍が印象的でした。東京ではこういう古本もあるのだなあ、と面白く感じました。
毎度どうも有難うございます。訂正しました。
>「岩波文化」の前に餘計な ":" があります。
これだけは意圖的に入れたものです。セパレータ。
「岩波文化」の前に餘計な ":" があります。又、「國誤と國文學」は、國語の誤りなのでは……。
其れより、時枝博士の「國語假名づかひ改訂私案」は『國語問題と國語教育』に掲載されてゐるやうですが、私はまだ原文を読んだ事がありません。
『楡家のの人々』とありますが「の」が多いように思われます。
非礼をお詫びします。
修正しました。何うも有難うございます。
また「義」ですよ皆さん。
フランス語の基數詞の部分。閉じタグが誤っているようです。
平成十七年七月十五日4件目の引用
「言語は、各人が聲音を媒介として互に思想を通ずる一つの旗艦である。」
「機關」の誤變換の樣です。
義珍といふのは本名なんですけど、とか嘘吐いてみるテスト。
沖縄には義といふ姓が本当にあるさうですが。
御教示ありがたうございます。
電子文書では、「愈々」に同の字点を使ふやうですが、出版の印刷等を見てゐると、二の字点が使はれてゐるのも見掛けます。"JIS X 0208"には二の字点がありませんから、しやうがないのですけれども、一寸残念です。
「ちよつと」でいいと思ひます。手元にある本をざつと見た限りでは「一寸」と書く人が多いやうですね。私は、そこで呼吸をおく時は「一寸」、「ちよつとした」「ちよつとやそつと」のやうに下に息がかかる場合には「ちよつと」と平假名で書く癖があります。念の爲、四十歳になる妻に「一寸」を讀めるかと尋ねたところ、私は讀めるが若い人には意味を取れても讀めない人が多いのではといふ返事でした。昭和十七年の文部省標準漢字の發表の際、代名詞・副詞・接續詞などを假名書きにしようといふ方針を立てたさうですね。其の、此の、此處、其處、先づ、寧ろ、殆ど、兎角、矢張、愈々、如き、併し、遂に、迄、程、可し、などを平假名にせよ、といふ仰せを末恐ろしく感じ、またその通りの世の中になつて來てゐるやうです。私は漱石の作品の内容を殆ど覺えてゐませんが「兎角」といふ言葉の置き方には惚れ惚れした記憶があります。
仮名で書くのなら「ちよつと」かな。でも、殆ど漢字で書くと思ひます。
「ゃ」「ゅ」「ょ」だとか「っ」だとかは大きく書く人と小さく書く人とがゐるやうですけれども。大きく書けば良いのではないかと私は思ひます。
なんとなく「××に100の質問」の類を思ひ出しました。後半、「質問の数増やすことだけが目的になつてねえか?」といふ感じがするところも含めて。
それとは関係ないのですが、かなづかひについての疑問をひとつ。「少し」といふ意味の「ちょっと」を正かなで書く場合、「ちよつと」でいいのでせうか。このサイト的には「『一寸』て書けばいいぢやねえか」といふことになるのかもしれませんが、どなたか教へていただければ幸ひです。
七月九日の闇黒日記にある「大きな蕪」による教育話についてのコメント非常に面白く拝見しました。現在の教育が「その場で完璧に分かるように」に流れていることも、それに問題があることも、仰る通りだと思います。
日本語の文章を生成する詞と辭
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/Nihongo.html
「『てにをは』も現状、『語』の仲間として、品詞分類されてゐます。その爲……」のところ、マークアップが不正です。
日本語の文章を生成する詞と辭
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/Nihongo.html
> そして、感じで表現された觀念語をそのまゝ使用しながら、
「感じ」は「漢字」の誤りではないでせうか。
もう来ないのなら仕方はないのですが、私も自分の考へ方と、高崎さんをどのやうに見てゐるかを書込んで終りに致します。
