波江が荒して來たので削除。
>人手で賑はふ神保町
たぶん「人出」とすべきではないかと。
> しかし、「どこか」とか「誰か」とかが頼みでは、云々。
技術力が伴はないのは申し訣ない。矢張り私が提示したレヴェルの出版は一人ぢや出来ない事ですしねえ。
さしたる内容も無いのに難解らしく糊塗してみせる頭の惡い人は論外ですが、文章をより平易に分りやすくといふ宗教が蔓延つてゐるでせう。ゲーテを讀んでもトルストイを讀んでもその文體がだいたい同じでいかにも平板である事は無氣味です。今、私は文體と云ひましたが、それは原文のそれを云云したいのでなく、譯する人の日本語の味はひといふ事を云ひたいのです。ゲーテがのりうつつたのならゲーテの日本語、トルストイならばトルストイの日本語、とかういふ事です。多少誤譯があらうが原文を負かしてしまへば好いではありませんか。とは云へ、それを盛り込む器が現代表記だと、いかにも力が弱いものとなつてしまつてゐると私は思ひます。私は趣味で小泉八雲の譯本を讀む者で書店で新しいものが出る度に目を通します。年年、御粗末なものになつてきてゐます。
しかし、「どこか」とか「誰か」とかが頼みでは、云々。
> うちは正字正假名遣でいきます!といふ出版社が現れてくれないか知ら。
出版社が云々と云ふお話が出てゐるから、少し私の考へを述べておきます。
私は、何処でもいいのですが何処かの出版社で、正字正かなで書かれた魅力的な書物が出版されれば、正字正かなの復権も可能性を帯びるのではないかと考へてゐます。さうですねえ、例へは良いのかどうか疑問ですが、支那の殆どの人民が持つてゐたと言はれるあの『毛語録』のやうな感じに日本国民の殆どが持つべき書物が正字正かなで書かれてゐる風に考へて頂けると判り易いかも知れません。さうなれば、世間も正字正かなに振向いて呉れるやうになると思ふのです。
問題は、どう云つた内容の書物であるのがベストなのかですが……、私には判りません。
些事ですが。
二十五日の日記の第二項の記事(なぜかこれだけ二十四日となってゐるけども)に、「ある訣仮名い。」となってます。それと、最後の項、「恰好」と「格好」が(引用は別にしても)不統一です。
『私の國語教室』の後記に「新潮社の社長佐藤亮一氏が、まづは賣れさうもないこの書物を、あるいはそのためかもしれませんが、國語問題協議會、その他の關係方面に、寄贈用として三百冊の寄附を申出てくださつたこと……」と書いてありますね。
野嵜さんは最近の日本語關聨の書物は讀まないと思ひますが、ひどいものですよ。云ふのにいうとルビがふつてあるんですから。兎に角僕は、かういふ馬鹿な出版方式を改めない限り、國字問題は先に進まない樣な氣がします。
闇黒日記のq要素、終了タグが省略されているようですがFirefox Beta 2だときちんと閉じられておらずが入れ子になってしまっています。
>うちは正字正假名遣でいきます!といふ出版社
多分、すぐに潰れますよ('A`)
初版部數三百部、定價が一册數萬圓、完全豫約販賣、とかならば何とかなるかも知れませんが。
うちは正字正假名遣でいきます!といふ出版社が現れてくれないか知ら。
そこで、充實した讀みものが、魂魂としてあれば、心ある讀書人は振向く筈。
自分が遣らうにも何をどうしたら良いのか見當が附けられず……。
取敢ず誤字の指摘だけ:
* 窘められ他にもかかはらず
* 何が『人を馬鹿にする事か」が
正統に就て、取分正字正假名に絡めての話でおすけれども、どうも私にはぼんやりとしか意識し得ません。それで以前にも申上げた通り、その道の專門科と成るべく近頃大學で勉強し出しましたけれども、肝腎の正統に就てはどの先生も「專門的に過ぎる事を言」うてばかりで教えてくれなさらぬ。或は知りなさらぬ。ひよつとすると流れて行く儘に流れるのが日本正統と思うてなさるのかも知れませんけれども、とにかく私は獨學でせねばなりません。而し我流では何から手着けて良いか知らず、彼ちを齧り此ちを齧りして非常に效率が惡うおはすし、所詮齧つた程度なので身に附きません。そこで先づ一つに絞つて學ばうと思ひますけれども何より始めるが良うございませうか。正統に就てならば國學からか、假名遣の原理を探るには言語學からか、契冲か橋本博士か。御智慧を拝借し度うございます。
>詰り日本の場合は「正しい伝統」とは何かを議論する事が非常に困難なような気がします。
日本にも、近代に國學が出現してゐます。正統の議論は、困難ではあるでせうが、可能でせう。それに、日本はGodを戴く西歐の文明を受容れたのだから、正統の議論をきちんとしておく事は重要だと思ひます。
氏の言い方だと給料を払っている社長(アメリカ)が一家の主だという事になる。
「國益」と「誇り」は好い加減言ふのをやめるべきだ。
一家の主が会社でヘイコラと頭を下げるのは家族を守るためだらう。
森氏の比喩を用ゐれば、家族(国民)を守れない者(守る意志を持たない者)を一家の主(国家)とは呼べないといふことになる。
日本は国民の生命・財産を守れない。だから一家の主とは言へない。アメリカが代はりに守つてくれるのなら、我々にとつての一家の主は日本国ではなくアメリカ国である。
家族を守れず(守る意志もなく)、ただヘイコラしてゐるだけの奴に威厳はない。
http://www8.plala.or.jp/Kusimitama/index.html
これを読むと「伝統だから重要だ」という事のみを繰り返していて空疎な感じがするのですが…。
伝統と一言で言っても悪しき伝統も良き伝統もあるはずじゃないかな?
その伝統が正統か異端かを判断するのは欧米のようなクリスト教の国では神という絶対的基準が想定され議論をする事が出来ますが日本のように絶対的基準が無い国ではどれが正統でどれが異端か解らないような気がします。詰り日本の場合は「正しい伝統」とは何かを議論する事が非常に困難なような気がします。
チラッと読みましたが喰う為とはいえアメリカべったりは日本の誇りが云々。
例えば一家の主が家族を喰わせていく為に会社でヘイコラと頭を下げるのを「威厳無し」と家族は言うであろうか?小便臭い餓鬼でなければ言える筈はない。こんな比喩でいいですか?
