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野嵜さんの書き込み(05月15日分)への移動レス 羽織ゴロ助/鐡扇會 1999年05月18日(火) 00時41分

乱入、失礼。

野嵜さん、鉄扇会の掲示板にようこそ!
宜しければ、これからも、どしどし書き込みをして下さいね。
お待ちしてをります。

さて、

>さて文学は美を描くか道徳を描くものなのですが、美は当てにならず、道徳も信じられぬ。
>だから日本の文学者は政治に劣等感を抱く。

これは、プロレタリア文学系の作家のことを、おつしやつてゐるのでせ
うか?
プロレタリア文学系の作家は、自分は立身出世出来なかつたとか、或い
は自分は生活無能者だとかいふ己のルサンチマンを隠蔽する為に、政治的
な「正義」の中に逃げ込んだのであつて、政治に劣等感を抱いたといふの
とは少し意味合ひが違ふやうな気がします。また、美や道徳の問題とも、
余り関係がないと思ひます。

>美や道徳は政治に比べ長持ちする――美はともかく道徳を信用するのが文学者の定めです。
>日本の文学者は日本の道徳に拘はらざるをえないし、拘はらねばならない。
>さもないと道徳はなくなつてしまひます。

悪漢小説を愛する私としては、ちよつと納得出来ない説ですね。(笑)
私は、制度的に(或いは政治的に)回収不可能な領域を扱ふのが文学だと
思つてをります。反社会的なものも、不道徳なものも、反秩序も、悪も、
タブーも、そして「一種前生の思ひ」も「恋闕のこころ」も文学ならば受
け入れてくれる。制度にとつての外部、それが文学です。
その意味では、政治と文学はきつちり峻別すべきだと考へてをりますが、
同じ峻別でも、「道徳」を基軸にする野嵜さんのものとは中身が大分違ふ
やうで。

ひよつとすると、福田恆存がお好きな野嵜さんの頭の中には福田の「政
治と文学を峻別せよ」といふ言葉が、こだましてゐるのでせうか?
しかし、福田が「一匹と九十九匹と」の中で批判したのは、左翼文学一
般であつて、その批判の骨子をそのまま三島や右翼に当てはめることは出
来ません。
何故なら、左翼系の文学者は、全ての問題は政治によつて解決出来る(=
百匹の羊は全て制度的に回収可能)と考へてゐますが、三島や右翼はさうは
考へてゐないからです。
考へてゐないからこそ、右翼の中から(最後の一匹の羊として)一人で狂
ほしく腹を切つて死ぬ者が出るのだし、恋闕のこころが決して制度的に回
収出来ないことが分かつてゐるから、(左翼がいふところの)天皇制が強大
な時ですら、それは表面に現れず、歌や個人の日記の中だけで密かに歌は
れたのです。

政治的な側面からのみで右翼を裁断しようとすると、必ず見誤ります。
もしかすると、野嵜さんが三島や右翼の中に見出してゐる「政治的なも
の」は、実は最も「非政治的なもの」なのかも知れませんよ。
ご注意あそばせ!(笑)

>市ヶ谷駐屯地で演説を打てば自衛官は決起する――さういふ甘い見通しが三島にはあつた。
>ところが三島は野次り倒され、テラスから引つ込まざるをえなくなりました。
>プライドが高い三島がどんな感情を抱いたか――
>要するに、単に三島は怒りに我を忘れて勢ひで腹を切つたのです。

これに関しては、村上一郎が言及してをりますが、確かに三島は当時「三
佐になつたばかりの防衛大学校第一回卒業者」あたりに「多少の期待は持つ
てゐた」やうです。しかしそれは、若い奴等は一佐クラスの連中程には官僚
化してゐないだらうといふ程度の期待であり、「三佐や一尉程度の者に兵を
動かせない」ことなど百も承知してゐました。
また、自分が「演説を打てば自衛官が決起する」などといふことは、願望
としては兎も角、その実現となると本気で信じてはゐなかつたでせう。
期待はしてゐるが、同時に何処かで深く絶望もしてゐる。
さういふ、やるせなさに貫かれてゐたのが、あの日の三島であつたと私は
思ひます。

ではでは。

シビリアンコントール 牢人/鐡扇會 1999年05月17日(月) 20時27分

シビリアンコントロールとは、皆さん存知の通り、「政治統制」や「文民統制」と訳されるで御座る。

これは、軍隊の動員後も、政府が作戦命令に介入できる、ということで御座るよ。

最近では、アメリカのクリントンやブッシュがいい例で御座るな。

このように首相なり大統領が最終的判断を下す訳で御座るな。

これと違って「統帥権の独立」の場合は、政府は軍隊の動員後は作戦命令に介入できないで御座るよ。

でも、飽く迄も軍隊の動員後も軍政に関しては政府の管轄下にあるで御座る。

では、何故、シビリアンコントロールという概念が必要なので御座ろうか?

本来、軍隊は国家に属しているのであって、時の政府に属してないからで御座る。

また、基本的に軍隊は自由裁量の許されている合法的な武装集団で御座る。

だからこそ、軍隊には「政治統制」が必要な訳で御座るよ。

現在でこそ、雲泥の差と考えられている「シビリアンコントール」と「統帥権独立」

という概念ですが、そんなに差はないといえると思うで御座るよ。

もし、時の政府に属しているのであれば、行政府の一部である警察と同様になってしまうで御座る。

明治期において福沢諭吉は著書「帝室論」で、軍隊は天皇直轄にして、時の政府とは

別にすべし、と記しているで御座る。

この意見は、当時、公論であったようで御座る。

一番問題なのは、亡国憲法の制約上、

警察予備隊から発展した自衛隊が警察以上に政府に隷属して、

警察以下の自由権しか得てない事に御座るな。

亡国憲法無効破棄!


マサさん、レスありがとうございます。 黒瓜・鐵扇會 1999年05月17日(月) 18時53分

本当に私みたいな雑駁な文章に返事をいただきありがとうございます。
さて・・・

>しかもやってない事までもでっちあげられて反省しろと言われている可能性が多々あるし・・・

日本の不幸は性急なる近代化であると僕は思います。
アジアへの西洋列強の侵略と同時に日本がアジアと出合わなくてはならなかったところに
不幸がある。
多分、昔の軍人教育なんて国際法の勉強だってろくにやってないですよ。
それでいろんな不幸な出来事があったと思います。
でも国際法を言うならば中国の便衣隊だっておかしいでしょ?
原爆だっておかしいんだ。
でもこれからは是は是、非は非として認めていくようにしなければいけない時代です。
でも非ばっかりなのよ、今までは。(笑)
だから幸いにしてこういう論議ができる時代になった事を大事にしていきたいという事ですね。

>祭祀国家という名称には抵抗がありますが、私も基本的には賛成です!

わかります、祭祀国家というとなんか抵抗ある人もいるかもしれませんね・・・。
僕はよく
「あなたにとって天皇とは?」
ってよく聞かれます。
突き詰めていけばエロスでしょうね。
つまり憧れなんですよ、日本の習俗の根本はそういう物です。
意識的にではなく無意識にやっている、それでいいと思います。
「最上の帽子はかぶっている事を忘れるほどの帽子だ」
という事です。

>国際ルールの中で国家(国ではない)が存在する限り嫌でも守らなくてはいけないのも事実です。

僕は今の平均的文化を楽しんで生きている人の一人です。
決して戦前のようにカレーの事を敵国語だからといって「辛み汁入り飯」とか言うふうには言いません。(笑)
でも、東京裁判の考え方だけは受け入れる事はできません。
マサさんにお聞ききしたい・・・国際ルールって何ですか?
どこに公正な国際ルールがあるのですか?
でも、そういうニヒリズムに負けることなく何かを生み出していこうという事はしなくては行けない(僕らの世代の)使命だとおもいます。

>両者を持ち合わせるバランス感覚が大事なのではという事です。

そうですね、僕個人は人から右翼といわれているけれども、
何も時代を右に右に傾けるのが目的ではないですよ。
昔ね、国民新聞という今でいうなら右翼の新聞社があったんです。
この新聞社は一般民衆が火を放って焼き討ちされたんです。
それはなぜか?日露戦争に反対を唱えたからですよ。
「今、露西亜と事を構えるはいたずらに国力を疲弊させるものなり」
右翼だからどうだ、右翼だからこういうこといってはいかんというような視点は
必要ないと思います。
もともとそんなものは昔はありませんでしたしね。

>純粋なのかもしれませんがテロ的行為というのは、あまり賛成出来かねますが

僕はテロ行為をした事はありませんのであまりテロ行為については言いたくありません。
僕が熱心なテロ行為信奉者ならここにはいませんし・・・。
ただ、テロを暴力と置き換えていいのであれば僕は肯定したい。
僕は柄にもなく芸術関係の学校を出てます。(笑)
それで書物などで昔の壁画、洞窟に牛とか人とか書いてあるのを見た事があります。
最近思うのですが、もし人類が洞窟で絵ばっかり描いていたら、
とっくの昔に滅んでると思います。
これが人間のバランス感覚であり人類が今まで生存しえた理由の一つではないでしょうか。

ありがとうございました。


  • 牢人/鐡扇會 投稿日:1999年05月18日(火) 02時00分
    黒瓜さんへ

    >多分、昔の軍人教育なんて国際法の勉強だってろくにやってないですよ。

    これについては、異論があるで御座る。日露戦争当時において、日本帝国軍が国際法を遵守したのは、

    有名な話しで御座る。(もちろん、知っているだろうけど)

    でも、そういう書き方は、多くの読者から誤解を受けるで御座るよ。


    >ニヒリズムに負けることなく何かを生み出していこうという事はしなくては行けない(僕らの世代の)使命
    だとおもいます。

    全く同感で御座る。「蒼洋」さんも書かれていたで御座るが、

    ニヒリズムを超克することが我らの目的で御座るな。

マサさんへ。 ryuchan 1999年05月17日(月) 13時54分

>基本的にドイツは先の戦争に対しては反省してるように見えて
>本心ではどう思ってるんでしょうか?

