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戰爭――「戰爭犯罪」――平和主義

Yahoo!の掲示板で、あちこちのトピックに投稿した記事の中から、戰爭に關する私の主張を纏めました。

1 「戰爭犯罪」被告・日本國

はじめに結論ありき(「どちらにしても」改題)

論爭出來るやうな形でトピックが作られた譯ではないのが問題ですね。はじめに「日本人は朝鮮に謝るべし」といふ結論ありきなんですから。

だいたいこの「結論」が間違つてゐるんです。自分で考へたものでもない「結論」なんですから、仕方がないといへば仕方がないんですが。

そもそも國家が反省する譯がないし、國民に謝罪なんていふものを心から出來る譯ないんです。道徳と政治を取違へてゐるんです。

ただトピック作成者のために辯護するならば、道徳と政治の混同は我々日本人に共通した勘違ひであり、誰もトピック作成者を笑へないといふ事です。

※「従軍慰安婦について」のトピックに投稿した記事。

ついでに、同トピックでは或論者が多少わかりにくい意見を書き、論爭(と云ふよりは惡口の應酬)になりかけた。だがその論者の意見を私が要約して「從軍慰安婦の強制連行は存在したと信ずることは、アダムスキー型円盤やタコ型火星人が存在したと信ずるのと同じだといふ譯ですね。」と書いたらそれ以上話が進まなくなつたので、これで結論が出たと云ふ事になるのだらう。

「戰爭犯罪」成立せず(「『南京虐殺』はあつたといふ人の意見は變だ」改題)

たいてい「虐殺あつた派」の人は戰爭は異常であるつて言ふんですが、なんで異常な状況下で起きた虐殺の責任を問ふのでせうか。異常な精神状態にあつた人間が何をしても、責任は問へないといふのが常識ですけど。

2 戰爭と道徳

理屈で戰爭は止められるか(「戰爭について」改題)

譯もなく戰爭をしようといふのは狂人のする事です。ただ譯もなく戰爭には反對といふのもまた狂人のする事ではないか――それだけが言ひたいんです。

戰爭は政治の延長だといひますが、要するに政治でなんでも解決できるのなら戰爭はなくなるんです。ただ人間は驅引きや損得勘定で物事を解決できはしない。相手をどうしても許せないと思ふ事があるし、相手が聞きわけのないとき最後の手段として暴力に訴へざるをえない事もある。

人間は理屈だけでは動かない――さういふ現實に立脚して判斷する時、理屈では戰爭を無くせるといふ主張がはなはだ頼りなく感じられるのです。

戦争を避けたがる臆病

それあ意味もなく戦争せよといふのは狂人です。しかし戦争なんて一切駄目だといふのは臆病すぎます。臆病を美徳と考へる様になるから反戦主義は道徳破壊なのです。

戦争を肯定する(戰爭を絶對的に肯定してゐるのではないんですが・改題)

どう考へても戰爭は肯定出來るものなので改題します。初出時には臆病になつてゐました。

※本項1999.7.11追加

譯もなく戰爭をしようといふのは狂人のする事です。ただ譯もなく戰爭には反對といふのもまた狂人のする事ではないか――それだけが言ひたいんです。

戰爭は政治の延長だといひますが、要するに政治でなんでも解決できるのなら戰爭はなくなるんです。ただ人間は驅引きや損得勘定で物事を解決できはしない。相手をどうしても許せないと思ふ事があるし、相手が聞きわけのないとき最後の手段として暴力に訴へざるをえない事もある。

人間は理屈だけでは動かない――さういふ現實に立脚して判斷する時、理屈では戰爭を無くせるといふ主張がはなはだ頼りなく感じられるのです。

過去の歴史を見据ゑる事

※本項1999.7.11追加

「折角だから、歴史から戦争を回避する手段を議論するのも面白いと思うのだけど、いかがなものかな?」

歴史を見ると人は戦争をやめる事だけはないといふ事が分るやうな氣もしますけれども、確かに議論としては「面白い」んではないでせうか――戦争反對派の仲間内の議論ならば。

