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天皇論爭総集篇

はじめに

Yahoo!掲示板で展開された天皇論爭――といふより、天皇廢止を目指すトピックに私がいちやもんをつけたものなのですが――で、私が投稿した記事を纏めました。

私の口汚なさが目立ちますが、自分でもあんまりだと思ふ記事についてはこれでも掲載を自肅してゐるのです――さすがに相手の愚かさを徹底的に指摘し盡し罵倒し盡した記事の中には、そのまま載せるのはどうかと思はれる凄まじいものもありましたので。

なほ、Yahoo!掲示板の制約で分割した記事は、本來の姿に戻しました。また、文章が餘りに拙い部分はこつそり手直ししました。ただ文意は一切變へてゐません。

道徳的に生きるために日本國民は天皇を必要とする――私の天皇觀

儒教では一纏めにしてをり、日本人も区別をしない、修身斉家といふ道徳と治国平天下といふ政治は峻別すべきであります。道は近きにありといひます。ヴォランティアや市民運動など当然政治に属する事であり、そんなものをやつたからといつてその人が善人である証明にはならない。 道徳の後ろ盾になるもの――キリスト教社会にならば道徳の規準は絶対的に誤る事のない神様がゐる訳ですが、神道の国日本にそんな存在はゐない。日本の国で道徳の規準になるのは誤る事もある人の上の人か輿論だけです。

日本では敗戦と同時に天皇が転けて、価値観は全部転倒しました。天皇のためにする行為はなくなりました。しかしそれで戦前より人は道徳的になつたかといふと、そんな事はない。事実は戦前も日本人は天皇が神聖だとは少しも思はなかつたが、大東亜戦争で日本人は嘘とは知りながら天皇を信じたのです。

それは人は死んだでせうが、ならば生残ればその人は善人なのか。或は人が死ぬ事はそんなに悪い事なのか。(お前は死んでもいいのか、といふ質問は善悪とは無関係ですから意味がありません)人は命をかけるからこそ善人になれる事もある。それにこちらに投稿されてゐる方も、天皇のためには死にたくなくても、反天皇のためならば、あるいは差別撤廃のためならば死んでも構はない様な事を言つてをられるではないですか。

しかし差別撤廃もまた政治に属する事なのであり、所詮道徳とは無縁であります。私はいまさら天皇を日本人が再び崇拝しうるとは思つてゐないが、崇拝しさへしなければ日本人が善くなるとも思つてゐない。が、神道の国日本で人の上の人として天皇以外に誰がゐるのかと問うた時、それに答へうるものがゐるでせうか。

1 日本人は所詮日本人

天皇論爭第1ラウンド――自由民主主義を標榜し、論理的に天皇制を批判した××氏との論爭。

自由は平等を肯定せず(「自由主義の名で共産主義の宣傳をするのは止めよ」改題)

「私は、天皇制を擁護するのにも、政治的な判断から必要悪的に認めるのと、理念レベルで自体において価値があるとするのをごちゃ混ぜにすべきではないと言つているだけです」――さう言ふ××氏は、自由が理念レヴェルで自體において價値があると言ひつつ、政治的な判斷からも認めると言つてゐる。何たる矛盾。

しかも自由が大事といひながら、自由とは相容れない平等の概念を積極的に主張する――むしろ自由より平等の方が大事な樣に。「自由」「多様性」と言ひながら差別を認めないといひ「平等」「同質性」が重要だと暗示する。自由主義のもとでは経済的格差が生じるのが自然ですが、それも××氏は許せないであらう。それは××氏の政治的立場から言つて當然なのである。

「というか私は日本の天皇制について多くを知りません」「何であれ、天皇制の「自体における正当性」の、説得力のある哲学的論証が欲しいところです」情けない事に、無知がゆゑに受入れられないといふだけだといふ事を××氏は白状してゐる。その上「折衷が可能ならどこでどう折り合いをつけるのか、を論じる必要があります」等と、心にもない事を言つてのける。何で「折り合ひ」をつけるといふ御仁が、天皇は日本に於ける道徳的支柱であるといふ私の主張を無視するのか。

要するに××氏の本音は天皇は許せないといふ事であり、「天皇制の『自体における正当性』の、説得力のある哲学的論証」なんて出てきて貰つては困るのである。理論武装に隙のない××氏が天皇打倒を信じる共産主義者である事は明かである。その證據に「力でもつて理念を現実へと変えていくのです」と革命を肯定してゐる。「例えば私は「自由民主主義」と書いていますが、これは当然「自由君主制」というのも可能であることを意味します」――その「君主」とはスターリンの事か。

時代遲れの共産主義を自由主義の美名に隱し、宣傳する××老人においては、一刻も早く隱居めされるのがよいであらう。餘りにもぼろが出過ぎで哀れであります。

自由至上主義の色眼鏡(「自由オタクよ、去れ!」改題)