私は、現状が「現代仮名遣い」優勢の状況が先づ在る事を認めてゐます。其の状況下で、本来の仮名遣を外の皆さんに認識して貰ひたいと願ふのであります。其の場合、先づは実際の日本語の文章に書かれる時に問題になる仮名遣を明かにする事が先決だと考へました。之は「実務」と云ふより、生活や思考に関る大切な部分になります。其処から、もつと拡げても深く突込んでも構はないと思ひまが、少くとも文章を書く時に問題視される仮名遣は確りと指摘できるやうにしておかなければ、仮名遣はおろか文章すら満足に書けないと云ふ結果になりかねません。其れでは困るのです。解りますよね。
次に、高崎さんの現在の遣り方を見てみますれば、此の優先順位を無視して、仮名遣の大風呂敷をおッ拡げて、「標準化」だ「實務」だと、息巻いてゐるやうにしか見えないのです。私などは本来の仮名遣に理解のあるはうだからまだいいんです。之が「現代仮名遣い」にドップリと浸かつてしまつた人々から見たら一体どう見える事でせう。恐らく「旧仮名遣はこんなに難しいものなのかあ、今は現代仮名遣いが使える時代だから便利になったものだ」とか「昔の人はこんなに複雑な仮名遣を使っていたのか」とか思ふ事でせう。幾ら「實務」だの言つてみても、見る人に誤解を生みかねないやうな表現方法では仮令高品質な報告であらうと、他者からの理解は得られ辛いのではないでせうか。さうではなく、もつと色々な方面の人々に理解して貰ひ易い報告の仕方は無いものでせうか。其のやうな事に留意して研究なり「標準化」なりを進めて行かれれば、もつと質の高い結果が得られるのではないかと思ふのであります。
高崎さん、もう来られないのかどうかは私は判りませんが、私は高崎さんの呼掛けがあればいつでも応対したいと思つてゐます。宜しくお願ひ致します。
「現代仮名遣」に明記されてゐる「ぶれ」。
<引用>
なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。
例 せかいじゅう(世界中)
いなずま(稲妻) かたず(固唾*) きずな(絆*) さかずき(杯)
ときわず ほおずき みみずく
うなずく おとずれる(訪) かしずく つまずく ぬかずく ひざまずく
あせみずく くんずほぐれつ さしずめ でずっぱり なかんずく
うでずく くろずくめ ひとりずつ
ゆうずう(融通)
</引用>
<引用 国語審議会答申「改定現代仮名遣い」前文〔「改定現代仮名遺い」の性格,構成及び内容〕>
(5)この仮名遣いは,「ホオ・ホホ(頬)」「テキカク・テッカク(的確)」のような発音にゆれのある語について,その発音をどちらかに決めようとするものではない。
</引用>
さう言へば、「現代仮名遣」には「頬」の假名遣に「ぶれ」があつたやうな氣が。
「實際のところ」が多い文章だなー我ながら。
高崎さんは、「現代仮名遣」の「ぶれ」のないところを評價するのであれば、「現代仮名遣」を認めてしまつたら何うか。高崎さんが「現代仮名遣」を認めない理由が私には解らない。
高崎さんは、「現代仮名遣」のやうな「制限」的な性質を「正假名遣」も持つべきだと考へてゐる。それは國字改革の精神を肯定するものでしかない。高崎さんは、國字改革を認めるべきではないか。
高崎さんは、「まいまいず」「まひまひず」の類の假名遣が確定する事は希望する。けれども、「私は」の「は」の假名遣については、守る積りが毛頭ないらしい。
以上の點で、私は高崎さんの考へに全く贊同出來ず、高崎さんのやつた事も評價出來ない。
高崎さんは、實は國字改革に賛同してゐる、としか考へられず、「正假名遣」にしても「平成疑問假名遣」にしても、それらを作らねばならない必然性が、高崎さんの考への中にはない。
さう云ふ高崎さんの著作を、國語問題協議會が發行してしまつた事は、協議會の深刻な問題だと思ふ。高崎さんにしても協議會にしても、「論爭にはかかはらない」と言ひ、「運動」に對して否定的な態度を取りながら、にもかかはらず「運動」をやつてゐる。この邊、支離滅裂としか言ひやうがない。
「ぶれが有る」日本語の爲に日本の字引には様様な索引が添えられてゐます。先人は智慧を絞つて道具を作られた。高橋氏は道具に使はれてゐます。
高崎さんの發言。
>標準が標準たるためには、稀な場面でも何らぶれる事なく使へねばなりません。