彼等(名前は忘れた)は政治(=喰っていく事)と道徳の関係を混乱して捉えていると思う。
野崎氏へ
『奇魂掲示板』の森は僕ではありません。
正假名遣を用ゐ個人的配信を續けて一年程になります。「自分は本當のところを知つてゐるんだぞ、傳統を死守してゐるんだぞ」といふ矜持が高慢な氣持を伴ふのならば、それは心の奧で、諦めてゐる事の顯れでせうね。分つてもらへる筈はないさ、といふ逃げ道を用意してゐる譯ですから。
私は初めこんな事をしてゐるのは誰もゐないだらうと、高慢の氣持でものを書いてゐた樣です。で、たまたま何か調べたい事があつて「歴史的假名遣」で檢索したら野嵜さんのサイトを見つけた次第です。正直、驚きました。なんだ、あつたのか思ひました。これは、腰を据ゑてやつてゐるなあと感心しました。一つ、これも驚いた事なんですが、正假名遣を推し進めようといふ者同士において、いろいろ議論があつたと云ふ事です。建設的に働かない事があつて、風通しの惡い思ひを野嵜さんはしたかもわかりませんね。
私も―歴史的假名遣が「殘存」してゐたり―字體の不統一な本を讀んだ事があります。
今適當な言葉を思ひつきませんが、その、あらためあらためする作業は、大變な勞力が入り用だつたのでせうね。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/QA/
↑「個別の問題について」の下の更新日時が「2008-08-20」になつてゐますが、タイプミスでせうか。
どうもありがたうございます。
句読点ですが(丸の方が句点です)、学校で習ふ「。」の形は、出版社では使用されない事が多いみたいです。学校の授業では先生に習つた通りに書いておいて良いと思ひます。出版社の新人賞等への応募原稿では、句点ぬきの形にしておく方が無難だと思ひます。
特に、どちらが絶対に正しいとか、どちらかは絶対に駄目とか、さういつた決り事はないので、文章自体が良ければどちらでも構はないと言へば構はないと言へます。
はじめまして。
サイトを拝見させて頂いてます。
原稿用紙の使い方を読ませて頂いて質問なのですが、
「」を使用した場合、最後の文に読点は必要なのでしょうか?
「そうです」がよいのか、
「そうです。」がよいのか・・・
作文では「。」の形を習ったのですが、小説では「」が多いように思います。
宜しければ教えていただけませんか?
サイト、更新をたのしみにしています。
ゆみ
道閑さん、御指摘ありがたうございます。「瓶」の部分は訂正しておきました。
「隸」は、「常用漢字表」に所謂康煕字典体の規定なし。『新字源』で「旧字」扱ひ、『字源』では「又、隷に作る」とされてゐますので、此方の説を採用します。
「鬪」については、「常用漢字表」には明かに未掲載の漢字になります。「常用漢字表」に掲載された所謂康煕字典体は、『新字源』で本字(〓)とされてゐる文字ですが、『字源』の見出し文字として採用されてをり、「鬪」は俗字とされてゐます。俗字(鬪)対正字(〓)の関係は其のまま、正字(鬪)対本字(〓)になるのです。同様の例として、「澁-澀」も挙げる事が出来ます。本字(〓)については「常用漢字表」の現物に当られる事を願ひます。
「飜」については、「常用漢字表」で所謂康煕字典体に規定されてある漢字です。併し乍ら、『新字源』では別体字、『字源』では別々に見出し字を立ててゐます。http://www.bunka.go.jp/kokugo/main.asp?fl=list&id=1000003929&clc=1000000068
>平頭通さん
異同を調べてみたところ、平頭通さんの表には「」が入つてゐますが、これは外字です。あとは、『常用字解』によると、「隷」は常用漢字の方が正字で、「鬪」も正字、「翻」と「飜」は別字扱ひといふことのやうです。
>CESさん
ついでであれですが、私のなどもCESさんと同じ年頃に(正確にはもうちよつと上でしたが)ここの記事を讀んで、『私の國語教室』を買つて、正字正かなに目覺めたものです。どちらも正字體がふんだんに使はれてゐて、讀み辛かつた記憶はありますが、それでも辭書等を驅使した記憶はありません。讀書百遍、意自づから通ずといふ言葉もあります。英語とかでもさうですが、讀めなければその部分はだいたい想像しながら讀み飛ばせばいいのであり、それでもなんとかなるものです。また、漢字が讀めたからといつて全て理解できるといふ訣でもありません。
まあ、そもそも何が惡いと言へば、「書き手」ではなくて、正字正かなを教へてくれなかつた教育のせゐでせう。古文や漢文は教へるのに、正字正かなは教へない。私たちが讀みにくいと言つても、おぢいちやんの世代であれば、普通に讀みこなせてゐたものです。おぢいちやんの世代には當り前に出來てゐたものを、孫の世代に出來なくするのが今の教育です。「糾弾」すべきは、「書き手」ではなくて、さういふ教育ではないですか。
>> 野嵜 様
> 「我々」=「正字正かな派」です。
了解いたしました。
「正字正かな派」であるというだけで責めることはありえません。
個人的に江洲様を責めてはおりましたが、それも、この書き込みを持って終結とさせていただきます。
>> 江洲 様
> 「正字が讀めない」程度のことを元にして書き手に讓歩を求める讀者であるCES氏が、「讀む爲の努力を行つてゐる」とどうしていへますか?
読む側の努力も必要だとは言っておりますが、それを怠っていたことも、過去の書き込みにおいては認めております。
> 特にCES氏は、「正字正假名遣ひには正當性があるといふ主張」に興味を持つて野嵜氏の文章に辿り着いた筈です。そのやうな主張をしてゐるのだから、文章が正字正假名で書かれてゐるのは當然でせう。
それとこれとは別問題でございます。
正当性があるという主張に興味はありますが、より多くの人に、平易に読んでもらうために、略字で書き続けるという選択肢もあると考えております。
> 逆に問ひ返しますが、「そのやうな事象以外の過度でない」ものを私が一々擧げるのは私とCES氏にとつて意義があると思へませんが、どうしてこのやうな質問を私にするのでせうか?
