と言ふか、FAQを私は正字正假名で書いてをります。CESさんは、正字正かなの文章は全く讀めない、と仰つてゐます。當然、正字正かなで書かれたFAQをCESさんは「読めなかった」のではないでせうか。ならば、どうして「FAQにこれが無かった」事がCESさんには御判りになつたのでせうか。その邊の事をCESさんには是非とも教へて頂ければありがたいのですが。
「読めません」は、疑問文でないから、Questionにならないのです。もしこの文章が讀めるやうでしたら、FAQにふさはしいQuestionの形で表現していただけないでせうか。正字正かなの文章が讀めないCESさんには、この私の文章が讀めないかも知れませんが。
もつとも、讀めてしまつたら、「読めません」と云ふCESさんの「疑問」は成立たなくなるのですが?
ええとですね、CESさんは、何が「讀めない」のでせうか。それをはつきりして頂ければ、FAQの囘答を書くのに役に立つので、ありがたいのですが? よろしければ御協力頂ければと。
「正字正かながどのように正しく」と仰るのであれば、以下の書籍を読んでみられる事をお薦めします。「常用漢字・現代仮名遣い」で書いてゐるから、読めない事はないと思ひます。
『学校では教えてくれない日本語の秘密』(ISBN:4-87465-777-X)
此の本を読んで何か意見がありましたら、改めて質問でもどうぞ。
日本語と英語ほど違つてゐる訣ではなくとも、正字正假名と新字新假名とでは表記が違ふのですから、新字新假名に慣れてゐて正字正假名に慣れてゐない方が正字正かなの文章を讀みづらく感じるのは仕方のないことだと思ひます。本當に「読めない」訣ではないでせう。
「闇黒日記」か何かをしばらく讀まれれば、慣れることができようと思ひます。
さて、現状に不滿と言へば、それは私にもあります。「現状」の「状」の字は、私の普段使つてゐる文字コードとフォントでは、正字でディスプレイに表示したり印刷したりすることができません。さういふ字は「違」「黒」「遣」など、列擧すれば日も暮れようと思ふほどです。しかし、それをディスプレイに表示したり印刷したりすることができるやうなフォントを無料で配布してゐる人がゐます。
http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/freefonts/QuiMi-mincho/
私は、このフォントをコンピュータにインストールして、適宜使つてゐます。正字が必要なとき、このフォントに頼つてゐます。
CESさんも「読めない」ときは辭書に頼つて良いのではありませんか?
文意が知りたいだけならば、正字を略字に置き換へてくれるプログラムを利用すると良いでせう。また正字がどういふものなのかを知れば、プログラムの力を借りずとも文意を知ることができます。以下のサイトに、プログラムも正字に親しむ方法もあるので提示します。
http://daukan.hp.infoseek.co.jp/
私見を述べさせてもらへば、かういふ受け手の都合ばかり主張して文意を知らうとする努力もしない姿勢はどうかと思ひます。切に文意を知らうと思へば、手段はいくらでもあるのですから。さういふ努力を怠つてゐるのに、誰かしらの(ここでは野嵜氏の)文章から何かしら得ることができるのでせうか。私には無理だと思ひます。
なほ、この文章は正字を使はずに拵へてをりますが、これは「親切心」ではなく「嫌がらせ」だと思つてください。
舊時代の雰圍氣を出さうといふ事で「せう」を取り入れた漫畫のふきだしなどを見かける事があります。見慣れない云ひ囘しをおく事で其處にアクセントをつけたい狙ひがある樣です。しかし實は慣れてしまへば正假名遣といふ樣に如何にも自然に感ぜられる時が來るものです。CESさんが「現状」に「不満」があるのでしたら、正字正假名遣で書かれた文章に慣れるより仕方がないと思ひます。假名を讀めない、とするのなら、それを阻む固定觀念を取り除く事が火急かもわかりません。つまり、正假名遣は讀めない事はありません。正字(何が正しいであるかの議論はここではおきます)が讀めないといふ事だらうと考へます。正假名が正仮名である事は流れから汲める筈です。不満は不滿です。讀も讀賣新聞などで馴染みがある筈です。雰圍氣(雰囲気)漫畫(漫画)囘(回)樣(様)來(来)觀(観)も何となく讀めるのではありませんか。舊(旧)實(実)處(処)にしたつて慣れてしまへば腦(脳)に燒(焼)きつきますから反應(応)が早くなり心地よいものです。是非、慣れて下さい。又促音拗音を小さく示す事(っ、ゃゅょゎなど)は文字に對(対)して大變(変)失禮(礼)ですから大きく現はしたいものです。なほ「感ぜられた」の「ぜ」の使ひ方は意見が分れる樣です。
#FAQにこれが無かったのが不思議でならないのですが。
正字正かなを否定するものではありません。
それに正当性があるという説には興味があり、正字正かながどのように正しく、現代かな遣いがなぜ間違えているのかを調べた上で、納得すれば、私も是非正字正かなを使いたいと思います。
ただひとつ、現状で不満があるとすれば、単純に「読めない」んです。それだけが残念でなりません。
『禪林名句辭典』飯田利行編著(国書刊行会)は「はしがき」で、現代の知識人が歐米の哲學の片鱗を容易に垣間見る事が出來るのは、それが思想傳達の説明に意を盡くしてゐるからであり、一方禪匠の消息はと云ふと「韻文で無限の風情を辞林の韻に」きかせようが爲に、個と個との對話に終始してゐて、謂はば「暖皮肉(いきみ)」と暖皮肉とのぶつかり合ひであつて「そこには文字言語以前の対話が、紫の火花のごとくに交わされている。この消息が、禪匠たちの天衣無縫と相俟って、いやが上にも現代人の知性に抵抗を感ぜしめているかのようにみえる」と云つてゐました。飯田氏は「漢字音韻学に志して五十年、押韻と平仄に規制されつゝも芸の極みをつくした韻文の美学にとり憑かれてきた」のださうです。餘程、積極的でないと禪の世界に溶け込むのは困難かも分からないですね。ただこの何十年かにアメリカ邊りから「在る」といふ事を對話によつて追求していくセミナーなどが現代の我我がそれを望んでゐるかに上陸して來てゐ、實際、私は體驗してみた者ですが、それは全く「十牛圖」を短時間でいく、といふ風で面白い事だと思ひました。
何処にあつたんでせうかねえ。『三国志』の「魏書東夷伝」に載つてゐるらしいけど、其の外に論証可能な文書とか物証とか在るんですかねえ。「親魏倭王印」は今何処。と、枝葉末節に反応してみるテスト。
>かう云ふ諄い文章つて、讀まれるものなのですか。(無題) 投稿者: hwangdongyang2002 投稿日: 9月27日(火)21時56分20秒 gw02nh.mangaland.jp
讀んでますよええ。
懇切叮嚀な言葉で時折人の心を掴むかもですし。
ホーム > 科学 > 社会科学 > 言語学 > 漢文とはいったい何か? >字音假名遣いなど
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000213&tid=4aj8a4ha4oa4a4a4ca4bfa4a42bfa4aba1a9&sid=2000213&mid=31
ホーム > 学校と教育 > 語学、教育 > 言語 > 日本語がおかしくなっているのでは? >言葉の変化は人類の必然
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=m&board=1834896&tid=ffckdc8la4aca4aaa4aba47a4afa4ja4ca4fa4a4a4ka4na4ga4oa1a9&sid=1834896&mid=231
ホーム > 学校と教育 > 語学、教育 > 言語 > 漢字、かな遣い、国語改革、言葉の変化 >改定現代仮名遣い(1986)前文
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=m&board=1834896&tid=4abbza1a2a4aba4j8afa4a4a1a29q8l2fe3wa1a28c0mua4njq2bd&sid=1834896&mid=213
同上>漢文が果たす役割を假名に求めた間違い
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=m&board=1834896&tid=4abbza1a2a4aba4j8afa4a4a1a29q8l2fe3wa1a28c0mua4njq2bd&sid=1834896&mid=216
同上>旧假名派の言葉遊び
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同上>假名遣いとは假名の書き方そのもの
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同上>中内[工刀]
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同上>舊假名オタクの閉鎖性
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同上>「万葉『仮』名」を容認する似非旧かな派
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同上>「かなづかい」しか復古できない限界
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http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=m&board=1834896&tid=4abbza1a2a4aba4j8afa4a4a1a29q8l2fe3wa1a28c0mua4njq2bd&sid=1834896&mid=197
同上>送り假名が旧假名なら振り假名も
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↓
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同上>一覧
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=l&board=1834896&tid=4abbza1a2a4aba4j8afa4a4a1a29q8l2fe3wa1a28c0mua4njq2bd&sid=1834896&mid=208
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=l&board=1834896&tid=4abbza1a2a4aba4j8afa4a4a1a29q8l2fe3wa1a28c0mua4njq2bd&sid=1834896&mid=204
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「歌は調ぶるものなり」と香川景樹といふ人が云つてゐます。以下、『歌のつくりやう』窪田空穗著「調子は緊張せる心より出づ」から少し長くなりますが引用します。
「調子は素より言葉を離れてはない。言葉によつて現はれるものである。それでは言葉に屬したものかといふと、斷じてさうでは無く、前に云つたやうにに屬したものである。即ち言葉と共にはあるが、何ういふ徑路を踏んで共にあるやうになつたかといふと、一つの調子を持つてゐる此方の其時のが、外にある言葉を捉へて、それに調子を與へる事によつて共にあるやうになつたものである。此點は十分に覺悟して居なくてはならない。この點が明瞭になつて居ないと、調子のある言葉といふのは、謂はゆる流暢な口つがりのいい言葉と誤解されるやうになるからである。元來我國の言葉は、流暢な、口つがりのいいものとなり易い傾向を持つてゐる。それに又古來の歌にはさうした調子のものが多いので、歴史的にもさう思はれやすいからである。本當の意味の調子のある言葉といふのは、前にも云つたやうに、氣分を直接に現はしたもので、隨つて他のに、微妙なる親しさを以て感じられるものである。即ち胸より胸へ貫き入り、忍び入る力を持つたものである。或る時に拮屈ともなり、或る時には苦澁ともなり、或る時には急促してゐるといつたやうなものである。謂はゆる調子のいい言葉といはれる流暢一點張りのものとは遠いものである。この流暢一點張りの言葉は、他の胸に貫き入るどころではなく、總ての場合に於て上すべりをしてしまふ言葉で、普通の言葉で普通の言葉よりも一層力の弱い言葉である。調子のある言葉を生み出すには緊張したが必要であるといふのは、緊張したを持して居なければ、自分のその時そのをもつて言葉を捉へ來るといふ困難な事は出來ないからである。此事は實際困難な事で、謂はゆる藝術的良心の強いものによつて初めて成し得られる事である。此方のが弛緩してゐるとを以て言葉を捉へ來たる反對に、言葉の方へ此方のを以つて行つて託してしまふやうになり、忽ちにして謂はゆる流暢なる言葉に墮落して行つてしまふ」
時時私は調子の良い上すべりな文章を書く事があるので耳が痛い言葉です。「禅僧の和歌は調子が低い」といふのは、言及出來ませんが勿論、別の次元の話だらうと思ひます。
『講座 禅 第四卷』卷末で苧坂光龍・唐木順三・芳賀幸四郎が對談をやつてゐて、「日本の禅」について話をしてゐるのだけれども。
唐木氏が「禅僧の和歌は調子が低い」と云ふ話を振つて、芳賀氏が「直截・端的且含蓄ある表現をするとなると、漢文的表現は捨て難い。禅は本來説明を嫌ふ」と應じ、唐木氏が「禅に、和歌は合はないけれども、俳句はしつくり來る」と指摘してゐます。それに芳賀氏がフォローして「禅では公案が通つたあと、その意味をはつきりさせる爲の著語をやらせるけれども、和歌は駄目だが俳句なら使へる」。
對談の締めで唐木氏曰「生活の美化といふことに禅は深くつらなつてゐますね。われわれの趣味生活は、中世以降は禅を拔きにして考へられないと思ひます。お茶もさうですしね」云々。
對談を通して御三方の意見で共通してゐるのは「禅の解つてゐた僧は詩文をやつても良いものを作るが、詩文・學藝に淫して修辭に凝り始めると禅僧は堕落してしまふ」と云ふ事。ただ、現代に禅がどのやうに活かされ得るかに就いては、皆ちよつと自信がない。
相變らず凄い電波だな。
相変らずお暇な談義をやつてをるね。私に向けて和歌の伝統に刃向かふのでかとかいつた野郎だが、そも和歌とは私のことだといづれ知らねばなるまいぞ。詠んだら焼却せよ。
これからは歌人俳人問はずいろは歌の意義を正しく掘り起こす為に自ら試みて頂きたいものと思ひます。下記アドレスにて、いろはの各音繰り返し無い原理を展開して各音二回づつの使用のなかで和歌二首詠み残り詞書に使へば「伊勢物語」になります。何より文藝とは言語にとつてやれば出来る範囲を極めつくして表現力の極限値を求めて置くことに意義があるのですから、大家新進問はず愚直に勤めていただきたいですな。「幻視」以外の何があるなどと逃げを打つては困る。詩歌は文明の原設計を見出し万民子れを活用し得るものとする「原資」保全の活動です。四十八音すべてが品詞として意味生命を帯びた有機体である仮名の構造に照らせば三十一音十七音といふものはこれを要するに象を撫でた類にして、国語とその帯する文明の設計意図を満足する回答たり得て居ない。
http://blue.ap.teacup.com/applet/roha/msgcate9/archive
> こんな變な對立構造が誰かさんの頭の中には出來てしまつてゐるらしい。
この「誰かさん」とはもしかして自分のことでせうか。さういふつもりはないのですが。
さうでないとしたら、自意識過剰で生まれてきてすみません。
日記に「十九日」が二日分あります。
> 引用元へのハイパーリンクとして設置されたアンカーも、只のテキストに戻つてしまひますが。出典のURLも消滅。
ハイパーリンクとしての機能が失はれても、「只のテキスト」が出典を示してゐれば、それでよいのではないですか。昔からある紙の文書の場合もさうですし。
よくある、
<p>上記引用文の出典は、<a href="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/NoaandAyano.html">ここ</a>。</p>
みたいなのはまづいことになりますが、これは、マークづけをとつぱらつた(といふより、「まづテキストありき」といふ立場からすれば、マークづけをなされる前の、といふべきか)「素のテキスト」が出典を明示してゐないことが問題なのだと思ひます。
> 一往、加工された結果ではなく、「公開されたありのまゝのHTML文書」を基準に考へた方が良ささうな氣が。
「公開されたありのまゝのHTML文書」が前提であるのならば、出典の明示として問題ありません。尚、HTMLのマーク附けは、「普通に読んで普通に判る文章」に対して適切になされるべきものと判断します。