ここが私には理解出來ない。「現代仮名遣」には「ぶれ」が「ない」――それを高崎さんが「よい」と看做す理由が私には解らない。實際のところ、「現代仮名遣」では、「原則」として「發音のまゝ」と云ふものがあり、それゆゑ發音さへ存在すれば「表記」が「ぶれ」る事はあり得ない。しかし、それは果して「良い」事なのか。實際のところ、餘りにもかつちりし過ぎてゐるがゆゑに、「現代仮名遣」は表記の側から音聲言語を制約し、方言の存在を否定してしまふ側面があります。「煽る」について、福田恆存が指摘した通りです。ところが、さう云ふ點で「融通性がある」歴史的假名遣を、高崎さんは評價しないで、「融通性のない」點をもつてげ「現代仮名遣」を評價してしまふ。その邊、高崎さんが「現代仮名遣」の價値觀に支配されてしまつてゐるやうに思はれます。「現代仮名遣」の價値觀を肯定するのはそれ自體として國字改革の價値觀への屈伏であり、國字改革に反對する立場の人間にあるまじき事であると思ひます。
實際のところ、日本語自體に――と言ふより、言語そのものに――曖昧な部分が殘るのは當り前の話であり、英語の綴りでもさう云ふ事はあります。さう云ふ部分とともに、大體「ぶれ」がない部分がある――それが言語の自然なあり方である。さう考へるならば、その「ぶれ」がない筈の部分と、あつても當然の部分とを嚴密に區別して考へる事は、必要です。それを高崎さんはやらず、ひたすら「完全」を求めてゐる。それがをかしいのです。
私には、高崎さんの「現代仮名遣」への憧れが、「言語統制」への憧れに見えて仕方がない。
まあ、高崎さんは最う反論の爲に此處に現はれはしないのでせうが。
平頭通さんの「他人にどのやうに活用して貰ひたいとお考へでせうか。」との質問に囘答して終といたしませう。
結論から先に申しますと、「標準としてほしい」といふことです。私の編輯した内容が全く殘らなくてよいけれど、歴史的假名遣に一日も早く標準ができてほしいと強く強く願ってゐます。
これから述べる内容はすべて「實務」の視點であると御承知ください。
現代假名遣いの唯一かつ最大、とても眞似のできない長所は「ぶれが無い」ことです。辭書によって掲載箇所が異る語がほとんど全くない、これはじつは驚異的なのです。もちろん問題になる語はいくつかありますが、そこは徹底的に研究されてゐて、結論が標準化されてゐます。私は『改定 現代假名遣い』を讀み直して、「盆提燈」「融通」の例語に感動しましたよ。よくぞこんな語を搜したものだと。
もし歴史的假名遣が全面的に復活した時、表記が確定しない言葉、すなはちぶれがある語が相當數あります。現代假名遣いは理論的に云々とよく批判しますけれど、「それならやってみな」と返されたら、本當に大丈夫なのでせうか。
歴史的假名遣なる表記法は存在しない、といふ有力な考へかたがあります。では昭和二十一年以前の表記法は何だったのか。誰もが「あった」と信じてゐるけれど、定義や細則を示した文書は一つもないので、國定教科書を分析するしかない、それも年代によってだいぶ異るため、これと定め難い、といふのです。それで「いわゆる契沖の復古かなづかい」と呼ぶのです。嫌な表現ですが、結構有力である事に留意してください。私ごときにある研究者が「本當に説明文書は一つもないのか」と質問してきましたから、本當にないのでせう。
歴史的假名遣とは何か、人によってまちまちだと氣づいたのは數年前です。いろいろ質問してみると、人ごとに意見が異る。結局「いやまあそれは俗語だから」とか「そこは臨機應變に」とか、今囘の反應とそっくりなのです。もっとも普通は少し恥かしさうに小聲になるのですけれどね。でも契沖宣長の時代と違って電話帳や郵便番號簿も作らなければいけない、辭書の配列をどうするのだらう、「なだしお」「シオサイト」のままで構はないのか、疑問はどんどんふくらんだわけです。
また辭書を仔細に引き比べてみると、歴史的假名遣の表示がかなり異る事にお氣づきでせうか。これは近年の國語學の成果にもとづき、假名遣の定義に從って變更した結果です。しかし各社の語源探索競爭に傾く面もあり、いよいよぶれがひどくなってゐるのです。それにもかかはらずボロが出ず「歴史的假名遣は一つ」といふ幻想があるのは、平頭通さんが仰るやうに「日本語の文章は漢字仮名交じり文で書かれます。ならば、辞や用言の活用語尾や送り仮名の仮名遣は必然的に優先順位が高くなる」からでせう。『私の國語教室』が標準ですむなら實に簡單なのですが。