これは面白いです。
ナチスは反社会的と決められており、今では援護する事さえ禁止だそうですが、
私自身の考えですが、第一次世界大戦後のドイツの混乱を救うのにナチス以外の選択肢が
彼等にあったのだろうか、と言う疑問を持つ事があります。
当時も敗戦国だったドイツが多額の敗戦詫び料払わされけた違いのインフレで、
通常の生活にも窮した時に出てきた選択であり、あの状況下で、あの指導者が出てきたら
何処の国にも起きていた可能性があるのではないでしょうか?
そう意味も含めて、反省と言うより”負けた”の方が多いのでは?と考えます。
ただホロスコープの様な政策自体も(過去の欧州では良くあった話だとも思いますが)
仕方がなかったんだ的な言い訳はしてないようですね。

>極右政党の票の拡大はそういう国民の内面を吸い上げているんでは?と思います。
>反省しているとはっきり言える人はあまりいないのではないでしょうか。直接携わっ
>たわけではない人にとって、反省しろというのが無理なように思えます。日本にして
>も散々中国や韓国、東南アジア諸国から反省しろみたいな事を現在ですら言われます
>が、実際携わったわけではない人がほとんどであるため反省と言われてもぴんとこな
>い気がしますが、どうでしょう?(しかもやってない事までもでっちあげられて反省
>しろと言われている可能性が多々あるし・・・)

本当にそうですね。ただ個人レベルで今まで付き合った事のあるかの地の方から謝罪を
要求された事もありません。
大体本気で当時の中国や朝鮮に戦争で負けたと思っている人もいないと思います。
だから問題なのかも知れません。国と国だけじゃなく、例えば学生時代を思い出しても
弱い奴を殴ってしまったら、もう30年近く経っても、未だに恨まれてます。
これはもう本当に仕方がない事だと思うのです。
そして今の、中国とか韓国の要求は単なる政治的な駆け引きである事も、誰でも理解して
いるのではないでしょうか?
別の言い方すれば、やはり今でも我が国は彼等に取って、恐ろしい相手なのだと思います。
それで形相変えて必死で食い下がるのが、彼等の最善策だと勘違いしているのだと思います。
私の個人的見解としては、今の大陸側中国に自分達のやってる事棚にあげて、言われたかねえです。


>東京裁判は誰もが周知のように勝者が敗者を裁いた裁判です。個人的にはこの基本的
>理念がある限り、戦後処理裁判というものは全く無意味のように思います。
>際ルールの中で国家(国ではない)が存在する限り嫌でも守らなくてはいけないのも
事実です。その意味において私の考えとしては、その全てを総合的に含んだものと解
釈しています。だからこそ本来ならば、事実を追求しなくてはならないはずなのです
が、先ほど書いた勝者対敗者という構図がある限り公平というのは難しく、日本(皆
さんや私も含め)にとって納得のいかない結果になってしまったのではないでしょう
か。うーーん、難しい、皆さんのご意見を私も伺いたいです。


これは私の様な会津出身者なら即理解可能な”勝てば官軍”の図式で、勝った側は
これをやらずにはいられないようです。取りあえず相手が悪かったのだとしないと
自国の命を捨てた人達に言い訳できませんから。
これは私の疑問なのですが、本当に東京裁判が正しかったと思っている人もいるのでしょうか?
幾ら教科書でとか言っても、本当に”日本だけが悪かった”なんて、あの利に聡い若者達が
思っているはずないと、思っています。
私の米国の友人(30代後半から40代)でも、東京裁判が公正だったと思っている人は
誰もいないようでしたが。

>私の言いたい事は理念や精神論は物事の核であって、それを忘れろといっているので
>はなく、両者を持ち合わせるバランス感覚が大事なのではという事です。多くの(す
>べてじゃないですよ)右系・左系の運動に欠けている事はこの事だと思っております。

同感です。
もっと個人的見解を言えば、我々はそのバランス感覚って結構持っている民族だと
思っています。でなければあんな短期間で富国強兵したり、世界一の生産技術を
持てないと思います。物を作れる力って必ずバランス感覚が要ります。

>ただ、純粋なのかもしれませんがテロ的行為というのは、あまり賛成出来かねますが。
>皆さんのお考えを私も是非とも伺いたいです。

私は反対です。反論もあるでしょうが、戦い方として”幼さ”を感じます。

    皆さんはどのように思われますか? マサ 1999年05月17日(月) 11時02分

    >基本的にドイツは先の戦争に対しては反省してるように見えて
    >本心ではどう思ってるんでしょうか?
    >極右政党の票の拡大はそういう国民の内面を吸い上げているんでは?と思います。

    反省しているとはっきり言える人はあまりいないのではないでしょうか。直接携わったわけではない人にとって、反省しろというのが無理なように思えます。日本にしても散々中国や韓国、東南アジア諸国から反省しろみたいな事を現在ですら言われますが、実際携わったわけではない人がほとんどであるため反省と言われてもぴんとこない気がしますが、どうでしょう?(しかもやってない事までもでっちあげられて反省しろと言われている可能性が多々あるし・・・)

    >僕らが、いや僕が国家という言葉を使うときには2つ国家がありましてね。

    祭祀国家という名称には抵抗がありますが、私も基本的には賛成です!

    >戦争責任って敗戦責任なのか?開戦責任なのか?戦争犯罪に対する責任なのか?

    東京裁判は誰もが周知のように勝者が敗者を裁いた裁判です。個人的にはこの基本的理念がある限り、戦後処理裁判というものは全く無意味のように思います。しかし国際ルールの中で国家(国ではない)が存在する限り嫌でも守らなくてはいけないのも事実です。その意味において私の考えとしては、その全てを総合的に含んだものと解釈しています。だからこそ本来ならば、事実を追求しなくてはならないはずなのですが、先ほど書いた勝者対敗者という構図がある限り公平というのは難しく、日本(皆さんや私も含め)にとって納得のいかない結果になってしまったのではないでしょうか。うーーん、難しい、皆さんのご意見を私も伺いたいです。

    >福田恒在がこういう事を言っています。
    >「100人人がいたら95人くらいは物や金で救える、つまり政治で救えるんだ
    >しかし後の残りはどうしても文学でしか救えない」

    私の言いたい事は理念や精神論は物事の核であって、それを忘れろといっているのではなく、両者を持ち合わせるバランス感覚が大事なのではという事です。多くの(すべてじゃないですよ)右系・左系の運動に欠けている事はこの事だと思っております。例えばなぜ共産党は日本には世界でも類の無いほど長い歴史を持って存在してきた天皇家を認めないのでしょう?もちろん共産主義の主張から言って認められないものなのかもしれませんが、一つの同じ枠にはめるのではなく、国々によって異なった歴史や文化を形成してきたという前提を踏まえて運動すべきではないでしょうか。右翼・保守主義政党にしてもまたしかりです。ただ、純粋なのかもしれませんがテロ的行為というのは、あまり賛成出来かねますが。皆さんのお考えを私も是非とも伺いたいです。


    • 旗御飯/鐡扇會 投稿日:1999年05月17日(月) 19時38分
      > 私の言いたい事は理念や精神論は物事の核であって、それを忘れろといっているのではなく、両者を持ち合わせるバランス感覚が大事なのではという事です。多くの(すべてじゃないですよ)右系・左系の運動に欠けている事はこの事だと思っております。例えばなぜ共産党は日本には世界でも類の無いほど長い歴史を持って存在してきた天皇家を認めないのでしょう?もちろん共産主義の主張から言って認められないものなのかもしれませんが、一つの同じ枠にはめるのではなく、国々によって異なった歴史や文化を形成してきたという前提を踏まえて運動すべきではないでしょうか。
      ---------------------------

      うーん、やはり相容れない考えってのはあると思いますよ。世界観ですからね、思想は。
      だから譲れない線ってのはあるんで、それはそれでいいんだと思うんですよ。

      昔支那のエライ人が、陰の力と陽の力がつりあって、静かな状態と、何の力も働いてなくて
      静かな状態は違う、ってなこと言ってましたが、右は右を主張して左は左主張して、ボコり
      あって、落とし所を見つけていけばいいんで、下手に自分の中だけでバランスとろうとしたり
      すると、どっかの政党政治みたく何の力も働かない、淀んだ世界になっちゃうぞ。