>マーク附けを取払つた文章だけで考へた場合
引用元へのハイパーリンクとして設置されたアンカーも、只のテキストに戻つてしまひますが。出典のURLも消滅。
一往、加工された結果ではなく、「公開されたありのまゝのHTML文書」を基準に考へた方が良ささうな氣が。
> では、マーク附けを取払つた文章だけで考へた場合はどうなるでせう。私の言はんとする所は其処にあります。私の論旨は「ウェブページの内容からマーク附けを取払つた状態でも、問題の起き辛い文章である事を心掛ける」と云ふものですので、其の意味では表示される文章の中だけで完結してゐる事が望ましいとなります。
論拠として、ブラウザの印刷時のデフォルトスタイルを殊更に取り上げることには疑問を呈しましたが、結論はだいたい平頭通さんと同じだと思ひます。
たとへば、
<blockquote cite="http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/NoaandAyano.html">
<p>((((;゜Д゜))) ロリロリ</p>
</blockquote>
という「ソース」には出典(http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/NoaandAyano.html)が明記されてゐます。
しかし、マークをとつぱらつた「テキスト」は、単に
((((;゜Д゜))) ロリロリ
となり、出典は明示されてゐない、といふことになると思ひます。
「まづテキストありき」といふ立場をとるなら、cite属性値と別に、マークづけされるテキスト本体にも出典を書くべきではないでせうか。マークづけ自体は、あくまでUAに情報を伝へるためのもので、人間様にはテキスト本体だけで必要最低限の情報が伝はるべきではないかと思ひます。そして、法律と慣習によつて出典の明示が求められてゐるのであれば、出典は必要最低限の情報をいへるでせう。
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平成十七年九月十九日
CD/DVDドライヴ。トレーの開閉ボタンが多くの場合、トレーの下に附いてゐるけれども、トレーが開いてゐる時、押し辛い。短氣な俺はトレーを閉める時、何時もトレーの頭にがつんと一撃。
PCやそのパーツを作つてゐるのは理系の頭の良い方々だから、文系の俺には容易に知る事の出來ない何か合理的な理由でさうやつてゐるのだらう。よろしければどなたか、文系の俺にも理解出來るやうな説明をして頂けませんでせうか。
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机の上に置いてあるパソコン(デスクトップ)ではトレイの下にスイッチがあつた方が押し易いと思ひます。
それと、トレイの先端を押すのは「反則技」では無いので開ける時はソフト上で行ひ、閉める時は先端を押すでも良いのではないでせうか。
澤田亮太さんの論は技ありですね。之ならば、プリントアウトでも出典を明示させる事が出来ます。後はUAが其のCSSを正当に解釈するかどうかの問題になります。因みに、話題の「無為徒食日記」の印刷プレヴューを確認して見ましたが未対応でした。野嵜さんの「闇黒日記」の場合は、最初の引用文の直前に引用元へのハイパーリンクが明記されてありますから、私としては異存ありません。
他にも、プリントスクリーンで画像を取出す場合も考へてゐましたが、之は切出し方によつては仮令出典が本文中に明示されてあつても除外されてしまふ場合があるので、主張から省きました。後は、表示されたサイトの全内容をコピー アンド ペーストで電子テキストにした場合にどうなるか。其のぐらゐの程度でせう。
義珍とさんの「UAの実装の問題にすぎないといふ」のは正にさうなのですが、何かの事例を例示するとなると、今回の例に限らず自づから実装の問題が示されるものだと考へられます。では、マーク附けを取払つた文章だけで考へた場合はどうなるでせう。私の言はんとする所は其処にあります。私の論旨は「ウェブページの内容からマーク附けを取払つた状態でも、問題の起き辛い文章である事を心掛ける」と云ふものですので、其の意味では表示される文章の中だけで完結してゐる事が望ましいとなります。要は、普通に読んで普通に判る文章ならばいいのです。
> ウェブページの場合、UAで表示させる事もありますが、其の表示をプリントアウトさせて利用する事も考へられます。其の場合、大概、マーク附けのタグは明示されない事になります。本文中に出典を明示してゐない場合、プリントアウトでの利用を考慮すれば、犯罪にまで発展しないにしても「使ひ辛い」以上の不都合が生じると考へられます。ですので、「ソースは誰でも見る事が出來」ない状況も場合によつては在り得る訣です。
印刷する場合も、UAが情報を出力する先がディスプレイ(やスピーカー)ではなくプリンタであるといふ違いでしかありませんから、それもまた、UAの実装の問題にすぎないといふことではないでせうか。ソースを閲覧することが不可能な環境としては、他に、携帯電話といふのもあります。また、音声ブラウザなどにも、ソースを閲覧できないものはありさうな気がします(未確認)。
UAの実装の問題に踏み込むと際限がないので、原則論で考へるべきではないかと思ひます。
となると、要は、文書の本体を、マークアップされた後のソースとみるか、マークアップされる以前のテキストとみるか、といふ問題ではないかと思ひます。前者の場合、出典はソースに明示されてゐるわけですから、「闇黒式引用」で問題ないといふことになります。後者の場合、要素の属性の値はテキストの中に存在しないので、不可となるのではないかと思ひます。
野嵜さんのとる、「まづテキストありき」といふ立場からすると、後者の方が整合性があるやうな気がするのですが……
@media print {
blockquote:after {content: attr(title) "URI:" attr(cite)}
}
……つてblockquoteの後に改行は入るのでせうか…。
此の件については、大筋としては同意します。併し乍ら、閲覧の条件によつては事情が変つて来ます。一般の印刷物の場合、引用された文章の出典を註にせよ本文中にせよ、普通に読めるやうに明示してゐます。ウェブページの場合、UAで表示させる事もありますが、其の表示をプリントアウトさせて利用する事も考へられます。其の場合、大概、マーク附けのタグは明示されない事になります。本文中に出典を明示してゐない場合、プリントアウトでの利用を考慮すれば、犯罪にまで発展しないにしても「使ひ辛い」以上の不都合が生じると考へられます。ですので、「ソースは誰でも見る事が出來」ない状況も場合によつては在り得る訣です。
ウェブの場合は、先づウェブの流儀に従ふのが前提ですが、ウェブページの内容からマーク附けを取払つた状態でも、問題の起き辛い文章である事を心掛けるはうが宜しいかと存じます。其の上でcite要素やa要素を活用するか否かは任意でせう。
>CD/DVDドライヴ。トレーの開閉ボタンが多くの場合、トレーの下に附いてゐるけれども、トレーが開いてゐる時、押し辛い。
CDはディスクの裏側を読み取られるので、ドライブはディスクの裏側に読み取り関係の機械を設置しなければならないことが原因ではないでしょうか。
ディスクの読み取り面(裏側)が上となるドライブならば、開閉ボタンやアクセスランプをトレーの上に設置することもできそうです。その場合、ドライブに入っているディスクが何か判りにくいという問題はありますが。
> 高橋氏は「全ての表記の變更は改竄である」と云ふ事を、事前に證明してゐない。高橋氏は「證明するまでもなく全ての表記は改竄である」と信じ込んでゐる。
後半、「證明するまでもなく全ての表記の變更は改竄である」の誤りではないでせうか。
「たふれゆく」に假名を振つたのは、口に出して發音する事への考慮から發生したのだとは思ひます。經典なんかをみると「申して」の處には「まをして」と假名が振つてあつて、それをそのまま、マヲシテとやられたら確かに好ましくありませんし窮屈です。
私は表記と發音のほのかなずれを樂しみたいと思ふのです。幽せられてゐたをいうせられてゐた、王をわうと書くあたり、何となく味がある樣な氣がします。
『大言海』は人間味があつて大好きです。私は新三河島の古本屋で手に入れましたが、四卷を一冊にした新訂版(冨山房創立七十周年記念出版)には落丁本がありました。『言海』、『大言海』ともに保町の大雲堂書店にあります。
尚、「見出し語と配列を現代仮名遣方式に改めた」新編がある樣です。
私が愛用してゐるのはこれの第三版。正かな表記を調べるのにも使へます。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000800434/249-6686340-6665940
こちらは品切れ。神保町邊なら發見出來さう。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/457200062X/249-6686340-6665940
現在はちくま學藝文庫で出てゐますので、入手は可能です。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088547/249-6686340-6665940
辞書は、用途に依つて使分けるのが宜しいかと思ひます。正かなの見出しで引きたいのであれば、『言海』がお薦めですが、もう既に版を重ねる事を止めて久しいので、現代の用語を引く為の辞書として使用するのは難しいと思はれます。私が常用してゐるのは、岩波の国語辞典と、角川の『新字源』です。岩波の国語辞典は、国語として使用される漢字の見出し字があるのが特徴です。之は結構使へます。角川の『新字源』は、正字としての部首に見出し字が割当られてゐます。秘密の「秘」は、示部に在りますし、闘技の「闘」は鬥部に在ります。仮令『常用漢字』が廃止にならうとも、此の辞書ならば、個別の文字の部首移動の必要がありません。正字の知識が試される辞書とも言へます。
漢和辞典は、本来、四書五経や漢詩などの漢籍に出て来る漢字を読み解く為にある辞書です。日本語に使はれる漢字の意味を引く為にある訣ではないのですが、どうも其の辺りが最近は曖昧になつて来てゐるやうに思はれます。
「たふる」(倒)は、口語文では「倒れる」なので、現代語で発音する時は「タオレル」と読みますが、文語文では「たふ」を「トー」と発音すると聞いてゐますから、「トール」と読むと認識してゐます。どちらにせよ「ふ」の部分に「う」のルビが附くのは、好ましい事ではないでせう。因みに、ルビは表音的表記も有りだと思ひます。
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり
身はいかならむとも
市販本「新しい歴史教科書」に昭和天皇の御製が紹介されてゐます。正假名遣に新假名が振られてゐます。本來振假名など無用と思ひますが、問題なのは、たふれゆくの「ふ」に「う」の假名が振られてゐることです。
皆さんどう思ひますか。
(2001年6月発行第2刷)
時枝誠記なども同じ文章の中で用ひる用ゐるの両方を使つてをりましたよ。
平頭通さん、ありがたうございます。用ゐるで書かうと思ひます。
広辞苑の第二版は正假名が示されてないです。大言海は正假名による表記のみですから、私は、せうせつと讀めないで小説の説明に辿りつけませんでした。ところがどうです。最近の辭書はきちんと正假名を示してあるではありませんか。見出し語を探す場合は現代假名遣は役に立ちます。私はすぐに角川の新国語辞典を買ひました。それから新潮国語辞典(第二版)を買ひました。「遮る」の表記でこの二つの辭書の意見は分かれて面白いです。「新旧両様の字体がある漢字については新字体の下にやや小さい活字で旧字体を掲げた」と角川の辭書にはあり、コンパクトで小まめに引く場合に便利で私は愛用してゐます。今も「ございます」が不安で調べてみたら「ござりますの音便」とあつてホツとしたところです。新潮国語辞典は古語にもわたつてをり、「他書にはいまだ見えない説も含まれている」といふ字音假名遣の説明がついてゐました。
宣長さんは、「用ひる」派でしたが、大槻文彦は、其の著書『言海』で「用ゐる」を採用してゐます。戦前の新聞なんかを読んでゐても「用ひる」の表記が散見されますので、以前は両方が併用されてゐたのだと思ひます。どちらが正しいかと言へば「用ゐる」のはうになりますが、「用ひる」も許容の範疇に這入るでせう。
用ひるより用ゐると使ふ人がおほい樣ですね。
露伴は或ひはとしましたし、漱石にも癖がありましたし、鴎外も自分はよく間違へますと云つてをりましたし、芭蕉が誤つたのもさういふ時代であつたからでせうし、今は研究が進んで假名遣は以前より落ち着いて、いい時代に入つたと思ひます。
辭書を見れば、いたづら、たがへる、はのつてゐます。國文科を出た編集者も、假名遣のチェックが出來ません。うそぶく事には、僕のしてゐる事をファッションだと言ひます。
私達は日本語に對する語感が昔の人に劣つて來てゐる樣だ。
何かで三好達治が蕪村の句を擧げ、語感の「細心」に觸れてゐた。
花に遠くさくらに近し吉野川
秋風におくれて吹くや秋の風
遠山高くとほ山低し
死語といふ言葉があるなら「死感」もありさうである。遠山は高くと云ひとほ山を低しと云ふ。ちよつと、一般的といふのでない。三好は、ああと思つた事か。私は、秋の風の句は何となく分かる樣な氣はする。
「私の国語論」の所、a要素が閉ぢられてゐないやうです。
> 「表音主義者は「戰後」の現代假名遣いの助詞やオ段長音を例に擧げて、現代假名遣いが「表音表記でない」ことを強調していますが、すると現代假名遣いも表意主義の「歴史的假名遣ひ」の一種に成ります。」
「現代仮名遣い」が歴史的仮名遣の一種になると言ふよりは、「現代仮名遣い」擁護派が「表音的仮名遣」ではないのだと言ひたい為に、歴史的仮名遣の一部を出汁に使つてゐるだけでせう。「現代語音にもとづいて」書表すと書いてあるにも係らず、苦しい所は正仮名遣の法則を抓み食ひしてゐる「現代仮名遣い」自体がインチキだと、私は言ひたいですね。
ハ行転呼音は表記を保存する、音便は元の表記との関聯を踏まへた上で表音的な表記を採用してゐるから単なる表音ではない、と云ふ内容を何度も説明したのですが、相手は、「表音文字は專ら音に隨ふべしといふ考へ」に固執してゐるせゐか、全然理解できないやうでした。
黄色が執拗に突つく「音便」の話。
>>舊假名派は「戰後」の現代假名遣いの助詞やオ段長音を例に擧げて、現代假名遣いが「表音表記でない」ことを強調していますが、すると現代假名遣いも表意主義の「歴史的假名遣ひ」の一種に成ります。
黄色は常に最小限の事實の歪曲で「もつともらしいデマ」をでつち上げる。
「表音主義者は「戰後」の現代假名遣いの助詞やオ段長音を例に擧げて、現代假名遣いが「表音表記でない」ことを強調していますが、すると現代假名遣いも表意主義の「歴史的假名遣ひ」の一種に成ります。」
これが正解の文章。現實に、かう云ふ論法で表音主義者は戰術的に「現代仮名遣」を「辯護」して來た。黄色は正しい「表音主義者」と云ふ主語を「舊假名派」に入換へて、恰も「舊假名派」が誤つた行動を取つた主體であつたかのやうに見せかける。黄色の流すデマは、一見事實と良く似てゐるので、騙され易い。が、これほど惡質なやり口はない。
飛騨の 美し朝霧 朴葉焦がしの みことかな ※高柳重信、美(うま)し
朴葉のかをりをうつした味噌を初めて食す。朝の御粒は、粛然とするくらゐ美味しいものであつた。…………
拙文から失禮します。薫の字を當てれば濟むところを私は「かをり」といふ文字を使つてゐます。無意識の取捨であつて、書き手の美感に他なりません。美感といつても必ずその御手本は存在して、一人一人が息を吹きかける樣にしてする、個人的といへば餘りに個人的な作業こそが、文章を書くといふ事です。昔の人が用ゐてゐたから、どうだといふレベルの話ではありません。「かほり」と書く人があつたかも知れません。しかし私は「かをり」がいいかなあと思ひました。確かに個人的な感覺です。しかしさういふ個人的な感覺であるものが、束となつて、年月が加はつて來た、とすると個人的な感覺で斥けられない何かがあるのではと思ひました。
何でもさうだと思ひますが、昔に戻るといふ譯にはいきません。分斷されたところがあつたから、其處まで立ち返つて、次に繋げよう、といふ極く自然な話です。ですから何何派と冠するまでもない事です。
訂正しました。
段組解説四周年か……。
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/faq/
更新の日附が「2005-09-26」となつてゐます。
黄色問題は黄色の掲示板で。この掲示板ではスルー推奬。