標準が標準たるためには、稀な場面でも何らぶれる事なく使へねばなりません。たとへば「鹽飽さん」が「俺の名は シハク かな シアク かな」と迷っても、すぐ囘答できるやう一應の用意は欲しいのです。それでも解決できない問題はあるもので、「現場の聲」はよく聞かねばいけません。小學校で習ふ言葉も書けなければ、それは「表記法」として認められないでせう。もっとも國民均しく問題意識を持つ必要などさらさらありません。普通は困ったら辭書を引けばよいだけの話です。しかし今、我々は表記法を論じてゐます。「瑣末な問題は一つ一つ解決して行けば良い」って、たとへば「ゐのうへ」さんと「いのうえ」さんが別人と思はれて、何億圓かの損害があったとして、誰の責任になるでせう。考へられる限りの瑣末な事まで考へて、それでも何かあると大問題になる昨今、あまりに樂觀的とは思ひませんか。
歴史的假名遣のぶれがほとんどなくなるまで、どうしても現代假名遣いにつづく第二方式とせざるを得ないでせう。その第二方式を定義確立するのが私の目標です。無理かもしれません。「日本語の文章は漢字仮名交じり文で書かれます。」なのですから、平頭通さんは『私の國語教室』で99%用事がたります。1%に興味がある私は、やはり馬鹿かもしれません。馬鹿ですから文法には手を出しません。語源にも深入りしません。『平成疑問假名遣』にある事柄はいづれも孫引きばかりです。「くゑ」「あむ」などの漢字音が珍しいやうですが、これも江戸時代末期から諸家の意見の一致してゐることです。
自説を長々と開陳しました。もう此處へ來ることもないでせう。ご機嫌よう。
高崎さんは、御自分のこの成果を、他人にどのやうに活用して貰ひたいとお考へでせうか。まさか名簿の順番を決定する為だけではないでせう。成果発表が出来て其れで満足と云ふのではないでせう。この問題は、日本語に直接関るものです。ならば実際の日本語の文章に使はれて初めて成果があつたとなる訣ですよね。
私は、仮名遣を整理するのならば、語に依つて優先度(プライオリティ)に差があつて然るべきと申してゐるだけです。日本語の文章は漢字仮名交じり文で書かれます。ならば、辞や用言の活用語尾や送り仮名の仮名遣は必然的に優先順位が高くなると理解できる筈です。其処から内容を深くして行くのも拡げるのも自由ですが、重点をおくべきははつきりとさせておく必要があります。
相變らず
http://homepage3.nifty.com/gimon/seikana.htm
がOperaで讀めない。正しくないからだ。高崎さんの主張はどれもこの手の「讀まれない」ものであると言つてよろしい。そして高崎さんは、無知を言ひ訣にしてゐる。素人の感性は無視してならないものだが、高崎さんのは餘りにもレヴェルが低過ぎる。さう云ふ低レヴェルの「主張」しか出來ないやうでは、普通の人は納得しない。或程度、他人を納得させられる理論武裝は必要だと思ふ。「素人だから」と言つて非常識な事をやつては行けないと思ふ。素人がやつて良いのは、飽くまで、常識で以て非常識な「專門バカ」のいんちきを批判する事だけだ。
>お蔭樣で『平成疑問假名遣』好評ですよ。
『平成疑問假名遣』なる本の存在を知らない人が、世間では壓倒的に多い。「好評」と言ふのなら、「現代仮名遣」の方がずつと「好評」です。
この私には不評です。私を納得せしめる論理が、高崎さんの主張には全くありません。「好評」なのも、せいぜい「仲間内」での事でしかありません。一般に高崎さんの主張は通用しませんよ。それでは駄目です。
「實務」と言ふのは結構ですが、その「實務」を必要としてゐる人が今、日本にゐるのですか。「現代仮名遣」が現在の日本では一般的に用ゐられてをり、さう云ふ状況で「實務」なるものとしての「正假名遣」を必要とする人は、「仲間内」の少數しかゐません。さう言ふ「少數」を相手に、内輪の人間にしか受けない事だけをやつて、それで良しとするのは感心出來ません。高崎さんは、「別物」とおつしやいますが、實は「別物」だとは思つてゐない、だからこそ、野嵜に自分と同じやうな事に拘れ、と云つたのです。
>もし幸にして野嵜さんの仰る假名遣の原理が公に認められたとして、たとへば先づハ行の活用は大切だから復活させませうとなったとしたら、「幸」は活用部分だけ「さきわふ」となりませうか。さういふ不調和を野嵜さんは「本質が守られた秩序ある假名遣だ」と悦びますか?