    ごめんなさい! 黒瓜・鐵扇會 1999年05月16日(日) 16時36分

    送信が変になりました・・・すみません。

      はじめまして、マサさん! 黒瓜・鐵扇會 1999年05月16日(日) 16時35分

      ども!黒瓜と申します。
      いくつか思うところを書かせて頂きます。

      >ドイツが良い例です。確かに極右政党とは言われてはいるが、確実に議席を増やし、国を運営して行くパワーを形成しているから。

      基本的にドイツは先の戦争に対しては反省してるように見えて
      本心ではどう思ってるんでしょうか?
      極右政党の票の拡大はそういう国民の内面を吸い上げているんでは?と思います。
      ナチ式のものを掲げただけで逮捕なんてどうもできすぎのような気がしますね。
      う〜ん、うまく言えないや。

      >基本的に亡くなっていった多くの戦没者の方がいたおかげで現在の日本があるという事を決して忘れてはいけない事だと思います。

      日本(という国柄)は「死者との共生」をしてるんですよね。
      マサさんに賛成です。

      >国家と個人は別の次元

      僕らが、いや僕が国家という言葉を使うときには2つ国家がありましてね。
      1つは官僚機構的な国家です。
      これに対しては牙をむく事だってありますよ。
      もう一つは祭祀国家です。
      祈りやむすびで連綿と続いてきた国家ですね。
      これに対しては深く尊崇の念を抱いております。

      左の方の人は2つとも敵だといいます。
      僕らは1つだけが敵だと思ってる、その違いがあり同一性もあるわけです。
      でも、維新の時には真木和泉は京都の御所に向かって大砲まで打ち込んでるんですね。

      >戦争責任については国家責任を問われるべきであり・・・

      戦争責任って敗戦責任なのか?開戦責任なのか?戦争犯罪に対する責任なのか?
      僕にはわかりません。
      マサさんはどのようにお考えでしょうか?

      >歴史の事実を再考レベルで盛り上げる事が大事

      真実、事実、現実・・・それぞれがさまざまな側面を持っています。
      今までの論争は各陣営に有利な材料だけをフレームアップしてぶつけ合うというものでしたが
      「日本は悪い事をした侵略国家」という報道や教育に対するレジスタンスとしては認めたいですね。
      でも、もう少し理解しあおうという態度はお互いに必要だと思います。
      幸い最近はナショナリズムという考え方も右翼特有ではなくなってきました。
      これは大事にしなければいけない、そうでないとどうにもならんと・・・僕はそう思います。

      >精神論で何が大衆を先導出来るでしょうか?

      福田恒在がこういう事を言っています。
      「100人人がいたら95人くらいは物や金で救える、つまり政治で救えるんだ
      しかし後の残りはどうしても文学でしか救えない」

      僕はある政治結社に在籍しています。(鐡扇會は政治団体ではありません)
      でもねマサさん、自分でもまだわからないんですよ。
      (自分が)やっている事が政治か文学かがどうしてもわからない。
      もっとも文学的な事が政治的に効果を上げる場合だってあるけれど・・・。
      どうしても答えは分からないですよ。
      仏教でも大乗と小乗がありますしね・・・・う〜ん。(笑)
      たとえば仲間が公安事件を起こしたとします。
      街宣車でどこかに突っ込んでハラ切ったとしましょう。
      仮にそれが全く有効性を持たなかったとしても
      「ああ、きっと思いつめたんだろうな・・・かわいそうだな」
      やっぱり僕は理解してあげたい。
      火炎瓶一本なげるのも今は大変です、やっぱりその覚悟を理解してあげたいんですよ。
      有功か有功的でないか、それだけ考えて会議で行動した人を除名したり・・・
      どうしてもしたくありませんね。
      それじゃ、唯物的に(共産党)なってしまう。

      甘いといわれればそうでしょうけれどね。

      以上、あんまり旨く書けないや・・・ごめんなさい!

      でもマサさん、本当にいっぱい書いてくれてありがとうございます。
      これからもいろんなことかいてください。
      ここはそんな場所ですからね!
      本当に今後ともよろしくお願いします。
      ありがとうございました。

        追記 マサ 1999年05月16日(日) 14時19分

        ただこの点で一つ大事だと私が思うことは、基本的に亡くなっていった多くの戦没者の方がいたおかげで現在の日本があるという事を決して忘れてはいけない事だと思います。他国に何と言われようとも、お国のために亡くなっていった方達に対し尊敬の念を持つ事は大前提として考えられるべき事だと思っております。以前某掲示板において散々たたかれましたが、国家と個人は別の次元だという事です。戦争に負けてしまった事による責任問題はあくまで国家対国家のものであり、そこにおいて戦没者個人の考え及び存在は究極的な言い方をするならば存在しません。これを矛盾とおっしゃるならばそれはそれで構いませんが、戦争責任を国民個人(もちろん将軍や元首については歴史的に在ったと言えますが)に押し付けた事例はありません>>>ベトナム戦争は例外のように思われます(特にベトナム帰還 下級兵の不当な扱いは有名なので皆さんご存知だとは思いますが)<<< それにしてもベトナム戦争はアメリカ、ソ連の代理帝国主義戦争とも言えるため、日本が維新以来行なってきた戦争とはその意味合いも経過も異なっているため、同例として考える事は理論的に無理があると思います。戦争責任については国家責任を問われるべきであり、個人的責任を戦没者に問うこと自体、私的には誤った考えだという事です。ただ心情的にはあくまで勝者が敗者を裁いた裁判である経緯からして、全てが100%公正であったとは思えません。だからこそ歴史の事実を再考しようという雰囲気を国民レベルで盛り上げる事が大事なのではないでしょうか。


        長々と申し訳ありません。


        • 黒瓜・鐵扇會 投稿日:1999年05月16日(日) 16時34分
          > ただこの点で一つ大事だと私が思うことは、基本的に亡くなっていった多くの戦没者の方がいたおかげで現在の日本があるという事を決して忘れてはいけない事だと思います。他国に何と言われようとも、お国のために亡くなっていった方達に対し尊敬の念を持つ事は大前提として考えられるべき事だと思っております。以前某掲示板において散々たたかれましたが、国家と個人は別の次元だという事です。戦争に負けてしまった事による責任問題はあくまで国家対国家のものであり、そこにおいて戦没者個人の考え及び存在は究極的な言い方をするならば存在しません。これを矛盾とおっしゃるならばそれはそれで構いませんが、戦争責任を国民個人(もちろん将軍や元首については歴史的に在ったと言えますが)に押し付けた事例はありません>>>ベトナム戦争は例外のように思われます(特にベトナム帰還 下級兵の不当な扱いは有名なので皆さんご存知だとは思いますが)<<< それにしてもベトナム戦争はアメリカ、ソ連の代理帝国主義戦争とも言えるため、日本が維新以来行なってきた戦争とはその意味合いも経過も異なっているため、同例として考える事は理論的に無理があると思います。戦争責任については国家責任を問われるべきであり、個人的責任を戦没者に問うこと自体、私的には誤った考えだという事です。ただ心情的にはあくまで勝者が敗者を裁いた裁判である経緯からして、全てが100%公正であったとは思えません。だからこそ歴史の事実を再考しようという雰囲気を国民レベルで盛り上げる事が大事なのではないでしょうか。
          >
          >
          > 長々と申し訳ありません。

        私思うに・・・ マサ 1999年05月16日(日) 13時46分

        何度かお名前も出てきましたが、私自信高橋さんは考えの違いはあるにせよ、ご自分のお考えをお持ちになりそれを主張しているという点では、素直に感服しております。しかし相手の意見が何について言っているかという事を判断せず、ただ感情的な意見に傾倒しすぎているのでは、と思います。何度も言う通り、現実に見合った改善策を考えるのではなく、ただご自分にとって理想的でしかも隔たりすぎた感情から抜け出る事が出来ない限り、結局はご自分が批判なさっている“アカ” と同じ手法をとっているに過ぎないのでしょうか。この事はの多くの右系及び左系のHPにおいても、とても強く見受けられる傾向のように思え、“思想と「リアリティ」 ” の範疇でもある難しい問題だとも思います。この意味において幕末の坂本竜馬はバランス感覚の優れた愛国者の最も良き例だと思っております。まずは東京裁判は不当裁判だから認めないとかやり直せ云々を主張するのではなく、実際に何があったのかを再考するという雰囲気を国民全体として作りあげない事には本当の日本の姿が見えてこないのでは? 愛国精神の土台がほぼ消えかけてしまっている現在の日本社会において、過激な思想を持ち込んでも受け入れられないのではないでしょうか。当HP及び掲示板等はそのような意味において、私個人、より多数の人の関心を引く土台作りの礎になるべき存在だと思っておリます。

        それでは

          ニヒリズムを突破して、未来へ! 蒼洋/鐵扇會 1999年05月15日(土) 22時40分

          >ターボさん
           こんにちは。レスありがたうございました。

          > 人の一生には、実のところ何の意味もないのではないか。
          > 人はただ生まれ、生き、死ぬだけの存在なのではないかというニヒリズムの
          > 超克にこそ、これからの思想の意義があると思います。