>「科学」と「化学」が「表意かなづかひ」でも両方「くわがく」なのは、どう言いわけしても通らない「旧かなの缺陥」で、「化学」を「くはがく」や「ふわがく」にでも書き換えればよいと思います。
「旧かなの缺陥」ではなく、「假名だけを使用する場合の問題點」である事が、黄色には理解出來ない。
>「思ひてゐる」を「思つてゐる」と書くのも表音主義であるし、「住まむ」と「住まふ」を「住まう」と書くのも表音主義である。
音便は音便であつて表音主義ではない。何遍言つても黄色は理解しない。黄色は「主義」と「便宜」とを區別出來ない。
正しい説明を何度されても理解出來ない黄色のやうな人間には、議論に加はつて貰ひたくない。
>話し言葉と書き言葉は乖離していたはうがよしと舊假名派が言ひてゐる。
>それなら平安時代の文語や漢文を使ふはうがよからう。
「それなら」と云ふのが論理の飛躍。それが黄色には絶對に判らない。「自分の判定は絶對に正しい」と黄色は常に思つてゐる。かう云ふ人間は他人と議論出來ない。議論出來る人間としか俺は議論したくない。「掲示板の管理人」としてはつきり言ふが、黄色にはこの掲示板に書込んで貰ひたくない。
>舊假名派は「戰後」の現代假名遣いの助詞やオ段長音を例に擧げて、現代假名遣いが「表音表記でない」ことを強調していますが、すると現代假名遣いも表意主義の「歴史的假名遣ひ」の一種に成ります。
黄色は、何時もかうやつて勝手に他人の立場を極附けて、その「黄色の定義する處の表意主義者」の立場を大前提に現實の正かな派を斷罪する。
乙と言ふかうざいから歸つて呉れ。しれつと嘘を書いてゐるし。
黄東洋乙
表音主義にいろいろな種類がいるなら、表意主義も同様で、ここでもわかるように漢字は「戦後」略字でカナだけ「終戦」前の明治〜昭和初期かなづかひ(旧かな)であるひとや、漢字の音読みだけ簡略化していいという人などバラバラです。
和田徹氏が一時、書いていたような表音表記は mujina045 もフザケて書いていました。
これは現代日本語の標準表記ではない。
和田徹氏や mujina045 はむしろ表音化を途中で停滞させたままで前に進まない現代かな遣いと常用漢字(それを支持する日本の大衆と文科省)を批判すべきです。
表音かな派やローマ字派から見れば現代かな遣いは表音化の理想からまだ程遠く、「終戦」前の「旧かな、漢字混じり」に申しわけ程度に手を加えただけに過ぎない。
つまり、旧かなも表音表記(かなもじ化、ローマ字化)も「戦後」日本では敗北しているわけで、国語改革の是非が選挙の争点にならないことから明らかです。
表音主義も表意主義も共に敗れています。
表音主義者はカナ遣いの中途半端な「一部表音化」で部分的に勝利したものの、お段長音や「ちぢむ」「てにをは」などのカナを表音化できず、電脳や携帯の普及で漢字廃止論は大敗北しています。
表意主義者も上記の「お段長音」や「ちぢむ」や「てにをは」などでは表意主義を残せた上に漢字廃止は防ぐことができ、人名などで康煕字体に近いものを保存できたことで一部分は勝利しているものの、「てにをは」以外の「まづ」「でせう」「住まふ」などのカナを全国的に60年前にもどすことは不可能で、その点では敗北しているわけです。
若,電腦(目的語)用(動詞接續)漢字(目的語)入力(動詞接續)電子郵便(用途)送付(動名詞主語)實際(比較)更50年早(副詞)實用化(動詞受動假定)、日本及支那大陸(主語)漢字(目的語)簡略化(動詞否定)。
「戰後」的漢字簡略化(主語)手(目的語)用(動詞接續)漢字(目的語)書(動名詞)丈(唯一限定、目的語)想定(動詞接續)考案(動詞受動連體)物也(斷定、所以)。
↑
若し電腦で文字を入力し電子郵便(E-mail)に因りて送信することが實際より50年早く實用化されてゐたなら、日本及び支那大陸は漢字を簡略化しなくありただらう。
(もし電脳で文字を入力し、Eメールによって送信することが実際より50年早く実用化されていたなら、日本およびシナ大陸は漢字を簡略化しなかっただろう。)
「戰後」の漢字簡略化は手で漢字を書くこと丈【だけ】を想定して考案された物だからだ。
「徳()」や「恵(惠)」などは明らかに手書きの効率だけを考えたものだった。最終的にコンピュータで扱う漢字の数が増えてしまった意味で漢字簡略化は結果として活字の異体字の増加を招いた。
「瀧澤」「滝澤」「瀧沢」「滝沢」は同じ名前の違う書き方なのか、4種類の違った名前なのか、「戦後」国語改革は何ら示していない。
活字は「瀧澤」だけにとどめ、「滝」と「沢」を手書きだけに留めておけばこういう混乱は生じなかった。
「書き言葉は話し言葉と乖離すべき」なら、私は現代シナ語を以ちてそのまま日本の文語にするのが良しと思ひてゐる。
(「書き言葉は話し言葉と乖離【かいり】すべき」なら、私は現代シナ語を以ってそのまま日本の文語にするのがいいと思っている。)
「思ひてゐる」を「思つてゐる」と書くのも表音主義であるし、「住まむ」と「住まふ」を「住まう」と書くのも表音主義である。
ならば「思居」「住遺志」「住繼續」とでも書くか、「現在想着」、「要住」、「繼續住」とでも書き直せばよし。
舊假名派説説的語源和寫的語源應該是不一樣的。
那麼,他們應該用平安時代的文語或漢文寫文章。
如果重視實用性,應該採用現代中文爲日本的書面語,把日語作爲口語,而把英語或漢語作爲書面語。
話し言葉と書き言葉は乖離していたはうがよしと舊假名派が言ひてゐる。
それなら平安時代の文語や漢文を使ふはうがよからう。
實用を重視するなら現代シナ語をそのまま日本語の文語にするべし。
むしろ、日本語は話し言葉のみに留め、文章は英語やシナ語にでもすればよし。
残念ながら漢字かな混じりと近代日本語に執着している限り、古典継承も真の表意も実現できません。「かほり」というのが定家かなづかいにあったとして、それを間違いとするなら、根据は何か。発音などどうでもいいなら「かほり」でも「かをり」でも正しいはずです。音便を採用し「よい天気」「よき友」を区別するなら、「かをり」と「かほり」、「思い出」と「思ひ出」を別のイメージで捕らえる発想も是とすべきでしょう。
では「かほり」などが古典に出てきたらどうするのか。
くわしくは Yahoo!掲示板もしくは teacup の自作の掲示板(下記にアドレス掲載)に書いております。
↓
Yahoo!掲示板>ホーム > 学校と教育 > 語学、教育 > 言語
>漢字、かな遣い、国語改革、言葉の変化
>日本語がおかしくなっているのでは?
「日本語のために」氏は以前、英佛語の concert を例に挙げて、cがkとsの2種で読まれることをあげていましたが、独語で Konzert,露語で концерт[kontsert],エスペラント語で koncerto[kontserto]であり、必ずしも英佛語が代表ではありません。
文字が同音語を区別するのは結果としてそうなったのであって、「同音語の区別が本当のかな遣いだ」というのは本末轉倒。
それなら英語の right(右)と right(権利)と right(正しい)を早急に綴りで区別して頂きたい。
「科学」と「化学」が「表意かなづかひ」でも両方「くわがく」なのは、どう言いわけしても通らない「旧かなの缺陥」で、「化学」を「くはがく」や「ふわがく」にでも書き換えればよいと思います。
re:正字について 「日本語のために」さん 投稿者: 和田 徹 投稿日: 9月 1日(木)20時43分5秒 h219-110-049-176.catv01.itscom.jp
>>しかし、朧などの字は今のところ(多分これから先も)「竜」を含む字體で統一を図る事は不可能です。
>可能です。やるきがあるかないかだけのことです。実際、中華人民共和国でできています。
>「襲」を「竜」+「衣」としておかしくみえるのは、なれていないからだけです。
事實關係を補足。
支那大陸では「龍」は「[ナヒ\]」のような略字になり、「聾」も「[ナヒ\]」の下に耳、「瀧」も「シ」の右に「[ナヒ\]」です。
字源的には「竜」に當たる字軆が最古で龍の象形であり、右に飾りが加わって「龍」となったようです。
ただ、少なくともシナ語圈では固有名詞か一般語彙かを問わず、繁體字を簡體字に、逆に簡體字を繁體字にしてもそれは完全に同名、同語です。
滿洲の地名、「龍江省」Heilongjiangsheng は「黒龍江省」、「[ナヒ\]江省」、いずれも同じです。
「光圀」と「紀伊國屋」も支那大陸では「光国」と「紀伊国屋」、臺灣では「光國」と「紀伊國屋」にするしかない。
「氣志團」は大陸で「气志団(囗の中は才)」、「宮沢りえ」は臺灣で「宮澤理惠」です。
ところが今の日本では下手をすると「瀧澤龍彦」「滝沢竜彦」「滝澤竜彦」「瀧沢龍彦」の4種類を全部「違う名前」(またはそれに近い關係)と看做す傾向があります。「竜」「滝」「篭」系列と「沢」「訳」「駅」を全部手書きにしておけばこんなことは無かった。
「戰後」の國語改革は子供が義務教育で覺える漢字をやしただけで、これでは漢字簡略化でなく複雜化です。
支那では「獨」du を「獨」、「觸」chu を「触」にしただけでなく、「濁」zhuo や「燭」zhu もそれぞれ「[シ虫]」と「[火虫]」にしています。體系を言うなら擴張新字體のように簡略化を全てに徹底し、「龍」系列を全部「竜」にしても體系は維持されます。
和田氏が大陸の簡體字を例に出しましたが、支那大陸でも「欠」qian と「缺」que は別字で、また、「藝」yi(<ngiei)の略字は「艸/乙」であって、「芸」yun とは違いますし、大陸でも「沸」fei,「費」fei,「拂」fu,「佛」fo の體系は維持されています。
和田徹氏や mujina045 が使ったような、助詞の「は」をも「わ」と書く表音的表記は、此處で「正假名派」が使うような舊假名文と同樣、今の日本の普通の現代假名遣いとは違う、例外的なものです。
すると舊假名派が批判する「表音主義」は日本の主流にはなっていないことになります。
舊假名派は「戰後」の現代假名遣いの助詞やオ段長音を例に擧げて、現代假名遣いが「表音表記でない」ことを強調していますが、すると現代假名遣いも表意主義の「歴史的假名遣ひ」の一種に成ります。
表音主義を異樣なまでに嫌惡する舊假名派が「現代假名遣い(戰後の歴史的假名遣ひ)」を批判するのは的外れです。
むしろ、和田氏や mujina のような「ゆーとーりにかくひょーおんてきなかなづかい(かなずかい)」を良しとする表音主義者の方が「現代假名遣い」を批判すべきでしょう。
「日本語のために」さんの「國語改革は『終戰』直後の混亂が原因としか思へない」という御意見について。
「戰後」の國語改革は確かに「終戰」直後に行われましたが、それは「戰後」の假名遣いの是非とは無關係で、戰爭の勝ち負けとも關係ありません。「現代假名遣ひは日本が戰爭に負けた證據」だというのは根據の無い當てずっぽうです。
「終戰」後の混亂による輕率な判斷と言えるのは、國語や祖國自軆を捨てた場合で、例えば志賀直哉や森有禮のように自主的に日本語自軆を捨てて佛語、英語に置き換える「暴擧」の類いです。
實際に「戰後」の日本人がやったのは母語を殘したまま、假名遣いという表層の表記の一部分だけ變えることで、これは文體、語彙、音便の變化と合わせて平安時代から續いている傳統であり、別に文化の根幹を破壞するものではありません。
また舊假名派は「文字で音を表せない」という事をやたらと強調したがる餘り、「『いく』と『ゆく』の間には無限に音がある」とか、「助詞の『へ』を『え』と同じに發音しても[e]の前に何らかの子音が有り得る」といった、音素でなく音聲の話をしています。
本來、表音表記とは音素を表す表記も含むので、「東京へ行く」を「とーきょーえいく」と書いても、これは音素表記です。
もし、舊假名派が音聲表記を表音主義と考え、音素表記が表意主義と考えるのなら、表音假名の「とーきょーえいく(東京へ行く)」や表音羅馬字化の to^kyo^ e iku ですらも「舊假名」と同樣の「表意主義」に入ることになります。
それなら日本語を更に表音化またはローマ字化しても「歴史的假名遣ひ」もしくは「表意主義」は保たれるので、傳統派が國語改革を批判するのも、表音派を批判するのも自己矛盾ということになります。
定家假名遣ひに「かほり」があったというのに「かをり」が「正しい」というのは、平安時代の「香」の訓が[kaΦori]でなく[kawori]だったからでしょうか?すると「正しい假名遣ひ」とはやはり、表音主義でしょう。
現代の舊假名派が書いている文章は、「思つてゐる」のように音便を採用している上でハ行五段の原則が中途半端ですし、同音語の辨別も餘りできていません。
シナ語の發音から言って「權」quan は「くゑん」、「ぐをん」であるべきなのに「尋常小学校國史」ではすでに「權利」の振り假名が「けんり」となっており、「元」yuan も「ぐゑん」のはずが1945年より前ですでに「げん」になっている。これでは「棄權」と「危險」、「元寇」と「言行」を區別できない。
「ひ(火)」と「ひ(日)」は舊假名でも同じ表記で、「科學」と「化學」は兩方「くわがく」。假名でいくら同音語を區別しようとしても、假名が表音文字である以上、支那語や古代和語で音が區別された體系に頼るしかなく、奈良時代の甲類と乙類など假名では表記できない。
舊假名の現代口語文を讀む能力だけでは漱石の「吾輩は猫である」までは讀めても、『平家物語』、『吾妻鏡』、『古事記』などの原文は到底讀めません。
舊假名派は假名遣ひ如きにこだわる以上、同音語の辨別も古典の繼承もできないのです。
舊假名派は發音が變化するから文字で發音を表してはいけないというようですが、では語彙も文法も變化するなら、なぜ舊假名派は現代口語文に妥協しているのか。言語全體が變化する以上、恒久性を言うなら言語そのものを文字で表してはならないことになり、そもそも人間は言語を放棄すべきということになります。
眞の表意主義は「東京へ行く」を「去東京」、「到東京去」のように漢字だけで書くシナ語の表記で、もしくは「東京」を「>◎<」のような記號で表して「→ >◎<」のように記號で示すものです。
簡略時の體系については、新加坡の華僑が80年代後半に表した著作で、日中の簡體字の系統の不合理さがまとめられ、日本での「弗 黄>ム」(佛拂>仏払、廣>広)と支那大陸の「曾 重>云」(層 ceng >[尸云]、動 dong >[云力])のような簡略の非合理さへの指摘がありました。
西尾幹二氏の『国民の歴史』の「日本が負けたのは『戦後の戦争』である」の章で、「終戰」直後の「讀賣報知」からの引用記事があります。
漢字は所謂「康煕字軆」とされる「實」、「國」などの非略字で、假名は明治〜昭和初期の近代假名遣ひ(所謂「舊假名」、「正假名」)のままの引用でしたが、漢字の横の振り假名だけ「戰後」の「現代假名遣い」でした。
『国民の歴史』の上述引用文では「傳説(でんせつ)」が「傅説」と誤記され、「でんせつ」という振り假名がついていました。「傅説」は「ふえつ」です。一方、『正論』で滿洲の地名として紹介された熟語の「傳」の讀みが「フー……」となっていました。
支那の映畫(映画)監督、張藝謀Zhang Yimou は日本で漢字表記される場合は「張芸謀」と書かれ、これでは「謀」Yun-mou という別の名前になってしまう。
日本と支那で漢字が「共通」という幻想は、すでに崩れています。
片假名の「チャン・イーモウ」の方がまだましです。
和田氏はそういう現状について、國語を簡略化する立場から異論は無いのでしょうか。
和田氏は此處の舊假名派とはこれ以上議論が無駄と判斷なさったようなので以後はこちらまで。他の箇所でもこれをコピーしています。
↓
http://8810.teacup.com/nipponnokotoba/bbs
(日本の言葉と外来語)
Yahoo!掲示板>ホーム > 学校と教育 > 語学、教育 > 言語>漢字、かな遣い、国語改革、言葉の変化
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=m&board=1834896&tid=4abbza1a2a4aba4j8afa4a4a1a29q8l2fe3wa1a28c0mua4njq2bd&sid=1834896&mid=1
Yahoo!掲示板>ホーム > 学校と教育 > 語学、教育 > 言語>ホーム > 学校と教育 > 語学、教育 > 言語 > 日本語がおかしくなっているのでは?>「傳説」を「傅説」と書く間違い
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=ED&action=l&mid=&board=1834896&sid=1834896&tid=ffckdc8la4aca4aaa4aba47a4afa4ja4ca4fa4a4a4ka4na4ga4oa1a9&start=32
「戦後」の現代かなづかいがもし、表音でないなら、「終戦」前後の新旧かなづかいは、現代口語文で音便を採用した「表意かなづかい」同士の内輪もめのようなもので、真の表音表記は日本ではまだ標準表記になっていません。