もちろん、「悦び」などしません。だからこそ、膠着語としての日本語の性質を一々言つてゐるのであり、詞と辭とが曖昧になる部分がある事をはつきり書いてゐるのです。「闇黒日記」にめもを書きましたが、辭においては假名遣を認めざるを得ない事を納得させるのが第一段階、次いで、日本語で詞と辭とが嚴密には分けられない爲に辭の假名遣を認めるのならば詞の假名遣も認めざるを得ない事を納得させるのが第二段階です。高崎さんは、野嵜が辭の假名遣だけを認め、詞の假名遣を一切認めないかのやうに思ひ込んでゐますが、さうではありません。そして、さう云ふ段階的な説得が可能であるのは、語の性質に基いて、假名遣を認めるべき語のプライオリティが「ある」からです。
高崎さんは、「甲斐國」以下の固有名詞について、恰も大問題であるかのやうに言つてゐます。けれども、何れも漢字で書けば當座、假名遣は問題にならない語許りです。また「まんぼう」その他の語源が不明な語に就いて、やはり大問題であるかのやうに述べてゐますが、何れも問題は假名遣にはなく、語源にあります。高崎さんは、假名遣ではなく、語源に興味があるのです。
高崎さんの主張を突詰めれば、全ての語に就いて疑ふ事が出來ます。そして、それらのいちいちの事を氣にしてゐたら、「面倒だから假名遣は要らない」と云ふ感想が直ぐに出てきます。實際のところ、高崎さんは正しい假名遣を普及させる氣がない。「實務」は結構ですが、その「實務」を必要とする理由を高崎さんは考へようとしないし、考へる人間を「實務的でない」として聯想ゲーム的にレッテルを貼つて非難する。實際には、一般的でない珍奇なものに興味を持つてゐる高崎さんは、マニアであり、實務的でも何でもないのですが、それが高崎さんには解らない。
「「幸」は活用部分だけ「さきわふ」となりませうか。」と高崎さんは述べてゐますが、「さういふ不調和」を「悦」ばない高崎さんは、一切の語に就いて「不調和」が存在する限り、「悦び」を感じ得ない筈です。そして、「さういふ不調和」は、永遠に殘ります。全ての語の語源が判明し、假名遣が確定する事は、將來、絶對にありません。さうなると、高崎さんは、「正假名遣」の存在を認める事がそもそもできず、現實に「正假名遣」が行はれない事を逆に「悦」んでしまふ可能性があります。それでは困る。
秩序は理想として存在すれば充分であり、現實的には或程度であれ秩序があれば十分だと言へます。そして、それこそ「實務」において必要な最低限の秩序を確定する事が優先事項であり、その後に瑣末な問題は一つ一つ解決して行けば良い。高崎さんは、「まんばう」の假名遣が確定されるならば、助詞の「は」は「わ」と書かれても良い、と主張してゐる、そのやうにすら私には思はれます。或は「さきはう」でも構はないと高崎さんは思つてゐるのではないか。
それでは困る。
仕事で4時間も正坐を續けたら、翌日になって脚がだるい。これも歳のせゐでせう。
さて、だいぶ論點が見えて飽きてきましたので、そろそろ退出しようかと思ってゐますが、追加として。
「假名遣の本質」って何でせう。私は「實務」だと考へます。「は」は「わ」と紛れやすいから注意を促しただけであって、それ以上の何物でもありません。「て」「に」は假名遣に係らないから、「を」「は」より格落ちでせうか。さうではないですね。假名遣の背景にある文法の秩序を馬鹿にしてゐるのではなく、別物だと申上げてをります。その上で、自分にできる事だけを追及したまでです。お蔭樣で『平成疑問假名遣』好評ですよ。
もし幸にして野嵜さんの仰る假名遣の原理が公に認められたとして、たとへば先づハ行の活用は大切だから復活させませうとなったとしたら、「幸」は活用部分だけ「さきわふ」となりませうか。さういふ不調和を野嵜さんは「本質が守られた秩序ある假名遣だ」と悦びますか?
