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掲示板ログ(2006-01)

言葉 言葉 言葉 掲示板


見舞  投稿者: 塗炭  投稿日: 1月31日(火)01時26分8秒 ntoska019215.oska.nt.isdn.ppp.infoweb.ne.jp
快復を願っております。ご自愛下さい。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月24日(火)21時10分8秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
早速訂正しました。何うも有難うございます。

(無題)  投稿者: 山田  投稿日: 1月24日(火)21時00分13秒 FLH1Add046.stm.mesh.ad.jp
失礼します。

「國字問題Q&A」(http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/QA/)の冒頭にある
dl要素の開始タグと終了タグが欠落しています。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月24日(火)20時55分36秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
繰返しますが、条域には以下の二つの事に囘答して貰へればと思ふ。

・条域は民主主義・自由主義を認めるのか認めないのか。
・条域は、誰かが「迷惑と思ふ」事を、どのやうにして「判る」事が出來る(出來た)のか。

ほかの論點は放つておいて構はない。この二點だけ先づはつきりして貰ひたい。この二點がはつきりしなければ、話が出來ない。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月24日(火)20時23分50秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
>どれへの反論だかよくわからないのですが、「辞書」の話?
だったら「学問的な思考」「学問的な方法」に基づいて「検討」した結果なぜ「辞書の定義を持ち出されても困る」となるのかと聞きたいです。
>辞書を繰ることは「学問的な方法」じゃないんですかね。その内容を「検討」すればいいんじゃないですか。

条域は辭書の定義をそのまゝ受容れてしまつてゐる。だから問題だと言つてゐる。

>じゃあ逆に聞きますが、誹謗中傷もしていいの?

誹謗中傷して良い訣がない。

>ある意味「野嵜はアニヲタ」系の、どっかのタチの悪い批判―むしろ、誹謗中傷といったほうが適切かもしれませんが―だって、アドバイスでしょう。

それは「ある意味アドヴァイス」でしかない――即ち、アドヴァイスではない。
ただ事實を擧げて罵つてゐるだけならば、それは相手の名譽を毀損してゐるに過ぎない。

>「聞入れられない可能性」もあるが、「良くなる可能性がある」からと、あなたに誹謗中傷を行う人がいるかもしれません。あなたはそれが「一般に認められてる」と言うのでしょうか?

公益性が無いならばそれは批判ではない。

>「たひ」「をひ」だのの言葉遣いが世間に害惡を及ぼす理由がわからない。

福田恆存が言つてゐるが、誤用を誤用と思はない風潮が生ずる事、それ自體が問題なのだ。

>>公共の場で誤つた事をおほつぴらに言ふのは惡い事です。
>
>何故悪いこと?

當り前の事だらうに。どうして誤つた事をおほつぴらに言つて良いんだよ。

と言ふか、言ひたければ勝手に言へば良いが、それを叩かれても文句を言はない事だ。叩かれたくなければ誤つた事を言はなければ良い。
好き勝手言ふ、批判は許さない――それは自分勝手と言ふものだ。

>>「しなくても良いこと」≠「してはならないこと」が「しなくても良いこと」=「してはならないこと」に化けてゐる。条域の言つてゐる事は明かに矛盾してゐる。自分の言つてゐる事が矛盾してゐる事を自覺できないのだから条域は頭が惡い。
>
>「頭が悪い」と言って説明しようともしないあなたに言われたくないなぁ。
というか最初に「現実の言論に対する批判が必要」だから「批判はOK」と勘違いした野嵜さんが悪い。

こちらは既に説明してゐるのに「説明しようともしない」と言つてゐる。とぼけるのも好い加減にして呉れよ。

それに、ウェブは言論の場であり、言論の場では批判が行はれるのは當り前。批判を行ふのが許されないのは共産圈とかファシズムの國とかだ。
批判を行ふ爲に民主主義の國では言論の自由が認められてゐる。だから言論の場では批判をやつて良い――と言ふより、日本は餘りにも批判が少いから、ばんばんやるべきなんだよ。

互ひに批判し合つてやつて行かうと、さう云ふ事で日本人は民主主義を採用し、民主的な國家の體制を作つてゐるのだから、言論活動は自由であり、自由な討議は社會的に「正しい」のであり、當然、批判はOKなのであつて、条域のやうに「批判はNG」と考へる事が勘違ひ――だが、条域が自由主義・民主主義を根本的に否定する立場の人間であるならば話は別。

俺は今、「条域と俺とで認識が或點では一致してゐる」と云ふ前提で話をしてゐる。即ち「俺もお前も自由主義・民主主義を認めてゐるだらう」と。「ならば」と云ふ事で俺は説明をしてゐる。「ならば、言論の自由も認めるだらう」「言論の自由を認めるならば、或言論に對して反論する自由も認めるだらう」。
ところが、条域が俺と違つて「自由主義・民主主義を認めてゐない、日本國の體制を認めてゐない」と、さう言ふのであるならば、話を始める大前提が存在しない事になる。条域が「自由主義を認めない、民主主義を認めない」と云ふ事であれば、當然の事ながら条域は「自由な言論を認めないし、言論に於る批判の自由も認めない」と云ふ事になる。それが當り前。

何度も質問するが、条域は民主主義に反對なのか? 条域はファシストですか。コミュニストですか。はつきり答へて貰ひたい。条域の立場は何ですか。そこをはつきりして貰はないと、話が出來ない。俺は条域も「自由主義・民主主義を認める普通の日本人である」と看做して話をしてゐる訣だから。
根本的に立場が違ふのなら、そこからして先づ説得にかからなければならない。だから尋ねる、条域の立場は何ですか。

>"ぼくは「現実の言論に対する批判」に「必要なこと」などないと思っている。"の部分では、僕は「あなたのやってきた批判はすべて不要だったということになりますよ」という意見に答えるために「僕は、必要じゃないと思っている」と言ったのです。
>積極的な批判をする際には積極的な根拠が必要ですが、消極的な反論をする際には積極的な根拠は不要です。

それなら、条域に批判されて「消極的に反論してゐる」俺こそ、積極的な根據は不要だらう。或は、「たひ」と積極的に言つてゐる人がゐて、それに「消極的に反論してゐる」俺には、積極的な根據等不要だ、と云ふ事になるだらう。

条域は積極的に俺を非難して來たのだから、最初に「積極的に野嵜を非難すべき理由」を擧げるべきだ。

>「迷惑」の定義が違うようだが僕は「ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること」という辞書の定義に従っただけですし。
>というか、辞書の定義を持ち出さなくても「僕も野嵜さんに迷惑かけてますものね」の部分からこっちの定義くらいわかりそうなものだが。

迷惑をかけるのがいけない事なら、条域は最初から俺を非難しなければ良いだらう。なぜ条域は、自分が禁止してゐる「迷惑行爲」を、自らは率先して行つてゐるんだ?

>だから、じゃあ「アニヲタ」系の批判もありですか?

「だから、じゃあ」の意味が解らない。なんか因果關係があるの?

>「迷惑」というのは指摘されたものが不愉快な思いをすれば「迷惑」には違いないのであり、それは「迷惑行為が悪か」とは別次元の問題。

条域のしてゐる行爲は迷惑だ――と、さう俺が「思ふ」から「自分の行爲は迷惑行爲である」と条域は言ふ訣だ。しかしどうして条域は俺の思ふ事が判るのだらう。

条域は、どのやうな方法に據つて「野嵜の思ふ事を判る」事が出來るのですか。条域は「他人が思ふ事を直接判る事が出來る」のですか。今囘、野嵜の頭から電波でも飛んで來ましたか。さうではないですか。それならば条域はどのやうな方法で他人の「思ふ事」を「判る」事が出來ますか。その方法は、条域だけが「判る」事ですか。それとも一般の人が客觀的に「判る」事が出來るものですか。
説明して下さい。「判るに決つてゐる」式の説明は認められません。きちんと説明して下さい。
条域は他人の「思ふ事」を、どのやうにして「判る」事が出來ると言ふのですか。

と言ふか。

> 「悪いことをしていない人間に批判によって迷惑をかけること」が駄目なのです。

「駄目」と「惡い事」とは違ふ、と、さう云ふ事らしい。条域の用語は訣がわからない。

>>条域は野嵜の「たひ」の話と「HTML試験場」の記法とが「野嵜の立場から言つて矛盾する」と云ふ論法を使つてゐた。この論法と、「迷惑」云々とは、原理的に一貫しない。「野嵜は間違つてゐる」と云ふ「結論」が同じであるだけだ。
>
>一貫しなくちゃ駄目ですか。あまりつながってはいませんが矛盾はしてないでしょう。

一貫してゐなければ駄目。
なぜなら、既に述べた通り、「野嵜は惡人」と云ふ結論でだけ「繋がつてゐる」ならば、条域は野嵜を惡人に「する」目的で行當りばつたりに野嵜に言掛かりをつけてゐるに過ぎない事になるからだ。因縁を附けて強請つてゐるやくざのやうなものだ。惡いに決つてゐる。

>批判された側にとっては迷惑、という話であり、それが批判した側にも「もっともな理由である」と思ってもらえるとは限らないということを、あらかじめ承知の上で。
>
>批判に反論するときは、批判された側からしてみれば「自分と違う意見のやつをわざわざ説得してやらなきゃならない」わけで、それは批判される側の不利益であり、不利益を被ったとき、それは「迷惑」と呼ぶことができます。
>
>ちなみに「その人が迷惑と思へば迷惑なんだ」と言うのは、正しいです。だからといって僕は「ある人が迷惑をかけられたから、迷惑をかけたほうは悪人だ」と断定しているわけではありません。
>
>「僕も野嵜さんに迷惑かけてます」ともう一度言っておきます。

????
では、「道徳的な意味で正しくない」とか言つたのは何?

と言ふか、「迷惑と言つたら御互ひ樣」で話は終るだらう。
「いや、それでも野嵜は惡いんだ」と条域が言ひたいなら、条域は積極的に「野嵜は惡人である」所以を説明しなければならない。

>「中傷である」とは言わないが、「あなたの論理が正しいならば、根拠のない中傷もやっていいことになる」とは言います。

ならない。どうして「なる」のだらう。批評には批評のルールがある。

>"全ての中傷が、常に必然的によい結果を生ずるとは言えず、「聞入れられない可能性」もある。だからと言って、「何時如何なる場合にも中傷は許されない」とは言えない。「良くなる可能性があるのだから、中傷するのは良い」と言へるし、だからこそ人は他人に中傷する"という、この論理がおかしいことは自明だと思うのですが。

なるほど、慥かに、「義」が野嵜のプライヴァシーを侵害し、竹下義朗やアレクセイが「野嵜は掲示板荒しだ」と風説を流す事で、却つて野嵜が「被害者」と見られて同情されるやうになる事はあり得る。
だが、プライヴァシーを侵害するやうな文書を世間に流布し、「掲示板荒し」と極附けて宣傳してゐれば、それが野嵜の社會的評價を害する事が第一の目的であると云ふ事は、火を見るよりも明かだ。
眞實性の證明を缺き、ひたすら相手を攻撃し、相手の社會的地位を失墜させて相手を社會的に抹殺しようとする故意の行爲は、表現の自由を侵害するものとして認められない。

日本國憲法二十一條は表現の自由を保證する。その爲、眞實性の證明を伴ひ、公益目的で行はれた批判は、妥當な批判として免責される。
確實な資料・根據があつて、それに基いて或事實を眞實と信じてゐたならば、それに基く批判は免責される。結果として誤信であつても、故意を缺く爲、處罰されない。

>というか、あなたの「道徳」の定義が辞書と違うのなら話ができないのですが。

語彙が異るだけなら用語の飜譯によつて話は出來る。しかし、現在の議論では、条域の用語の意味が曖昧である爲に必要な飜譯が出來ない。

以下は野嵜の定義だが、これは松原正氏の定義に從つてゐる。人が「すべきこと」「してはならないこと」を記したもの・定めるものは「徳目」――徳目が命ずる事を守るのは、(一種の・社會的な意味で)「正しい」事=正義である。正義は社會的に定められるので相對的である。その徳目の定めるところ=正義に從ふか從はないかは個人の判斷に據る。その判斷が人間的な判斷(自由に選擇されたもの)である場合、その人は「道徳的に振舞つてゐる」と言ひ、「道徳的に善い」と言ふ。逆に、人間的な葛藤を經ない場合、その人は「道徳的でない」「道徳的に惡い」と言ふ。この「道徳的な善惡」は絶對的である。人が「道徳的に振舞ふ」事について考へるカテゴリを「道徳」と呼ぶ。

「正しい」は、「徳目に從ふ事」と云ふ社會的な意味(「道理や法にかなって、誤りが無い」)と、「妥當な推論である事」と云ふ論理的・論理學的な意味(「きちんとしている。整っている」とがある。(岩波国語辞典第三版の定義による。但し「きちんとしている。整っている」について、岩波の定義は論理學的なものではない(用例が「正しい姿勢」である事より明か)。しかし、論理の話に流用して説明に使用する事は可能である)
ただ、後者の論理(學)における「正しい」は、推論の過程に於る妥當性を意味するが、一般に西歐的な思考形式で用ゐられる概念となつてをり、現代の西歐的な觀念に基いて成立してゐる社會に於て存在する正義もその域を出ない。現在の社會的な正義も、社會的に認められた或概念があつて、それを大前提として個別の概念が導き出される、と云ふ形で論理的に體系化されてゐる。

>↓「ぎ」氏は、あなたに「恥ずかしいなら最初からプロフィールなどのせるべきでない」と"アドヴァイス"してくれているのですよ、とか言ってみる。

一度削除した人のプライヴァシーをわざわざコピー&ペーストしてゐる時點でプライヴァシーの侵害であり、それ自體として犯罪に當る。また、野嵜のメールアドレスを公開して「此所に非難を寄せろ」と言つてゐるし、しかも野嵜が嫌がる事を判つてゐてやつてゐるのだから、その意圖が嫌がらせである事は明か。しかも何年もしつこく續けてやつてゐる。
アドヴァイスならば「何處がどのやうな理由で誤であるか」「何が正しいか」をはつきりと指摘しなければならない。そして、その個人的なアドヴァイスが、社會的にその人の地位を失墜させる意圖を持たないものでなければならない。侮蔑的な文言が附隨してゐるならば、それ自體として名譽毀損なり何なりに當る事があり得るし、「義」の場合には明確に野嵜を侮蔑してゐる。
編集済

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月24日(火)18時50分9秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
>・「正しいか正しくないか」は、「學問の定義」に基いて「判定される」のではなく、「學問的な思考」「學問的な方法」に據つて「檢討される」しその檢討の結果として判明するものである。

どれへの反論だかよくわからないのですが、「辞書」の話?
だったら「学問的な思考」「学問的な方法」に基づいて「検討」した結果なぜ「辞書の定義を持ち出されても困る」となるのかと聞きたいです。
辞書を繰ることは「学問的な方法」じゃないんですかね。その内容を「検討」すればいいんじゃないですか。

>手段は、それ自體「道徳的な價値」として「善い」手段である訣ではないが、結果として「道徳的に善い」行爲に繋がるものは「良い方法」として認めるべきであり、實際の社會で現に認められてゐる。
議論・批判は、現に民主主義社會で認められてゐる。納得出來ないと言はれても、現に認められてゐるものは仕方がない。それを「認めない」と言ふからには、条域には積極的に議論・批判を認めない理由がなければならない。
>「餘計な御節介」だからと言つて「してはいけない」と云ふ事にはならない。と言ふより、そもそも「餘計な御節介」か何うかは結果が出るまで判らない。
条域は、「逆切れ」が何う斯うと言つてゐるが、常に「逆切れ」が發生するとは限らない。もし「御節介」の御蔭で大酒のみが禁酒を實現できたら、「御節介」は「餘計な御節介ではない」事になり、適切なアドヴァイスであつた事になる。
最初に「餘計な御節介」と極附けなければならない必然的な理由は存在しない。
全てのアドヴァイスが、常に必然的に良い結果を生ずるとは言へず、「聞入れられない可能性」もある。だからと言つて、「何時如何なる場合にもアドヴァイスは許されない」とは言へない。「良くなる可能性があるのだから、アドヴァイスするのは良い」と言へるし、だからこそ人は他人にアドヴァイスするし、一般にアドヴァイスする事は認められてゐる。
>「親は子供のプラスになるやうな事をすべきである」と云ふ事が「正しい」時、「最終的に子供にプラスになつた」のならば「教育ママ」の教育は「正しかつた」と言へる。
条域は「親は子供のプラスになるやうな事をしてはならない」と考へてゐるのか。

じゃあ逆に聞きますが、誹謗中傷もしていいの?
ある意味「野嵜はアニヲタ」系の、どっかのタチの悪い批判―むしろ、誹謗中傷といったほうが適切かもしれませんが―だって、アドバイスでしょう。
「聞入れられない可能性」もあるが、「良くなる可能性がある」からと、あなたに誹謗中傷を行う人がいるかもしれません。あなたはそれが「一般に認められてる」と言うのでしょうか?
−−−−
>公共の場で間違つた事を言つてゐるならば、世間に害惡を及ぼしてゐるのだから、その人を批判する必要はある。公共の場で酒を飲んで管を卷いてゐるならば、世間に害惡を及ぼしてゐるのだから、その人に「此所では飮むな」と言ふのが許されるのと同樣。

「たひ」「をひ」だのの言葉遣いが世間に害惡を及ぼす理由がわからない。
−−−−
>内輪同士なら馴れ合ひはあり得ますが、ウェブ上ではさう云ふ事はありません。誰もが見る事の出來る場であり、だからウェブは公共の場であると言へます。
公共の場で誤つた事をおほつぴらに言ふのは惡い事です。

何故悪いこと?
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>「しなくても良いこと」≠「してはならないこと」が「しなくても良いこと」=「してはならないこと」に化けてゐる。条域の言つてゐる事は明かに矛盾してゐる。自分の言つてゐる事が矛盾してゐる事を自覺できないのだから条域は頭が惡い。

「頭が悪い」と言って説明しようともしないあなたに言われたくないなぁ。
というか最初に「現実の言論に対する批判が必要」だから「批判はOK」と勘違いした野嵜さんが悪い。
−−−−
>實際に「必要な事だ」とされてゐる事を否定してゐるのだから、条域自身が自らのしてゐる否定について、積極的な根據を擧げなければならない。
"ぼくは「現実の言論に対する批判」に「必要なこと」などないと思っている。"の部分では、
僕は「あなたのやってきた批判はすべて不要だったということになりますよ」という意見に答えるために「僕は、必要じゃないと思っている」と言ったのです。
積極的な批判をする際には積極的な根拠が必要ですが、消極的な反論をする際には積極的な根拠は不要です。
−−−−
>何で俺が迷惑をかけてゐるのだらう。俺は批判をしただけであり、相手は批判されただけに過ぎない。批判されて言返せなくて不快な思ひをするのならば、それは「迷惑した」事にはならない。

「迷惑」の定義が違うようだが僕は「ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること」という辞書の定義に従っただけですし。
というか、辞書の定義を持ち出さなくても「僕も野嵜さんに迷惑かけてますものね」の部分からこっちの定義くらいわかりそうなものだが。
−−−−
>オーディション・アマチュアバンド

だから、じゃあ「アニヲタ」系の批判もありですか?