すると旧かな派の表音主義批判は和田氏やムジナのような少数の「ひょーおんひょーき」だけを相手にしていることになります。
「點・畫などを省略した漢字」が今後、今以上には賑ふ事はないだらうと私は考へたいです。「敏捷ヲ先トシテ」といふ場合、それはいちいちが手書きであつた時代の話であり、現在は「キー」を叩く事によつて、寿と壽、礼と禮、速さは全く同じです。私が當事者なら壽でことほがれたいし、氣分が好いから豐さを示して返したい。勿論、手書きで傳達を急ぎたい場合は、荒川区と書きます。くづしてあるものよりはさうでないもの(水偏が氵になつた事は「熟した」ものとして認めてあげたいと思ひます)さらに言へば正字の方が視覺に強く訴へます。つまり受け取る側の物事の處理をより迅速にします。しかし、正字を學校で教はる事はないですから、私は餘り現實的ではない話をしてゐる事になります。
> 戰前、用例が「ある」にもかかはらず、現在、使用が認められてゐない略字、と云ふのは何うでせうか。
邦文タイプライター用の『文字の索引』は、当方も持つてゐます。此の冊子に掲載された「略字類」の文字が、大正12年に発表された「略字」に酷似してゐましたので、少し調べてみました。
先づ、『文字の索引』に掲載された「略字類」は、141文字。大正12年発表の「略字」は、154字。其の内、前者のみに掲載の略字は、「与 乕」の2字。前者に掲載されてゐない略字は、15字。併し乍ら、双方に掲載された「常用漢字」表外の略字は、20字あります。"JIS X 0208"に収録された略字では、「潅 鼡 赱 廰 觧 疂 扣 畄 舘」があり、未収録には「為 僞 徒 從 縱 來 鹿 麗 刻 國 氣」の略字があります。どちらも全く同じ字体です。中には「今昔文字鏡」ですら表示出来ない略字があります。
茲で考へるべきは、どちらがどちらの字体に合せて文字を作つたのかと云ふ事でせう。保科の話では、色々と調査をしたと云ふ事になつてゐるし、タイプライターの活字は、通常必要がなければ作らないと思ひますので、若しかすると、「決定された常用漢字及び略字について」に合せて邦文タイプライターの活字が作られたとも考へられさうです。一往参考迄。
>「缺」をつかえばいいだけではないですか。法律でつかっていけないとされていません。
しかし、初等教育で教へ込まれ、變へ難いほど慣れさせられてしまつてゐる現状があります。さう云ふ「慣れさせられてしまふ」事を、和田さんは「良くない」と考へてをられるのではないですか。ならば、如何なる理由があつても、初等教育で略字「だけ」が教へられる事は否定されねばなりません。
と言ふか。
>わたしが「は」「を」「へ」にもどしたのは、「表語的な表記でなければ違和感を覺える」からではありません。
>初等教育でおしえこまれ、かえがたいほど「なれ」てしまったからです。
和田さんは、「なれ」は「良い」と思つてゐるのですか、「惡い」と思つてゐるのですか。
教育でどのやうに慣れさせられてゐたとしても、文法的な機能を持つ助詞・助動詞・用言の活用語尾は、表語的に表記された方が心理的に讀み易いものであると思ひます。
>敗戦前、「正かな」でまちがいなく「印刷」されていたのは、「校正者」がいたからです。
>かけなくとも、ただしいと安心してよんでいたのです。現代人でも、よむだけならばだれでも、すぐにできるとしんじています。いまワープロだホームページだと個人が「生」のかたちで表現して、「校正」もなく、まちがえたまま世にでまわります。これはあぶないといいたい。
何が「あぶない」のでせうか。ただ單に、誤を含んだ文獻が世の中に出るだけではないですか。「校正」されれば、誤を含んだ文獻も、正しい表記に直ります。しかし、和田さんは、「正しい」の概念を受容れてゐないのに、「校正」と言つてをられます。「校正」は、「正しい書き方」の概念を持たない限り、不可能です。どうも和田さんの言はれる事は訣が解りません。
>「正かな」は日本語が、いくらゆれても、ぶれても、もとにかえることのできる「きまり」であり、
発音でさえ、そこにかえるべき「原点」とだとおもいました。
「まちがえたまま世にでまわ」つた文獻も、「もとにかえること」が「できる」のではないですか。そして、その「かえる」べき「もと」の姿の表記は「正かな」であると和田さんは認めてをられます。ならば、最初からその「もと」の姿のまゝ、「正かな」のまゝ、我々は表記すれば良いのではないですか。わざわざ表音的な表記を使はなければならない必然的な理由はありません。
間違へて書いても全然問題はありません。ただ、「正しい」と云ふ觀念を持たず、自分の間違ひを「間違ひだ」と認識しない事が困るだけです。表音的な書き方をしても別に構ひはしません、ただ、それが「便宜的な書き方に過ぎない」と云ふ意識がありさへすれば良いのです。
そして、「正かな」は、飽くまで書き言葉において「かえるべき」「もと」の姿であるに過ぎません。書き言葉と話し言葉とは、一致する必要は――或は、必然的な理由は――ありません。書き言葉と話し言葉とは、乖離してゐるのが當り前であり、乖離してゐた方が良いのであり、乖離してゐるべきであります。
>わたしのいいたいことは、いいおわりました。
>わたしなりにかんがえ、そしてのべてきたことを「卑怯な戰術」とまでいわれては、かえすことばもありません。
和田さんが深く物を考へてゐないから惡いのです。もつと深く考へてゐたら、突込まれないやうに論理を徹底するか、自分の誤を認めるか、したでせう。和田さんは、自分の思ひ込みを反省しないまゝ好い加減にほつたらかし、安易に他人に押附けて來ました。だから私は和田さんを責めた。それの何處が惡いのでせうか。
「かえすことば」もないと和田さんは今、おつしやいます。ならば和田さんは何うなさるのでせうか。多分、默つてこの場を立ち去るでせう。しかし、自分の行爲・自分の思想について、何らかの反省を行ふ事はない。今後もずつと、今のやうに思ひ込みに基いて、表音主義の立場をとり續ける事でせう。そこには何の進歩も無いやうに思はれます。議論した事によつて、互ひに何か得るところは「あつた」と、我々は言へるでせうか――否、今までのところ、彼我の會話は、對話になつてをらず、議論になつてゐない、としか言へないのではないでせうか。その責任は、自分の説の論理的な正當性を全く主張せず、ただただ「表音的であつても良い」「絶對に表語的でなければならない、と云ふ訣ではない」と相對主義的な立場に居坐る事を宣言し續けた和田さんに「ある」と思ひます。
積極的に「正しさ」を追求しなければ、何事も進歩しない――私はさう思ひます。
わたしが「は」「を」「へ」にもどしたのは、「表語的な表記でなければ違和感を覺える」からではありません。
初等教育でおしえこまれ、かえがたいほど「なれ」てしまったからです。
敗戦前、「正かな」でまちがいなく「印刷」されていたのは、「校正者」がいたからです。
かけなくとも、ただしいと安心してよんでいたのです。現代人でも、よむだけならばだれでも、
すぐにできるとしんじています。いまワープロだホームページだと個人が「生」のかたちで表現して、
「校正」もなく、まちがえたまま世にでまわります。これはあぶないといいたい。
わたしは「聖書」でさえも人がつくったものだとするかんがえのもちぬしです。
イデアなんとかは、さっぱりわかりません。よって野嵜さんのいう「正しい」もわかりません。
「正かな」は日本語が、いくらゆれても、ぶれても、もとにかえることのできる「きまり」であり、
発音でさえ、そこにかえるべき「原点」とだとおもいました。野嵜さんのかんがえとは、まるでちがいます。
わたしのいいたいことは、いいおわりました。
わたしなりにかんがえ、そしてのべてきたことを「卑怯な戰術」とまでいわれては、かえすことばもありません。
これでおわりにします。
>無論そんな事は知つてゐます。だからこそ、餘計に問題なのではありませんか。
「日本語のために」さんは <欠(缺)、弁(辨瓣辯)....の「字形」については如何お考へですか。>といわれました。
「欠弁予余」は「日本語のために」さんのいう「正字」で、「正字」の字形そのものです。
「仮(假)、対(對)」などとの関係とはちがい、これとならべてしまうのは、おかしいとおもいますので、
「かんちがいしているとこまりますが」といいました。
>どうして「缺」の代りに「欠」を使はなければならないのですか。
「缺」をつかえばいいだけではないですか。法律でつかっていけないとされていません。
告示とやらにしたがって官公庁や新聞が、かってに自主規制しているだけでしょう。
ひろくつかわれてきた「あて字代用」に、いきどおりをもってもどうにもなりません。
伝統的なもとのかたちでかきたいひとは、いまでもそうしているではないですか。
おおくのひとが大人用漢和辞典をひけばすぐわかることすら気がつかないのは、
こたえは学校でおそわったひとつだけだという教育のせいだとおもいます。
>「帰」の字の左側の奇怪な印は何を意味してゐるのでせうか。ただ略された状態ではないのでせうか。
明朝体字形そのものが「略字形」です。
「サンズイ」は「水」を「奇怪な印」に「略」したもの。
「レンガ」は「火」を「奇怪な印」に「略」したもの。
「シンニョウ」は「半十字路 + 足」篇を「奇怪な印」である「てん、てん、にょろ〜」に「略」したもの。
それも木に彫りやすいように版木職人により「デザイン」されたものです。
宋元明朝の職人はデザインしてもいいが、昭和平成の職人はしてはならぬ。これがわかりません。
>序文が本文に勝る重要性を持つことは在り得ません。
重要性うんぬんをきいていません。「正式の場」かどうか、きいているのです。
わたしは「序文は正式の場であって、楷書をつかってよい」といいます。
>「來」・・・正字
>「来」・・・略字、俗字、異体字
明朝体印刷字形の世界のはなしです。
『文章寶鑑』、『書翰文大觀』といふ本があります。―解説に代えて―、―解題に代えて―といふ序文が添へられてゐますけれども、字體と假名遣とが、それぞれが謂ふところの「味わい深いものがあることに気づかぬわけにはゆかない」「妙味を知る」、といふものになつてをりません。ともに文章に關しての識者の方ですのに、この事の不思議に氣が附かない。ハツと目が覺めて慾しいものです。
戰前、用例が「ある」にもかかはらず、現在、使用が認められてゐない略字、と云ふのは何うでせうか。http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunken/Typewriter.html
日本語のためにさんは、正字と異体字との間で字体が衝突してゐる話をされてゐます。私も全く其の通りだと思ひますが、引合ひに出された「欠弁予余芸」の外にも「亘体医浜胆糸虫」が該当すると確認してゐます。茲から先は知る人ぞ知るの領域になりますが、異体字同士の衝突と云ふのもあります。私が確認してゐるのは「売」です。「常用漢字」では「賣」の「新字体」とされてゐますが、戦前の用例では「殻」の略字として使はれてゐた例(蛎売町)が在りますね。正字同士の衝突は「柿」でせう。九劃の「かき」と八劃の「こけら」です。どうも「耒」も衝突の部類になりさうですし、探せばまだ出て来るかも知れません。何事も衝突は危険だと云ふ事で、
> 「序文」はその重要性は本文に劣ります。「題号」も同様に重要性の點で本文に劣ると思ひます。康煕字典の場合も同じではないでせうか。
一往、『康煕字典』の序文も確認はしてゐるのですが、あれは明朝体ではなく、楷書の書体ですね。だから、楷書独自の字体が出て来ても何等不思議には思ひません。重要なのは本文だと云ふのは同意です。私は漢字全般を体系的に纏め上げてゐる点で本文こそ重要だと見てゐます。正式かどうかと正字の概念とは区別して考へる事にしてゐます。
>「欠弁予余芸」はこれで独立した字であって略体ではありません。
無論そんな事は知つてゐます。だからこそ、餘計に問題なのではありませんか。どうして「缺」の代りに「欠」を使はなければならないのですか。「藝」の代りに「芸」の字を用ゐなければならないのですか。當座の間に合せのためにそれを使ふことは差支へありませんが、それを正しい字として使用させることは間違ひであつたと言つてゐるのです。この措置によつて、現代國語は過去との架け橋を決定的に破壞されてしまひました。言葉といふものは、今ここにゐる誰かとだけ意思が通じれば良いわけではありません。遠方の人と意志を通じ、過去の書物により昔の人の考へを知り、我々の子孫に思ひを傳へられなければなりません。言語は、過去、未來との意志の疏通ができなくては、その重要な機能の一部を失つてしまふのです。そのためには、過去現在未來に通用する「正しい表記」を求める努力が必要です。
>活字・フォントというのは装飾文字です。おなじ字であると認識できればどのようにつくるかはDesigner の、うでのみせどころにすぎません。
馬鹿なことを言つてもらつては困ります。「當」の字體を使ふか「当」の字形を使ふかは、装飾の問題ではありません。字體の問題です。私は草書、行書、楷書の傳統を否定しません。しかし、正統な字形としては、「当売帰」ではなくて「當賣歸」でなければなりません。「当」の字、「売」の字は漢字の成り立ちとしてどのやうに説明したらよいのでせうか。「帰」の字の左側の奇怪な印は何を意味してゐるのでせうか。ただ略された状態ではないのでせうか。
>書物の「題号」「序」が「正式の場」であるのか、まだこたえがありません。
まづ、「古今和歌集」と假名序を見てみませう。勿論、集められた歌こそが古今集の本體で、序文はそれに附随するものであることは言ふを待ちません。貫之はここで大變な名文を書いてゐますが、しかし、序文が本文に勝る重要性を持つことは在り得ません。
「憲法義解」には伊藤博文が草書の序文を寄せてゐます。本文は無論正字正假名(片仮名)。そこでは、本文は重要で正式なもの、「序」はそこから一段格の下がつた、力の抜けた仕事に見受けられます。
「序文」はその重要性は本文に劣ります。「題号」も同様に重要性の點で本文に劣ると思ひます。康煕字典の場合も同じではないでせうか。
>>「來」「来」「耒(一劃目は水平に書く)」のうち、最も正統な字形はどれでせうか。
>康煕字典では「來」の明朝活字形
>欧陽詢系では「来」の楷書形
>顔真卿系では「來」の楷書形
「題号」「序」に「来」とあり、辞書本文に「來」とあるならば、やはり
「來」・・・正字
「来」・・・略字、俗字、異体字
といふことになります。
>言語學的な檢討に據つて
すでに答へは出てゐるのですよねえ。
しかし不思議なのは、例の金田一氏は、心情的には「歴史的假名遣」を好んでゐたといふぢやありませんか。又、土岐善麿は歌人でゐながらどうしてああいふ風にはしつたんでせうか?ローマ字三行書きの處女歌集「NAKIWARAI」が注目を浴びたからでせうか。しかし個人的な事を云云するのは止しませう。『現代短歌』といふ文庫本で彼の紹介を讀むと「……ローマ字普及などに力を尽し、国語・国字改革に関する功績も少なくない」と書いてあるのです。功績?私は何といふか齒止めのきかぬ世の中の機運といふかオコリといふか、そんなものがこはいです。
けれども朗報を添へます。私よりも一まはり下の年代の若者でも正假名が讀みよいといふ人は實際をります。現實に讀みよい譯ですから當然といへば當然です。きくとその人の家庭では父君の教育によつて、正假名での文書のやりとりは至極當り前で自然な事だといふ事です。くどくど言ひますが「現代仮名遣い」が特殊であるといふ認識が、少しづづでもいいから育つて來る事を期待します。さうなる事によつて、表音的な効果によつて成功してゐる現代詩などは却つて今以上に自由さを持ち得るのではないでせうか、私はさう思ひます。それが爲には實際に正假名で作品を發表する書き手が多く現れて來るしかないと思ひます。
野口英世の母の手紙の文面は日本語の一つの奇跡として書きとめておいたものです。實際の筆跡も寫眞のコピーを見た限りですが感銘深いものでした。あと、さういふ奇跡を擧げるとするなら宮澤賢治の『永訣の朝』の「あめゆじゆとてちてけんじや」が來ると思ひます。
さて私は日本人ですから「正假名遣」を用ゐて書き物を考へます。この二つは不離なものですから昨今の「現代仮名遣い」で書かれた文藝作品を私が讀まない理由は其處にあります。
野口英世の母の手紙は感動的です。
けれども、かう云ふたどたどしい書き方が一般化するのは如何なものかと思ひます。
感動的であるとか美しさとか、さう云ふ主観的な觀點――勿論、好き嫌ひと云ふ觀點も含みます――に基いて、表記の議論をするのは避けるべきです。あるべき正しい表記に就いては、飽くまで言語學的な檢討に據つて、客觀的に、議論すべきだと思ひます。
和田さんのやうに、すぐ人の好き嫌ひに話を持つて行つたり、「正しい」と云ふ觀念を認めなかつたりするのは、議論を故意に避けて、自分の思ひ込みを他人に押附けようとする卑怯な戰術であるやうに思ひます。