字音假名遣だけ止めるとして、
・一羽(は)、三羽(ば)、六羽(ぱ)、
・一把(わ)、三把(ば)、六把(ぱ)、
となるのは現代假名遣より更に「秩序ある」状態でせうか。
瑣末な問題を無視して、法則を見出すことはできないと思ひます。たとへば平頭通さんは
>字音仮名遣と和語の歴史的仮名遣とを混同するやうでは其の混沌から脱するのは難しい事だと思ふのであります。
と簡單に仰いますが、本當に峻別する自信がありますか。たとへば
・「甲斐國(かひのくに)」は間違なく和語起原ですが、あくまで「甲(かふ)+斐(ひ)」の字音假名遣と認識されますか。
・「遠近(をちこち)」は「遠近(をんこん)」の字音に由來するのでせうか。
・想夫戀の「小督(こがう)」はどうでせう。
・樂燒の「のんかう」は如何。
・魚名の「まんばう」も漢字音らしく見えますが。
これは何も平頭通さんを詰問しようとしてひねり出したものではありません。實際に私が惱んでゐる語の一部分です。「東海林太郎」を調べるのはだいぶ苦勞しました。「松任谷由實」あたりも意外にわからぬものです。
また
>実際の日本語の文章に即して物事を考へるやうにしては頂けませんか。
と仰いますが、平頭通さんは自分の名前に振り假名をつけたり、名簿を作ることはないですか。假に平頭通さんの本名が井上さんだとして、何でもかんでも復古假名遣で處理できないから「本質をよくよく勘案」した結果、「ゐのうへ」「いのうへ」「ゐのうえ」「いのうえ」4とほりの議論を始めますか。その都度、名簿の順番は變りますよ。住民票の編綴もさぞ苦勞するでせう。
暇がありましたら、次の人名に振假名をつけてみてください。
・「園生さん(♂)」
・「一生さん(♂)」
・「桐野夏生さん(♀)」←作家ですね。
「本質をよくよく勘案」するのはかほどに難しいのです。私は頭が惡いから手を出しません。野黨の地位に甘んじてゐると、理想を掲げるばかりで實務がわからず、次第に當事者能力がなくなります。野嵜さんはどちらかといへば運動家といふ立場とお見受けします。運動家には運動家なりの考へ方がありませうから、私はとやかく言ひません。ただ、天下を取った後ほどむづかしいと思し召せ。
(追伸) おや、野嵜さんはメールを書きませんでしたか。ぢゃきっと掲示板ですね。それなら誰か見た人もいらっしゃるでせう。よかったよかった。
実際の日本語の文章に即して物事を考へるやうにしては頂けませんか。日本語は漢字仮名交じり文で書かれます。其の中で仮名遣が威力を発揮できるのはどの部分になるのかは自づからはつきりとして来るものです。其処に優先順位が生じるのも理解できると思はれます。
「現代仮名遣い」は、個別の各々の語の仮名遣を削つた結果、テニヲハだけ残された訣ではありません。国語表記の表音化を目指して結果的に中途半端なものを拵へてしまつたのが「現代仮名遣い」です。こんな代物で十分な国語表記が可能だとは言へません。かと言つて何でもかんでも復古仮名遣で処理しようとしても、現代の国語表記に適応した仮名遣にはなりません。其処の処をよくよく勘案するべきです。
先づ、実際の文章に使ふ為の仮名遣の本質を明かにして方針を打立てた上で、其の内容に則つて、個別の語の仮名遣に着手するやうにして欲しいものです。当然ですが、辞や用言の活用語尾の仮名遣は最優先です。詞の仮名遣は、大和言葉、漢語、支那語、其の他の外来語と分けて考へられるべきでせう。
と言ふか、高崎さんは自分の「判定基準としての歴史的假名遣ひ」しか認められず、野嵜が言つてゐる假名遣の背景にある文法の秩序を馬鹿にしてゐます。
私は「俺の言つてゐる假名遣の原理だけが唯一の歴史的假名遣なのである」等と言つてゐません。ただ、日本語を分析して、誰も反論の出來ない部分から攻めてゐる――誰もが歴史的假名遣で書かざるを得ない「は」「へ」「を」の話から始めて、「てにをは」全體が本來歴史的假名遣によつて書かれねばならない事を認めさせ、さらに膠着語としての性質から辭と詞とが不可分であり、全體として歴史的假名遣によつて書かねばならない事を納得させようとしてゐるだけです。ただ、詞と辭との區分をある程度認めるのならば、表記の簡略化は、詞の範圍でならば認められる、と言つてゐるだけです。
以下は譬喩です。高崎さんは、出城を作つて領土を擴げる事を考へてゐます。しかし、その爲に、自分のお城の本丸を守る事を全く考へてゐない。否、「爭はない」事で「守れる」と考へてゐるのです。けれども、さうやつて高崎さんが確保してゐる領土は、世間から忘れられてしまつてゐます。世間は、高崎さんの守つてゐる領土に、全く興味を持ちません。高崎さんは、鎖國してゐる「歴史的假名遣」の中で、一生懸命經營をやつてゐる。ところが、高崎さんが領土を巡察してゐる間に、本據地のお城は寂れてしまつてゐるのです。