("と言ふか、条域は2ちゃんねるに「みなさんは他人に迷惑をかけて何が楽しいんですか!」みたいなスレを立てたら、何か得るところがあるかも知れない。"という意見はある意味で面白かった。)
−−−−
>条域は「野嵜の行爲は餘計な御節介であり迷惑行爲である」と極附けてゐる。「だつて皆迷惑してゐるから」と云ふのだが、そもそも「餘計な御節介」「迷惑」と云ふのがレッテル貼りに過ぎない。

「迷惑」というのは指摘されたものが不愉快な思いをすれば「迷惑」には違いないのであり、それは「迷惑行為が悪か」とは別次元の問題。
−−−−
>条域は野嵜の「たひ」の話と「HTML試験場」の記法とが「野嵜の立場から言つて矛盾する」と云ふ論法を使つてゐた。この論法と、「迷惑」云々とは、原理的に一貫しない。「野嵜は間違つてゐる」と云ふ「結論」が同じであるだけだ。

一貫しなくちゃ駄目ですか。あまりつながってはいませんが矛盾はしてないでしょう。
−−−−
>「迷惑か何うか」の客觀的な判定基準
批判された側にとっては迷惑、という話であり、それが批判した側にも「もっともな理由である」と思ってもらえるとは限らないということを、あらかじめ承知の上で。

批判に反論するときは、批判された側からしてみれば「自分と違う意見のやつをわざわざ説得してやらなきゃならない」わけで、それは批判される側の不利益であり、不利益を被ったとき、それは「迷惑」と呼ぶことができます。

ちなみに「その人が迷惑と思へば迷惑なんだ」と言うのは、正しいです。だからといって僕は「ある人が迷惑をかけられたから、迷惑をかけたほうは悪人だ」と断定しているわけではありません。

「僕も野嵜さんに迷惑かけてます」ともう一度言っておきます。
−−−−
>もし「野嵜は批判と言つてゐるけれども、批判ではない、中傷である」と言ふのならば、話は「批判それ自體」が「あり得るか」の抽象的な問題ではなくなり、「野嵜の發言のどの部分が中傷であるか」「中傷と思はれる部分は本當に中傷と解釋して良いのか、さう云ふべき然るべき理由があるのではないか」と云ふ具體的な檢討の問題になる。そこで抽象的に論ずると言つて条域が「野嵜の言つてゐる事は兔に角何でもかんでも中傷なんだよ」と言つたとしたら(言つたとしたら、の話、飽くまで假の話である)、その極附け自體が中傷となる。抽象論で話は片附かなくなる。条域の「抽象論をなぜ良くないと言ふのか」なる疑問は、この時點で疑問として成立たなくなる。

「中傷である」とは言わないが、「あなたの論理が正しいならば、根拠のない中傷もやっていいことになる」とは言います。
>全てのアドヴァイスが、常に必然的に良い結果を生ずるとは言へず、「聞入れられない可能性」もある。だからと言つて、「何時如何なる場合にもアドヴァイスは許されない」とは言へない。「良くなる可能性があるのだから、アドヴァイスするのは良い」と言へるし、だからこそ人は他人にアドヴァイスするし、一般にアドヴァイスする事は認められてゐる。
という、この論理から。
"全ての中傷が、常に必然的によい結果を生ずるとは言えず、「聞入れられない可能性」もある。だからと言って、「何時如何なる場合にも中傷は許されない」とは言えない。「良くなる可能性があるのだから、中傷するのは良い」と言へるし、だからこそ人は他人に中傷する"
という、この論理がおかしいことは自明だと思うのですが。
−−−−

というか、あなたの「道徳」の定義が辞書と違うのなら話ができないのですが。

−−−−

↓「ぎ」氏は、あなたに「恥ずかしいなら最初からプロフィールなどのせるべきでない」と"アドヴァイス"してくれているのですよ、とか言ってみる。

「訣」の件  投稿者: 日本語のために  投稿日: 1月24日(火)01時50分27秒 softbank218128188080.bbtec.net
小生も、この件に関聯して少々投稿した記憶があります。
轉載していただいて差支ありません。

http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/


「タヂマ」の件  投稿者: T  投稿日: 1月23日(月)17時18分42秒 softbank219180048064.bbtec.net
申し訳ありませんでした。
「但島」と思ひこんでゐたため、また、あの記事が楽しさうな書き方だったので馬鹿な勘違ひをしてしまひました。言ひ訳になりますが揶揄するつもりは全くありませんでした。

(無題)  投稿者: 寸゛  投稿日: 1月23日(月)15時35分45秒 p18066-adsau16honb12-acca.tokyo.ocn.ne.jp
>Tさん
諒解です。できればあらぬ意図を邪推して揶揄などなされぬ様希望します。もちろんミスの御指摘、記事内容へのご意見等は甘受いたします。

>平頭通さん
御丁寧に出典を調べてくださり有難うございます。

タヂマ  投稿者: 平頭通  投稿日: 1月23日(月)14時58分0秒 ntsitm138193.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
一往、旧国名の「但馬国」を調べてみた処、古事記に「多遲麻國」、旧事紀(十巻本)に「但遲麻國」と在りますから、仮名遣はタヂマが正解だと思ひます。逆に、「田島」「田嶋」「田嶌」であれば、シマの連濁で、仮名遣はタジマが正解になります。一往御参考迄。

「タヂマ」の件  投稿者: T  投稿日: 1月23日(月)14時13分17秒 softbank219180048064.bbtec.net
失礼しました。馬鹿な勘違ひをしてしまひました。
なぜか「但馬」を「但島」と思ひこんでをりました。

(無題)  投稿者: 寸゛  投稿日: 1月23日(月)12時32分54秒 eaa1-ppp2403.east.sannet.ne.jp
>「タヂマ」からして明らかな間違ひなので、

御説明願へますか?

「訣」のまとめ、楽しみにしています。  投稿者: Akimbo  投稿日: 1月23日(月)00時16分36秒 lfb.iam.ne.jp
 こんばんは。闇黒日記も本掲示版も毎日巡回していますが、顔をだすのはひさしぶりです。ご無沙汰しております。
 「訣」問題についてわたしが投稿した文章、もし必要であればお好きにお使い下さい。

「ヤマトタヂマヤーへやうこそ。」の件  投稿者: T  投稿日: 1月21日(土)20時08分25秒 softbank219180048064.bbtec.net
「タヂマ」からして明らかな間違ひなので、ここは敢へて珍表記を用ゐてふざけて見せたといふことではないでせうか。

(無題)  投稿者: 平頭通  投稿日: 1月19日(木)23時10分54秒 ntsitm138193.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
「纏め」はお任せ致します。宜しくお願ひします。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月19日(木)21時09分25秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
「訣」問題について皆樣何うも有難うございます。「まとめ」を作つてよろしいでせうか。いろいろ書いて貰つた事をそこに「轉載したい」と云ふ事ですが。
編集済

訣 羂  投稿者: 平頭通  投稿日: 1月18日(水)20時41分6秒 ntsitm138193.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
訣を「わけ」の意味に遣ふ件について、補足しておきます。
手元に在る『言海』の一〇八五頁を見ると、「譯」と出てゐます。此の字引が全て正しいとは申しませんが、此の字引が出版された当時、既に「譯」を「わけ」に遣ふ用法が存在した証左となると思はれます。

処で「羂」のはうなんですが、最近は野嵜さんの文章でもあまり出なくなつてしまつたやうです。当初、意味がよく解らなかつたのですが、実は『言海』を見ると一〇八九頁に出てゐるんですね。読みは「わな」です。

Re: 訣  投稿者: satoshii  投稿日: 1月18日(水)19時25分42秒 KHP059134094189.ppp-bb.dion.ne.jp
塗炭さん、澤田さん、どうもありがたうございます。

「訣」だけ調べて「譯」のはうを調べなかつたのはとんだ片手落ちでした (汗
「譯」を「わけ」に用ゐるはうこそ國訓だつたとは。

# 訊くは一時の恥 訊かぬは一生の恥 ぐぐれば恥かかない

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月18日(水)00時56分46秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
と言ふか、条域は2ちゃんねるに「みなさんは他人に迷惑をかけて何が楽しいんですか!」みたいなスレを立てたら、何か得るところがあるかも知れない。

 投稿者: 澤田亮太  投稿日: 1月18日(水)00時15分39秒 p220208154191.tcnet.ne.jp
昔、そんな話題があつたなー、と過去ログを捜してみました。
https://www.angelfire.com/id2/memo/logfiles/kotoba_200407.html

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月17日(火)23時38分1秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
>と僕が書いたのに、

説明をしたのに理解しない方が惡い。あの程度の説明をすれば、誰でも解ると思つた。

−−
条域の「論理」は、論理になつてゐないし、「抽象論」だから現實離れしてゐて獨り善がりに陷つてゐる。

・「正しいか正しくないか」は、「學問の定義」に基いて「判定される」のではなく、「學問的な思考」「學問的な方法」に據つて「檢討される」しその檢討の結果として判明するものである。

・手段は、それ自體「道徳的な價値」として「善い」手段である訣ではないが、結果として「道徳的に善い」行爲に繋がるものは「良い方法」として認めるべきであり、實際の社會で現に認められてゐる。
議論・批判は、現に民主主義社會で認められてゐる。納得出來ないと言はれても、現に認められてゐるものは仕方がない。それを「認めない」と言ふからには、条域には積極的に議論・批判を認めない理由がなければならない。

・「餘計な御節介」だからと言つて「してはいけない」と云ふ事にはならない。と言ふより、そもそも「餘計な御節介」か何うかは結果が出るまで判らない。
条域は、「逆切れ」が何う斯うと言つてゐるが、常に「逆切れ」が發生するとは限らない。もし「御節介」の御蔭で大酒のみが禁酒を實現できたら、「御節介」は「餘計な御節介ではない」事になり、適切なアドヴァイスであつた事になる。
最初に「餘計な御節介」と極附けなければならない必然的な理由は存在しない。
全てのアドヴァイスが、常に必然的に良い結果を生ずるとは言へず、「聞入れられない可能性」もある。だからと言つて、「何時如何なる場合にもアドヴァイスは許されない」とは言へない。「良くなる可能性があるのだから、アドヴァイスするのは良い」と言へるし、だからこそ人は他人にアドヴァイスするし、一般にアドヴァイスする事は認められてゐる。

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>「あなたの為を思って」と言って子供に無理やり勉強させる教育ママのようなもの。もしもその子の人生にとって、最終的に勉強がプラスになったとしても、それは「教育ママが正しいことをした」ということにはなりません。

「親は子供のプラスになるやうな事をすべきである」と云ふ事が「正しい」時、「最終的に子供にプラスになつた」のならば「教育ママ」の教育は「正しかつた」と言へる。
条域は「親は子供のプラスになるやうな事をしてはならない」と考へてゐるのか。

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>※仮に、その人に悪酔いする癖でもあって、他者に迷惑をかけるようならば、批判も必要です。しかし、誰にも迷惑をかけずに飲んでいる限りは、批判されるべき理由などありません。そして言葉の誤用は誰にも迷惑をかけません。

>まとめると「他人に迷惑をかけていない人間を批判するのは道徳的に惡い事である」ということ。その批判が仮に人類の為になるとしても。

公共の場で間違つた事を言つてゐるならば、世間に害惡を及ぼしてゐるのだから、その人を批判する必要はある。公共の場で酒を飲んで管を卷いてゐるならば、世間に害惡を及ぼしてゐるのだから、その人に「此所では飮むな」と言ふのが許されるのと同樣。

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>※親しい間柄なら、あるいは批判もかまわないかもしれませんが、Web上ではそういうことはありません。

内輪同士なら馴れ合ひはあり得ますが、ウェブ上ではさう云ふ事はありません。誰もが見る事の出來る場であり、だからウェブは公共の場であると言へます。
公共の場で誤つた事をおほつぴらに言ふのは惡い事です。

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>これまで僕が野嵜さんに行ってきた批判は、ほんとうは、全てしなくても良かったことです。
>「しなくても良いこと」≠「してはならないこと」


>ぼくは「現実の言論に対する批判」に「必要なこと」などないと思っている。
>だからこそ、「批判をすること」の理由を「現実の言論に対する批判が必要なこと」だといっている野嵜さんはおかしいと思っている。
>野嵜さんに「現実の言論に対する批判が必要なこと」という以外の理由で「批判をすること」の正しさを証明してみなさいよ、といっている。だから矛盾などありません。

「しなくても良いこと」≠「してはならないこと」が「しなくても良いこと」=「してはならないこと」に化けてゐる。条域の言つてゐる事は明かに矛盾してゐる。自分の言つてゐる事が矛盾してゐる事を自覺できないのだから条域は頭が惡い。

實際に必要だから世の中には言論の自由があるのであり、それで民主主義社會が成立つてゐるんぢやないか。条域は民主主義社會を破壊したいのか。さうなのだらう。

条域は、
>ぼくは「現実の言論に対する批判」に「必要なこと」などないと思っている。
と言ふが、實際に「必要な事だ」とされてゐる事を否定してゐるのだから、条域自身が自らのしてゐる否定について、積極的な根據を擧げなければならない。そして、そのその根據が妥當で、誰もが何うしても受容れざるを得ない理窟であると判つた時、初めて条域は野嵜の批判を否定出來る。野嵜は社會的な常識に從つて社會的な行動を取つてゐるのだから、社會的に御咎めを受けるべき理由はない。

条域は必要な批判の手續きを踏んでゐない。

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>僕が批判している理由は「あなたの批判によって迷惑を被っている人間がいるから」です。
但し「批判によって迷惑をかけること」自体が悪いのではありません。それだったら僕も野嵜さんに迷惑かけてますものね。「悪いことをしていない人間に批判によって迷惑をかけること」が駄目なのです。

何で俺が迷惑をかけてゐるのだらう。俺は批判をしただけであり、相手は批判されただけに過ぎない。批判されて言返せなくて不快な思ひをするのならば、それは「迷惑した」事にはならない。

・音樂のオーディションに應募した人が、「演奏が下手」なり「歌が下手」なりと批判されて落された時、「何で合格にしないんだよ」と怒つて「逆切れ」しても、それで「審査員が應募者に迷惑をかけた」證據にはならない。
・「批判された人は、野嵜を審査員として認めた訣ではない」と条域は言ふかも知れない。しかし、公共の場での發言=言論は、「全ての人を審査員として認める」と云ふ前提の下でなされるものである。全ての人の中に野嵜は含まれる。野嵜は潛在的な「審査員」として、批判された人に「認められてゐる」。
・例へば下手つかすなアマチュアバンドが驛前の路上を借りて演奏をしてゐたら「下手糞」と野次られた。そこでバンド員が「俺たちはあんたに審査を頼んでゐないんだよ」とか言つて「逆切れ」したり「俺たちは迷惑しました」とか言つて被害者づらしたら、これは笑ひものだ。公開の場、誰もが見る事の出來る場でパフォーマンスする、と云ふのは、自分逹を見てゐる全ての人に審査を頼んでゐるやうなものだ。

条域は「逆切れ」を例に舉げたが、「逆切れ」は「迷惑」が原因ではあり得ない。迷惑をかけられて怒つたのならば、それは「逆切れ」ではない。「逆切れ」してゐる時點で、その人は自分が惡い事を自覺してゐる。アドヴァイスが正當だつたのだ。

