ホーム:教育:教育現場での問題:全般:なぜ日本語を破壞するのか
>一つに自ら平易なる表現を用ひて表現すべしたるコンピュータ技術者としての矜持に叛せること多大なり読み手に漢和辞典を片手に取扱説明書を読めとは顧客にも同僚にも要請し難かるべし
現在、占領かなづかひ、制限漢字が「正しい」と云ふ事になつてゐます。
しかし「正しい」と云ふのならば、論理的に一貫してゐなければならないですよね。占領かなづかひ、制限漢字よりも、正假名遣、正漢字の方が論理的に一貫してゐるからそちらを「正しい」と定めるべきでせう。
その上で略字略假名の使用を許容すると云ふのならば、筋は通ると言つてゐる譯です。
>二つに所詮假名遣と言へども平安鎌倉の世より昨今に至るまでその変遷甚だ多しと予想す其の中で如何なる時代の假名遣を正統とするやまた其の理由ぞ不明なり若し古き事を以て最上とするならば万葉假名こそ最も用ひらるるべきと言ふ事になれど貴君もそこまでは主張なされぬであらう
假名遣は變はるものです。變はる事はしかたがない。しかしむりやり變へられるのは迷惑です。
「現代かなづかい」は無理矢理假名遣を變へたから迷惑なものです。私は「現代かなづかい」制定直前にいつたん戻すべきだと主張してゐるのです。
>三つに書き言葉を話し言葉に近づけんとするは夫れ現代の趨勢なり所謂コギ ャルが接頭したる「チョー」なる語を「テフ」と表記する事を強いる事不可 能なれば今更「与」と「與」の使い分けを論づるも國民に取っては現実感の 薄い話となる事明らかなり
ここには3つの問題が混同されてゐますので、分けて考へます。
まづ「書き言葉を話し言葉に近づけんとするは夫れ現代の趨勢なり」について
確かに明治以來、言文一致の運動が進んできました。だがそれは文語を口語に近づけていくもので、基準は文語にあります。文語のルールでいかにして口語を自然に表すかが主眼にあるべきです。
今の考へ方では、話が逆になります。口語のルールでいかにして文章を自然に書くか――しかし嚴密にそれをやりはじめたら譯がわからなくなる。
「僕はかう思ふ」ならば讀んで理解可能ですが、嚴密にどう發音してゐるかを考へはじめたらいづれ「ぼかこーもー」とでも書くのが正しいと云ふ事になりかねない。
「所謂コギャルが接頭したる「チョー」なる語を「テフ」と表記する事を強いる事不可能なれば」――「超」は「てう」と表記します。「てふ」になるのは「蝶」の方ですね。これは字音假名遣と言つて、歴史的假名遣とは區別されます。
字音假名遣は整理した方が分り易いでせう。だがそれは字音假名遣に限つての話で、正假名遣とは話が別です。「蝶」を「ちょう」と書くべきだと言つても、「思ふ」は「思う」ではよくない。「言ふ」は「言う」ではよくない。
「今更「与」と「與」の使い分けを論づるも國民に取っては現実感の薄い話となる事明らかなり」――しかし、私がYahoo!掲示板で正統表記を使つたら、矢鱈と反撥されました。表記の問題は國民にとつて現實感の薄い問題だとは思ひません。ただ正統表記がタブーになつてゐるのが問題なのです。
1999.7.16
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