ホーム:教育:教育現場での問題:全般:国語教育について
よい文章をたくさん読めば、文章は自然に巧くなるものです。今の国語教科書に良い文章が載つてゐない事を丸谷才一氏も述べてをります。
今の国語教育の最大の問題点は、良い文章を書けるやうになる教育でなく、「良い」人間を作るための教育をしてゐる事だと思ひます。イデオロギー先行できれいごとばかり言つてゐる駄文が教科書には多すぎる。政治主義の弊害が教育界を覆ってゐるのです。
漢文の素養は、明治時代西欧文明を吸収するのに役立ったといはれてゐます。漱石鴎外らのすぐれた著作の背景には漢文の素養がありました。しかし日本人は漢文を捨てて西欧を採入れようとしましたが、現在まで実際には失敗してゐます。漱石は、漢文は理解出来るが英語は理解出来ないと言ってゐます(勿論今の大抵の日本人より漱石は英語が出来ます)。
漢文の素読――「しのたまはく」といふ奴です――がかつての日本人の国語力を一定のものにした事は事実であり、それは今の日本人の国語力以上のものでした。今の漢文教育は、さはりをやるだけですので意味がありません。
古文漢文と共に国語は今の授業時間数では絶対に足りません。数学理科など減らしてでも国語の時間は増やすべきです。国語力とはものを考へる力であり、他の教科の基礎であるばかりでなく、人の生き方の本質にかかはるものだからです。
>……古典・国語教育がそういう政治的な意味合いをもっていることは自覚しておいていいとおもいます。源氏物語や万葉集が国家の「聖典」にされ、学校教育で必ずそのサワリくらいは読まされ、受験科目に組み込まれるのは、もともとそのためだったのです。
とんでもない話です。どこの国だつて自分の国の古典を習はせます。古典教育は昔から生残ってきた文学作品の文章を学ぶ事が文章力をつけるのに役に立つからあるのです。
現在の古典教育の最大の問題は「サワリくらい」しか子供に読ませない事にある。解釈も大事だが、古典は訳が分らなくともたくさん読む事に意味があるんです。
古典を蔑ろにしたからこそ、今の日本人の文章力が衰へたのです。
文學的とかビジネス的とか、文章に区別をするのが少し疑問です。文學だから囘りくどい表現をしてよい譯ではない。 例へば諺など、これほど簡潔・的確にその意味を傳へる文章はないですが、さういふ教育を蔑ろにしてゐる。枕草子や徒然草も名文といはれるのはそれが簡潔にして要を得てゐるからです。文法も語彙も表記法も變化はしてゐるが日本語に變りはない。
現代人が漢字を書けない理由は、はじめに假名を教へるからだといふ意見があります。小學生は低學年のうちは漢字を使はず假名で書かされます。しかし三つ子の魂百までと言ふ樣に、はじめに習ひおぼえた假名書きの癖は一生拔けません。だから漢字假名まじりの普通の文章が書けなくなるのださうです。
そして抽象度の高い假名で教育するよりは、具体的な漢字で教育した方が成果が上がるといふ實驗結果があるさうです。そして物を覺える能力は小學生よりは幼稚園兒の方があるので、早いうちから漢字を教へた方がよいともいふさうです。
しかも早いうちに漢字をおぼえた子供の方が讀書能力が高く、勉強が出來る樣になるとの事。子供に漢字を教へるのは可哀想だなどといふ國語教育者は根本から誤つてゐるんです。
古文は現代の日本語と文法が違ふといふ指摘があつたが、だから古文を學ぶのは間違ひだと結論を出すのはをかしい。なぜなら古文と異なる文法を採用してゐる現代の日本語がをかしいといふ方が妥當だからだ。
國語改革が行はれる昭和21年以前の日本語が語彙文法ともに一貫性を保つてゐた事は事實である。「現代かなづかい」を採用した事で我々は過去と現代を斷絶させた。
幼児への漢字教育についても述べたのだが、現代の國語教育は段階を設け過ぎてゐる。假名による表記から漢字假名まじりの表記へ、表音的な「現代かなづかい」から古文のための表意的な歴史的假名遣へ、といふ風に。