条域は、野嵜の批判に「逆切れ」した人が「迷惑してゐる」と言つてゐる――その条域の理窟が理窟として「なつてゐない」事は明かだ。

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条域は「野嵜の行爲は餘計な御節介であり迷惑行爲である」と極附けてゐる。「だつて皆迷惑してゐるから」と云ふのだが、そもそも「餘計な御節介」「迷惑」と云ふのがレッテル貼りに過ぎない。
「餘計な御節介」「迷惑」と云ふのが果して本當にさう言ふべきものなのかどうかは、檢討されなければならないのだが、その邊の檢討を条域は一切省いてゐる。

条域は、最初に「野嵜は惡者である」と根據ナシに斷定して、その自らの斷定を尤もらしく見せかける爲に、あれやこれやと野嵜に難癖をつけてゐる。前に野嵜が指摘した事が眞實だつた訣だ。

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「条域は、『野嵜は惡人である』と云ふ根據のない思ひ込みに基いて、野嵜を攻撃してゐる」
「『野嵜の批判に皆迷惑してゐる』と云ふ条域の主張は、野嵜の批判を惡く見せかける爲に、条域がでつち上げたものである。」

但し、「迷惑してゐる」と云ふ批判を、条域は後で思ひ附いたものと推測する。「迷惑」云々の説が出て來る以前、条域は野嵜の「たひ」の話と「HTML試験場」の記法とが「野嵜の立場から言つて矛盾する」と云ふ論法を使つてゐた。この論法と、「迷惑」云々とは、原理的に一貫しない。「野嵜は間違つてゐる」と云ふ「結論」が同じであるだけだ。

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批判された人の怒りが「逆切れ」である可能性は否定出來ない。その怒りが「逆切れ」であるならば、批判された人は既に自分の怒りが自分の所爲である事を自覺してゐるのであり、怒りの原因である批判は迷惑行爲ではない。
また、批判が的外れであつた時、批判された人は反論して勝つ事が出來る。その時點で、批判された人にとつて、自分に向けられてゐた批判は迷惑行爲でなくなる。

条域の原理に基いて判斷するにしても、いづれの場合も、批判は迷惑行爲と言へなくなる。

「批判がしつこかつたので怒つた」とか、「批判の際の言ひ方が惡くて怒つた」とか、さう云ふ事を言つたら、問題は「批判それ自體」の良し惡しではなく、「批判の方法」の良し惡しに移る。話が變つてしまふ。が、その時點で「批判それ自體」は認められた事になる。

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条域は、「迷惑」とか「餘計な御節介」とか云つた解釋・評價を、何の檢討もなしに、不用意に下してゐる。「果して本當に迷惑なのか」「果して本當に餘計な御節介なのか」は、檢討しなければ判らない。それが直觀的に「判る」と言ふのは、条域が餘程の人格者であるか、でなければただの馬鹿であるか、のどちらかである。

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条域は「皆が迷惑してゐるから野嵜のしてゐるのは迷惑行爲である」と言つてゐる。しかし、なぜ条域は「みなが迷惑してゐる」と言ふ事が出來るのか。この答として説得力のあるものが提出できなければ、条域の野嵜批判は全て無效となる。

・「さうぢやないか」「決つてゐるぢやないか」「判り切つてゐるぢやないか」のやうな答は答にならない。判り切つてゐないから今、現に野嵜と条域との間で言爭ひになつてゐる。条域は、「道徳的な意味での正しい」は誰もが理解できると言つてゐるが、ならばその「理解出來る事」を野嵜が理解出來ないのはをかしな話だ。条域には今の議論において、野嵜をして理解せしめる義務がある。
・「その人が迷惑と思へば迷惑なんだ」のやうな答も答にならない。やくざが、自分から肩をぶつけて行つたのに、「俺は迷惑した、迷惑料を寄越せ」と言つた時、本當に「やくざが迷惑した」とは言へない。自己申告は必ずしも當てにならない。(この場合、「どちらが當りに行つたのか」と云ふ、誰もが納得出來る客觀的な理由で「どちらが迷惑をかけたか」が判定できる。迷惑か何うかは、直觀的に「わかる」ものではなく、客觀的に判定されるべきものである)
・「迷惑か何うか」の客觀的な判定基準は何か。その基準は、誰もが受容れられるものか。勿論、野嵜も受容れられるものでなければならない。

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「野嵜の批判で不快感を覺える」人がゐたとしても、批判された側が「逆切れ」して「不快感を覺えてゐる」だけであるのであれば、野嵜は惡くない。

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もし「野嵜は批判と言つてゐるけれども、批判ではない、中傷である」と言ふのならば、話は「批判それ自體」が「あり得るか」の抽象的な問題ではなくなり、「野嵜の發言のどの部分が中傷であるか」「中傷と思はれる部分は本當に中傷と解釋して良いのか、さう云ふべき然るべき理由があるのではないか」と云ふ具體的な檢討の問題になる。そこで抽象的に論ずると言つて条域が「野嵜の言つてゐる事は兔に角何でもかんでも中傷なんだよ」と言つたとしたら(言つたとしたら、の話、飽くまで假の話である)、その極附け自體が中傷となる。抽象論で話は片附かなくなる。条域の「抽象論をなぜ良くないと言ふのか」なる疑問は、この時點で疑問として成立たなくなる。

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あと、話が異常なまでに判りにくくなつてゐるのは、「良い」「惡い」「正しい」なる用語が不適切な所爲。条域は、例によつて官僚主義的に、同じ語だからと言つて、「よい」=「良い」=「善い」と思つてゐる。「良い−惡い」「善い−惡い」の對立關係がある、同じ「惡い」の對義語であるから、「良い」=「善い」である、と条域は「理窟」を言ふだらうと思ふ。しかし、「良い」と「善い」とは違ふ。「正しい」=「良い」なのであつて、それは「論理的に一貫してゐる」「筋が通つてゐる」事を意味し、「或前提の下での正しさ」であり、道徳とは關係がない。一方の「善い」は、これこそ道徳的に「善い」事を意味するが、その道徳的に「善い」事は、規範としての「良い」事に「從つた」と云ふだけの事を意味しない。規範なり徳目なりの指示する「正しい事」は、實は人間には必ずしも、或は常に、實行可能である訣ではないものがある。その「正しい事」に、表面的に從つた場合でも道徳的には「惡い」事があり得るし、行爲として從つてゐなくとも心の内面で反省したりしてゐる場合には道徳的に「善い」と言へる場合があり得る。さうすると「道徳的な意味で正しい」と云ふ言ひ方は、甚だ曖昧であり、曖昧であるからには「内容がない」ものであると言ふ事が出來る。条域は、抽象論抽象論と言ふ割に、價値とか行爲とかについての考察・反省が淺く、抽象的な思考を徹底してゐない。抽象論と言ひたければ言へば良いが、言ふならもつと徹底的に考察した結果を示して呉れ玉へ。「迷惑」「餘計な御節介」なる言ひ方が甚だ淺薄な条域の「抽象的思考」の實態を示してゐる。もつと突込んで考へられるだらう。
編集済

(無題)  投稿者: 塗炭  投稿日: 1月17日(火)23時21分39秒 ntoska022010.oska.nt.isdn.ppp.infoweb.ne.jp
> satoshii さん

変な新字新かなで失礼します。こういう表記ですので「寝言」と思って戴いて差し支えありません。

>よく「訣」といふ字をお使ひになつてゐますが、あれがよく分かりません。以前某方面スレでも同じことを話題になさつた方がゐたと思ひます。

野崎さんが「訣」を使われる理由はよく知りませんが、私は「譯」の新字体である「訳」を例えば「〜という訳である」と使うことに躊躇いがあります。「譯(訳)」は周知のように「翻訳」というような使い方が一般的で、「わけ」を表わすには適切ではないような気がしています。むしろ「訣」であれば袂を分かつということで、正誤などを切り分けて説明する際には適切ではないかと考えます。

Explorer と Classic Finder  投稿者: satoshii  投稿日: 1月17日(火)23時15分30秒 KHP059134094189.ppp-bb.dion.ne.jp
> Finder よりも Explorer の方が、ファイルのコピーとか、リネームとか、その邊の操作性は良くなつてゐる。

これは単に慣れ・不慣れの問題じゃないでしょうか。
Classic Finder は

・ファイルのコピーは Option キーを押しながらドラッグ&ドロップ
・フォルダのアイコン上にドラッグすると、下層フォルダが表示される

というような仕様になってまして、これを利用すれば Explorer の
「コピー→貼り付け」と操作性は大差ないと思います。

# Mac ユーザの主観なので怪しいもんですが ;)

付け加えると、

・一つのフォルダに (それぞれ位置の定まった) 一つのウィンドウが対応する
・従って、作業フォルダを同時にいっぱい開いているのが普通

という辺りも Explorer とは異なる「習慣」かと思いますが、
この「習慣」に馴染んでいると、「コピー→貼り付け」よりも
「Option+ドラッグ&ドロップ」の方が操作性が良いと感じたりもします。
(Explorer でも Ctrl+ドラッグ&ドロップで同じことができますが)

それはともかく、リネームの操作って Explorer と違いましたっけ?
クリックして一瞬待つとかコンテキストメニューから選んでってのは
一緒だったと思いますが。
あとは Return を押してもリネームできたりとか。

(無題)  投稿者: 名無し  投稿日: 1月17日(火)22時42分25秒 tvtoffice40.tvt.ne.jp
> 「悪いことをしていない人間に批判によって迷惑をかけること」が駄目なのです。
批判をする対象がいつも悪い人だとは限りません。
間違っている記述がないと思っている人が間違っっているところを批判されたところで、その人が悪い人だと決まってしまうのですか。

Re: 平成十八年一月十七日  投稿者: satoshii  投稿日: 1月17日(火)22時19分38秒 KHP059134094189.ppp-bb.dion.ne.jp
> 具體的に「野嵜の用語・用字」に限定して「『意味が良く解らない言葉』『讀めない字』があつたら教へて」とか言つてみる。

よく「訣」といふ字をお使ひになつてゐますが、あれがよく分かりません。
以前某方面スレでも同じことを話題になさつた方がゐたと思ひます。

私の手元にある辭書・字書の類(*)では、
「訣」の字義は「別れる・絶つ・殺す、決める、方法・奥の手」
などとなつてをり、今ひとつ意味が通りません。

文脈から察するに「譯 (わけ)」の類義と思ひますし、
試しに「という訣」でぐぐつてもそれなりの數がヒットして、
やつぱり概ねさういふ意味で使はれてゐるやうなので、
(日本では and/or 歴史的に) そのやうな用法があるのだらうとは思ふのですが。

* 具體的には「新字源」「漢辞海」と ATOK の文字情報です。
 單なる字書の不備といふ氣もしないではないやうな。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月17日(火)22時10分5秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
僕が批判している理由は「あなたの批判によって迷惑を被っている人間がいるから」です。
但し「批判によって迷惑をかけること」自体が悪いのではありません。それだったら僕も野嵜さんに迷惑かけてますものね。「悪いことをしていない人間に批判によって迷惑をかけること」が駄目なのです。

別に、議論やめたいならやめてもいいんですが  投稿者: 条域  投稿日: 1月17日(火)22時05分30秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
「・現実を良くするためには批判をしなければならない
・抽象論は良くない
の二つの根拠だけ説明していただければ結構です。」
と僕が書いたのに、それに対して7連続で批判を返すような人が、「主題を絞ってほしい」等と良く我侭を言える物ですね。あんなに長い批判をしておいて、今更「主題を絞れ」とは何様のつもり?
しかしまあ、僕もこんな長々とした議論には飽き飽きしているし、そもそも「詰らなくて詰らなくて堪らない」のも事実なんで反論はいくつかに絞ります。(それでも長いですが)
今更「全部に批判を返してないからお前の負け」などと言わないでくださいよ。

・"辭書の定義で「道徳」の話をされても困る。"とは。辞書こそが「学問的に正しい」ものじゃないか。あなたの言ってることは、"学問の定義で「正しい」の話をされても困る。"ということですか?

・良いことをするための手段が良いとは限りません。何故「人間の文明が發達するのは良い事である」から「學術的に正しい事を人が追究するのは良い事」となるのですか。

・「何を守らねばならないのか」ですか。ええと、「根拠のない批判をしてはいけない」とかそういうことです。誹謗中傷の類です。
しかし、勘違いしてほしくないのは、「根拠がある批判ならばしてもかまわない」というわけではないということです。
また下手なたとえをしますが、酒が大好きで、やめようやめようと思っているけれどやめられない人に、「このままじゃアルコール中毒になるよ。君はとっとと酒をやめるべきだ」等と批判したところで逆ギレされるのが落ちでしょう。それは余計なお節介という物です。
仮にその人に酒をやめさせれば、「人間の文明の発達」とはいかないまでも、その人の人生にとってプラスになることはほぼ間違いないでしょう。それでも余計なお節介です。

※仮に、その人に悪酔いする癖でもあって、他者に迷惑をかけるようならば、批判も必要です。しかし、誰にも迷惑をかけずに飲んでいる限りは、批判されるべき理由などありません。そして言葉の誤用は誰にも迷惑をかけません。
※親しい間柄なら、あるいは批判もかまわないかもしれませんが、Web上ではそういうことはありません。

「あなたの為を思って」と言って子供に無理やり勉強させる教育ママのようなもの。もしもその子の人生にとって、最終的に勉強がプラスになったとしても、それは「教育ママが正しいことをした」ということにはなりません。
しつこいようですが「人類の為を思って」は批判が正しい理由にはならないのですよ。

まとめると「他人に迷惑をかけていない人間を批判するのは道徳的に惡い事である」ということ。その批判が仮に人類の為になるとしても。
>塗炭さん
僕は別に、「仕様は正しいという立場」になど立っていません。「あなたの意見が正しいとして、これこれだから矛盾が生じる」と言っただけです。
あなたは他人の言葉づかいに厳しい癖に、PC Tipsの"HTML & CSS 試験場"は正しくないじゃないか―そう言ったのです。
だからテーマは「言葉づかいまたはHTML」です。
>平頭通さん
「之まで条域さんが行つて来た野嵜さんへの批判は、全てする必要がなかつた事になります。」
…その通り。

これまで僕が野嵜さんに行ってきた批判は、ほんとうは、全てしなくても良かったことです。
「しなくても良いこと」≠「してはならないこと」

ぼくは「現実の言論に対する批判」に「必要なこと」などないと思っている。
だからこそ、「批判をすること」の理由を「現実の言論に対する批判が必要なこと」だといっている野嵜さんはおかしいと思っている。
野嵜さんに「現実の言論に対する批判が必要なこと」という以外の理由で「批判をすること」の正しさを証明してみなさいよ、といっている。だから矛盾などありません。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月16日(月)21時42分49秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
「道徳的な惡人は存在します」「野嵜はさう云ふ意味で惡人だ、と僕は主張してゐます」
これでは話にならない。条域のしてゐる主張はこれ。

「××をするのは道徳的に惡い事である」「野嵜は××をしてゐる」「野嵜は惡人である」
これなら解る。

「××」を条域ははつきりして呉れ。ただ「野嵜は惡い」を連呼されても困る。野嵜は惡い事をしてゐる積りは全くないのだから。

(無題)  投稿者: 平頭通  投稿日: 1月15日(日)14時32分53秒 ntsitm138193.sitm.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
塗炭さんの御意見に私も同調します。PC Tipsの"HTML & CSS 試験場"を例示して問質してゐたのは何処かへ飛んで行つてしまつたやうですね。
条域さんが何を言ひたいのか判然としないのですが、条域さん御自身が「HTML/CSSには興味が無い」のならば、自分で例示しても話を先へ進められないと思ひます。逆に野嵜さんの事を指して「HTML/CSSには興味が無い」と分析したのならば、野嵜さんのサイトを見れば誤つた分析である事が判断できます。
惟ふに、之はダラダラと細かい所で難癖を附けて其れらしい反論をして行く事で、最終的に相手に参つたを言はせる事が狙ひなのかも知れませんね。だとすれば、いつ迄経つても終結は見込めません。

条域さんへ一言
>「現実の言論に対する批判」などする必要がない。
ならばあなたが今やつてゐる事はなんなんでせう。現実に野嵜さんの言論に対して批判してゐるのは条域さん御自身ですよね。ならば、こんな事は主張できない筈。
又、『「現実の言論に対する批判」などする必要がない』が仮に真だとすれば、之まで条域さんが行つて来た野嵜さんへの批判は、全てする必要がなかつた事になります。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)06時14分44秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
ところで、h219-110-187-009.catv02.itscom.jp でぐぐつてみたのだが……。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)05時37分32秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
"努力は道徳的に善い事である"="何の努力もしない事は道徳的に惡い事である"

知的誠實は努力に含まれる。知的怠惰は何の努力もしない事に含まれる。

"知的誠實は善い事である"="知的怠惰は惡い事である"



・言葉の一般的な體系から見れば誤用である「たひ」であつても、使用者が自分の用語の體系の中で必然的に要請されるものとして使用してゐるならばそれは「その人にとつては正しい」事だから誰も非難出來ない。しかし、その人が適當に「たひ」なる語を用ゐてゐて、結果としてその人の内部の用語の體系が崩れ、その人の言ひ方が支離滅裂になつてゐるのならば、それは「その人にとつての正しさ」を持たない事になるから、一般的な「正しい言葉遣ひ」の觀點から非難されて良い。「自らの物の言ひ方を一貫させようとしてゐない」のならば、それは知的不誠實・知的怠惰であり、知的怠惰は道徳的怠惰だから非難されて良い。