           あ、あ、そ、それは…当に、
           「私はかういふ者だ!何はともあれ見違えてはいけない」
           と叫んだ、「元祖・ゴーマニスト」が…
           ショーペンハウアーを突破して進撃しようとした、
           あの「ツァラトゥストラ」の世界では…。
           私がかつて、キルケゴールと共に傾倒した
           …かのニーチェの精神では…。(以上アフォリズム風^^)
           そして更に、仏教数千年に象徴される、東洋的根本命題ではありませぬか。
           神道信仰自体の表面には、かかるニヒリズムそのものはなかなか現れませんが…

          > そのためには西洋的近代思想からの脱却を志向し、
          > 文化的相対主義のもとで日本の文化を考え直すこと

           我々が「日本人」である自意識と「文化的相対主義」とを両手に持ちつつ、
          現実世界の秩序再編にどのやうに関与して行けるのか。これは「鐵」に集つた
          我々の、可能性の実験でもありますね。

          > つまり、有体に言えば、これからも蒼洋さんにいろいろ教えて欲しいんであ
          > りますな、ははは。
          > 宜しくお願いしますでござる、ペコリ。

          私のはうこそ、宜しくお願いしますでござる、ペコリ。

          >皆さん!
           歌も歌へや酒も飲め
           そして浪漫も大いに語らう
           でもここは寂しい奴らの傷のなめ合ひの部屋ぢゃない
           共にニヒリズムを突破する現実を、未来に築きませう!
                                 (久々に詩人気分)蒼洋 拝

            マサさんへ bb/鐵扇會 1999年05月15日(土) 19時23分

            「国を思う事とは」拝読しました。

            大変、立派な論旨で参りました。どうやら「釈迦に説法」をしてしまったようです。

            失礼いたしました。自分が常日ごろ感じていることが「国を思う事とは・・・」に

            マサさんがちゃんと文章として書き記されてあり、作文が苦手な自分は

            感心してしまいました。今後とも御指導よろしく御願いします。

            高橋さんは真剣に国を思ってらっしゃる熱情家です。

            今一度、高橋さんの書き込みも再考戴ければ幸いです。

              鐵扇會にお手紙もってきた へんな白やぎさん の 巻 初心者・元気だぞ/鐵扇會 1999年05月15日(土) 03時24分

              鐵扇會に へんな白やぎさんが したみたいなお手紙 持ってきた

              けど メアドが実在しないから ここに おこたい書くほか なああい

              かなしーー

              じゃ まず そのお手紙から
              --------------------------------------------------------
              Subject:
              鐵扇會メール送信フォームから
              Date:
              Fri, 14 May 1999 15:52:29 +0900 (JST)
              From:
              nomail@xxx.xxx.or.jp




              DATE = 99/5/14 15:52:28
              AGENT = Mozilla/2.01 (Macintosh; I; 68K)
              ----------------------------------------------------

              お名前 = バカ右翼に利口になることを教える人
              鐵の名前 = とくに、バカ右翼鐵扇會を、ばかと みなす人
              電話番号 = バカ右翼におしえるすべはない
              email = バカ右翼びはもったいないので教えない
              ご意見 = 反人権擁護過剰!
              これはまさに、どうしようもないバカ右翼を
              好き勝手放題に野放ししておくことを、やめさせてすこしは
              まともにさせようという意味であると解する。
              日本においては、それ以外にはない。
              甘やかされた、バカ右翼のくそ車による、騒音公害と
              下品さ、節操のなさ、センスのなさ、こういうことをそのまま
              放置しておくことは、未来を担う、青少年の情操にとって
              ものすごく、遺憾なことである。また警察がとりしまらないのを
              いいことに、いつまでもそんなことをやり続ける、ばか右翼を
              かれらも基本的人権があるのだからなどといって
              何もしないで置くことこそ、甘やかし、過剰人権保護、バカ右翼の
              社会への騒音公害垂れ流しを助長することにほかならない。
              それにきづいた右翼はまずおのれのバカさ加減を反省し、
              真剣にバカから脱出するべく学習をはじめるべきである。
              そのことによってのみ、バカ右翼の未来は、普通のひとの
              明るいみらいに発展的なつながりを保つことができよう。
              それをやらない限りはどこまでいっても、バカ右翼のままで
              一生を終わるのである。

              ----------------------------------------------------

              じゃ したに おこたい 書くから

              お手紙 くれたひと 読んでほしーー


              • 初心者・元気だぞ/鐵扇會 投稿日:1999年05月15日(土) 03時43分
                |お名前 = バカ右翼に利口になることを教える人

                とか きみは書くけど

                あーあ もしもし

                どこまで 苗字で どっから なまいか わからなあああい

                バカ右翼 が 苗字で

                に利口になることを教える人 が なまいなの?

                だったら にこにこできる

                まるで 晴田 雨蔵 みたいな なまい

                どっちなんだか わからなああああい

                |鐵の名前 = とくに、バカ右翼鐵扇會を、ばかと みなす人

                とか きみは書くけど

                よく参画資格 読んでほしー

                ふつーの苗字でないと 鐵には 入れなあああああい

                |電話番号 = バカ右翼におしえるすべはない

                とか きみは書くけど

                あーあ もしもし 電話番号って

                たいてーのやつは わかんぞ ひとなら

                |email = バカ右翼びはもったいないので教えない

                とか きみは書くけど

                あーあ もしもし 右翼び ってなあああに

                おせーてほしー

                |ご意見 = 反人権擁護過剰!
                |これはまさに、どうしようもないバカ右翼を
                |好き勝手放題に野放ししておくことを、やめさせてすこしは
                |まともにさせようという意味であると解する。

                とか きみは書くけど

                ちがう

                ちょんや同和や かたわや

                いろんな気の毒だったひとたちのこと

                必要以上に 余計に 持ち上げて

                利権吸い取る そーゆーことに反対すっことをゆー

                |日本においては、それ以外にはない。

                とか きみは書くけど

                あーあ もしもし

                きみの日本は 2丁目とかだけなの?

                日本は もっと広いってことは

                ブタでも 知ってる たぶん りこーなブタなら

                あ 会ったこた ないけど

                |甘やかされた、バカ右翼のくそ車による、騒音公害と
                |下品さ、節操のなさ、センスのなさ、こういうことをそのまま
                |放置しておくことは、未来を担う、青少年の情操にとって
                |ものすごく、遺憾なことである。

                とか きみは書くけど

                そりゃ 感覚のちがいだろー

                ぼか 毎年 冬の広瀬香美の 甲高い声とか

                もっすごく苦手

                うっさい 耳とか かいくなる

                |また警察がとりしまらないのを
                |いいことに、いつまでもそんなことをやり続ける、ばか右翼を
                |かれらも基本的人権があるのだからなどといって
                |何もしないで置くことこそ、甘やかし、過剰人権保護、バカ右翼の
                |社会への騒音公害垂れ流しを助長することにほかならない。

                とか きみは書くけど

                いまの騒音条例とか やかましーぞー

                昔よか 断然 きびしくなってる

                それに 立てこもったりしたら 射殺されそーになる時代

                右翼には きびしー 冬の時代

                |それにきづいた右翼はまずおのれのバカさ加減を反省し、
                |真剣にバカから脱出するべく学習をはじめるべきである。
                |そのことによってのみ、バカ右翼の未来は、普通のひとの
                |明るいみらいに発展的なつながりを保つことができよう。
                |それをやらない限りはどこまでいっても、バカ右翼のままで
                |一生を終わるのである。

                とか きみは 書くけど

                あーあ もしもし

                鐵扇會は 街宣車持ってなああああい

                かなしーー

                既成右翼でも なああああい

                できたばっかし さびしーー

                だから きみのお手紙は

                白やぎさんが まちがいて運んだんだろー

                きみの意見とか

                わりーけど

                ひとつも 鐵扇會には 当てはまらなああああああい



                それとも きみとか 鐵に入りたいの?

                入りたいなら 入りたいっていえばいいのに

                あ てれてんのか

                ま いいけど

                曲がったへそは もー 元にはもどらないの?

                だったら かなしーー

                さよなら

              • 平賀雪風 投稿日:1999年05月15日(土) 09時13分
                こうやって,匿名で鐵扇會を罵倒するメールを書いて,
                この人は現実世界のうっぷん晴らしでもしているのでしょう(笑)。
                メール爆弾とかウィルス付きのメールとかだったらいやだけど,
                まあ,こういう害のないメールぐらいいいじゃないですか。

                「そうかあ,お前,少しは気が晴れたか,じゃあ,明日からしつかり働いて
                お国に税金払えよ。じゃあね!」
                「そうかあ,お前,少しは気が晴れたか,じゃあ,明日からしつかり勉強して
                お国のためになる人間になれよ。じゃあね!」

                で,メールを削除(爆)。それでいいんじゃないでしょうか?