単純に知りたかっただけです。
辞書を引く程度で解決すると言われれば、確かにその通りではあります。
では、それを超えるどんな問題があるのか? という疑問を抱いたわけです。
最後に。
書き込み当初は「正字が読めない・読みにくい」ことを問題にしておりましたが、後半、それは具体例のひとつに過ぎず、姿勢を問題にしていたということを最後まで読み取っていただけなかった点が残念でなりません。
>私は、読み手の努力が不要だとは一言も言ってないということを再三に渡って書いているのですが、読み取っていただけなかったようで、大変残念です。
「正字が讀めない」程度のことを元にして書き手に讓歩を求める讀者であるCES氏が、「讀む爲の努力を行つてゐる」とどうしていへますか?解決手段として既に字引、或は、變換ゲートウエイがあるのに、書き手が煩はしい「對應表」など用意する必要がありますか。
CES氏はさういつた「對應表」らしきものがFAQにすら存在しないことを「不思議」だと述べてゐますが、私にしてみれば不思議だと考へることの方が餘程「不思議」です。
はつきりいつて、そのやうな態度の讀者が「本當に」文章を讀みたがつてゐるのか甚だ疑問です。特にCES氏は、「正字正假名遣ひには正當性があるといふ主張」に興味を持つて野嵜氏の文章に辿り着いた筈です。そのやうな主張をしてゐるのだから、文章が正字正假名で書かれてゐるのは當然でせう。「本當に」讀みたいのならば、讀めない漢字を字引で調べるくらゐの勞力は拂はれてゐるものです。しかもその勞力も難解な技術が必要なものではなく、小學生が學校で習ふ漢和辭書の扱ひを知つてゐればできるものです。にも關はらず、讀めないからといつて作者に難癖を付けるのは筋が違ひます。
どうにもその努力をしてゐる樣子も見せないCES氏が、「本當に」正字正假名遣ひに興味を持つたり、「本當に」野嵜氏の文章の文意を知らうと考へてゐるとは思へません。CES氏の動機は、「本當に」それらなのでせうかね?
脱線しますが、CES氏は「書き手」と「讀み手」が對等の立場であると考へてゐるやうですが、それも違ひます。或る領域では對等ですが、或る領域では「書き手」の立場が強く、別の或る領域では「讀み手」の立場が強い、さういふものです。しかし、CES氏は「讀み手」として最低限の努力すら怠つてゐるのですから、「怠惰な讀者」としてしか扱へません。
正直、このやうな怠惰な讀者の要望を認め續けていくと、對應表のやうな辭書代はりの何かしらを用意せねば文章を拵へることすらままならなくなりさうですが。そこまでして滿たされるのが「怠惰な讀者の滿足」くらゐなのですから、實行するだけ時間の無駄でせう。優秀な辭書の紹介文でも拵へた方が餘程増しです。いや、そんな價値の少い作業に使ふ勞力を、文章の校正にでも使つた方が遥かに有益でせう。
>どのようなものであれば過度でないのか、参考までにお聞かせ願えましたら幸いでございます。
「漢字が讀めない」「單語が判らない」程度の、「字引で調べろ」としか言ひ樣のないことを書き手に要求することは過度です。この議論ではそれで十分です。逆に問ひ返しますが、「そのやうな事象以外の過度でない」ものを私が一々擧げるのは私とCES氏にとつて意義があると思へませんが、どうしてこのやうな質問を私にするのでせうか?
>その認識を改めていただかない限り、平行線だと思いますので、であるならば、そろそろ話を打ち切りたいと考えますが、よろしいでしょうか?
ええ、私には全く意義がないので。
一往、叩き臺として、「詞の玉垣」に正字体漢字表をアップロードしておきました。「常用漢字」に対応する正字体の数が、何故か道閑さんのより少し多くなつてしまひました。
「我々」=「正字正かな派」です。
>> Coold 様
> CES氏と江洲氏が何を不足と考へていらつしやるのか、私には全く理解できません。
具体的に何が欠けていると言いたいのではなく、「書き手には何も問題はない」という姿勢を糾弾しております。
>> 野嵜 様
> 「我々」を責めてゐるのではないと。
いまひとつ、その文章の意味が掴めません。
正字正かなの論理的正当性や、それらを使うこと、それ自体は否定しておりません。
但し、「使い方」によっては、使う人を責める場合もございます。
「我々」の対象は、どのような人々になるのでしょうか。
> 取敢ずCESさんには「讀みたいけれども讀めないで困つてゐる漢字」を二、三、擧げて頂ければ、用語集なり何なりの形で記事を作ります。
了解です。後日、「言葉 言葉 言葉」内を一通り通読し、いくつかの漢字をリストアップして、またこちらで報告させていただきたいと思います。
> それでは「廣報活動」としてのウェブサイトが機能してゐない事になる訣で、一往「妥協」は「すべき」かと。
(レス対象が違って申し訳ないのですが)江洲様に申し上げたかったのはこれでございます。
自分しか読まない、あるいは、正字正かなを日常的に利用している人にしか読まれないことを想定した文章であれば構わないのですが、そうでない文章には、「多くの人に読まれることにより、存在価値が生まれる」物も少なくないと考えます(特に公の場に発表するものであれば)。
「そんなことはない」あるいは「自分の文章には、そんな些事よりも遥かに大切なことがある」というご意見であれば、これ以上申し上げることはございません。
CESさんは
>正字正かなを否定するものではありません。
と最初に御書きですので、「我々」を責めてゐるのではないと。
「讀めない」と言はれるのだから讀めないのでせうし、福田恆存も漢字については妥協出來るとしてゐる訣ですから、拘りません。取敢ずCESさんには「讀みたいけれども讀めないで困つてゐる漢字」を二、三、擧げて頂ければ、用語集なり何なりの形で記事を作ります。一人の人が讀めないのならばその何倍かの人が讀めないのでせうし、それでは「廣報活動」としてのウェブサイトが機能してゐない事になる訣で、一往「妥協」は「すべき」かと。
あと、他にいろいろうちのアレなサイトの改善提案がございましたら、どなたでも結構ですのでばんばん書込んで頂ければと。
>野嵜氏の文章は推敲がされてゐて、
實は「闇黒日記」の文章や掲示板の投稿の文章は、あんまり推敲してゐなかつたりする('A`) 誤變換とか脱漏とかが多いし。何かあつたら御指摘御待ちしてをります。
新字新假名でも、讀めたものでない文章を書く人はゐます。さういふ人は推敲をしないのです。野嵜氏の文章は推敲がされてゐて、充分讀みやすいものであると思ひます。これ以上の努力が必要とは思へません。
さうして、CES氏はこれから讀めない字に當つたとき、先に皆さんが示された對應表の類や辭書を使はれるのだらうと思ひます。確かに對應表の類はご自分で探されたはうが良かつたでせうし辭書はあつたはうがよいでせうが、辭書をお買ひになつたとのことですから、これ以上の努力が必要とは思へません。
筆者は推敲をしてをり、讀者は辭書を使つてゐる。CES氏と江洲氏が何を不足と考へていらつしやるのか、私には全く理解できません。
私は、読み手の努力が不要だとは一言も言ってないということを再三に渡って書いているのですが、読み取っていただけなかったようで、大変残念です。
> 「過度な要求」を受けつけないのが、どうして「歩み寄ろうとしない意識」になるのか。理解できません。
どのようなものであれば過度でないのか、参考までにお聞かせ願えましたら幸いでございます。
> 受け手であるCES氏は少しも「歩み寄る」姿勢を見せてゐないのに
その認識を改めていただかない限り、平行線だと思いますので、であるならば、そろそろ話を打ち切りたいと考えますが、よろしいでしょうか?
