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日本の文化

ホーム:芸術と人文:哲学、思想:人類は進歩したか? 行き詰る科学技術文明!!

文明と文化は違ふ

文明と文化は違ふ。或は、技術は進歩するが、精神は變らない。

文明と云ふ基準で、或は技術と云ふ視點で、人間の精神=文化をはからう、見ようとするから、をかしな事になるんです。

進歩と宗教

私は、技術や人間の手足の「擴大」についてのみ、進歩の概念を適用したいんです。或は「精神性−文化」に關はることを、「身體性−文明」に關はることとは別にとつて置きたいのです。

クリストファー・ドーソンの著作に『進歩と宗教』と云ふものがあります。宗教は文化の根柢にあるもので、事實上イコールの關係にあるものです(トインビーによる)。そしてドーソンは進歩と宗教、或は科學文明と精神文化を區別してゐるんです。なぜ區別するかと云ふと、機械と人間とを區別したいがためなんです。

それが「保守」の立場と云ふもの

>保守主義はもう「宗教」を頼りにすることが出来ません。もっというと、「精神性」を保持しようとする保守は、既に「廃屋」と化した「宗教」を根城に闘っていてはいけないように思うのです。No_Zさんの仰りたいことはよくわかる。しかしその手法では「精神性」を掬い上げることは出来ないのではないでしょうか。チェスタートンの時代ならまだしも掬いようはあったでしょうが。

「その手法」を捨てた時點で、保守的な立場を捨てることになります。

何しろ「保守」は「保守」と云ふ名前を持つのですから、それに反するやうなことをしちやいけません。筋を通せ、筋を――と云ふ事です。或は時代の流れに從ふのならば、「保守」の看板を下ろさねばならない。堂々と自分の立場が「革新」であると言へばいい、「革新」に合流すればいい。

私は單純に、科學の進歩(合理的と云ふ事)と人間の精神がごつちやにされてゐることが現代の危機ならば、それを峻別すればよいと考へます。否、峻別せねばならない。人間は機械ではないのだから――人間精神の復興だけが問題なのです。

科學文明などが行き詰まらうが知つたことではない、大事なのは人間が人間らしく生きることである――さう斷言してはばからぬことが重要です。

保守は革新に對する概念――宗教を否定した「實用性」の再否定

保守と云ふ概念は、フランス革命で急進主義が誕生した瞬間に、その對立概念として誕生したものです。その後、急進主義は革新と名を改めましたが、保守がその對立概念に過ぎぬこと――或は本來名前もない常識の末裔であること――は變はりません。

革新が「實用性」「合理性」をスローガンにする以上、保守はそれらを否定せねばならないと云ふ宿命がある。否、それで十分なのです。なぜなら、世の中は「實用的」と云ふ事だけでは割切れない――事實、世の中は全て金で動いてゐるのではない。

正義とか善惡とか道徳とか權力とか政治とか云ふ概念によつても動いてゐる。むしろ概念の方が、實用を上囘る事が多い。人間は機械ではない。

――ならば一見「實效性」のないやうに見える思想こそが、社會の本質を描き出せる。或はさう云ふ「虚」の思想の方が、人間の本質なのです。

動物や機械の持ち得ない人間だけのもの――それが精神であり、宗教であり、文化である譯です。

現代の科學とか合理主義と云ふものは、一度キリスト教と云ふ強靱な宗教をくぐつてきたものです。キリスト教を否定して否定して、そこに體系を築き上げたものです。或は神の存在なしで何とかやつていけないものかといふアイデアが西歐科學の根柢にはある。或は神を視界の外に追ひやつて、そこで何とか成立してゐるのが物質文明と云ふ奴です。

だから結局、現在世界を席捲してゐる科學と云ふものにとつて、最大の敵はいまだにキリスト教であるのです。キリスト教の神と云ふ概念をいまだに科學は否定しきれてゐない。宗教と云ふものの存在を、科學はいまだに乘越えられてはゐない。