人が本當に自分の言つてゐる事に一貫性を求めるならば、それは「正しい言葉遣ひ」として成立してゐる「一貫性のある言葉の體系」の採用を自らには必然的に要請する。「一貫性のない言葉遣ひ」をしてゐる人に對してもそれを勸める事になる。何も考へないで好い加減な言葉遣ひをしてゐる知的に怠惰な人に對しては、眞劍に自らを律しようとしてゐる人ならば、怒りを覺えるのが人間として自然であるし、當然である。平氣で言葉を誤用してゐる人は、何も考へないで好い加減に言葉を使つてゐるのだから、知的に怠惰な人だが、さう云ふ怠惰な人に對して、批判をするのは、「人は怠惰であつてはならない」と本氣で考へる人ならば當り前である。「人は怠惰であつてはならない」と云ふのは、徳目だが、条域流に言へば「道徳的な意味で正しい」事であり、それ自體として疑ふ餘地が無い。



路上の募金活動で、御金持のAさんは1圓も寄附せず、貧乏なBさんは10000円寄附したとします。Bさんの方は「良い事をした」と言へるでせう。一方、Aさんの方は「良い事をしなかつた」のですが、これは即「惡い事をした」と言つても間違ひはありません。



「何も考へずに」公共の場で言葉の誤用をした人について、「何も考へなかつた」事を「良い事をしなかつた」=「惡い」と言つて間違ひはありません。多少なりとも「考へてゐる」のならば、「正しさ」は「ある」と言つて良いのですが、少しも「考へてゐない」のならば「正しさ」は「ない」と言つて良いのです。

「少しある」と「澤山ある」とでは相對的な違ひに過ぎませんが、「ある」と「ない」とは絶對的な違ひです。



餘談一。
路上の募金活動で、1圓も寄附しなかつた御金持のAさんが、それを悔やんで煩悶し續けたとします。この時、徳目に反して正しい行ひはしなかつたAさんですが、正しい行ひをしなかつた事を後悔してゐるのだからその點で道徳的に善人であると言へます。
一方、普通の人であるCさんが、路上の募金活動で少しだけ御金を寄附したとします。Cさんは「俺は良い事をした!」と思つて滿足しました。この時、Cさんは、徳目に從つて正しい事をしましたが、自分で自分を裁いて、自分を善人だと看做したから、實は道徳的に惡人であると言へます。

親鸞が惡人正機説を唱へましたね。



餘談二。
親鸞は、法然上人が誤つてゐたとして、それを信じて親鸞自身も地獄に落ちる事になつても、自分は法然上人を信ずる、と言ひました。
假に「地獄に落ちるやうな事」を法然上人が言つてゐて、それを親鸞は信じたのだとします、この時、親鸞は惡人だと言へるでせうか。――言へないと思ひます。
ならば、オウムの信者も惡人だとは言へないでせう。
編集済

(無題)  投稿者: 塗炭  投稿日: 1月15日(日)05時35分58秒 ntoska018244.oska.nt.isdn.ppp.infoweb.ne.jp
>条域さん

議論はおよそ最初の時点で「テーマ」が見出せるものでなければなりません。あなたが例示されたのはPC Tipsの"HTML & CSS 試験場"だったはずです。

>野嵜さんの主張を借りれば、テストだろうと何だろうと、"間違ひは間違ひ"であります。

仕様に準拠していないから文書の形式としては不備である、という事実を指摘をされたのだろうと推測します。文書型宣言の無いHTML文書は仕様上は認められていません。それを公開している野崎さんの考えを質した積りだと解釈します。

で、仕様は正しいという立場から文書型宣言の無いHTML文書の不合理を述べられるならよく解かりますし、正誤はともかく主張の一貫性は保てると思います。もちろん妥当な回答があれば議論を「終結」させる勇気も必要だと思います。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)04時11分6秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
何と言ふか、野嵜の言つてゐる事に矛盾があるのかないのかの話なのか、「正しい」なる觀念の話なのか、議論や批判の效能の話なのか――条域は「一貫してゐる」と言つてゐるけれども、あつちこつちに話が飛んでゐて、議論としては一貫性を缺いてゐると思ふ。もうちよつと議論の主題を絞つて貰ひたい。

条域は何を議論したいの?

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)03時56分26秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
と言ふか、条域の言つてゐる事が判る人がゐたら飜譯希望。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)02時20分13秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
論點がさつぱりわからないまま、ただだらだら相手の言つてゐる事を引用して、その場限りのおざなりなコメントを附して云々。こんな泥沼の言爭ひをやつて、条域、何か得るものがあるのだらうか。これが「抽象論」の結果なのだが。(しかしこれが条域には面白くて面白くて堪らない事であるのかも知れない。が、當事者にとつて裨益するところのない議論は俺にとつては詰らなくて詰らなくて堪らないものだ)


俺は「議論はやるべきだ」と言つてゐるから「議論をやる」のは問題ない。しかし、「議論をやつてはいけない」と言つてゐる条域が「議論をやる」のは何う考へてもをかしい。(議論は駄目とか言ひながら、条域が議論をやらうとしてゐるのはをかしい。何うして「議論はやつてはいけない」と言つてゐる条域が「議論をやる」のだらうか)


「何時如何なる場合にも議論をしてはならない」ではない、「今の場合には議論をしても良いのだ」、と条域は言ふかも知れない。けれども、では「何う云ふ場合」になら「議論をしても良い」のだらうか。
議論をしても良い良くないは、どのやうにして決定されると言ふのだらうか。「道徳的な意味で正しい」なる基準に照らして「正しくない」事については「議論をしても良い」と条域は言ふかも知れない。しかし、「何」が「道徳的な意味で正しい」事なのか。
具體的に今、条域がやらかしてゐる議論は、どのやうな部分がどのやうな理由でその「道徳的な意味で正しい何か」に當嵌ると云ふのだらうか。


もしかすると、条域は、「抽象論」で条域が主張した事は、具體化しないで良いものだから、条域自身がしてゐる議論について何ら拘束するものではない、と言ふのだらうか。条域が主張する事は當然、野嵜にも當嵌るから、条域が幾ら抽象的に議論や批判を否定しても、現實に野嵜が議論したり批判をやつたりしても条域はそれを止める積りはない、と云ふ事になるが、それで良いのだらうか。


条域の言ふ「抽象論」における議論は、具體性を缺くものであり、現實の世界と何ら關係がない筈だ。ならば「抽象論」で交はされた議論は、現實の世界にフィードバックする事が出來なくなる筈だ。
「抽象論」を主張する条域が「議論・批判は良くない」と言つても、それは飽くまで「抽象論」の範圍での主張に留まり、現實に議論や批判があつてもそれは現實として「正しい」と云ふ事になる。条域は、「抽象論」の世界に留まる限り、現實の世界・具體的な世界には干渉する事が許されない。(處が實際、条域はこの掲示板に書込んで具體的に野嵜をターゲットに議論や批判を行つてゐる。条域の主張と、条域の行動とが乖離してゐる爲、条域が何を主張してゐるのかはさつぱり訣が解らない)


「學術的な意味で正しいか何うか」を条域は全否定するのか。「部分否定する」のか。「部分否定」するのなら、その「否定すべき部分」にどうして野嵜の主張が當嵌るのか。


条域の言つてゐる事は、何一つ判らない。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)01時03分14秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
あと、条域は「抽象論は良い」「抽象論は全てを解決する」と言つてゐるけれども、その保證は何も無い。

抽象的であるよりも實證的である方が良い事は歴史が證明してゐる。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)00時38分26秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
条域は「批判をしてはならない」事の積極的な理由を擧げない。

「してはならない」事でないのならば「しても良い」事になるのは當り前の話。


ちなみに、消極的に「しない方が良い」と云ふ事であるのならば、それでも論理的には「しても良い」事になる。


「批判や議論をしても良い」から「する」、それの何が問題なのだらう。
編集済

知的怠惰は道徳的怠惰  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)00時36分57秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
>世の中を良くするためには何をしてもよいとおっしゃるのでしょうか?

何をしても良いとは誰も言つてゐない。學術的に正しい方法を採るべきだと言つてゐる。

>議論や批判をすれば世の中はよくなるかもしれませんが、それは決して「議論や批判はよいこと」ということにはなりません。

議論や批判は、それ自體に價値がある訣ではない。議論や批判は、目的ではなく手段。結果として良い事になる可能性があればそれで良い。

議論や批判は、しないよりはした方が良い。
知的誠實を求めないよりは求めた方が良い。誠實である事は道徳的に善い事だからだ。

>下手なたとえですが、路上の募金活動で、Aさんは100円寄付し、Bさんは10000円寄付したとします。Bさんのほうが「善い」ことをしたのに間違いはありませんが、それはAさんが「悪い」ことをしたということにはつながりません。

それは相對的な違ひの例に過ぎない。
「たひ」を使ふのに學問的な誠實は必要ない。「たひ」を批判するのに學問的な誠實は必要となる。「何もしない」のと「何かをする」のとは絶對的な違ひだから、相對的な違ひの例を持出しても意味がない。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月15日(日)00時29分49秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
なんかまたねちねちと細かいところをとりあげて言つてゐるけれども、条域は結局何を言ひたいのだらう。


条域の書き方は、引用と、それに對するコメントとが、判り辛く書かれてゐて、讀み難い。


「道理や法」は、「正しい」かどうかの檢證が必要であり、アプリオリに「正しい」ものではない。

「或論者を默らせる爲に『多數決の論理』なるスローガンを振囘すのは許されない」
「民主主義社會では方針を決めるのに多數決の論理が用ゐられる」

辭書の定義で「道徳」の話をされても困る。

徳目に從ふかどうかの煩悶が「道徳的」と云ふ事だ。それは考へてみれば判る。

一般論として正しい「現実を良くして行こうとする」→「批判がひとつの方法である」が、ウェブでは「正しくない」と云ふ事になる理由が全く解らない。

条域の言ふ「道徳的な正義」なるものには具體的な内容が全くない。抽象論であり、抽象論なら何とでも言へる。

「自分は正しい。相手は間違つてゐる」と考へるのは、當り前の話なので、道徳的に何う斯う言はれねばならない理由は存在しない。

誰にでも自分を辯護する權利はある。

条域の言つてゐる事には、曖昧であつたり、撞着してゐるやうに見える事があつたり、二通りの意味にとれる言ひ方があつたりする。そこでその中から一つの言ひ方について話をすると、条域は「そんな事は言つてゐない」と言ふ。

飛躍がある論理とは間違つた論理と云ふ事だ。飛躍がある論理に於てイコールであるのならば、それはイコールではない。

「個人が個人的に『道徳的に良い』と信じてゐる事」は、その個人にとつてのみ絶對的であるに過ぎず、一般に社會的に「信じなければならない事」とは言へない。

「人間の文明が發達するのは良い事である」と云ふのが大前提。人間の文明が發達するのが良い事であるのならば、それに貢献する學問は良い事だ。學術的に正しい事を人が追究するのは良い事だ。もし「學術的に正しい事を人が追究するのは良い事ではない」と条域が主張するのならば、条域は「人間の文明が發達するのは良い事である」と云ふ大前提を否定してゐるのである。

条域に「僕の信ずる正義」が「ある」としたら、条域の野嵜批判は一貫性を持つたものであつた筈で、これ程までに判り辛い批判にはならなかつた筈である。

オウム真理教の信者は道徳的には善人だよ。社會的に犯罪者であるだけだ。道徳的な惡人と、社會的な犯罪者とは別だ。

實證性を缺く抽象論が良い訣がない。抽象的な史的唯物論の誤は、實證的な歴史學に據つてのみ指摘出來る。

野嵜の論理がループしてゐるとしたら、それは条域流の抽象論に附合つてゐるからに過ぎない。

「人間が守らねばならないもの」とは一體何なのか。「守らねばならないもの」は「守らねばならないもの」ですよ、では答へにならない。「何を守らねばならないのか」がはつきりしてゐなければ御話にならない。「何」が大事なのであつて「守らねばならない」は何うでも良い。条域はその「何」を具體的に論ずるのを避けてゐる。

あり得る論理はかうだ。「或種の行爲は人間として許されない。お前の行爲はその或種の行爲に含まれる。よつてお前の行爲は許されない」

野嵜は「正しい事は、誰かが決めてゐなくても、決定しようとすれば決定出來る場合がある」としか言つてゐない。

条域は「『絶對的に正しい』事は『絶對的にある』のです」と言つてゐるが、その「絶對的に正しい事」の具體的な内容が無ければ、それを現實に適用する事は出來ない。

もし条域が「存在する正しいことを主張している」のならば、具體的にその内容を説明出來る筈だ。条域は具體的にその内容を説明してゐない。「道徳的に正しいこと」「存在する正しいこと」と言つて、具體的に「何をするのが正しいのか」の内容を示してゐない。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月14日(土)22時15分17秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
>學問的に「より正しい事」を言はうとするのには、「正しい事」を探究する努力が必要です。
好い加減な事、正しくない事を場當り的に適當に言ふのには、何の努力も要りません。
「努力が必要である事」と「何の努力も要らない事」では、「努力が必要である事」の方が道徳的に善い事であるのは判り切つた話です。

道徳的に「こちらのほうが良い(better)」などということを持ち込んでも仕方がないと思います。
下手なたとえですが、路上の募金活動で、Aさんは100円寄付し、Bさんは10000円寄付したとします。Bさんのほうが「善い」ことをしたのに間違いはありませんが、それはAさんが「悪い」ことをしたということにはつながりません。

"「努力が必要である事」の方が道徳的に善い事である"≠"何の努力も要らない事は道徳的に悪いことである"

>「何の努力も要らない事」である「誤つた事を安易に言ふ事」がどうして「道徳的善事」であると考へるのですか。
"道徳的悪事でない"≠"道徳的善事"
どうして「何の努力も要らない事」である「誤つた事を安易に言ふ事」が「道徳的悪事」であると考えるのですか?と逆に聞きたい。
>どうして<<道徳的に善い事である努力を必然的に要請する學問的な正しさの追求>>を飽くまで「道徳的に正しくない」と極附け、否定しなければならないと考へるのですか。
「道徳的に善い事である努力を必然的に要請する學問的な正しさの追求」って謎。学問がそういうものである根拠を示してくださいよ。

>議論をしない・批判をしない事が、議論をする・批判をする事に比べて、具體的にどんなメリットを持つ、と考へるのですか。議論や批判が存在しなければ世の中が良くなると云ふ決定的で必然的な理由は何であると考へるのですか。どのやうな理由で、議論や批判があつた時には決して世の中が良くならないと考へるのですか。

世の中を良くするためには何をしてもよいとおっしゃるのでしょうか?
議論や批判をすれば世の中はよくなるかもしれませんが、それは決して「議論や批判はよいこと」ということにはなりません。

>「道徳的な意味で正しい事」が「誰もが承認する事」であるとしても、それが城域の主張と關聯が「ある」或は「一致する」とは「誰もが承認する事」であると、どうして考へられるのですか。

「誰もが承認する事」じゃなきゃ駄目ですか。というか、それこそ「多数決の論理」そのものでしょう。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月14日(土)21時59分35秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
>「たひ」と云ふ言葉遣ひを、「より惡い言ひ方である」と自覺してゐて、「それでも使ふ」と云ふのは、果して「道徳的に正しい事」だと言へるのでせうか。學術的には「たい」は「たい」である(それが正しい)と云ふのが解つてゐるのですから、其れに從はないのは、積極的・意志的に選擇された行爲です。
正しくない言葉遣ひを積極的に擇ぶと云ふ態度は、果して道徳的に善い事なのでせうか。「正しくないとされる事」を積極的に擇ぶ態度――それは「道徳的な意味での正義」が「ある」ものなのでせうか。それが「ない」のならば、批判されても仕方がないでせう。
条域は、批判者の態度だけを問題にしてゐます。批判される側の態度の考察が缺けてゐるやうです。批判される側にもいろいろ問題があるのではないでせうか。その問題を全く閑却して、一方的に批判者だけを非難する条域の態度は、「批判された側」に一方的に荷擔する事であり、公正を缺くものだと思ひます。

道徳的な意味において「より惡い言ひ方である」などということは出来ません。
というか、あなたは疑問を投げかけるだけで
「(学問的な意味において)正しくないとされる事」を積極的に擇ぶ態度がなぜ(道徳的に)いけないのか説明していません。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月14日(土)21時54分8秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
遅くなりましたが。
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>>さう云ふ「現實追随主義」では世の中、進歩しませんし、そもそも現代の自由主義は理想主義に基いてゐるものですから(さうでないと現代の日本が採用してゐる自由主義體制の理論が成立たない。河合榮治郎の著作『自由主義の擁護』等を參照の事)、理想主義的な現實批判は「あり得る」のみならず「あり得べきものである」と言ふ事が出來ます。
>これを理由に批判することを正当化するのはおかしい、と言ったのです。

↑これを読みましたか?>Doil氏
「"自由主義は理想主義に基づいている、だから理想主義的現実批判はあり得べき"という論理は間違いだ」といったのですよ。なぜそれなのにあなたは"「現実を良くするために」批判をしてはならない理由があるのだろうか?"などと問うのですか。
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1.「たひ」の説明と、「HTML/CSSの試験場」の文書の作りとが矛盾してゐる。