また私宛の分だけ
>>全くありませんよ。
>
>いいえ、問題がございます。「問題がない」という意識、歩み寄ろうとしない意識が問題でございます。
「過度な要求」を受けつけないのが、どうして「歩み寄ろうとしない意識」になるのか。理解できません。
>「書き手の努力」とは「略字を使う」ことのみではありません。
>具体的に何と言えば、例えば、野嵜様にお願いした正略対照表を用意することなどがあるでしょう。
>要は、読み手は読む努力をし、書き手は読み手が読めるよう(より多くの人に読んでもらえるよう)努力をすべきなのだと思います。
>コミュニケーションとはそういうものではないのでしょうか。
そんな面倒なことを送り手の側がしなくても、受け手が「字引を使ふ」ことで解消する問題でしかありません。CES氏はそれすら面倒さうだと考へて、字引よりも便利な方法を先に示しましたが、まだ不足ですか。受け手の最低限の努力で解決できる問題を、送り手に押し付けて過度な要求をするCES氏は、「コミュニケーション」といふものを我を通す道具か何かだと思つてゐませんか。
「双方が歩み寄るべき問題」とCES氏は述べてゐますが、受け手であるCES氏は少しも「歩み寄る」姿勢を見せてゐないのに、送り手の方には「歩み寄る」姿勢を求めてゐるわけです。CES氏は綺麗な言葉を使つてはゐますが、要求してゐるのは一方的な送り手の歩み寄りでしかありません。
馬鹿馬鹿しいのでこの段落から「讓歩」はやめます。結局のところCES氏は世間の大多數が正字を「讀めない」ことを理由に己の無知なり怠惰なり傲慢なりを正當化してゐるだけです。讀めない漢字は字引で調べる、そんな些細な行動を嫌がる爲に、書く側に讓歩を求めてゐるだけです。
無禮な話だと思はないのですか?そんな無知で怠惰で傲慢で無禮な態度をもつて文章を讀むCES氏は、一體それから何を得られるといふのですか?そして怠惰なCES氏のやうな讀者に對して、何かしらの配慮をする價値や意義が書き手にありますか?
>p4050-ipad06aobadori.miyagi.ocn.ne.jp
宮城か……變な子ゐたつけな
>さう云ふ眞似をする投稿者のリモートホストくらゐ晒しても良いだらうに
かういふ場合は少なくともIPは記録に残すべき事になつてゐまして:
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3ALog&type=delete&user=&page=%E8%A8%80%E8%91%89+%E8%A8%80%E8%91%89+%E8%A8%80%E8%91%89
取敢ず報告だけ。
http://d.hatena.ne.jp/kahusi/20051004#1128355367
時代劇は觀ません。
TVの時代劇『水戸黄門』などは好きですか?
Yahoo! JAPANの檢索、カテゴリ檢索からロボット檢索を優先するやうに仕樣變更。「言葉」で檢索すると、うちが一番に出て來る。
「闇黒日記」で檢索して遊んでゐたら、なつかしい記事を見附けた。
まず、一点訂正させていただきます。
>> (無題) 投稿者: CES 投稿日:10月 3日(月)16時59分11秒
誤:私は、最初の書き込みこそ「何が」を書いた「読めません」でありましたが、
正:私は、最初の書き込みこそ「何が」を欠いた「読めません」でありましたが、
>> 江洲 様
> 全くありませんよ。
いいえ、問題がございます。「問題がない」という意識、歩み寄ろうとしない意識が問題でございます。
私は「私に読めないから正字を使うな」とは申しておりません。
「書き手の努力」とは「略字を使う」ことのみではありません。
具体的に何と言えば、例えば、野嵜様にお願いした正略対照表を用意することなどがあるでしょう。
要は、読み手は読む努力をし、書き手は読み手が読めるよう(より多くの人に読んでもらえるよう)努力をすべきなのだと思います。
コミュニケーションとはそういうものではないのでしょうか。
> どちらが大事かといえば、一般には「送り手の信念」です。
どちらが大事かと言えばそうかもしれませんが、あちらを立てればこちらが立たずという問題ではありません。
双方が歩み寄るべき問題です。
> 怠惰な受け手であるCES氏にはこれがどれだけ「面倒」であるか、理解できてゐるでせうか?
いえ、全く。
> このやうな「面倒」に費やす時間や能力が本質的に無駄なものであることが、理解できてゐるでせうか?
> 「面倒」をやめて文章の正確さや論理性などの有意義な部分に費やすべきであることが、理解できてゐるでせうか?