>>和田さんは、「仮名遣問題」が消滅する事を「望ましい」事だと述べてをられます。
>>これは「かきことばと、はなしことばが、おなじになるべき」であると云ふ事と同義です。
>同義であるとおもいません。ですから「いったこともかいたこともありません」としました。
同義です。私に附合つて「同義とする」等と言ふのは、止めて下さい。反論して下さい。議論になりません。
>はなしをすすめるため、野嵜さんのいうとおり同義とします。
>すると野嵜さんは「仮名遣問題」のうまれるまえには、「かきことばと、はなしことばが、おなじだった」とされていることになります。これでよろしいでしょうか。
で、それが何なのでせうか。
>もし奈良朝政府が大仏や国分寺のかわりに学校をつくり、「よみかき」「発音」をすべてのひとびとにおしえこみ、そののち各幕府も明治新政府もこれをつらぬきとおしたとします。
>すると現在も「仮名遣問題」のうまれるまえのままでしょう。
さう云ふ「if」の話をする必要はありません。歴史的な事實の話をして下さい。
>「話し言葉と書き言葉を峻別する」べきだというひとは、「この状態は正しくないから、正しい表語的表記をつくらねばならぬ」というのでしょうか。
意味が判りませんね。表語的な表記を「作る」つて何ですか。創作する必要はないのです。ただ單に、現代語を書く時、過去の表記に照らして補正する必要がある、と、それだけの事です。
>さらにさかのぼり奈良平安朝のひとびとは表語的表記をつくらなかった、おろかものだということですか。
その時には假名遣の問題は生れてゐない。それだけの話です。
>>「為」「来」「体」の字體が、組織立つて、體系的に「正式文書で古來、使はれて來た」と言ふ事が出來るでせうか。
>できます。詔勅、官寺写経につかわれてきました。もし「体」があったならそれは「ホン」としてです。
嘘ですね。現在の略字と全く同じ字體を基準とした時代はありません。もちろん、個別の文書で、たまたま現在の字體の體系と合致してゐるものは「あつた」かも知れません。が、それは偶然の一致です。
組織立つて、體系的に、正式に用ゐられた字體の體系として、現在用ゐられてゐる字體の體系が「あつた」事實は、歴史上、ありません。
>>一貫した理論に基いて整然と過去の用例を現代に移入したものではありません。
>そのとおりです。でもそれは、だからきらいだ、ということになっても、だれもつかってはならぬとはならないとおもいます。
好き嫌ひの問題ではありません。また、使用を許可する・禁止する、と云ふ問題でもありません。「正しい」と云ふ事を認めるか・認めないか、の問題です。「不正字不正かな」が「一般的」である現在、正字正かなが事實上「棚上げ」にされてゐる事が問題である――さう我々は主張してゐます。
>ひろく「言語の規則」ではなく、わたしは「かなづかい」「字形」についていっています。
>ゆれのあるさまざまなもののなかから「契沖」「定家」「名もしれぬ書家」「文部省の役人」たちが「意識的」に「決め」てきたのだとおもいます。
定家や契冲は、意識的に「正しい表記」を「探究」したのだと思ひます。「文部省の役人」――と言ふよりも「文部省を利用した表音主義者」は、さうした先人のやり方を無視して、「意識的」に「現代かなづかい」を「決め」てしまひました。
>わたしのあたまでは「自己言及文のパラドックス」「イデア論」にふかいりすることができません。
>そもそもわたしは「表音的な表記は正しい」からつかうべきだとはいっておりません。
>そのひとがつかいやすいものをつかえばよいということで、つかってもよいとはいいました。
人が使ひ易い表記は、「表音的な表記」ではなく、「表語的な表記」です。
>「正かな」は理にかなって矛盾なく組み立てられているとおもったから、「正しい」といいました。
>「正しい」とは「人」がきめるのかといわれましたから、そうだとこたえました。
>そして「標準化」とか「高い互換性」とかは「必要である」のではないか、「劃一化」を否定するのか、といわれましたので、ひとのきめごとである「規格」はひとつでなくてもよいとこたえました。
>ひとのきめごとには、いくつもただしいものがならびたつ、この例として幾何学をあげました。
>ここでわたしは、野嵜さんが「かなづかい」をつよく意識して「標準化」うんぬんをもちだされたことをよみあやまりました。
>わたしはひろく「標準化」とか「高い互換性」というものをとらえました。だから PC の例をあげたのです。
>ユークリッド幾何学=表音的な表記、だからただしいとされるのは、わたしの本意ではありません。
何を言ひたいのかさつぱり解りません。要するに和田さんは、行當りばつたりに、ただ當座、言ひ訣をする爲に、場當り的な説明をしてゐた、と云ふ事ですね。
>初等教育ではどれかひとつをきめなければ「混亂」します。
>しかし「大人」までがひとつの「基準」にしたがわないと「混亂」するとはおもいません。
>新聞のうち「社説」「論稿」だけは「正かな正字」、読者投書欄には「表音式」もあり(野口英世の母はそうするしかないでしょう)、これでかまわないとおもっています。
>これで「混亂」するほど日本人は幼稚なのでしょうか。
>また「正かな」正式実施としたところで、おおくのひとびとはつかいこなせません。
>「よゐこ」「かほり」などがあふれて、ますます「混亂」するだけです。
だーかーらー。
「正字正かな」を「正しい」と認めよ、「つかいこなせない」から「正しくない」とするな、と私は主張してゐます。そして、和田さんのやうな表音主義者は、「つかいこなせない正字正かなは、つかわせたくない」と言つてゐるのです。その爲にあなた方は「高雅」の中に正字正かなを押込めて、封印しようとしてゐるのでせう。
實際のところ、正字正かなは、使ひこなせます。戰前・戰中まで、日本人は正字正かなを使つてゐました。表音主義者でない人の本は全て正字正假名で印刷され、それを日本人は普通に讀んでゐました。だから、正字正かなは使ひこなせないなんて事などないのです。
>限定され「なければならない」といいません。
><高雅なものには「正かな」>と、よびかけているだけです。
それは「高雅なものにだけ『正かな』」と呼びかけてゐるのです。結果としてさう云ふ事になるのならば、さうです。
>助詞の「わ」「お」は保科孝一にならって、しばらくつかってきましたが、どうもわたしのくちにあいません。「は」「を」をつかいます。
表音主義者である和田氏も「は」「を」と、表語的な表記でなければ違和感を覺える――この時點で和田さんは表音主義を捨ててゐますし、表音主義では不十分である事を認めてゐます。和田さんも、矢張り「は」「を」のやうな助詞については、語意識に基いた表語的な表記が「正しい」と思はざるを得ない。
しかし、表語的な表記を使ひたくなるやうな語は、「は」「へ」「を」だけではない筈です。助詞・助動詞・用言の活用語尾は、語意識に基いて、表語的に書いた方が自然に感じられます。私はその語意識の感覺を重視して、表音主義に反對してゐます。
> 「日本語のために」さん、「五體字類」などをみて、ほかの書体、さまざまな字形にもなれてください。
そんなのは判り切つた話です。様々な見え方を提示して呉れるのは宜しいのですが、一体どれが漢字の本質を示してゐると云ふんでせうねえ。此の人は其の点の考察が全く足りてゐませんね。
野口英世に送つた母堂シカ刀自の手紙の全文を擧げます。
おまイの。しせにわ。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。なかたのかんのんさまに。さまにねん。よこもりを。いたしました。べん京なぼでも。きりかない。いボし。ほわこまりをりますか。おまいか。きたならば。もうしわけかてきましよ。はるになるト。みなほかいドに。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。ドかはやく。きてくだされ。かねを。もろた。こトたれにもきかせません。それをきかせるトみなのれて。しまいます。はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。いしょのたのみて。ありまする。にしさむいてわ。おかみ。ひかしさむいてわおかみ。しております。きたさむいてはおかみおります。みなみたむいてわおかんておりまする。ついたちにわ。しをたちをしております。ゐ少さまに。ついたちにわおかんてもろておりまする。なにおわすれても。これわすれません。さしんおみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせてくたされ。これのへんちちまちてをりまする。ねてもねむられません
わたくしはこれ以上の名文を知りませぬ。何囘讀んでも涙が出て來ます。
>正字の概念は康煕字典を下敷きとしてはゐますが、康煕字典とは一應分けて考へるべき性質のもので、
>正字を語るために必ずしも康煕字典を紐解く必要はないと思ひます。
明治期の漢和辞典作成者と明朝活字体作成者は康煕字典をほとんど唯一の資料として
印刷字形をつくってきました。ある文字のかたちにうたがいがうまれたとき、どうすればいいのですか。
明治大正期の明朝体活字字形は絶対でうたがいをもってはならぬ、
というのならそれは「日本語のために」さんの信仰にすぎません。
書物の「題号」「序」が「正式の場」であるのか、まだこたえがありません。
> 1.「來」「来」「耒(一劃目は水平に書く)」のうち、最も正統な字形はどれでせうか。
康煕字典では「來」の明朝活字形
欧陽詢系では「来」の楷書形
顔真卿系では「來」の楷書形
異体字「耒(一劃目は水平に書く)」はどこでどうつかわれたかしりません。
「最も正統な字形」があらゆる書体をつうじてひとつにきまる、これはあやまった発想です。
> 2.「涜、桧、侭、鴎、掴」は正しい字形でせうか。
立場によって正しい字形となります。中華人民共和国では簡体字も「正しい字形」です。
きらいならつかわずに、すきな字形の活字・フォントをつかえばよいだけでしょう。
> 3.欠(缺)、弁(辨瓣辯)、拠(據)、当(當)、帰(歸)、予(豫)、余(餘)、仮(假)、対(對)、学(學)、実(實)、担(擔)、挙(擧)、旧(舊)
>の字形については如何お考へですか。いづれも現代表記では普通に用ゐられる表記ですが、
>望ましい字體、整理された美しい文字になつてゐるとお考へですか。
かんちがいしているとこまりますが「欠弁予余芸」はこれで独立した字であって略体ではありません。
楷書行書草書をみなれているものにとっては、「手書書体を明朝体にしてみました」といわれれば、
「うまくデザインしましたね」としかいいようありません。
そもそも活字・フォントというのは装飾文字です。おなじ字であると認識できればどのようにつくるかは
Designer の、うでのみせどころにすぎません。
「日本語のために」さん、「五體字類」などをみて、ほかの書体、さまざまな字形にもなれてください。
>和田さんは、「仮名遣問題」が消滅する事を「望ましい」事だと述べてをられます。
>これは「かきことばと、はなしことばが、おなじになるべき」であると云ふ事と同義です。
同義であるとおもいません。ですから「いったこともかいたこともありません」としました。
はなしをすすめるため、野嵜さんのいうとおり同義とします。
すると野嵜さんは「仮名遣問題」のうまれるまえには、「かきことばと、はなしことばが、おなじだった」
とされていることになります。これでよろしいでしょうか。
もし奈良朝政府が大仏や国分寺のかわりに学校をつくり、「よみかき」「発音」をすべてのひとびとにおしえこみ、
そののち各幕府も明治新政府もこれをつらぬきとおしたとします。
すると現在も「仮名遣問題」のうまれるまえのままでしょう。
「話し言葉と書き言葉を峻別する」べきだというひとは、
「この状態は正しくないから、正しい表語的表記をつくらねばならぬ」
というのでしょうか。
さらにさかのぼり奈良平安朝のひとびとは表語的表記をつくらなかった、おろかものだということですか。
>「為」「来」「体」の字體が、組織立つて、體系的に「正式文書で古來、使はれて來た」と言ふ事が出來るでせうか。
できます。詔勅、官寺写経につかわれてきました。もし「体」があったならそれは「ホン」としてです。
>一貫した理論に基いて整然と過去の用例を現代に移入したものではありません。
そのとおりです。でもそれは、だからきらいだ、ということになっても、
だれもつかってはならぬとはならないとおもいます。
>音便については如何御考へですか。字音假名遣に就いては。
すぐにこたえられるほど、かんがえがまとまっていません。
>「和田さんは」どのやうに御考へになつて「正字正かな掲示板」に表音的な「表記」で書込みなさつたのかなあと。
「日本語のために」さんが「正字」の PDF 化に苦労なさっているのをみかねて、というのがキッカケでここまで
きてしまいました。表記法はわたしなりに、あるかんがえがあって、こうしています。
「正かな」とは直接関係ありませんが、どうしてもききたいとおっしるなら、おこたえします。
>「慣れ」だから「慣れ」だ、「それで納得しろ」と言はれても、私は納得しません。
日本語の表記がいまのようになっているのは、たまたまそうなったことに「慣れ」ているだけだというのが、
わたしのかんがえです。
日本のとなりが、ギリシャであればまたべつの表記がうまれました。
そのときにも「人」が「表記」をきめて、それに「慣れ」たでしょう。イデア?からみちびきだされる
「正しさ」できめたのではなくとも。
「野嵜=の」さんが「納得」されなくても、わたしはかまいません。
>言語の規則は、人が勝手に決める事が出來ないものです。
ひろく「言語の規則」ではなく、わたしは「かなづかい」「字形」についていっています。
ゆれのあるさまざまなもののなかから「契沖」「定家」「名もしれぬ書家」「文部省の役人」たちが
「意識的」に「決め」てきたのだとおもいます。
>さうやつて好い加減にものを考へてゐるから「表音的な表記は正しい」と云ふ結論を出してしまふのです。
わたしのあたまでは「自己言及文のパラドックス」「イデア論」にふかいりすることができません。
そもそもわたしは「表音的な表記は正しい」からつかうべきだとはいっておりません。
そのひとがつかいやすいものをつかえばよいということで、つかってもよいとはいいました。
「正かな」は理にかなって矛盾なく組み立てられているとおもったから、「正しい」といいました。
「正しい」とは「人」がきめるのかといわれましたから、そうだとこたえました。
そして「標準化」とか「高い互換性」とかは「必要である」のではないか、「劃一化」を否定するのか、
といわれましたので、ひとのきめごとである「規格」はひとつでなくてもよいとこたえました。
ひとのきめごとには、いくつもただしいものがならびたつ、この例として幾何学をあげました。
ここでわたしは、野嵜さんが「かなづかい」をつよく意識して「標準化」うんぬんをもちだされたことを
よみあやまりました。
わたしはひろく「標準化」とか「高い互換性」というものをとらえました。だから PC の例をあげたのです。
ユークリッド幾何学=表音的な表記、だからただしいとされるのは、わたしの本意ではありません。
>「おもふ」と「おもう」と、二つの基準があつたら混亂するでせう。
初等教育ではどれかひとつをきめなければ「混亂」します。
しかし「大人」までがひとつの「基準」にしたがわないと「混亂」するとはおもいません。
新聞のうち「社説」「論稿」だけは「正かな正字」、読者投書欄には「表音式」もあり
(野口英世の母はそうするしかないでしょう)、これでかまわないとおもっています。
これで「混亂」するほど日本人は幼稚なのでしょうか。
また「正かな」正式実施としたところで、おおくのひとびとはつかいこなせません。
「よゐこ」「かほり」などがあふれて、ますます「混亂」するだけです。
>それに、なぜ「高雅な文章だけ」に「正かな」が限定され「なければならない」のですか。
限定され「なければならない」といいません。
<高雅なものには「正かな」>と、よびかけているだけです。
>CPUの上で動く機械語の話をしてゐたのですよ?
ですから X86 の機械語の「表記法」のはなしをしています。
助詞の「わ」「お」は保科孝一にならって、しばらくつかってきましたが、
どうもわたしのくちにあいません。「は」「を」をつかいます。
すみません、書き込みが文字化けを起しましたので下記に移動します。
なほそれでも?マークの字が出てしまひました。それは辨の字の眞中を取つた字です。
とりあへず、投稿できないので、小生のサイトに載せました。
リンクを辿つて御覧ください。http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/Seiji_ni_tuite_2.html
フォントの問題かな?