2.HTML/CSSには興味が無い、野嵜は「たひ」が誤用だと言つてゐるけれども、學問に「正しい」は存在しない筈だ。

3.學問的な「正しい」を論據に他人を批判する事は許されない。

2&3の主張は、全く変わっていません。3の主張はそのまま「道徳的」ということにイコールですし、
2の主張も撤回してはいません。

1の主張も、決して捨てたつもりではありません。最初に「あなたは『"正しい"をこういう意味で使っているのでしょう』」と妙な決め付けをしたことについては、あまりよい方法ではなかったと思いますが、それでも僕は矛盾したことを言っているつもりはありません。
なぜなら、僕は「"正しい"を1の意味(道理や法にかなって、誤りが無い)で使ってはならない」と考えているからです。
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>条域は「俺は民主主義と言論の自由の正しさを否定する」と言つてゐるやうですね。根本的に野嵜と價値觀が異るやうです。これでは話が出來ません。私は民主主義の國である日本國に生きてをり、言論の自由が認められた社會に住んでゐますから、民主主義のルールに從ひますし、言論の自由を肯定します。民主主義社會は議論によつて物事を決定する多數決が原理ですし、言論の自由が認められてゐるからには議論の爲に批判をする事が基本的な權利として全ての人間に認められてゐます。
日本國では全ての國民が民主主義を「正しい」と認め、言論の自由を「正しい」と認める筈です。勿論、それに反對する自由もありますが、當座、その主張は民主主義のルールの中で可能であり、言論の自由が認められた状態で行はれなければなりません。
民主主義と言論の自由は、相對的な價値ですが、日本國に於て議論と批判について考へる時には、「此所が日本國である」以上、基本的な「文脈」としての正義として扱はれて良いでせう。
>野嵜の論理がかかる物である以上、条域に可能な反論は「日本は民主主義國である→議論は行はれるべきである」の因果關係の破壞か、「日本は民主主義國である」と云ふ前提自體の價値の破壞しかあり得ません。それ以外の全ての批判は全く無意味です。

「多数決の論理を持ち出すな」といっておきながら「民主主義社會は議論によつて物事を決定する多數決が原理」などと主張するのはどういうつもりだろう。
といっても、「原理」に例外があるのは当たり前。だから僕は「多数決の論理を持ち出すな」と「民主主義社會は議論によつて物事を決定する多數決が原理」を「矛盾」と決め付けるつもりはないが、同様に「言論の自由の正しさを否定する」というのも、「言論の自由」に例外がある限り矛盾した論理ではない。
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>それは徳目であり道徳ではありません。徳目に對する人間の態度について、我々は「道徳的」であるでないと評する事が可能であるだけです。
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?index=13118900&p=%C6%BB%C6%C1&dtype=0&stype=1&dname=0na&pagenum=1
「それは徳目であり道徳ではありません」という発想がどこから出てきたんだろう?
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>条域は、「現実を良くして行こうとする」→「批判がひとつの方法である」と云ふ論理について、「間違っていません」と言ひながら、同時に「間違いである」と言つてゐます。
「間違つてゐない」のに「間違つてゐる」とは何なのでせうか。理解出來ません。

僕の文章がわかりづらかったかもしれませんので、訂正します。「現実を良くして行こうとする」→「批判がひとつの方法である」という論理は、一般論としては正しいが、この場合は間違いだと言っているのです。
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>とぼけるのはやめてください。あなた自身、「間違ってはいません」と言つてゐる事でせう。
と言ふか、何うして其處で「根拠を聞きたい」と云ふ發言が出て來るのでせうか。「これは道徳的な正義である」と私が言つたら、「根拠」は必要ない事になつてしまひます。私が「これは道徳的な正義である」と言つたら、条域は反論出來るでせうか。そこで「出來る」と言つたら、条域にだけ「道徳的な正義」を決定する權利があり、野嵜にはない、と云ふ事になります。どうしてそんな傲慢な事が条域には言ふ權利があるのでせうか。

「間違ってはいません」といったことについては上の文章を参照。
あと、別に「道徳的な正義」に根拠は必要ない、などと思っていません。僕がいつ「根拠のない道徳的な正義」を主張したのですか。
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>私が「たひ」を批判した時、私は自分の主張が正しいと信じてゐますし、相手の「たひ」と云ふ言葉遣ひは間違つてゐると信じてゐます。當り前の話でせう。それの何處に問題があるのでせうか。何も卑怯な事はありません。全ての人間のしてゐる事です。

あなたが「自分の主張が正しいと信じていた」のだったらそれは卑怯ではありません。そのことは前回も書きました。
あなたは僕の
>貴方は"相手に「自分の正しさを主張して呉れ」と要求してゐます。"と仰いますが、それでも貴方はあの時点で、"相手が悪いはずだ"と考えていることには変わりありません。そして、その考えが誤りならば、そういった考えは批判されるべきものです。だから僕は批判をしているのです。
という発言を無視している。
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>ならば条域は、「名指ししないでそれとなく悪口を言う責任逃れ」を否定する、と云ふのですね。ならば私の言つてゐる事は正しいと条域は認めた訣です。ならばなぜ今、条域は私を批判してゐるのでせうか。

「名指ししないでそれとなく悪口を言う責任逃れ」を仮に否定したとすれば、あなたの行動と矛盾があります、だからあなたは間違っている、と言っただけ。なぜ僕が"「名指ししないでそれとなく悪口を言う責任逃れ」を否定する"ことにされるのか理解不能。僕がいつそんなことをしたんですか。
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>兩者は全く異ります。後者が前者を「詳しく言」つたものであるとは認められません。論理に飛躍があります。
条域は「學術的に正しくない事を批判してはならない」と言ひ、「道徳的に正しい事は批判して良い」と言ひます。しかし、「道徳的に正しい事」は決定可能であり「學術的に正しい事」は決定不可能である、と云ふ事の根據を条域は何一つ示してゐません。「道徳は善惡だから誰にでも解る」と言ひますが、「解る」事の保障は何處にあるのでせうか。
>學術的に正しいか正しくないかは議論出來ます。しかし、その人にとつて「良いと思はれる事」については議論出來ませんし、しても單なる水掛け論にしかなりません。人によつて「良いと思はれる事」=正義は異るからです。
「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。」と条域は簡單に言ひますが、具體的に「規範の総体」とはどのやうなものか、を問はれても、条域は示せないと思ひます――と言ふより、誰も示せないと思ひます。具體的に何が善で何が惡であると条域は言へないと思ひますし、假に言へたとしてもそれは飽くまで条域の信ずる「正しい事」に過ぎず、他の全ての人間も条域の信ずる「正しい事」に同意するとは限りません。

論理に飛躍があったのは事実ですが、「僕の論理においてはイコールである」と、それだけのこと。
「良いと思はれる事」についてあなたが議論できないなら、「學術的に正しいか正しくないかを議論することは良いことだ」ということについてもあなたは議論できないはず。
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>ただ銘々が信ずる正義に從ふ從はないと云ふ事がある――そこに道徳的な善惡が生じます。自分が信ずる正義を徹底しようとする、筋を通さうとする、或は、徹底しようとしてし得ずに忸怩たる思ひをする、その時、その人は善人である。

僕は、僕の信ずる正義を徹底しようとしています。誰だってそうです。
"銘々が信ずる正義に從ふ從はないと云ふ事がある――そこに道徳的な善惡が生じます"ということは、自分の信ずる正義に従えば善ですか。オウム真理教を正義と信じて従った人間は善ですか。

>それ以外に現實を良くする方法がないから。
まあ、他に存在する全ての方法を除いては、批判は現實を良くするのに最惡の方法であるとは言へるかもしれません。批判よりも良い方法が「ある」としたら、具體的に御指摘いただきたいものです。

批判よりも良い方法(総合的に見て良い方法)、それが抽象論。

>抽象論では議論が成立しないから。
現實を離れたところで言葉を捏ねくり囘してゐても、現實の言論に對する批判にはならないでせう。「道徳的な意味での正義」とは、言葉では言へますが、實際に何處にそんなものがあるのか、具體的に御指摘いただきたいものです。

「現実の言論に対する批判」などする必要がない。

野嵜さんの論理、ループしています。「批判以外に現實を良くする方法がない」理由として「抽象論では議論が成立しない」というのでしたら、「抽象論では議論が成立しない」理由を「批判以外に現實を良くする方法がない」ということを用いずに説明せねばならない。
「抽象論では議論が成立しない」理由として「現實の言論に對する批判が必要」というのではだめでしょう。

しかし、「道徳的な意味での正義とはどこにあるのか」とはまた妙な質問ですね。人間が守らねばならないものが道徳的な意味での正義なのです。道徳的な意味での正義がどこにもないというなら、人間が守らねばならないものなどないことになります。そんな馬鹿な話がありますか。
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>ところで、過去に行はれた全ての批判と云ふ行爲を条域は否定してゐる訣ですが、それは過去の人間の全ての營爲を否定してゐる事だと言つて良いと思ひます。条域にはどうしてそんな傲慢な事をする權利が「ある」のでせうか。条域は自分が「道徳的な正義」を決定する權利があると言つてゐます。どうして条域にはそんな傲慢な態度を取る權利が「ある」のでせうか。

あなたの主張―「正しいことは、誰かが決めてなくても存在する」という主張を認めたとしましょう。それならば、僕は別に「正しいことを決めている」わけではなく、「存在する正しいことを主張している」のです。ただそれだけです。

平成十八年一月十二日の闇黒日記  投稿者: 義珍  投稿日: 1月13日(金)19時43分55秒 ntchba203078.chba.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
「そして自分も他者への押し付けをするべきではない」といふ部分のddの開始タグが抜け落ちてゐるやうです。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)19時30分31秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
と言ふか、「他人を批判するのは道徳的に惡い事だ」とか、そんな「ムラの論理」を条域は言つてゐるだけなのではないかと推測。

公開の場で物を言つて、それが誤つてゐたら批判される可能性がある。だから、「出來るだけ正しい事を言はうとする」のがウェブのやうな公開の場で物を言ふ時の「道徳的な意味で正しい」態度だと言つて良い。誤つた事を公開の場で言つてゐる人に對しては、それが廣まつてしまふのは良くない事だから、批判するのが「道徳的な意味で正しい」態度。
批判されたくないならば、ウェブのやうな公開の場で物を書いてはならない。ウェブで安易に適當な事を言つてしまふのは、それ自體として「道徳的な意味で惡事」であり、批判されるのは當然。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)19時19分13秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
条域の野嵜に對する非難の仕方はころころ變つてゐます。条域には最初から一貫した方針等なかつたのでせう。

「たひ」の説明と、「HTML/CSSの試験場」の文書の作りとが矛盾してゐる。

HTML/CSSには興味が無い、野嵜は「たひ」が誤用だと言つてゐるけれども、學問に「正しい」は存在しない筈だ。

學問的な「正しい」を論據に他人を批判する事は許されない。

後になつて、条域は自分の非難について「道徳的な意味で正しい」と言出しました。どうも其處が条域の「最後の砦」らしい。

裏返せば、「野嵜は道徳的な意味で惡人である」と言つてゐる事になります。
思ふに、条域は最初に「野嵜は道徳的な意味で惡人である!」と「わかつてしまつた」のでせう。結論だけが最初になぜか「わかつてしまつた」。理由は存在しなかつた。だから野嵜を攻撃する条域の論據が非常にあやふやなのです。
とにかく「結論だけがどこからかやつて來て、条域の頭を支配してしまつた」のです。その自らの抱いた「結論」を条域は絶對視し、それゆゑ「道徳的な意味で正しい」ものであると思ひ込んだ。その自らの絶對的な信念を、何としてでも「正しい」事にしなければ、条域は氣が濟まない。だから野嵜を惡人に仕立て上げようとして、言負かされても論點をずらして、絡むのを止めないのです。あゝ言へばかう言ふ。条域と言ふより上祐みたいですね。絡まれた方は堪つたものではない。条域は「野嵜が惡人である」から非難してゐるのではなく、「野嵜を惡人にする」爲に絡んでゐるのです。しかし、他人を陷れ、自己滿足する爲に絡むなんて、それこそ「道徳的な惡事」ではないですかね。好い加減にして貰ひたいものです。
編集済

Photoshop Elements  投稿者: 澤田亮太  投稿日: 1月11日(水)07時35分10秒 p220208154191.tcnet.ne.jp
バリエーションのは、3.0でもある樣です。
……買つた直後に4.0が出ましたが。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)05時59分57秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
學問的に「より正しい事」を言はうとするのには、「正しい事」を探究する努力が必要です。
好い加減な事、正しくない事を場當り的に適當に言ふのには、何の努力も要りません。
「努力が必要である事」と「何の努力も要らない事」では、「努力が必要である事」の方が道徳的に善い事であるのは判り切つた話です。

城域は、
・「何の努力も要らない事」である「誤つた事を安易に言ふ事」がどうして「道徳的善事」であると考へるのですか。或は、どうして<<道徳的に善い事である努力を必然的に要請する學問的な正しさの追求>>を飽くまで「道徳的に正しくない」と極附け、否定しなければならないと考へるのですか。
・議論をしない・批判をしない事が、議論をする・批判をする事に比べて、具體的にどんなメリットを持つ、と考へるのですか。議論や批判が存在しなければ世の中が良くなると云ふ決定的で必然的な理由は何であると考へるのですか。どのやうな理由で、議論や批判があつた時には決して世の中が良くならないと考へるのですか。
・「道徳的な意味で正しい事」が「誰もが承認する事」であるとしても、それが城域の主張と關聯が「ある」或は「一致する」とは「誰もが承認する事」であると、どうして考へられるのですか。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)03時58分50秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
あと、条域の主張が「道徳的な意味での正義」であるつて、意味がわからないんだけれども。何處が何う善惡と關係があるの?

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)03時29分49秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
と言ふか、筋の通らない事を言ふのは自由であるにもかかはらず、筋の通つた事を言はうとするのは自由でないつてどう云ふ事?

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)02時38分18秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
「たひ」と云ふ言葉遣ひを、「より惡い言ひ方である」と自覺してゐて、「それでも使ふ」と云ふのは、果して「道徳的に正しい事」だと言へるのでせうか。學術的には「たい」は「たい」である(それが正しい)と云ふのが解つてゐるのですから、其れに從はないのは、積極的・意志的に選擇された行爲です。
正しくない言葉遣ひを積極的に擇ぶと云ふ態度は、果して道徳的に善い事なのでせうか。「正しくないとされる事」を積極的に擇ぶ態度――それは「道徳的な意味での正義」が「ある」ものなのでせうか。それが「ない」のならば、批判されても仕方がないでせう。
条域は、批判者の態度だけを問題にしてゐます。批判される側の態度の考察が缺けてゐるやうです。批判される側にもいろいろ問題があるのではないでせうか。その問題を全く閑却して、一方的に批判者だけを非難する条域の態度は、「批判された側」に一方的に荷擔する事であり、公正を缺くものだと思ひます。
編集済

と言ふか  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)02時32分10秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
>正しい事は存在します。その中で守るべきものとそうでないものの違いがある、ただそれだけのことなのです。

「根據を擧げて『何が正しいのか』を明かにしようとする」「學問的に正しい事を主張しようとする」のは「道徳的に正しい態度である」と言へます。
「根據ナシに『これは道徳的な正義だ』と極附ける」のは「道徳的に間違つた態度である」と言へます。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)02時17分45秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
ところで、過去に行はれた全ての批判と云ふ行爲を条域は否定してゐる訣ですが、それは過去の人間の全ての營爲を否定してゐる事だと言つて良いと思ひます。条域にはどうしてそんな傲慢な事をする權利が「ある」のでせうか。条域は自分が「道徳的な正義」を決定する權利があると言つてゐます。どうして条域にはそんな傲慢な態度を取る權利が「ある」のでせうか。

私は、道徳的な説教など、してゐません。そんな耻かしい事は出來ません。
自己中心的に「俺の言ふ事をきけ」と言つて他人に自分勝手な考へを押附けないやうに、學術的な根據なり、先人の思想なり、社會的に認められた常識なりに基いて、人として可能な限り客觀的に、ものを言はうとしてゐるに過ぎません。

条域の「道徳的な正義」は、「自分勝手な正義を他人に押附ける」ものであり、さう云ふ誤つた發想こそ批判されて然るべきです。私は、自分勝手な正義を批判する爲に、客觀的に話をしようとしてゐるだけです。反證可能性のある學問的主張は、客觀的たらざるを得ず、自己中心的である事が許されません。
さう云ふ學問の場で、過去も現在も、激しい口調による意見のやりとりが行はれてゐます。まともな學者ならば、自分の主張の正しさを確信しつゝ、他の學者の説を激しく批判します。それは當り前の話で、非難される理由はありません。眞面目に正しい事を探究してゐるからこそ、さう云ふ激しい態度になる。何が惡いのでせうか。私も眞面目な學者に倣つて、眞面目に正しい事を探求しようとしてゐるだけです。眞面目であらうとする態度こそ道徳的に善い事であると私は信じてゐます。
条域は、眞面目な學問を否定しようとしてゐます。歴史的に成立した學問的な態度と云ふものを条域は安易に否定してゐます。許し難い事です。「道徳」の名に於て學問は屡々彈壓されて來ました。条域はさう云ふ彈壓を「良し」とするのです。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)02時09分34秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
端的に囘答します。