一概にどうとは言えません。
文章の中身に注力することが、より多くの人に読んでもらうことにより生まれる価値を上回るのならば、それもよいのではないでしょうか。
私は、(論文のように、専門家などの限られた人間しか読まない、正確性が重視される文章を除いては)より多くの人間に読まれることにこそ価値があるケースも、決して少なくはなかろうと思います。
> 正直にいつて、CES氏の提言は怠惰な氏の都合に良いだけの、「過度な要求」でしかありません。怠惰を錦の御旗に見立てて、どうしてこのやうな傲慢な主張ができるのか、私には理解できません。
「読み手の努力は不要」とは一言も言っておりません。「書き手の努力も必要」と言っているだけです。
>> 野嵜 様
> 「漢字を讀めないのは耻づかしい事だとされてゐるがそれは如何なものか」と言つてゐまして、で、それを「良くない」とする立場から漢字廢止=表音主義の主張が出て來たと、さう云ふれきしてきじじつがあります。
事実があると仰るならば、事実に楯突くのは無意味ですから、それはおかしい、とは申しません。
ただ、漢字が読めないのが恥ずかしいことならば、読めるようになればいいだけであって、漢字廃止論に結びつくのは解せません。
なお、これは「正字を読めないことは恥ずかしくない」と矛盾しません。
> 良い機會ですので、よろしければ、具體的に、何處を何うすればサイトが良くなるか、教へて頂ければと存じます。
とりあえずの要望としては、正略対照表をわかりやすい所に置いて欲しいということは既に提言いたしました。
実現の望みは薄いということで、大変残念です(責めている訳ではございません)。
今後も、何か思うところがありましたら、こちらに書かせていただきたいと思います。
>> 平頭通 様
> 文学を読むやうな趣味をお持ちのお方ならば、正字正かなで書かれた文章も読むだけならば自然に身に附ける事は可能だらうと思ひます。
これまで、文学作品とは縁がありませんでしたが、それでも読むのは何とかなると思います。
難読漢字には読めないものもありますが、それは正字に限った話でもないのですし。
>> 渡名喜 様
了解いたしました。
しっくり来ないことまでお見通しの上であれば、何も申し上げることはございません。
今はただ、Amazon で注文した件の本が届くのを待つばかりです。
野嵜さん、わざわざ、どうもです。
>正字が広く公布された以降に書かれた作品に、優れた文学作品が無いかと言うと、そうとは言い切れないでしょう。
面白い文藝作品はありますが、文學と呼べるものはありません。私がさういふ立場である、といふ事です。CESさんは江洲さんが「怠惰」といふ言葉を持つて來た事に驚かれた事かと思ひます。私も一般の人には強く云ひませんが、少なくとも日本語に關心を持つてゐる方にならば、少なからずさういふ氣持はあります。特に文學に關つてゐる者で正假名遣を用ゐない人は信用する事が出來ません。CESさんが、ここでしつくり來ない氣持はよく分かります。私も現代仮名遣でものを書いてゐる頃はさうであつたのです。正假名遣でものを書く樣になつて初めて、日本語のいろいろな事が見えて來ました。個人的に汲み取つた事ですから具體的にどこかどうだといふ事は出來ない部分です。是非、正假名遣に慣れましたら、實際に書いてみて下さい。讀む事と書く作業は別ものですよ。私は小難しい事は人には勧めません。實際に正假名遣を用ゐてものを書いた時、日本語がこんなに面白いものであつたのかといふ事が體感出來る事を保證します。
> と言ふか、誰か漢字についての解説、書いて呉れないかな。最近は氣力がなくて、妥協して略字正かなで入力する手間すら惜しんでゐるので、解説なんて書く氣になれない。
野嵜さん、最近お忙しいのでせうか。略字で書く私が言ふのもなんですが、漢字については、「当用漢字」にせよ「常用漢字」にせよJISの文字セットにせよ言ひたい事は沢山あります。今、自前のサイトで、主張を展開する前の資料作りに努力してゐる処です。最近やつと文部省が発表した「標準漢字表」を電子テキスト化した処ですが、之、資料を探すのに苦労しましたよ。
どんな解説が御希望ですか。
CESさん
> と書かれたのを読んだとき、私は、そのような実務的な面で困ると言うことよりも、「日本語が変わってしまった」ことによる、もっと精神的な繋がりのことを指しているように感じられました。
詰り、説明の仕方の問題なのですね。抑々、文学を読むやうな趣味をお持ちのお方ならば、正字正かなで書かれた文章も読むだけならば自然に身に附ける事は可能だらうと思ひます。生活でしか文章の読書きをしなければ、殆ど正字正かなを遣ふ機会は無いのかも知れません。其れでも、現代人も読めるぐらゐにはしておいて頂きたいと思ふのです。そして、実務的な部分は仕方ないとしても、其れ以外の部分で、自分でも書いてみる努力をして貰ひたいのです。
> 正字を使うことが正しくないとは申しておりません。
諒解です。私は正字で書くべきだと思ふのですが、電子計算機の場合は、野嵜さんも仰られてゐる通り、環境により書き換つてしまふ事もあり得ます。なので、字形には拘らないやうにしてゐます。でも、正字を遣ふべき部分は正字を遣ふやうに心掛けてゐます。
>先程の書き込みで言わせていただきましたが、「読めないことは恥ずかしいことだ」という姿勢は正しいと認めることはできない、ということです。
昔々、表音主義者と呼ばれる人々がゐて、「漢字を讀めないのは耻づかしい事だとされてゐるがそれは如何なものか」と言つてゐまして、で、それを「良くない」とする立場から漢字廢止=表音主義の主張が出て來たと、さう云ふれきしてきじじつがあります。ですから、世間的には「漢字を讀めないのは耻づかしい事だ」と云ふ認識が一般にあるのかなと。何時の間にかそんな事はなくなつてゐるやうで、表音主義者の方々の活動の成果は擧つてゐるなあと。別にさう云ふ姿勢を野嵜がとると言つてゐる訣ではありません。
うちのウェブサイトの構造なり記述なりについて提言をして頂いた事はこれまで餘りありませんでした。良い機會ですので、よろしければ、具體的に、何處を何うすればサイトが良くなるか、教へて頂ければと存じます。
と言ふか、誰か漢字についての解説、書いて呉れないかな。最近は氣力がなくて、妥協して略字正かなで入力する手間すら惜しんでゐるので、解説なんて書く氣になれない。
敬稱を附けませんでした。失禮いたしました。申し訣ありません。
返答を私の分だけ。
>「受け手」という言葉がございますが、文章には「書き手」と「受け手(読み手)」の2者がおり、2者間で通じて、初めて文としての価値を成すものであります。
>読み手としての努力を怠っていることは否定できませんが、書き手には全く問題はないのだろうかと問いかけたい気持ちでございます。
全くありませんよ。
私は「正字を用ゐるのが正式かつ論理的である」と考へてをりますが、さう主張するのならば正字以外の漢字を使へません。勿論、受け手の便宜を考へて正字以外の漢字を送り手が使ふのも方便ではありませう。が、その方便によつて己の文章が主張と矛盾が生じます。送り手の信念が受け手の都合に反する場合に、どう調整するかといふ問題に過ぎなくなります。
どちらが大事かといえば、一般には「送り手の信念」です。
異論はあるでせう。私も「仕事」では正字正かなを使つてゐません。しかし「仕事」は表記を論ふ場ではありませんし、目的も表記問題ではありません。WEBでは己の主張を述べる場としてをり、表記は重大な問題の一つであると考へてをります。前者はともかく、後者で便宜を信念に優先させることはできません。
さて、ここまで「正字と異なる字形が流通してゐる漢字」を排除して文章を拵へてをりますが、怠惰な受け手であるCES氏にはこれがどれだけ「面倒」であるか、理解できてゐるでせうか?このやうな「面倒」に費やす時間や能力が本質的に無駄なものであることが、理解できてゐるでせうか?「面倒」をやめて文章の正確さや論理性などの有意義な部分に費やすべきであることが、理解できてゐるでせうか?