> それとも「ただしい」わけではない表音的表記を敢へて使ふことでその愚劣さを世の人に知らしめるとか。
成る程、其れは「ケーキ男」さんの言はれる通りかも知れませんね。私は、和田さんの言説から、不誠実な面を読取つてゐたので、敢へてあのやうな言葉使ひを選んだのですが、当の和田さんから「礼儀のないひと」等と呼ばはれてしまひました。私としては全く礼を失した覚えはありません。
和田さんの言説は、仮名遣も漢字も様々な書き方の在る事を全く同レヴェルに還元して論じ、相対化する事を良しとするものです。若し其れを是認するとなると、日本語は混沌とした言語となり、結果的に社会に混乱を捲起こす事になります。
私は漢字にも仮名遣にも一本の筋を通して、其れを認めた上で別の書き方の在る事を許容します。野嵜さんから示唆を受けた現象学で云へば、同じ物でも見る位置が違へば様々な見え方をしますが、其の本質に違ひはありません。人は様々な見え方を突破して其の本質を読取るものです。漢字も仮名遣も、様々な見え方に翻弄されない為にも、本質を的確に表現できるものを正しいとする事が肝要です。
そもそも「わたしにとって表記法わ、ケーキえらびとかわりありません」などと考へる御方には議論も何も通じないのでは? 最初から議論を拒否してるやうなもんですよ。
といふか、
>>よろしければ、「表音的假名遣は假名遣にあらず」の論旨に對して論駁していただけませんでせうか。
> いいまかすことわできない。わたしも「歴史的仮名遣」が、ただしいとおもうし
>(「正かな」といってもよい)、このことお、まなびやでおしえるべきともおもう。
はっきり「ただしい」と書いてらっしゃるので、その後の正かな批判らしき書き込みは何かの間違ひ。
或いはニセモノ。
それとも「ただしい」わけではない表音的表記を敢へて使ふことでその愚劣さを世の人に知らしめるとか。
市坪樣
野嵜です。どうもはじめまして。リンクを張らさせていただいてをります。と言ふか、修正しておきました。今後ともよろしく御願ひいたします。
以下、釋明です。
>かつての人が用いた言葉を大切にするのは、「継承」という点で、至極貴重なことですが、現在の発音・筆記と「矛盾するところがあるため」に、やむをえず庶民風にあらためるというのも、「仕方ない」のかもしれません。あの梵語に似た「変体仮名」が、一般の人に読めなくなったというのは残念ですが、これも仕方ないのかも……。
そもそも、表記と發音との乖離は、そんなに問題視すべきではないと私は考へてゐます。英語では、綴りと發音との乖離が進んでゐますけれども、庶民からして「表記を改めるべきだ」とはそんなに言つてゐないやうです。實際、日本にしてもイギリスにしても、「表記を簡單にした方が良い」と主張した・してゐるのは、インテリが多かつたりします。
實際のところ、歴史的假名遣の表記と發音との間には、全體としてきちんとした對應關係があり、矛盾は「ない」と思ひます――フランス語における綴りと發音との間に矛盾が無いやうに。今でも古典の授業で古文の讀み方を教へてゐると思ひますが、歴史的假名遣で書かれた文章は――古文であれ現代文であれ――讀めるのです。
「現代仮名遣」は、「やむをえず改めたものである」とは言はず、恰も「現代の規範」であるかのやうな言ひ方をしてゐます。「現代仮名遣」が、「教育仮名遣」とか「簡易仮名遣」とか云つた名稱だつたら、それほど問題は「なかつた」と思ひます。
「現代仮名遣」の規定でも歴史的假名遣は「尊重すべきである」とされ、和田さんのやうな表音主義者の人も歴史的假名遣を「高雅」であると言つて呉れてゐます。けれども、「現代仮名遣」が、「現代の規範」として「絶對の地位」に「ある」のが現状です。それでは困るのです。「やむをえず」の「現代仮名遣」には、それなりの地位に退いていただきたいと。
>かつての問題よりも、現在は、いい加減に決められた、コンピューター言語であるユニコードの字体なんかも問題になってますよ。
文字コード問題に關しても一往、知識は持つてゐる積りでをります。けれども、文字コード問題は、國字改革が撤囘されない限り解決しない事が判り切つてゐますし、また、熱心に議論してをられる方々が極めて多いので、私は敢て「餘り論じられる事がない」假名遣ひの問題を扱つてゐます。他の人と同じ事をしても、屋上屋を架すやうなものではないかと。
せつかく「正字について、こんな白熱したページがあったなんて」と仰つて下さつてゐますが、うちはそれほど深くは漢字の問題について扱つてゐないのです。申し訣ありません。
よろしければ「正字正かなQ&A」も御覽いただければと……。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/QA/
「野嵜」も「の」も同じ一人の人間が書込んでゐるのだから、和田さんも一々嚴密に區別しなくても?
>かきことばと、はなしことばが、おなじになるべきと、いったこともかいたこともありません。
>わたしの、どのことばが、そうとられるのか、しめしてください。
和田さんは、以下のやうに御書きになりました。
>みなが「わたしはこれをつかふ」お「wa ta si fa ko re wo tu ka fu」と、はなすようになり、千年のあいだに、なまりになまったことばが、そのもとのひびきお、とりもどすときに、「仮名遣問題」わ、きえてなくなる。メデタシメデタシ。
「メデタシメデタシ」になる事は、即ち「望ましい」事である筈です。和田さんは、「なまりになまったことばが、そのもとのひびきお、とりもどす」事が「仮名遣問題」を消滅させる事であり、「仮名遣問題」が消滅する事は「望ましい」事だと述べてをられます。
和田さんは、「仮名遣問題」が消滅する事を「望ましい」事だと述べてをられます。これは「かきことばと、はなしことばが、おなじになるべき」であると云ふ事と同義です。
>あやまらせるようないいかたになっていたら、なおします。
> かく「文章体」と、かく「口述体」
> はなす「文章体」と、はなす「口述体」
>まぜこぜにしていたところがあるかもしれません。
>「文章体」と「口述体」、別ものとおもいます。
>ただし「文章体」に「表音的かなづかい」も、みとめるというかんがえです。
文章で書いて他人が理解出來る限り、口語文であつても、決して「口述体」とはなり得ないと思ひます。ならば、「文章体」「口述体」と區別する事は不可能だと思ひます。或は、全ての文章語は、程度は何うであれ「高雅」であると言へます。他人に通ずるやうに書かれてゐる限り、文章語は多かれ少かれ表現が洗練され、整理されてゐると看做す事が出來ます。
>わたしの「私見」でわ印刷字体に複数系統あってなんらかまいません。
>複数あったほうが日本の Typography がゆたかになると、おもいませんか?
ええ。これらの點では私と和田さんとで意見は同じであると思ひます。
>>これらの「ただしい」について、和田さんはどのやうな意味で言つてをられるのでせうか。
>「為」「来」「体」のかたちが、日本でもシナでも正式文書で古来つかわれてきたということです。
「為」「来」「体」の字體が、組織立つて、體系的に「正式文書で古來、使はれて來た」と言ふ事が出來るでせうか。
時と場合によつて、略字體が散發的に用ゐられた事はあるでせう。けれども、何時如何なる場合にも、「当用漢字」以來の漢字體系が過去の正式文書で採用され、使はれ續けてきた、と云ふ事は「ない」と思ひます。
逆に言へば、過去に用例が「ある」と言つても、「当用漢字」は、あちこちから用例を適當に拾ひ集めて來たものに過ぎず、一貫した理論に基いて整然と過去の用例を現代に移入したものではありません。
>>和田さんは、「あってもかまいません」程度の價値として「ただしい」を考へてをられるのですが、
>野嵜さんの<イデアとして「正しい事」も「ある」>にこたえただけです。
>ちゃんと文脈お、よみとってください。
「こたえただけ」では答へになつてゐない、と云ふ事は御解りになつてゐる事と思ひます。では、とぼけたり、野嵜の言つてゐる事を揶揄したりするのは御止めになつて、はつきり和田さんの考へる「ただしい」の概念を定義していただけますか。
私は、單なる言葉のやりとりを面白がつてゐるのではなく、和田さんの考へを知りたいのです。
> わかりあえるひとたちのあいだ=方言つかってもよし
> ほかの土地のひとたちのあいだ=共通語にたよるしかない。
>こういっているだけです。
>文脈からはなれて、きりとってくるからこうなるのです。
「わかりあえるひとたちのあいだ」「ほかの土地のひとたちのあいだ」の區別が、書き言葉においては成立するのですか。しないのです。だから
>(方言は)そのまま、つこうて、かいとればエエのんとちゃいまっか?
>おもいおつたえたかったら、ともにわかることばお、つかいなさい、というだけです。
と云ふ二つの和田さんの發言は、同じ文脈の下で解釋すべきです。
書き言葉は、話し言葉に比べると「絶對的に長期」に亙つて殘るものです。話し言葉に比べれば、より多くの人に接觸される可能性があります。さうなると、書き言葉に於いては、書き手と讀み手との關係を、一意に「わかりあえるひとたちのあいだ」「ほかの土地のひとたちのあいだ」と決める事が出來ません。
>>現代語を「なまりになまったことば」と呼ぶからには、和田さんは「千年」前の言葉を、
>>ただ一つの「ただしい」言葉だと考へてをられる事になります。
>だから野嵜さんたちわ、「正かな」にすべし、といっているのでしょう? ちがいますか?
違ひます。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/QA/
>むかし、みなが「おもふ」お、「o mo fu」といったのに、なまって「o mo u」という。
だから「かなづかい」がむづかしくなった、もとにもどせばやさしくなる。こうかんがえるのがおかしいですか?
は行轉呼音では、現在hで發音されるは行は、以前はfで發音され、それ以前はpで發音されてゐたと考へられてゐます。o mo fuですら「なまって」ゐるのです。まあ、和田さんはその邊の事は承知で言つてをられるのだと思ひますが。
しかし、かうしたは行の音の變化だけが假名遣ひの出現する要因ではありません。和田さんは、「行かう」「書かう」「話さう」については、どのやうに思はれますか。
音便については如何御考へですか。字音假名遣に就いては。
>もしこの掲示板が「正かな」だけみとめるひとたちのものだ、でてゆけ、ということでしたら、もうきません。
「私は」どのやうな假名遣ひでも許容します。が、「和田さんは」どのやうに御考へになつて「正字正かな掲示板」に表音的な「表記」で書込みなさつたのかなあと。
>わたしにとって表記法わ、ケーキえらびとかわりありません。
慥かにそのやうですが、それで「あるべき表記」の話をされては困ると思ひます。
>1.「わいわ、おもうねん」
>2.「うぴぱ、おむぴすれ」
>3.「わたし(わ/は)、おも(い/ひ)ます」
>(1、2ともに架空の方言)
>
>1、2 "のみ"しかわからないひとのあいだで、<表語的な表記であつたら、「ともにわかる」>のですか?
>3.という「共通語?」がなかだちとなって、わかりあえるのでしょう。
書き言葉では、表語的な表記が「なかだち」となつて「わかりあえる」のではないですか。
>>「よんでわからない」と云ふ發音記號の群を音聲言語に還元するのは、大變複雜な思考過程が必要です。
>「yonndewakaranai」「yoendewakkalanaei」「jondeuakalanai」...
>(「oe」「ae」=ドイツのウムラウトつきのつもり)
>と音声記号の切れ目ない羅列を音声言語に還元するのも複雑な思考過程が必要だと思います。
>触覚記号(点字)で理解しているひとでも、多分おなじく複雑な思考過程を必要としています。
>点字で「正かな」を使用していると聞いたことがありません。
>ただの「慣れ」の問題だと思います。
何れにしても、和田さんは「慣れ」で全てが解決出來る、と、根據ナシに言つてをられます。が、それでは困ります。なぜ「慣れ」で解決するのですか。「なぜ」と私は質問してゐます。「慣れ」だから「慣れ」だ、「それで納得しろ」と言はれても、私は納得しません。
>>「慣れ」と云ふ言ひ方で誤魔化しては行けないのです。........
>.....
>>さうした「把握」が何處まであり得るのか、また、何處まで信頼し得るのかは、疑問が殘ります。
>この部分、なにをいっているのかさっぱりわかりません。
とぼけるのは止めて下さいよ。
私は
>實は、發音記號から音聲言語に還元する作業は、既に意味が判つてゐないと不可能です。「よんでわからない」と云ふ發音記號の群を音聲言語に還元するのは、大變複雜な思考過程が必要です。例へば。
>「よんでわからない」は、全體で一語ではありません。一語として認識しようとしても、該當する語彙がありませんから、出來ません。複數の語に分れてゐるらしい事は判ります。そこで、取敢ず二語に分けてみる。「よ・んでわからない」「よん・でわからない」「よんで・わからない」「よんでわ・からない」「よんでわか・らない」「よんでわから・ない」「よんでわからな・い」。茲で、「よんで・わからない」と分けた時、「よんで」「わからない」はそれぞれ知つてゐる語彙と合致する、よつてこの分け方が正解であらう、さう推測する――それによつて、「よんでわからない」は「よんで・わからない」と云ふ音聲言語に正確に還元する事が初めて可能となる。が、今は二語だから比較的簡單です。これが三語、四語の組合せとなると、或は、幾つかのパターンがあり得る時、正確な音聲言語への還元は、知的に困難な作業となります。
>かうした困難が「ある」にもかかはらず、和田さんは、「よんでわかる」と單純に言ひ、よつて「きいてわかる」と簡單に結論を下します。「だってさうでせう。とぼけないでください」と和田さんは言ふかも知れませんが、別にとぼけてはゐません、私は現實をありのまゝに、正確に述べたに過ぎません。
と書きました。
これだけの過程が「認識」に必要である事が、なぜ和田さんには判らないのですか。
>>それはあなたの好みの問題に過ぎません。あなたが嫌ふからと言つて、
>>それは「間違ひである」と決める事は出來ません――と言ふより、
>「表音的かなづかい」「略字」も
><あなたが嫌ふからと言つて、それは「間違ひである」と決める事は出來ません>
和田さんは、まさか野嵜が「嫌ひだから『間違ひである』と極附けてゐる」と思つてゐるのですか?
私は好き嫌ひで物を言つてゐませんよ。私は、表音的な「表記」では語を認識し、文章の意味を把握するのが困難になるから良くない、と、根據を擧げて表音的な「表記」の問題點を指摘してゐます。
>>あなたは今、「『ただ一つの正しいものはない』と云ふ事は正しい」と主張してゐるのですが、自家撞着です。
>「例外のない規則はない」という規則。「この文は嘘だ」という文。こんなことに頭をつかいたくありません。
さうやつて好い加減にものを考へてゐるから「表音的な表記は正しい」と云ふ結論を出してしまふのです。と言ふか、和田さんは、自分の矛盾が何うして判らないのですか?
>>より一般的な非ユークリッド幾何學があり、特殊な條件下でユークリッド幾何學が成立する。それだけの話です。
>ちがいます。公理定理のえらびかたの差です。
さうではありません。レヴェル・次元が違ふだけです。
>物理法則なら「人が決める事」ではないし、「人が勝手に決めて良い事」ではありません。
>(仮説がただしいかどうかは実験なり論証で「人が決める事」ですが)
>「かなづかい」「字形」は「人が決める事」ことです。ひとつの正解があるとはおもいません。
それは和田さんが「思つてゐる」だけです。
しかし、もし言葉に關して「人が決める」事が出來るとしたら、言語學は成立しなくなりますね。社會學とか經濟學とかが成立するやうに、言語學も成立します。言語には規則があります。言語の規則は、人が勝手に決める事が出來ないものです。
>これもなにをいっているのかわかりません。
>わたしはただ、「おもう」という規格、「おもふ」という規格、両方あってなぜいけないのといっているだけです。
>わたしは「正かな」ほろびさるべし、といっていません。高雅なものには「正かな」、といっているではないですか。
とぼけるのも好い加減にして下さい。
「おもふ」と「おもう」と、二つの基準があつたら混亂するでせう。
それに、なぜ「高雅な文章だけ」に「正かな」が限定され「なければならない」のですか。今の和田さんの主張は、「正かなの使用は高雅な文章だけに限定されるのが正しい」とパラフレーズされます。
これは、和田さんの他の主張と矛盾します。
>「つくる/作る」という言葉/概念、これを x86 の言葉/概念の
何を言ひたい「たとえばなし」なのでせうか。プログラミング言語の話ではなくて、CPUの上で動く機械語の話をしてゐたのですよ?
しりきれとんぼになっていました
>現代語を「なまりになまったことば」と呼ぶからには、和田さんは「千年」前の言葉を、
>ただ一つの「ただしい」言葉だと考へてをられる事になります。
だから野嵜さんたちわ、「正かな」にすべし、といっているのでしょう? ちがいますか?