・現実を良くするためには批判をしなければならない事の根據

それ以外に現實を良くする方法がないから。

まあ、他に存在する全ての方法を除いては、批判は現實を良くするのに最惡の方法であるとは言へるかもしれません。批判よりも良い方法が「ある」としたら、具體的に御指摘いただきたいものです。

・抽象論は良くない事の根據

抽象論では議論が成立しないから。

現實を離れたところで言葉を捏ねくり囘してゐても、現實の言論に對する批判にはならないでせう。「道徳的な意味での正義」とは、言葉では言へますが、實際に何處にそんなものがあるのか、具體的に御指摘いただきたいものです。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)02時08分23秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
>「学術的に正しい事を根拠にして他人を批判するな」と要求しただけですが。もう少し詳しく言えば、「批判をしなくても済むことを"批判するべき"と言うな」と要求しただけですが。

兩者は全く異ります。後者が前者を「詳しく言」つたものであるとは認められません。論理に飛躍があります。

条域は「學術的に正しくない事を批判してはならない」と言ひ、「道徳的に正しい事は批判して良い」と言ひます。しかし、「道徳的に正しい事」は決定可能であり「學術的に正しい事」は決定不可能である、と云ふ事の根據を条域は何一つ示してゐません。「道徳は善惡だから誰にでも解る」と言ひますが、「解る」事の保障は何處にあるのでせうか。

學術的に正しいか正しくないかは議論出來ます。しかし、その人にとつて「良いと思はれる事」については議論出來ませんし、しても單なる水掛け論にしかなりません。人によつて「良いと思はれる事」=正義は異るからです。
「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。」と条域は簡單に言ひますが、具體的に「規範の総体」とはどのやうなものか、を問はれても、条域は示せないと思ひます――と言ふより、誰も示せないと思ひます。具體的に何が善で何が惡であると条域は言へないと思ひますし、假に言へたとしてもそれは飽くまで条域の信ずる「正しい事」に過ぎず、他の全ての人間も条域の信ずる「正しい事」に同意するとは限りません。
ただ銘々が信ずる正義に從ふ從はないと云ふ事がある――そこに道徳的な善惡が生じます。自分が信ずる正義を徹底しようとする、筋を通さうとする、或は、徹底しようとしてし得ずに忸怩たる思ひをする、その時、その人は善人である。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月11日(水)00時59分16秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
条域は「俺は民主主義と言論の自由の正しさを否定する」と言つてゐるやうですね。根本的に野嵜と價値觀が異るやうです。これでは話が出來ません。私は民主主義の國である日本國に生きてをり、言論の自由が認められた社會に住んでゐますから、民主主義のルールに從ひますし、言論の自由を肯定します。民主主義社會は議論によつて物事を決定する多數決が原理ですし、言論の自由が認められてゐるからには議論の爲に批判をする事が基本的な權利として全ての人間に認められてゐます。
日本國では全ての國民が民主主義を「正しい」と認め、言論の自由を「正しい」と認める筈です。勿論、それに反對する自由もありますが、當座、その主張は民主主義のルールの中で可能であり、言論の自由が認められた状態で行はれなければなりません。
民主主義と言論の自由は、相對的な價値ですが、日本國に於て議論と批判について考へる時には、「此所が日本國である」以上、基本的な「文脈」としての正義として扱はれて良いでせう。

或は。

・日本は民主主義國である→議論は行はれるべきである→批判は許される

野嵜の論理がかかる物である以上、条域に可能な反論は「日本は民主主義國である→議論は行はれるべきである」の因果關係の破壞か、「日本は民主主義國である」と云ふ前提自體の價値の破壞しかあり得ません。それ以外の全ての批判は全く無意味です。

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>「道徳的な意味での正義」こそが従わなければならないものであることは当然でしょう。

さう云ふものはありません。道徳的に存在し得るのは善惡であり、善惡は絶對的ですが、相對的な正義とは區別されます。
物事の正邪と道徳的な善惡とは區別しなければなりません。

>("道徳"の定義自体、「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。」ですから)

それは徳目であり道徳ではありません。徳目に對する人間の態度について、我々は「道徳的」であるでないと評する事が可能であるだけです。

>「現実を良くして行こうとする」→「批判せねばならない」という論理は飛躍しています。
>(ただし、「現実を良くして行こうとする」→「批判がひとつの方法である」という論理は決して間違ってはいません。
>そして僕は、「その方法は間違いである」と、そう批判しているだけです。)

条域は、「現実を良くして行こうとする」→「批判がひとつの方法である」と云ふ論理について、「間違っていません」と言ひながら、同時に「間違いである」と言つてゐます。
「間違つてゐない」のに「間違つてゐる」とは何なのでせうか。理解出來ません。

>で、それを踏まえた上で、

何を何う「踏まえ」るのかさつぱり解りませんが。

>"現実にある事は現実を良くして行こうとする立場の人間にとっては批判の対象になる"とあなたが言う根拠を聞きたいのですが。

とぼけるのはやめてください。あなた自身、「間違ってはいません」と言つてゐる事でせう。

と言ふか、何うして其處で「根拠を聞きたい」と云ふ發言が出て來るのでせうか。「これは道徳的な正義である」と私が言つたら、「根拠」は必要ない事になつてしまひます。私が「これは道徳的な正義である」と言つたら、条域は反論出來るでせうか。そこで「出來る」と言つたら、条域にだけ「道徳的な正義」を決定する權利があり、野嵜にはない、と云ふ事になります。どうしてそんな傲慢な事が条域には言ふ權利があるのでせうか。

>後、なぜ「抽象論は良くない」のかも。

具體的な事例に觸れないならば、人は何んな理屈をもこねる事が可能であり、その結果、不毛な議論に陷るからです。

>貴方は"相手に「自分の正しさを主張して呉れ」と要求してゐます。"と仰いますが、それでも貴方はあの時点で、"相手が悪いはずだ"と考えていることには変わりありません。そして、その考えが誤りならば、そういった考えは批判されるべきものです。だから僕は批判をしているのです。
>
>…それとも貴方は、あの意見を書いたとき、すでに"もしかしたら、俺が間違っているかもしれない"と考えていらっしゃったのでしょうか?もしそうなら、「自分が間違っているかもしれないのに、他者を批判する」など、とんでもなく卑怯な行為ではないでしょうか。

私が「たひ」を批判した時、私は自分の主張が正しいと信じてゐますし、相手の「たひ」と云ふ言葉遣ひは間違つてゐると信じてゐます。當り前の話でせう。それの何處に問題があるのでせうか。何も卑怯な事はありません。全ての人間のしてゐる事です。

>最後に一つ。
>―「誤を指摘されたら尻を捲つて逃出さう」みたいな無責任な事を考へてゐる人間に限つて「『あなただけの正しい』を押附けるのは止めて下さい」とか言つて自衞しようとするものだ。
>これこそ「名指ししないでそれとなく悪口を言う責任逃れ」以外の何者でもないのですが。

ならば条域は、「名指ししないでそれとなく悪口を言う責任逃れ」を否定する、と云ふのですね。ならば私の言つてゐる事は正しいと条域は認めた訣です。ならばなぜ今、条域は私を批判してゐるのでせうか。
編集済

逆に  投稿者: Doil  投稿日: 1月10日(火)23時37分38秒 ZH060158.ppp.dion.ne.jp
では、「現実を良くするために」批判をしてはならない理由があるのだろうか?
学術的に「たひ」は誤り。此れは確かな事実である。其処で、其の表記を批判した。其の行為の問題点を述べよ。批判と云う方法が間違いである理由を。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月10日(火)22時45分20秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
>条域は今、「他人を批判するな」と野嵜に要求しながら、野嵜と云ふ「他人を批判してゐる」
「学術的に正しい事を根拠にして他人を批判するな」と要求しただけですが。もう少し詳しく言えば、「批判をしなくても済むことを"批判するべき"と言うな」と要求しただけですが。

とりあえず
・現実を良くするためには批判をしなければならない
・抽象論は良くない
の二つの根拠だけ説明していただければ結構です。

闇黒日記の記述に残念な思い  投稿者: 条域  投稿日: 1月10日(火)22時40分2秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
正しい事は存在します。その中で守るべきものとそうでないものの違いがある、ただそれだけのことなのです。


>あなたは「道徳的な意味での正義」なるものを信じてゐて、それを押附けてゐるから、許されません。
私は、論理的・学術的に論證した上で、論理的・學術的に正しい事に從ふべきだ、と言つてゐるのだから、押附けではありません。

「道徳的な意味での正義」こそが従わなければならないものであることは当然でしょう。("道徳"の定義自体、「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。」ですから)
で、僕は「あなたの主張しているものは道徳的正義ではない」と言っているわけですが。

↑ここは別に反応しなくても結構です。


>何故批判をしては行けないのですか。抽象論は良くないから、具體的な事例を採上げて批判をする、それの何が惡い事だと言ふのでせうか。
批判をすると云ふ事は、相手の反論を認める事です。相手に自分の正當性を主張する機會を殘しておく、それは言論の自由が認められた民主社會では當り前の事でせう。

あの部分では「批判をすること」自体を批判したわけではありません。(ほかの部分では批判していますが)

>さう云ふ「現實追随主義」では世の中、進歩しませんし、そもそも現代の自由主義は理想主義に基いてゐるものですから(さうでないと現代の日本が採用してゐる自由主義體制の理論が成立たない。河合榮治郎の著作『自由主義の擁護』等を參照の事)、理想主義的な現實批判は「あり得る」のみならず「あり得べきものである」と言ふ事が出來ます。

これを理由に批判することを正当化するのはおかしい、と言ったのです。
「現実を良くして行こうとする」→「批判せねばならない」という論理は飛躍しています。
(ただし、「現実を良くして行こうとする」→「批判がひとつの方法である」という論理は決して間違ってはいません。
そして僕は、「その方法は間違いである」と、そう批判しているだけです。)

で、それを踏まえた上で、
"現実にある事は現実を良くして行こうとする立場の人間にとっては批判の対象になる"とあなたが言う根拠を聞きたいのですが。後、なぜ「抽象論は良くない」のかも。

>理由があつて、それが尤もなものであるのならば、先方には「正しさ」が「ある」事になります。相手が「たひ」と言ふべき必然的理由、「たひ」と言つても良い理由を提示し、それに私が反論出來なければ、相手が正しい事が證明される。
私は相手にも理がある可能性を認めてゐるのです。

貴方は"相手に「自分の正しさを主張して呉れ」と要求してゐます。"と仰いますが、それでも貴方はあの時点で、"相手が悪いはずだ"と考えていることには変わりありません。そして、その考えが誤りならば、そういった考えは批判されるべきものです。だから僕は批判をしているのです。

…それとも貴方は、あの意見を書いたとき、すでに"もしかしたら、俺が間違っているかもしれない"と考えていらっしゃったのでしょうか?もしそうなら、「自分が間違っているかもしれないのに、他者を批判する」など、とんでもなく卑怯な行為ではないでしょうか。
そして、それならば、「先日とあるサイトで"たひ"とかいう表記を見つけたが、これは間違いだ。なぜなら…」とか、その程度にしておくのが当然でしょう。このような書き方なら、もし最終的に「実はあなたが間違っていた」とはっきりしても、あなたが批判される必要はないからです。「訂正」されるだけですむからです。


最後に一つ。
―「誤を指摘されたら尻を捲つて逃出さう」みたいな無責任な事を考へてゐる人間に限つて「『あなただけの正しい』を押附けるのは止めて下さい」とか言つて自衞しようとするものだ。
これこそ「名指ししないでそれとなく悪口を言う責任逃れ」以外の何者でもないのですが。

脱字  投稿者: Doil  投稿日: 1月10日(火)13時09分2秒 ZH060158.ppp.dion.ne.jp
http://doil.xrea.jp/cgi-bin/diary/doialy.cgi?date=20060109
にて指摘したのですが、御気付きでない様ですので此処に書込ませて頂きます。

http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/html3min.htmlの「リンクの出発点としてのa要素(インライン要素)」の「画像がリンクの出発点である場合」に"脱字がありましたので修正御願いします。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 6日(金)23時06分8秒 FLH1Adh093.kng.mesh.ad.jp
或は、今囘の条域の投稿にしても、野嵜のサイトの掲示板に投稿するのでなく、条域自身のサイトなり「ブログ」なりに、たとへば、「先日とあるサイトで他人を批判してゐる例を見つけましたが、これは間違ひだ。なぜなら…」と書く、その程度にしておけばよかったのではないでせうか。
条域は今、「他人を批判するな」と野嵜に要求しながら、野嵜と云ふ「他人を批判してゐる」のですが、それは条域が「自分の言つてゐる事を自分で守れてゐない」と云ふ事を意味します。これは矛盾です。自分の主張と矛盾した行動をとつては行けないでせう。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 6日(金)22時31分50秒 FLH1Adh093.kng.mesh.ad.jp
>指針そのものは批判しておりません。指針は理想論としては最もすばらしいものです。
>「誤用は現実に『ある』ものだ」と反論したのは、"押し付けがいけない"と言ったまでで、指針として「あるべき」を示すだけならば、何も問題はありません。
>というと「お前こそ誤用の押し付けをやめろ」と突っ込まれそうですが、別に押し付けてないのです。「どちらでも良い」と言っているだけで。

あなたは「道徳的な意味での正義」なるものを信じてゐて、それを押附けてゐるから、許されません。
私は、論理的・学術的に論證した上で、論理的・學術的に正しい事に從ふべきだ、と言つてゐるのだから、押附けではありません。

>「現実の言葉をより良いものにしていこう」というのは立派です。
>では、何故「批判」をしない範囲で「現実の言葉をより良いものにしていこう」という風になさらないのですか?「俺は現実の言葉をより良いものにしていこうとしているんだ、だから批判するのも当たり前だ」というのは妙な考え方です。

何故批判をしては行けないのですか。抽象論は良くないから、具體的な事例を採上げて批判をする、それの何が惡い事だと言ふのでせうか。
批判をすると云ふ事は、相手の反論を認める事です。相手に自分の正當性を主張する機會を殘しておく、それは言論の自由が認められた民主社會では當り前の事でせう。

>「言葉を疑え」のコンテンツにしても、たとえば、「先日とあるサイトで"たひ"とかいう表記を見つけましたが、これは間違いだ。なぜなら…」と、この程度にしておけばよかったのではないでしょうか。
>「学問的に」という条件の下で「正しい」という事を述べているに過ぎないのなら、それでもかまわないはずです。

私は斯う書きました。

>助動詞「たい」を「たひ」と表記せねばならない理由を説明していただきたい。

理由があつて、それが尤もなものであるのならば、先方には「正しさ」が「ある」事になります。相手が「たひ」と言ふべき必然的理由、「たひ」と言つても良い理由を提示し、それに私が反論出來なければ、相手が正しい事が證明される。
私は相手にも理がある可能性を認めてゐるのです。
今までの条域の非難は、一方的に野嵜が自分の「正しい」を相手に押附けてゐる、と云ふものでした。しかし私は、相手に「自分の正しさを主張して呉れ」と要求してゐます。「たひ」に關して私が批判した事は、私が一方的に「正しい」の押附けをしてゐない事の決定的な證據です。
これに對して条域は今、私に相手の主張を一方的に「間違いだ」と極附けるやう、要求してゐます。「間違いだ」と極附ける事は、自分の「正しい」を一方的に他人に押附ける事です。具體的に名前を出さないで「間違い」の話をする――それに反論する機會を、「誤用」をしてゐる人は失ひます。私が具體的に名前を擧げて批判をするのは、相手に反論する機會を與へてゐるからに他なりません。

私は正字正かなのサイトを長い事やつてゐますが、(例へば)各地の「ブログ」の書き手から名指しされないでそれとなく嫌みを言はれると云ふ經驗を何度もしてゐます。名指しで批判されればこちらも反論出來ます。名指しされないけれども「どうやら俺がターゲットらしい」と何となく解る――そこで私は反論しますけれども、相手からは「お前の事ぢやねえよ。俺は「野嵜」なんて名指ししてゐないからな。野嵜は被害妄想」みたいな惡口が返つて來るのではないかと何時も嫌な思ひをしてゐます。
名指ししないで非難する事は、一方的な攻撃であり、名指しで批判するのよりも卑怯な事だと思ひます。名指ししないでそれとなく惡口を言ふ――それは責任逃れであり、反論されるリスクを囘避してゐるだけに過ぎません。
以上の考へは普通の考へでないと言はれるかも知れません。しかしそれは民主主義の社會では普通であるべき考へ方だと思ひます。民主主義の發想は、互ひに自分の信念を表明し、意見を鬪はせて、議論によつて決着をつける、と云ふものです。民主主義の社會と云ふ「文脈」の下では、議論が起るのが正しいのであり、議論を囘避しようとするのが間違つてゐるのです。