何でこんなに二度手間三度手間になる樣にしてゐるのか。金田一京介ら馬鹿な國語學者が假名書きの方が簡単だと思ひ込んだ事が元凶である。しかし幼兒は抽象的な假名書きよりも具体的な漢字の方をよくおぼえるといふ實驗結果があるし、中學生以上になると抽象的な英語の綴りをおぼえられないのである。
表音的な假名書きが簡單であるといふ誤りは正されねばならない。同時に事務的に簡單な日本語などといふありもしないものを理想に掲げて現實に國語習得の障碍を作り出してゐる現代の國語教育――否、現代の國語そのものを見直さなければならないのである。
子供のうちから一般的な文章の書き方を教へておいた方がいいと思ひます。
かなで書けと子供のうちに教へるからいつまでたつても漢字かな混じり文で書けないんです。敬語は悪いものだと教へるから敬語が使へないんです。
子供にかはいさうだと安易なものを教へると、あとで泣くのは子供なんですよね。
「学校では「目上の人には敬語を使いましょう」と(いちおう)教えていると思いますが」と書いていらつしやいますが、實際に生徒が先生に「ため口」をきいても放つておくなら無意味です。
それから漢字は早く教へた方がよくおぼえるが、小學生位の年齡になるとおぼえるのが大變になりはじめるといふのは、實驗結果があるんです。それに教師が一點一畫までうるさく言ふものだから餘計子供が漢字嫌ひになるんです。
口語は變りますが、文語は出來る限り古い形を殘さうとする――これは現代の言語學では常識です。
もう口語だけを言語と考へる方式は古いんです。
>文学では「行間を読め」なんて強調された覚えがありますが」
それは不幸です――といふより、そこに間違ひがあるんです。文學だらうがなんだらうが、文章ならば讀み方がある。
正しい文章の讀み方といふのは、そこに書いてある以上の事を讀み取つてはいけない、といふものなんですが――勝手讀みをなんで今の教育はすすめるんでせうね。
ドイツでは小學校の3年までは國語と数学しかやらないさうです。日本では生活科なんて譯のわからない授業を作つて國語の時間を減らしてゐるんだからどうしやうもない。
今の學校での國語教育つて、自分の好きな様に書く事が基本になつてゐるんです。個性教育といふ奴です。
ところが敬語にしろ手紙やレポートの書き方にしろ、みんな型があるんです。それを教へれば誰だつて敬語は使へるし、定型文は書けるんです。なのに敬語は非民主主義的だなんて理念が先走つて教へないものだから、あとで子供が困るんです。
一方で子供の國語嫌ひには、漢字の一點一畫まで小うるさく指圖されたり、假名遣で丸暗記を強要されたりする事に、原因があるとも言へるのではないでせうか。
理屈抜きの丸暗記は子供は受附けないんです。ただ敬語は自分のする事には附けない、相手には附けるといふルールがあると教へれば、合理的だから子供は覺えるものなんです。
>言葉は文化であり、文化の変化は言葉の変化となるでしょう
話し言葉は變るのですが、書き言葉は元の姿を殘さうとします。敗戰時のどさくさまぎれに實行された國語改革はさういふ言葉の性質を理解しない連中が強行したものです。
>それを固定的に教える国語教育は、子供達の実生活と乖離し、破綻への道をたどるでしょう。
>何よりも面白くないと言うのがその兆候です。
國語改革が言葉の抽象性を高めた事で、子供が言葉に對する關心を失つたといふ指摘もあります。子供は假名よりも漢字をよく理解するさうですが、今の國語教育では漢字よりも假名の方を教へようとする傾向があります。
本質的に變らないものの方が深みがあり、變化し續けるものは淺薄であり、子供はそれを本能的に見分ける能力があります。大人の感性で國語教育をする事には大反對です。
英語を日本人が學ぶ時苦勞するのも、英米人が作つた文法事項をそのまま勉強するからなんですよね。ただ、何で英語の文法があるのかといふと、それは既に身に付いてゐる英語を洗煉させるためなんです。だから日本語の文法といふものも日本人がきつちり學べば、日本語を讀み書きする上で役に立つんです。