私は日本語の本質に興味があり、その日本語の本質が表記に秩序を生じ、結果として歴史的假名遣の規則が定まつて來るものであると考へます。高崎さんは、「まひまひず」のやうな瑣末な問題に拘泥して、本質論から目を逸らしてゐる。高崎さんにして見れば、瑣末な問題を扱はない事こそ許し難い、と云ふ事になるのでせうが、野嵜にして見れば、高崎さんは瑣末な問題と言ふよりは最早的外れな問題に一生懸命かかづらはつてゐると云ふ事になります。「まひまひず」の問題が解決したとして、それは所詮、語源の問題の解決に過ぎず、歴史的假名遣の問題の解決にはならない。そんな事は判り切つた話です。それが高崎さんには判らない。高崎さんは頭が惡い――さう野嵜が言ふ所以です。
それから。
http://homepage3.nifty.com/gimon/seikana.htm
相變らず何うしやうもない腐れHTML文書を公開し續けてをられるやうですが、これではまともなブラウザで讀めない。讀めないものをわざわざ公開しても意味がありません。だから「直せ」と言つてゐるのですが、高崎さんは野嵜が「面倒でやつてゐられません。御金を貰へれば、」云々と大聲で叫んでゐる、と、話の主題ではない部分を強調し、問題點をすり替へてしまひます。かう云ふ問題點のすり替へをやるのは、頭が惡いか、精神が陋劣かのどちらかです。私は高崎さんの事を、眞面目に努力はする人だと思つてゐますけれども、頭はとても惡いと思つてゐます。そして、その頭の惡い人が
http://homepage3.nifty.com/gimon/tenmat.htm
なんて書いて、
>それでよく印刷屋さんはやってゆけるものだ。何のための「電腦時代」なのだらう。
と書く。それが許せない。頭が惡いならば默つてゐればよろしい。高崎さんには引込んで貰ひたいのです。はつきり言ふと、私は高崎さんの事を「トンデモ」の人だと思つてゐる。波江と同レヴェルの人間だと思つてゐる。
野嵜は「東日流外三郡誌のやうな秩序を見てしま」つて等ゐませんが? ただ、高崎さんが、如何に秩序と云ふものを憎んでゐるかは、良くわかりました。假名遣は「實務的アンチョコ」である――その程度の認識で「正假名遣」等と言ふのです。高崎さんには、秩序への關心が全くないのです。
>今まで「まひまひず」は珍しい言葉であったかもしれませんが、今や多くの小學生が知ってゐる。
それが何うしたと言ふのでせうか。「まいまいず」だか「まひまいず」だか知りませんが、それが日本語の單語の中でどれほど價値のある單語であると言ふのでせうか。そして、高崎さんは「まいまいず」だか「まひまひず」だかの假名遣が決定出來ないのならば、正假名遣の概念は崩潰するみたいな事を言つてゐます。馬鹿馬鹿しい話です。それこそ「東日流外三郡誌のやうな」何うでも良い資料に拘る「トンデモ」説ではないですか。
>プライオリティが高いものが殘ってゐるのだから、野嵜さんは現代假名遣いで十分ぢゃありませんか。
プライオリティが高いものが殘つてゐないのだから、「現代仮名遣」では不十分なのではないですか。私は「てにをは」だけでは不十分だ、と言つてゐます。高崎さんにはそれが解らない。高崎さんは、「全か無か」でしか物事を考へられない。高崎さんが評すれば、福田さんも時枝さんも「假名遣への興味もあまり無いでせう」と云ふ事になつてしまふ。しかし、その福田さんも時枝さんも、歴史的假名遣を守らうとしたのです。御二人とも、高崎さんが逃げてゐる「いはゆる國語國字問題としての論爭」から逃げませんでした。私も逃げる積りはありません。
>しかしながらある日突然、依頼した覺えのない添削メールが舞込み、それだけなら奇特な志でせうが、こんなの「面倒でやつてゐられません。御金を貰へれば、」云々と大聲で叫ばれた日には、誰でも引きますね。
何を言つてゐるのですか。私が何時あなたに添削メールを送りましたか? 嘘を吐くのは止めていただきたい。
「論爭を避ける」と強く主張する方ほど、デマを流す、風説を流す、と云ふやうな陰濕なやり方を好む例が多いやうな氣がするのです――と言ふか、アレクセイにしても義にしてもさうでしたね。そして、相手の言つてゐる事を曲解し、誤であると極附けては、「こいつは頭が惡い」と宣傳をする。noz_watcherがさうでした。高崎さんも彼等と同類です。
>野嵜さんがどの程度の語を「假名遣を嚴密に使用すべき語」と考へていらっしゃるかわかりませんが、それは『ちょっと復古調現代假名遣』または『簡易歴史的假名遣』です。別に惡い考へ方と言ってゐるわけではありません。しかしそれを「歴史的假名遣」と表現されるから混亂するのです。
私は飽くまで歴史的假名遣の原理の話をしてゐるのであり、「判定基準」と「具體的な判定の例」としての「正假名遣」の話をしてゐません。そして、具體的で個別的な例示なんてものを「正假名遣」と稱する事がちやんちやらをかしいと指摘してゐるのです。やつたつて意味がないのですから。