正直にいつて、CES氏の提言は怠惰な氏の都合に良いだけの、「過度な要求」でしかありません。怠惰を錦の御旗に見立てて、どうしてこのやうな傲慢な主張ができるのか、私には理解できません。怠惰で傲慢な態度をもつて他人の文章に目を通したところで、何か得られるものがあるのでせうかね?不思議に思ひます。
>> 平頭通 様
> 一度戦前の事を調べるやうな状況が発生した場合にはどうなるでせうか。
> 「絶たれて困ったこともありませんでした」と言へるのは、偶々さう云ふ事態に陥らなかつただけと云ふ結果になります。
なるほど、と思います。
ただ、最初に渡名喜様が
> 先人達との行き交ひを斷たれてしまつた
と書かれたのを読んだとき、私は、そのような実務的な面で困ると言うことよりも、「日本語が変わってしまった」ことによる、もっと精神的な繋がりのことを指しているように感じられました。
> 読むのは正しくて書くのは正しくない言葉などあり得るのでせうか。
正字を使うことが正しくないとは申しておりません。
先程の書き込みで言わせていただきましたが、「読めないことは恥ずかしいことだ」という姿勢は正しいと認めることはできない、ということです。
Q&Aにも、度々「押し付け」について書かれておりますが、それでも、野嵜様がそのような発言をなされたことは事実でありますので、書かせていただいた次第でございます。
>> 野嵜 様
> 歴史は繰返されると言ふか何と言ふか同じ話題許りが何度も何度も云々。
というのは、私の書き込みに対するコメントでしょうか?
正字正かなを使うことについて、反発もあり、回答には辟易されておられるのかもしれません。
ただ、野嵜様は
> 「漢字が讀めない」のつて「耻づかしい」事ではなかつたのかと。
と書かれておられます。
私は、最初の書き込みこそ「何が」を書いた「読めません」でありましたが、その後の書き込みにおいて、いくつかの難読漢字が読めないと訂正しております。
それを読まれた上で、このような発言をなさると言うことは、「正字が読めないことは恥ずかしいことだ」と解釈せざるを得ません。
正字を使うことの正否は(注文した本が届いていないため、判断基準がありませんので)問いませんが、そのような認識は問題であろうと提言させていただいたのです。
>> 渡名喜 様
> CESさんが、明治大正昭和初期頃の作家で好きな人があつて、むろん現代假名遣では讀まれてゐるでせうが、
残念ながら、略字でもほとんど読んだことはありません。
機会がありましたら、同じ作品を正字と略字で読み比べてみたいと思います。
ただ、
> 文學といふ事で限定しますと、私は現代假名遣の作品は文藝かも分かりませんけれども文學としては認めないといふ立場を取ります。
それはどうなのだろうと思います。
本来、正字で書かれたものを、略字に書き改めて出版しているものからは、その機微が抜け落ちてしまっているかもしれません。
しかし、正字が広く公布された以降に書かれた作品に、優れた文学作品が無いかと言うと、そうとは言い切れないでしょう(じゃあ挙げてみろと言われると、どういう作品があるのか知らないので困窮してしまうのですが)。
正字でなければ文学作品は書けないという事はないのではないかと思います。
>> 義珍 様
> 「家に辞書を備へて置くのは女の嗜み」といふ常識があるとか?
そうではありません。
ただ、20代の男が一人暮らしを始めるにあたって、まず辞書を買うのは常識かと言うと、買わない人間も少なくないのではないかと思います。
持っていなくても仕方ない環境のひとつとして、私の例を挙げさせていただきました。
私の示した本を早速購入されたやうですね。読んでみてから御意見を頂けるとありがたいです。
「絶たれて困ったこともありませんでした」と云ふお話ですが、現状としては「常用漢字」「現代仮名遣い」が全盛の状態ですので、日常生活をする上では其れだけわかつてゐれば問題のないのは当然です。又、御叮嚀にも一部の「当用漢字」制定以前の書物ですら、書換へがなされてゐる状況でもありますから、尚更「困ったこと」が起り辛いのでせう。
併し乍ら、一度戦前の事を調べるやうな状況が発生した場合にはどうなるでせうか。「常用漢字」「現代仮名遣い」で書かれてゐる書物の場合は二次資料以下ですから用をなしませんし、書換へられた書物も量的には高が知れてゐます。どうしたつて、正字正かなを理解せねば、当時の書物を読み解く事は出来ない訣です。ならば、「絶たれて困ったこともありませんでした」と言へるのは、偶々さう云ふ事態に陥らなかつただけと云ふ結果になります。
> 「正字正かなの表記体系的正当性」には疑問を抱くところはありませんが「それを使うことが正しいこと」かどうかは、また分けて考えるべき問題でありましょう。
上記に示した通り、当時の書物が残されてゐる以上は、其れを読むと云ふ形で使ふ事はあり得ます。読むのは正しくて書くのは正しくない言葉などあり得るのでせうか。
> 納得すれば、私も是非正字正かなを使いたいと思います。
私は、CESさんの此の発言に期待してゐます。茲に来てゐる正字正かなを遣ふ人達は、多かれ少かれ色々な場所で謂れの無い非難に晒されたり叩かれたりしてゐると思ひます。批判的な書込みも多少は割引いて読んでやつて下さい。
> 男で、一人暮らしを始めて2年目になります。
これは批判とか非難とかではなく、素朴な疑問といふやつなんですが、性別が何か関係あるのでせうか。
自分が知らないだけで、「家に辞書を備へて置くのは女の嗜み」といふ常識があるとか?