――だがその問題は西歐に於ては割と簡單なのであります。何しろ神樣と云ふ絶對者を西歐は知拔いてゐる。日本に於てこそ、宗教の問題が厄介になるのである。日本人は絶對者を戴いたことが史上一度もない。だから西歐の科學が入つてくるとこいつにめろめろになつて、いまだに體勢を崩して轉倒したまま足掻いてゐるんです。

神の死――そして神のアリバイ工作

宗教は死んだ、人間の精神だけが殘つてゐるだけだ――と御考へのやうですね。それはサルトルの實存主義だ、『嘔吐』だ。實際神にはニーチェが死を宣告し、マルクスがとどめをさしました。神はゐない――

だが神は本當に死んだのか。『ゴドーを待ちながら』の登場人物は、ゴドー(Godot)を待つてゐます。彼らはゴドーがいつか來ると信じて待つてゐる。

神は姿を隠しただけではないか、どこかに生きてゐるのではないか。

T.S.エリオットは『カクテル・パーティ』で、神不在の現代に、神を招き入れようとしてゐる。エリオットの處方箋は簡單で、信じられないのなら信ずる振りをするがよい、と云ふものです。登場人物の一人、シーリアはその言葉に從つて「殉教」する。

――キリスト教は死んでゐない。神はいつでも復活可能なのです。しかしその神とはGodだ。Godではなくgodsしかゐない日本ではどうするのか。

信ずるものは救はれる――それが宗教

何もしない精神は精神ではない――精神自體は存在しないものです。そして精神が活動を開始する時には必ず信仰が伴ふものです。精神は指向的なものである、何かを目指す筈のものである。ならば精神あるところ宗教あり。

精神を救ふとか、そのための手段としての宗教とか、さう云ふ事はありえないと思ふ。精神と宗教は一體です。或は既成の宗教を否定する人は必ず合理主義や民主主義や自由主義――イデオロギーと云ふ宗教を信じてゐる。

ただイデオロギーは科學の範圍内に成立した自閉的な擬似宗教に過ぎないから批判されるだけのことです。或は人間が納得可能な範疇に留まるだけのものだから、そもそも限界がある。

眞の宗教は人間が納得できないものを包括しなければならない。そして既にキリスト教がそれを實現してゐる。ならば既成の宗教で人間精神は救ひ得ると言つてもよい。

そしてキリスト教の國ではないわが日本國が、キリスト教なしで眞の宗教を持ち得るのか――そこに重大な問題がある。

なかなか話が核心に行きません。話を一氣に飛躍させます。

日本には神がゐない、だから神を信ずることも信ずる振りをすることも出來ない――そんなことを言ふのは逃げです。先づは信じてみるがよいのです。神はゐないが神の代りは幾らでもゐる。

道端のお地蔵さんに手を合せてもよい。御墓参りにいくもよい。天皇を信ずるのもよい――と言ふと反撥を喰らひかねない。しかし私の主張はさらに續く、私に反感を抱く人は、私がこんなことを言ふとは思ひもよらぬでせう。なぜなら私はかう言ふからだ――民主主義を本氣で信じろ、社会主義に命を賭けろ、共産主義に心醉しろ。

日本には神がゐない。神に救はれることはありつこない。ならば自分で自分を救ふしかない。

本氣で何かを信ずるしか、日本人に出來ることはない。自由主義でも共産主義でも、徹底的に信じてみることくらゐしか日本人に出來ることはない。だから私は極端なことを考へない日本人を非難するんです。徹底的に考へてみれば、極端なことを言はざるをえなくなる。「九十九匹を見捨てろ」――そのくらゐ平氣で言へなくてはならぬと思ふ。

そして、徹底的に信じてみて考へてみて、そこで崩れ去るやうなものならば、それは信ずるに足らぬものなのです。世の中で一番強靱なものは絶對的なものだが、さうでなければ、とにかく長く續いてゐるものです。何しろ長い歴史の批判に耐へて續いてきたのだから、丈夫には違ひあるまい。

私が共産主義や自由や平等といつた概念を排斥し、天皇が一番増しだと言ふのはさう云ふ理由がある。日本人が持ちうる一番強靱な信仰の對象が天皇だ、だから信じてみろ――さう言つてゐるだけなのです。

※謝辭――菊一文字さんへ、ありがたう。

1999.8.8

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