              それは遊就館でござる マサ 1999年05月14日(金) 23時14分

              ビンゴ!
              IMEに入れておきます・・・。


              • ターボ/鐵扇會 投稿日:1999年05月14日(金) 23時22分
                > ビンゴ!
                > IMEに入れておきます・・・。

                マサ殿はいろいろとともに語れる方と信ずる。
                超極右では何やらあったが、今後とも御教授の程を宜しくお願いいたします。

              蒼洋/鐵扇會 さんへ マサ 1999年05月14日(金) 23時09分

              興味深く読まさせて頂きました。

              思想と「リアリティ」 というのは蒼洋さんのおっしゃるとおり、とても微妙なもので抽象的なもののため、議論されずらいものだとは思いますが、

              >土着日本人であることの喜びと悲しみを抱きしめることから、私の思想は発します。
              >それが、私にとつてのリアリティだからです。

              は私も全く同感するところです。


              • 蒼洋/鐵扇會 投稿日:1999年05月15日(土) 21時48分
                >マサさん
                 レスありがたうございます。マサさんの下の投稿なども拝読しました。
                 人間が、自らの属する「国」とか「民族」をどのやうに意識し、「自覚」するに
                至るのか。これは現代世界が国民国家を一応の単位とみなすことで構成されてゐる
                以上、国家がその国民に対して為す政治によるしかないでせう。もちろん、教育も
                かうした政治の一つであります。
                 現在の日本の歴史教育の歪みについて書いてをられますが、ほぼ同感です。但し
                私は、かうした歪みを正す営みのためにも、まづ国民教育の根本目的を再確認する
                ことが、この問題に関する全ての基本であると考へます。
                 厳粛な国際社会の事実として、教育とは政治行為であり、権力行使です。学級崩
                壊とか国旗国歌問題とか歴史教科書問題なども、全ては、この国民教育の根本目的
                を喪失したことから派生してゐる、と言へませう。
                 私は戦前回帰を望んでゐる訳でもありませんし、近代国民国家の拘束を超えた枠
                組みの可能性についても色々と思考実験はしてゐる積もりです。ですが、この教育
                問題を考へるとき遡るのは、決して「教育基本法」ではなく、必ず「教育勅語」で
                す。
                                               蒼洋 拝 


                 

              国を思う事とは・・・ マサ 1999年05月14日(金) 22時59分

              これは私個人的な意見です。

              実社会において国を思う方法(手段)は無限にあると思っております。一番分かりやすい例を挙げれば例えば保守右翼的(何を持って右翼的というかはまたいろいろと解釈があるとは思いますが)な考えのもと行い手段。マルクス共産主義的な手段等。手段や考えの違いはあろうともまずは日本という国を意識する事が最初に始まると思います。しかし戦後の教育制度において育ってきた現在の世代は、特に日本を歴史や存在を意識せずに育ってきた様に思われます。唯一教わる事といえば、日本が戦争を通し他国に多数の犠牲を出した等、自虐的な事が多いのでは。高校までの日本史授業は基本的に大学受験のための暗記型の歴史教育が中心ですし。なぜ日本が大陸に進出したのか、せざるをえなかったのか、東京裁判の意義は等、歴史の事実(と言っても正確に分かってない事すら事実と書かれてしまってきた教科書にも問題があると思う)を見るだけではなくその裏にある事を考え、良くも悪くも長い歴史の中で培われてきた日本人及び日本とは何か? という事をを再考する訓練を義務教育の期間中にさせるべきだと思います。日の丸についても同様に、少なくとも義務教育期間(小中学校)までは掲揚するべきです。ただ本来ならばこのような事は義務化する事ではなく自発的に考えられる事だとは思いますが・・・。教育制度の中でこれらの事が出来ないならば、家庭において少しずつでも教えて行く事が大事な事では無いでしょうか。身近な例から言えば、休日に国旗を掲揚する、靖国神社(特に周遊館>>>字を忘れた)に遊びがてらでも子供を連れていってあげる等。私自信小さい頃より父親に初詣等に靖国神社に連れられて行きまして、日本の軍人さんの話などを聞かされて育ってきました。そのような結果思想的にどういう考えを持つかは自由ですが、まずは日本及び日本人としての自分というものを意識し、誇りを持たせる事こそが一番最初にやらなくては行けない事なのではないでしょうか。ただそこで大事な事は ryuchan さんがおっしゃったように

              >自分が”日本人”であり、自分自身がそれを誇っても、他の民族も
              >他の民族として誇りがあり、優越なんて絶対持っちゃいけないとの思いです

              だと思います。

              それでは・・・。


              • ターボ/鐵扇會 投稿日:1999年05月14日(金) 23時05分
                >靖国神社(特に周遊館>>>字を忘れた)
                それは遊就館でござる。

              米国の娘。 ryuchan 1999年05月14日(金) 19時30分

              マサさんが書いてある”一度海外で生活してみなさい”を読んで自分なりに解釈する
              のですが、私は海外生活で一番感じたのは”世界は広い”でした。
              月並みな言い方ですが60億人も人口がいると、やはり自分の血はマイノリティーだと
              感じました。そしてなかなかの人物が世界にはたくさんいると思いました。
              そして第二も月並みですが”俺は日本人”だです。俺を育んだ気候風土は俺に取っては
              好き嫌いを超越した自分の一部だと確信しました。
              でもそれが今の日本政府とか「公」とかとは全然一致しない心情でもあります。
              属する”族”の掟には従い、義務も果たせねばとも思いますが”日本人”である事を
              深く認識し喜びに感じたのは、もっと別の次元ででした。
              そして三番目は、自分が”日本人”であり、自分自身がそれを誇っても、他の民族も
              他の民族として誇りがあり、優越なんて絶対持っちゃいけないとの思いです。

              所で米国の国旗の話ですが、実は俺は最初の結婚がスエディッシュ系米国人で、今米国に
              14歳の娘がいます。生まれたすぐ後、日本に来て4歳で米国にまた行ったのですが、
              米国は一応他民族国家で、我々の様に生まれて直ぐ日本人ではないので、小学校の1年で
              初めに教わるのが「米国人とは?」です。これには驚きました、幾ら戦後生まれの俺でも
              生まれて育って、別に日本人と教わらないでも日本人だとあまりにも自然に理解してたのですが
              米国では建国の成り立ちから、その精神を教え、その教えに国旗を象徴として忠誠を
              誓わせます。自分の娘が学校で「米国とは」とか「自由、平等(あとなんだっけ?)」を
              手を胸にあてて星条旗に向かう姿には驚きました。
              そして回りの子を見ると(加州なのでなおさら)、色々な国の子がいて、こうでもしないと
              「米国」って伝わらないんだと思いました。
              あの国のあの形は、まだ何処にもない新しい試みだとも感じます。
              (だってタイの子が自分達の血の歴史は習ったとしても、自分がタイ人だなんて教わら
               ないと判らないなんてあり得ませんから)


              • ターボ/鐵扇會 投稿日:1999年05月14日(金) 22時40分
                我々日本人にとって国とは空気のようなものですね。日本人であることは生まれついて自明の
                ことであるように思われます。
                米国においては(というか多民族、マルチ文化の国では)アメリカ人に「なる」ものなのでしょうね。
                私達日本人には相対的な視点が欠けているように思います。相対化というプロセスを踏まない
                文化論は軽いですね。
                その点ではマサさんの言われること、ryuchanさんの言われることをこれから注意して聞いて
                いきたいと思います。
                お二人とも、今後も宜しくお願いいたします。

                でも、私は高橋さんも大好きなのであります(笑)。

              国語板のつづき 野嵜ちゃん江 の 巻 初心者・元気だぞ/鐵扇會 1999年05月14日(金) 03時47分

              これは ここを押して のつづき

              野嵜ちゃんへあてたもん

              だから 野嵜ちゃん来なければ つづきは やんない
              -----------------------------------------------------

              「憂国」の映画版とか見ると

              あの作品の本質が わかる

              裸の男女と 至誠の二文字の掛け軸

              でもって なああんもない 板の間

              つまり お能の世界に 近い

              よけいなもの 一切排除して 成り立つ世界

              つまり あの作品では

              人間を描くことを 当初から 目的としてはしてない

              むしろ

              男女一対の ギリシア彫刻の世界を 志向してる

              で そこに ワグナーの トリスタンとイゾルデ(イズー)が

              ずっと 流れてる

              だから

              野嵜ちゃんの指摘は ごもっともだけども

              そりゃ 雨の降る日は 天気がわりー といっしょだろー

              文学の限界線を越えたところにあっか ないかは

              それぞれの見方だろーけど

              もともと 三島の文学は 青葉が目に滴った とか

              「金閣寺」に書いちゃって

              本多秋五に 文学者の書く文章じゃなあああい とか言われたくらい

              月並 平凡美を 志向するところが あった

              つまり 大江とか安倍とかとは

              まったくちがうー 文学へのアプローチが はじめからある

              つまり

              現代とはちがって どっか 文学自身が 政治を意識しなけりゃいられない

              そーゆー時代だったんだよ


              で 野嵜ちゃんの後半部は ちがう

              なんでか

              三島は 十代の習作「詩を書く少年」にも

              私は ひたすら椿事を待った

              だったけっか 書いてる

              20代にして 死にたくて死にたくてしょーがない とか書き残してる

              むしろ

              三島のなかの タナトスは ほとんど病気

              時系列で 作品読んでけば

              だれしも いつ この作家は死ぬか それっか なかった

              文学者とみれば

              永井荷風のよーに なって 一種の哀愁を体得すればよかったって

              いろんなひとたちが書いてるけど

              三島は それができなかったろー

              まいにも 書いたけど

              三島が 最期に 文学者・三島由紀夫ではなく

              平岡公威烈士として 武人として死んだのは

              自らの肉体の死を 詩として残したってこと

              つまり 肉体の言語化 の意味

              通俗な表現でいえば

              命を賭けた 無償の行為に ひとびとははげしく胸をゆさぶられた

              ってことだろー

              で いままで書くのためらってきたけど

              思い切って 書いちゃおう

              三島は 右翼のなかでは異端 ってゆーか

              右翼の歴史には ほんた ない

              三島は 詩人として 死んだんだよ

              でもって その死の詩が

              将来の 潜在的国士たちを 目ざめさせた

              そーゆーことだと思う

              さよなら 


              • 野嵜健秀 HomePage 投稿日:1999年05月15日(土) 03時00分
                初心者・元気だぞ様、今晩は。三島の小説の件で書かせて頂きます。ものすごく長いです。