過去に正假名遣によつて書かれた作品を現代假名遣に變へる事は好くないどころか、してはいけない事だと思ふのです。CESさんが、明治大正昭和初期頃の作家で好きな人があつて、むろん現代假名遣では讀まれてゐるでせうが、その作家の書いた元の作品を是非どこかで探して讀んで見て下さい。味はつて見て下さい。たかが假名遣の違ひだらうと思ふかも知れませんが、現代假名遣では、日本語の微妙なところ、つまり作者のの微妙な動き、文學作品の粹が殺されてあります。私も現代假名遣にどつぷり漬かつてゐた者です。でありますから、さうと氣附けば何か美味しいものを餘所へ持つていかれた樣で殘念でならないのです。いえ殘念といふより、こはいです。こはいといふのは、目に見えない氣附かない處で、假名遣を變へた事の影響があるといふ事です。今私は日本の文化といふ廣い意味でいつてゐます。言葉遣ひといふものは活動に直結してゐるものです。文學といふ事で限定しますと、私は現代假名遣の作品は文藝かも分かりませんけれども文學としては認めないといふ立場を取ります。ですが何から何まで正統表記に還らうよといふのではありません。携帶のメールなどは、或る特定の人を除いては、マナーとして私は現代假名遣を用ゐます。メモ書きの傳言ならば略字のはうが機能的でせう。兎に角、一つ大きな幹があればいいがなあと思ふのです。正式な文書、文學作品を自認するのであるのならば正統表記に據るといふやうな。
>そのような一般的な国語辞典でも足りるのですか。
國語辭典の後ろの方にある附録で足ります。―旧来用いられていた明朝体の活字体(いわゆる旧字体)については「常用漢字表」に示されている限り、( )に括って、下に付記した―とあります。しかし辨辯瓣(弁)などの説明はありませんから漢和辭典は是非必要です。
野嵜さん有難う御座います。私の無知から來る事でした。環境といふ言葉は不適切でしたね。
渡名喜さんの件、環境云々が問題ではなくて、InternetExplorer6がデフォルトで「大きい畫像を縮小して表示する」事を渡名喜が御存じない、と云ふ事であらうと推測します。マウスオーヴァで擴大ボタンが出て來るのでそれを押せば本來のサイズに表示が戻ります。
新舊字體對照の件、過去に論爭をやりまして、漢字とか文字コードとかの「專門」の人から、テキストで對照表を作るのはナンセンスであると指摘された事があります。
JISの文字セットの例示字體は、所詮例示であり、拘束力がないので、Aの環境で正字體に見えてゐても、同じ文字が、Bの環境では新字體に見えてゐる、或はその逆、と云つた事態は起り得ます。また、「包攝」の概念が中途半端に使はれてゐて、JISの文字セットの例示字體ですら、正字體がなく、新字體のみが示されてゐる、と云ふケースもあります。
テキストベースで文字の字體の話をするのは不可能であると「專門」の人から散々言はれたものです。
歴史は繰返されると言ふか何と言ふか同じ話題許りが何度も何度も云々。波江が嗤ふのも道理と言へば道理。その波江も相變らず「いろは」「いろは」と同じ事を繰返してばつかりで、他人の事を言へたものではないのですが本人に自覺ナシ。最近はますます症状が惡化してゐる模樣。
> 權利關係で云々。
難しいのですね…
> 辭書くらゐ何處の家にも「ある」ものだと思つてゐたけれども
男で、一人暮らしを始めて2年目になります。
実家に帰ればありますが、我が家にはまだ買っておりませんでした。
じゃあ、今まで、わからない言葉があったらどうしてたんだと申しますと、まずぐぐっておりました。
また、国語辞典は MSN や goo 等が提供しているものを利用しておりました。
Web 上で、正略変換を行ってくれるサイトがあることは存じませんでしたし、Web 漢和辞典もひょっとしたらあるのかもしれませんが、利用したことはありませんでした。
> 「讀めないのは正しい、讀めない字を書く方が惡い」
正字に関しては、「読めないのが正しい」とまでは行かないにしても、「(読めなくても大抵の場合困らないので)読めなくても良い」ということではなかろうかと。
> わざわざ新しい漢字を拵へた結果「讀めなくなつた」といふ事でせう。先人達との行き交ひを斷たれてしまつた、といつても過言ではない筈です。
略字にどっぷり慣れ親しんだ立場からは、いまひとつしっくり来ないものを感じます。
やっぱり、正字がどれだけ正しく、略字がどれだけ不当であろうとも、日常生活において何ら困るところがないためでしょうか。
「漢字が読めない」のは恥ずかしいことだけれど、「正字が読めない」のは別に恥ずかしいことではない。
「先人達との行き交い」なんて言ってみても、少なくともこれまで(22年という短い時間ですが)生きてきて、行き交いを意識したことはありませんでしたし、絶たれて困ったこともありませんでした。
「正字正かなの表記体系的正当性」には疑問を抱くところはありませんが「それを使うことが正しいこと」かどうかは、また分けて考えるべき問題でありましょう。
「どんな環境なのでせうか」といはれますと、ちよつと何といつていいか困つてしまひました。印刷いたしますと、文字は大きく綺麗に出て來たのですが、全體が捉へきれない樣です、といふやうな環境です。
しかし、「讀めない」といふより、わざわざ新しい漢字を拵へた結果「讀めなくなつた」といふ事でせう。先人達との行き交ひを斷たれてしまつた、といつても過言ではない筈です。
基本的にうちは假名遣ひがメインのサイトで、漢字については「ご近所」に任せてゐる積りなのですが。
>私のパソコン環境では「新舊字體對照表」が大變小さく又かすれてしまつて讀めない状態です。
どんな環境なのでせうか。
>かういふ場合正直言って畫像では殆ど役に立ちませんよ。
まあ「かういふ場合」にはさうでせうけれども、文字セットとか文字コードとかの關係で正字體がまともにウェブブラウザで表示される保證がないから畫像にせざるを得ない面もあるのですよ。
>もう少し見つけやすい(トップに近い)位置に置いていただけると
權利關係で云々。
と言ふか、普通の人つて漢和辭典を持つてゐないものなのですか? 辭書くらゐ何處の家にも「ある」ものだと思つてゐたけれども。讀めない文字とか、意味の判らない言葉とかに出くはしたら、普通は辭書を引くものだと思つてゐたのだけれども。
「漢字が讀めない」のつて「耻づかしい」事ではなかつたのかと。なんか今は、「讀めないのは正しい、讀めない字を書く方が惡い」みたいな觀念が一般化してゐる?