>現代語の體系は全て「なまりになまった」ものと看做されるべき事になります。
そうおもってます。
>實際に和田さんは「正式の場」でそのやうな言葉を使ひたいと思つてをられるのでせうか。
おもっています。ただ、わたしひとりでつかっても変人あつかいされるだけでしょう。
だからみんながそうなればいいなあといっているのです。
むかし、みなが「おもふ」お、「o mo fu」といったのに、なまって「o mo u」という。
だから「かなづかい」がむづかしくなった、もとにもどせばやさしくなる。こうかんがえるのがおかしいですか?
>そして今、そのやうな言葉を用ゐず、「表音的」な表記を用ゐてをられる和田さんは、
>さう云ふ表記がこの掲示板と云ふ「文脈」において「妥當である」と、どのやうにして判斷されたのでせうか。
おっしゃることがわかりません。
もしこの掲示板が「正かな」だけみとめるひとたちのものだ、でてゆけ、ということでしたら、
もうきません。
>和田さんは、8月25日(木)20時14分55秒の書込みで明確に「表音的假名遣派から」と題名を書いてゐる。
>だから私は和田さんを「表音的假名遣派」と呼んでやつたんだ。
野嵜さんが8月25日(木)20時30分8秒のかきこみで、
<「表音的假名遣派」の看板を即刻下ろさなければなりません。>といわれました。
”みなさんのおっしゃる”「表音的假名遣派」でない、といっているでしょう。
>何も戦前の表音主義者ばかりが「表音的假名遣派」ではない。勘違ひするな。
戦後のわたしだけの「かなづかい」でもいいというなら、「表音的假名遣派」と、なのります。
でも野嵜さんがゆるさないでしょう。
>少し検索すれば解らう事だ。之で解らぬやうなら話にならん。
小林英夫の引用文、スラスラよめました。
「ワカチガキ式」になるなら「お」にできる。
>呼んでやつたんだ。
>勘違ひするな。
>指し示しておいてやる。
>私には全く理解できないから答へて欲しい。
礼儀のないひとになど、理解されたくありません。おわり。
>正字といふ語の、辭書的意味。
>.......私の考へと同じです。
だから「着」が「著」の楷書字形で、康煕字典にない「うそ字」「俗字」「略字」だが、
たまたま明治時代の漢和辞典にのっているから「正字」だということですか?
「畑榊働」も、たまたま漢和辞典にのっているから康煕字典になくても「正字」。
「くさかんむり」の横棒がくっついていて康煕字典とはちがっても、たまたま漢和辞典
がそうなっているから、または活字職人がそうつくったから「正字」。
ということなのですか?
>いづれにしろ、正式の場で用ゐるべき文字ではありません。
いますぐ康煕字典お、ひらいてみてください。
「題号」「序」が「正式の場」でないとでもおっしゃるのですか?
>>>(方言は)そのまま、つこうて、かいとればエエのんとちゃいまっか?
>>>おもいおつたえたかったら、ともにわかることばお、つかいなさい、というだけです。
>この和田さんの二つの發言、場當り的で、整合性がないやうに思はれますが?
わかりあえるひとたちのあいだ=方言つかってもよし
ほかの土地のひとたちのあいだ=共通語にたよるしかない。
こういっているだけです。
文脈からはなれて、きりとってくるからこうなるのです。
>今、和田さんがこの掲示板の書込みを「表音的」な表記で「すませて」ゐるのは、
>「すぐにきえさる、どうでもよいもの」だと思つてをられるからでせうか。
>それだとこの掲示板(とその「主宰者」である野嵜と)が馬鹿にされてゐるやうな氣がするのですが?
わたしのかきこみが、「正かな」でのこすにあたいするものでわない、ということで
「すぐにきえさる、どうでもよいもの」とおもっています。
掲示板というものが、のちのちまでのこすものでないでしょう。
ただ「どうでもよいもの」といういいかたが、掲示板のなかみそのものも、
まったくのあたいなし、ともうけとられることわ、みとめます。
そうとられたなら、もうしわけありません。
>これらの「ただしい」について、和田さんはどのやうな意味で言つてをられるのでせうか。
「為」「来」「体」のかたちが、日本でもシナでも正式文書で古来つかわれてきたということです。
>和田さんは、「あってもかまいません」程度の價値として「ただしい」を考へてをられるのですが、
野嵜さんの<イデアとして「正しい事」も「ある」>にこたえただけです。
ちゃんと文脈お、よみとってください。
>ならば「康煕字典體」を「使つても良い」のではないですか?
どうぞどなたでもおつかいください。わたしも、うつくしいとおもったところでわ、つかっています。
>私見では、印刷字體については當座、「康煕字典體」を基準にするしかないでせう。
わたしの「私見」でわ印刷字体に複数系統あってなんらかまいません。
複数あったほうが日本の Typography がゆたかになると、おもいませんか?
>「同じ文字X」である「様」「樣」に對して異る二つのコードを割當ててゐる事はをかしい。
そのとおりだとおもいます。これが文字コードの混乱の元凶だともおもいます。
参考 http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/staff/youran/yasuoka.pdf
>「ともにわかることば」の基準が、話し言葉と書き言葉とでは違ふのです。それを認めて貰へませんか。.....
>和田さんの主張は、話し言葉と書き言葉とを区別せず、
>「たったひとつの『規格』しかゆるさない」と云ふ事になつてしまつてゐます。
>異る性質を持ち、異る環境で用ゐられる話し言葉と書き言葉とで、
>我々は何うして劃一的な基準に基づかなければならないのでせうか。
かきことばと、はなしことばが、おなじになるべきと、いったこともかいたこともありません。
わたしの、どのことばが、そうとられるのか、しめしてください。
あやまらせるようないいかたになっていたら、なおします。
かく「文章体」と、かく「口述体」
はなす「文章体」と、はなす「口述体」
まぜこぜにしていたところがあるかもしれません。
「文章体」と「口述体」、別ものとおもいます。
ただし「文章体」に「表音的かなづかい」も、みとめるというかんがえです。
>「よんでわからない」と云ふ發音記號の群を音聲言語に還元するのは、大變複雜な思考過程が必要です。
「yonndewakaranai」「yoendewakkalanaei」「jondeuakalanai」...
(「oe」「ae」=ドイツのウムラウトつきのつもり)
と音声記号の切れ目ない羅列を音声言語に還元するのも複雑な思考過程が必要だと思います。
触覚記号(点字)で理解しているひとでも、多分おなじく複雑な思考過程を必要としています。
点字で「正かな」を使用していると聞いたことがありません。
ただの「慣れ」の問題だと思います。
(*今回の投稿はちがうケーキにしています)
>「慣れ」と云ふ言ひ方で誤魔化しては行けないのです。........
.....
>さうした「把握」が何處まであり得るのか、また、何處まで信頼し得るのかは、疑問が殘ります。
この部分、なにをいっているのかさっぱりわかりません。
ここの常連の方々はおわかりになるのでしょうか。
>それはあなたの好みの問題に過ぎません。あなたが嫌ふからと言つて、
>それは「間違ひである」と決める事は出來ません――と言ふより、
「表音的かなづかい」「略字」も
<あなたが嫌ふからと言つて、それは「間違ひである」と決める事は出來ません>
>あなたは今、「『ただ一つの正しいものはない』と云ふ事は正しい」と主張してゐるのですが、自家撞着です。
「例外のない規則はない」という規則。「この文は嘘だ」という文。こんなことに頭をつかいたくありません。
>より一般的な非ユークリッド幾何學があり、特殊な條件下でユークリッド幾何學が成立する。それだけの話です。
ちがいます。公理定理のえらびかたの差です。
>「正しい事」は、「人が決める事」ではない、「人が勝手に決めて良い事」ではない――
>「決つてゐる事」だ、と、私は申し上げてゐるのです。
物理法則なら「人が決める事」ではないし、「人が勝手に決めて良い事」ではありません。
(仮説がただしいかどうかは実験なり論証で「人が決める事」ですが)
「かなづかい」「字形」は「人が決める事」ことです。ひとつの正解があるとはおもいません。
>しかし、言語に「規格」は「ある」のです。もし言語において一切の標準が存在しなかつたとしたら、
.......
>その程度の「正しさ」は、和田さんにも認めていただかなければなりません。
これもなにをいっているのかわかりません。
わたしはただ、「おもう」という規格、「おもふ」という規格、両方あってなぜいけないのといっているだけです。
わたしは「正かな」ほろびさるべし、といっていません。高雅なものには「正かな」、といっているではないですか。
「つくる/作る」という言葉/概念、これを x86 の言葉/概念の
「AX register に BP register の指す memory の値 1word 転送」と仮定します。
これが「ころす/殺す」=「AX register に 1加算」、「やく/焼く」=「AX register と 0 とで論理和をとれ」
と、しかるべきところでただしくつかいわけされるという体系がなければ IBM PC はうごきません。
「つくるという概念」を Assembly 言語ではむかしから「mov ax,[bp]」としてきましたが、
最近のひとは「mov」を「ムーブ」としかよまなくなってしまい、
「move AX,[bp]」とする新 Assembler ができました。「AX」は最近の流行です。
歴史的 Assembler でも新 Assembler でも禁止されているわけでもなし
(伝説の、現在も尊敬されている名人 Programer たちは「mov」「ax」とかきのこしてきました)
どっでもよさそうにおもいますが、あるひとたちは「mov ax,[bp]」が「正しい」といいはります。
こういうたとえばなしをおもいつきました。
はじめまして。市坪と申します。
自分で作成した『王陽明出身靖亂録』がWEB上で、紹介・活用されているか知りたくて、「ぐぐる」っていうんですか、検索をして、ここのページを拝見しました。
毎日、影印本(活字ではなく昔の宋・明のテキストの複写本)に目を通しているのですが、正字について、こんな白熱したページがあったなんて、と失礼ながら感心しました。
でも、ちょっと、引っかかる点があったので、記しておきます。
装飾性のある明朝体は、筆で筆記する文字とは違う「ニセの文字」ですし、「は・ひ・ふ・へ・ほ」を誰も、今は「FA・FI……」と発音していません。
さらに、「樣」は「やう」という音で伝わっていますが、実際は、現代の中国語とほぼ同じ「YANG」(英語のsingと同じく最後は鼻に抜ける音で「シング」ではない)という音を、聞き取れないため、無理矢理あてつけたものです。
かつての人が用いた言葉を大切にするのは、「継承」という点で、至極貴重なことですが、現在の発音・筆記と「矛盾するところがあるため」に、やむをえず庶民風にあらためるというのも、「仕方ない」のかもしれません。あの梵語に似た「変体仮名」が、一般の人に読めなくなったというのは残念ですが、これも仕方ないのかも……。
かつての問題よりも、現在は、いい加減に決められた、コンピューター言語であるユニコードの字体なんかも問題になってますよ。
台湾・中国・日本の文字コードは、このままでは、むちゃくちゃで、お互いの文献検索も「文字単位・ユニコード文献」では、ちょっと無理がある状況です。
最後に、私事ですがホームページは、転居とともに
http://www17.ocn.ne.jp/~ichitubo/
になりましたので、管理人様、「私家版中哲電脳」のリンク変更お願いいたします。
>ただ、表音的な書き方も出來るし、
>表語的な書き方も出來る状況で、表音的に「書きたい」と思つて撰擇する、
>その積極的な理由を知りたいだけです。
わたしにとって表記法わ、ケーキえらびとかわりありません。
>判らなければ困るでせう。
こまるなら、わかることばお、つかえばよいだけです。
>表語的な表記であつたら、「ともにわかる」のです。その方が良いでせう。
1.「わいわ、おもうねん」
2.「うぴぱ、おむぴすれ」
3.「わたし(わ/は)、おも(い/ひ)ます」
(1、2ともに架空の方言)
1、2 "のみ"しかわからないひとのあいだで、<表語的な表記であつたら、「ともにわかる」>のですか?
3.という「共通語?」がなかだちとなって、わかりあえるのでしょう。
かいたときに表語的か表音的か---、べつのこととおもいます。
> まえにしるしたとおり、わたしわ、みなさんのおっしゃる「表音的假名遣派」でわありません。
和田さんは、8月25日(木)20時14分55秒の書込みで明確に「表音的假名遣派から」と題名を書いてゐる。だから私は和田さんを「表音的假名遣派」と呼んでやつたんだ。何も戦前の表音主義者ばかりが「表音的假名遣派」ではない。勘違ひするな。
又、和田さんは『言語學通論』をお持ちぢやないのか。ならば、該当部分を引用してゐるウェブページを指し示しておいてやる。
http://www.nannohi.jp/diary/2002/03/26.html
少し検索すれば解らう事だ。之で解らぬやうなら話にならん。
> (「づかい」としたのわ、「du ka i」とわたしわ、くちにだしているし、ひとにもよんでもらいたいからです。)
ほう、さう来たか。一方では発音に合せて仮名を書換へて、他方では仮名に合せて現代の話し言葉とは異なる発音をさせようとする。之は国語の破壊と言つても過言ではあるまい。「いまのつかいかたでみちたりています」(之も何処で語を区切つたらいいのか判然としないが)等と書いてゐるが、自己満足で済むやうな話ではない。
改めて問ふ。どう云ふ理由で本来の仮名遣とも「現代仮名遣い」とも違ふ表記方法で書いてゐるのだか、私には全く理解できないから答へて欲しい。
最近中國で「過」といふ字の旁の上部の中の部分を變へたさうです。|書いて―の所を、左側に起点をおき―から|と一息に流せる樣にして、畫數を一本減らしたものらしいです。私は慣れてゐないので「簡体字」がほとんど讀めません。そこにいくと臺灣はいいです、「繁体字」ですから馴染みがあります。私が「近代的に整理された」文字と假名遣を生活に取り入れてからまだ日は淺いのですが、大變よかつたと思つてをります。理由は簡單で便利を感ずるのです。明治、大正に書かれた書物を手にしても、全く違和感がありません。「当用漢字」「現代仮名遣」にどつぷりつかつてゐた期間が長くそれに慣れてゐるといふのに、それらへ親近感を持つ事が出來ないのは、不思議といへば不思議な氣がします。四十年近く面倒をみてきた育ての親を捨て、生みの親に走つたといふ例へはうまくありませんが、人智を超えたところで、れんめんとしたものがあるのかも知れません。
正字といふ語の、辭書的意味。
「点画の正しい形の文字。昔から正統と認められてきた形の漢字。略字・俗字や正字から作られた新字体に対していう。」(大辞林)
「略字・俗字などに対して、正式の字。また、当用漢字・常用漢字の新字体に対して、そのもとの字。「円」に対する「圓」、「当」に対する「當」の類。」(大辞泉)
いづれも、ヤフー辭書検索よりの引用ですが、私の考へと同じです。
略字、略體と言つて惡ければ、俗字、異體字の類でありませう。いづれにしろ、正式の場で用ゐるべき文字ではありません。
正しい字體、正式の場で用ゐるべき字形、「正字」といふ言葉はさういふ意味であると私は考へてゐます。
と言ふか。
>(方言は)そのまま、つこうて、かいとればエエのんとちゃいまっか?
>おもいおつたえたかったら、ともにわかることばお、つかいなさい、というだけです。
この和田さんの二つの發言、場當り的で、整合性がないやうに思はれますが?
>はなしことばにかぎらず、かきことばのうちでも、すぐにきえさる、どうでもよいものわ、「表音的」なものですませておいてもよい、というのがわたしのかんがえだ。
今、和田さんがこの掲示板の書込みを「表音的」な表記で「すませて」ゐるのは、「すぐにきえさる、どうでもよいもの」だと思つてをられるからでせうか。それだとこの掲示板(とその「主宰者」である野嵜と)が馬鹿にされてゐるやうな氣がするのですが?