                確かに日本の伝統的な文学として、美しいものを愛でる、といふものはあります。
                ただし、美といふものがいかに当てにならないものかは、芥川が証明してゐます。
                時代のせゐではないのです。
                頭のいい三島が美を信じられる訳がありません。だから政治に関心を持つたのです。

                明治以来、日本の文学者は政治に劣等感を抱き続けてきた――さういふ問題があるのです。
                これは日本の文化の重大な問題です。原因は明治時代に日本人の道徳が搖らいだせゐです。
                日本の国には元々はつきりした道徳の規準はありません。
                西欧はキリスト教の神といふ揺るぎない絶対者を戴きますが、
                日本人は人間である天皇しか戴く事は出来ません。
                天皇は誤りを冒すのであり、絶対的な存在ではありません。
                ただ明治以前に日本人は人の上に人(天皇)を戴く、言換へればすぐれた人に肖るといふ道徳を、
                或は痩我慢の「和魂」を持つてゐた――それは事実です。
                しかしそれは相対的な基準でしかないから頼りない。
                だから明治時代に西欧文明が流入すると日本人は簡単に「和魂」を捨ててしまひます。
                西欧文明は日本の文明より進んでゐたから、精神も進んでゐると勘違ひしたのです。
                だが日本人が西欧人になることは不可能で、西欧的な道徳の観念を持つ事は出来る訳がなく、
                だから日本的な道徳を失へば日本人は根無し草になる。
                そしてその不安を真先に引受けたのが道徳を扱ふ文学者でした。

                さて文学は美を描くか道徳を描くものなのですが、美は当てにならず、道徳も信じられぬ。
                だから日本の文学者は政治に劣等感を抱く。
                しかし実に政治ほど当てにならぬものはないのであり、
                だからソヴィエト崩壊によりぱあになつたスローガンは数知れませんし、
                例へば共産主義に頼つた中野重治の評論はことごとく屑になりました。
                否、『中国の旅』で中野は、中ソが仲違ひする事は絶対にありえないと断言したものの、
                わづか数年後に見事に裏切られてをります。
                政治は所詮はかないものなのであり、政治で何でも解決出来ると考へるのは間違ひなのです。
                美や道徳は政治に比べ長持ちする――美はともかく道徳を信用するのが文学者の定めです。
                日本の文学者は日本の道徳に拘はらざるをえないし、拘はらねばならない。
                さもないと道徳はなくなつてしまひます。
                日本で「和魂」を守らうとしてゐたのは森鴎外だけです。
                一方「洋魂」を理解せねばならぬと考へて一人苦しんだのが夏目漱石です。
                何らかの意味で道徳的に苦鬪しない文学者は文学者失格なのです。
                しかし三島は文学者でありながら美に留まる事も出来ず、道徳も信じず、かへつて
                政治に関心を持ち、政治を信じてしまつた。
                文学は政治に奉仕すべきものだと考へ、政治的な主張を書くために、
                登場人物を自分の都合の良い様に動かすといふ道徳的破廉恥を小説でやつた
                ――それが問題なのです。

                三島の「死にたい病」

                作家の死に何らかの意味を見出すのは――言換へれば作家の死から作家の作品を逆照射する事は、
                批評者が自らの主義主張を作家の上に勝手に見てゐるだけなのです。
                それは文学批評として邪道であり、批評の立場としてなつてゐないと言へます。
                しかし三島の場合には問題はそれ以前の所にあります。
                三島は死を仄めかし過ぎてゐます。「死にたい病」と名づけるべきものです。
                「死にたい病」の患者が自殺する事だけは絶対にありません。

                三島は必然性もないのにわざわざ『憂国』で主人公に切腹のやり方を語らせました。
                切腹する前に講釈をする馬鹿がどこにゐますか。これは小説の表現としても実に拙いのです。
                ただ、三島には切腹の知識がある事はこれで証明されてゐます。
                しかしその知識を、自分が切腹する際に三島は忘れてしまつた。
                介錯がある時は腹を深く切つてはいけないのを知つてゐながら、
                三島は深く切つてしまつてゐます。
                苦しくてのたうち回つて森田必勝は何度も介錯を仕損じました。

                市ヶ谷駐屯地で演説を打てば自衛官は決起する――さういふ甘い見通しが三島にはあつた。
                ところが三島は野次り倒され、テラスから引つ込まざるをえなくなりました。
                プライドが高い三島がどんな感情を抱いたか――
                要するに、単に三島は怒りに我を忘れて勢ひで腹を切つたのです。

                三島は死ぬ前に知行合一を言ひました。
                死後批評家は『憂国』と三島自身の切腹を表面的に見て、
                三島が知行合一を実践したと考へました。しかし上記のとほりそれは間違ひです。
                批評家の目は曇つてゐるとしか言ひやうがありません。
                彼らに騙されてはなりません。

                長文多謝。
              • 初心者・元気だぞ/鐵扇會 投稿日:1999年05月17日(月) 05時21分
                |確かに日本の伝統的な文学として、美しいものを愛でる、といふものはあります。
                |ただし、美といふものがいかに当てにならないものかは、芥川が証明してゐます。
                |時代のせゐではないのです。

                野嵜ちゃん これは ぼくのカキコの

                どの部分へのレスなの?

                野嵜ちゃんが どーゆーふーに読み

                思考を展開してるか

                ROMのひとたちにも よくわかるよーに

                書いてくれっと ありがたい

                |頭のいい三島が美を信じられる訳がありません。
                |だから政治に関心を持つたのです。

                野嵜ちゃん

                三島は 最後の最後まで

                政治になんか ほんとの興味もてなかったんだよ

                参議院に当選した 当時の盟友の石原慎太郎のことを

                三島は くさし

                石原は いまでも

                「地方遊説のかいりに 夕焼けが美しいからといって
                運転手に車を止めさせるよーなやつは 真の政治家にはなれない」

                てゆー 自分にあてた三島のことばを

                思い出してる

                三島の思想や行動は

                政治の衣装をまとった一個の詩であって

                それを 政治的に解釈することはできなあああい

                だから

                右翼の歴史からは 外される

                でもって 文学の世界に 押し戻される

                右翼の歴史には 時々

                文学が 入ってくることがある

                野村せんせの 浪漫なんかも そー

                あーゆーのは 政治とは べつ

                で そのたんびに

                右翼の歴史は

                政治的局面のいかがわしから解放されて

                文学的風景の感動のなかで

                再生されてく

                そーゆー側面が あんだよ

                |明治以来、日本の文学者は政治に劣等感を抱き続けてきた――さういふ問題があるのです。

                いや もっと 昔からだろー

                平安時代の 漢詩と かな文学の対比とか 見てみー

                公に対する私 の位置は

                日本歴史のうえで

                つねに 低い

                そーゆー長い歴史が あんぞー

                いつの世でも

                文学者よか 政治家のほが 社会的にはえらい

                これは いままでの歴史の事実

                でも 対立は してなああああい

                |日本の国には元々はつきりした道徳の規準はありません。
                |西欧はキリスト教の神といふ揺るぎない絶対者を戴きますが、
                |日本人は人間である天皇しか戴く事は出来ません。
                |天皇は誤りを冒すのであり、絶対的な存在ではありません。

                鐵の基幹頁から 行ける 国体 敷島の道

                よく 読んでみ

                そうすっと

                うえのが まちがいだって気づくだろー

                絶対的な存在を 天皇と呼ぶ
                そこにしか 西欧に対抗できる価値の大系の
                礎となるものはない

                って前提から

                ぼか 書いた

                天皇のなかにある二つの概念

                ソルレンとザイン
                半神と半人
                永遠の皇統と125の個々の今上帝

                これを 読みとってほしー

                |そしてその不安を真先に引受けたのが道徳を扱ふ文学者でした。

                道徳を扱う文学者って どーゆー意味なの?

                |さて文学は美を描くか道徳を描くものなのですが、美は当てにならず、道徳も信じられぬ。

                それは 芸術のための芸術 とか 人生のための芸術 とか

                芸術至上主義とか 人生至上主義 とかの

                手垢にまみれた かびくさい二元論のことなの?

                |しかし実に政治ほど当てにならぬものはないのであり、
                |だからソヴィエト崩壊によりぱあになつたスローガンは数知れませんし、
                |例へば共産主義に頼つた中野重治の評論はことごとく屑になりました。
                |否、『中国の旅』で中野は、中ソが仲違ひする事は絶対にありえないと断言したものの、
                |わづか数年後に見事に裏切られてをります。

                そーーー

                共産主義は まさに政治でしかなあああああい

                それは まったく そのとーり

                けど

                天皇ってのは ちがう

                まいに書いたよーな

                文学的局面と 政治的局面の境にあって

                決して どちらにも 永遠に属することはなあああい

                つまり

                いろんなアプローチの可能な概念になんだろー

                |政治は所詮はかないものなのであり、政治で何でも解決出来ると考へるのは間違ひなのです。

                うん そー

                で ここも ぼくのカキコのどの部分へのレスなの?