自由主義の觀點から天皇を論じるのは構はない。自由以外の價値觀からも天皇を眺める事が出來るからである。しかし自由至上主義の觀點から天皇を論じるのは愚かである――自由が一番大事だといふ結論が出てゐる自由至上主義はほかの價値觀を全て無視してしまふからである。

天皇が歴史的存在であり、神道に於ける最大のシャーマンといふ点では宗教的存在であり、何より人の上に人を戴く文化である日本に於て最も一番上に立つ人として道徳的存在である――詰り一個人の自由などといふ自閉的な觀點からその存在を見ると、天皇の意義は確實に見誤るのである。

自由は天皇より後から現れたといふばかりでなく、西歐起源の價値觀であるといふ事を無視してはならない。もし自由の立場から天皇を批判したいのであれば、自由と日本の文化の關聯から説明すべきである。

天皇は日本の文化と密接した存在であるが、自由が日本の文花にどの樣に繋がりを持つてゐるといふのか。日本に於ては自由こそ根無し草であるといふべきであり、それが日本に於ける自由主義の最大の問題點なのである。

出し遲れの古證文

出し遲れの古證文といはれさうですが、××氏の論理主義について一言。

論理主義も自由も、西歐の概念だと私は述べた積りです。そして西歐の概念をそのまま日本に適用しようとする××氏の姿勢も批判しました。それは決して論理的な批判ではないし、論理的にどうのかうのと言ふ積りもありませんでした。それに對して××氏が論理的に言へといふのでごまかされたわけです。

私は日本人の立場として非論理的な主張をしたのですが、未だにそれがなんで批判の對象になつたかわからないのです。日本が論理的な國でない、と言ひたいのではない。ただ自分の國の文化を論理的にどうかう言へるものなのか、と言ひたいだけなのです。

第一、××氏もまた道徳といふ事に關して、ごまかしをしてゐるのに氣づいたのです。それは自由とか論理とかいふ概念が、論理だけを根據にしてゐないといふ點です。西歐の文化を知つてゐるならば、自由も論理も――否、西歐の生んだものの根柢にはキリスト教がある、といふのは常識です。

といふよりも、キリスト教の道徳の一部だけに目をつけて、そこから神を引いた引き算の答が自由であり論理である事は、カトリックの參考書を讀めばどれにも書いてある。

結局自由や論理を主張するにしても、その背後には道徳の裏附けがある。道徳の重要性を論證せよといふ私への要請は、××氏本人にも向けられる問題だつたのです。

※××氏は私に、道徳を論理的に論證せよと言ひ續けた。餘りしつこいので厭になり、論爭から逃げるつもりで書いた負け犬の捨臺詞としての投稿記事である。しかし口喧嘩でも、負けた方の捨臺詞の方がしばしば相手の一番痛いところを衝くものである。この記事で論爭の勝敗が逆轉してしまつた。

××さん、あなたやつぱり男らしくないよ

人には形而上の難問題を振つておいて、自分の個人主義では形而上の問題は扱へませんとは、なんたる言ひ草ですか。××氏の理論は、その理論内部に於て一貫し正しいものであらうとも、形而下に留まる限り當然さうなる筈のものにすぎず、形而上學的立場から見れば一切無意味なものです。

天皇の問題は西歐と日本の文化の問題――日本がいかにして西歐の文化を受入れるかといふ問題です。文化の問題とは宗教の問題であり、道徳の問題であり、形而上の問題です。ならばそれを形而下の議論だけで済ませられる道理がありません。

私は男らしく××氏が形而上學の土俵に上がられる事を期待します。

××氏との議論繼續を希望します

私は××氏が一番強い敵であると思つたから議論を「強要」してきたのです。ここまで罵り合ひも含め、非常に自分にとつて役に立つて來たと思ひます。私の非禮をとりあへず忘れて論戦に應じて下さるといふのですから、私も死に物狂ひで、出來る限り「論理的な議論」をしていきませう。ただ形而上學の領域に踏込んだ時に、論理を越えてしまふ場合もありますから、その時は御指摘ください。

繰返して言ひますが、××氏がこのトピックでは一番強力な論者である事を私は認めてをります。私の意見と××氏の意見は違ふ――しかし眞向から異なる意見をぶつけ合ふ面白さは、他のどの論者とも違ふ格別のものです。

※××氏はこの後、投稿しなくなつてしまつた。ちなみにこの××氏は、私が以前プロフィルで「Yahoo!掲示板にて左翼を論破中」と書いたのを揶揄してゐたのだが……まさか本當に論破されるとは思つてゐなかつたらしい。

2 天皇の二面性

天皇論爭第2ラウンド。天皇は税金の無駄使ひと主張する人物との論爭。

文化は無駄なものから成るのではないか

無駄なものをなくしたら、文化なんてなくなつてしまひます。

そもそもインターネットなんか無駄の極致……

殘念ながら

日本人は絶對的な(キリスト教的な)神を戴いてきた事はなかつたし、これからも決してない。

天皇は現人神と呼ばれたが、間違ひもおかす人間である事は事實である。しかし日本は人の上に人を戴く文化――相対的な價値觀しか持てない文化であり、天皇を戴かねばやつていけない文化であるのは宿命である。

だが、日本人は西歐を受入れなければならないし、一方、飽くまで日本的な天皇を戴いていかなければならない。問題は、何とかそのふたつをうまく兩立させる事にあるのであつて、單に西歐を排斥すればよいとか、天皇をなくせばよいといふ問題ではない。

人の上に人を戴く文化を廃止できるか?