条域は、私に自分の考へる「正しい」を「押附けろ」と要求してゐるのでせうか、それとも「押附けるな」と要求してゐるのでせうか。条域は私を困らせる爲に、私の發言を封じる爲の屁理屈を場當り的に言つてゐるのではないでせうか。
他人に何かを要求したければ一貫した要求をして下さい。一貫しない事を言ふから「正しくない」のです。条域の發言には、一貫性がありません。即ち、条域の發言には、正しさがありません。条域は、一貫性のない要求を續け、正しくない主張をしながら、野嵜に何事かを要求して見せ續けてゐます。私は条域の要求を理解出來ないし、正しいと認める事が出來ません。結果として、条域の言つてゐる事に納得出來ません。納得づくで相手を動かさうとするのは、思想の押附けではありません。しかし、相手を納得させないで、力づくで從はせようとするのは、それこそ「押附け」的な態度であると言つて良いでせう。今の条域のやつてゐる事は、さう云ふ思想の「押附け」ではありませんか。
一貫した主張に對しては、一貫した反論が可能であり、それによつて議論が成立します。一貫しない主張が行はれたのでは、議論は成立せず、泥沼の言爭ひに陷るだけです。私は議論が成立した方が良いと思ふから、自分の主張に一本筋を通さうとし、自分の主張に「正しさ」を持たせようとしてゐます。さうした主張には、自分なりの「正しい」と思はれる主張でもつて反論する事が出來ます。Aにとつて正しいと思はれる主張と、Bにとつて正しいと思はれる主張とが衝突する時、相互に相手の主張の一貫性の缺陷を衝く批判がなされ、それによつて相互に相手の主張の檢討が行はれる事になる。結果として、どちらかが「正しい」と信じてゐた事は、實は論理に穴があつたり、何らかの缺陷を含んでゐたりする事が明かとなる、それによつてより正しいと思はれる側が「勝つ」――それが議論であり、それによつてより正しいと思はれる事が一般化し、社會が進歩する。建設的な議論がなされる事は良い事であり、その爲には各自が「正しい」と思ふ事をより「正しくする」努力が要請されます。
編集済

其処にだけ反応します  投稿者: 条域  投稿日: 1月 6日(金)21時46分27秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
>既に述べた通り、全ての場合に「正しい」と言へなくとも、或條件の下で「正しい」と云ふ事は言へます。
それはもちろんです。

>私は言葉遣ひについて「學問的に」と云ふ條件の下で「正しい」と云ふ事を述べてゐるに過ぎません。
「正しい」という指針を「示す」だけならかまいません。

>ただ、現實の言葉を「より良いものにしていかう」としたら、その指針は學問――國語學とか言語學とか――しかあり得ない訣で、それに對して「誤用は現實に『ある』ものだ」等と「反論」しても意味はないでせう。
指針そのものは批判しておりません。指針は理想論としては最もすばらしいものです。
「誤用は現実に『ある』ものだ」と反論したのは、"押し付けがいけない"と言ったまでで、指針として「あるべき」を示すだけならば、何も問題はありません。
というと「お前こそ誤用の押し付けをやめろ」と突っ込まれそうですが、別に押し付けてないのです。「どちらでも良い」と言っているだけで。

>「現實に『ある』」事は、「現實を良くして行かうとする」立場の人間にとつては批判の對象なのであり、それに對して「現實にある事は現實にある事なのだ、よつて現實を批判してはならない」等と言つたら、單なる言論彈壓です。「現實に『ある』」事は、批判して構はない。
そして、言葉に關しては、現實をより良いものとする爲の指針は、國語學や言語學にしかありません。それに基づいて現實を批判するのは當り前の態度だと言へます。
もちろん、「世の中なんて良くしないで良いのだ、今のまゝの現實で良いのだ」と云ふ立場もあり得ますし、それが条域の立場である可能性もあります。が、さう云ふ「現實追随主義」では世の中、進歩しませんし、そもそも現代の自由主義は理想主義に基いてゐるものですから(さうでないと現代の日本が採用してゐる自由主義體制の理論が成立たない。河合榮治郎の著作『自由主義の擁護』等を參照の事)、理想主義的な現實批判は「あり得る」のみならず「あり得べきものである」と言ふ事が出來ます。
個人的にはここが一番引っかかるところでして。
「現実の言葉をより良いものにしていこう」というのは立派です。
では、何故「批判」をしない範囲で「現実の言葉をより良いものにしていこう」という風になさらないのですか?「俺は現実の言葉をより良いものにしていこうとしているんだ、だから批判するのも当たり前だ」というのは妙な考え方です。
「言葉を疑え」のコンテンツにしても、たとえば、「先日とあるサイトで"たひ"とかいう表記を見つけましたが、これは間違いだ。なぜなら…」と、この程度にしておけばよかったのではないでしょうか。
「学問的に」という条件の下で「正しい」という事を述べているに過ぎないのなら、それでもかまわないはずです。

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 6日(金)01時08分55秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
「綜合藝術」である映畫やTVアニメーションは、ノイズとなる要素が多過ぎて、完全な作品になりにくいんですよ。「メディアミックスは可能か」の恐らく少女漫畫家論の邊で述べたやうな記憶がかすかにあります。

文字の誤、訂正しました。何時も何うもです。

(無題)  投稿者: 澤田亮太  投稿日: 1月 6日(金)00時36分30秒 p220208154191.tcnet.ne.jp
映畫やあにめが藝術足り得ないのは何故でしたか……前に見た樣なー……。

>良きした状態と、現實の状態との間に齟齬があつて
s/良き/豫期/

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 4日(水)00時30分31秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
河合榮治郎『自由主義の歴史と理論』より「自由主義の歴史」のまとめ。

http://noz.hp.infoseek.co.jp/KawaiEijiro/Jiyushuginorekishitoriron.html


(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 3日(火)20時13分46秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
理想主義的自由主義については「「自由」について」の下の方にちよつとだけ書いた。

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/kotoba/Jiyu.html


此處だけ反應して呉れれば良し  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 3日(火)19時49分3秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
既に述べた通り、全ての場合に「正しい」と言へなくとも、或條件の下で「正しい」と云ふ事は言へます。私は言葉遣ひについて「學問的に」と云ふ條件の下で「正しい」と云ふ事を述べてゐるに過ぎません。ただ、現實の言葉を「より良いものにしていかう」としたら、その指針は學問――國語學とか言語學とか――しかあり得ない訣で、それに對して「誤用は現實に『ある』ものだ」等と「反論」しても意味はないでせう。
「現實に『ある』」事は、「現實を良くして行かうとする」立場の人間にとつては批判の對象なのであり、それに對して「現實にある事は現實にある事なのだ、よつて現實を批判してはならない」等と言つたら、單なる言論彈壓です。「現實に『ある』」事は、批判して構はない。
そして、言葉に關しては、現實をより良いものとする爲の指針は、國語學や言語學にしかありません。それに基づいて現實を批判するのは當り前の態度だと言へます。
もちろん、「世の中なんて良くしないで良いのだ、今のまゝの現實で良いのだ」と云ふ立場もあり得ますし、それが条域の立場である可能性もあります。が、さう云ふ「現實追随主義」では世の中、進歩しませんし、そもそも現代の自由主義は理想主義に基いてゐるものですから(さうでないと現代の日本が採用してゐる自由主義體制の理論が成立たない。河合榮治郎の著作『自由主義の擁護』等を參照の事)、理想主義的な現實批判は「あり得る」のみならず「あり得べきものである」と言ふ事が出來ます。

条域は、(それ自體として深い考察を缺いてをり、非常に問題があるのですがそれは兔も角)いはば「古典的」な「正義論」、「一般論的」な「正義論」を展開してゐます。しかし、それは現實を無視した原則論となつてをり、甚だしい抽象論となつてゐます。「現代の社會」と云ふ「文脈」があるのですから、其の「文脈」の下で「現代の言論の正義」も考へられなければなりません。
編集済

(無題)  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 3日(火)19時35分27秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
で。

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/kotoba/Kanadsukahi.html

>この手の變な假名遣は戰前からあつたやうで、「發音通り説に贊成する急進論者」である堺利彦も『文章速達法』で攻撃してゐます。
>
>>しかるに世間には、古式でもなく、發音通りでもない、妙な一種の假名遣をする人がある。すなはち「見へる」「無ゐ」「あらふ」などの類である。「見える」「無い」「あらう」と書けば、發音通りでそして古式にも合するのに、わざわざ讀みにくく書くとは、氣の知れぬことである。
>
>「現に著者自身のごときも、若い時分に古式を正式と確信して、かなり研究も積み、實行にも勉め、すこぶる頑固な態度を取つてゐたことがあるために、今では發音通り説に贊成する急進論者でありながら、なほ實際においては、ある程度まで古式を守らねば氣の濟まぬ感情を存してゐる。」と云ふ中途半端な堺であるが、その堺の言ふ「わざわざ讀みにくく書く」書き方がよろしくない事は言ふまでもない。

ここで野嵜は、堺利彦の文章を引いて「わざわざ讀みにくく書く」書き方を批判してゐるのであり、獨斷で「罵つてゐる」なんて事實はありません。もし条域が野嵜を批判したければ、野嵜が引用してゐる堺をも批判しなければならないでせうし、

>>しかるに世間には、古式でもなく、發音通りでもない、妙な一種の假名遣をする人がある。すなはち「見へる」「無ゐ」「あらふ」などの類である。「見える」「無い」「あらう」と書けば、發音通りでそして古式にも合するのに、わざわざ讀みにくく書くとは、氣の知れぬことである。

と云ふ引用文に即して批判を展開してゐなければなりませんが、故意にかうつかりにかは知りませんが、条域は堺の指摘を無視して「正義論」を展開してゐます。具體的に議論出來る材料がある、にもかかはらず条域が抽象論を展開してゐる――ここに条域がわざと議論を泥沼化させ、或は条域自身に都合の良い「結果」を引出さうと云ふ意圖が「ある」のではないかと推測せしめる原因があります。

端的に言へば、野嵜が「正義論」を展開してゐない場で条域が「正義論」を展開してゐる事が、それ自體として「話のすり替へ」である、と云ふ事。

幾つかの事實の確認  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 3日(火)19時27分47秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
>あくまでも「学問的な"正しい"は相対的だ」と言っただけです。

>正義・悪の「正しい」と、学問的な「正しい」とを混同しないでいただきたいものです。
>正義・悪の「正しい」に従う必要があることは「自明」ですが、何故学問的な「正しい」に従う必要があるのでしょうか。

条域の發想を考察してみる。揚げ足取りの部分が多くて話が判りにくくなつてゐるが、それだからこそ条域の「根本原理」を暴く事が、混亂した議論を解決する端緒となると思ふ。

−−−−−−−−
条域が何を言ひたいのか。
−−−−−−−−

1.野嵜は學問的な立場から「正しい」「正しくない」と言つてゐる。しかし、學問的な「正しい」は相對的だ。野嵜は「學問的に正しくない物の言ひ方」を罵つてはならない。

2.条域は「正義・悪」の「正しい」の立場から、「正しくない」野嵜に反對してゐる。だから野嵜は条域に反論してはならない。

−−−−−−−−

ところで、現實に野嵜が「たひ」と言つた某氏をどう「罵つた」かを見てみたい。

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/kotoba/Tahi.html

>助動詞「たい」を「たひ」と表記せねばならない理由を説明していただきたい。「たい」は文語の「たし」が音便で「たい」となつたもの。即ち、「たい」は「たい」であり、「たひ」になる事は絶對にない。

で、某氏の説明があつてそれに對して野嵜は斯う述べた。

>と云ふ譯で、一番上の引用は掲示板からのものだと註釋。

最後にコメントとして「でも、間違ひは間違ひだ。」と書いた。

事實として野嵜は某氏を罵つてはゐないし、ただ學問的に「たひ」ではなく「たい」が正しい所以を説明してゐるに過ぎないし、某氏の釋明を「受容れてゐる」。

条域は結局、戰後の國語改革を押附けたいだけらしい  投稿者: 野嵜  投稿日: 1月 3日(火)19時11分0秒 61-24-239-144.rev.home.ne.jp
そもそも辭書に「正しい」の定義が
1.道理や法にかなって、誤りが無い。「──行い」「──答」
2.きちんとしている、整っている。「──姿勢」
の二つあるのだから、どつちの意味で使つてゐても構はないでせう。この二つの用法を結び附けて「この辭書は矛盾してゐる」と言つたら馬鹿です。条域はその馬鹿な事を言つてゐるに過ぎません。

>本人が「テストのつもりで使った」と仰ったらあなたはどうするつもりだったんでしょう。
テストの積りである訣がないでせう。どうしてさう云ふ事が「あり得る」と条域は判斷したのでせう。大體、何で「ふざけた文章」と「テスト」とを結び附けなければならないのでせうか。言掛りです。

>学問とは誰かが作り出すもの、人工的なものでしょう。だったら、「正しいこと」というのは「誰かが決めたこと」でしょう?
學問とは事實に基くものであり「正しい」を「決める」事ではありません。當り前でせう。水はH2Oですが、それを「CO2が正しい」なんて決めたつて意味がありませんね。水がH2Oであるのは「誰かが決めた事」ではありません。それは事實だから正しいのです。「たい」だつて「たい」と云ふ事實が「ある」から「正しい」のです。誰も「『たい』を『正しい』と決める!」なんて言つてはゐません。

>「あるべき」ですか…。みんながみんな「あるべき」に従えば、それはすばらしいことでしょう。だからと言ってあなたに「あるべき」を押し付ける権利はないでしょう。「あるべき」を推薦することはできますが。
ならば寧ろ「言葉の誤用」を押附ける權利こそ、誰にも「ない」のではないですか。

>「正字正かな」が「あるべき」姿だと思っていたとしても、現状に合わせて「現代仮名遣」を支持している学者はいるでしょう?どこがインチキですか。
「現状に合わせて」の何處がその學者の理論なのですか。「現状に合わせて」の何處がその學者の理論なのですか。条域は具體的に「現状に合わせて」が「私の學説の根本的な原理である」と宣言してゐる學者の名前を擧げられますか。斷言しますが、そんな學者は存在しません。

>あなたは「正字正かな」をどうしたいのでしょう?日本全土で「正字正かな」が使われるようになる「べき」だとか思ってるの?
何度も言つてゐますが、あなたは知らないのでせうね、私は「正しい」事が「ある」と認められるべきであり、正字正かなが原則として認められるべきである事を主張してゐます。原則は原則であつて、實際には誤用なり省略なりが發生する事もあり得ます。手書きで正しい書き方を忘れたから當座、略字や略かなを使ふ――さう云ふ事は實際、あり得るだらうが、それを一々規制しよう、なんて事は考へてゐません。(さう云ふ無茶な事を考へたのは、「現代仮名遣」や「常用漢字」を支持してゐる人々です)

>現実にあわせて「正しい(整然とした体系があるという意味で)」を妥協することの何がいけないんですか。
理念の領域で妥協は出來ませんし、しては行けません。理念として「整然とした體系」があつて、それが現實に表れた時「體系としては崩れたもの」となる、と云ふ事が「ある」だけです。理念と現實とは區別される、それだけの話。現實を根據に理念を破壞しようとする――それに反對だと。

>多数決の論理なんて持ち込んでません。
持ち込んでゐるぢやないか。とぼけるな。条域は「現状に合わせて」と言つた。「現状に合わせ」るのだから、現状の「多數派」に「合わせ」ると云ふ事以外にはあり得ない。多數決ぢやないか。

>あと"国語学的に正しいものこそが正義である根拠はなんですか?"に答えてください。
國語學的に正しくないものを押附けるのに、条域は贊成であると。「現代仮名遣」も「常用漢字」も、國語學的に正しくないものではないですか。國語學的に正しいと主張するのなら、条域は具體的に根據を擧げて「現代仮名遣」と「常用漢字」の「學問的に正しい所以」を説明しなければなりません。「それが現状だ」では説明になりません。「現状」を作つたのは「現代仮名遣」と「常用漢字」が「押附けられた」結果だからです。

>正義・悪の「正しい」と、学問的な「正しい」とを混同しないでいただきたいものです。
>正義・悪の「正しい」に従う必要があることは「自明」ですが、何故学問的な「正しい」に従う必要があるのでしょうか。
>学問的な「正しい」は相対的なものですが、正義・悪の「正しい」は絶対的なものです。
絶對的な正義なんてものはこの世に存在しません。あと、「惡」の意味を条域が全く考へてゐない事はこの發言で明かになりました。
「良い−惡い」と「善い−惡い」とは、別の次元の觀念です。前者は相對的な正義、後者は道徳的な善惡についての形容詞――しかし日本人は正義と善惡とを區別しないから同じ「惡」と言つてしまふ。けれども兩者は別の物です。

ところで、假に「絶對的な正義」が「ある」として、条域が「自分の正義」はその「絶對的な正義」と一致すると信じてゐるとする、しかしその「条域の正義」が「絶對的な正義」と何うして「一致する」と言へるのですか。「絶對的な正義」として条域は今「条域の正義」を野嵜に「押附け」てゐますが、それが「条域だけの正義」で「ある」可能性はあります。「さうではない、絶對的な正義なのだ」と条域は主張したいのでせうが、それは力強く斷言すればさう「なる」ものではないでせう、「条域の正義」が「絶對的な正義」と一致すると言ふのならその理由を説明して下さい。今、条域は何一つ説明しないで「条域の正義」を押附けようとしてゐます。

と言ふか、「俺樣の正義は絶對の正義」等と言つてゐる輩だから、条域は氣狂ひなのだらう。

>「学問的な正しい」を守らなければならない理由がわかりません。僕が主張している「正しい」は学問的なことについてではありません。
あなたの「正しい」は、では、何なのですか。どのやうなもので、どうして誰もが受容れなければならないものである訣ですか。説明して下さい。恐らく、説明出來ないから「絶對的」とか言つてゐるのでせうが、そんなものはありません。