あなたの「正假名遣」やら「平成疑問假名遣」は、誰が利用するのですか。私の質問に、未だに高崎さんは答へてゐません。答へられないからです。そして「論爭しない」と言ふ事で、高崎さんは答へられない事を誤魔化してゐる。
>しかし私には「體系的な原理を解明」しようと試みるほどの知見はありません。ひたすらうまく判定できるかを確認してゐるだけです。
高崎さんは、ただ「判定したい」だけであり、假名遣の本質に全く興味が無いのです。それが私には氣に入らない。
よく眠りましたが、多忙で些か疲れてゐます。
「言葉 言葉 言葉」と題はついてゐますが、野嵜さんはあまり言葉への興味がないのでせう。今まで「まひまひず」は珍しい言葉であったかもしれませんが、今や多くの小學生が知ってゐる。「まいまいず」の假名遣など何うでも良い、「質の良くないマニアのいかもの喰ひ」、興味を感じ「なければならない」、それで果して事實の重視とか原理の解明などできませうか。誰もこの世のすべての言葉を網羅することはできないが、その努力を怠る人に「はつきりレヴェルで區分」などできませうか。
ついでに申上げますと、假名遣への興味もあまり無いでせう。いかもの喰ひのレヴェルを削り、漢語を削り、「くぢら」なども削り、遂に「てにをは」だけになったものが『現代假名遣い』なのです。プライオリティが高いものが殘ってゐるのだから、野嵜さんは現代假名遣いで十分ぢゃありませんか。語によって重要なもの、さうでもないものはあるのは當然ですし、「てにをは」だけ殘してくれたために『現代假名遣い』は殘念ながら定着したのだと私も思ひます。もし今後、幸にも「歴史的假名遣復活」の氣運がおきたとしても、精々「ハ行轉呼音」「四つ假名」あたりにとどまるだらうとも想像します。野嵜さんがどの程度の語を「假名遣を嚴密に使用すべき語」と考へていらっしゃるかわかりませんが、それは『ちょっと復古調現代假名遣』または『簡易歴史的假名遣』です。別に惡い考へ方と言ってゐるわけではありません。しかしそれを「歴史的假名遣」と表現されるから混亂するのです。
>特定の事例における「判定基準」に過ぎず、規則の體系的な原理を解明したものではありません。
それでいけないでせうか。「特定の事例」ではなく、おほむねどのやうな言葉でも判定できる基準にしたつもりです。そもそも假名遣とは、異るはずの假名を混同してしまふ防止策として設けた實務的アンチョコですからね。そこから國語學上の發見は多々ありましたし、體系的な原理を考察する材料も多いと思ひます。しかし私には「體系的な原理を解明」しようと試みるほどの知見はありません。ひたすらうまく判定できるかを確認してゐるだけです。いろいろ見える景色もありますが、どう御覽になるかは皆樣の見識によりませう。ただ、「歴史的假名遣には秩序がある」と強く主張する方ほど、東日流外三郡誌のやうな秩序を見てしまふ例が多いやうな氣がするのです。「いはゆる國語國字問題としての論爭には一切かかはりません」と宣言するのも、いろいろ囘り道したといふほろ苦い思ひが混ってゐます。
「とりあへず今後 html の話題は御免蒙ります。」と書きましたが、別に html が嫌なわけではありません。いろいろ知識を得たことにはすでに感謝の意を表してゐます。しかしながらある日突然、依頼した覺えのない添削メールが舞込み、それだけなら奇特な志でせうが、こんなの「面倒でやつてゐられません。御金を貰へれば、」云々と大聲で叫ばれた日には、誰でも引きますね。私もさうです。ですから今後一切の話題は御免蒙ります。
全ての語の表記に根據を求めてゐたら、永遠に正假名遣は成立しなくなります。しかし、正假名遣とはそんなものなのでせうか。正假名遣の原理と言ふのは、この世に存在する一切合財の日本語の單語を一つ殘らず規定するものなのでせうか。そして、この世に存在する全ての日本語の單語の假名遣が決定されない限り、正假名遣の原理と言ふものは明かにされては行けないものなのでせうか。さうではないと思ひます。
だからこそ、日本語の單語を幾つかのレヴェルで區分して、それぞれにおいて語意識なり何なりの性質を檢討し、假名遣を嚴密に使用すべき語と、それほど神經質にならなくとも良い語とを、はつきりさせておいて良いのではないですか。それを高崎さんはやらない。ただ、「問題がある」と言つて、何でもかんでも一緒くたにしてしまふ。和語でも漢語でも支那語でも、御構ひなしです。そして、高崎さんが拘つてゐるのは、記號的に事物を指し示す詞の假名遣です。けれども、詞の假名遣は、實はそんなに重要ではない。それは時枝博士も福田さんも言つてをられたことです。それが高崎さんには全然解つてゐない。