                あ それと

                鐵ってのは

                あたらしー政治運動じゃない

                よく 見てみ

                ネットを使った 一種の表現運動だってことが わかんだろー

                文学的に 天皇を語り

                国を語り 士を語る

                それが許されるのが 鐵の理念だろー

                つまり 文学は 鐵の概念に包括されてるだろー

                |美や道徳は政治に比べ長持ちする――美はともかく道徳を信用するのが文学者の定めです。
                |日本の文学者は日本の道徳に拘はらざるをえないし、拘はらねばならない。
                |さもないと道徳はなくなつてしまひます。

                これも 意味わからなああああい

                ふつーは こーかんがいる

                世間には 道徳だと人々に思いこまれてる

                ある種の価値の大系が ある

                それに ゆさぶりをかけ 時には異化しながら

                個人を そして人間の自由を探求してくのが

                人類社会の文化装置としての 文学

                ちがうか

                野崎ちゃんの文章は

                文学者が 道徳を守るみたく読めるけど

                そりゃ へん

                たとえば いまは 文学は低調だけど

                それは むしろ

                世間の道徳規範がゆるんで

                ものを書くってゆー緊張感がなくなってきたから

                って ふつーは見る

                道徳と 文学は 対峙するものであって

                文学が 道徳を守るはずがなああい

                |日本で「和魂」を守らうとしてゐたのは森鴎外だけです。
                |一方「洋魂」を理解せねばならぬと考へて一人苦しんだのが夏目漱石です。

                とか 野嵜ちゃんは書くけど

                その鴎外は きわめて論理的で 西欧的な明晰さを尊び

                日本的曖昧を 嫌ってる

                また 漱石は

                洋魂のまいに 苦悶した漱石は

                あまたの漢詩を残し そして 即天去私 ってゆー境地に達して

                亡くなった

                |何らかの意味で道徳的に苦鬪しない文学者は文学者失格なのです。

                道徳的に ってのは へん

                自分の属する文化との格闘のなかで 精神的に

                ってのが 正しい

                |しかし三島は文学者でありながら美に留まる事も出来ず、道徳も信じず、かへつて
                |政治に関心を持ち、政治を信じてしまつた。

                信じてたのなら 政治家になる

                虚無だったから おなか斬った

                それに 性的に そゆのが好きな男だった

                |文学は政治に奉仕すべきものだと考へ、政治的な主張を書くために、
                |登場人物を自分の都合の良い様に動かすといふ道徳的破廉恥を小説でやつた
                |――それが問題なのです。

                なんか 野嵜ちゃんって 吉本隆明みたい

                ま それは いい

                それよか こー書くと わかりやすいかもしれない

                政治と文学って 二元論対立構造で 野嵜ちゃんは見るけど

                それは アカばかがよくやる公式で

                そんなものには 意味がない

                政治がえらくて 文学が低い

                ってのは 支配と抑圧ってゆ−アカ独特の世界観の転位で つまらなあああい

                野崎ちゃんは

                三島 なんで政治に魂売るー 媚びを売るー
                三島 へん 文学タイガースは 政治ジャイアンツを倒すはずなのにー

                って言ってるみたいだけど

                右翼の一部のひとびとは そー見ない

                ぼくとは 意見がちがうひとは いっぱいいるけど

                やさしー右翼人は みな

                三島はしょせん小説家 政治なんかわからねー

                とは思わずに

                三島烈士 として 尊敬してる

                つまり ここには

                もはや 政治と文学 の対立の構図は なあああい

                文弱の徒が 自らを鍛え上げ そして行動し
                自刃した

                そのことに 魂ゆさぶられたって 右翼人は やっぱ多い

                つまり

                文学者が 国士を上回ったことになる

                文学が 政治を上回った瞬間だって 言ってもいい

                そのことが 既成の文学には 大衝撃だった

                そして 政治にも大衝撃だった

                つまり ずばり書いてわりーんだけども

                野嵜ちゃんよか 三島のほーが

                ずっとずっと文学的で 最後まで 政治オンチだったせいで

                かいって政治を上回ることが できた ことになる

                境目に存在する人間にしか なせないことが ある

                鐵だって そーー


                |作家の死に何らかの意味を見出すのは――言換へれば作家の死から作家の作品を逆照射する事は、
                |批評者が自らの主義主張を作家の上に勝手に見てゐるだけなのです。
                |それは文学批評として邪道であり、批評の立場としてなつてゐないと言へます。

                全く その通りだぞーー

                ぼか それ 15年ぐらいまいに もー いろんなとこに書いた

                |しかし三島の場合には問題はそれ以前の所にあります。
                |三島は死を仄めかし過ぎてゐます。「死にたい病」と名づけるべきものです。
                |死にたい病」の患者が自殺する事だけは絶対にありません。

                でも 死んじゃった

                野嵜ちゃんの文章 意味が よくわからなああああい

                |三島は必然性もないのにわざわざ『憂国』で主人公に切腹のやり方を語らせました。
                |切腹する前に講釈をする馬鹿がどこにゐますか。これは小説の表現としても実に拙いのです。

                「切腹する前」の主語は なあに?

                武山中尉? それとも 平岡公威?

                |ただ、三島には切腹の知識がある事はこれで証明されてゐます。

                あーあ もしもし

                小説ってのは そんな知識自慢のために 書かれるものじゃなああああい

                |しかしその知識を、自分が切腹する際に三島は忘れてしまつた。
                |介錯がある時は腹を深く切つてはいけないのを知つてゐながら、
                |三島は深く切つてしまつてゐます。
                |苦しくてのたうち回つて森田必勝は何度も介錯を仕損じました。

                よく 知ってんなー とか感心した

                ただ

                腹に深く刀が入った場合

                首の後方の筋肉が激しく収縮して 硬直したために

                また 介錯人の三島への愛惜と 介錯への一種のためらいのために

                森田烈士の刀が 何度か 振り下ろされたってのが ぼくの知ってる事実


                |市ヶ谷駐屯地で演説を打てば自衛官は決起する――さういふ甘い見通しが三島にはあつた。
                |ところが三島は野次り倒され、テラスから引つ込まざるをえなくなりました。
                |プライドが高い三島がどんな感情を抱いたか――
                |要するに、単に三島は怒りに我を忘れて勢ひで腹を切つたのです。

                あーあ もしもし

                野嵜ちゃんは まいに 「頭のいい三島」とか 自分で書いてる

                上の文章じゃ まるで ばか三島

                中高生じゃあるまいし

                いまが どーゆー時代で 自衛隊が どーゆー組織で

                行動とは どーゆーものか 知悉してるのが 頭のいい ってことだろー

                青島幸男って ばかの参議院議員とか むかしいて

                そいつが ひどく知的なオカマのヒステリーとか 事件のこと書いてた

                野嵜ちゃんの文章は こんだ 青島に めーる

                三島は

                虚無的な 礼儀でもって いちお 自衛隊に呼びかけただけ

                選んだ日付 周囲への手紙 その他もろもろ

                あの日に 死を決意して出かけたことだけは 事実


                |三島は死ぬ前に知行合一を言ひました。
                |死後批評家は『憂国』と三島自身の切腹を表面的に見て、
                |三島が知行合一を実践したと考へました。しかし上記のとほりそれは間違ひです。

                とか 野嵜ちゃんは書くけど

                野嵜ちゃんが まちがい

                三島の晩年 三島由紀夫展で

                三島は せんせ いつ死ぬんですか って 一ファンに声かけられてる

                昭和41年〜45年の いろんな雑誌 調べてみ

                三島が いつ死ぬか って話題も そーだけども

                いっと せつないのは

                三島の決起を 衷心から思いとどまらせようとしている文学者 評論家

                政治家 右翼関係者が

                いかに 多かったか それが わかっから

                |三島は死ぬ前に知行合一を言ひました。
                |死後批評家は『憂国』と三島自身の切腹を表面的に見て、
                |三島が知行合一を実践したと考へました。しかし上記のとほりそれは間違ひです。
                |批評家の目は曇つてゐるとしか言ひやうがありません。

                野嵜ちゃんの精神世界は よーーくわかった

                1,文学と政治は 対峙してる
                2,文学は 政治に包括れずに 自律性を保つべきである
                3,三島は 甘い見通しからきた一瞬の絶望のために 自刃した
                4,そんな三島の死から 三島文学を語る あまたの文芸批評家
                  あれだろー 江藤淳とか 村松剛とか 武田泰淳とか 小林秀雄とか
                  田中美代子とか 奥野健男とか 三浦雅士とか 武田勝彦とか
                  磯田光一とか 佐伯彰一とか そーゆーそうそうたるメンバーのことだろー
                  こりゃ ぜんぶ ばか