>しかし国語学で"皆が使っているからそれに合わせます"という論理が悪い理由は何でしょうか?
>そもそも、初めに学問ありきではありません。現代仮名遣に基づいて自分の国語学の理論を構成するべきです。
「現代仮名遣」に基いて學問の理論を構成してはなりません。「現代仮名遣」は根據ナシにでつち上げられた、役所の命令なのだから。
条域の發想は官僚的に過ぎる。あんたは役人ですか。役人が役所の中で「現代仮名遣」に從ふのならばそれは役目だから仕方がないが、役所の外でまで「現代仮名遣」を押附けられる理由はない。御上に人の思想まで支配されたくはない。學問は自由であるべきだ。學問の自由とは即ち「命令にではなく事實に從ふ自由」の事だ。「『現代かなづかい』を使へと云ふ命令によつて出來上つた『現實』」を本當の現實だとは認めない。

>"理論的・體系的"な一貫性はあくまでも一般論です。一般論は事実の前に崩れさる。そうでしょう?
>正しくない言葉遣いも現実世界では通じる、それが「事実」です。
「通じる」事は「それが正しい」事の根據にはならない。現實と理念とは違ふ。それを無理やり一致させようとしたのが表音主義であり、戰後の國語改革だ。

>無視
>無視
反論出來ないから無視したのだと看做し、条域が負けを認めたのだと解釋する。

>「たひ」が「正しい」と言っている国語学者なんていないでしょう。当たり前です。しかし、場合によっては「正しい」言葉遣いをしなくても良い、という国語学者ならいるんではないですか。「例外」として。ここら辺は個人の思想の問題ですが。
さう云ふ國語學者もゐますがね、金田一京助とか。しかし、さう云ふ國語學者に私が何うして從はなければならないのですか。条域は「野嵜が条域の支持する正義に從はなければならない必然的な理由」を説明しません。

大體、正しくない言葉遣ひをしても良い――と考へるのならば、どうして条域は「現代仮名遣」を支持しなければならないなんて事を言へるのだらう。「現代仮名遣」に從はなくても良い「場合もある」のでせう。

>もう一度言います。正義・悪の「正しい」と、学問的な「正しい」とを混同しないでください。
混同してゐるのは条域でせう――と言ふか、「正義と惡とを混同しないで下さい」と申し上げたいですね。

>「たひ」とかはもちろん学問的に「正しい」わけはありません。だからといってその言葉遣いを悪だと決め付けることはできません。
極附ける事が出來ます。何うして「正しくない」ものを「正しい」と言へるのでせうか。私は「正しくない」から「正しくない」と言つた、ただそれだけの事です。それに条域が「正しくない」事も現實には「ある」と、全く別の觀點から難癖をつけて來た。

>というかですね、議論相手を「馬鹿」と罵るとは、議論において一番よくないことだと思うんですけどねえ。議論中に相手を「馬鹿」と決め付けることが許されるならば、僕は野嵜さんを「馬鹿」だと決め付けて、「馬鹿と議論する価値なんかない」とか言ってこんな議論終わりにしたいのですが、いかがでしょうか。
馬鹿を馬鹿と言つて罵つて何が惡いのだらう。条域が馬鹿である所以は説明したし、それに条域はまともに反論出來てゐない。だから条域は馬鹿。俺は条域にきちんと反論してゐるし、条域はそれにまともに反論出來てゐない。条域が俺の事を馬鹿呼ばはりしたければすれば良いが、それは条域が馬鹿だから自分が馬鹿である所以を理解出來てゐないだけの事にすぎない。

>それから、
>"僕が批判したからといって再び野嵜さんは「誤り」を正したがるでしょうが、それは野嵜氏が他者の考える「正しい」の観念を理解せず、他者に不利なようにでっち上げた「正しい」の観念で他者の言っている事を解釈しようとするから「誤り」に見えてしまうだけであり、僕の考えでは誤りではありません。"の部分に 野嵜さんが具体的に反論できないことなんてわかってますよ。
条域の言つてゐる事が反證不可能な「トンデモ」理論だからだ。
しかしその「トンデモ」である事を自覺してゐる、と言ふのなら、最早處置ナシだ。

>"「ー」を挾む事は「正しい言葉遣ひ」を支持する人間には絶對に許されない事だ、と条域氏は非難するでせうし、野嵜が反論したからと言つて再び条域氏は「矛盾だ」と言つて非難するでせうが、それは条域氏が野嵜の考へる「正しい」の觀念を理解せず、野嵜に不利なやうにでつち上げた「正しい」の觀念で野嵜の言つてゐる事を解釋しようとするから「矛盾」に見えてしまふだけであり、野嵜の考へでは矛盾ではありません。"
>というあなたの文章だって具体的に反論することのできないものです。
できるものを「できないものです」等と言ふな。俺の言つてゐる事には反證可能性がある。「野嵜の考へ」「条域の考へる『野嵜の考へ』」は示せるし、それらを檢討すれば「条域がなぜ『野嵜の考へ』を或形態のものとして構想したか」は判る。

条域は、野嵜の發言をまぜつ返して、「ほら、野嵜が今言つてゐる事は、前に言つた事と矛盾してゐる」とか極附けようとしてゐる。しかし、さう云ふ表面的な揚げ足取りをしても何の意味もない。それは揚げ足取りでしかない。
さう云ふ揚げ足取りを繰返す条域だが、その揚げ足取りが条域の「根本原理」とどう關はつてゐるのかが理解出來ないと云ふのが一番の問題だ。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月 3日(火)12時06分35秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
>条域の「價値相對主義」は、全ての價値を相對的なものと看做します。
そんなことしてませんってば…。
あくまでも「学問的な"正しい"は相対的だ」と言っただけです。

(無題)  投稿者: 条域  投稿日: 1月 3日(火)12時02分56秒 h219-110-187-009.catv02.itscom.jp
">しつこいやうですが、「試験場」のHTML文書は野嵜の考へる正しいマーク附けの方法に則つて行はれたものであり、生成の過程は完全に正しいものとなつてゐます。ここで手を拔いてゐれば非難されなければなりませんが、私は手を拔いてゐません。HTML文書の生成プロセスとして宣言が必要であると云ふ事ですが、それを省略してゐる――だからこそ私は「略式だ」と言つてゐるのであり、それは略式なのであつて間違つてゐるのではありません。

これに對してはそもそも条域は再反論してゐません。"

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聞きなおしますが、野嵜さんは"「たひ」が正しくない"と仰るときの「正しい」をどのような意味で使っていらっしゃるのですか。
1.道理や法にかなって、誤りが無い。「──行い」「──答」
2.きちんとしている、整っている。「──姿勢」
の、どちらですか?
2の定義で使っていらっしゃるなら、これは「矛盾」と言っておかしくないのではないか、と。(しつこいようですが試験場のリソースは2の定義での"正しい"には反しているので。)
で、もしも1の定義で使っていらっしゃるなら、確かにこれは「矛盾」じゃないでしょう。
それなら、"「正しい書き方をした」とは、「マーク附けの理念に基いた正しいマーク附けをした」の意味である"…この部分には十分納得できます。
しかし、そもそも、「正しい言葉遣い(道理や法にかなって、誤りが無い言葉遣い)」とは如何なるものですか。
例えば野嵜さんの使った「だーかーらー」というのは、正しい言葉遣いなんですか?厳密な意味で言えば、書き表すときには不適切な表現なんじゃないか、と思いますが。勿論表音的に考えれば「だーかーらー」というのは正しい言葉遣いです。でも、「たひ」もそういう意味では正しくないでしょうか。「たい」を「たひ」と発音してしまうことも、なくはないですよ。それに、「国の定めた基準こそが、正しい基準」なんてことが無いのは、正字正かな主義者にとっては明らかなことでしょう。1の定義で「正しい日本語」を使っていらっしゃるなら、どんな基準が「正しい」のか教えてほしいのですが。
----------------------------------------
ここで僕は"もしも1の定義で使っていらっしゃるなら、確かにこれは「矛盾」じゃないでしょう"と言ったんですが。

>野嵜の「たひ」批判が、本人が何う思つて使つたかを問題にした批判であつたのだから、本人が何と言つたかは關係があるでせう。
「本人が何う思つて使つたか」あなたには最初からわかっていたんですか?
本人が「テストのつもりで使った」と仰ったらあなたはどうするつもりだったんでしょう。
>なんで「決める」事が必要になるのでせうか。あなたは何うも「正しい事は誰かが決めてゐなければならない」とか、そんな變な思ひ込みを持つてゐるのではないでせうか。
「これは誰も決めてないけど正しいことなんだ」とはどういうことでしょうか?
「正しいこと」を学者の誰もが決めてないんですか?
だとしたら、それは野嵜さんが一人で決め付けている、ということでしょう。
>「正しい」とは「学問的に正しい」の意味であり、「學問的に正しい」とは「整然とした體系性がある」事であり「論理的に一貫してゐる」事です。
学問とは誰かが作り出すもの、人工的なものでしょう。だったら、「正しいこと」というのは「誰かが決めたこと」でしょう?
>國語學は現實の國語をもとにした學問ですから、現實が變はれば學問の方でも理論の修正をします。しかし、その一方で、理論的に「あるべき國語の發展の仕方」を示す事もあり得ます。
「あるべき」ですか…。みんながみんな「あるべき」に従えば、それはすばらしいことでしょう。だからと言ってあなたに「あるべき」を押し付ける権利はないでしょう。「あるべき」を推薦することはできますが。
>「現代仮名遣」を支持してゐる國語學者はインチキだと思ひますね。
「正字正かな」が「あるべき」姿だと思っていたとしても、現状に合わせて「現代仮名遣」を支持している学者はいるでしょう?どこがインチキですか。
あなたは「正字正かな」をどうしたいのでしょう?日本全土で「正字正かな」が使われるようになる「べき」だとか思ってるの?
現実にあわせて「正しい(整然とした体系があるという意味で)」を妥協することの何がいけないんですか。
>學問に多數決の論理を持込むべき必然的理由は何ですか。あなたの獨斷でせう。
多数決の論理なんて持ち込んでません。
あと"国語学的に正しいものこそが正義である根拠はなんですか?"に答えてください。
>それは条域さん、あなたの「正しい」ではないですか。条域さんは、「正しい」を押附けるのは許されないと思ふのなら、自分から先づ「正しい」の押附けをやめなさいよ。自分だつて「正しい」の押附けをやりたいと思つてゐるのでせう。ならば他人のやつてゐる事を批判出來た筋合ではないでせう。
正義・悪の「正しい」と、学問的な「正しい」とを混同しないでいただきたいものです。
正義・悪の「正しい」に従う必要があることは「自明」ですが、何故学問的な「正しい」に従う必要があるのでしょうか。
学問的な「正しい」は相対的なものですが、正義・悪の「正しい」は絶対的なものです。
>「正しい」の押附けは許されます。當り前です。許されないのならば、言論は一切不可能になります。
もちろん場合によっては許されます。当たり前です。
正義・悪の「正しい」は許されます。
>獨斷ではないでせう。理論を示してゐるのだから。
「理論的でない、非論理的な主張」は、それは押附けてはならないものです。しかし、理論的に物を言つてゐるのなら、それにはそれなりの妥當性があるのであり、それは相對的に「正しい」のであり、さう云ふ「正しさ」の主張は「あり」です。条域さん、それを否定したければ、先づあなた自身が默りなさい。
"条域さん、それを否定したければ、先づあなた自身が默りなさい。"というのが意味不明です。
「学問的な正しい」を守らなければならない理由がわかりません。僕が主張している「正しい」は学問的なことについてではありません。
>私は獨斷的に「正しい」と稱してゐるのではありません。獨斷か何うかは、言つてゐる事に一貫性や體系性があるか何うかにかかつてゐます。私は、自分の言つてゐる事に理論的・體系的な一貫性――正しさ――が「ある」やうに、理論や體系を構築してゐます。一貫性のない行當りばつたりな事、當座の自己正當化をしてゐるのではありません。ですから、私は「独断的な『正しい言葉遣い』」を「振り回す」なんて事はしてゐません。
それに私は言葉遣ひについて批判なり批評なりをする際には辭書なり何なりの典據に基いてゐます。勿論、自分の發言における言葉遣ひの誤を指摘され、それが慥かにその通りであれば訂正してゐます。
"理論的・體系的"な一貫性はあくまでも一般論です。一般論は事実の前に崩れさる。そうでしょう?
正しくない言葉遣いも現実世界では通じる、それが「事実」です。
>条域氏の「僕の考え」こそ「独断的」ではないですかね。条域氏の言つてゐる事には理論的な一貫性が全くない。だから条域氏の言つてゐる事は「正しくない」し「独断的だ」と斷定出來ます。
"理論的な一貫性が全くない"根拠がこの部分では示されていないので無視で。
>と言ふかね条域さんあんた、「俺の言つてゐる事は決して誤つてゐないぞ」と、さう云ふ傲慢な態度をとるあんたは何樣ですか。あんたこそ俺の論理を全然理解しようとしなかつただらう? あんたこそ野嵜に不利なやうにでつち上げた「野嵜の論理」で野嵜の發言を解釋しようとしてゐませんでしたか。そんな事は全くしてゐない、と条域さんよ、あんたは根據ナシに宣言するだらうし、宣言しさへすれば言つた事は「正しくなる」とでもあんたは思つてゐるのだらうが、そんな馬鹿な話はない。
これも根拠が示されていないので無視。
>理論的に「現代仮名遣」を支持してゐる國語學者とは誰なのか、具體的に名前を擧げていただきたいですね。「皆が使つてゐるからそれに合はせます」とか云ふのではなく、自分の國語學の理論に基いて「現代仮名遣」がそれに合致してゐるからと言つて全肯定してゐる國語學者。
自分の国語学の理論に基いて「現代仮名遣」がそれに合致しているからと言って全肯定している国語学者?それはいないかもしれません。
しかし国語学で"皆が使っているからそれに合わせます"という論理が悪い理由は何でしょうか?
そもそも、初めに学問ありきではありません。現代仮名遣に基づいて自分の国語学の理論を構成するべきです。
>条域は、どうも俺がHTMLの事を言つてゐるのには根本的に興味が無いらしい。
まあ、根本的にはないですけど。
>条域がした反論は、「国語学に絶対的な『正しい』はない」なる「一般論」だつた。しかし、「たひ」について、その一般論が當嵌るか何うかを条域は考へてゐない。一般論は、事實の前に崩れさる。
条域は、「たひ」が「正しい」と言つてゐる國語學者がゐる、その人の名前は○○であり、出典は××である、と反論する事が出來た(だから野嵜の主張には反證可能性があつたと言へる)。もちろん、事實として、そんな事を主張してゐる國語學者はこの世に存在しない。条域は、理窟で「国語学に絶対的な『正しい』はありますか?」と言つた、しかし、事實として「たひ」に關しては國語學的な「正しい」が「ある」事は明か。よつて条域の一般論による再反論は却下される。
「たひ」が「正しい」と言っている国語学者なんていないでしょう。当たり前です。しかし、場合によっては「正しい」言葉遣いをしなくても良い、という国語学者ならいるんではないですか。「例外」として。ここら辺は個人の思想の問題ですが。
もう一度言います。正義・悪の「正しい」と、学問的な「正しい」とを混同しないでください。
「たひ」とかはもちろん学問的に「正しい」わけはありません。だからといってその言葉遣いを悪だと決め付けることはできません。
というかですね、議論相手を「馬鹿」と罵るとは、議論において一番よくないことだと思うんですけどねえ。議論中に相手を「馬鹿」と決め付けることが許されるならば、僕は野嵜さんを「馬鹿」だと決め付けて、「馬鹿と議論する価値なんかない」とか言ってこんな議論終わりにしたいのですが、いかがでしょうか。

それから、
"僕が批判したからといって再び野嵜さんは「誤り」を正したがるでしょうが、それは野嵜氏が他者の考える「正しい」の観念を理解せず、他者に不利なようにでっち上げた「正しい」の観念で他者の言っている事を解釈しようとするから「誤り」に見えてしまうだけであり、僕の考えでは誤りではありません。"の部分に 野嵜さんが具体的に反論できないことなんてわかってますよ。
"「ー」を挾む事は「正しい言葉遣ひ」を支持する人間には絶對に許されない事だ、と条域氏は非難するでせうし、野嵜が反論したからと言つて再び条域氏は「矛盾だ」と言つて非難するでせうが、それは条域氏が野嵜の考へる「正しい」の觀念を理解せず、野嵜に不利なやうにでつち上げた「正しい」の觀念で野嵜の言つてゐる事を解釋しようとするから「矛盾」に見えてしまふだけであり、野嵜の考へでは矛盾ではありません。"
というあなたの文章だって具体的に反論することのできないものです。

正しいといふこと  投稿者: 日本語のために  投稿日: 1月 1日(日)02時14分35秒 softbank218128188093.bbtec.net
正しいといふことについて言へば、「たひ」は絶對に間違ひであり、「たい」が正しいことは周知の事實。ただ、それだけのことであります。条域氏は自分の不勉強を恥づべきでありませう。

http://www.geocities.jp/kokugo_shohousen/