>> 野嵜 様
> 實はもう何年も前からあつたりする。
失礼いたしました。探し方が足りなかったようです。
ただ、希望を言わせていただくならば、もう少し見つけやすい(トップに近い)位置に置いていただけるとありがたく存じます。
>> 渡名喜 様
無視してくださいと書くくらいなら書かなければいいのに…と思ってしまいました。
> 『新潮国語辞典』の附録の「常用漢字音訓表」でも簡單に檢べる事が出來ますよ
そのような一般的な国語辞典でも足りるのですか。
Amazon で(『学校では教えてくれない日本語の秘密』と一緒に)評判が良かった漢和辞典を手配しましたので、届くのを待っています。
>> もりやまひろし 様
ありがとうございます。後ほど見てみます。
>>答えとしては、すべての正略対応リストとは行かないまでも、一部の難読漢字リスト作っていただけると幸いに存じます。
>
>實はもう何年も前からあつたりする。
>
>http://noz.hp.infoseek.co.jp/kokugo/
かういふ場合正直言って畫像では殆ど役に立ちませんよ。矢張り電子化されてゐないと。私は以下のリソースをCESさんに御勸めします(URL順)。
* 讀むための正字分類表
* クイック正漢字
* 新旧字表
* 「同音の漢字による書きかえ」逆変換
* 日本新聞協会の、同音の漢字による書きかえ
コンピュータ上での「正字」ならば、コピーアンドペーストして上記のやうな文書からブラウザの「ページ内檢索」で探したり、或いはオンラインの漢字辭典で引いたりする事が出來ますので、讀み程度ならばかなり簡單に調べられます。私もCESさん同樣、以前は正字が「讀めない」くちでしたが、今では難なく讀めるやうになりました。正字は、教へられてゐないから「讀めない」だけで、覺えようとすれば決して難しいものではありません。せっかく正統表記に興味をもたれたのでしたら、是非、リンク先等を參考に正字にも挑戰してみて下さい。
野嵜さんへ。
私のパソコン環境では「新舊字體對照表」が大變小さく又かすれてしまつて讀めない状態です。おそらく私の側で手立てを講じれば讀める状態になるだらうとは思ひますので、よつてこの苦情は無視して下さい。
CESさんへ。
當リ前ですが私も知らない文字は讀めませんでした。
私は大漢和辭典の「當用漢字表」にあたつて一字一字をみていつたものです。すると姿の變へられた文字の一覽はほぼ一枚の紙に收まりました。そのうちでも廳(庁)などの難解な字は極めて少數です。『新潮国語辞典』の附録の「常用漢字音訓表」でも簡單に檢べる事が出來ますよ。
>答えとしては、すべての正略対応リストとは行かないまでも、一部の難読漢字リスト作っていただけると幸いに存じます。
實はもう何年も前からあつたりする。
普段から、正字正仮名に親しんでいない者が、このサイトを拝見したとき、まず第一印象は「何が書いてあるのかわからない」であろうかと思います。
それから、落ち着いて文章を追ってみれば、自信はなくとも、なんとなく読める部分が多かろうと思います。
そうして読み始めてみますと、まず「國語國字問題解説」が目に付きます。
これをクリックしますと、最初のコンテンツとして「國字問題Q&A」がございます。
従って、まず最初にここから読んでみようというケースは少なからずあろうかと思います。
要望としては、この FAQ の、比較的序盤の位置に、いくつかの難読漢字の正略対応表を設けていただきたい、というところでございます。
具体的に、どの文字が読みにくいかということにつきましては、ご希望とあらば、別途調査させていただく所存でございます。
沢山のレス、ありがとうございます。
まとめて返信させていただきます。
>> 渡名喜 様
> 正假名遣は讀めない事はありません。正字が讀めないといふ事だらうと考へます。
左様でございます。
> 何となく讀めるのではありませんか。
渡名喜 様の書き込みは、一文字を除き、何となく読むことはできました。
「舊(旧)」だけは、教えていただくまで、さっぱりわかりませんでした。
また、正字と略字で形が似ているものはわかりますが、「禮(礼)」のように、大きく形が違うものも、読みにくいと思います。
>> 江洲 様
> 正字を略字に置き換へてくれるプログラムを利用すると良いでせう。
そのようなものがあるとは存じませんでした。
> かういふ受け手の都合ばかり主張して文意を知らうとする努力もしない姿勢はどうかと思ひます。
「受け手」という言葉がございますが、文章には「書き手」と「受け手(読み手)」の2者がおり、2者間で通じて、初めて文としての価値を成すものであります。
読み手としての努力を怠っていることは否定できませんが、書き手には全く問題はないのだろうかと問いかけたい気持ちでございます。
>> Coold 様
> 本當に「読めない」訣ではないでせう。
> CESさんも「読めない」ときは辭書に頼つて良いのではありませんか?
もちろん、一文字も読めない訳ではございません。
略字体と似た形をしているものや、略字(と正字で同じ形の文字)を含む熟語、前後の文脈等から、大部分をなんとなく読み取ることは可能でございます。
しかし、文字だけ見れば「訣」「辭」等は、対応する略字がわかりませんし、前後の文脈を見てもわからない字もございます。
これらに対応するには、やはり漢和辞典を手元に一冊置いておくべきでしょうかね。
>> 平頭通 様
> 以下の書籍を読んでみられる事をお薦めします
有難うございます。早速探してみようと思います。
>> 野嵜 様
> CESさんは、何が「讀めない」のでせうか。
すべてが読めない訳ではございませんが、全体的に読みにくいのは確かでございます。
また、前後の文脈等から推測しても、どうやっても読めない文字も時折ございます。
> FAQにふさはしいQuestionの形で表現していただけないでせうか。
質問形で表現せよと言われると難しいのですが、敢えて言えば「読めない文字があるのですが、読み方を教えていただけないでしょうか?」ということになろうかと思います。
答えとしては、すべての正略対応リストとは行かないまでも、一部の難読漢字リスト作っていただけると幸いに存じます。