「戰爭犯罪」に謝罪は不要

金で解決すべき問題を道徳の問題にすりかへる事は道徳の破壊に繋がります。

原爆の使用について

原爆が出来る時代になつてゐたから原爆が作られ、戦争に投入されたに過ぎません。そして出来てしまつたからには、原爆――核兵器は必ずまた使はれます。そしてそれを道徳的に非難する事は無意味です。第一非人道的な兵器を道徳の観点から判断するのは理屈が通りません。

ですからアメリカに謝罪せよといふのも意味がない。原爆は対日戦争を終結させるのに必要だつたといふ大義名分がアメリカにはあるし、アメリカ人はそれを信じてゐます。それに今更言ひ出しても遅い。

戰爭に道徳なし(「道徳は人が人であるゆゑんのもの」改題)

まづ最初に述べておきますが、核兵器が非人道的で非人間的であるならば、そこに道徳は存在不可能です。

核戦争が人を大量に殺すものであるにしても、核戦争をしないために人が人以下の存在になる事は避けねばなりません。人はパンのみにて生くるにあらずと言ひますが、生延びるだけでは人は人でない、人間的に生きねばならない――人が獣と違ふのは人は正邪善悪に拘はるといふ事であり、ならば人は他人を許しがたいと思ふ事が必ずあり、戦はねばならぬ事もあるのです。人が正邪善悪に拘はる限り戦争はなくなりませんし、なくすべきでもありません。

3 戰爭と正義

正義に勝ち負けはない

「正義と正義がぶつかるのが戦争です。」その通りだと思ひます。でも「勝つたはうが、本當の正義です。」といふのには贊成しかねます。戰爭で勝つ理由は正義にあるのではなく戰力・國力にあるからです。

個人・集團――それぞれがそれぞれの正義を持つてゐて構はない。その正義を個人がいかに誠實に履行するか――それが大事だと思ひます。ただその「誠實に履行する」事は、正義の領域ではなく、道徳の領域に入ります。正邪よりも善惡の方が大事だと私は信じます。

敗戰は文明の敗北にあらず(「日本人論の陷穽」改題)

自分の國の文化を否定する様な國民が他の國の人に尊敬される譯はありません。しかし日本人は明治以來、西歐の文明を採入れるのに急な餘り、日本の文明を生んだ日本の文化を否定し過ぎました。擧句大東亞戰爭で負けたからといつて、大東亞戰爭を支へた日本精神なるもの――これは日本人の精神の一部を拔出して強調したものにすぎませんが――を惡者にして一切の日本人的精神を否定しました。

行きすぎた日本文化否定が日本人を日本人らしくなくした事は問題です。しかしだからといつて戰前に返れなんていふのではありません。ただ日本人の惡い點だけ、良い點だけをとりあげて云々しても仕方がない――どつちにしろ、日本人は日本人以外のものにはなれないんですから。

※參考文獻――『戰爭はなくならない』

未来永劫人間は決して戦争を止めはしない。なぜなら、戦争がやれなくなれば、その時人間は人間でなくなる筈だからである。では、人間をして人間たらしめてゐるものとは何か。「正義とは何か」と常に問はざるを得ず、己れが正義と信ずるものの為に損得を忘れて不正義と戦ひたがるといふ習性である。即ち、動物は縄張を守る為に戦ふに過ぎないが、人間は自国を守る為に戦ふと同時に、その戦ひが正義の戦ひであるかどうかを常に気に懸けずにはゐられない。これこそ動物と人間との決定的な相違点なのである。(中略)動物と同様、人間も縄張を守るべく戦ふが、動物と異なり、正邪善悪を気にせずにはゐられないから、不義の敵を殺す事になる。それゆゑ、人間がいかなる場合にも戦争をやらぬといふ事になつたら、その時、人間は正邪善悪の別を全く気に懸けぬ動物に堕してゐる筈である。

『戦争はなくならない』(松原正著・地球社刊)より

1999.6.14

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