それが出來れば苦勞はない。

天皇の問題は心の問題であり道徳の問題です

人の上に人を戴く事がいけない事だとはよくわからないんですが、にもかかはらずそれをいけない事だと決めつける法律を作り、人々に押しつけるのはいかがなものでせうか。洗腦の誹りを受けても仕方がないでせう。

天皇はそもそも日本人の祖先を崇拜する神道の神官のトップです。いかに法律が天皇を否定しようが、祖先を崇拜する事を怠るわけにはいかないから天皇は祭祀を執り行ひ續けるでせう。だがさうして政治や法律等の一切を超越した天皇を、日本人が尊敬しないでやつていくのがはたして善い事なのか。何も天皇を尊敬する事はないではないか、といふが、天皇の代りはない。また、尊敬する對象を持たなければ人は傲慢から逃れられないといふ問題があります。

他人を尊敬する事は人を謙虚にします。

ただ問題は、天皇は人であり、絶對無謬の存在ではないといふ事です。西歐人は絶對無謬のキリスト教の神を尊敬するから傲慢に陥ることがない。それが西歐の文化の強みです。

だが日本人がキリスト教に改宗する事は不可能であり、またすべき事でもない。ならば今日本にあるものでやつていくしかない。日本人が尊敬すべき對象として(比較的に)一番強い存在は天皇しかない譯です。

損得勘定で天皇を見るべきではない

日本人が御墓參りに行く時に損得を考へるものでせうか。先祖を敬ふ事に理屈は關係ありませんし、そこに合理主義を持込む事は出來ません。

天皇は昔から祖先をお祭りしてきたんです。「便益」なんて天皇と無關係であり、それを基準に天皇を論じようなんてするのは馬鹿か氣違ひです。

「もし天皇制の便益がはつきりできないなら、天皇制は民営化し、天皇は天皇文化を紹介する興行主として利潤を追求すべきです」――天皇はちんどん屋ですか。

「以上、天皇制民営化は、天皇文化が好きな人にも、きらいな人にも、十分納得できる政策だと思いますが、いかがですか?」下らないとしか言ひやうがありません。

天皇を見せ物にするものではない

>天皇制民営化後の天皇文化の紹介興行は成功します。ご心配なく。

成功するかしないかなんて、そんな事が重要なのではありません。天皇を見せ物にし、食ひ物にする事に反對なのです。なんでそんなに天皇を憎み、毛嫌ひし、さらし者にしたがるんですか。

我々日本人の殆どの者が天皇に個人的恨みなんて持てる譯がないんです。天皇のそばに仕へる者しか、天皇個人を知る者はゐないんですから。なのに、あたかも自分は天皇を個人的に恨んでゐるかの樣に言ふのは異常です。

個人的恨みなんて關係ない、自分は天皇は無駄だと言つてるだけだといふ人もゐますが、ますます馬鹿らしい。そんなに無駄な事が嫌ひなら、インターネットなんて止めなさい――否、生きてゐるのを止めた方がいい。人生なんて壮大な無駄だとさういふ人に限つて普段から公言してゐるものですから。

税金なんてどうだつていい

「税金の無駄遣ひ」? あんた馬鹿ぢやないか? 普通の日本人がいちいち自分の拂つた税金の使ひ道なんて氣にしてゐるとでも思つてゐるんですか?

樂しい樂しくないでものを判斷しようとする快楽主義者――それにしても自分が好き勝手に生きたいといふだけの癖になんでそんなに天皇を誹謗中傷するんですか? 「個人的恨み」もないのに天皇を虚假にするなんて、馬鹿でなければ氣違ひのする事です。

お金に換算できない價値もある

人間の生き方――道徳、文化――さういふものはお金に換算できません。日本人が日本語を喋る事の便益――そんなものを測る事は出來ませんし、測つても仕方がありません。

天皇は日本の文化であり、日本人の道徳の基礎にある存在です。「費用」なんかを計算して全てわかつた氣になつても、天皇に關しては、お金ではとらへきれないものがあるんです。

天皇は現人神

天皇は現人神だといふ事を右も左も勘違ひしてゐるんです。

左翼は天皇の「人」としての側面しか見ないし、右翼は「神としての側面しか見ない。

だから天皇の問題を税金とかのレヴェルでしか論じられなかつたり、天皇は絶對に誤つた事を言はないと主張したりする。聖俗兩方の長所と弱點を併せ持つといふ視點から天皇は見ないといけない。どちらか一方に偏つた見方をするのは、天皇をまともに見てゐない證據です。

一方的な見方をしてゐる人の意見には價値がない。

1999.6.14

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