>でも、ただしいやまとことばのものさしとして、「歴史的仮名遣」お、しっかりとさだめておくことわ、よいことだろう。
>「為」「来」「体」は略体などではありません。楷書のただしいかたちです。
これらの「ただしい」について、和田さんはどのやうな意味で言つてをられるのでせうか。和田さんは以下のやうにも言つてをられます。
>人知おこえたところに「正しい事」があってもかまいません。
>ただそうおもうのわ「人」だとかんがえます。
和田さんは、「あってもかまいません」程度の價値として「ただしい」を考へてをられるのですが、その「ただしい」と云ふ事を「さだめておく」のを「よいこと」と積極的に評價してをられます。ここには何か飛躍があるやうに感じられますが、もしよろしければ御説明を。
それから。
>みなが「わたしはこれをつかふ」お「wa ta si fa ko re wo tu ka fu」と、はなすようになり、千年のあいだに、なまりになまったことばが、そのもとのひびきお、とりもどすときに、「仮名遣問題」わ、きえてなくなる。メデタシメデタシ。
現代語を「なまりになまったことば」と呼ぶからには、和田さんは「千年」前の言葉を、ただ一つの「ただしい」言葉だと考へてをられる事になります。この時點で、何か矛盾があるやうにも思はれるのですけれども。また、假に「なまりになまったことば」になる以前の「千年」前の言葉を「ただしい」とするならば、その時點の音韻・語彙・文法體系がそつくりそのまゝ「ただしい」事になり、現代語の體系は全て「なまりになまった」ものと看做されるべき事になります。さうなると、和田さんが「正式の場」で用ゐるべきと考へる書き言葉・話し言葉は、「千年」前の音韻・語彙・文法體系に基いた言葉となる訣ですが、實際に和田さんは「正式の場」でそのやうな言葉を使ひたいと思つてをられるのでせうか。そして今、そのやうな言葉を用ゐず、「表音的」な表記を用ゐてをられる和田さんは、さう云ふ表記がこの掲示板と云ふ「文脈」において「妥當である」と、どのやうにして判斷されたのでせうか。
と言ふか。
>おもいおつたえたかったら、ともにわかることばお、つかいなさい、というだけです。
「ともにわかることば」の基準が、話し言葉と書き言葉とでは違ふのです。それを認めて貰へませんか。
和田さんの主張は、話し言葉と書き言葉とを区別せず、「たったひとつの『規格』しかゆるさない」と云ふ事になつてしまつてゐます。異る性質を持ち、異る環境で用ゐられる話し言葉と書き言葉とで、我々は何うして劃一的な基準に基づかなければならないのでせうか。
Computer の世界でも Windows, Mac, UNIX etc それぞれ住み分けて來ました。言葉の世界でも、書き言葉と話し言葉とはそれぞれ別の「規格」に基いて住み分けて良いと思ひます。
如何でせうか。
>わるいのは新字体ではありません。たったひとつしかただしい字はないという思想です。
これは贊成。
>ほかの字体をみとめたり、まなんだりすることをさまたげる、これが原因です。
ならば「康煕字典體」を「使つても良い」のではないですか?
私見では、印刷字體については當座、「康煕字典體」を基準にするしかないでせう。白川靜氏他の研究によれば、甲骨文字・金文から整理された漢字の字體を起す時點で結構問題があるらしいですが、一往、「近代的」に整理された漢字の字體は成立・存在してゐた訣で、それはそれで歴史的な「進化」「發展」の一過程として認めておくしかない。字體の整理をするならば、その既存の字體を基に訂正・整理を進めるしかない。一往、その時點でなされた字體の整理の方法論は確認しておくべきで、その後の整理もその方法論をより洗練させて行く事によつてなされるべきでせう。「当用漢字」は、さうした既存の方法論の洗練ではなく、粗雜で一貫性を缺いたやり方で「字體整理」をやつたから認められません。
と言ふか、書き方とか字體とかはいろいろあつても構はないと思ひます。けれども、それらの樣々な書かれ方・表現され方をしても、或漢字は或漢字である、と云ふ觀念はあつてもよろしいでせう。「様」でも「樣」でも、或は手書きで楷書・行書・草書で書かれてゐたとしても、何れも「あり」である、けれども、それらは全て一つの現出者「X」の個別の現出に過ぎない。
さう云ふ觀點から言へば、現行の文字セット・文字コードで、「同じ文字X」である「様」「樣」に對して異る二つのコードを割當ててゐる事はをかしい。
>きいてわかるものが、よんでわからない。これがさっぱりわたしにわ、わからない。
實は、發音記號から音聲言語に還元する作業は、既に意味が判つてゐないと不可能です。「よんでわからない」と云ふ發音記號の群を音聲言語に還元するのは、大變複雜な思考過程が必要です。例へば。
「よんでわからない」は、全體で一語ではありません。一語として認識しようとしても、該當する語彙がありませんから、出來ません。複數の語に分れてゐるらしい事は判ります。そこで、取敢ず二語に分けてみる。「よ・んでわからない」「よん・でわからない」「よんで・わからない」「よんでわ・からない」「よんでわか・らない」「よんでわから・ない」「よんでわからな・い」。茲で、「よんで・わからない」と分けた時、「よんで」「わからない」はそれぞれ知つてゐる語彙と合致する、よつてこの分け方が正解であらう、さう推測する――それによつて、「よんでわからない」は「よんで・わからない」と云ふ音聲言語に正確に還元する事が初めて可能となる。が、今は二語だから比較的簡單です。これが三語、四語の組合せとなると、或は、幾つかのパターンがあり得る時、正確な音聲言語への還元は、知的に困難な作業となります。
かうした困難が「ある」にもかかはらず、和田さんは、「よんでわかる」と單純に言ひ、よつて「きいてわかる」と簡單に結論を下します。「だってさうでせう。とぼけないでください」と和田さんは言ふかも知れませんが、別にとぼけてはゐません、私は現實をありのまゝに、正確に述べたに過ぎません。
>なれているか、なれていないかだけのことでしょう。
「慣れ」と云ふ言ひ方で誤魔化しては行けないのです。「慣れ」と稱せられる人間の精神における現象を、我々は正確に把握する事が必要です。さうすると、和田さんが單純に仰る「慣れ」も、實は極めて複雜な現象である事が判ります。發音記號の羅列から音聲言語を復元する過程――それ自體が、既に言語として全體の意味を把握してゐる必要が「ある」事は、現象學的に觀察すれば、判ります。そして「慣れ」と云ふ言ひ方で、その「豫め全體の意味を把握してゐる事」は説明されてゐるのですが、さうした「把握」が何處まであり得るのか、また、何處まで信頼し得るのかは、疑問が殘ります。
>>ところで、和田さんは、「正しい事」は「人が決める事である」と御考へのやうですね。
>そうです。「猫」や「恐竜」や「神」がきめる、とおもっていません。
いや、和田さん、とぼけないで下さいよ。
「正しい事」は、「人が決める事」ではない、「人が勝手に決めて良い事」ではない――「決つてゐる事」だ、と、私は申し上げてゐるのです。
>人知おこえたところに「正しい事」があってもかまいません。
>ただそうおもうのわ「人」だとかんがえます。
思ふ思はないとは關係なしに「正しい事」は「ある」のです。
>わたしがきらいなのわ「ひとのきめごと」に「ただひとつのただしい」ものがあるというかんがえです。
それはあなたの好みの問題に過ぎません。あなたが嫌ふからと言つて、それは「間違ひである」と決める事は出來ません――と言ふより、あなたは今、「『ただ一つの正しいものはない』と云ふ事は正しい」と主張してゐるのですが、自家撞着です。
>ユークリッド幾何学がいくらただしくても、非ユークリッド幾何学もただしいのです。
その言ひ方は不正確です。
より一般的な非ユークリッド幾何學があり、特殊な條件下でユークリッド幾何學が成立する。それだけの話です。
>「標準化」とか「高い互換性」も、たったひとつの「規格」しかゆるされないということでわないでしょう。
しかし、言語に「規格」は「ある」のです。もし言語において一切の標準が存在しなかつたとしたら、我々は言葉に據つて相互に意志を傳達し合ふ事が出來ません。一面で社會的な取決めとしての(記號としての)語彙體系が「ある」事は否定出來ません。何んなに「社會的な取決め」を嫌つても、和田さんは既に社會的に「存在する」語彙の體系を用ゐてゐます。和田さんは既に「つくる/作る」「つかう/使ふ」「おもう/思ふ」と云ふ「社會的な取決めとしての語彙」を使つてゐます。そして、和田さんは、御自身の「つくる/作る」と云ふ語の意味と、野嵜やその他の人の「つくる/作る」と云ふ語の意味とが、一致してゐない事を期待してはいらつしやらないでせう。ならば、和田さんは、既に「つくる/作る」と云ふ語に「ひとつの規格」「一つの取決め」「標準的な意味」「互ひに通じる性質」が「ある」事を大前提に、文章を書いてゐるのです。
言語は、「通じる」「コミュニケート出來る」ものである限り、超個人的・社會的な性質を持ちます。そして、誰かが勝手な言葉を用ゐても「理解出來ない」ものです。傾向として或言語は、或「共同體」と云ふ「文脈」の下で、一貫した體系を持ちます。その時、その言語は、その「共同體」と云ふ「文脈」の下では「ただ一つの正しいもの」と「なります」。
x86で動くバイナリにはx86で動く爲の「正しい形式」が存在し、PowerPCで動くバイナリにはPowerPCで動く爲の「正しい形式」が存在します。その程度の「正しさ」は、和田さんにも認めていただかなければなりません。
>わかりません。かきたいようにかいてなにがいけないのか。
>ひたいに、あをすぢ(a wo su di)たてて「かかねばならない」とおもってかいたこともなし。
別に額に青筋を立てる必要はありません。ただ、表音的な書き方も出來るし、表語的な書き方も出來る状況で、表音的に「書きたい」と思つて撰擇する、その積極的な理由を知りたいだけです。
苺のショートケーキとチョコケーキとがあつて、漠然と「どつちから先に食べようか」と云ふ「問題」がある時、別に「食べたい方から食べる」と云ふのは「あり」でせう。
しかし、言葉を遣ふ事は意識的な行爲ですし、特に一般的でない表記を撰擇するのは意識的な撰擇である筈ですから、其處には積極的な理由が存在する筈です。その積極的な理由を知りたい。或は、和田さんがなぜ表語的な表記を避けてゐるのか、の理由。
>きいてわからないものが、よんでわからない。なにがいけないのでしょうか。
判らなければ困るでせう。
>おもいおつたえたかったら、ともにわかることばお、つかいなさい、というだけです。
表語的な表記であつたら、「ともにわかる」のです。その方が良いでせう。なぜ、わざわざ「判らない可能性が高くなる」表記を、和田さんはわざわざ撰擇するのでせうか。「判らないのは良い」と和田さんは思つてゐない、にもかかはらず、「判り難くなる表音的な表記」を和田さんは使つてゐる。その理窟が解らない。
>..........多分共通するのではないかと思ひます。
多分そうです。
以下意見不一致のところだけ。
>手書の場合には、「為」「来」「体」などの略體を用ゐることに何の疑問も持ちません
「為」「来」「体」は略体などではありません。楷書のただしいかたちです。
「体」は、あやまってかわざとかしりませんが、「體」の代用、あて字としてつかわれているだけです。
>しかし、從來「略字」であつたこれらの書體を「正字」に格上げして活字の世界にまで持込むことには反對なのです。
>コンピュータ・フォントを含む活字の世界では、
>これらは「爲」「來」「體」「區鳥外」と正しく表記されなければなりません。
「日本語のために」さんを明朝体至上主義者というのはこころぐるしい。
活字とは明朝体のことだというのは、まったくのあやまりです。楷・行・草・隷書/清朝/宋朝活字もあります。
戦争はおわり、DTP ではもはや金属は不要となりました。楷書フォント、清朝フォントもこれからは
さらに種類がふえることを期待しています。
「為」「来」「体」「鴎」も楷書フォント、清朝フォントでつかえば、「正字」ですし、
「当」も草書フォントでは「正字」です。
(ただし「鴎」は書家によっては「區鳥」とするかもしれません。)
そしてまともな楷書フォントなら「勅」「敕」は「来力」のかたちになります。
「体」と「體」はまったくの別字ですから、つかうひとの見識、知識によりつかいわけられるでしょう。
「日本語のために」さんが康煕字典体明朝体にこだわるのはなぜなのでしょうか。不思議でなりません。
この傾向は日本だけのようにおもいます。
参考 http://home.catv.ne.jp/rr/tosyokan/test.pdf
>現代人の多くが(区鳥)外を本來の表記で讀むことができなくなつたやうに、
>所謂擴張新字體しか知らない世代には、現代普通に流通してゐる本を讀むことすら困難になるに違ひありません。
これもおかしい。明治大正昭和初期のひとはたしかに旧字体を難なくよんできました。
「日本語のために」さんは昔のひとはみんな康煕字典体をそのまま、かいていたからだとでもおかんがえですか。
縦太垂直線、横細水平線、三角うろこなどの彫刻刀風味をまじめになぞっていたのは活字原字職人ぐらいでしょう。
何度でもいいます。むかしは草行楷書でいろいろかいていたのです。
「一点しんにょう」「ネ型しめすへん」「断」「当」「属」「数」「礼」これしか(さらにはくずしてでしか)
かいたことのないひとでも、かけない康煕字典体はよめた。
わるいのは新字体ではありません。たったひとつしかただしい字はないという思想です。
ほかの字体をみとめたり、まなんだりすることをさまたげる、これが原因です。
>しかし、朧などの字は今のところ(多分これから先も)「竜」を含む字體で統一を図る事は不可能です。
可能です。やるきがあるかないかだけのことです。実際、中華人民共和国でできています。
「襲」を「竜」+「衣」としておかしくみえるのは、なれていないからだけです。
「桧」「侭」「薮」もなれの問題です。
中国簡体字などもちだすなとはいわないでください。日本の漢字が清朝康煕帝の権威などにしたがうことはない、
というひとに反論できないでしょう。
簡体字は部分字形の統一という点では徹底しています。
参考 http://home.catv.ne.jp/rr/tosyokan/test2.pdf
>「当用漢字」の「體系」は、「過去全く使はれた事のない創作體系」である、と言へます。
康煕字典だって、宋・元・明の本つくりがつかってきた、さまざまな、てぼりむきのかざり文字のなかから、
みつくろってつくった(だれもつかっていないおおむかしの「篆書」おもとにして)「創作體系」とおもいます。
>「書いても良いから書く」と言ふのでは理由にならない事――これは御解りになりますよね?
わかりません。かきたいようにかいてなにがいけないのか。
ひたいに、あをすぢ(a wo su di)たてて「かかねばならない」とおもってかいたこともなし。
>個々の人がそれぞれ......その時、「文章が讀めない」「文章が理解出來ない」と云ふ結果が生じます。
きいてわからないものが、よんでわからない。なにがいけないのでしょうか。
おもいおつたえたかったら、ともにわかることばお、つかいなさい、というだけです。
>文章は、發音が傳はればそれで良いのではなく、.....
.....「表音的」な發音記號の列擧は「表語的」な假名遣に基いた表記に劣るのです。
きいてわかるものが、よんでわからない。これがさっぱりわたしにわ、わからない。
なれているか、なれていないかだけのことでしょう。
>ところで、和田さんは、「正しい事」は「人が決める事である」と御考へのやうですね。
そうです。「猫」や「恐竜」や「神」がきめる、とおもっていません。
>ところで私は、イデアとして「正しい事」も「ある」と考へますが如何でせうか。
人知おこえたところに「正しい事」があってもかまいません。
ただそうおもうのわ「人」だとかんがえます。
>また、「標準化」とか「高い互換性」とかは.......
>........それを和田さんは「劃一化」と言つて否定なさるのでせうか。
わたしがきらいなのわ「ひとのきめごと」に「ただひとつのただしい」ものがあるというかんがえです。
ユークリッド幾何学がいくらただしくても、非ユークリッド幾何学もただしいのです。
「標準化」とか「高い互換性」も、たったひとつの「規格」しかゆるされないということでわないでしょう。
Computer の世界でも Windows, Mac, UNIX etc それぞれすみわけてきました。
>其のやうな理由ではないぞ。
でわ、どういうわけですか? おしえてください。
>「表音的假名遣派」を自負するのならば、よく勉強しておくやうに。
まえにしるしたとおり、わたしわ、みなさんのおっしゃる「表音的假名遣派」でわありません。
いまのつかいかたでみちたりていますので、これからつとめて、かなづかいお、きわめようとわおもいません。
(「づかい」としたのわ、「du ka i」とわたしわ、くちにだしているし、ひとにもよんでもらいたいからです。)