一方外國人は日本語が身に付いてゐないのだから、頭でなくて體で日本語を覺えなければならない。日本人が英語を學ぶ時も一緒です。
外國語學習の觀點から日本人が日本語を見るべきではありません。母國語學習の觀點から日本人は日本語を見るべきです。
>しかし、現代人が通常使うのは「口語」であることを考えると、口語文法に関する知識の重要性は、文語文法のそれを上回ると考えられます。
でも現代人は喋る時に文法を意識しないといふ主張があります。また言語學は口語重視ですが、口語にルールがあるのかといふ疑問も提出されてゐます。また口語はどんどん變るものだから文法を作つて規制するのはよくないといふ説もあります。
――果して口語文法を學ぶ價値ありや否や。
小學校での國語教育は重要ですね。言葉遣ひ――と云ふより言葉を遣ふ態度は子供の早い段階で決るものですから。
ですから、實は小學校以前の幼稚園の段階の教育が重要だつたりします。漢字などは小學校以前に、幼稚園の段階で教へた方がよいと言はれてゐます。
※なぜそんな仮名遣いをするのかな?古い日本語が好きなのじゃろうが、それならきちんと古文で書きなされ……と云ふいちやもんに對して。
假名遣と古文の文法をごつちやになさつてゐる樣ですね。
それにしても、「慣れない現代仮名遣いを無理して使」はされる事の異常さを悟らずに、正假名遣ひを使ふ者を罵倒なさるのは見當違ひではありませんか。どうぞ無理をなさらずに、正假名遣ひでお書きください。日本國は言論の自由が保證された國ですから。
※そちの仮名遣いでは、書いた物が多くの者にとって読みにくいのではないかのう――なる「忠告」に對して。
それしか正假名遣・正漢字を否定する根據が無いんでは、情けなさすぎです。
>文化としての国語については、私は充分な知識を持っておりせんので、意見は控えさせていただきます。
國語は文化そのものであり、單なる「意思疎通の手段」であるだけではありません。讀みやすさを追求するのなら將來のモニタの發達に期待すべきであり、國語の方を變へてしまへといふのは亂暴すぎます。
「現代かなづかい」にしても「當用漢字(今の常用漢字)」にしても、教へ方を工夫しないで、國語を變へてしまへといふのは、教育者としてやつてはいけないことだつたんです。それは怠慢であり、邪道だからです。
※「なぜ日本人は日本語を使はなければならないの?」と云ふ問ひに
「日本の国語が日本語であるのは」昔から日本人が日本語を喋つたり書いたりしてきたからに決つてゐます。英語が第一外國語なのは英語が世界で一番使はれてゐるといふ現實に即したものであり、英語になかなか精通出來ないのは普段日本人が英語を喋る機會と環境がないからです。
そもそもどんな言語も難しいんです。日本人が習ふ國語の授業時間數よりもイギリス人が習ふ英語の授業時間數の方が長いんです。
***さんのいはれる「命題」なんて無意味です。
「普段」を問ふなんて言ひますが、あなたの發言は問うてゐるのではなく、はじめに結論ありきの糾彈です。要するに、今の體制を破壞したいといふだけの事でせう。
>1「昔から」というのは、具体的に「誰が」「何の目的で」という問いへの答えを避けることになっていませんか。
――問ひが間違つてゐるんです。そもそも日本人の祖先がなんで日本語を喋りはじめたか、なんて事を考へて、あなたが質問なさつたとは思はない。
>2世界で最も使われている言語はマンダリンでしょう?
――あなたらしくもない言葉です。支那は少数民族が澤山ゐるし、方言も山の樣にある國でせう。
>3普段、われわれが英語を喋る機会と環境をマスコミや役所や日常会話というかたちで「制約」している「何か」を問うべきでしょう。
――別に英語を喋らないでも通用するから喋らないだけではないですか。