                ってことだろー

                |彼らに騙されてはなりません。

                とか 野嵜ちゃんは書くけど

                ぼか 野嵜ちゃんにだまされるよか

                やっぱ 彼らに だまされたああああああい

                とか 思う

                野嵜ちゃん

                すっかり安心しろ

                ぼか もー 二度と 野嵜ちゃんを 鐵には誘わないから

                さよなら

                元気に 自分の道 行け

                ただ 旧字旧かなを使う人間として

                魅力ある 感動的な文章の書けるひとには なってほしー

                でないと

                旧字旧かな運動そのものが 閉じた趣味サークルと化し

                いつまでたっても メジャーにはならないだろから

                さよなら

                いろいろ あんがとー

              思想と「リアリティ」 蒼洋/鐵扇會 1999年05月14日(金) 03時00分

              こんばんは。
               下の議論を拝読しました。思想と「リアリティ」といふ観点から、二点ほど私の
              見解を述べさせて頂きます。

               一点め。
               思想を語ることは、「私はかかる者である」といふ自己認識を他者に対して訴へ
              共鳴を得ようとすることだと思ひます。ですからこの意味では、自分の身も明かさ
              ず、顔も突き合はせずに簡単に発話できるネット上の「思想」は、実は思想もどき
              でしかないのかも知れない、私は常々さう思つてゐます。
               その故にこそ、論争の作法も弁へない「(自称)論客」とか、自分のルサンチマ
              ンの裏返しをエスノセントリズムに仮託して書き殴るしか出来ない「(自称)右翼」
              などが現れる事も許されるのでせう。かういふ連中は「○○ごつこ」に過ぎないの
              であつて、何らのリアリティもありません。
               しかしネットのかうした手軽さは半面で、土地の距離や様々な立場上の制約などを
              突破した、新たなリアリティへの助産婦ともなり得ます。要は解釈のあり方です。
               この鐵扇會は、後者の解釈を基盤としてゐる、一つの実験室でありませう。即ち
              ネットを、かうした新たなリアリティへの媒介として解釈することから、これまで
              にない社会運動の形式を模索する場である、さう考へ、私は参加しました。

               二点め。
               人の思想は、その人間が何についてリアリティを感じてゐるか、といふ事と関係
              してゐると思ひます。例へば私であれば、「日本人であること」がリアリティです
              し、国際共産主義者は「プロレタリアート階級」であることが、宗教人は「信仰共
              同体」に属してゐることがリアリティでありませう。人間はなにがしかの共同体に
              属してゐることを通してしか、社会的に生きられません。「民族」や「国民」も、
              或いは「階級」も、B・アンダーソンが喝破した如く、個人の経験の範囲を超越し
              た全ては「想像の共同体」なのではありませう。が、人はその「想像の共同体」
              に属する事で、「自分は何者かである」といふ保証を与へられ、安心してゐるの
              です。
               「国や社会や世界がどうならうと、家族や恋人が目の前で殺されようと、俺が安
              全なら良いんだ」といふ利己主義と、自己責任を完結する個人が共同体を構成する
              との前提を、社会に導入する「個人主義」の区別が付かない人が少なくないやうで
              す。が、かういふ人はただ単に社会的存在としてのリアリティから逃避してゐるだ
              けのことであります。
               ところでこの「何者かである」といふリアリティは、又一つの拘束でもあります。
              そして人は、意識のどこかでこの拘束(換言すれば社会的責任)から逃れたくても
              逃れられない自己を認識してゐるからこそ、そのことにリアリティを感じるのだと
              思ひます。
               私であれば「日本人であること」から逃れたくても逃れられない何かに、リアリ
              ティが発生してゐるのです。その故に私は「私は世界市民だ。日本人など関係ない」
              と安直にいふ者に激しい憤りを感じます。こんな事をいふ奴に「世界市民」といふ
              リアリティが感じられてゐるはづが無く、ただ「拘束」から逃れたいといふ安易な
              気持ちが、さう言はせてゐるに過ぎないことは明白です。
               と同時に、「日本人であれば…べきだ」といふ揚言も、私は忌避します。「拘束」
              に全面的に依拠したかういふモノの言ひ方は、アジテーションとしては成立しても
              (私とて民族派活動の現場では時折口にした言葉ですから)、思想としては出来るだ
              け避けるべき言葉だと思ひます。

               土着日本人であることの喜びと悲しみを抱きしめることから、私の思想は発します。
              それが、私にとつてのリアリティだからです。

                                               蒼洋 拝


              • ターボ/鐵扇會 投稿日:1999年05月14日(金) 22時30分
                >  その故にこそ、論争の作法も弁へない「(自称)論客」とか、自分のルサンチマ
                > ンの裏返しをエスノセントリズムに仮託して書き殴るしか出来ない「(自称)右翼」
                > などが現れる事も許されるのでせう。かういふ連中は「○○ごつこ」に過ぎないの
                > であつて、何らのリアリティもありません。
                そうですね。私はなぜ多くの人々がネット上での論戦の一勝一敗にそうも拘るのか理解できません。
                私事で恐縮ですが、以前初心者・元気だぞさんと共同幻想論の話をしたときも、結果として私た
                ちは折り合ってしまったのですが、それを体の良い迎合だと論ずる向きもありました。私からす
                れば、私の前に自分よりもよほど見識のある、仲良くなればこれほど得る所の多い人間が現れた
                ときに、目先の一勝一敗に拘るよりも、共鳴できる点を少しでも探すほうがより有益だという気
                がしたのです。対立点については、仲良くなってから幾らでも論じ合うことが出来ますから。
                鐵扇會もそのような集団であってほしいと思っています。

                今更言うまでもなく、自我とは他者を認識して出来る相対的なものであり、逆に自我の確立して
                いない生まれたての幼児の精神は万能の世界であります。個人とは常に相対的なものに過ぎず、
                それを絶対的なものと錯覚してしまうのは近代の生んだ病気です。
                人の一生には、実のところ何の意味もないのではないか。人はただ生まれ、生き、死ぬだけの存
                在なのではないかというニヒリズムの超克にこそ、これからの思想の意義があると思います。そ
                のためには西洋的近代思想、とくにルソー以来の自然思想からの脱却を志向し、文化的相対主義
                (いかなる文化も独自の、その文化内で自律する価値を有する。一つの文化で成立した価値観で
                他の文化を一方的に捉えては異文化の理解が出来ない、という考え方)のもとで日本の文化を考
                え直すことが私が鐵扇會に参加した理由であります。
                でも、当然西洋の思想も、もっと勉強しなければなりませんね。
                つまり、有体に言えば、これからも蒼洋さんにいろいろ教えて欲しいんでありますな、ははは。

                宜しくお願いしますでござる、ペコリ。

              レス マサ 1999年05月13日(木) 23時04分

              こんなにも直ぐにレスがくるなんて!

              正直こちらの方のご意見には安心致しました。もちろん意見的に食い違うところもありますが、
              このような冷静な方がいらっしゃった事について私も大変嬉しく思います。
              他の意見をうのみ、もしくは意味も無く反対するのでは無くまずは何故? と考える事こそが一番大事だと思っている私にとって、もちろん考えなくては行けない事も多数ありますので、今後は私自信もまだまだいろんな意見に触れて自己啓蒙して行きたいと思っております。

              PS.現在アメリカ在住ですが、アメリカの国歌及び国旗に対し私は否定模する気はないけれども、やはりアメリカ人の様には(周りの日本人の中にも形だけまねて手を胸に当てるような方もいらっしゃいますが)する気がおきません。アメリカは私にとってはただの手段であり、目的や理想ではありませんので。なんといっても国際大会などでも君が代が流れるときが一番嬉しいし、素直に歌う気持ちになります。だからといってアメリカ国歌斉唱の際に騒いだりする奴等の気持ちはもっと分かりませんが・・・(野球場なんかで結構いるらしい)。

                マサさんへ bb/鐵扇會 1999年05月13日(木) 20時15分

                自分のつたない書き込みに対して、マサさんなりの真摯なレスに感謝します。

                >非合理的な精神論については、正直申しまして私は嫌いではありません。
                この言葉を拝見して、そんなに自分とかけ離れた考えを御もちでないことを理解し
                安心しました。

                >例えば高校野球のような根性的なものは私の人間形成の上で大変重要だったと思います。
                こうゆう御考えをもう少し発展させて、日本人の思考形成のために、非合理ではあるが
                受け入れなければならない考えもあるのではと思っています。

                >ただし仮にも右翼と称して政治的な主張をするという時において、
                >精神論で何が大衆を先導出来るでしょうか?
                精神論的なものが軸としていなければ、右翼の言説ではないように思います。

                >正式に分かってない事についてすら自分達の都合の良い解釈でものを判断する。
                この部分は、自分の知識では、先に欧米や支那、韓国の都合のよいように報道されたり
                教育されたことに異をとなえてるにすぎないと理解しております。
                また正式にわかっていないことに対して、日本より諸外国の物言いを信ずるとゆうのも
                なんか間違っている気がします。

                マサさんの前の書き込みの下に降魔氏から鐵扇會についてのレスがついてます。
                是非、ご覧になって下さい。

                今日はこの辺で。